キヴォトスに単身ドリフトしちゃった藤原拓海(30) ~頭文字D Archive Stage~ 作:曇りのち晴れ男
ハチロクのエンジンをアイドリング状態に保ったまま、オレは重たいドアを開けて外へと降り立った。
火山灰の混じる冷たい夜風が、火照った顔を撫でていく。
視線の先、ガンメタルのR32の傍らには、長身の少女が立っていた。彼女はオレの姿を認めるなり、優雅な足取りでこちらへと歩み寄ってくる。
「遅れてしまって申し訳ない」
オレが短く頭を下げると、アカリはふふっと上品な笑みをこぼした。
「いいえ。逃げずに来てくれたこと、まずは称賛しましょう。美食研究会、鰐淵アカリです。あなたが、ゲヘナのハチロク……ですね」
「藤原拓海。よろしく」
短い挨拶を交わす。彼女の瞳の奥には、オレを完膚なきまでに叩き潰そうとする、肉食獣のような獰猛な闘志が静かに燃えているのが分かった。
ふと、オレはアカリの後ろ、R32の助手席の窓が開いていることに気がついた。そこに乗っているのは、挑戦状が届いてからアルのタブレットで顔を確認した、美食研究会の会長──黒舘ハルナだ。
「ところで、そっちは二人で乗るのか」
オレが問いかけると、アカリは少しだけ目を細め、誇らしげに頷いた。
「ええ。この複雑なコースを完璧に攻め落とすため、ハルナさんには私のナビゲーターとして同乗してもらいます。数十キロのウェイトハンデを背負うことにはなりますが……それでも、あなたを打ち負かすには十分すぎるほどのお釣りは来ますから」
重量級のGT-Rに、さらに人を乗せて車重を増やす。
普通に考えれば、ダウンヒルにおけるハンデだ。だが、彼女はそれ以上に「コースの確実なトレース」を優先したということだろう。それほどまでに、この黒曜峠は一筋縄ではいかない難所だという証拠でもある。
「(……なるほどな)」
オレは顎に手を当てて考えた。
相手がウェイトを背負ってくれるなら、オレにとっては有利な条件だ。だが、それと同時に、オレの頭の中である一つの考えが浮かんだ。
オレはクルリと振り返り、便利屋の面々の方を見る。
そして、静かにこちらを見つめていた白黒の髪の少女に向かって、声をかけた。
「カヨコ、隣に乗ってくれ」
「え……」
カヨコは目を丸くし、自分の顔を指差す。
普段はどんな銃撃戦でも表情を変えない彼女が、信じられないといった顔で固まっている。
「前に言ってただろ、走りを教えてくれって。一番特等席で教えてやるよ」
オレが少し笑って言うと、カヨコは何かを言い返そうと口を開きかけた。
だが、カヨコが声を発するよりも早く、凄まじい勢いでオレの目の前に突撃してきた影があった。
「だ、だめですっ!!」
「うわっ」
ガシッ! と両肩を力強く掴まれ、オレの身体は前後にガックンガックンと激しく揺さぶられた。
「あう、あう、あう。ちょ、止め……ハルカ……っ」
「そんなことをしたら、総重量が増えてあのクルマに置いていかれてしまいます!! ただでさえ相手はすごいクルマなのに、これ以上タクミさんが不利になるなんて……私のせいで……いえ私には関係ないですけど、でもダメです!!」
オレの肩を掴んだまま、ハルカが涙目で必死に叫んでいる。
普段はオドオドとして自分の意見なんて全く言えないハルカが、オレの身を案じるあまり、ここまで強く自分の意見を主張してきているのだ。その変化と剣幕に驚きつつ、オレは目を回しながら必死にハルカの手を解いた。
「私としても、ハルカの意見には賛成よ」
ハルカをなだめていると、アルが一歩前へ進み出て、真っ直ぐにオレの目を見て告げた。
いつもの見栄っ張りなアウトローの顔じゃない。いたって真面目な、社員の命を預かる社長としての冷静な眼差しだった。
「……言っただろ、安心しろって。負けね~よ」
オレは無言でアルと向き合い、ただ一言、それだけを返した。
そのオレの絶対的な確信を帯びた目を見てだろうか。アルは数秒間、何かを堪えるように渋い顔で悩み込んでいた。
やがて、彼女は深くため息をつき、カヨコの方をチラリと見てから、降参したように肩をすくめる。
