キヴォトスに単身ドリフトしちゃった藤原拓海(30) ~頭文字D Archive Stage~ 作:曇りのち晴れ男
『白黒! 白黒だ!! 美食研究会は来ないぞ!! 白黒が勝っちまった!!』
麓のゴール地点に配置されていたギャラリーからの通信が、黒曜峠の頂上に響き渡った。
その報告を受けた瞬間、展望駐車場に集まっていた生徒たちは水を打ったように静まり返った。あまりにも予想外の結末に、一瞬、何が起こったのかギャラリーたちは分からなかったのだ。
圧倒的なスペックを誇るあの巨大なGT-Rが、ゲヘナの古いハチロクに敗れた。
けれど、数秒の沈黙の後、次第にその事実を理解した群衆の中から、地鳴りのような歓声が沸き上がり始める。
「うおおおおおっ!! すげぇ!!」
「あのバケモノみたいなR32に勝った!!」
「ゲヘナの白黒だ! 最速は白黒だ!!」
「さっきハチロクとか言ってただろ!!」
「ゲヘナのハチロク! ゲヘナのハチロク!!」
熱狂の渦が頂上を包み込む中、私は持っていたタブレットを放り投げんばかりの勢いで両手を天高く突き上げた。アウトローのボスの威厳なんてものは、もうどこかに吹き飛んでしまっていた。
「っっっ……やったぁ~~っ!! ムツキ!! ハルカ!! タクミが勝ったわ!! GT-Rに、勝ったのよ!!!」
私は涙目で跳び跳ねながら、近くにいた二人に向かって両手をぶんぶんと振り回して叫んだ。心臓が早鐘のように鳴り、胃の痛みは嘘のように消え去って、代わりに胸の奥から熱い喜びがとめどなく溢れ出してくる。
全財産を注ぎ込んだ勝負だった。絶対に勝てないかもしれない絶望的な相手だった。それでも彼は、私たちとの約束通り、最高の勝利を引っ提げて帰ってきてくれたのだ。
「あははっ、アルちゃん喜びすぎ~!」
私のあまりの取り乱しように、ムツキがクスクスとお腹を抱えて笑い声を上げる。
その言葉にはたと我に返り、私はバッと自分の顔を両手で覆った。
「えっ、あっ……」
ギャラリーの視線がいくつかこちらを向いていることに気づき、私は慌てて襟を正し、コホン、とわざとらしく咳払いをした。そして、必死に緩みそうになる頬を引き締め、腕を組んで不敵な笑みを浮かべてみせる。
「こほん……。ふふ、勝って当然よ。何せタクミは、私たち便利屋68が誇る最強のドライバーだもの!」
強がってハードボイルドにキメてみせたものの、声は弾み、尻尾があったら千切れるほど振ってしまっているような隠しきれない上機嫌さが漏れ出てしまっていた。
「くふふ……それは、それとして。やっぱりタクミ君、勝ったんだね!」
ムツキが私の見栄っ張りな態度をニコニコと受け流しながら、心底楽しそうにゴール地点の麓の方角を見つめる。
「す、すごいです……やっぱりタクミさんは、すごいです……!! あんなすごい相手に……っ、私、私……!」
ハルカに至っては、両手で顔を覆いながら感動のあまりボロボロと大粒の涙を流し始めていた。彼女の感情の高ぶりも、すでに限界を迎えている。
こんなにも嬉しい夜があるだろうか。
「行くわよムツキ!!」
「えっ」
私は居ても立っても居られなくなり、テンションに任せて、隣にいたムツキの身体をガバッと抱え上げた。
「ハルカ! 手伝いなさい!」
「は、はいっ! アル様!」
社長の命令に条件反射で従ったハルカが、泣き顔のままムツキの足元を抱え上げる。
そうして私とハルカは、勢い余って二人でムツキを胴上げし始めた。
「せーのっ!」
「わ……わしょーいっ……!!」
ふわり、とムツキの華奢な身体が、黒曜峠の夜空へと放り投げられる。
「くふ……え、な、なんで私ぃ??」
宙を舞いながら、ムツキが目をパチクリとさせて不思議そうに声を上げた。
一番頑張ったのはドライバーのタクミと、助手席で命がけのナビゲートをしたカヨコだ。側から見れば彼女が胴上げされる理由など一つもない。
でも……。
「そんなことどうでもいいのよ!」
落下してきたムツキをハルカと一緒に受け止めながら、私は満面の笑みで夜空に向かって高らかに宣言した。
「今夜は宴会よ! タクミとカヨコが戻ってきたら、最高級の焼肉でお祝いするわ!!」
便利屋の資金はハチロクのパーツ代でほとんど底をついているが、そんなことは明日の私が考えればいい。
今はただ、この勝利の余韻を全力で味わうだけだ。冷たかった火山灰の風は、いつの間にか心地よい夜風へと変わっていた。
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
麓のゴールラインとして設定されていたポイントを通過し、オレは右足からスッと力を抜く。
レッドゾーン付近で悲鳴を上げていた4AGの咆哮が、静かな機械音へと落ち着いていく。極限まで張り詰めていた車内の空気が、嘘のようにスッと凪いだ。
