BLACK LAGOON ―姉さん、俺はもう大人だ―   作:いっしきさん

1 / 2
第一話 少年の顔をした古参兵

第一話 少年の顔をした古参兵

 

ロアナプラでは、道端に子供が倒れていても、車は速度を落とさない。

 

それが眠っているだけなのか、腹を空かせて動けないのか、それとも死んでいるのか。確かめるために停車する人間には、たいてい別の用事がある。

 

ロックがその少年を見つけたときも、通りを走る車は一台も止まらなかった。

 

昼過ぎの港湾地区だった。

 

潮と軽油と腐った果物の臭いが、湿った空気に混ざっている。ラグーン商会の使いで書類を届けた帰り、ロックは雑貨屋の軒先に、小柄な人影が座っているのを見つけた。

 

十三、いや十四歳くらい。

 

色の薄い金髪。白い肌。くすんだ青い目。

 

大きすぎるわけではないのに、灰色のシャツと黒いズボンが、どうにも借り物に見えた。足元には古い革鞄。右手には、まだ蓋の開いていない瓶入りの炭酸水。

 

少年は軒下の影から、通りの向こうを眺めていた。

 

ロックは一度通り過ぎ、それから足を止めた。

 

外国人の子供が一人でいる場所ではない。

 

そう思った時点で、この街の住人としては失格なのかもしれなかった。

 

「誰かを待ってるのかい?」

 

英語で声をかける。

 

少年が顔を上げた。

 

【挿絵表示】

 

その目を見たとき、ロックはほんの少し言葉を失った。

 

疲れている、というのとも違う。

 

自分を見た一瞬で、服装、両手、靴、背後の道まで確かめられた気がした。

 

「そうだ」

 

声は若かった。

 

変声期を抜け切らないような響きがわずかに残っている。それなのに、言葉の置き方には妙に落ち着きがあった。

 

「お父さんか、お母さん?」

 

少年は二秒ほどロックを見つめた。

 

それから、瓶を膝の上に置いた。

 

「運転手だ」

 

「ああ……そうか」

 

「君は?」

 

「え?」

 

「誰を待ってる?」

 

「いや、俺は別に」

 

「だったら、そこは避けた方がいい。上の室外機から水が落ちる」

 

言われた直後、首筋に生ぬるい雫が落ちた。

 

ロックが飛び退くと、少年は少し笑った。

 

子供らしい笑い方ではなかった。

 

相手が恥をかかない程度に笑ってやる、年長者の笑い方だった。

 

「ありがとう」

 

「どういたしまして」

 

会話はそれで終わったはずだった。

 

だがロックは、少年の左手に白い包帯が巻かれているのを見つけた。

 

掌の下から手首まで、丁寧に巻かれている。端にわずかな血がにじんでいた。

 

「その手、怪我をしたのか?」

 

少年は自分の左手を見た。

 

「少し」

 

「病院には?」

 

「行った」

 

「一人で?」

 

「君は質問の多い男だな」

 

口調に苛立ちはなかった。

 

むしろ、少し面白がっている。

 

ロックは困って頭をかいた。

 

「悪い。この辺りは、その……」

 

「子供が一人でいる場所じゃない?」

 

先に言われた。

 

ロックが黙ると、少年は瓶を持ち上げた。

 

「だったら、車が来るまで付き合ってくれ。これも開けてくれると助かる」

 

栓抜きは革鞄の外ポケットに入っていた。

 

ロックが瓶を開けて渡すと、少年は礼を言い、炭酸水を一口飲んだ。

 

「日本人か」

 

「分かるのか?」

 

「背広を脱いでも、会社員に見える」

 

「そんなに?」

 

「悪い意味じゃない」

 

少年の視線が、ロックの胸元で止まった。

 

緩めたネクタイ。

 

この街に来てから何度も捨てようと思い、結局捨てられなかったもの。

 

「仕事は?」

 

「運び屋だ。ラグーン商会っていう」

 

「ああ」

 

初めて、少年の表情にはっきりとした関心が浮かんだ。

 

「君がロックか」

 

「俺を知ってる?」

 

「話は聞いている」

 

「誰から?」

 

答えを聞く前に、道路の向こうから怒鳴り声が飛んできた。

 

「ロック! てめえ、こんなとこで何やって――」

 

レヴィだった。

 

煙草をくわえ、苛立った顔で横断してくる。

 

彼女はロックの隣に座る少年を見たところで、足を止めた。

 

眉間に寄っていた皺が、別の形になる。

 

「……あんたかよ」

 

少年が瓶を軽く掲げた。

 

「久しぶりだ、レヴィ」

 

「何してんだ、そんなところで」

 

「迎えを待ってる。君の同僚が心配してくれてね」

 

レヴィがロックを見る。

 

その口元が、ゆっくりと持ち上がった。

 

ロックは嫌な予感がした。

 

「お前、こいつを迷子だと思ったのか?」

 

「いや、迷子っていうか」

 

「いくつに見えた?」

 

少年が尋ねた。

 

ロックは答えなかった。

 

少年は責めるでもなく、ただ事実を伝えた。

 

