キヴォトスに単身ドリフトしちゃった藤原拓海(30) ~頭文字D Archive Stage~ 作:曇りのち晴れ男
『こちら峠道の終わりあたり~、もうそろそろこっち来そうだよ~』
ゲヘナの生徒たちが持っている無線機やスマートフォンから、ギャラリーの一人が発した間延びした声が響き渡った。
その言葉を聞いた瞬間、私はバッと顔を上げ、通話をしている生徒の方を向く。
「見たい人ら全員集まって! もうゴールが近いみたい!」
『ビデオ通話に変えるよ~』
スピーカー越しの声にギャラリーたちがどっと湧き上がり、映像を映し出す一台のタブレット端末へと一斉に群がり始める。
私は社長として、自社ドライバーの雄姿をいち早く、そして最も良い位置で見届けなければならない。アウトローの威厳を胸に、私は人ごみの中へと突進した。
だが。
「ちょっ……ちょっと通して……通してぇっ! 私は便利屋68よ!! その映像を見る権利があるわ!!」
熱狂するゲヘナの生徒たちの壁は厚く、私の声は喧騒にかき消されてなかなか前進できない。ヒールを踏まれそうになりながら、私は半ば強引に肩をねじ込み、なんとかビデオ通話をしている生徒の隣、タブレットの画面を覗き込める最前列へと滑り込んだ。
画面越しに、ざらついた夜の暗闇と、空気を劈くような激しいタイヤの悲鳴が聞こえてくる。
息を呑んで見つめる私の目の前で。
まず最初に画面を横切ったのは、地を這うような重低音を響かせるガンメタルの巨体──R32だった。
そして、1秒、2秒。
甲高いエンジン音と共に、その後ろから白黒のハチロクが猛烈な勢いで画面を通り過ぎていった。
「(タクミ……!)」
私はギュッと拳を握りしめた。
火山灰のエリアを抜け、コースの終盤に差し掛かってもなお、抜き返すことができていない。どんなにタクミの腕が凄かろうと、どうしてもクルマの絶対的なスペック差が残酷なまでに牙を剥く。それが、現実として突きつけられた映像だった。
周囲のギャラリーたちも、その決定的な差を見て好き勝手なことを口にし始める。
「おいおい、やっぱり圧勝だな~」
「あの黒いクルマって確かスペック高かったよね」
「でもすげぇーっ! 後ろの白黒もすごい速い!」
「しかしこれだけ差がついてれば……」
「白黒の車は遅いんだろ」
その心無い一言が耳に入った瞬間、私の中で何かがプツンと弾けた。
「ちょっと! 誰かしら! 今、白黒が遅いって言ったの!! まず第一、あれはハチロクって言うのよ!!」
私はタブレットから顔を上げ、周囲のギャラリーたちをキッと睨みつけた。アウトローのボスとしての威圧感じゃない。自慢の社員を馬鹿にされた社長としての、純粋な怒りだった。
突然の私の剣幕に、野次馬の生徒たちがビクッと肩を跳ねさせてたじろぐ。私はそのまま、言い含めるように声を張り上げた。
「タクミは必ず勝つわ! 勝ってくれるわ!! その証拠に、あれだけ絶望的な力の差があるのに、スタート地点からこの映像のところまで、たったの2秒程度しか離されてないじゃないの!!」
私の言葉に、ギャラリーたちはハッとしたように顔を見合わせた。
そうだ。あの重武装の装甲車のようなGT-Rを相手に、古い大衆車であるハチロクが、このコースの終盤までたった2秒の差で喰らいついている。それは普通に考えれば、奇跡としか言いようがないほどの異常事態なのだ。
「この中に、風紀委員に挑もうと思ったことがある人はいるかしら! いないわよね! ハチロクとあの黒い車には、それほどの差があるわ!! 彼はそんな無謀に近いことを、あともう少しで勝てるかもしれないところまで行ってるのよ!!」
私の気迫に押されたのか、それともその事実に気づいて戦慄したのか。周りのギャラリーは一斉に黙りこくり、ゴクリと唾を飲み込んで、再びタブレットの映像へと目を戻した。
静かになった空間で、私はもう一度画面を見つめる。
言い返してやった手前、表情は自信に満ちたボスの顔を作っていた。けれど、コートのポケットの中で握りしめた手は、微かに震えていた。
「(……でも、勝算がいまいちつかめないのも事実)」