「……分かっているだろうけど、あなたはもうただの行きずりの人間じゃない。タクミも、カヨコも、便利屋68という組織の、大切な一員なの」
アルはズバッと指を突きつけ、オレの鼻先で止めた。
「事故なんてして、社用車やカヨコもろともペチャンコになったら……絶対に許さないんだから」
「分かってる。少なくとも、アルのドジみたいな事故はしないさ」
オレがニヤリと笑って皮肉を返すと、アルの顔が一瞬にして真っ赤に染まった。
「ちょっ……! こんな時に何言ってるのよ! あれはドジじゃなくて、不可抗力という名のハードボイルドなアクシデントで……!」
「はいはい。ほらカヨコ、乗った乗った」
わちゃわちゃと抗議してくるアルを適当にあしらいながら、オレは助手席のドアを開け、まだ戸惑っているカヨコを促した。
「ちょっと! 茶番が終わったならさっさと並んでよね!」
ふと、コースの中央から苛立ったような声が飛んできた。
ツインテールの少女──美食研究会のメンバーだろうか。彼女は手にしたフラッシュライトを振り回し、スタートの合図を出すスターターの役を買って出ているらしい。
「それじゃ、行ってくる」
オレは運転席のドアノブに手をかけ、振り返った。
アルが、少しだけ不安そうに、けれど精一杯の強がった笑顔を浮かべて、こちらに向かって手を振った。ムツキも楽しげに手を振り、ハルカは祈るように両手を組んでいる。
オレもまた、アルたちに向けて片手で軽く合図を返した。
ドアを閉め、シートベルトを締める。
横を見ると、カヨコが緊張した面持ちでアシストグリップを強く握りしめていた。
左足でクラッチを踏み込み、ハチロクをスタートライン──巨大な灰色のR32の真横へと並べる。
「その……」
「ん?」
「……なんでもない。ありがとう、タクミ」
排気ガスの匂いと、エンジンが咆哮を上げる音。
10年の時を経て、異世界で迎える初めての公式なバトル。
オレは右足に神経を集中させ、タコメーターの針を見つめながら、スタートの瞬間を静かに待った。
白黒のハチロクと、ガンメタルのR32。
唸りを上げる二台のモンスターの前に、赤いツインテールの少女が立つ。彼女は手にしたフラッシュライトを高く掲げ、大きく息を吸い込んだ。
「5! 4! 3! 2! 1!」
静寂を切り裂く、高く通る声。
シグナルではなく、こうして人が直接行うアナログなカウントダウンも、オレにとってはひどく懐かしいものだった。アドレナリンが一気に分泌されて全身の毛が粟立つのを感じる。
「GO!!」
大きな声でスタートの合図が切られる。
同時に、オレは左足のクラッチを一気に締結させる。
後輪が甲高いスキール音を上げてアスファルトを蹴り上げ、ハチロクが黒曜峠の暗闇へと飛び出した。
だが、隣のレーンからの加速は、オレの想像をさらに一段階上回っている。
R32は流石の排気量と言ったところか。車体の沈み込みすら最小限に抑え、ホイールスピンを電子の力でねじ伏せながら、滑らかに、かつ暴力的な加速でハチロクの前にスッと入り込んでいく。
「明らかに32の方が早い……」
助手席のグリップを両手で強く握りしめながら、カヨコが呆然としたように呟いているのが聞こえる。
カタログスペックの差が、スタートダッシュという最も残酷な形で可視化された瞬間だ。だが、オレは全く気にせず、タコメーターの針がレッドゾーンに飛び込む寸前で、冷静に2速、3速へとシフトアップしていく。
R32のテールランプが、みるみるうちに小さくなっていく。ストレートでの加速力は次元が違う。最初の第一コーナーに行くまでに、あの32がマージンを取ってアクセルを抜くということはしないだろう。アカリというドライバーの好戦的な性格と、あの車のポテンシャルが、そう思わせるだけの容赦のない加速だった。
タコメーターが跳ね上がり、スピードメーターの針が恐ろしい勢いで右へと傾いていく。
やがて、前方に黒曜峠の第一コーナー、きつい右のヘアピンが迫ってくる。
先行するR32の赤いブレーキランプが、闇の中で強烈に点灯する。あの重量級の車体を止めるための、凄まじい制動力。