「三十四だ」

 

しばらく、車のエンジン音だけが聞こえた。

 

「……三十四?」

 

「来月で三十五になる」

 

レヴィが腹を抱えて笑い始めた。

 

【挿絵表示】

 

その笑い声を聞きながら、ロックはようやく気づいた。

 

少年の靴は、小さな足に合わせて作られた上質な革靴だった。

 

革鞄には、丁寧に補修された跡がある。

 

シャツの袖から見える右手の指には、子供のものとは思えない古傷がいくつも残っていた。

 

黒い車が歩道に寄った。

 

助手席から降りた男を見て、ロックの背筋が伸びる。

 

ボリスだった。

 

ホテル・モスクワの幹部。バラライカの傍らに控える、あの大柄な男。

 

彼は少年の前で立ち止まった。

 

「お待たせしました」

 

「大したことはない」

 

「連絡がありませんでしたので、大尉が」

 

「診察だ。取り調べじゃない。十分おきに報告はできん」

 

「その説明は、ご本人に」

 

少年が、ごく小さくため息をついた。

 

レヴィが笑いながら煙草を捨てる。

 

「こいつ、あんたのこと、保護しようとしてたぜ」

 

ボリスはロックを見た。

 

一瞬だけ、その厳めしい顔に何かが浮かんだ。

 

笑みだったのかもしれない。

 

少年は立ち上がり、右手を差し出した。

 

「アレクセイだ。瓶を開けてくれてありがとう」

 

ロックは、その小さな手を握った。

 

骨ばった、硬い手だった。

 

「俺は……」

 

「ロック。覚えたよ」

 

アレクセイは革鞄を持ち上げ、車に乗り込もうとしてから振り返った。

 

「君も来るんだろう?」

 

「どこへ?」

 

「事務所へ。姉が仕事を頼みたいそうだ」

 

ロックはボリスを見た。

 

次にレヴィを見た。

 

最後に、もう一度アレクセイを見た。

 

レヴィは、今日一番楽しそうな顔をしていた。

 

「おめでとう、ロック。お前が拾ったガキは、あの女の弟だ」

 

*

 

バラライカは、弟が部屋に入るなり時計を見た。

 

それから包帯を見た。

 

ロックへの挨拶は、その後だった。

 

「ようこそ、ロック。座りたまえ」

 

声はいつもどおりだった。

 

低く、余裕があり、相手が従うことを疑っていない。

 

だが、その目はまだアレクセイの左手に向いていた。

 

「医者は何と?」

 

「傷は塞がる。骨も腱も問題なし」

 

「抜糸は」

 

「来週」

 

「薬は」

 

アレクセイが革鞄を持ち上げた。

 

「この中だ」

 

「見せろ」

 

「あとで渡す」

 

弟は自然な動作で、机の正面ではなく、脇に置かれた椅子に腰を下ろした。

 

そこに座ることを許されている人間がいると、ロックは考えたこともなかった。

 

バラライカの机に近すぎる。

 

それも、銃を抜くにも立ち上がるにも邪魔になる位置だった。

 

しかし彼女は何も言わなかった。

 

代わりに、机の上の葉巻を灰皿に置いた。

 

「昼は食べたのか」

 

「食べた」

 

「何を」

 

「姉さん」

 

初めて、その呼び方が出た。

 

アレクセイはロックとレヴィを顎で示した。

 

「客を呼んだんだろう」

 

バラライカは一拍置いて、書類を手前に引いた。

 

「そうだったな」

 

レヴィがソファで肩を震わせていた。

 

ロックは笑えなかった。

 

目の前で起きていることを、まだうまく整理できていない。

 

バラライカに弟がいる。

 

その弟は、自分より年上だ。

 

そして外見は、どう見ても中学生だった。

 

「私の顔に何かついているかね、ロック」

 

「いえ」

 

「なら、こちらを見たまえ」

 

薄い封筒が机の上を滑った。

 

中には、倉庫の住所と人名、それに数枚の船荷証券が入っていた。

 

「リン・ウェン。港で通関の仲介をしている男だ。我々の荷物を扱っていたが、二日前から姿を消した」

 

「持ち逃げですか?」

 

「そう見えるようにしてある」

 

答えたのはアレクセイだった。

 

彼はロックの手元を指した。

 

「三枚目。署名が違う」

 

ロックは書類を見比べた。

 

確かに、最初の二枚と最後の一枚では、筆圧も文字の傾きも違う。

 

「代理の担当者ということは?」

 

「担当者は全員、確認した」

 

バラライカが言った。

 

「今朝になって、本人から連絡があった。身柄の保護と引き換えに、帳簿を返すという」

 

「警察には?」

 

口にしてから、ロックは自分の質問が場違いだと悟った。

 

レヴィが鼻で笑う。

 

アレクセイは笑わなかった。

 

「この街の警察は、保護した人間を別の買い手に渡すことがある」

 

天気の話でもするような調子だった。

 

「リンは、日本企業の現地駐在員だった男を窓口に使っている。そいつが日本語でしか話したがらない。だから君に来てもらいたい」

 

