キヴォトスに単身ドリフトしちゃった藤原拓海(30) ~頭文字D Archive Stage~ 作:曇りのち晴れ男
あの忌々しいビーチでの逃走劇から数日。
ゲヘナ学園、風紀委員会。今日も今日とて、私たち風紀委員は夜遅くまで終わりの見えない書類仕事とトラブル対応に追われていた。
ただでさえ激務だというのに、最近は輪をかけてイライラして仕方がない。
「この前置いていかれたのも相まって、すごくイライラします……」
誰もいない夜の廊下を歩きながら、私は一人ごちた。
あの時、ゲヘナのハチロクと遭遇した際に確実に制圧するための手段として、わざわざ買った私のブルーのRX-8。
しかし、いまいち操縦できている気がしない事もない、が。少なくとも、あのハチロクとか呼ばれている大昔の量産車両に比べれば、排気量も馬力も段違いなのだ。エリートである私が駆るスポーツカーが、あんな車に敵わないわけがないだろう。
この前、海沿いの交差点で不覚にも撒かれてしまったのは、たまたま私の車の『セカンダリータービン』とかいうのが止まっていたからかもしれない。車のネット掲示板で仕入れた知識だが、そうに違いないのだ。
「(……しかし、本当に走り屋ブームというのは止まるところを知りませんね)」
手元のスマホを見ていると、普段の風紀委員の業務連絡に加えて、SNSのタイムラインには色々な走り屋トピックが滝のように流れてくる。
『他の人がやっているからいいや』という無責任な精神で次々に投稿されている暴走行為の動画や自慢話は、治安維持を司る身として見ていて非常に不愉快になる。
歩きながら、私はある一つの解決策に行き着いた。
「風紀委員である私が、あのゲヘナのハチロクに『勝った』という事実を認識させれば、この馬鹿げた暴走行為も止まるのでは……」
絶対的強者である風紀委員会が、連中が祭り上げている最速のハチロクを下す。そうすれば、ミーハーな生徒たちは間違いなく震え上がり、大人しくなるはずだ。
そう確信した私は、他の些細なトラブル報告に対する返信をこなしながら、足早に駐車場へと歩いていく。
時刻は23時頃。
夜を好む愚かな走り屋たちが黒曜峠に集まっていても、なんらおかしくはない時間だ。
夜風の吹く駐車場に到着し、月明かりに照らされた自分の愛車を見つめる。観音開きのドアを備えた、洗練されたフォルム。
「(嗚呼……ヒナ委員長が移動の手段として選んでくださる私の車……素晴らしいです)」
この助手席や後部座席に敬愛するヒナ委員長をお乗せして、私が華麗にエスコートする。そんな光景を思い浮かべてうっとりとしていた、その時だった。
「どこに行くの、アコ」
ふと、背後から聞き慣れた、けれど今は最も予想外だった声がかけられる。
「す、すみません委員長! 仕事などはすべて引継ぎを済ませていますので……!」
心臓を跳ね上がらせて振り返ると、そこには少し眠たげな目をこすりながら佇むヒナ委員長の姿があった。
「……別に、残って仕事をしろなんて言うつもりはない。けれど、その車に乗ってアコが帰るのは珍しいから」
ヒナ委員長は私のRX-8をちらりと見て、それから小さく息を吐いた。
「……時間も、空いてる。少しドライブをお願いしてもいい?」
頭の中が真っ白になった。ヒナ委員長からの、まさかのドライブのお誘い。普段の私なら、歓喜の涙を流して即座にドアを開け放っているところだ。
しかし、今はヒナ委員長をお乗せしていくわけにはいかない。これから私は、危険極まりない峠道で、あの目障りなハチロクと死闘を繰り広げに行こうとしているのだから。
今ほど、ヒナ委員長と遭遇したくない場面はなかった。
「わ、私は少し、野暮用がありまして……終わりましたら必ずお迎えに上がりますので、待っていただくことは可能ですか?」
「いや、別に、待ってまで行きたいわけではないけれ──」
「待っていただけますよね!」
私はヒナ委員長の言葉を遮るように、一歩詰め寄ってものすごい剣幕でお願いした。風紀委員の威信を懸けたハチロク討伐を諦めるわけにもいかないが、ヒナ委員長からドライブのお誘いなど千年に一度のチャンスなのだ。
「……」
「待っていただけま──」
「待つから早く行ってきて」
あまりの私の必死さに気圧されたのか、ヒナ委員長は呆れたように小さくため息をついて頷いてくれた。
「はい! ヒナ委員長!」
私は力強く返事をすると、逃げるように運転席へと乗り込んだ。
ヒナ委員長をお待たせしているのだ。絶対に負けるわけにはいかない。さっさとあのハチロクを片付けて、大急ぎで委員長を極上の夜間ドライブへお連れするのだ。
私はギリッと強く唇を噛みながらキーを回した。
甲高いエンジン音が夜の駐車場に響き渡る。私は無駄にアクセルを煽って決意を固めると、黒曜峠の闇に向けてRX-8を急発進させた。
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
