キヴォトスに単身ドリフトしちゃった藤原拓海(30) ~頭文字D Archive Stage~ 作:曇りのち晴れ男
便利屋68の専属ドライバーとして働き始めてから、いくつか季節が巡るくらいの時間は経った気がする。
あの日、無残な状態になっていたトレノは、オレが徹底的に手を入れ直したおかげで、見違えるようにシャキッとした走りを取り戻していた。
もちろん、パーツ代はタダじゃない。
万年金欠気味らしい便利屋のメンバーたちが、日々の食費や無駄遣いを切り詰めて、タイヤ、サスペンション、エンジンオイル、ブレーキパッドなどの購入資金を捻出してくれたのだ。
グループA仕様のエンジンとまではいかないが、それでも足回りが決まったハチロクは、オレの手足のように素直に動いてくれる。
そんなオレとハチロクの仕事は、便利屋が請け負うアウトローな依頼の「足」になることだった。
このキヴォトスという物騒な世界での依頼は、どれもこれも一筋縄ではいかない。だが、ステアリングを握り、アクセルを踏み込んでいる間だけは、オレの中にくすぶっていた虚無感は嘘のように消え去っていた。
例えば、ある日の依頼のことだ。
ターゲットは、とある悪徳組織に攫われた希少な品種の猫の奪還。
オレたちは依頼人の猫をハチロクに乗せ、工業地帯の入り組んだエリアで敵対組織のバンから逃走していた。
「くふふ……そろそろやっちゃおっかな!」
助手席に座っていたムツキが、突然窓を全開にしてシートの上に立ち上がる。
冗談だろ、と思ったのも束の間、彼女は窓枠に器用に足をかけ、時速100キロ近いスピードで走るハチロクの屋根の上へとスルスルとよじ登ってしまったのだ。
「おいおい……」
オレは思わずアクセルを緩めそうになったが、ここで不用意な加減速をすれば、屋根の上のムツキが慣性で吹き飛んでしまう。
この世界の住人の身体が尋常じゃなく頑丈だということは理解していても、ただの人間であるオレの感覚からすれば心臓に悪いことこの上ない。オレはステアリングをミリ単位で微調整し、ハチロクの車体を徹底的に安定させた。段差をいなし、サスペンションのストロークを殺さないよう、まるで水が入った紙コップをこぼさないように走る時のあの感覚だ。
「便利屋のみんなで節約して買ったタイヤとバネ、すごくいいカンジ! 車の上に乗っても体が流れな~い!」
開けっ放しの窓から、屋根の上にいるムツキの能天気な声が聞こえてくる。
「あんまはしゃいで、落ちるなよォ」
オレが呆れ気味に声をかけると、ムツキはのんきに笑い声を返し、鞄から取り出した特製の爆弾を、後方を走る敵のバンの進路へと正確に放り投げた。
「くふふ……ポップコーンになっちゃえ!!」
凄まじい爆発音が工業地帯に響き渡り、オレンジ色の火柱が上がった。敵のバンは爆風で後輪を浮かせ、そのままバランスを崩して路肩のコンクリート壁へと派手に激突する。
オレはそのまま逃走を続け、敵のバンを振り切った。奪還任務は、ムツキの過激な花火によってあっけなく完了したのだった。
■■■
またある時は、少しばかりキナ臭い抗争に巻き込まれたハルカを救出に向かったこともあった。
依頼の手違いか何かで敵対組織の罠に嵌ったハルカが、廃工場の一角で多勢に無勢のまま包囲され、絶体絶命のピンチに陥っていた時のことだ。
オレはハチロクのアクセルを全開にして、廃工場のシャッターを突き破って乱入。板金はいくらになるだろう。
コンクリートの床。タイヤのグリップは低い。
オレはシフトを1速に叩き込み、ステアリングをフルロックまで切り込んだまま、クラッチを蹴り飛ばしてアクセルペダルを床まで踏み抜いた。
後輪が甲高い悲鳴を上げ、凄まじい勢いで空転を始める。
いわゆる「定常円」というやつだ。ハチロクはハルカのいるポイントを中心にして、コマのようにその場で円を描きながらスピンターンを繰り返す。
摩擦で焼け焦げたタイヤから、真っ白な煙が大量に噴き出した。ゴムの焼ける強烈な匂いと共に、あっという間に廃工場の中は視界ゼロの濃密な煙幕に包み込まれる。
「ゲホッ、ゴホッ! な、なんだこの煙は!?」
「前が見えねぇ! 撃て、適当に撃ちまくれ!」
敵のチンピラたちが咳き込み、混乱して無差別に発砲し始める。
オレは煙の濃さと敵の射線を計算しながらハチロクをコントロールし、ハルカのすぐ真横でドアを開けた。
