キヴォトスに単身ドリフトしちゃった藤原拓海(30) ~頭文字D Archive Stage~ 作:曇りのち晴れ男
グレーのボディを震わせ、アテーサE-TSが必死にトラクションを稼ごうともがくR32の真横を、白と黒のハチロクがまるでミサイルのようなスピードで通り抜けていった。
火山灰が深く積もる魔のコーナー。
この重たいGT-Rの挙動に苦しみ、外へ外へと膨らんでいくのとは対照的に、あのハチロクは物理法則を完全に無視したような異次元の動きで、イン側のわずかな隙間を縫うようにして抜き去っていったのだ。
テールランプの赤い残像が、フロントガラスの向こう側、灰色の視界の奥へとみるみるうちに遠ざかっていく。その後ろ姿を見つめながら、私はステアリングを握る手に爪が食い込むほど力を込め、これ以上ないほどの激しい悔しさに唇を噛んだ。
「(どうして……! どうして追いつけないの……!?)」
圧倒的な質量とパワーを誇るこの怪物が、二回りも小さな古い大衆車に、コーナーでいとも容易く置いていかれる。
ストレートでの加速なら絶対に負けない。エンジンのポテンシャルならこちらの方が遥かに上。
コーナーが連続するこの黒曜峠では、マシンのスペック差など何の意味も持たなくなることに、今更気づいた。
ステアリングから伝わってくる微かな振動が、まるで悲鳴のように思えた。
GT-Rが、泣いている。
この子はもっと速く走れるはずなのだ。もっと限界の奥深くまで突っ込んで、四輪で大地を削り取るように走る力を持っているはずなのに。
ただ単に、私の技術が足りないのだ。火山灰という未知の路面コンディションを前にして、私がこの子の真の限界を引き出してやれない。その事実が、敗北という屈辱となって私の胸を容赦なくえぐり取っていく。
「アカリさん、アカリさんっ!!」
唐突に、隣の助手席から張り裂けるような大きな声で名前を呼ばれ、私の意識はハッと現実へと引き戻された。
「っ……!」
気づけば、私はステアリングを万力で握り、アクセルペダルを壊しかけるほど踏んでいた。
危なかった。目の前で信じられないオーバーテイクを見せつけられ、自身の未熟さに絶望したことで、私は完全に冷静さを欠き、安定した運転をすることそのものを放棄しかけていたのだ。
一歩間違えれば、火山灰の海に足を取られ、そのままコントロールを失って谷底へ一直線に転落していただろう。冷たい汗が流れ落ちるのを感じる。
「集中してください。まだ黒曜峠の道は続きます」
ハルナさんの声は、いつも通りの優雅さを保ちながらも、確かな強さと鋭さを帯びていた。彼女は手に持っていたコースレイアウトのメモをダッシュボードに置き、真っ直ぐに前を見据えている。
「追い抜かれたからといって、まだ負けたわけではありません」
その言葉に、私の頭に昇っていた血がスッと引いていくのを感じた。
そうだ。ここはただの峠道ではない。ゲヘナ自治区の、いつ何が起きるか分からない無法地帯だ。
「そうですね……ありがとうございます、ハルナさん」
私は深く息を吸い込み、乱れていた呼吸を整えた。
再びアクセルに右足を乗せ、R32の挙動を確かめるように、無理のないペースで火山灰のコーナーをクリアしていく。ハチロクの背中はすでにブラインドコーナーの向こうへ消えてしまったが、今は焦る必要はない。
「私、先ほどからギャラリーの方々を見ていたのですが」
ハルナさんが、ふと視線をサイドウィンドウの向こう、暗闇に沈むコースの外側へと向けた。
「『あの方』たちがいらっしゃいます。むしろここは、限界で走行しない方が勝利につながります」
「え……?」
私はステアリングを操作しながら、ハルナさんの視線の先──アウト側のガードレール付近へと一瞬だけ視線を向けた。
ギャラリーがほとんどいないはずの、この危険なデス・エリア。
だが、闇の中にまばらに立っている生徒たちの姿は、純粋に車のバトルを見に来た野次馬のものとは明らかに異なっていた。
