キヴォトスに単身ドリフトしちゃった藤原拓海(30) ~頭文字D Archive Stage~ 作:曇りのち晴れ男
鼓膜を劈くような凄まじいスキール音と、視界を真っ白に染め上げるゴムの焼ける煙。
便利屋68の事務所近くにある、だだっ広い未舗装の空き地。オレはそこで、ハチロクのステアリングをフルロックまで切り込み、アクセルを一定に保ちながら定常円旋回を繰り返していた。
「あはははっ! すごいすごーいタクミくん! もっと回して回してーっ!」
強烈な遠心力で外側に振り落とされそうになりながらも、ハチロクのルーフの上に器用に張り付いたムツキが、開け放たれた窓から顔を覗かせてケラケラと笑い声を上げている。
「落ちても知らねーぞー」
オレは呆れ半分に声を返しながら、ミリ単位のアクセルワークで車体のスライドをコントロールし続ける。生徒の頑丈さを差し引いても、屋根の上に乗った人間を振り回すなんて正気の沙汰じゃない。だが、突然ムツキから「どうしてもハチロクの上で遠心力を体験したい」と拝み倒され、結局こうして付き合わされているのだ。タイヤを消耗するという点ではあまりやりたくない遊びではあるが、たまにはいいかと思いやってみた次第だ。
キヴォトスの価値観に慣れすぎて、自分もおかしくなってきた気がする。
「くふふ……まるで遊園地のコーヒーカップみたい!」
「こんなやかましいコーヒーカップがあるかよ」
オレが苦笑しながらもう一周回ろうとした、その時だった。
「ちょっ、ストーーーップ!! 何やってるのよあなたたちぃ!!」
事務所の方から、コートを脇に抱えながら白目で猛ダッシュしてくるアルの姿が見えた。
オレは慌ててクラッチを蹴り飛ばし、ブレーキを踏んでハチロクの動きをピタリと止める。もうもうと立ち込めていた白煙が風に流されていく中、アルが涙目でこちらに詰め寄ってきた。その後ろから、いつものように涼しい顔をしたカヨコがゆっくりと歩いてくる。
「げほっ、ごほっ……! ちょっとタクミ! ムツキ! こんな所で何してるのよ!? 近所迷惑でヴァルキューレに通報されたらどうするの!? それに、血の滲むような思いで節約して買った大事な社用車のタイヤが減っちゃうじゃない!!」
アルはルーフからヒョイッと飛び降りたムツキと、運転席から降りてきたオレに向かって、両手をバタバタと振り回しながら抗議した。
「あはは、ごめんごめん。でもすっごく楽しかったよ、アルちゃんも乗る?」
「乗らないわよ!! もう、社長の私が目を離した隙にこれなんだから……!」
ムツキの能天気な返しに、アルがキーキーと声を上げる。その後ろから、カヨコが呆れたような顔で近づいてきた。
「……本当に、二人ともやかましいんだけど。事務所の方まで音が響いてた」
「悪い。ムツキがどうしてもって言うから、ちょっと車を回してたんだ」
いつもの賑やかなやり取りに、オレは思わず苦笑をこぼしてしまった。あーだこーだと考えるより、こうして他愛のない掛け合いをしている方が、ずっと気が楽だ。
「そういえば」
カヨコがふと、手に持っていた一通の封筒をオレの方へと差し出した。
真っ白で、上質な和紙のような素材。ご丁寧に赤い蝋のシーリングスタンプまで押されている。
「これ……なんか宛名がよく分からないんだけど。多分タクミのことだよね」
オレは首を傾げながら、その封筒を受け取った。
そこに書かれていた宛名を見て、オレは思わず目を丸くした。
『便利屋68のハチロク様へ』
ハチロク。
間違いない、オレのことだ。本来あの車はこの世界で『量産車両』などと呼ばれているはずなのに、わざわざこう書くあたり、俺を狙ったものとしか思えない。
封を切り、中に入っていた便箋を広げる。そこには、流麗で品のある筆致で、こう書かれていた。
『次の土曜日、23時頃に黒曜峠の頂上に来てください。そこで峠道を下るバトルを申し込みます。お返事は、その場所に訪れるという形にてお願いいたしますよう。 黒舘ハルナ』
「……バトル」
オレの口から、自然とその単語がこぼれ落ちた。
「なんて書いてあったの?」
怒っていたのも忘れ、興味津々といった様子でアルが身を乗り出してくる。カヨコもオレの横から、便箋の文面を覗き込んだ。
「黒舘ハルナ……美食研究会のリーダー」
「美食研究会?」
「ほら、この間のトラック」
「あぁ、あの」
「美食研究会!? どうして美食研究会が、うちに果たし状を送ってくるのよ!?」
