キヴォトスに単身ドリフトしちゃった藤原拓海(30) ~頭文字D Archive Stage~ 作:曇りのち晴れ男
『今こっちで美食研究会が通った! 中腹のとこ!』
「嘘つけ、さっきスタート地点から走り出したばっかりだよ」
『こちら第三観測ポイント、白黒の車が猛烈な勢いで通過! やべえ、ガードレールと数センチしか離れてなかった!』
「よし、第四、第五ポイントもそのままデータ収集とタイム計測を続けてくれ」
黒曜峠の頂上。スタート地点となった展望駐車場の周辺では、まだ数多くのギャラリーたちが、手元のスマートフォンやトランシーバーを握りしめて熱狂的な実況中継を繰り広げていた。
ゲヘナの生徒たちで作られた急造のネットワーク。彼女たちはコースの各所に散らばった見物人たちと連携を取り、目まぐるしく変わる二台のモンスターマシンの位置情報を次々と報告し合っている。
そのあちこちから漏れ聞こえてくる断片的な会話に、私は腕を組んだまま、内心で激しくどぎまぎしていた。
「(スタートを見送ったのはいいものの……そこから先の途中経過が自分の目で見られないのは、いささか不安になるわ……!)」
アウトローのボスとして、ドッシリと構えて待っているのが正解なのだろう。
しかし、視界の届かない真っ暗な峠の奥底で、私たちの社用車がどんな死闘を繰り広げているのか、ギャラリーの興奮した声だけが耳に入ってくるこの状況は、私の心臓に極めて悪かった。
無事にコーナーを曲がれたのか? 壁にぶつかっていないか? そもそも、あのバケモノみたいなGT-Rにちゃんと食らいついていけているのか?
気になりすぎて、無意識のうちに右足で貧乏ゆすりをしてしまいそうになる。
「アルちゃん」
不意に、背後からのんびりとした声で話しかけられ、私はビクッと肩を震わせた。
振り返ると、そこにはムツキが立っていた。彼女の片手には、どこから持ってきたのか、プラスチックのパックに山盛りになった焼きそばが握られている。ソースが焦げたような、屋台特有の強烈に香ばしい匂いが漂う。
「ちょっとムツキ! こんな時にまでよくわかんない屋台を満喫して……」
「はい、これ」
私が小言を言いかけるよりも早く、ムツキはニコニコと笑いながら、割り箸の添えられた焼きそばのパックを私の胸元へと押し付けてきた。
思わずそれを受け取ってしまう私を見て、ムツキは面白そうにクスクスと笑う。
「焦ってても仕方がないよ。タクミ君のドライブは私たちみ~んな、一番特等席で知ってるでしょ? 彼がどれだけキレた運転をするか、そして、絶対に負けないってこと」
「……」
ムツキの言葉の裏側からひょっこりと顔を出したのは、両手で顔を覆うようにしながらも、必死に頷いているハルカだった。
「わ、私もそう思います……。あんな、頭がおかしくなるようなスピードで走るなんて、少し……いえ、すっごく怖いですが、タクミさんなら、きっと……! もし負けたら私が責任を取るために腹を切って……」
「腹は切らなくていいから! 何の責任!?」
慌ててハルカの物騒な言葉を遮る。
だが、二人の顔を見て、私はふっと肩の力が抜けるのを感じた。
ムツキはいつだって飄々としているし、ハルカはネガティブのどん底にいることが多いけれど、今この瞬間、二人ともタクミの『走り』に対する信頼だけは微塵も揺らいでいなかったのだ。
「ムツキ……ハルカ……」
私はパックから立ち上る湯気を見つめ、渡された割り箸をパチンと割った。
そして、焼きそばを多めにすくい上げ、思い切って一口食べる。
濃いめのソースの味と、青のりの風味。B級グルメのチープな味わいのはずなのに、仲間たちの信頼を感じながら食べるその一口は、私の胃の痛みをスッと消し去ってくれるほどに美味しく、温かい、何よりの美食だった。
そうだ。
私は焦りすぎるあまり、アウトローの組織として一番大切な『仲間を信じる』ということすら忘れかけていたのだ。
彼は便利屋68の専属ドライバーだ。私が全額投資して仕上げたハチロクと、彼自身の腕を、社長である私が疑ってどうする。
咀嚼して飲み込み、私は冷たい夜風に向かって深く息を吐き出した。
焦燥感は消え、代わりに静かな祈りのような感情が胸を満たしていく。