「通訳ですか」

 

「それと、書類を見る目だ」

 

バラライカがロックを見た。

 

「銃の扱いは期待していない。分からないことを、分かったふりもしなくていい」

 

「俺とレヴィで?」

 

「アレクセイも同行する」

 

その言葉に、弟が椅子の背から体を起こした。

 

仕事の話になった瞬間、姿勢が変わった。

 

それまでの気の抜けた様子が消え、机の上の資料に視線が集まる。

 

「現地での判断は?」

 

「お前に任せる」

 

「撤収の基準は」

 

「帳簿より人員を優先しろ。追跡はするな」

 

「了解、大尉」

 

呼び方まで変わった。

 

ロックは、その切り替わりを見ていた。

 

バラライカもまた、弟を見る目を変えていた。

 

先ほどまでの姉ではない。

 

部下を送り出す指揮官の目だった。

 

ただ、アレクセイが立ち上がると、彼女はもう一度だけ包帯を見た。

 

「左手は使うな」

 

「必要がなければ」

 

「アレクセイ」

 

弟は振り返った。

 

「左手を使わずに死ぬくらいなら、使って帰る。そういう教育だったはずだ」

 

ボリスが窓の外に目を向けた。

 

レヴィが天井を見た。

 

バラライカだけが、弟をまっすぐ見ていた。

 

やがて、彼女は短く言った。

 

「……帰ってから、医者に見せろ」

 

「了解」

 

*

 

車の後部座席で、ロックは何度も質問を飲み込んだ。

 

隣のアレクセイは、船荷証券を読んでいる。

 

膝の上に置くと紙が大きく見えた。その光景に違和感を覚えるたび、ロックは軒先で聞いた年齢を思い出した。

 

三十四。

 

自分よりもずっと長く生きている。

 

「何か聞きたいんだろう」

 

書類から目を上げずに、アレクセイが言った。

 

前の席で、レヴィが笑った。

 

「さっきから、こいつの頭の中がうるさくてな」

 

「悪い」

 

「謝るくらいなら聞けばいい」

 

ロックは少し迷った。

 

「昔から、そういう……身体なのか?」

 

アレクセイは書類を揃えた。

 

「途中までは育った」

 

窓の外を、果物を積んだ荷車が流れていく。

 

「戦争があった。食う物も寝る場所も足りなかった。怪我も病気もした。そのうち、背が伸びなくなった」

 

「それが原因?」

 

「医者によって説明が違う。今になって、どれが原因だったのか決めるのは難しいそうだ」

 

そこまで話してから、彼はロックを見た。

 

「ただ、心まで止まったわけじゃない」

 

「ああ。それは、分かってる」

 

「まだ分からんだろう。会って一時間だ」

 

責める口調ではなかった。

 

だから余計に、ロックは返す言葉に困った。

 

アレクセイは、また書類を開いた。

 

「君が悪いわけじゃない。見れば、まずそう思う。毎回腹を立てていたら、仕事にならん」

 

レヴィが窓を少し下げ、煙を外に吐いた。

 

「こいつに喧嘩売った酔っ払いを見たことあるぜ。三分後には、本人より店の親父が謝ってた」

 

「椅子を壊したからな」

 

「お前がな」

 

「相手が座ったまま殴ろうとした」

 

「あの椅子、結構いい値段だったぞ」

 

「弁償した」

 

軽いやり取りだった。

 

ロックは二人の会話を聞きながら、アレクセイの横顔を見た。

 

自分の身体を語ることに慣れている。

 

それも、説明する側が相手を気遣わなければならないことにまで。

 

「お姉さんと、同じ部隊だったんだって?」

 

「ああ」

 

「ずっと?」

 

「少なくとも、俺が軍服を着ていた間は」

 

「今も、上官なんだな」

 

アレクセイは少し考えた。

 

「仕事ではな」

 

「それ以外では?」

 

「薬の袋まで確認する」

 

レヴィが声を上げて笑った。

 

アレクセイの口元にも、薄い笑みが浮かんだ。

 

「君にまで気を遣わせたな。あの人の前では、あまり珍しそうに見ないでやってくれ」

 

「君を?」

 

「姉をだ」

 

ロックが瞬きをする。

 

アレクセイは、何でもないことのように言った。

 

「自分が過保護だと思われるのは、嫌らしい」

 

*

 

待ち合わせ場所は、使われなくなった製氷工場だった。

 

錆びた看板。

 

半分だけ開いた鉄の門。

 

中庭には、タイヤを外されたトラックが一台置かれていた。

 

アレクセイは車を降りる前に、腕時計を確かめた。

 

「ロック。君の仕事は、相手の言葉と書類を確かめることだ。危ないと思ったら、会話の途中でも下がれ」

 

「分かった」

 

「俺に何か起きても、近づくな」

 

ロックは思わず彼を見た。

 

アレクセイは続けた。

 

「レヴィが動けなくなったときも同じだ。まず、自分が隠れる場所を探せ」

 

「おい。私が動けなくなる前提かよ」

 

「可能性の話だ」

 