ここから先のゴールラインまでの間に、あの2秒の差をどうやってひっくり返すというのか。クルマの知識がない私には、そのビジョンが全く見えなかった。ただ、祈ることしかできない。
「(タクミ……信じてるから)」
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
黒曜峠の中盤以降、あの爆発エリアを抜けてR32に先行されてからというもの、オレには全くと言っていいほどうまくチャンスが訪れなかった。
前を走るガンメタルの巨体は、コーナーを抜けるたびに恐ろしいほどの洗練を見せていく。
無駄なスライドがなくなり、タイヤのグリップを最大限に活かした効率的な立ち上がり。ステアリングの修正舵も極端に減っている。
ドライバーが車という機械と完全に同調し、一種の『ゾーン』に入ったような状態なのだろうか。
コーナーの出口で一気に突き放される、暴力的なまでの加速力。
その絶望的な離され方を見て、かつて群馬の峠で、エンペラーのランエボと初めて戦った時のあの感覚がチラつく。
「ようやく、温泉何たらが落ち着いたな……」
オレはステアリングを握りながら、ポツリとこぼした。
あのはた迷惑な温泉開発部からの二次被害──飛び交う岩や倒木のトラップがようやく収まり、黒曜峠は純粋なアスファルトの峠道としての顔を取り戻していた。
これでようやく、レコードラインをフルに使った普通の走りができる。
オレはハチロクのアクセルを限界まで踏み込み、ブレーキングポイントを極限まで奥へと遅らせてコーナーへ突っ込んだ。タイヤが悲鳴を上げ、隣でカヨコが息を呑む気配がする。
だが、オレ自身のドラテクを全開にしても、前を走る進化したR32との差を劇的に縮めることができない。
なんとか、R32のおしりが見えるところまでは来たが、それでも追い抜きのチャンスなど到底訪れない。
コーナーの入り口で決死の突っ込みを見せて、出来ても数十センチのリードだろうか。そしてクリッピングポイントを過ぎた直後のストレートで、その稼いだ数十センチはあっという間に元の距離へと引き戻されてしまう。
「(くそっ……!)」
スタート直後からずっと背後にへばりついてプレッシャーをかけ続けていたならまだしも、こんな中継地点からではとてもじゃないがゴールまでに間に合わない。
オレの頭の中に入っている黒曜峠のコース図が、残酷な現実を突きつけてくる。
この先の、麓に近いS字セクションを抜ければ、コースはいよいよ終盤。
そこに待ち受けているのは、この峠で最もタイトな『最後の連続ヘアピンコーナー』だ。
直線の入り混じる区間では、あのパワーと覚醒したドラテクを持つGT-Rに追いつくことは絶対に不可能だ。だからこそ、あの連続ヘアピンでの切り返し──ハチロクの軽さが唯一最大の武器になるあのポイントで追い抜けなければ、もう勝機はない。
タコメーターの針が跳ね上がり、NAエンジンが悲鳴のような咆哮を上げる。
オレは、赤く光りながら遠ざかろうとするGT-Rのテールランプを睨みつけながら、奥歯をギリッと噛み締めた。
「(このままじゃ、負ける……!)」
焦燥感が、冷たい汗となって額を伝う。
手が震える。
また、あの忌まわしい痺れが訪れた。
直線区間だったため、幸いにもステアリングの操作を誤ってマシンの姿勢を崩すようなことはなかった。だが、指先から腕の根元へと這い上がってくる不快な感覚は、まるでこれからのオレの確実な敗北を、身体そのものが宣告しているような気分にさせる。
「(……元々、不可能だったのか?)」
アクセルを踏み込んだまま、オレの心は暗い沼の底へと沈んでいく。
イギリスのラリーでマシントラブルに見舞われ、谷底へクラッシュし、この全身の怪我を負ったあの時から。オレが再び走ることなど。
同じようなスペックの車と戦うのであれば、これまでの経験でなんとか勝てるかもしれない。
けれど、かつてのプロジェクトDの時のように、圧倒的に格上の車を相手にして善戦し、よもや勝利を掴み取ることなど、今のオレには到底できない『夢』だったのだろうか。