「果たし状っていうか……挑戦状だな」
オレは便箋を見つめながら、遠い昔の記憶を呼び起こしていた。
かつて元の世界で、こうしてバトルを申し込まれることが多々あった。形は違えど、これはオレにとって、あまりにも慣れ親しんだ『峠のバトルの申し込み』でしかない。
まさかこの異世界で、しかも銃火器を振り回す女の子から、純粋な車のバトルの挑戦状を受け取ることになるなんて。
「この間の件でリベンジのつもりなのかな……どうするの?」
カヨコが、探るような視線でオレの顔を下から見上げてきた。
「……やってみるか」
オレの身体は、少しの迷いもなくそう答える。
黒曜峠でのダウンヒルバトルとなれば、今のオレの腕を試すには絶好の機会だ。
オレが快く承諾し、バトルする場所へ行くことを決意したのを見て、アルは慌ててボンネットをバシッと叩いた。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよタクミ! やってみるかって……相手はあの美食研究会よ!? 車に大砲でも積んでくるかもしれないじゃない!」
「いや、文面からして、純粋に峠道を下る速さを競うつもりだと思う。そういう感じがする」
「感じって……! 確かにタクミの運転はすごいけれど、クルマのバトルとなったら分からないじゃない! もしミスをして事故を起こしたらどうするつもりなの!?」
アルの言葉には、アウトローのボスとしての威厳よりも、純粋にオレの身を案じる不器用な優しさが透けて見えた。
彼女たちの身体と違い、オレの身体はただの人間だ。峠のバトルでクラッシュすれば、最悪の場合、命を落とす。アルはそれを分かっているからこそ、必死に止めているのだ。
だけど。
「オレ、負けないから」
オレはアルの目を真っ直ぐに見据えて、それだけを言った。
根拠のない自信じゃない。秋名の峠で培った誇りと、数々の死闘をくぐり抜けてきた走り屋としての意地。ステアリングを握る以上、誰の後ろを走るつもりもない。
それに、走り屋は勝負を挑まれたら……。
オレの静かで、絶対的な確信を帯びた声に、アルは圧倒されたように口をパクパクとさせた。
「っ……そ、そこまで言うなら……っ。べ、別に心配してるわけじゃなく! うちの貴重な社用車を壊されたら困るっていう、社長としての当然の……!」
「……それだけじゃない」
顔を真っ赤にして強がるアルの言葉を遮るように、カヨコが静かに、そして酷く真剣なトーンで口を開いた。彼女は手に持っていたタブレット端末を操作し、ゲヘナの気象情報局のデータを開いて見せる。
「次の土曜日は、ヒノム火山のあたりで小さい噴火が予測されてる。当日の道路の状況だって変わるはず」
「……噴火?」
「マグマが流れ出すような大規模なものじゃない。でも、火山灰が降る。黒曜峠の路面は、細かい灰で覆われることになると思うよ」
「……」
火山灰。それは、雨や雪とは全く違う厄介な代物だ。目に見えないほど細かいガラス質の粒子がアスファルトを覆い尽くせば、路面はスケートリンクのように滑りやすくなる。タイヤのグリップは極端に低下し、ブレーキも効かなくなるだろう。
ただでさえブランクがある今のオレにとって、そのような劣悪なコンディションでのバトルは、文字通り『死』を意味するかもしれない。
「わかったでしょ!? だから、そんな危険な真似は……!」
アルの制止の声を背に受けながら、オレは無言のまま開け放たれた運転席のドアに手をかけた。
表情には出さなかったが、オレの心の中では、かつてないほどの強烈な焦燥感と、それ以上に熱い闘志が燃え上がっている。
「……ちょっと、出かけてくる」
オレは何も言わず、再びハチロクのシートへと身体を沈めた。
黒曜峠を、走り込むために。
火山灰が降るなら、グリップの低い限界状態でのコントロールを、もっと、もっと身体に叩き込まなければならない。あの『溝落とし』を失敗しているような今の鈍った腕では、とてもじゃないが戦えない。
「ちょっとタクミ! 話はまだ終わってないわよ! 待ちなさいってばーっ!」
窓の外から、アルの心配そうな、切羽詰まった声が聞こえてきた。
「あーっ、どうせなら私も上に乗っけて行ってよ~!」
だが、その心配を現実にしないためにも、オレは勝たなくてはならない。
オレはキーを強く捻ってエンジンを再び目覚めさせ、足早に空き地を後にした。遠くで、ヒノム火山の低い地鳴りが、闘いのゴングのように微かに響いた気がした。