キヴォトスに単身ドリフトしちゃった藤原拓海(30) ~頭文字D Archive Stage~ 作:曇りのち晴れ男
美食研究会からの挑戦状が届いてから2日。
黒曜峠のタイトなコーナーを幾つも抜け、タイヤのグリップと路面の起伏を確かめるようにハチロクを走らせていたオレは、ステアリングを握りながら少しだけ違和感を覚えた。
深夜の峠道。ヘッドライトが闇を切り裂き、赤黒い岩肌とガードレールを照らし出す。その光の端っこ、安全なエスケープゾーンや小高い斜面の上に、ちらほらと人影が見え隠れしていたのだ。
「(ギャラリーが既にいる……?)」
横目でチラリと確認すると、それは間違いなくゲヘナの生徒たちだった。彼女たちはガードレールの外側に立ち、こちらに向かってスマホのカメラを向けたり、仲間同士で指を差しながらひそひそと何かを話したりしている。
このキヴォトスで、純粋な車のダウンヒルバトルなんてものがどれほど認知されているのかは分からない。だが、美食研究会の黒舘ハルナといえば、この学園では相当な有名人のはず。一体どこからバトルの情報が漏れたのか、それはオレには見当もつかなかった。
「(まぁ、いいか)」
誰が見ていようと関係ない。いつだってギャラリーの熱気と喧騒はそこにあった。むしろ、その視線がオレの中の「走り屋」としてのスイッチをさらに深く押し込んでくれるような気さえする。
オレはギャラリーの存在を意識の隅へと追いやり、目の前のコーナーだけに集中してアクセルを踏み込んだ。
そのまま黒曜峠の頂上、見晴らしの良い展望スペースに到着したオレは、ハチロクを停めてサイドブレーキを引いた。
エンジンを切り、車から降りる。
夜の冷たい風が、火照った顔と汗ばんだ首筋を撫でていく。ヒノム火山の静かな地鳴りを感じながら、自販機で買った見慣れない銘柄の缶コーヒーを開けて一休みしていると、ズボンのポケットに入れていたスマートフォンが短く震えた。
キヴォトスに来てから、便利屋の業務連絡用にと持たされた真新しいスマホ。
画面をタップしてメッセージアプリを開くと、送信元はアルだった。
『いいパーツを買っていいから、必ず事故をしない事』
ぶっきらぼうな、けれどどこか強がっているのが透けて見えるような短いメッセージ。
そして、その文章の下には一枚の画像が添付されていた。
それは銀行口座アプリのスクリーンショットだった。画面には、オレの口座へある程度車のセッティングができる程度のお金が振り込まれた画面が映し出されている。
「……アル」
缶コーヒーを持ったまま画面を見つめ、思わず小さく息を吐く。
便利屋68が、普段どれだけ金欠に喘いでいるか、オレだって知っている。そんな中から、これだけのお金を捻出するのがどれほど大変だったか。アルのことだ、見栄を張って自分のヘソクリでもはたいたか、あるいは怪しい金貸しに頭を下げてまで工面してきたのか。真相は分からない。
そこまでしてオレに金を預けたのは、「社用車を守るため」なんて建前じゃない。火山灰の降る危険なコンディションの中で、オレが命を落とさないための、彼女なりの最大限の投資であり、不器用な優しさだった。
『ありがとう』
気の利いた言葉は思い浮かばず、オレはただ一言、それだけを短く入力して送信ボタンを押した。
文字面だけでは足りないかもしれない。だが、この借りは走りで、結果で返すしかない。
勝つこと。そして、無事にハチロクと一緒にあの騒がしい事務所へ帰ること。それが、雇われドライバーであるオレの何よりの仕事だ。
スマホをポケットにしまい、オレは空になった缶コーヒーをゴミ箱へ放り投げた。
振り向くと、月明かりの下でパンダカラーのハチロクが静かに佇んでいる。
タイヤを変えよう。サスペンションのセッティングも見直さなきゃならない。
昔はプロジェクトDにセッティングを任せていたが、今一度、俺も勉強しなおしだ。
「……行くぞ」
オレは重いドアを開け、再びハチロクの運転席に乗り込む。
ギャラリーが集まり始めている夜の黒曜峠。オレはクラッチを繋ぎ、路面の感触を限界まで探るために、再び暗闇のダウンヒルへとハチロクを滑らせていった。
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
ここ最近、黒曜峠に得体の知れないグレーの車が夜な夜な現れるという噂を耳にするようになった。
おそらくは、タクミに果たし状を送りつけてきた美食研究会の連中だろう。そう目星をつけた私は、デスクでタブレット端末を開き、ネット検索を駆使してそのグレーの車の正体について調べていた。
「(GT-R……)」