昔のオレならば、こんな逆境に立たされれば立たされるほど、闘争心を奮い立たせてさらに鋭く、狂気的なドライブをしたはずだ。
けれど今、自らの身体に爆弾のような負傷を抱えている事実に怯え、ただ落ち込んでいる自分の惨めな心境を自覚すると、オレも歳をとったんだなと、どうしようもなく実感してしまう。
ここから先の連続ヘアピンで、あのR32を仕留めるための勝機は、ただ一つしかない。
けれどそのライン取りは、針の穴に糸を一発で通すように極めて難しく、そしてシビアだ。数センチでも操作を誤れば、あわや大クラッシュを引き起こす。
そう考えると、心臓が張り裂けるように痛んだ。
クラッシュ。
その単語に、オレはこれほどまでに恐怖を覚えるようになってしまっていたのだ。
恐怖と敗北感に苛まれ、ステアリングを握る左手の感覚がどんどん冷たく失われていく、その時だった。
ふと、冷え切っていたオレの左手の上に、小さく、けれど確かな温もりを持つ手がそっと重ねられた。
「……カヨコ」
「大丈夫、タクミ」
驚いて横目で見ると、そこには普段の無機質な無表情とは違う、オレを真っ直ぐに見据えて、力強く応援してくれているカヨコの表情があった。
「タクミには、便利屋のみんながついてるから」
その言葉は、冷たい夜風とエキゾーストノートが響く車内に、ひどく優しく、そして真っ直ぐに響いた。
オレの左手に置かれている手は、カヨコの右手のものしかない。
それなのに、なぜだろう。
ポンコツで威張ってばかりだけれど、誰よりもオレの勝利を信じて全財産を託してくれたアル。
いつも飄々として、面白がりながらも絶対にオレの背中を押してくれるムツキ。
オレの身を誰よりも案じて、涙目で無事を祈ってくれていたハルカ。
他のみんなの手も、カヨコの手を通じて一緒に重ねられているように感じたのだ。
オレはもう、孤独に一人でプレッシャーと戦うラリードライバーじゃない。便利屋68という、バカみたいにお人好しで温かい連中の、大事な専属ドライバーなんだ。
「……サンキュー、カヨコ」
オレは短くそう返し、前を向いた。
不思議なことに、あれほど腕を支配していた致命的な手の痺れは、もうすっかり引いていた。
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
不思議なほど、この子と対話できている。
ステアリングを通じて伝わってくる路面の感触、ペダルを踏み込んだ時のエンジンの鼓動、重たい車体が沈み込む重心の位置。そのすべてが、まるで自分自身の神経と直結しているかのように手に取るように分かった。
コーナーを一つ抜けるたびに、自分の操作がどんどん洗練されて、うまくなっている気がする。限界ギリギリのブレーキングも、立ち上がりのトラクションコントロールも、思考するより先に身体が最適解を叩き出していた。
隣の席からナビゲートしてくれていたハルナさんの指示すら、もう私の耳には届いていない。
周囲のノイズが完全に消え去り、暗闇のコースとこの灰色の怪物、そして私自身だけが世界に取り残されたような、極限の集中状態。
「(勝てる……!)」
私は確信していた。今の私とこのR32なら、キヴォトスの誰が相手であろうと絶対に負けない。
ふと、ストレートの途中でルームミラーに視線を落とす。背後には、食らいついてくるハチロクの二つのヘッドライトが見えた。
この先の麓に近いセクションには、黒曜峠で最もタイトな『連続ヘアピン区間』が待ち受けている。ここで圧倒的な立ち上がりのパワーを見せつけ、あの目障りな白黒の悪魔に完全なトドメを刺してやる。そう決意し、私は第一ヘアピンに向けてアウト側へと車体を振った。
私が最初のヘアピンを曲がろうとした、その瞬間だった。
ルームミラーを見ると、さっきまでそこにいたはずのハチロクのヘッドライトが見えない。
「ハチロクが、消えた……ッ!」
思わず叫び、横を見る。
すると、アウト側からコーナーに突っ込もうとしている私のR32の真横にピタリと並び、ハチロクが信じられないほどのオーバースピードで、イン側から減速もせずに突っ込んできたのだ。
「(ヘアピンなのに減速をしない……っ!?)」
