BLACK LAGOON ―姉さん、俺はもう大人だ― 作:いっしきさん
第一話 少年の顔をした古参兵
ロアナプラでは、道端に子供が倒れていても、車は速度を落とさない。
それが眠っているだけなのか、腹を空かせて動けないのか、それとも死んでいるのか。確かめるために停車する人間には、たいてい別の用事がある。
ロックがその少年を見つけたときも、通りを走る車は一台も止まらなかった。
昼過ぎの港湾地区だった。
潮と軽油と腐った果物の臭いが、湿った空気に混ざっている。ラグーン商会の使いで書類を届けた帰り、ロックは雑貨屋の軒先に、小柄な人影が座っているのを見つけた。
十三、いや十四歳くらい。
色の薄い金髪。白い肌。くすんだ青い目。
大きすぎるわけではないのに、灰色のシャツと黒いズボンが、どうにも借り物に見えた。足元には古い革鞄。右手には、まだ蓋の開いていない瓶入りの炭酸水。
少年は軒下の影から、通りの向こうを眺めていた。
ロックは一度通り過ぎ、それから足を止めた。
外国人の子供が一人でいる場所ではない。
そう思った時点で、この街の住人としては失格なのかもしれなかった。
「誰かを待ってるのかい?」
英語で声をかける。
少年が顔を上げた。
その目を見たとき、ロックはほんの少し言葉を失った。
疲れている、というのとも違う。
自分を見た一瞬で、服装、両手、靴、背後の道まで確かめられた気がした。
「そうだ」
声は若かった。
変声期を抜け切らないような響きがわずかに残っている。それなのに、言葉の置き方には妙に落ち着きがあった。
「お父さんか、お母さん?」
少年は二秒ほどロックを見つめた。
それから、瓶を膝の上に置いた。
「運転手だ」
「ああ……そうか」
「君は?」
「え?」
「誰を待ってる?」
「いや、俺は別に」
「だったら、そこは避けた方がいい。上の室外機から水が落ちる」
言われた直後、首筋に生ぬるい雫が落ちた。
ロックが飛び退くと、少年は少し笑った。
子供らしい笑い方ではなかった。
相手が恥をかかない程度に笑ってやる、年長者の笑い方だった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
会話はそれで終わったはずだった。
だがロックは、少年の左手に白い包帯が巻かれているのを見つけた。
掌の下から手首まで、丁寧に巻かれている。端にわずかな血がにじんでいた。
「その手、怪我をしたのか?」
少年は自分の左手を見た。
「少し」
「病院には?」
「行った」
「一人で?」
「君は質問の多い男だな」
口調に苛立ちはなかった。
むしろ、少し面白がっている。
ロックは困って頭をかいた。
「悪い。この辺りは、その……」
「子供が一人でいる場所じゃない?」
先に言われた。
ロックが黙ると、少年は瓶を持ち上げた。
「だったら、車が来るまで付き合ってくれ。これも開けてくれると助かる」
栓抜きは革鞄の外ポケットに入っていた。
ロックが瓶を開けて渡すと、少年は礼を言い、炭酸水を一口飲んだ。
「日本人か」
「分かるのか?」
「背広を脱いでも、会社員に見える」
「そんなに?」
「悪い意味じゃない」
少年の視線が、ロックの胸元で止まった。
緩めたネクタイ。
この街に来てから何度も捨てようと思い、結局捨てられなかったもの。
「仕事は?」
「運び屋だ。ラグーン商会っていう」
「ああ」
初めて、少年の表情にはっきりとした関心が浮かんだ。
「君がロックか」
「俺を知ってる?」
「話は聞いている」
「誰から?」
答えを聞く前に、道路の向こうから怒鳴り声が飛んできた。
「ロック! てめえ、こんなとこで何やって――」
レヴィだった。
煙草をくわえ、苛立った顔で横断してくる。
彼女はロックの隣に座る少年を見たところで、足を止めた。
眉間に寄っていた皺が、別の形になる。
「……あんたかよ」
少年が瓶を軽く掲げた。
「久しぶりだ、レヴィ」
「何してんだ、そんなところで」
「迎えを待ってる。君の同僚が心配してくれてね」
レヴィがロックを見る。
その口元が、ゆっくりと持ち上がった。
ロックは嫌な予感がした。
「お前、こいつを迷子だと思ったのか?」
「いや、迷子っていうか」
「いくつに見えた?」
少年が尋ねた。
ロックは答えなかった。
少年は責めるでもなく、ただ事実を伝えた。
「三十四だ」
しばらく、車のエンジン音だけが聞こえた。
「……三十四?」
「来月で三十五になる」
レヴィが腹を抱えて笑い始めた。
