キヴォトスに単身ドリフトしちゃった藤原拓海(30) ~頭文字D Archive Stage~ 作:曇りのち晴れ男
至る所で銃撃戦の音が微かに響き、硝煙の匂いが絶えないゲヘナ学園。ここは、混沌こそが日常として受け入れられている無法と自由の学び舎である。
遠くで鳴り響く機関銃の連射音も、路地裏から立ち上る黒煙も、私たちゲヘナの生徒にとっては朝の小鳥のさえずりや、穏やかな朝靄のようなものに過ぎない。血の気の多い生徒たちが繰り広げる小競り合いを横目に、私は優雅に息を吸い込んだ。
空気中に漂う硫黄と火薬の匂い。しかし、そんな荒れ果てた風景の中であっても、究極の『美食』を探求する私たちの情熱が冷めることは決してない。むしろ、この過酷な環境こそが、私たちの舌と胃袋を刺激する最高のスパイスとなっているのだ。
「それでは、失礼します!」
そう、この私。黒舘ハルナが率いる美食研究会には立ち止まるという概念などない。
「こらハルナぁぁぁぁっ!!」
「また美食研究会ですか!?」
鼓膜を震わせる特大の爆発音が轟く。
濛々たる黒煙と粉塵を切り裂くようにして、一台の無骨な輸送用トラックが宙を舞い、勢いよく表通りへと飛び出す。
「大成功ですね、ハルナさん★」
横でハンドルを握るアカリさんが、まるで遊園地のアトラクションにでも乗っているかのような無邪気な声を上げた。トラックが着地した瞬間、凄まじい衝撃がキャビンを襲い、車体が大きくバウンドする。普通ならば舌を噛み切るか、サスペンションが完全に壊れてもおかしくないほどの落差だったが、頑強なゲヘナ製の軍用トラックは悲鳴を上げながらもどうにか持ちこたえた。
トラックの荷台には、給食部を襲撃して獲得した貴重な食材の数々がたっぷりと積まれている。
数年に一度しか市場に出回らないという幻の霜降り肉、ゲヘナの火山周辺でしか採取できない特級の香辛料、それに加えて、瑞々しい山の幸と海の幸。本来であれば、これらの一級品はフウカさんの手によって大鍋で雑煮のように煮込まれ、あるいはジュリさんの手によって意思を持つ未知の生命体へと変異させられていたことだろう。
そのような悲劇は、美食を愛する者として到底見過ごすことはできない。彼らを真の美食へと昇華させるため、私たちはやむを得ず、こうして給食部の備品であるトラックごと強奪するに至ったのである。
「それにしても、見事な爆発でしたね。まさか給食部の倉庫にあれほどの可燃物が眠っていたとは」
「ジュリさんの試作品が反応したみたいですね。おかげで派手な目くらましになりました」
アカリさんはアクセルをベタ踏みしたまま、機嫌よく答える。風を切って悠々自適に走っていた矢先、サイドミラーに騒がしい影が幾つも映り込んだ。
ファンッ、ファンッ、というけたたましいサイレンの音が、後方から急速に近づいてくる。
『前方の給食部車両! 直ちに停車しなさい! あなたたちが美食研究会であることは既に分かっている!』
拡声器を通した威圧的な声。ルームミラー越しに見えるのは、風紀委員会のエンブレムを掲げた黒塗りの装甲車両だ。それも一台や二台ではない。土煙を上げて猛追してくるその陣容は、ちょっとした小隊規模に匹敵している。
乾いた発砲音が連続して響き、私たちの乗るトラックの荷台や後部バンパーに銃弾がパラパラと着弾した。火花が散り、金属が弾ける不快な音がキャビンにまで響いてくる。
後続の風紀委員の車両は、統率の取れた動きで私たちのトラックを左右から挟み込もうと陣形を展開し始めている。以前であれば、少人数のパトロール部隊が徒歩で追いかけてくるか、せいぜいサイドカーが一台張り付く程度だったはずだ。それが今や、専用の追跡車両を何台も投入しての組織的な包囲網である。
私はサイドミラーに映るその物々しい武力と、徐々に距離を詰めてくる風紀委員の追跡部隊を冷静に考察し、小さく息をついた。
「……最近、風紀委員の保有する車両が増えましたね。少しはしゃぎすぎてしまったでしょうか」
私たちの美食への探求心が、ヒナ委員長をはじめとする風紀委員会の予算配分や装備の拡充に少なからぬ影響を与えてしまったのかもしれない。そう考えると少しばかりの申し訳なさも湧いてくるが、これもまた美味しい食事にありつくための必要経費である。美食のためならばいかなる障害も乗り越えるのが、私たち美食研究会の流儀なのだから。
私の呆れたような呟きを聞いたアカリさんは、一切の動揺を見せることなく、むしろこの危機的状況を心底楽しむように口角を吊り上げた。
「でも……私には追い付かせませんよ★」
言うが早いか、アカリさんはギアを強引に叩き込み、ステアリングを限界まで切り込んだ。