ルームミラーを見ても、ガンメタルの巨体が追ってくる気配はない。
勝った。オレは、バケモノみたいなスペックの車と、バケモノみたいに成長するドライバーを相手に、この車で走り勝ったのだ。
ステアリングを握る手にじんわりと汗が滲んでいるのを感じながら、オレはハチロクのスピードをさらに落としていく。
道路の幅が少し広くなっている退避スペースを見つけ、オレはクラッチを踏み込んでサイドブレーキのレバーを強く引き上げた。
リアタイヤが短くスキール音を上げ、車体がコンパスの針を軸にするようにクルリと180度反転する。鮮やかなスピンターンを決めてハチロクのノーズを上り方向へと向け、オレは再び1速にギアを入れて走り出した。
激しいダウンヒルで限界まで熱を持ったブレーキとタイヤを冷ますように、ゆっくりとしたペースでのヒルクライム。
早く頂上へ戻ってやらなくてはならない。あの展望駐車場で、勝敗の行方にハラハラしながら待っている、いつもうるさくてポンコツな社長たちの元へ。
ヒノム火山の火山灰が届かない麓のアスファルトは、タイヤの転がる音すら心地よく感じられるほど静かだった。
そんな穏やかな車内に、ポツリと、助手席から声が落ちる。
「……さっきのって」
カヨコだった。
彼女はアシストグリップから手を離し、少しだけ乱れた白黒の髪を直しながら、前方を見つめたまま問いかけてきた。
主語はない。だが、オレには彼女が何を聞きたいのか、痛いほどよく分かった。バトルの勝敗を決定づけた、最後の連続ヘアピンでのあの一撃のことだろう。
シフトアップしながら、少しだけ懐かしい響きを持つその技の名前を口にする。
「『溝落とし』ってオレは呼んでる」
「みぞ……?」
カヨコが不思議そうに首を傾げる。
「路肩の溝……側溝にイン側のタイヤをわざと引っかけて、遠心力を物理的に殺すんだ。普通ならアウト側に膨らんでいくようなオーバースピードで突っ込んでも、タイヤが溝にガッチリ食いついていれば、嘘みたいにスルスル曲がるぜ」
黒曜峠の最後の連続ヘアピン。あそこには、雨水を流すための深い側溝が剥き出しになっていた。
秋名山で毎日毎日、豆腐を載せて走っていた頃に見つけた、オレとこのハチロクだけの絶対的な必殺技。キヴォトスの峠にも同じような溝があったのは幸運だった。
あのR32のアカリは、コーナーごとに信じられない速度で成長していた。純粋なグリップ勝負や荷重移動の駆け引きでは、いずれ並ばれ、パワーでねじ伏せられていただろう。だからこそ、理屈や車のスペックを完全に無視した『道路の構造そのものを利用する技』で、一気に抜き去るしかなかったのだ。
「溝に、タイヤを落とす……」
カヨコはオレの説明を頭の中で反芻するように呟き、それから信じられないものを見るような目でオレの横顔を見た。
「それくらいやらないと、今のオレじゃ、あのバケモノには勝てなかった」
オレが苦笑交じりにそう返すと、カヨコは呆れたように小さく息を吐いた。
だが、その声にはいつものような冷たさや突き放すような響きはない。
横目でチラリと彼女を見ると、普段は無愛想で感情の起伏を見せないカヨコが、どことなく嬉しそうな、憑き物が落ちたような穏やかな顔をしていたのだ。
窓の外を流れる街灯の光が、車内を等間隔に照らし出していく。
やがて、カヨコは自分の膝の上で両手を軽く組みながら、誰に聞かせるでもないような静かな声で言った。
「クルマなんて興味ない、って思ってたけど」
その言葉に、オレは黙って耳を傾けた。
キヴォトスの生徒にとって、移動手段といえばヘリや装甲車、あるいは適当に拝借した車両など、ただの『足』でしかないのだろう。カヨコ自身も、便利屋の逃走用の足として車の知識をネットで仕入れてはいたが、そこに『好き』という感情はなかったはずだ。
「……」
「タクミのおかげで、車が好きになりそう」
飾らない、素直な言葉だった。
圧倒的なスピードの中で感じた恐怖。横Gに耐えながら見た、限界の先にある景色。そして、絶望的なスペック差を人間の技術と狂気でひっくり返した、あの痛快な瞬間。
そのすべてが、彼女の中に『クルマ』という機械に対する新たな感情を芽生えさせていた。
オレは少し照れくさくなって、鼻の頭を指で掻いた。
こういう時、気の利いた言葉を返すのは昔から苦手だ。
「……まぁ、なんだ」
オレは前を向いたまま、ぶっきらぼうに、それでもオレなりの精一杯の誠意を込めて言った。
「車で分かんねーことあったら、大体教えられるから。いつでも聞いてくれ」
その言葉を聞いて、カヨコは微かに、けれどはっきりと分かるくらいに優しく微笑んだ。
「……うん。よろしく、タクミ先生」