「お前の説教、ボリスに似てきたぞ」

 

「本人には言うな。喜ぶ」

 

門をくぐると、奥の事務所から痩せた男が出てきた。

 

日本人だった。

 

年は四十前後。汗で張りついたシャツの襟が、首に食い込んでいる。

 

「日本の方ですか」

 

男は、ほっとしたようにロックに近づいた。

 

「田辺です。連絡した」

 

「ロックです。リンさんは?」

 

「中にいます。あの、こちらの方は」

 

男の視線がレヴィで止まり、腰の拳銃に落ちた。

 

次にアレクセイを見て、眉をひそめる。

 

「お子さんまで連れてこられたんですか?」

 

ロックが口を開く前に、アレクセイが言った。

 

「通訳を」

 

ロックは、田辺の言葉をそのまま英語にした。

 

一瞬、訳すべきか迷った侮りまで含めて。

 

アレクセイは小さくうなずいた。

 

「責任者だと伝えてくれ」

 

田辺の顔が固まった。

 

「……冗談ですよね?」

 

「仕事の話をしよう」

 

ロックは訳した。

 

田辺は笑いかけ、誰も笑っていないことに気づいて口を閉じた。

 

事務所には、もう一人の男がいた。

 

椅子に座り、両手を膝に置いている。

 

リン・ウェン。

 

写真よりも顔が腫れていた。

 

口元に乾いた傷があり、右目が細くなっている。

 

机の上には、黒い帳簿と茶封筒。

 

天井の扇風機が、軋む音を立てて回っていた。

 

「ひどい顔だな、リン」

 

アレクセイが英語で言った。

 

リンは顔を上げ、彼を見ると息を止めた。

 

「あなたが来るとは」

 

「俺では困るか」

 

「いや」

 

返事が速すぎた。

 

ロックにも、それは分かった。

 

アレクセイは椅子に座らなかった。

 

机の端に立ち、黒い帳簿を見た。

 

「話を聞こう」

 

リンは唇を舐めた。

 

「荷物を抜いたのは、俺じゃない。別の連中だ。帳簿を使われた」

 

「誰に?」

 

「名前は知らない」

 

「顔は?」

 

「何人もいた」

 

「そうか」

 

アレクセイは追及しなかった。

 

それがかえって、部屋を落ち着かなくさせた。

 

田辺が日本語で、早口に話し始めた。

 

「とにかく、彼は返すと言ってるんです。金も、後から何とかすると。ただ、安全な場所へ移してもらわないと」

 

ロックは訳しながら、机の茶封筒を見た。

 

表に書かれた日本語。

 

医療機器の輸出書類だった。

 

しかし、昨日までホテル・モスクワの貨物だったものが、突然日本の医療商社名義になる理由が分からない。

 

「これは?」

 

ロックが尋ねると、田辺がすぐ手を伸ばした。

 

「それは関係ありません」

 

その速さに、アレクセイの視線が動いた。

 

「ロック」

 

「船積み書類です。ただ……会社名が変です」

 

記憶にある名前だった。

 

前の会社で、取引先の一覧に載っていた。

 

その会社は、すでに別の商社へ吸収されている。

 

少なくとも、この日付で新しい書類を発行できるはずがなかった。

 

ロックが説明すると、アレクセイは封筒から田辺の手を離させた。

 

力はほとんど使わなかった。

 

手首に指を添えただけなのに、田辺の肩が強張った。

 

「どこで受け取った」

 

ロックが訳す。

 

田辺の喉が動く。

 

そのとき、リンが椅子の上でわずかに身じろぎした。

 

ズボンの裾が上がり、足首に巻かれた白い樹脂の帯が見えた。

 

椅子の脚につながっている。

 

ロックの息が止まった。

 

アレクセイは、もう見ていた。

 

目線を動かさず、静かに言った。

 

「田辺に聞いてくれ。奥には何人いる」

 

ロックが訳すより先に、壁の向こうで何かが倒れた。

 

田辺が目を閉じた。

 

レヴィの右手が動いた。

 

「やっぱり、そういう歓迎かよ」

 

*

 

最初の銃声は、裏口の方から聞こえた。

 

レヴィがロックの襟をつかんだ。

 

床へ引き倒され、肩が机の角にぶつかる。

 

直後、窓ガラスが砕けた。

 

ロックには、何がどこから飛んできたのか分からなかった。

 

大きな音。

 

耳に詰まる空気。

 

降ってくる細かなガラス。

 

机の向こうで田辺が叫んでいた。

 

「伏せてろ!」

 

レヴィの声。

 

ロックは両腕で頭をかばった。

 

そこへ、小さな靴が滑り込んできた。

 

アレクセイだった。

 

左手でリンの椅子を倒し、右手に握った拳銃を扉へ向けている。

 

その顔に驚きはなかった。

 

怯えも、怒りも。

 

ただ、相手の動きを確かめる目があった。

 

「リン。動くな」

 

短い発砲。

 

廊下で誰かが壁にぶつかった。

 

ロックは、その音に身を縮めた。

 