トラックの巨体が悲鳴を上げ、路面の砂利を蹴り立てて猛烈な加速を見せる。風紀委員の車両が放った跳弾がフロントガラスを掠め、クモの巣状のヒビが入るが、アカリさんの瞳に宿る好戦的な光はさらに増していくばかりだ。
「さあ、お食事の時間まで、極上のドライブを楽しみましょうか!」
アカリさんは、フロントガラスを拳でたたき割り、視界を確保する。
そのままアクセルを乱暴に踏み込むと、トラックは車体を大きく揺らしながらゲヘナ市街地の奥へと飛び出していく。吹き荒れる硝煙の匂いと、背後から迫るサイレンのコーラス。
今日の『美食』を味わうための道のりは、極上のスパイスに彩られた、少々騒がしいものになりそうである。
ゲヘナ学園の郊外を抜け、私たちの乗る強奪した給食部のトラックは、徐々に建造物が密集する市街地へと進入していく。
道幅は狭まり、見通しの悪い交差点や入り組んだ路地が連続する。トラックにとって決して走りやすい環境ではないが、ハンドルを握るアカリさんの横顔に焦りの色は微塵もなかった。
「ふふっ、フウカさん特製の霜降り肉……無事に死守できそうですね!」
アカリさんは鼻歌交じりにステアリングを左右に切り返し、狭い路地を信じられない速度で縫うように走っていく。
「ええ、アカリさんさん。あなたのその豪快かつ繊細なドライビングスキルには、いつも感服させられます。おかげで荷台の食材たちも、傷つくことなく極上の調理の時を待つことができるというものです」
「任せてください★ 美味しいものを食べるためなら、私、どんな道だって最速で駆け抜けますから」
これまでの数多の『美食』探求活動において、アカリさんは何度もこの重たいハンドルを握り、あらゆる追跡を振り切ってきた。その実力はお墨付きであり、早々に追いつける車など、このキヴォトスにそうそういるわけがない。
事実、バックミラーに映っていたはずの風紀委員の車両群は、複雑な市街地のルートを高速で駆け抜けるアカリさんのペースに全くついてこられず、あっという間にその姿を消し去っていた。けたたましいサイレンの音も、今では遠くのノイズとして微かに聞こえる程度。
「どうやら、あの騒がしい風紀委員の方々も諦めてくださったようですわね。これでゆっくりと、次なる美食の舞台へ──」
私が安堵の息を吐きながら、ふとルームミラーに視線を戻した時のことだった。
完全に引き離したはずの暗がりの奥で、不自然に揺れる二つの光。ヘッドライトが一台分だけ、まるで闇夜に光る猛獣の目のように、私たちのトラックの背後にピタリと張り付いているのを発見したのだ。
「……アカリさん、一台追ってきてます」
「え?」
私の言葉に、アカリさんが意外そうに声を漏らし、一瞬だけルームミラーに視線を走らせる。
「珍しいですね。アカリさんの運転する車両に、この市街地で追いついてくるなんて」
「本当ですね……。見たところ風紀委員の車ではありませんが、ここまでついてくるなんて、中々骨のあるドライバーじゃないですか」
アカリさんの瞳に、美食を前にした時とはまた違う、好戦的な火が灯った。彼女はシフトレバーに手をかけ、楽しげに口角を吊り上げる。
「じゃあ、久しぶりに本気で行きますよ★」
「おっと」
トラックのエンジンが、これまでとは質の違う獰猛な唸り声を上げた。
私は急いでドアの取っ手と頭上のアシストグリップを両手でしっかりと握りしめ、来るべき暴力的な挙動に備える。
「アカリさん! くれぐれも荷台の特級香辛料をこぼさないでくださいね!」
「善処します! さぁ、しっかり掴まっててくださいね、ハルナさん!」
前方に迫るのは、建物を縫うような鋭角の直角コーナー。本来であれば、この質量のトラックが曲がれるはずもないオーバースピードだ。しかしアカリさんは減速を最小限に留め、コーナーの進入と同時にハンドルを極端に強く、そして鋭く切り込んだ。
「いきますよぉーっ! せぇーのっ!」
けたたましいスキール音が市街地に響き渡る。
突然進行方向を捻じ曲げられたトラックは、物理法則の限界を超え、巨大な後輪がグリップを失ってアスファルトの上を滑り始めた。
ドリフト。
車両が持つタイヤの摩擦の限界を意図的に突破させ、車体を横滑りさせながらコーナーを駆け抜ける高度なドライビングテクニック。遠心力と慣性をねじ伏せ、アクセルとステアリングのバランスのみで姿勢を制御するその行為は、言うなれば暴れ狂う鉄の塊を力でねじ伏せる『舞踏』である。
車体を完全に横に向けたままコーナーを滑っていくアカリさんの操作は、まさに芸術的と言っても過言ではなかった。
「どうですかハルナさん! 完璧なコーナリング──」
「アカリさん、後ろ……っ!」
私はサイドミラーに映る光景に、思わず息を呑んで声を上げた。