その笑い声を聞きながら、ロックはようやく気づいた。
少年の靴は、小さな足に合わせて作られた上質な革靴だった。
革鞄には、丁寧に補修された跡がある。
シャツの袖から見える右手の指には、子供のものとは思えない古傷がいくつも残っていた。
黒い車が歩道に寄った。
助手席から降りた男を見て、ロックの背筋が伸びる。
ボリスだった。
ホテル・モスクワの幹部。バラライカの傍らに控える、あの大柄な男。
彼は少年の前で立ち止まった。
「お待たせしました」
「大したことはない」
「連絡がありませんでしたので、大尉が」
「診察だ。取り調べじゃない。十分おきに報告はできん」
「その説明は、ご本人に」
少年が、ごく小さくため息をついた。
レヴィが笑いながら煙草を捨てる。
「こいつ、あんたのこと、保護しようとしてたぜ」
ボリスはロックを見た。
一瞬だけ、その厳めしい顔に何かが浮かんだ。
笑みだったのかもしれない。
少年は立ち上がり、右手を差し出した。
「アレクセイだ。瓶を開けてくれてありがとう」
ロックは、その小さな手を握った。
骨ばった、硬い手だった。
「俺は……」
「ロック。覚えたよ」
アレクセイは革鞄を持ち上げ、車に乗り込もうとしてから振り返った。
「君も来るんだろう?」
「どこへ?」
「事務所へ。姉が仕事を頼みたいそうだ」
ロックはボリスを見た。
次にレヴィを見た。
最後に、もう一度アレクセイを見た。
レヴィは、今日一番楽しそうな顔をしていた。
「おめでとう、ロック。お前が拾ったガキは、あの女の弟だ」
*
バラライカは、弟が部屋に入るなり時計を見た。
それから包帯を見た。
ロックへの挨拶は、その後だった。
「ようこそ、ロック。座りたまえ」
声はいつもどおりだった。
低く、余裕があり、相手が従うことを疑っていない。
だが、その目はまだアレクセイの左手に向いていた。
「医者は何と?」
「傷は塞がる。骨も腱も問題なし」
「抜糸は」
「来週」
「薬は」
アレクセイが革鞄を持ち上げた。
「この中だ」
「見せろ」
「あとで渡す」
弟は自然な動作で、机の正面ではなく、脇に置かれた椅子に腰を下ろした。
そこに座ることを許されている人間がいると、ロックは考えたこともなかった。
バラライカの机に近すぎる。
それも、銃を抜くにも立ち上がるにも邪魔になる位置だった。
しかし彼女は何も言わなかった。
代わりに、机の上の葉巻を灰皿に置いた。
「昼は食べたのか」
「食べた」
「何を」
「姉さん」
初めて、その呼び方が出た。
アレクセイはロックとレヴィを顎で示した。
「客を呼んだんだろう」
バラライカは一拍置いて、書類を手前に引いた。
「そうだったな」
レヴィがソファで肩を震わせていた。
ロックは笑えなかった。
目の前で起きていることを、まだうまく整理できていない。
バラライカに弟がいる。
その弟は、自分より年上だ。
そして外見は、どう見ても中学生だった。
「私の顔に何かついているかね、ロック」
「いえ」
「なら、こちらを見たまえ」
薄い封筒が机の上を滑った。
中には、倉庫の住所と人名、それに数枚の船荷証券が入っていた。
「リン・ウェン。港で通関の仲介をしている男だ。我々の荷物を扱っていたが、二日前から姿を消した」
「持ち逃げですか?」
「そう見えるようにしてある」
答えたのはアレクセイだった。
彼はロックの手元を指した。
「三枚目。署名が違う」
ロックは書類を見比べた。
確かに、最初の二枚と最後の一枚では、筆圧も文字の傾きも違う。
「代理の担当者ということは?」
「担当者は全員、確認した」
バラライカが言った。
「今朝になって、本人から連絡があった。身柄の保護と引き換えに、帳簿を返すという」
「警察には?」
口にしてから、ロックは自分の質問が場違いだと悟った。
レヴィが鼻で笑う。
アレクセイは笑わなかった。
「この街の警察は、保護した人間を別の買い手に渡すことがある」
天気の話でもするような調子だった。
「リンは、日本企業の現地駐在員だった男を窓口に使っている。そいつが日本語でしか話したがらない。だから君に来てもらいたい」
「通訳ですか」
「それと、書類を見る目だ」
バラライカがロックを見た。
「銃の扱いは期待していない。分からないことを、分かったふりもしなくていい」
「俺とレヴィで?」
「アレクセイも同行する」
その言葉に、弟が椅子の背から体を起こした。
仕事の話になった瞬間、姿勢が変わった。
それまでの気の抜けた様子が消え、机の上の資料に視線が集まる。
「現地での判断は?」