隣ではアレクセイが、床に倒れた椅子の脚を調べている。

 

傷のある左手でリンの肩を押さえ、右手でナイフを抜いた。

 

樹脂の帯が切れる。

 

「這えるか」

 

リンがうなずく。

 

「奥の壁まで行け。田辺もだ」

 

田辺は立ち上がろうとした。

 

アレクセイが声を強めた。

 

「這って行け!」

 

言葉が分からなくても、意味は通じた。

 

男は床に手をつき、机の下へ潜り込んだ。

 

ロックは、アレクセイの包帯が赤くなっているのに気づいた。

 

左手を使うな。

 

事務所で聞いた姉の言葉が、場違いなほど鮮明に蘇った。

 

「手が」

 

「後だ」

 

返事は短かった。

 

アレクセイは無線機を口元へ持っていった。

 

「接触した。こちら四名と保護対象一名。負傷は軽微。予定を中止する」

 

雑音の奥から、ボリスの声が返った。

 

ロックには内容まで聞き取れなかった。

 

レヴィが窓際から二発撃ち、身を引いた。

 

「表にもいるぜ」

 

「見えた人数は」

 

「二人。奥は知らねえ」

 

「外へ追うな」

 

「分かってるよ」

 

アレクセイはロックに向き直った。

 

「田辺に聞け。裏の通路は、どこへ出る」

 

ロックは喉を鳴らした。

 

声が出なかった。

 

もう一度息を吸う。

 

日本語で尋ねると、田辺は震えながら答えた。

 

「冷凍庫。もう使ってない。そこから荷捌き場に」

 

ロックが訳す。

 

アレクセイは一度だけうなずいた。

 

「よし。今ので十分だ」

 

その言い方に、ロックは妙な既視感を覚えた。

 

混乱した部下に、次にやることだけを渡す。

 

前の職場にも、そういう上司がいた。

 

違うのは、ここで判断を誤れば、叱責では済まないことだった。

 

「レヴィ」

 

「聞こえてる」

 

「俺が確認する。二人を頼む」

 

「その手で?」

 

「右は動く」

 

レヴィは舌打ちした。

 

反論はしなかった。

 

アレクセイが机の陰から出た。

 

小さな身体が扉の脇へ移る。

 

ロックは思わず手を伸ばした。

 

子供が危ない場所へ行く。

 

身体が、勝手にそう判断した。

 

シャツの背をつかむ寸前、アレクセイが振り向いた。

 

青い目がロックを捉えた。

 

怒ってはいなかった。

 

ただ、厳しかった。

 

「離してくれ」

 

まだ触れてもいない手を、ロックは引っ込めた。

 

「……すまない」

 

「あとで聞く。今は下がれ」

 

ロックは言われたとおりにした。

 

アレクセイは扉の向こうを確かめ、短く合図した。

 

その動きを、レヴィが何のためらいもなく受け取った。

 

誰も彼を守るために動いていない。

 

彼と一緒に、生きて帰るために動いている。

 

ロックはようやく、その違いを理解し始めていた。

 

*

 

冷凍庫だった部屋には、古い油とカビの臭いがこもっていた。

 

壁の断熱材が剥がれ、床には錆びた台車が転がっている。

 

レヴィが後方を見張り、アレクセイが外につながる扉の前に立った。

 

リンは呼吸を乱し、田辺は泣いていた。

 

ロックは二人を壁際へ寄せた。

 

銃声は一度止まり、遠くでまた始まった。

 

違う方向からだった。

 

外にいたホテル・モスクワの兵士たちが動いたのだと、ロックにも分かった。

 

アレクセイの無線が鳴る。

 

短いやり取り。

 

「迎えが来る」

 

彼はそう言って、ようやく左手を見た。

 

包帯の赤い部分が広がっている。

 

ロックはポケットからハンカチを取り出した。

 

「これ、使えるか」

 

アレクセイが顔を上げた。

 

一瞬だけ、先ほどの厳しさが戻るかと思った。

 

しかし彼は、右手を差し出した。

 

「助かる」

 

ロックは包帯の上からハンカチを巻いた。

 

結び目を作る指が震えていた。

 

「きつすぎる?」

 

「それでいい」

 

「さっきは、邪魔をした」

 

アレクセイは黙っていた。

 

ロックは続けた。

 

「君が行くのを見て、つい」

 

「分かっている」

 

「でも、あれは」

 

「危ない」

 

アレクセイが言った。

 

穏やかだったが、言葉を濁さなかった。

 

「俺も、君も死ぬ。ああいうときは、声をかけてくれ。身体をつかまれると、何をされたのか判断する時間が要る」

 

ロックはうなずいた。

 

謝るより、覚えるべきことだった。

 

レヴィが扉の向こうを見たまま言った。

 

「ロックはな、余計な世話を焼かねえと息ができねえんだ」

 

「悪い癖ではない」

 

「この街じゃ、寿命が縮む」

 

「だから、やり方を覚えればいい」

 

アレクセイは、巻かれたハンカチを軽く押さえた。

 

「全部やめる必要はない」

 

ロックは返事をしなかった。

 