画面に表示された、無骨で分厚いスポーツカーの画像とスペック表。
クルマの細かいメカニズムなんて、私にはよくわからない。けれど、画面に並んだ『排気量』や『馬力』といった数値を見比べるだけでも、うちの社用車──タクミが『ハチロク』と呼ぶ車とは、明らかに次元が違う乗り物だということは私にだって理解できた。
「どう考えたって、不利でしかないのに……」
ため息をつきながら画面をスクロールしていると、不意に私のデスクに、湯気を立てるマグカップがコトッと置かれた。ややタブレットに吸い込まれがちだった私の思考がコーヒーの匂いで引き戻される。
見上げると、いつの間にか横に立っていたカヨコが、静かにコーヒーを差し出してくれていた。
「でも、美食研究会は下りのバトルを申し込んできた」
「下りだから、何が違うの?」
マグカップを両手で包み込みながら尋ねると、カヨコは私のタブレット画面に視線を落としながら淡々と答えた。
「下りなら、馬力の差は縮まる」
言われてみれば、確かにそうだ。
坂道を下るだけなら、重力が推進力として働くため、少ないパワーでも車を前に進めることができる。最高速に至るまでに必要なパワーが少なくて済むのなら、たとえ相手が桁違いに強力なマシンであっても、勝機は見出せるのかもしれない。
頭では納得した。けれど、それでも拭いきれない不安が胸の奥で渦巻いている。
それにしたって、タクミのハチロクとあのGT-Rじゃ、そもそもの根底──マシンの絶対的な戦闘力が違いすぎるような気がする。
例えるなら、私たち便利屋68が、あの空崎ヒナ率いるゲヘナ風紀委員に、たった四人で真正面から総力戦を仕掛けるようなものじゃないのか。想像しただけで胃が痛くなってくる。
思わず顔を引きつらせていると、カヨコがふと、呆れたような、けれどどこか優しい声で問いかけてきた。
「……ここしばらくの貯金、崩してよかったの」
タクミの個人口座に振り込んだ、車のパーツ代のことだ。
便利屋のみんなで貯めていた、いざという時のための逃走資金。それを全額、ただ一人の雇われドライバーのために躊躇いなくベットしたのだ。
「いいの。……バトルの時、事故なんてされたら私の寝つきが悪くなるもの」
私はマグカップに口をつけ、努めて冷酷なアウトローの社長らしく振る舞いながらそう答えた。
苦いコーヒーの味が、少しだけ胸のつかえを洗い流してくれる。社長として、社員の命を危険に晒すわけにはいかない。あのお金で最高のパーツを買って、少しでもあの絶望的な戦力差を埋めてもらう。それが今の私にできる、唯一の『仕事』だ。
コーヒーのほろ苦い余韻を味わいながら、私はふと、ソファに座るカヨコに視線を向ける。
いつもなら、ヘヴィメタルバンドの特集が組まれた音楽雑誌などを読んでいる彼女が、今日は珍しく違うものを広げていたのだ。
分厚く、光沢のあるフルカラーの冊子。
表紙には、ゲヘナの装甲車とは全く違う、地を這うような流線型のスポーツカーの写真がデカデカと載っている。
「っ、これは……」
私が背後から覗き込もうとした気配に気づいたのか、カヨコは肩をビクッと跳ねさせ、咄嗟にそのカタログをバタンと閉じて隠してしまった。
普段はどんな時でもポーカーフェイスを崩さない彼女にしては、信じられないほど慌てた、隙だらけの動作だった。
「……な、何よカヨコ。そんなに慌てて隠さなくたっていいじゃない」
「……別に。何も隠してない。ちょっと調べ物をしてただけ」
顔を少しだけ背け、白黒の髪で表情を隠すようにしてカヨコは答える。その耳の端が、ほんの少しだけ赤くなっているような気がしたのは、気のせいだろうか。
色々な車のスペック表や、パーツのカタログを見比べていたのは間違いない。
けれど、どうしてカヨコが突然そんな車専門のカタログを読み込んでいるのか、私にはまったく理解できなかった。彼女がそういう機械類に興味を持っていたなんて話は聞いたことがないし、そもそも私たちの組織で車をいじっているのはタクミだけだ。
「ふふん。さてはカヨコ、社長である私に隠れて、便利屋の新しい事業計画でも練っていたのね? アウトローたるもの、逃走用の車両知識は必須……って、それなら私にも見せなさいよ!」
私は社長としての威厳を保ちつつ、純粋な興味本位からカヨコのデスクへと詰め寄った。
「見せない。社長には関係ないから」
「関係なくないわよ! ちょっと、本を出しなさいってば!」
「いや」
私たちが事務所の中で子供のような押し問答を繰り広げていると、ふと、私のコートのポケットに入っていたスマートフォンが、ブブッ、と短く震えた。