「お前に任せる」
「撤収の基準は」
「帳簿より人員を優先しろ。追跡はするな」
「了解、大尉」
呼び方まで変わった。
ロックは、その切り替わりを見ていた。
バラライカもまた、弟を見る目を変えていた。
先ほどまでの姉ではない。
部下を送り出す指揮官の目だった。
ただ、アレクセイが立ち上がると、彼女はもう一度だけ包帯を見た。
「左手は使うな」
「必要がなければ」
「アレクセイ」
弟は振り返った。
「左手を使わずに死ぬくらいなら、使って帰る。そういう教育だったはずだ」
ボリスが窓の外に目を向けた。
レヴィが天井を見た。
バラライカだけが、弟をまっすぐ見ていた。
やがて、彼女は短く言った。
「……帰ってから、医者に見せろ」
「了解」
*
車の後部座席で、ロックは何度も質問を飲み込んだ。
隣のアレクセイは、船荷証券を読んでいる。
膝の上に置くと紙が大きく見えた。その光景に違和感を覚えるたび、ロックは軒先で聞いた年齢を思い出した。
三十四。
自分よりもずっと長く生きている。
「何か聞きたいんだろう」
書類から目を上げずに、アレクセイが言った。
前の席で、レヴィが笑った。
「さっきから、こいつの頭の中がうるさくてな」
「悪い」
「謝るくらいなら聞けばいい」
ロックは少し迷った。
「昔から、そういう……身体なのか?」
アレクセイは書類を揃えた。
「途中までは育った」
窓の外を、果物を積んだ荷車が流れていく。
「戦争があった。食う物も寝る場所も足りなかった。怪我も病気もした。そのうち、背が伸びなくなった」
「それが原因?」
「医者によって説明が違う。今になって、どれが原因だったのか決めるのは難しいそうだ」
そこまで話してから、彼はロックを見た。
「ただ、心まで止まったわけじゃない」
「ああ。それは、分かってる」
「まだ分からんだろう。会って一時間だ」
責める口調ではなかった。
だから余計に、ロックは返す言葉に困った。
アレクセイは、また書類を開いた。
「君が悪いわけじゃない。見れば、まずそう思う。毎回腹を立てていたら、仕事にならん」
レヴィが窓を少し下げ、煙を外に吐いた。
「こいつに喧嘩売った酔っ払いを見たことあるぜ。三分後には、本人より店の親父が謝ってた」
「椅子を壊したからな」
「お前がな」
「相手が座ったまま殴ろうとした」
「あの椅子、結構いい値段だったぞ」
「弁償した」
軽いやり取りだった。
ロックは二人の会話を聞きながら、アレクセイの横顔を見た。
自分の身体を語ることに慣れている。
それも、説明する側が相手を気遣わなければならないことにまで。
「お姉さんと、同じ部隊だったんだって?」
「ああ」
「ずっと?」
「少なくとも、俺が軍服を着ていた間は」
「今も、上官なんだな」
アレクセイは少し考えた。
「仕事ではな」
「それ以外では?」
「薬の袋まで確認する」
レヴィが声を上げて笑った。
アレクセイの口元にも、薄い笑みが浮かんだ。
「君にまで気を遣わせたな。あの人の前では、あまり珍しそうに見ないでやってくれ」
「君を?」
「姉をだ」
ロックが瞬きをする。
アレクセイは、何でもないことのように言った。
「自分が過保護だと思われるのは、嫌らしい」
*
待ち合わせ場所は、使われなくなった製氷工場だった。
錆びた看板。
半分だけ開いた鉄の門。
中庭には、タイヤを外されたトラックが一台置かれていた。
アレクセイは車を降りる前に、腕時計を確かめた。
「ロック。君の仕事は、相手の言葉と書類を確かめることだ。危ないと思ったら、会話の途中でも下がれ」
「分かった」
「俺に何か起きても、近づくな」
ロックは思わず彼を見た。
アレクセイは続けた。
「レヴィが動けなくなったときも同じだ。まず、自分が隠れる場所を探せ」
「おい。私が動けなくなる前提かよ」
「可能性の話だ」
「お前の説教、ボリスに似てきたぞ」
「本人には言うな。喜ぶ」
門をくぐると、奥の事務所から痩せた男が出てきた。
日本人だった。
年は四十前後。汗で張りついたシャツの襟が、首に食い込んでいる。
「日本の方ですか」
男は、ほっとしたようにロックに近づいた。
「田辺です。連絡した」
「ロックです。リンさんは?」
「中にいます。あの、こちらの方は」
男の視線がレヴィで止まり、腰の拳銃に落ちた。
次にアレクセイを見て、眉をひそめる。
「お子さんまで連れてこられたんですか?」
ロックが口を開く前に、アレクセイが言った。
「通訳を」
ロックは、田辺の言葉をそのまま英語にした。