できなかった。

 

そのとき、田辺が日本語で言った。

 

「俺は、こんなことになるなんて」

 

ロックは彼を見た。

 

「何を頼まれたんです」

 

「通訳だけだ。あいつらが、ロシア人と話をするからって」

 

「リンさんが縛られてたのに?」

 

田辺は口を開き、閉じた。

 

リンが、俯いたまま英語で話し始めた。

 

「狙いは俺じゃない」

 

アレクセイが顔を向ける。

 

「知っていることを言え」

 

「帳簿も、荷物も、全部、あんたを呼ぶためだった」

 

冷凍庫の中が静かになった。

 

遠くの銃声だけが聞こえる。

 

リンは唇を震わせた。

 

「女の身内がいると聞いたらしい。小さくて、若く見える男だと。捕まえれば、話ができるって」

 

レヴィがゆっくりと振り向いた。

 

「ずいぶん安く見られたもんだな」

 

アレクセイは表情を変えなかった。

 

「誰が言った」

 

「運びの連中だ。最近、港に来た」

 

「顔は覚えているか」

 

リンがうなずく。

 

アレクセイは無線機を取り上げた。

 

淡々と報告した。

 

自分が標的だったことも、相手が姉との取引材料にするつもりだったことも、荷物の数を伝えるように話した。

 

通信が切れたあと、ロックは尋ねた。

 

「分かってたのか?」

 

「可能性はあった」

 

「それで来た?」

 

「誰かが確かめる必要があった」

 

「でも、君が狙いなら」

 

アレクセイはロックを見た。

 

「君にも危険が及んだ。それについては、説明が足りなかった」

 

言い訳をしなかった。

 

そのことが、ロックにはかえって重かった。

 

やがて外の扉が叩かれ、決まった呼びかけがあった。

 

アレクセイが返事をする。

 

扉が開き、ボリスが姿を見せた。

 

彼はまず室内を確かめ、それから弟の手を見た。

 

「歩けますか」

 

「足は無事だ」

 

「車へ」

 

「リンと田辺を先に」

 

ボリスは何も言わず、部下に顎で指示した。

 

外へ出る直前、アレクセイがロックの肩に触れた。

 

「足元を見ろ。ガラスがある」

 

その声は、最初に軒先で聞いたものと同じだった。

 

*

 

事務所に戻ると、バラライカは立っていた。

 

ロックは、彼女が座って待っているものと思っていた。

 

机の上には開いたままの書類。

 

灰皿には、途中で揉み消された葉巻。

 

窓際の電話の受話器が、わずかにずれて置かれていた。

 

「報告を」

 

アレクセイが説明を始めた。

 

リンが拘束されていたこと。

 

書類が偽造されていたこと。

 

武装した男たちが待ち伏せしていたこと。

 

こちらに重傷者はいないこと。

 

ロックが会社名の不一致を見つけたことも、抜かさず伝えた。

 

バラライカは途中で口を挟まなかった。

 

ただ、弟が話している間、その左手を何度か見た。

 

「以上です」

 

報告が終わる。

 

彼女はボリスに向いた。

 

「確保した連中は?」

 

「別室です」

 

「リンと日本人は分けておけ。話を合わせさせるな」

 

「了解しました」

 

「レヴィ。報酬は約束どおりだ。今回の分は上乗せする」

 

「毎度どうも」

 

「ロック」

 

名前を呼ばれ、ロックは背筋を伸ばした。

 

「よく気づいた」

 

「偶然、知っていただけです」

 

「知っている人間を呼んだ。その判断は正しかったということだ」

 

褒められているのか、仕事を評価されているのか。

 

たぶん、その両方だった。

 

バラライカは、そこで初めて弟の前に立った。

 

「手を」

 

アレクセイが左手を出した。

 

彼女はロックのハンカチを見た。

 

「これは?」

 

「借りた」

 

「傷は開いたのか」

 

「少し」

 

「少し、か」

 

その言葉には、静かな怒りがあった。

 

アレクセイは姉の目を見た。

 

「リンを引き倒す必要があった。椅子につながれていた」

 

「お前がやる必要は」

 

「一番近かった」

 

バラライカの口が閉じた。

 

それが正しい答えだと、誰よりも彼女自身が知っていた。

 

部屋の空気が張りつめる。

 

レヴィがソファから腰を上げた。

 

「私は下で待ってるぜ、ロック」

 

ボリスも扉へ向かった。

 

ロックだけが、退出するタイミングを失った。

 

アレクセイが先に言った。

 

「ロック。ハンカチは洗って返す」

 

「いや、いい。捨ててくれ」

 

「そうか。じゃあ、新しいものを」

 

「本当にいいよ」

 

バラライカの視線が、二人の間を動いた。

 

アレクセイは小さく笑った。

 

「分かった。ありがとう」

 

ロックは扉へ向かい、手をかけたところで足を止めた。

 

振り返るつもりはなかった。

 

けれど、言っておくべきだと思った。

 

「彼がいて、助かりました」

 

部屋の奥で、誰も動かなかった。

 