カンッ! という情けない乾いた音を立てて、オレの投げた矢が無情にも床へと転がり落ちた。
「なんで刺さんねぇんだよ……」
便利屋68の事務所。その壁の一角に貼り付けられた無骨なダーツ盤を睨みつけながら、オレは頭を抱えた。
思いのほか、狙っているところに刺さらない。それどころか、不思議なくらい盤面に矢が刺さらないのだ。ステアリングのミリ単位の修正なら感覚で分かるのに、指先から放たれたダーツは、ただ狙って力任せに投げただけでは盤面で弾かれてどこかへ飛んで行ってしまう。
「くふふ……タクミくん、車の運転はトップレベルでも、それ以外は不器用だねぇ~」
ソファーに腰掛けながら、ムツキが面白おかしくオレをからかってくる。
「次こそは中心に入れてやる……!」
オレがムキになって三本目を投げても、やはり結果は同じだった。
対してムツキは、一体どこでその技術を磨いてきたのか、軽やかなステップと手首のスナップだけで、矢を吸い込まれるように盤面の中心へと突き刺していく。三本すべてを中心に入れる『ハットトリック』と呼ばれる大技すら、まるで息をするように簡単に決めてしまうのだ。
結果は見えていた。陣取りゲームのような『クリケット』とかいうルールの勝負は、ムツキの容赦ない大勝ちで終わってしまった。
「む、ムツキ、もう一回頼む。今度は行ける気がする」
手元に残ったダーツの矢を握りしめ、オレは情けなく再戦を求める。しかし。
「それ言うの、もう3回目~。これで今度、スイーツパラダイス奢ってもらうの決定~!」
「ち、ちくしょおっ……」
スマホのカレンダーを見せつけながらケラケラと笑うムツキを前に、オレはガックリと肩を落とした。
そもそも、ダーツの勝負を受けたのが間違いだったのだ。普段のムツキを見ていれば分かる。いたずら好きで、遊びが好きで、派手でお茶目で活気のあるムツキが、自分が得意じゃない勝負をわざわざ持ちかけてくるわけがなかったのだ。まんまとカモにされたというわけだ。
「涼介さん、ダーツやってたかな……誰かオレに教えてくれェ……」
あの計算高くて完璧な赤城のカリスマなら、ダーツの軌道すらも公道最速理論のように完璧に弾き出せるんじゃないだろうか。そんな現実逃避めいた愚痴が、無意識に口からこぼれ落ちた。
すると。
「ねぇ、タクミ。その、前から時々呟くリョウスケって、誰なの?」
デスクの隅で音楽を聴いていたはずのカヨコが、ふとスマホから目を離して質問してきた。
その声に、オレはビクッと肩を揺らした。
「えっ……」
カヨコのその質問の内容が気になったのか。デスクで難しい顔をして帳簿を睨んでいたアルも、オレにたかるスイーツのメニューを吟味していたムツキも、さらにはハルカまでもが、一斉に作業の手を止めてこちらを向いた。
四つの視線が、興味津々といった様子でオレに突き刺さっていた。
少し気恥ずかしくなって、手に持っていたダーツの矢を無造作にテーブルへ置いて、ぽりぽりと頬を掻く。
「いや、その……オレの口からあの人を紹介するなんて、なんだかちょっとおこがましい気もするけど」
前置きをしてから、オレはゆっくりと、自分の中で絶対的な位置を占めるその人のことを口にした。
「涼介さんは、大げさじゃなくオレの『人生を変えてくれた人』なんだ」
「人生を変えた、人……」
カヨコが、ふと真剣な表情になって呟く。
昔、秋名山で初めてバトルした時は、ただの『すっげぇ速くて頭のいい人』って印象しかなかった涼介さん。その後『プロジェクトD』というチームにオレを誘い、ただの地元の走り屋でしかなかったオレの視界を、一気に世界レベルまで引き上げてくれた。
「あの人は、オレが今ゲヘナのハチロクなんて呼ばれてるみたいに、『赤城の白い彗星』って呼ばれた天才ドライバーだった。それでありながら、同時に恐ろしいほどの理論派なんだ」
「へえ、『白い彗星』……かっこいい二つ名ね。でも、理論派って?」
アルが興味深そうに身を乗り出してくる。
「オレみたいに感覚だけで走るタイプとは正反対で、タイヤのマネジメントからコースの解析、天候、それにドライバーのメンタルや将来のキャリアまで、全部計算して先の先まで見据えてくれてる」
その言葉に、カヨコは納得したように小さく頷いている。
カヨコが興味津々なのが今のところ一番の衝撃だ。
「タクミのあの無茶苦茶な走りを、論理でコントロールする人がいたんだ。それは……すごい手腕かも」
「くふふ、タクミくんを飼い慣らすなんて、そーとーなやり手だねぇ」
「か、飼い慣らすって言うなよ……」
茶化すムツキに反論しつつも、オレ自身、あの人の思考の深さには一生追いつけないと思っている。
正直、年齢を重ねた今でも、あの人の頭の中がどうなってるのかオレには全然想像もつかない。
「今は優秀な外科医をやっているって聞いた。でも、あの人のモータースポーツへの情熱は、昔からまったく消えてないと思う。涼介さんは今、日本……こっちの世界でとんでもなくデカいステージを作ろうとしてると、いつだったか聞いたことがあったな」