一瞬、訳すべきか迷った侮りまで含めて。
アレクセイは小さくうなずいた。
「責任者だと伝えてくれ」
田辺の顔が固まった。
「……冗談ですよね?」
「仕事の話をしよう」
ロックは訳した。
田辺は笑いかけ、誰も笑っていないことに気づいて口を閉じた。
事務所には、もう一人の男がいた。
椅子に座り、両手を膝に置いている。
リン・ウェン。
写真よりも顔が腫れていた。
口元に乾いた傷があり、右目が細くなっている。
机の上には、黒い帳簿と茶封筒。
天井の扇風機が、軋む音を立てて回っていた。
「ひどい顔だな、リン」
アレクセイが英語で言った。
リンは顔を上げ、彼を見ると息を止めた。
「あなたが来るとは」
「俺では困るか」
「いや」
返事が速すぎた。
ロックにも、それは分かった。
アレクセイは椅子に座らなかった。
机の端に立ち、黒い帳簿を見た。
「話を聞こう」
リンは唇を舐めた。
「荷物を抜いたのは、俺じゃない。別の連中だ。帳簿を使われた」
「誰に?」
「名前は知らない」
「顔は?」
「何人もいた」
「そうか」
アレクセイは追及しなかった。
それがかえって、部屋を落ち着かなくさせた。
田辺が日本語で、早口に話し始めた。
「とにかく、彼は返すと言ってるんです。金も、後から何とかすると。ただ、安全な場所へ移してもらわないと」
ロックは訳しながら、机の茶封筒を見た。
表に書かれた日本語。
医療機器の輸出書類だった。
しかし、昨日までホテル・モスクワの貨物だったものが、突然日本の医療商社名義になる理由が分からない。
「これは?」
ロックが尋ねると、田辺がすぐ手を伸ばした。
「それは関係ありません」
その速さに、アレクセイの視線が動いた。
「ロック」
「船積み書類です。ただ……会社名が変です」
記憶にある名前だった。
前の会社で、取引先の一覧に載っていた。
その会社は、すでに別の商社へ吸収されている。
少なくとも、この日付で新しい書類を発行できるはずがなかった。
ロックが説明すると、アレクセイは封筒から田辺の手を離させた。
力はほとんど使わなかった。
手首に指を添えただけなのに、田辺の肩が強張った。
「どこで受け取った」
ロックが訳す。
田辺の喉が動く。
そのとき、リンが椅子の上でわずかに身じろぎした。
ズボンの裾が上がり、足首に巻かれた白い樹脂の帯が見えた。
椅子の脚につながっている。
ロックの息が止まった。
アレクセイは、もう見ていた。
目線を動かさず、静かに言った。
「田辺に聞いてくれ。奥には何人いる」
ロックが訳すより先に、壁の向こうで何かが倒れた。
田辺が目を閉じた。
レヴィの右手が動いた。
「やっぱり、そういう歓迎かよ」
*
最初の銃声は、裏口の方から聞こえた。
レヴィがロックの襟をつかんだ。
床へ引き倒され、肩が机の角にぶつかる。
直後、窓ガラスが砕けた。
ロックには、何がどこから飛んできたのか分からなかった。
大きな音。
耳に詰まる空気。
降ってくる細かなガラス。
机の向こうで田辺が叫んでいた。
「伏せてろ!」
レヴィの声。
ロックは両腕で頭をかばった。
そこへ、小さな靴が滑り込んできた。
アレクセイだった。
左手でリンの椅子を倒し、右手に握った拳銃を扉へ向けている。
その顔に驚きはなかった。
怯えも、怒りも。
ただ、相手の動きを確かめる目があった。
「リン。動くな」
短い発砲。
廊下で誰かが壁にぶつかった。
ロックは、その音に身を縮めた。
隣ではアレクセイが、床に倒れた椅子の脚を調べている。
傷のある左手でリンの肩を押さえ、右手でナイフを抜いた。
樹脂の帯が切れる。
「這えるか」
リンがうなずく。
「奥の壁まで行け。田辺もだ」
田辺は立ち上がろうとした。
アレクセイが声を強めた。
「這って行け!」
言葉が分からなくても、意味は通じた。
男は床に手をつき、机の下へ潜り込んだ。
ロックは、アレクセイの包帯が赤くなっているのに気づいた。
左手を使うな。
事務所で聞いた姉の言葉が、場違いなほど鮮明に蘇った。
「手が」
「後だ」
返事は短かった。
アレクセイは無線機を口元へ持っていった。
「接触した。こちら四名と保護対象一名。負傷は軽微。予定を中止する」
雑音の奥から、ボリスの声が返った。
ロックには内容まで聞き取れなかった。
レヴィが窓際から二発撃ち、身を引いた。
「表にもいるぜ」
「見えた人数は」
「二人。奥は知らねえ」
「外へ追うな」
「分かってるよ」
アレクセイはロックに向き直った。
「田辺に聞け。裏の通路は、どこへ出る」