「乗れ、ハルカ!」
「タ、タクミさん……!」
涙目で座り込んでいたハルカが、転がり込むようにして助手席に飛び乗る。
オレは定常円の遠心力を利用してそのまま車体の向きを変え、煙幕の中からロケットのように飛び出して廃工場を脱出した。
追手が来ないことを確認し、そのまま一定の速度で便利屋のアジトへの道をたどる。
「た……助かりました、タクミさん……」
後部座席で息を整えながら、ハルカが消え入るような声で頭を下げる。
「困ったときゃ、お互い様だ」
アウトローの真似事をしていても、こういう時の彼女たちは年相応の女の子にしか見えない。
だが、安堵したのも束の間。外の空気を吸うために少しだけ開けていた窓から、焦げたゴムの匂いが車内に入り込んでくると、ハルカの顔色がサッと青ざめた。
「で、でも……今の動きでせっかく買ったタイヤが傷んじゃいましたよね……」
ハルカは両手で顔を覆い、ブツブツと呪文のように呟き始めた。
「私のせいで……っ。皆さんでお金を出し合って買った、大事なタイヤが……っ。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい死んでお詫びを……!!」
言うが早いか、ハルカは懐からおもむろに愛用のショットガンを取り出し、自分自身の頭に銃口を向けようとしたのだ。
「オレが助けた意味なくなるじゃね~か! ってオイ! 車ん中で銃を抜くなァ!」
オレは慌ててシフト操作を放棄した左手を使い、彼女のショットガンを全力で押さえ込んだ。
タイヤなんて消耗品だ。溝がなくなったらまた安い中古タイヤを探せばいい。命を張って守るようなもんじゃない。
だが、この生真面目で極端すぎる少女を説得するには、オレの語彙力はあまりにも貧弱すぎた。その日は帰りの道中ずっと、泣きながら謝り続けるハルカをなだめるのに悪戦苦闘することになった。
■■■
そんな騒がしい日常の中で、一番オレを呆れさせたのは、間違いなくこの組織の自称・冷酷なアウトロー社長──アルとのドライブだった。
「ふふん。タクミ、今日は私が直々に助手席に乗って、あなたのドライビングスキルを査定してあげるわ」
ある日の午後。特に急ぎの依頼もない暇な時間に、アルはどこから持ち出してきたのか分からないサングラスをかけ、無駄にスタイリッシュなポーズを決めてハチロクの助手席に乗り込んできた。
ワクワクしているのが隠しきれていない。どうやら、映画か何かで見るような華麗なカーチェイス気分を味わいたいらしい。
「別にいいけど……前はあんなに悲鳴上げてたのに、飛ばしていいのか?」
「ハードボイルドにはそれくらいがちょうどいいのよ」
それなら、とオレはハチロクを郊外の山道──適度なアップダウンとタイトなコーナーが続く、ゲヘナの自治区のはずれにある峠道へと持ち込んだ。
窓を開け、風を入れる。
路面状況は悪くない。オレはギアを落とし、エンジンの回転数を高値でキープした。
一つ目のコーナーが迫る。
ブレーキを残しながらステアリングを切り込み、リアの荷重を抜く。タイヤがスキール音を上げ、車体が横向きにスライドを始めた。
「ひゃあっ!?」
助手席から、ハードボイルドとは程遠い情けない悲鳴が上がった。
横Gがアルの身体を容赦なくドア側に押し付ける。バケットシートではない純正の平らなシートでは、身体を支えるのがやっとのはずだ。
コーナーを抜け、すぐに次のコーナーへのアプローチに入る。
今度は左コーナー。先ほどとは逆方向への強烈な横Gと、慣性ドリフトによる揺さぶりが襲いかかる。アクセルワークで角度を調整し、ガードレールすれすれのラインを綺麗にトレースして駆け抜けた。
立ち上がりでアクセルを踏み込む。
ふと、助手席が妙に静かになっていることに気がついた。
「アル、大丈夫か?」
声をかけて横を見ると、そこには無惨な光景が広がっていた。
アルは白目を剥き、口からふわりと魂が抜け出ているような顔で、完全に失神してシートに突っ伏していたのだ。
サングラスはズレて鼻眼鏡のようになっており、アウトローの威厳など微塵も残っていない。時間にしてわずか数分。コーナーをたった二つ抜けただけでこの有様だ。
「(池谷先輩よりひで~……)」