「げ、外科医!? 天才ドライバーで、お医者様なの!?」
アルが目を丸くして立ち上がった。
「しかもとんでもなくデカいステージを作るだなんて……な、なんて底知れない大物なの……っ。トップに立つ者として、学ばなきゃいけないことばかりだわ……!」
「あ、あのタクミさんの人生を変えたお方……す、すごいです……もはや神様みたいな存在なんですね……!」
……ハルカに至っては、なぜか拝むように両手を合わせている。
そんな大袈裟な連中の反応に苦笑しながら、オレは窓の外──遠い故郷の空を思い浮かべるように視線を向けた。
「とにかく、ドライバーとしても、人間としても、底知れない魅力とカリスマ性を持った人だよ。オレが一生かけても敵わないし、ずっとその背中を追い続けたい。そう思える、オレにとってたった一人の恩人であり『先生』なんだ」
静かな事務所に、オレの言葉がまっすぐに響いた。
少しの沈黙の後、カヨコがふっと口角を上げる。
「……そっか。あのタクミがそこまで言うなんて、本当にすごい人なんだね」
「くふふっ。キヴォトスの生徒みたいに、タクミくんにも『先生』がいたんだね~!」
「まぁ、そんなところだ」
オレが照れ隠しに笑うと、アルが急に手元のメモ帳をバンッと叩いた。
「決めたわ! 私もそのリョウスケさんを見習って、理論派で底知れないカリスマ性を持つ完璧なボスを目指すわよ!」
「アルちゃん、さっきのFFとFRの違いすら間違えてたのに、理論派になれるの~?」
「むっ、ムツキ! それは言わない約束でしょ!!」
いつものように騒がしくなった事務所の中で、オレは先ほど落としたダーツの矢を拾い上げながら、小さく息を吐いた。
カリスマには程遠いかもしれないが、オレにとっては、この騒がしい連中と一緒にいる時間も悪くない。
ふと、オレはポケットの中にあるハチロクのカギを無意識に弄りながら、事務所のドアノブへ手を伸ばした。
「どこかへ行くの?」
背後からカヨコに声をかけられ、オレは立ち止まった。振り返ると、彼女が心配そうな、それでいて少し探るような瞳でこちらを見つめている。
聞かれて初めて、オレはこれが特に理由もない、ただの気まぐれなドライブ目的だったことを自覚した。
「まー、そうだな……すこし故郷を思い出したいだけだ」
素直にそう答えると、カヨコの表情がわずかに曇った。彼女は少し視線を落とし、迷うように言葉を紡ぐ。
「……そっか。そうだよね。キヴォトスに来てから、どれだけ故郷に帰りたいか、私にはわからない……」
そのひどく沈んだ声色に、オレは慌てて苦笑いを浮かべた。
「そんな重苦しいものではないが……」
オレは頭をポリポリと掻きながら、言葉を探す。
「ただ、なんていうか……夜の静かな時間帯にハチロクのステアリングを握って、エンジン音を聞きながら風を切ってると、昔、一人で走ってた頃の感覚が蘇ってきて、落ち着くんだよ。ホームシックとかそういうんじゃなくて、単なるオレのルーティンみたいなもんなんだ」
「……そうなんだ」
「……もし暇なら、乗るか? ナビ代わりってわけじゃないけど」
オレが何気なくカギをチャラリと鳴らして誘うと、カヨコは一瞬だけ目を丸くした。だが、彼女は小さく首を横に振り、微かに口角を上げて微笑む。
「ううん、遠慮しておく」
「いいのか?」
「うん。今は、タクミ一人の時間の方がいいと思うから」
その表情を見て、なんとなく察する。カヨコはオレの心情を察し、あえて一歩引いて気を利かせてくれたのだ。
「ハチロクと、二人きりで対話してきなよ。……気をつけてね」
その静かで優しい気遣いに、オレは少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……ああ。サンキュー、カヨコ。ちょっとその辺を回ってくる」
事務所を出て駐車場へと向かうと、ゲヘナの夜の空気がひんやりと肌を撫でた。月明かりに照らされた白黒のハチロクが、迎えを待つように静かに佇んでいる。
一人で運転席に乗り込み、キーを捻る。セルモーターの短い回転音に続いて、4AGエンジンが低い産声を上げた。アイドリングの規則正しい振動が、シートを通じて全身に伝わってきた。
「行くか」
オレはハチロクを夜の街へと滑り出させる。
目的地はない。ゲヘナの市街地を抜け、郊外の緩やかな起伏が続く道へとステアリングを向ける。窓を少しだけ開けると、夏の夜の匂いを孕んだ風が車内へと流れ込んできた。
助手席には誰もいない。聞こえるのは等間隔のエキゾーストノートと、タイヤがアスファルトを転がる音だけだ。
この狭い運転席とステアリングがあれば、どこを走っていても自分の居場所に戻ってきたような気がする。それは、異世界であるキヴォトスに放り出されても変わらない、唯一の確かなものだった。
「黒曜峠にも、行ってみるか……」