「……何事もなければいいのだけれど」
ポツリとこぼした私の呟きは、誰に向けたものでもない。
ギャラリーの実況を聞く限り、あの二台はすでに黒曜峠の序盤から中盤へと差し掛かっている。そして、これから彼らが飛び込んでいくのは、ヒノム火山の活動によって生じた、火山灰が最も深く積もるピークのエリアだ。
タクミの口座に大金を振り込む前、私はカヨコと一緒に黒曜峠のコンディションについて徹底的に調べ上げていた。
そこで得た情報は、絶望的なものだった。タイヤというゴムの塊は、火山灰のような細かく硬いガラス質の粒子の上を走る時、雨に濡れた路面どころか、凍りついた氷の上を走るよりも滑るらしいのだ。ブレーキも効かず、ハンドルを切っても車は真っ直ぐに吹っ飛んでいく。
そんな狂気の沙汰としか思えないステージを、あの二台は100キロを超えるスピードで全力で駆け抜けようとしている。
普通に考えれば、四輪駆動で強引に前に進めるGT-Rに軍配が上がるだろう。軽さしか武器のないハチロクでは、スリップして谷底へ落ちるのが関の山だ。
けれど。
『下りなら、馬力の差は縮まる』
依然、カヨコが淡々と語ったあの言葉が、私の脳裏に鮮明に蘇る。
そう。どんなデメリットも、視点を変えてひっくり返せば、相手を刺すための最大のメリットに化ける。
あの時、タクミは自信に満ちた目で「負けね~よ」と断言した。
彼はあの火山灰の降るスリッピーな路面と、助手席にカヨコを乗せるというウェイトの増加すらも、勝利のための『戦略』として計算に組み込んでいるのだ。
「(タクミは、一体……どんな手を使うつもりなの……?)」
私は手に持った焼きそばのパックを強く握りしめ、麓の闇へと向かって祈るように視線を送った。
圧倒的なスペックを誇る灰色のモンスターを相手に、ゲヘナのハチロクがどんな牙を剥くのか。その答えはもうすぐ、この暗闇の先で明らかになるはずだ。
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
激しい減速を求められるタイトなコーナーが迫る。
私は右足に全神経を集中させ、重たいR32の車体を沈み込ませるように強烈なブレーキを踏み抜いた。
Gが全身を激しく揺さぶり、シートベルトが胸に食い込む。速度計の針が急激に落ちていく中、私は一瞬だけルームミラーへ視線を走らせた。
後方のハチロクはまだ遠くにいる。ストレートで引き離した排気量のアドバンテージは確かにある。だが、コーナーへのアプローチのたびに、あの暗闇に浮かぶ二つの光は、じりじり、じりじりと確実に差を詰めてきているのが分かった。
「なかなか……パワーに物を言わせるということはできませんね……!」
思わず歓喜と焦燥の入り混じった声を上げた。
ストレートでの加速力はこちらが圧倒的だ。しかし、コーナーが連続するこの峠道において、少しでもブレーキングをミスり、ラインを外せば、そのマージンはあの白黒の悪魔にあっという間に縮められてしまう。
一瞬の油断が命取りになる。
思考が追いつかず、頭が真っ白になってしまいそうな極限の限界状態。
それなのに、私の口角は自然と吊り上がり、心臓はこれまでに味わったどんな極上の美食を前にした時よりも、狂気的な歓喜のビートを刻んで隠し切れなかった。
「対向車は来なさそうですね……アカリさん!」
隣の助手席で、ナビゲーターを務めるハルナさんが鋭い声で告げた。
「っ……」
アウト・イン・アウト。
あのハチロクとこの黒曜峠でバトルをするにあたって、私が独自に調べ上げたクルマのスポーツの専門用語だ。コーナーを曲がる際に、最も大きな円を描いて通ることで遠心力を減らし、脱出速度を高める最短にして最速のルート。
対向車を警戒し、前方の安全を確約してくれているハルナさんの言葉を信じ、私は道路の横幅をすべて使い切るライン取りへと車を振った。
アウト側からコーナーの頂点をかすめるべく、私は躊躇うことなく右コーナーの奥深くへとR32のノーズを突っ込ませる。
「まだまだ……あなたの全力はこんなものではないでしょう……!?」