「先生はよしてくれよ」
「藤原先生?」
「言い方の問題じゃねーよ」
オレが顔をしかめると、カヨコは楽しそうに短く笑った。
ハチロクのエンジンが、夜の峠道に心地よい等間隔の排気音を響かせていく。
「ん……」
頂上へ向けて黒曜峠を上っていると、途中の退避スペースでハザードランプを点滅させている車が見えた。
ガンメタルの巨体──さっきまで死闘を演じていたR32だ。
どうやら足腰が緊張の解放で働くのを放棄してしまったらしく、車の後方に三角表示板が置かれようとしていた。
それを組み立てていたアカリが、上ってきたオレのハチロクのエンジン音に気づいて顔を上げる。
凄く恨めしい顔をしているものかと思ったが、彼女は満面の笑みを浮かべていた。
そして、夜の峠道ですれ違うオレたちに向かって、大きく楽しげに手を振ってきたのだ。
オレは少しだけ驚きながらも、窓から右手を出し、軽くひらひらと手を振り返した。
「……いい顔してる」
隣でカヨコがポツリと呟く。オレも同感だった。
群馬の峠で戦っていた頃は、勝負の後はどこか殺伐としていたものだ。
けれど、こういうところが、この世界──キヴォトスのいいところなのだろう。どんなに狂気的な走りをするライバルであっても、彼女たちはあくまで『生徒』なのだ。
バトルが終われば、あんな風にわだかまりもなく純粋な笑顔で接してくれる。
夜風に吹かれながら、オレは不思議な心地よさと共に、確かにそう実感していた。
灰のエリアを抜け、爆発の跡地を慎重に通り過ぎながら、オレたちは一路、頂上の展望駐車場へと向かっている。
あそこにはきっと、ボスの顔をかなぐり捨てて大騒ぎしているアルや、屋台の飯を食い散らかしているムツキ、泣きながらオレの無事を喜んでくれるハルカがいるはずだ。
10年の時を経て、異世界で掴み取った初めての勝利。
オレは左腕の違和感が完全に消え去っていることを確かめながら、仲間たちが待つ場所へ向けて、アクセルを軽く踏み足した。
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
ゲヘナ学園、風紀委員会行政官室。
うずたかく積まれた書類仕事を淡々とこなしながら、私はふとデスクの傍らに置いたスマホへ視線を落とした。
数日前、ゲヘナの生徒たちが利用するSNSで、ある不吉な投稿を見つけていたのだ。
『次の土曜の夜、黒曜峠で車同士のガチバトルをするみたいだ。ヤバい車が走ってるらしい』
「はぁ……いくらゲヘナが無法地帯とはいえ、今度は車でバトルですか……」
私は呆れたように深いため息をつく。
弾丸や爆薬が日常的に飛び交うよりはマシだと思いたいが、それでも血の気の多い生徒たちの無謀運転によって事故の件数が増えれば、ひしゃげたガードレールや標識の修復費用はバカにならない。その事務処理はすべて、風紀委員会の仕事としてのしかかってくるのだ。
「(車、ですか……)」
ふと、私の脳裏に都合の良い妄想がよぎる。
嗚呼、敬愛するヒナ委員長が前線で苦境に立たされた時、私がスタイリッシュな車に乗って華麗に登場し、風紀委員の部隊を率いて助太刀に入る。
助手席のドアを開け、「さあ、お乗りください委員長!」と頼もしく微笑む私。
そんなシナリオがあったら、どれだけ最高だろうか。
「(っと、いけませんね)」
私はぶんぶんと頭を振り、緩みそうになった口元を引き締めて仕事に戻ろうとした。
その矢先。
突然、デスクの上のスマホが狂ったように通知音を鳴らし始めたのだ。
何事かと驚いて画面を覗き込むと、生徒たちのタイムラインが異常な熱を帯びて滝のように更新され続けていた。
『車、買っちった!!』
『ゲヘナのハチロクにあこがれてハチロク買おうと思って検索かけたけど、出てこないのはそもそもハチロクって名前じゃないからなのね』
『S15って響きかっこよくない?』
『私は死ぬまでGT-Rよ!』
『今、どうしようもなく厚揚げが食べたい』
次々とアップされる、中古車の購入報告やスポーツカーへの熱狂。中にはよく分からないつぶやきまで混ざっているが、間違いなく、週末の黒曜峠のバトルが引き金となって、ゲヘナ全土に『空前の走り屋ブーム』が巻き起こってしまっているのだ。
ただでさえ頭の痛い不良生徒たちが、一トンを超える鉄の塊という新たな凶器を手に入れて暴れ回る。
それはつまり、ヒナ委員長の負担がさらに爆発的に増えるということを意味していた。
「……ヒナ委員長の仕事を増やす、などと」
私はスマホをミシミシと音が鳴るほど強く握りしめ、ギリィッと歯ぎしりをした。
「絶対に許しません、ゲヘナのハチロク……!!」
静かな部屋に、私の怒りに満ちた宣戦布告が響き渡った。
数日お休みをいただきます。