SNSの通知だ。
アウトローとして常に情報の最先端を行くため、私はキヴォトスで流行しているSNSのトレンドワード通知をオンにしている。普段ならアイドルの新作スイーツや、どこかの学園の些細な抗争などが流れてくるだけなのだが。
私はカヨコから手を離し、何気なくスマホの画面をタップした。
そこに表示されたタイムラインの最上部、ゲヘナの生徒らしき匿名のアカウントが投稿した短い呟きと、そこに添付された黒曜峠の夜景の写真が、私の目を釘付けにした。
『次の土曜の夜、黒曜峠で車同士のガチバトルをするみたいだ。ヤバい車が走ってるらしい』
ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。
写真に写っているのは遠景だが、峠の頂上に集まっている数人のギャラリーらしき姿が確認できる。タクミが走っている間に、誰かが嗅ぎつけたのだ。
その投稿に対するリプライ欄には、一瞬のうちに数え切れないほどの反応がぶら下がり始めていた。
『バカ消せ、ヴァルキューレに見つかったら厄介だぞ』
『空気読めないわぁ』
『てか黒曜峠ってあの火山灰降るとこでしょ? そこでバトルとか死ぬ気でしょ』
『美食研究会が絡んでるって噂マジ?』
次々と更新されるタイムライン。
一体どこからバトルの情報が漏れたのか、それは分からない。美食研究会の周囲からなのか、それともタクミの走りを見ていた野次馬からなのか。
すると『この投稿は削除されました』という無機質なメッセージと共に、元の呟きは煙のように消え去った。おそらく、ヴァルキューレ警察学校の介入を恐れた投稿主が慌てて消したのだろう。
だが、遅すぎた。
投稿が消される直前に私の目に焼き付いた『高評価』の数字は、すでに百の桁に届こうかという、果てしないほど大きなものに膨れ上がっていたのだ。キヴォトスのネットの海に一度放たれた情報は、スクショされて永遠に拡散され続ける。
「……嘘でしょ」
私のスマホの画面を横から覗き込んでいたカヨコが、静かに、けれど酷く重たい声で呟いた。
「……ますます負けられなくなってきたね」
その通りだ。ここで無様に負けたり、警察に捕まったりすれば、便利屋68の悪名は地に落ちる。タクミだって、二度と走れなくなるかもしれない。
「……もーっ! なんでこんなに広まってるのよーっ!!」
私はアウトローとしての仮面をかなぐり捨て、頭を抱えて事務所の床にしゃがみ込んだ。
タクミは、今頃黒曜峠を走り込んでいるのだろうか。彼がこの尋常ではないプレッシャーを知った時、果たして平静でいられるのか。
社長として、これ以上彼に負担をかけるわけにはいかないのに。私の絶叫は、静かな事務所の天井に虚しく吸い込まれていった。
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
漆黒の黒曜峠を、暴力的なエキゾーストノートが切り裂いていく。
アクセルを踏み込むたびに、直列六気筒と教えてもらったエンジンが甲高い吸気音を響かせ、ガンメタルの重たい車体を強引に前へと押し出していく。
アテーサE-TS。四輪の駆動力を電子制御で最適化するというそのシステムは、火山灰の浮く荒れた上り坂の路面であっても確実にアスファルトを捉え、有り余るパワーを圧倒的な推進力へと変換していた。
プラクティスを終えた後のヒルクライム。
私はステアリングを握りしめ、頂上の駐車場で待つハルナさんを迎えに走っていた。
このグレーのスポーツカー、R32を手に入れてから、私の生活は一変してしまった。今までの私であれば、自由な時間はすべて未知なる美食の探求や、新しいレストランの開拓に費やしていたはずだ。しかし今は、時間が少しでも空けばこの黒曜峠に通い詰め、ひたすらにタイヤの限界とエンジンの悲鳴に耳を傾けている。
血の滴るような極上のステーキと同じくらい、今は焦げたブレーキパッドとガソリンの匂いが、私の渇望を激しく刺激してやまない。
やがて、展望台のある頂上の駐車場が見えてきた。
私はシフトダウンしてエンジンブレーキを効かせながら、車体をゆっくりと滑り込ませる。エンジンを切ると、キャビンを支配していた重低音がふっと消え去った。代わりに、極限まで発熱したタービンとマフラーから、パチパチという金属の収縮音が夜の静寂に響く。
重たいドアを開け、車から降りる。
冷たい夜風が火照った頬を撫でる駐車場の片隅、街灯の薄明かりの下で、ハルナさんが静かに佇んで私を待っていた。
「お待たせしました」