私は後ろから追いかけてくるハチロクではなく、今まさに自らを乗せてくれているこの灰色の怪物──R32に向けて問いかけていた。
分かっているのだ。今の私が、『この子』の真の全力を引き出せていないことなど。
後ろのハチロクが、まるで手足の延長のように車と一体化して迫ってくるのを見ていると、その事実はさらに確信的なものとなって私の胸を刺す。
この子は、もっと走りたがっているのだ。
エンジンの鼓動が、足回りから伝わる振動が、「もっと」「もっと踏める」と私に叫びを上げているのだ。
相棒と認めたクルマの全力を引き出せないことのなんと情けないことか。私が、この子の全力を引き出せるほどのレベルのドライバーへと、進化してあげなければならない。
そう決意し、ステアリングを握る手にさらに力を込めた、その瞬間だった。
「っ……!? くっ……」
予想外の挙動に、私は思わず声を漏らした。
曲がらない。
自分が想定していたアウト・イン・アウトの理想的なラインより、車体が外側──アウト側へとズルズルと膨らんでコーナリングしていくのだ。
どうしてだ。さっきまでは、私がステアリングを切った分だけ、重たいながらも確実にノーズをねじ込んでくれていたはずなのに。今はまるで、足元の何かが頼りなく滑っているような、得体の知れない違和感がある。
なんで私の言う事を聞いてくれないのか。ステアリングをさらに切り足しても、車体は外へ逃げようとするばかりで、一向にイン側へ切り込んでいく気配を見せない。
原因が分からないまま、私は強引にアクセルをコントロールし、外側のガードレールすれすれで車体の姿勢を真っ直ぐに戻すしかなかった。
だが、焦る必要はない。
この右コーナーを抜けた先、いよいよヒノム火山の火山灰が深く積もる魔のエリアへと突入する。
路面はまるで氷のように滑りやすくなり、普通の車はまともに前に進むことすら困難になるはずだ。
そこでなら、この子の持つ『アテーサE-TS』──四輪すべてで地面を蹴り上げる圧倒的な力が、全開で発揮される。
いくらブレーキングで詰め寄ろうと、あの二輪駆動のハチロクを、ここで完全に置いていく。
フロントガラスの向こう、ヘッドライトに照らされたアスファルトの色が、黒から鈍い灰色へと変わっていくのが見えた。灰のエリアだ。
「死ぬ気で来てください、ゲヘナのハチロク! この子はお腹を空かせているんです!!」
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
ヘッドライトが照らし出すアスファルトの色が、黒から鈍い灰色へと唐突に切り替わった。
「タクミ。この先は……!」
「大丈夫」
思わず助手席から声を上げた私に対し、ステアリングを握るタクミは前を向いたまま、一切の動揺を感じさせない平坦な声で短く答えた。
ヒノム火山の火山灰が予報通りに降り注ぎ、路面に分厚く積み重なっている区間。
火山灰の滑りやすさについては、タクミにパーツ代を渡す前、アルと一緒にネットや資料でさんざん調べたから知っている。タイヤがグリップを失い、ブレーキもハンドルも全く効かなくなる、四輪車にとってはまさに死の領域だ。
それなのに、どうしてこの男は減速しようとしないのか。
スピードメーターの針は、恐ろしい数値を指したまま微塵も下がろうとしない。タクミの右足はアクセルペダルに乗せられたままで、一切の減速を見せようとする気配がなかった。
冷静に考えれば、これまでの区間で曲がれていたようなコーナーが、この灰の上で同じ速度で曲がれるはずがないのだ。このまま減速をしなければ、限界を超えた遠心力によって車体がアウト側へ弾き出され、このままガードレールを突き破って真っ逆さまに転落していくことに変わりはなかった。
窓の外を横切る景色の中に、ギャラリーの姿はほとんど見えない。事故の可能性が極めて高いこのエリアでは、命知らずな生徒が数人ちらほらと遠くから見ているくらいで、先ほどまでの熱狂的な群衆とは比べるべくもなかった。
それほどまでに、ここは危険な場所なのだと実感させられる。
遠くの方で、この『死のエリア』の最初のコーナー、右に鋭く折れ曲がるヘアピンカーブが見えてきた。