だが、まだブレーキは踏まない。
R32のブレーキングポイントを遥かに通り過ぎ、ハチロクがコーナーの奥深く、限界のさらに奥へと突っ込んでいく。
「(ここだ)」
オレは右足で力任せにブレーキペダルを蹴り飛ばした。フルブレーキング。
フロントタイヤが悲鳴を上げ、車体のすべての荷重が一気に前へとのしかかる。それと同時に、ヒールトゥでアクセルを激しく煽り、3速から2速へと叩き落とした。
強烈なノーズダイブ。フロントサスペンションの減衰力を柔らかくした恩恵が、ここで爆発する。タイヤがアスファルトにこれでもかと食いついた瞬間、オレは思い切りステアリングを右へ切り込んだ。
「いっ……」
隣から、カヨコの聞いたこともないような、引き攣った小さな悲鳴が聞こえた気がした。
無理もない。キヴォトスに訪れてから、便利屋の逃走劇で何度かスライドはさせてきたが、こんなに本気で突っ込んだドリフトは初めてだ。
慣性でリアが猛烈な勢いでスッポ抜け、ハチロクの車体はコーナーの進入で完全に真横を向く。
窓の外からは、ギャラリーの悲鳴がハッキリと聞こえた。
イン側のガードレールすれすれに身を乗り出してギャラリーしていた生徒たちは、100キロ近いスピードで真横を向いたまま自分たちに向かって飛んでくるハチロクのノーズを見て、次々とドミノ倒しのように悲鳴を上げてそれぞれの後方へ逃げていく。
フロントバンパーとガードレールの隙間は、わずか数センチ。
オレはアクセルをミリ単位でコントロールし、車体のスライドを維持したまま、コーナーのイン側を舐めるようにして立ち上がっていく。
「(やっぱりな……)」
立ち上がりでR32の背中が、スタート時よりもはっきりと近づいていた。
予想した通り、ブレーキングの突っ込みとコーナリングスピードなら、圧倒的にこちらに分がある。GT-Rは速いが、重すぎる。ブレーキへの負担と、コーナーでのアンダーステアを消すためには、どうしてもアプローチで速度を落とさざるを得ないのだ。
この先のセクション、ヒノム火山の火山灰が本格的に積もるスリッピーなエリアに行く前に、このブレーキングの差を利用してオーバーテイクすることもできるかもしれない。
そう思った矢先だった。
「うっ……!?」
ステアリングを握り、カウンターを戻そうとしたオレの左腕に、唐突な異変が走った。
ピリッ、という小さな違和感から始まり、一瞬にして肘から指先にかけての感覚が消失する。10年前、イギリスのラリーで谷底へ落ちた時の、あの致命的な怪我の置き土産。
完治したはずの神経が、極限のGと緊張感の中で悲鳴を上げ、腕に一瞬の痺れを引き起こしたのだ。
「(しまっ……!)」
ステアリングを戻す動作が、ほんのコンマ数秒遅れる。
ドリフト状態のハチロクのアウト側への膨らみが、想定していたラインよりも外へとズレた。
迫り来るアウト側のガードレール。歯を食いしばり、痺れる左腕を強引に動かしてステアリングを右へ弾き、アクセルを抜いてリアのトラクションを殺した。
「(あぶねぇ、ラッキー)」
奇跡的にガードレールに擦ることは無かった。風圧でガードレールの横に生えていた雑草が吹き飛ぶのが見えた。
冷や汗が全身から噴き出す。カヨコが息を呑む気配が隣から伝わってきた。
自然と奥歯を強く噛み締める。
先日の『溝落とし』の失敗は、単なるカンが鈍っていただけじゃない。この腕の神経そのものが、オレの中に眠る厄介な爆弾なのだと、ここにきてようやく自覚した。
こんな状態で、あの化け物みたいなR32と最後までやり合えるのか。
「(……いや)」
オレは一度大きく息を吐き出し、ステアリングを握る手に再び力を込める。
脳裏に浮かぶのは、涙目でオレの帰りを待っていた、あのアウトローを気取る社長の顔だ。
便利屋のなけなしの貯金を全額叩いてくれて、社用車をオレに託してくれた。
「(アルと約束しちまったからな……ぜってーミスるわけにはいかねェ)」
痺れはすでに引いている。あとは気合でねじ伏せるだけだ。
目の前には、テールランプの残像を引きながら逃げていくガンメタルのR32。