ロックは喉を鳴らした。
声が出なかった。
もう一度息を吸う。
日本語で尋ねると、田辺は震えながら答えた。
「冷凍庫。もう使ってない。そこから荷捌き場に」
ロックが訳す。
アレクセイは一度だけうなずいた。
「よし。今ので十分だ」
その言い方に、ロックは妙な既視感を覚えた。
混乱した部下に、次にやることだけを渡す。
前の職場にも、そういう上司がいた。
違うのは、ここで判断を誤れば、叱責では済まないことだった。
「レヴィ」
「聞こえてる」
「俺が確認する。二人を頼む」
「その手で?」
「右は動く」
レヴィは舌打ちした。
反論はしなかった。
アレクセイが机の陰から出た。
小さな身体が扉の脇へ移る。
ロックは思わず手を伸ばした。
子供が危ない場所へ行く。
身体が、勝手にそう判断した。
シャツの背をつかむ寸前、アレクセイが振り向いた。
青い目がロックを捉えた。
怒ってはいなかった。
ただ、厳しかった。
「離してくれ」
まだ触れてもいない手を、ロックは引っ込めた。
「……すまない」
「あとで聞く。今は下がれ」
ロックは言われたとおりにした。
アレクセイは扉の向こうを確かめ、短く合図した。
その動きを、レヴィが何のためらいもなく受け取った。
誰も彼を守るために動いていない。
彼と一緒に、生きて帰るために動いている。
ロックはようやく、その違いを理解し始めていた。
*
冷凍庫だった部屋には、古い油とカビの臭いがこもっていた。
壁の断熱材が剥がれ、床には錆びた台車が転がっている。
レヴィが後方を見張り、アレクセイが外につながる扉の前に立った。
リンは呼吸を乱し、田辺は泣いていた。
ロックは二人を壁際へ寄せた。
銃声は一度止まり、遠くでまた始まった。
違う方向からだった。
外にいたホテル・モスクワの兵士たちが動いたのだと、ロックにも分かった。
アレクセイの無線が鳴る。
短いやり取り。
「迎えが来る」
彼はそう言って、ようやく左手を見た。
包帯の赤い部分が広がっている。
ロックはポケットからハンカチを取り出した。
「これ、使えるか」
アレクセイが顔を上げた。
一瞬だけ、先ほどの厳しさが戻るかと思った。
しかし彼は、右手を差し出した。
「助かる」
ロックは包帯の上からハンカチを巻いた。
結び目を作る指が震えていた。
「きつすぎる?」
「それでいい」
「さっきは、邪魔をした」
アレクセイは黙っていた。
ロックは続けた。
「君が行くのを見て、つい」
「分かっている」
「でも、あれは」
「危ない」
アレクセイが言った。
穏やかだったが、言葉を濁さなかった。
「俺も、君も死ぬ。ああいうときは、声をかけてくれ。身体をつかまれると、何をされたのか判断する時間が要る」
ロックはうなずいた。
謝るより、覚えるべきことだった。
レヴィが扉の向こうを見たまま言った。
「ロックはな、余計な世話を焼かねえと息ができねえんだ」
「悪い癖ではない」
「この街じゃ、寿命が縮む」
「だから、やり方を覚えればいい」
アレクセイは、巻かれたハンカチを軽く押さえた。
「全部やめる必要はない」
ロックは返事をしなかった。
できなかった。
そのとき、田辺が日本語で言った。
「俺は、こんなことになるなんて」
ロックは彼を見た。
「何を頼まれたんです」
「通訳だけだ。あいつらが、ロシア人と話をするからって」
「リンさんが縛られてたのに?」
田辺は口を開き、閉じた。
リンが、俯いたまま英語で話し始めた。
「狙いは俺じゃない」
アレクセイが顔を向ける。
「知っていることを言え」
「帳簿も、荷物も、全部、あんたを呼ぶためだった」
冷凍庫の中が静かになった。
遠くの銃声だけが聞こえる。
リンは唇を震わせた。
「女の身内がいると聞いたらしい。小さくて、若く見える男だと。捕まえれば、話ができるって」
レヴィがゆっくりと振り向いた。
「ずいぶん安く見られたもんだな」
アレクセイは表情を変えなかった。
「誰が言った」
「運びの連中だ。最近、港に来た」
「顔は覚えているか」
リンがうなずく。
アレクセイは無線機を取り上げた。
淡々と報告した。
自分が標的だったことも、相手が姉との取引材料にするつもりだったことも、荷物の数を伝えるように話した。
通信が切れたあと、ロックは尋ねた。
「分かってたのか?」
「可能性はあった」
「それで来た?」
「誰かが確かめる必要があった」
「でも、君が狙いなら」
アレクセイはロックを見た。
「君にも危険が及んだ。それについては、説明が足りなかった」