彼女たちの頭には、お揃いの『白いヘルメット』が被せられている。手にはスコップやつるはし、そして明らかに工事用ではない、物騒な円筒形の火薬らしき束が握られていた。
「(あれは……まさか)」
「ヒノム火山周辺は、特に温泉が多いですからね」
ハルナさんがクスリと上品に笑いながら、恐ろしい事実を口にする。
「彼女たちがわざわざこんな夜の峠道に出張ってきているということは……そういうことです。巻き込まれないよう、安全なドライブを……」
ハルナさんの言葉の意味を理解する。
それでもなお、私はアクセルを踏む足を緩めなかった。
アテーサE-TSが四輪に猛烈なトルクを分配し、R32が火山灰を豪快に蹴り上げながらさらに加速していく。車体が前へ前へと猛進する暴力的なGに、助手席のハルナさんが息を呑んだ。
「っ、アカリさん!?」
驚愕。常に優雅で冷静沈着な美食研究会の会長が、これほどまでに素っ頓狂な声を上げるのを、私は初めて聞いたかもしれない。
「ごめんなさいハルナさん。やっぱりダメです」
私は前を向いたまま、ステアリングを強く握り直して言った。
「あのハチロクに勝ちたがっているこの子を無理やり抑え込むなんて、私にはできません」
「ちょっ……アカリさん! 正気ですか!?」
ハルナさんが私の理性を疑うのも無理はない。
だが、私の血はすでに限界まで沸騰し、狂気という名のスパイスで完全に味付けされているのだ。
「あのハチロクが正気だったことが、一度でもありますか?」
視線を動かさず、ハルナさんに語り掛ける。
あの市街地の直角コーナーを、芸術的なドリフトで駆け抜けていった狂気の沙汰。
そして今さっき、絶対にアクセルを踏めないはずのこのデス・エリアで、車体を浮かせながらイン側の数センチを刺してきたあの神業。
まともな神経の持ち主なら、あんな走りは絶対にできない。
あの古い車屋で、この子と出会った日のことを思い出す。
廃車寸前の車や、鈍重な装甲車ばかりが並ぶゲヘナの裏路地で、ひっそりと、だが圧倒的な覇気を放っていたガンメタルの機体。
「この子に試乗して、ツインターボの圧倒的なパワーを感じたその瞬間、この子しかないと思ったんです」
重たいドア、身体を支えきれないシート、曲がりにくいフロントヘビーな特性。
それでも、アクセルを踏み込んだ時にシート越しに伝わってきた、大地をへし折るようなあの力強い鼓動。
「この子の『R』は、あのハチロクに
私の魂からの叫びに呼応するように、R32のエキゾーストノートがさらに一段階高く、狂暴な咆哮へと変わった。
……数秒の沈黙の後。
隣の席から聞こえてきたのは、怒りでも制止でもなく、クスリとこぼれるような、底知れぬ歓喜を孕んだ笑い声だった。
「ふふ……あはははっ! ええ、ええ、そうですねアカリさん! 安全な場所から見ているだけの勝利など、美食を名乗る私たちには相応しくありません! それならばもう、派手に行きましょう!!」
ハルナさんもまた、正気を捨てたのだ。彼女はダッシュボードのグリップを強く握りしめ、前方に広がる暗闇へと獰猛な笑みを向けた。
「ならば存分に喰らい尽くしましょう! 究極のフルコースを!」
ハルナさんが叫んだ直後、暗闇の峠道の先──ハチロクが消えていったコーナーの奥から、空を真紅に染め上げる巨大な火柱が上がった。
先ほどから姿を見せていた白いヘルメット。『温泉開発部』の発破が始まったのだ。地響きが黒曜峠を揺らし、ただでさえ厄介な火山灰の上に、爆発で砕け散ったアスファルトの破片と新たな土煙が降り注ぐ。
コースは一瞬にして、文字通りの『戦場』と化した。
「死ぬときは一緒です、アカリさん!!」
「行きますよ!!」
私はヒールトゥでギアを叩き落とし、爆発の閃光が照らし出すコーナーへとR32のノーズを強引にねじ込んだ。
目の前に広がるは、至る所で小規模な爆発が連鎖する狂気の光景。
「私たちだって……!」
右へ、左へ。
私はステアリングを格闘するように振り回した。
ズドォォン! という至近距離での爆発が車体を激しく揺さぶる。横っ腹に飛んでくる石の破片。だが、R32の分厚い装甲と、四輪が大地を掴んで離さないアテーサE-TSの力強い推進力が、爆風の衝撃を真っ向からねじ伏せていく。