バカな。いくらハチロクが軽くても、物理法則というものがある。そのままのスピードで突っ込めば、遠心力で外側に膨らみ私を巻き込むか、そのまま一直線にガードレールへと激突してクラッシュするに決まっている。
しかし。
ハチロクはインのさらにイン──道路の端の側溝にタイヤを落とすようにして走り、まるでジップラインでも使っているのではないかと言える不思議なラインで、遠心力を完全に打ち消してコーナーを抜けていった。
「そんなっ……!?」
おかしい。この数日間、この黒曜峠を限界まで走り込んできたからこそ、嫌でも分かる。あんなラインで走れるわけがない。
コーナーの中、インを完璧な軌道で走るハチロクと、ハチロクがそこにいるせいでアウト側を走るしかないR32が並走していく。
その時だった。
「くっ……肝心な時に!」
またしても、さっきのコーナーで起きた『外側に膨らんでいく現象』に見舞われた。
ステアリングを切っているのに、ノーズがインへ向かない。アテーサE-TSが四輪を駆動させているはずなのに、足元がズルズルと外へ逃げていく。
その不可解なロスが命取りとなった。コーナーを抜けると同時に、ハチロクが鮮やかに私の前へと躍り出た。完全に先行されたのだ。
「でも、まだ直線は残っています! 低速からの立ち上がりで、この子は最強なんです!!」
どうして抜かれたのか分からない。あのジップラインのような不気味なコーナリングの理屈も、車が外へ膨らむ原因も分からない。
だが、そんなことは関係ない。勝負に勝てばよいのだ。
私は次なるストレートに向けて、R32のアクセルを床の底まで踏み抜いた。
「アカリさん! 前!!」
その瞬間。
「あっ……!」
ガンッ! という鈍い衝撃と共に、右のフロントタイヤが何かを激しく踏み抜き、車体がフワリと浮き上がった。
暗闇で見えなかったが、先ほどの温泉開発部の爆発がもたらした岩の破片などの障害物が、こんな麓のエリアにまで飛んできて及んでいたようだ。
右前輪が接地感を完全に失い、その状態で280馬力オーバーのトルクが解放された車体は、アテーサE-TSの制御すらも振り切って猛烈な勢いでスピン状態に陥った。
世界がコマ送りのように回転する。
私は悲鳴を上げそうになるのを堪え、必死にステアリングを回してカウンターを当て、ブレーキとアクセルでどうにか姿勢をコントロールしようともがいた。
タイヤが白煙を上げ、車体が横向きに滑っていく。
迫り来る冷たい鉄の壁。
ガードレールにぶつかるその数センチ手前、奇跡的にR32はピタリと動きを止め、何とか停車に成功した。
エンストした車内に、静寂が降りてくる。
「っ……」
フロントガラスの向こうでは、白黒のハチロクのテールランプが、もう手の届かない遥か遠くの麓へと消えていくところだった。
「…………負けた」
私が、また負けた。
あれほど自分の腕の向上を感じ、絶対に勝てると確信していたのに、最後は結局負けてしまった。
ステアリングに額を押し当てる。
でも、不思議と心の中はすっきりとした気分だった。
絶望的な敗北感よりも、あの中盤以降、この強大な力を持つ怪物と完全に一体化したような感覚を迎えられて、その極限のフルコースを味わえたことが、ひどく嬉しくて良かったと思えた。
負けは悔しい。あのハチロクの理不尽なまでの速さは腹立たしい。
けれど、またリベンジすればいいのだ。美食の探求に終わりがないように、この世界にもまだ限界はない。
私は顔を上げ、隣で静かに息を整えているナビゲーターへ向けて微笑んだ。
「ハルナさん、次はもっとこの子をチューニングしていきましょう。私も、今一度冷静になる特訓をしないといけません」
「ええ。……もしアカリさんが良ければ、この後24時間営業の牛丼屋さんでお食事でもどうですか?」
「ふふっ……良いですね。そこで、この子や美食の話を、しましょう。それはもう、たくさん」
ハルナさんもまた、敗北を喫したとは思えないほど優雅に、そして満足げに微笑んで頷いてくれた。
想定ユーロビート・楽曲
「ハチロクが、消えた……ッ!」
Heartbeat/Natalie