言い訳をしなかった。
そのことが、ロックにはかえって重かった。
やがて外の扉が叩かれ、決まった呼びかけがあった。
アレクセイが返事をする。
扉が開き、ボリスが姿を見せた。
彼はまず室内を確かめ、それから弟の手を見た。
「歩けますか」
「足は無事だ」
「車へ」
「リンと田辺を先に」
ボリスは何も言わず、部下に顎で指示した。
外へ出る直前、アレクセイがロックの肩に触れた。
「足元を見ろ。ガラスがある」
その声は、最初に軒先で聞いたものと同じだった。
*
事務所に戻ると、バラライカは立っていた。
ロックは、彼女が座って待っているものと思っていた。
机の上には開いたままの書類。
灰皿には、途中で揉み消された葉巻。
窓際の電話の受話器が、わずかにずれて置かれていた。
「報告を」
アレクセイが説明を始めた。
リンが拘束されていたこと。
書類が偽造されていたこと。
武装した男たちが待ち伏せしていたこと。
こちらに重傷者はいないこと。
ロックが会社名の不一致を見つけたことも、抜かさず伝えた。
バラライカは途中で口を挟まなかった。
ただ、弟が話している間、その左手を何度か見た。
「以上です」
報告が終わる。
彼女はボリスに向いた。
「確保した連中は?」
「別室です」
「リンと日本人は分けておけ。話を合わせさせるな」
「了解しました」
「レヴィ。報酬は約束どおりだ。今回の分は上乗せする」
「毎度どうも」
「ロック」
名前を呼ばれ、ロックは背筋を伸ばした。
「よく気づいた」
「偶然、知っていただけです」
「知っている人間を呼んだ。その判断は正しかったということだ」
褒められているのか、仕事を評価されているのか。
たぶん、その両方だった。
バラライカは、そこで初めて弟の前に立った。
「手を」
アレクセイが左手を出した。
彼女はロックのハンカチを見た。
「これは?」
「借りた」
「傷は開いたのか」
「少し」
「少し、か」
その言葉には、静かな怒りがあった。
アレクセイは姉の目を見た。
「リンを引き倒す必要があった。椅子につながれていた」
「お前がやる必要は」
「一番近かった」
バラライカの口が閉じた。
それが正しい答えだと、誰よりも彼女自身が知っていた。
部屋の空気が張りつめる。
レヴィがソファから腰を上げた。
「私は下で待ってるぜ、ロック」
ボリスも扉へ向かった。
ロックだけが、退出するタイミングを失った。
アレクセイが先に言った。
「ロック。ハンカチは洗って返す」
「いや、いい。捨ててくれ」
「そうか。じゃあ、新しいものを」
「本当にいいよ」
バラライカの視線が、二人の間を動いた。
アレクセイは小さく笑った。
「分かった。ありがとう」
ロックは扉へ向かい、手をかけたところで足を止めた。
振り返るつもりはなかった。
けれど、言っておくべきだと思った。
「彼がいて、助かりました」
部屋の奥で、誰も動かなかった。
「俺だけじゃ、何もできなかった。リンさんも、あのままだったと思います」
バラライカはロックを見ていた。
何を考えているのかは分からない。
ただ、先ほどまでの張りつめたものが、ほんの少しだけ緩んだ。
「承知している」
彼女は言った。
「私の部下だ」
アレクセイは何も言わなかった。
けれどロックには、その言葉を喜んでいるように見えた。
扉を閉める直前、バラライカが弟の襟に手を伸ばすのが見えた。
折れていた部分を直す、短い仕草だった。
弟は少し顔をしかめた。
振り払うことはしなかった。
*
扉が閉まると、アレクセイは息を吐いた。
「説教なら、医者のあとにしてくれ」
「座れ」
「ほら、始まった」
「座れと言った」
弟は椅子に腰を下ろした。
バラライカは救急箱を取り出し、包帯の端を確かめた。
乾いた血が布に張りついている。
無理には剥がさず、上から巻かれたハンカチだけを外した。
白い布だった。
今は半分ほどが赤茶色になっている。
「狙われていると、どこで気づいた」
「リンが俺を見たとき」
「その時点で退くべきだった」
「まだ確信はなかった」
「確信がつくまで待つ必要はない」
「姉さん」
声が変わった。
部下としてでも、軽口を言う弟としてでもない。
長い付き合いのある大人が、相手に落ち着くよう促す声だった。
「俺を出したのは、間違いじゃない」
バラライカは手を止めた。
アレクセイは続けた。
「現地で話ができる。リンの顔を知っている。何かあっても、レヴィと動ける。判断は妥当だった」
「結果として、囮にされた」