軽いハチロクが『躱す』走りなら、この重厚なGT-Rは『圧倒する』走りだ。
「もっと! もっとです! もっとパワーを!!」
私は悲鳴のような歓喜の声を上げながら、爆発の煙を突き破り、アクセルペダルを床の底まで踏み抜いた。
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ヘッドライトが照らし出す路面の色が、鈍い灰色から見慣れたアスファルトの黒へと変わった。
タイヤが確かなグリップを取り戻し、ステアリングに路面のインフォメーションがダイレクトに伝わってくる。いよいよ、最も危険だったヒノム火山の火山灰エリアを抜け切ったのだ。
ストレートに入り、オレは素早くルームミラーに視線を走らせた。
暗闇の奥、後方にGT-Rのヘッドライトは見えない。どうやら、なんとかあのバケモノを完全に振り切ることに成功したらしい。
フロントサスペンションの減衰力をあえて柔らかくし、フロントの入りを極限まで良くしたピーキーなセッティング。それを火山灰の上で四輪ドリフトに持ち込むという綱渡りのような戦略だったが、どうやらその甲斐は十二分にあった。
ふぅ、と小さく息を吐き、次のコーナーへ向けて車の姿勢を整えようとした、その時だった。
「うおっ!?」
唐突に、道路の外側──ただの木々が連なる斜面のあたりから、腹の底に響くような爆発音が轟いた。
オレンジ色の閃光が視界を白く染め上げ、凄まじい衝撃波がハチロクの車体を横から激しく揺さぶる。そして、爆風によって根元から吹き飛ばされた巨大な大木が、宙を舞ってオレたちの行く手のアスファルトへと落下してきたのだ。
もし直撃して車ごと潰されれば、ひとたまりもない。
オレは咄嗟にステアリングを左へ切り込み、悲鳴を上げるタイヤをなだめながら、落下してきた大木の枝葉を掠めるようにして間一髪で回避した。
だが、安堵する暇もない。ドドン、ズドォンと、さらに前方で連続して爆発が巻き起こり、土煙と瓦礫がコース上にバラ撒かれていく。
「温泉開発部……!」
助手席のカヨコが、忌々しそうに舌打ちをしてその名を呼んだ。
「マジかよ……」
このあたりは温泉が多いと以前から聞いていたが、まさか温泉を掘り当てるために、他人が走っている道路の脇でダイナマイトをぶっ放すような、そんなはた迷惑な部活動があるのかよ。
キヴォトスの常識は、未だにオレの理解の範疇を軽々と超えてくる。
コース上にはひび割れたアスファルトや、転がってきた岩が散乱している。
オレは道路の落下物だけでなく、上空から降ってくる破片にも注意を払いながら、必死にハチロクをコントロールした。
「タクミ! 大きいのが来てる!」
「助かる」
右前方の斜面が弾け飛び、巨大な岩塊が降ってくるのを、カヨコが瞬時に察知して叫ぶ。オレはその声に従ってブレーキを強く踏み込み、ラインを極端にイン側へ寄せてやり過ごした。
走りを教えるためになんて理由で隣に乗せたわけだが、運よく冷静なナビゲーターがいてくれたおかげで、死角からの落下物も避けやすい。
しかし。
障害物を避けるたびに、オレの背中には冷たい汗が流れ落ちていた。
「(これだけ無駄なラインを描いていると、失速は免れない。パワーの低いハチロクでこんなに失速しているということは……)」
レコードラインを外れ、ブレーキを何度も踏まされる。
ハチロクのような非力な自然吸気エンジンにとって、一度失ったコーナリングスピードと運動エネルギーを再び取り戻すのは至難の業だ。おまけに足回りを柔らかくしているため、グリップの回復したアスファルトの上では車体のロールが大きくなりすぎ、無駄な挙動が増えてしまっている。
ふと、嫌な予感がしてルームミラーを見た。
土煙の向こう側から、空気をビリビリと震わせるような強大なオーラを放ちながら、黄色いフォグランプと獰猛なヘッドライトが急激に迫ってきていた。
R32だ。
「(速いっ……!)」