黒曜峠のダウンヒル。本当のバトルは、まだ始まったばかりだ。
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
「相変わらず素晴らしいドリフトですね、あのハチロクは。もう一度この目で見れるとは」
直列六気筒ツインターボの重厚な咆哮が響き渡るR32の車内で、助手席に座るハルナさんが感嘆の吐息を漏らした。
彼女の視線は、サイドミラーとルームミラーに映る後方の景色へと注がれている。手元には黒曜峠のコースレイアウトを記したメモ。
「次の右、複合コーナー。……後ろのハチロク、アウト側から被せるようにラインを変えてきました。突っ込みで勝負を仕掛けてくる気です」
ハルナさんの冷静で、けれど微かに熱を帯びた声が車内に響く。
私はストレートの終わり、ほんの一瞬だけ生じた余裕の中で、素早くルームミラーへと視線を走らせた。
暗闇の中、左右にロールしながらも、決してこちらを見失わない黄色みがかった二つのヘッドライト。
スタートダッシュで圧倒的な排気量の差を見せつけ、ストレートではR32が確実に引き離しているはずだ。それなのに、コーナーが近づき、ブレーキング勝負の領域に入った途端、あのハチロクは恐ろしいまでの突っ込みで、私たちが稼いだマージンをあっという間に食い破ってくる。
まるで、こちらのブレーキランプが点灯するのをあざ笑うかのように。
「舐めないでください……私もこの子と出会い、この黒曜峠を走り込んだんです……。そんな簡単に追いつかれてたまりますか」
ヒールトゥでシフトダウンを決めながら、独り言のように低く呟く。
この数日間、美食の探求すら後回しにして、私はこの重たくて気難しい灰色の怪物と対話してきたのだ。どこまでブレーキを残せばフロントが入り込むのか。その最適解を、私は身を以て学習してきた。
コーナーへのアプローチ。ステアリングを鋭く切り込む。
あの日見たハチロクのように、リアを大胆に滑らせてマシンの向きを一気に変えるドリフト走行──それを真似ようとしたこともあった。
だが、このR32に搭載されている四輪駆動システム『アテーサE-TS』は、後輪がスリップしたのをセンサーが感知した瞬間、即座に前輪へとトルクを配分してしまう。車体を横へ滑らせようとする力は、フロントタイヤが路面を引っ掻く力によって強制的に前へ前へと引っ張られ、ドリフトの挙動は機械の介入によって無慈悲に殺されてしまうのだ。
この車に、あのハチロクのような華麗で狂気的なドリフトはできない。
だが、グリップ走行の限界領域において、私は誰よりも速いドライビングをして見せる。
四つの極太タイヤがアスファルトに爪を立て、車体が強烈な横Gに見舞われる。
その瞬間。
「くっ……!」
強烈な遠心力によって、私のお尻が滑らかな純正シートの上をズルリと横へ滑り、姿勢が大きく外側へと崩された。
左足をフットレストに力強く押し付け、ステアリングを握る腕の力で強引に身体を支えなければならない。
こればっかりはどうしようもない物理的な仕様だが、ペダルワークの精度が落ちるため、いささか運転しづらいことこの上ない。
それでも。
背後に迫るハチロクのプレッシャーが、シートから伝わる車の挙動が、私の全身の血を沸騰させていく。
「それでこそゲヘナのハチロクです……でも、あなたを倒すのはこの私です!」
魂を揺るがすような衝動を叫びながら、私はクリッピングポイントを過ぎた瞬間に、右足のアクセルペダルを床まで踏み抜いた。
アテーサE-TSのインジケーターが激しく点滅し、リアが流れるよりも早く、フロントタイヤが強引に車体を引っ張り上げ、2.6リッターツインターボの暴力的なトルクが爆発する。
美しさとは無縁の、機械の力でねじ伏せるような強引でスムーズなコーナリング。
R32は凄まじい推進力と共にコーナーを脱出し、再びストレートでハチロクを突き放すべく、闇夜の峠道へと弾丸のように飛び出していった。
想定ユーロビート・楽曲
スタートと同時に
RUNNING IN THE "90S"/MAX COVERI