「向こうの思いどおりにはならなかった」
「今回はな」
弟は黙った。
その一言の奥にあるものを、知っていた。
今回だけではない。
ずっと昔から、彼女の中には帰還しなかった人間がいる。
出動前に会話をした者。
食事を分けた者。
命令を復唱し、最後に彼女を見た者。
その列の中へ、弟まで加わることを恐れている。
アレクセイは視線を落とした。
姉の手にも、いくつもの傷があった。
自分が覚えているより、少し骨ばって見えた。
「俺は、あの頃のままじゃない」
バラライカの指が止まる。
「分かっている」
「身体の話じゃない」
「分かっていると言った」
弟は顔を上げた。
「なら、帰ってくるたびに、失くしかけた荷物みたいに確かめるな」
言ったあとで、少し強すぎたと思った。
姉の顔から表情が消えたからだ。
部屋の外で電話が鳴った。
誰かが出た。
遠くの会話が、壁越しにくぐもって聞こえた。
バラライカはハンカチを畳んだ。
ひどく丁寧な動作だった。
「荷物なら、代わりがある」
弟は言葉を失った。
彼女はそれ以上、何も言わなかった。
ただ救急箱を閉じ、内線で医者を呼んだ。
アレクセイは椅子に座ったまま、窓の外を見た。
夕方の光が、隣の建物の壁を黄色く染めている。
ここでは雪は降らない。
凍えた指を、銃の機関部から引き剥がす必要もない。
それでも姉は、ときどき、あの寒い場所にいる。
「……悪かった」
バラライカは返事をしなかった。
アレクセイは右手で、机の上の皿を自分の方へ引いた。
誰も手をつけていないサンドイッチがあった。
一つ取って、口に入れる。
姉が彼を見る。
「昼は食べたんじゃなかったのか」
弟は噛み終えるまで待った。
「パンを一個」
「それを食事と言うな」
「食べなかったとは言ってない」
バラライカは、呆れたように鼻から息を吐いた。
それから水差しを取り、グラスに水を注いだ。
弟の前へ置く。
アレクセイは受け取り、少し笑った。
「ありがとう」
姉は机に戻ろうとして、彼の髪についた白い粉に気づいた。
冷凍庫の壁材だった。
手を伸ばす。
今度は、弟も止めなかった。
細かな粉を払い落とし、乱れた前髪を直す。
幼い頃と同じ癖だった。
けれど見上げてくる目は、とうに子供のものではない。
彼女を心配し、彼女の嘘を見抜き、彼女が疲れていることに気づく男の目だった。
「姉さんも食えよ」
「あとでいい」
「昼は?」
返事がなかった。
弟の眉が上がる。
バラライカが目を細める。
数秒後、彼女は向かいの椅子を引いた。
*
階下の車のそばで、レヴィは三本目の煙草を吸っていた。
「遅えよ」
「悪い」
ロックが隣に立つ。
通りの向こうでは、屋台の男が油を熱していた。
昼間と同じ街なのに、少し違って見えた。
「なあ、レヴィ」
「何だ」
「あの人は、いつもあんな感じなのか?」
「どっちだよ」
「バラライカ」
レヴィは煙を吐いた。
「弟がいるときだけな」
「意外だった」
「本人の前で言ってみろよ。私が葬式の手配をしてやる」
ロックは苦笑した。
それから、しばらく黙った。
製氷工場で伸ばした自分の手を思い出していた。
助けようとした。
そう言えば聞こえはいい。
だが彼が見ていたのは、目の前の人間ではなく、子供に見える身体だった。
アレクセイは、それを何度経験してきたのだろう。
説明し、驚かれ、疑われ、時には侮られる。
そのあとでようやく、話の中身を聞いてもらえる。
「俺、ずいぶん失礼なことをしたな」
レヴィが横目で見る。
「どのへんが?」
「子供扱いした」
「見りゃそう思うだろ」
「それでも」
「本人に怒られたか?」
ロックは首を振った。
「危ないから、つかむなとは言われた」
「じゃあ、次はつかむな。それでいい」
簡単な答えだった。
だが今日のロックには、その簡単さがありがたかった。
建物の扉が開いた。
ボリスに続いて、アレクセイが出てくる。
左手の包帯が新しくなっていた。
バラライカも一緒だった。
彼女は車の前で弟を止め、上着を差し出した。
アレクセイが何か言った。
声は聞こえない。
しかし唇の動きから、ロックにも少し分かった。
暑い。
たぶん、そう言ったのだ。
バラライカは聞き入れなかった。
上着を弟の肩にかける。
アレクセイがこちらに気づいた。
困ったような顔で、右手を少し上げた。
ロックも手を上げ返した。
レヴィが小さく笑う。
「あいつも大変だな」
「任務より?」
「さあな。どっちの方が断りづれえかは分かるけどよ」
アレクセイは姉に何か話してから、二人の方へ歩いてきた。