それでも、タクミはいまだ減速しない。ブレーキしようとする気配すらない。
「(っ……もうだめっ……!)」
死を覚悟した。この速度で谷底へダイブすれば無事では済まない。私は反射的にギュッと強く目を瞑り、助手席のアシストグリップにすがりついた。
だが、クラッシュの衝撃はいつまで経っても訪れなかった。
代わりに私を襲ったのは、内臓が片側に寄るような強烈な横G。その暴力的な力に、私は無理やり目を開かされた。
「……え?」
その感覚自体は、先ほどまでのコーナーで嫌と言うほど味わったドリフトの感覚と同じだった。車体が斜め前方を向き、凄まじいスキール音と共にコーナーを滑り抜けていく。
しかし、これまでと決定的に違うものが一つだけあった。
「(ほぼ、飛んでる……っ!?)」
タイヤが地面を掻き毟るような抵抗感が、全くないのだ。
まるでハチロクの車体そのものが数ミリ浮き上がり、氷の上を滑空しているかのような、異次元の浮遊感。
私は信じられない思いで、隣で運転するタクミの横顔を見た。
驚愕すべきことに、彼の握るステアリングは、ネットの動画で見た『カウンターステア』というものを、到底やっているようには見えなかったのだ。ステアリングは、ほとんど真っ直ぐに近い状態を保っている。
今の速度でクルマがどれだけ滑るのかを瞬時に計算し。
どれだけアウト側へ膨らむかを肌感覚で正確に測り。
自分が必要な分だけを滑らせる。
火山灰という最悪のコンディションの中で、彼はアクセルワークと微細な荷重移動だけで、ハチロクという機械を完璧にコントロール下へ置いている。
「(言うのは簡単でも、やる側はどれだけ難しいかなんて想像も……っ!?)」
物理法則を無視しているかのような光景に、私の背筋にゾクゾクとした悪寒にも似た戦慄が走った。
確かに、不安になるような動きをするときは時々ある。タクミが少しだけ苦しそうな顔をしてドリフトしている時はあるのだ。だが。
それでもなお、灰のエリアに入ってから、ハチロクの動きはさらにキレを増している。
次々と火山灰の積もるコーナーを、飛ぶように滑り抜けていくハチロク。
やがて、コーナーの先に、赤いテールランプを点滅させながら苦しそうに走っているGT-Rの姿を目前に捉えた。
どれだけ優れた四輪駆動システムを持っていようと、この極低ミュー路面では、R32のその重すぎる車重そのものが最大の足枷となる。ハチロクはGT-Rをイン側からいとも容易く射程圏内に収めた。
そして。
あれだけ難しいと思っていた追走を火山灰のコーナーであっさりと成功させ。
ハチロクより断然パワーが高く、絶対に勝てないと思っていたあの灰色のモンスターマシンを。
イン側の数センチの隙間を縫うようにして、ハチロクは鮮やかに追い抜いた。
「(……もう、タクミ自身がモンスターなんじゃ……?)」
バックミラーの彼方に沈んでいくGT-Rのヘッドライトを見つめながら、私は呆然と心の中で呟いた。
ふと、左手がえらく痺れるのを感じる。無意識のうちに、アシストグリップを限界まで握りしめすぎたようだ。指を開こうとしても、強張ってすぐには動かなかった。
「ふぅ……」
タクミが短く息を吐く。私も釣られるようにして、大きく深く息を整え、再びフロントガラスの向こう──暗闇の先を向いた。
GT-Rを追い抜いた。
それならば、あとはゴールまで追い抜かれないように前を走り切ればいいだけだ。
ストレートでの加速力は向こうが上だとしても、あの重たい車体では絶対にタクミのコーナリングスピードにはついてこれない。
もっとも、これまで灰のないコーナーですら、ハチロクに後ろから極限まで詰められていたGT-R……もとい、鰐淵アカリの技術では、もはやタクミの背中を捉えることなど二度とできないだろう。
横でステアリングを握る横顔は、やはり何の感情も読み取れないほどに静かで、けれど圧倒的な覇気をまとっていた。
社長が全財産を賭けたこの男は、紛れもなく、キヴォトスで一番速いドライバーだ。私は左手をゆっくりと膝の上に下ろし、特等席からこの最高の勝利の瞬間を見届ける準備をした。
想定ユーロビート・楽曲
火山灰エリアのドリフトから
2LOVE 4LOVE/PAMSY & ACE