かつて、オレの横乗りをして恐怖のあまり気絶した地元の先輩の顔が脳裏をよぎったが、アルの気絶の早さはそれを遥かに凌駕していた。
オレは深い溜息をつき、ハチロクのスピードを安全運転の領域まで落とした。
銃弾が飛び交い、爆発が日常茶飯事のイカれた世界。
だが、このちょっとズレていて騒がしい便利屋の連中と過ごす日々は、不思議とオレの性に合っていた。
二度と本気で走れないと思っていたオレの身体は、このキヴォトスで再びハチロクと共に、新しい道を走り始めている。
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キヴォトスに来てから、2回目の夏が訪れた日。
容赦なく照りつける太陽が、アスファルトの上にゆらゆらと陽炎を立たせている。
ゲヘナ学園の郊外、見晴らしの良い高台へと続く一本道の途中に、オレはハチロクを停めていた。
吹き込んでくる風は生温かく、少しばかり硫黄の匂いが混じっている気がする。
今日の依頼をこなすため、オレと、助手席に座るカヨコは、ターゲットがこの道を通るのをじっと待機していた。
車内には、アイドリングの微かな振動と、遠くで鳴くセミの音に似たノイズだけが響く。
カヨコは少し暑そうにしていたが、文句一つ言わず、膝の上に置いた銃にそっと手を添えながら、静かに外を眺めていた。
「前から思ってたけど。それは何?」
不意に、カヨコが視線をダッシュボードの中央へと向けた。
彼女の細い指先が指し示していたのは、後付けの安っぽいドリンクホルダーと、そこに収まっている一個のありふれた紙コップだった。
中には、半分ほどの高さまで水が入っている。
「これは……。リハビリかな」
オレはステアリングを軽く撫でながら、ぽつりと答えた。
カヨコが怪訝そうに首を傾げる。無理もない。ただの紙コップに入った水が、どうして車の運転のリハビリになるのか、普通の人に分かるはずがない。
「紙コップに入れた水を、こぼさないようにドリフトするんだ。こう、うまく言えないけど、コップのふちを回すようにドリフトするのがコツなんだ」
オレは右手で架空のコップを持ち、中に入った水が遠心力とGによって、ふちのギリギリをぐるぐると回るようなジェスチャーをして見せた。
ブレーキングからステアリングへの荷重移動、横Gのコントロール。車体にかかるすべての力を完璧に把握し、タイヤのグリップの限界をなぞるように走らなければ、水はあっという間にこぼれて車内を濡らしてしまう。
中学生の時に秋名の峠を毎朝走っていた頃、親父に強要されて身についた、オレの原点。それがこの紙コップだ。イギリスでの事故以来、身体の感覚がどこまで戻っているのか、それを測るためのバロメーターとして、こっそりとこの世界でも再開していたのだ。
「え、今までの依頼、それをずっとやってたの……?」
カヨコの声が、信じられないものを見るような響きを帯びていた。
いつもは冷静沈着で表情一つ変えない彼女が、今のオレの言葉を聞き、目を細めてドン引いている。
「俺も全然腕が鈍ってるからな……。昔みたいに一滴もこぼさずに走るのは、まだちょっとキツい」
オレが苦笑しながら答えると、カヨコは完全に言葉を失ってしまった。
運転手が『紙コップの水をこぼさないミニゲーム』に真剣になっていたという事実は、もはや狂気の沙汰にしか見えなかったのだろう。
気まずい沈黙が流れる中、遠くの市街地の方角から、ドォン、という鈍い爆発音が微かに響いてきた。
オレは特に気にするでもなく、ステアリングのリムを指先でなぞりながら前方を見据え続ける。
「……タクミも、ずいぶんこの街に慣れたよね」
ふと、カヨコが呆れと感心が混ざったような声を出した。
「最初はあんなに銃声にビクビクして、物陰に隠れようとしてたのに。今じゃ遠くで爆発音が鳴っても、水が入った紙コップの心配しかしてない」
「まァな……」
オレはポリポリと頬を掻いた。
正直、自分でも驚いている。最初は完全にイカれた世界だと思ったが、人間の適応力というのは案外すごいものらしい。彼女たちがちょっとやそっとの銃弾じゃ死なない頑丈な生き物だと理解してからは、日常的に飛び交う発砲音も、今ではただの『少し物騒な生活音』くらいにしか感じなくなっていた。