「俺だけじゃ、何もできなかった。リンさんも、あのままだったと思います」

 

バラライカはロックを見ていた。

 

何を考えているのかは分からない。

 

ただ、先ほどまでの張りつめたものが、ほんの少しだけ緩んだ。

 

「承知している」

 

彼女は言った。

 

「私の部下だ」

 

アレクセイは何も言わなかった。

 

けれどロックには、その言葉を喜んでいるように見えた。

 

扉を閉める直前、バラライカが弟の襟に手を伸ばすのが見えた。

 

折れていた部分を直す、短い仕草だった。

 

弟は少し顔をしかめた。

 

振り払うことはしなかった。

 

*

 

扉が閉まると、アレクセイは息を吐いた。

 

「説教なら、医者のあとにしてくれ」

 

「座れ」

 

「ほら、始まった」

 

「座れと言った」

 

弟は椅子に腰を下ろした。

 

バラライカは救急箱を取り出し、包帯の端を確かめた。

 

乾いた血が布に張りついている。

 

無理には剥がさず、上から巻かれたハンカチだけを外した。

 

白い布だった。

 

今は半分ほどが赤茶色になっている。

 

「狙われていると、どこで気づいた」

 

「リンが俺を見たとき」

 

「その時点で退くべきだった」

 

「まだ確信はなかった」

 

「確信がつくまで待つ必要はない」

 

「姉さん」

 

声が変わった。

 

部下としてでも、軽口を言う弟としてでもない。

 

長い付き合いのある大人が、相手に落ち着くよう促す声だった。

 

「俺を出したのは、間違いじゃない」

 

バラライカは手を止めた。

 

アレクセイは続けた。

 

「現地で話ができる。リンの顔を知っている。何かあっても、レヴィと動ける。判断は妥当だった」

 

「結果として、囮にされた」

 

「向こうの思いどおりにはならなかった」

 

「今回はな」

 

弟は黙った。

 

その一言の奥にあるものを、知っていた。

 

今回だけではない。

 

ずっと昔から、彼女の中には帰還しなかった人間がいる。

 

出動前に会話をした者。

 

食事を分けた者。

 

命令を復唱し、最後に彼女を見た者。

 

その列の中へ、弟まで加わることを恐れている。

 

アレクセイは視線を落とした。

 

姉の手にも、いくつもの傷があった。

 

自分が覚えているより、少し骨ばって見えた。

 

「俺は、あの頃のままじゃない」

 

バラライカの指が止まる。

 

「分かっている」

 

「身体の話じゃない」

 

「分かっていると言った」

 

弟は顔を上げた。

 

「なら、帰ってくるたびに、失くしかけた荷物みたいに確かめるな」

 

言ったあとで、少し強すぎたと思った。

 

姉の顔から表情が消えたからだ。

 

部屋の外で電話が鳴った。

 

誰かが出た。

 

遠くの会話が、壁越しにくぐもって聞こえた。

 

バラライカはハンカチを畳んだ。

 

ひどく丁寧な動作だった。

 

「荷物なら、代わりがある」

 

弟は言葉を失った。

 

彼女はそれ以上、何も言わなかった。

 

ただ救急箱を閉じ、内線で医者を呼んだ。

 

アレクセイは椅子に座ったまま、窓の外を見た。

 

夕方の光が、隣の建物の壁を黄色く染めている。

 

ここでは雪は降らない。

 

凍えた指を、銃の機関部から引き剥がす必要もない。

 

それでも姉は、ときどき、あの寒い場所にいる。

 

「……悪かった」

 

バラライカは返事をしなかった。

 

アレクセイは右手で、机の上の皿を自分の方へ引いた。

 

誰も手をつけていないサンドイッチがあった。

 

一つ取って、口に入れる。

 

姉が彼を見る。

 

「昼は食べたんじゃなかったのか」

 

弟は噛み終えるまで待った。

 

「パンを一個」

 

「それを食事と言うな」

 

「食べなかったとは言ってない」

 

バラライカは、呆れたように鼻から息を吐いた。

 

それから水差しを取り、グラスに水を注いだ。

 

弟の前へ置く。

 

アレクセイは受け取り、少し笑った。

 

「ありがとう」

 

姉は机に戻ろうとして、彼の髪についた白い粉に気づいた。

 

冷凍庫の壁材だった。

 

手を伸ばす。

 

今度は、弟も止めなかった。

 

細かな粉を払い落とし、乱れた前髪を直す。

 

幼い頃と同じ癖だった。

 

けれど見上げてくる目は、とうに子供のものではない。

 

彼女を心配し、彼女の嘘を見抜き、彼女が疲れていることに気づく男の目だった。

 

「姉さんも食えよ」

 

「あとでいい」

 

「昼は?」

 

返事がなかった。

 

弟の眉が上がる。

 

バラライカが目を細める。

 

数秒後、彼女は向かいの椅子を引いた。

 

*

 

階下の車のそばで、レヴィは三本目の煙草を吸っていた。

 

「遅えよ」

 

「悪い」

 

ロックが隣に立つ。

 

通りの向こうでは、屋台の男が油を熱していた。

 