「帰るのか?」
「ああ」
ロックが答える。
「今日はありがとう」
「礼を言うのはこちらだ。書類と、手当てと」
「瓶も?」
アレクセイが笑った。
今度はロックも、つられた。
「そうだな。あれが一番助かった」
彼は右手を差し出した。
ロックは握った。
最初と同じ、小さく硬い手。
しかし、今度は大きさより、握り返す力の方を意識した。
「次に会ったら、何か奢るよ」
ロックが言った。
「炭酸水以外でも?」
「ああ。何でも」
「気をつけろよ、ロック」
レヴィが口を挟んだ。
「そいつ、安い酒は飲まねえぞ」
「安い酒は、十分飲んだ」
アレクセイは真面目な顔で答えた。
背後から、バラライカの声がした。
「アレクセイ」
弟が振り返る。
彼女は腕時計を指した。
アレクセイはロックに顔を戻し、小声で言った。
「今は薬を飲んでいる。酒の約束は、来週にしてくれ」
「分かった」
「では、また」
彼が車へ戻るのを、ロックは見送った。
バラライカは弟が乗り込むまで待ち、自分も続いた。
黒い車が通りへ出る。
やがて、夕方の渋滞の中へ消えていった。
*
夜になって、バラライカは別の部屋にいた。
窓のない、机と椅子だけの部屋だった。
製氷工場で捕らえられた男が、向かいに座っている。
彼女の背後にはボリス。
机の上には、男の所持品が並べられていた。
財布。
拳銃。
鍵。
折り畳まれた写真。
バラライカは写真を開いた。
港の路上で撮られたものだった。
アレクセイが、車から降りようとしている。
誰かと話している。
横顔だけが鮮明だった。
写真の端に、数字と短いロシア語が書き込まれていた。
彼女は、その文字を見つめた。
「これを、どこで手に入れた」
男は答えなかった。
バラライカは声を荒らげなかった。
「お前たちは、あれを子供だと思っていたのか」
男の喉が鳴った。
「……見た目は」
「質問に答えろ」
「そう聞かされた。あんたの身内で、そいつを押さえれば、あんたは話を聞くって」
バラライカは写真を机に置いた。
指先で、裏返す。
裏には古い部隊番号が記されていた。
今この街で弟を見つけた程度では、知りようのない番号だった。
ボリスが、彼女の背後でわずかに動いた。
バラライカは男を見た。
「誰から聞いた」
「知らない。本名は」
「呼び名は」
男は迷った。
そして、ようやく一つの名前を口にした。
バラライカの表情は変わらなかった。
しかしボリスには分かった。
彼女の右手が、完全に動きを止めた。
長い沈黙のあと、バラライカは椅子から立ち上がった。
「続きは軍曹に話せ」
扉へ向かう。
ボリスがついてきた。
廊下に出て、扉が閉まる。
「大尉」
「聞こえていた」
「本人とは限りません」
「分かっている」
彼女は写真を見た。
少年に見える弟。
その横顔の下に書かれた、とうに使われなくなった部隊番号。
忘れたことなどなかった。
忘れられる番号ではなかった。
「アレクセイには?」
ボリスが尋ねた。
バラライカは、すぐには答えなかった。
廊下の先から、食器を片づける音が聞こえる。
弟はまだ事務所にいる。
医者に渡された薬を飲んで、空いた椅子で本を読んでいるはずだった。
帰れと言っても、姉の仕事が終わるまで待つことがある。
本人は、車を二台出すのは無駄だからだと言う。
バラライカは写真を半分に畳んだ。
「隠しても、自分で調べる」
「では」
「私から話す」
彼女は廊下を歩き始めた。
事務所の扉の前で、一度だけ足を止める。
中から紙をめくる音がした。
生きている人間の、小さな生活の音だった。
バラライカは扉を開けた。
アレクセイが本から顔を上げる。
「終わった?」
「少し、話がある」
弟は彼女の顔を見た。
次に、その手の写真を見た。
椅子の背から身体を起こし、本を閉じる。
先ほどまでの柔らかな表情が消えた。
「仕事か、大尉」
バラライカは、弟の向かいに座った。
写真を机に置く。
「昔の話だ」
アレクセイは裏面の文字を読んだ。
長い間、何も言わなかった。
やがて右手を伸ばし、写真の折り目をゆっくりと撫でた。
その手つきだけが、ひどく年老いて見えた。
「……そうか」
窓の外では、ロアナプラの夜が始まっていた。
車のクラクション。
酒場の音楽。
どこかで誰かが笑い、別の場所で銃声がした。
アレクセイは写真から顔を上げた。
「今度は、俺にも全部話してくれ」
バラライカは、幼いままの弟の顔を見た。
そして、その奥にいる古参兵に向かってうなずいた。
「そのつもりだ」
第一話・了