私が歩み寄って声をかけると、ハルナさんは優雅な微笑みを浮かべて出迎えてくれた。彼女の手には、数十分前まで私の走りのタイムを計測していたストップウォッチが握られている。
「調子はどうですか? アカリさん。隣に乗ってタイム計測した時も、最初とは比べ物にならないものになっていましたから、当然一人ならその分荷重が減ってタイムも……」
ハルナさんの声には、確かな期待が込められていた。
このR32という車は、四輪駆動システムや直列六気筒エンジンを積んでいる代償として、信じられないほど車体が重いそう。特にフロントヘビーな傾向があり、コーナーでの回頭性においては、あの軽量なハチロクに大きく劣る。だからこそ、助手席からハルナさんが降りて数十キロの軽量化を果たした単独でのアタックなら、さらに劇的なタイム更新が望めるはずだ。物理法則から考えれば、彼女の予想は極めて論理的だった。
しかし。
「ダメですね」
私は首を横に振り、自分でも意外に思えるほど冷めた声で、キッパリと否定した。
「え……?」
ハルナさんが目を丸くする。予想外の返答に、彼女の論理的な思考が一瞬だけ停止したのが分かった。だが、実際にステアリングを握って極限のスピードで峠を下った私には、その理由はあまりにも明白だった。
「流石に一日二日でコースを覚えるのは難しいものですね……。助手席にハルナさんがいなければ、カーブに対する適切な走りができません」
黒曜峠のダウンヒル。そのコースレイアウトは、信じられないほど複雑でトリッキーだ。
ブラインドコーナーが連続し、ストレートの終わりには唐突にきついヘアピンが牙を剥く。R32の圧倒的な加速力をもってすれば、あっという間にコーナーの進入速度を超過してしまう。コースの全容が頭と身体に完全に染み込んでいない状態で、この重たいモンスターマシンのアクセルを全開にするのは、ただの自殺行為でしかなかった。
だからこそ、必要なのだ。
隣に座り、的確なタイミングで次のコーナーの曲率やブレーキングポイントを指示してくれる、ナビゲーターのような存在が。
ハルナさんの冷静な声が隣にある時だけ、私は視界の開けないブラインドコーナーに向けて、躊躇いなくアクセルを踏み抜くことができる。一人で走る不安と恐怖によるタイムロスは、数十キロの軽量化という物理的なメリットを遥かに上回るほどの足枷になっていたのだ。
「……私一人分の重りというデメリットを背負って、ハチロクと戦う必要がある、ですか……」
ハルナさんは静かにストップウォッチをしまい、口元に手を当てて思案するように呟いた。
その通りだ。ただでさえ重量級のR32に、さらなるハンデを積むことになる。軽量コンパクトで、おそらく走りを知り尽くしているであろうあの忌々しいハチロクを相手に、これほどのハンデを背負って勝負に挑むのは、無謀と言えるかもしれない。
今日は金曜日。
いよいよ決戦の土曜日は、明日に迫っていた。
天気予報によれば、明日はヒノム火山の活動によって火山灰が降るという。路面のグリップは極限まで低下し、四輪駆動であるR32のトラクションの優位性がどこまで活かせるか、あるいはその重さが仇となってアンダーステアに苦しむことになるのか、まったくの未知数だ。
それでも。
「ゲヘナのハチロク……私が必ず倒します」
私の口から、血を吐くような執念の言葉がこぼれ落ちた。
怖いわけではない。むしろ、身体の奥底からマグマのように熱い何かが込み上げてくるのを感じている。
あの日、市街地の直角コーナーを芸術的なまでに精密なラインで滑り抜けていった、あの白黒の姿。
私たちのトラックを冷徹に仕留め、一切の未練なく走り去っていった、あの狂気的なまでのドライビングテクニック。
そのすべてが、私の脳裏に焼き付いて離れない。屈辱よりも、怒りよりも、ただ純粋に『あの走りの次元に追いつきたい』『あの怪物をねじ伏せてみたい』というドロドロとした欲望が、私を突き動かしている。
私は、もうどうしようもなく車での走りに魅了されていた。
美食を味わう時の幸福感とは違う、ヒリヒリとした焦燥と、命を削るようなスピードの麻薬。それほどまでに、以前魅せられたハチロクの走りが衝撃的だったからだ。
「ええ、アカリさん。私たち美食研究会の意地、存分に見せつけてやりましょう」
ハルナさんが私に同調するように、月明かりの下で不敵な笑みを浮かべた。
明日、この黒曜峠で何が起きるのか。あの天才的なドライバーが、この灰の降るステージでどんな走りを見せるのか。
私はR32の冷えたボンネットにそっと手を触れながら、迫り来る決戦の夜に向けて、ただ静かに闘志の炎を燃やし続けていた。
明日は日曜ですので、いつもより早い「11:22」に投稿します。