爆発の障害物をものともせず、圧倒的なトラクションで瓦礫ごと路面を蹴り飛ばしてくるような、すさまじい突進力。
ストレートでの加速勝負になれば、非力なハチロクでは絶対に勝ち目がない。追いつかれる前に、なんとしてでもコーナーの突っ込みでアドバンテージを稼ぎ、相手のペースを乱さなければ。
「くそっ……!」
歯を食いしばり、迫り来る中高速の複合コーナーに向けて、意図的にブレーキングを遅らせる。
柔らかくしたフロントサスがアスファルトの上で悲鳴を上げるのを承知で、限界ギリギリの速度でノーズをイン側へとねじ込む。ブレーキペダルを踏み抜く右足から、タイヤが限界を超えて滑り出そうとする強烈なバイブレーションが伝わってくる。車体が大きくロールし、リアがブレイクしそうになるのをステアリングの細かな修正で強引に押さえ込み、なんとかクリッピングポイントへと食らいついた。
だが。
「(……嘘だろ!?)」
サイドミラーに映るガンメタルの巨体は、オレの決死の突っ込みに対し、いとも容易く張り付いていた。
それだけじゃない。オレは横Gに耐えながら、後ろを走るR32の挙動を見て戦慄した。
ブレーキを残しながらの滑らかなターンイン。フロントヘビーな車重を強引にステアリングでこじ開けるのではなく、荷重移動を完璧にコントロールし、最も効率よくタイヤのグリップを引き出すような、精密で無駄のないライン取り。
「(さっきまで、あんな走りをする奴じゃなかった……!)」
黒曜峠の序盤、ブレーキングでオレが背後にへばりついた時、彼女は明らかに持て余すパワーと車重に振り回され、車と格闘していたはずだ。それが今はどうだ。まるで、この数分間の死闘の間に、車という機械の限界を身体の底から理解し、完全に一体化したかのような鋭いコーナリング。
コーナーの出口。オレがアクセルを踏み込むよりもほんの一瞬早く、R32がアウト側から並びかけてきた。
アテーサE-TSが四輪に爆発的なトルクを伝え、ハチロクの横に巨大な灰色の壁がそびえ立つ。
「タクミ、横……!」
カヨコが息を呑んで身をすくめる。
オレも必死でアクセルを床まで踏み抜くが、NAエンジンの回転数がもどかしいほど上がらない。
そして、R32がハチロクのノーズを完全に捉え、抜き去ろうとしたその瞬間だった。
横を通り過ぎるGT-Rの極太のマフラーから、空気を切り裂くような、暴力的で甲高い咆哮が轟いた。
ただアクセルを踏み込んだだけの音じゃない。直列六気筒ツインターボのエンジンそのものが、まるで自らの『勝利』を確信し、歓喜の雄叫びを上げながらレッドゾーンの奥底へと吹き上がったような、そんな強烈な錯覚にオレの全身の毛が逆立った。
圧倒的なパワーと、覚醒したドライビングテクニック。
赤いテールランプが、オレの目の前で残酷なまでのスピード差を見せつけながら、ストレートの闇へと弾丸のように消えていく。
「(やられた……)」
オレはステアリングを握りしめたまま、その圧倒的な背中を見て背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。
ふと、彼女たちを示す『生徒』という単語が脳裏をよぎる。
彼女たちは、まだ若い生徒だ。完成された大人じゃない。スポンジが水を吸い込むように、無限の吸収力と可能性を秘めた存在。
その事実に思い至った時、オレの中に一つの恐ろしい確信が浮かび上がった。
「(バトルの最中に……とんでもない速度で、ドライバーが進化してるってのか……)」
相手は280馬力オーバーの最速の怪物。それを操るドライバーが、今この瞬間も劇的な成長を遂げ、車のポテンシャルを完全に引き出し始めている。
突き放された背中を追いかけながら、オレはハチロクのアクセルを強く踏み込み直した。このまま終わるわけにはいかない。進化する怪物を仕留めるための、次なる一手を必死に頭の中で探りながら。
想定ユーロビート・楽曲
「あのハチロクが正気だったことが、一度でもありますか?」
BACK ON THE ROCKS/MEGA NRG MAN