「そういうカヨコたちのおかげだよ。ここに拾ってもらってなかったら、オレ、今頃どうなってたか分かんねェし」
オレが素直に感謝を口にすると、カヨコは少しだけ目を伏せ、核心を突くような静かな声で言った。
「タクミ、もしかして、だけど。便利屋の仕事、少し嫌でしょ」
「……」
図星だった。
ステアリングを握る手に、思わず力が入る。
あの日、異世界に放り出され、絶望のどん底にいたオレを、便利屋68の連中は拾ってくれた。相棒であるハチロクに乗る理由をくれ、生活の面倒まで見てくれた。彼女たちにはいくら感謝してもしきれない。
ムツキのイタズラも、ハルカの極端すぎる生真面目さも、アルの背伸びしたドジも、カヨコの静かな優しさも、便利屋のみんなが嫌いなわけじゃない。むしろ、こんなオレを仲間として受け入れてくれた彼女たちのことは、大切に思っている。
けれど、オレはただの走り屋であり、元々はしがない豆腐屋の息子だ。
彼女たちの仕事は、所謂『裏社会』と呼ばれる人たちと関わること。抗争に加担し、ターゲットを襲撃し、依頼を遂行する。
確かに彼女たちは便利屋をうたいながらその『一線』を超えることは決してない。
しかし、危険には慣れ、銃で撃たれても簡単には死なないのだと頭で理解しても、オレはそんなことに手を染めてしまって良いのか。ステアリングを握りながら、心のどこかで常にブレーキをかけている自分がいた。
「まァ、『人を撃つ』ことを手伝って気持ちよくはねーな……」
嘘をつくのをやめ、素直に本音をこぼした。
オレの仕事は運転するだけだ。引き金を引くのは彼女たちだ。だが、逃走用の足を確保している時点で、共犯であることに変わりはない。オレのハチロクは、人を傷つけるための道具じゃない。そんな青臭いプライドが、心の奥底でずっとくすぶっていたのだ。
「安心して」
オレはカヨコの方を向くが、カヨコはこちらに目を合わせず、フロントガラスの向こうをぼーっと見ながら話す。
その横顔は、いつもより少しだけ柔らかく、どこか誇らしげに見えた。
「社長もそのことには気づいてる。だからタクミには、今後そういう仕事は手伝ってもらわず、もっと穏便に平和な依頼を受けるようにするって言ってたから」
「……そりゃ、また。気を遣わせちゃって申し訳ない」
オレは思わず息を呑んだ。
あのアウトローを自称してやまないアルが、オレ一人の感情のために、組織の依頼の方向性を一部変えるというのだ。
稼ぎが減るかもしれない。アウトローとしての箔が落ちるかもしれない。それでも、彼女はオレの胸の内にあった抵抗感を察して、見えないところで動いてくれていた。
「気を遣ってるわけじゃない。『タクミだけが気持ちよく働けないなんて不公平』なんて、社員全員を背負う社長なりの信念だから」
大きく息を吐き出し、天井を仰ぐ。
本当に、どうしようもないくらいお人好しで、真っ直ぐな連中だ。悪ぶってはいるが、根っこにあるのは優しさと、仲間を絶対に切り捨てないという不器用な信念。
そんな彼女たちの不器用な優しさに触れて、オレの心の中にあったわだかまりが、夏の暑さの中でスッと溶けていくのを感じる。
「タクミの苦手な仕事はこっちで私たちで解決する。そういう仕事は、これが最後だから、よろしくね」
重たい排気音が、すぐそこまで迫ってきていた。
給食部のトラックが近づく音が聞こえる。もう少しでこの道路を通り抜け、オレたちの目の前を横切るはずだ。
「それに私も、タクミの運転に興味があるんだ。今度、クルマについて教えてよ」
ふと、カヨコがこちらを見て、そうつぶやいた。
彼女の瞳が、真っ直ぐにオレを捉えている。銃や爆薬ばかりが飛び交うこの世界で、純粋に『クルマ』という機械に、そしてオレの運転技術そのものに興味を持ってくれたことが、理屈抜きに嬉しかった。
沈んでいた気分は、もうどこにもない。
余計な迷いは消え去った。仲間たちが、オレの背中を押してくれている。
あと、やるべきことはただ一つ。
『このハチロクで全盛期を取り戻す』こと。
「……出すぞ」
いつの間にか浮いていた左足でクラッチを再度蹴り込み、シフトノブを1速へと叩き込む。
アクセルを煽り、タコメーターの針を跳ね上げさせた。
紙コップの水を一滴もこぼさず、最速で、かつ最大に美しいラインで。オレは、信頼できる仲間を乗せたハチロクのクラッチを一気に繋いだ。