こちらのトラックが横滑りしながらコーナーを立ち上がろうとしているそのすぐ真後ろ。あのヘッドライトが、まだピタリと張り付いていたのだ。それどころか、アカリさんがドリフトするのに完全にタイミングを合わせ、その後続車両もまた、美しい姿勢で横滑りしながらコーナーへ飛び込んできているではないか。
「なっ……!」
アカリさんが珍しく動揺の声を漏らす。
「嘘でしょう!? 同じスピードで突っ込んでくるなんて……!」
「いや……同じどころか、アカリさんよりも……!」
市街地の連続するコーナーを、二台の車両が白煙を上げながら滑り抜けていく。
私が戦慄したのは、ただついてきているからではない。その後続車両の描くラインが、アカリさんのそれより遥かに、異常なほどに精密だったからだ。
アカリさんのドリフトも素晴らしい。彼女は目測で、ガードレールからおよそ20センチほどの距離を完璧にトレースしている。一般的な車両であれば、それだけでも接触を覚悟するほど近い、狂気の領域だ。
しかし、背後を追走するその車は違った。
「(正気ですか……そんなに寄せて走るなんて……!)」
「ハルナさん、あれ……ガードレールから5センチも離れてないのでは……!?」
「ええ。まるで路面の定規をなぞっているかのような、狂気的なまでの精密さです……!」
火花が散るか散らないかという極限のクリアランスを維持したまま、微塵の恐怖も感じさせない冷徹な操作。あれはもはや運転技術という枠に収まるものではない。車両の限界を完全に掌握し、デジタルな精度で車を操る『怪物』だ。
脳みそで嫌でも理解できる。あれほどの次元のコントロールができるドライバーが相手では、アカリさんの腕をもってしても、いつか必ず追いつかれる。
「くっ……離れない! ストレートで並ばれます!」
「追いつかれた……ッ!」
長い直線に差し掛かった途端、後続車はスリップストリームから抜け出し、猛烈な加速で私たちの横へと並びかけてきた。
「そんな……確かにゲヘナの量産車両なのに……っ。どうしてあんな加速が……!?」
アカリさんが驚愕に目を見開く。真横に並んだその車は、風紀委員の車両ではない。見覚えのある『Ⅵ』と『Ⅷ』があしらわれた無骨な白黒の車。とうの昔に型落ちしたはずの旧型車だ。
確かあれは、昔から積み重ねられてきたゲヘナの量産車両の設計図、その86番目の──。
「アカリさん! 助手席から誰か出てきます!」
「ええっ!?」
並走する車の助手席の窓がスルスルと開き、強風にあおられながら身を乗り出してきたのは、白と黒の髪を無造作に伸ばした少女だった。便利屋68の一人、鬼方カヨコ。
「偶然、仕事先が被っただけ。恨むなら運命を恨んで」
彼女は容赦のない横Gに煽られながらも、その表情には一切の焦りも、敵意すらも浮かんでいない。ただ冷淡に、極めて事務的な作業をこなすかのように、手にした愛用の銃を構え、その照準を正確にこちらへと向けていた。
カヨコさんはただ静かに、冷たい瞳で私たちのトラックのフロントタイヤを見据え──一切の無駄を省いた動作で引き金を引く。
強烈なGに耐えながら放たれた寸分違わぬ精密射撃。乾いた発砲音が轟き、弾丸がトラックの右フロントタイヤを的確に撃ち抜く。パンッ、という破裂音と共に、ゴムの破片が四散した。
「くっ……!」
「きゃあああっ!?」
前輪のグリップを突如として失ったトラックは、悲鳴のようなスキール音を上げながら完全に制御を失う。
車体が大きく傾き、アスファルトを削りながら無様にスピンを始める。激しい横揺れと遠心力に、私は咄嗟に目を閉じ、衝撃に備えた。
「アカリさん! 荷台の食材が……!!」
「ごめんなさいハルナさん! もう制御できませんっ!」
どれだけの時間、地面を滑っただろうか。
やがてトラックが白煙を上げて完全に停止した時、私たちの周囲には、遥か彼方後方から必死に追ってきていた風紀委員の車両群がようやく到着し、けたたましいサイレンを鳴らしながら私たちを包囲し始めていた。
「あらあら……捕まってしまいましたね」
アカリさんがハンドルに突っ伏して、悔しそうに息を吐く。
私はひび割れたフロントガラス越しに、前方へと視線を向けた。
カヨコさんを乗せ、あの狂気じみた運転技術で私たちを仕留めた便利屋の車は、すでに市街地の奥、陽炎の向こうで小さな点となって離れていくところだった。ターゲットを止めるという自分たちの仕事は終わったとばかりに、一切の未練なく走り去っていくその後ろ姿。
「……やって……くれましたね……」
私は降参の意を示すように両手を軽く上げながら、点となって消えていくあの車の『正体不明の天才ドライバー』へ向け、半ば感嘆の息を漏らしながら小さく呟いたのだった。
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