昼間と同じ街なのに、少し違って見えた。

 

「なあ、レヴィ」

 

「何だ」

 

「あの人は、いつもあんな感じなのか?」

 

「どっちだよ」

 

「バラライカ」

 

レヴィは煙を吐いた。

 

「弟がいるときだけな」

 

「意外だった」

 

「本人の前で言ってみろよ。私が葬式の手配をしてやる」

 

ロックは苦笑した。

 

それから、しばらく黙った。

 

製氷工場で伸ばした自分の手を思い出していた。

 

助けようとした。

 

そう言えば聞こえはいい。

 

だが彼が見ていたのは、目の前の人間ではなく、子供に見える身体だった。

 

アレクセイは、それを何度経験してきたのだろう。

 

説明し、驚かれ、疑われ、時には侮られる。

 

そのあとでようやく、話の中身を聞いてもらえる。

 

「俺、ずいぶん失礼なことをしたな」

 

レヴィが横目で見る。

 

「どのへんが?」

 

「子供扱いした」

 

「見りゃそう思うだろ」

 

「それでも」

 

「本人に怒られたか?」

 

ロックは首を振った。

 

「危ないから、つかむなとは言われた」

 

「じゃあ、次はつかむな。それでいい」

 

簡単な答えだった。

 

だが今日のロックには、その簡単さがありがたかった。

 

建物の扉が開いた。

 

ボリスに続いて、アレクセイが出てくる。

 

左手の包帯が新しくなっていた。

 

バラライカも一緒だった。

 

彼女は車の前で弟を止め、上着を差し出した。

 

アレクセイが何か言った。

 

声は聞こえない。

 

しかし唇の動きから、ロックにも少し分かった。

 

暑い。

 

たぶん、そう言ったのだ。

 

バラライカは聞き入れなかった。

 

上着を弟の肩にかける。

 

アレクセイがこちらに気づいた。

 

困ったような顔で、右手を少し上げた。

 

ロックも手を上げ返した。

 

レヴィが小さく笑う。

 

「あいつも大変だな」

 

「任務より?」

 

「さあな。どっちの方が断りづれえかは分かるけどよ」

 

アレクセイは姉に何か話してから、二人の方へ歩いてきた。

 

「帰るのか?」

 

「ああ」

 

ロックが答える。

 

「今日はありがとう」

 

「礼を言うのはこちらだ。書類と、手当てと」

 

「瓶も?」

 

アレクセイが笑った。

 

今度はロックも、つられた。

 

「そうだな。あれが一番助かった」

 

彼は右手を差し出した。

 

ロックは握った。

 

最初と同じ、小さく硬い手。

 

しかし、今度は大きさより、握り返す力の方を意識した。

 

「次に会ったら、何か奢るよ」

 

ロックが言った。

 

「炭酸水以外でも?」

 

「ああ。何でも」

 

「気をつけろよ、ロック」

 

レヴィが口を挟んだ。

 

「そいつ、安い酒は飲まねえぞ」

 

「安い酒は、十分飲んだ」

 

アレクセイは真面目な顔で答えた。

 

背後から、バラライカの声がした。

 

「アレクセイ」

 

弟が振り返る。

 

彼女は腕時計を指した。

 

アレクセイはロックに顔を戻し、小声で言った。

 

「今は薬を飲んでいる。酒の約束は、来週にしてくれ」

 

「分かった」

 

「では、また」

 

彼が車へ戻るのを、ロックは見送った。

 

バラライカは弟が乗り込むまで待ち、自分も続いた。

 

黒い車が通りへ出る。

 

やがて、夕方の渋滞の中へ消えていった。

 

*

 

夜になって、バラライカは別の部屋にいた。

 

窓のない、机と椅子だけの部屋だった。

 

製氷工場で捕らえられた男が、向かいに座っている。

 

彼女の背後にはボリス。

 

机の上には、男の所持品が並べられていた。

 

財布。

 

拳銃。

 

鍵。

 

折り畳まれた写真。

 

バラライカは写真を開いた。

 

港の路上で撮られたものだった。

 

アレクセイが、車から降りようとしている。

 

誰かと話している。

 

横顔だけが鮮明だった。

 

写真の端に、数字と短いロシア語が書き込まれていた。

 

彼女は、その文字を見つめた。

 

「これを、どこで手に入れた」

 

男は答えなかった。

 

バラライカは声を荒らげなかった。

 

「お前たちは、あれを子供だと思っていたのか」

 

男の喉が鳴った。

 

「……見た目は」

 

「質問に答えろ」

 

「そう聞かされた。あんたの身内で、そいつを押さえれば、あんたは話を聞くって」

 

バラライカは写真を机に置いた。

 

指先で、裏返す。

 

裏には古い部隊番号が記されていた。

 

今この街で弟を見つけた程度では、知りようのない番号だった。

 

ボリスが、彼女の背後でわずかに動いた。

 

バラライカは男を見た。

 

「誰から聞いた」

 

「知らない。本名は」

 

「呼び名は」

 

男は迷った。

 

そして、ようやく一つの名前を口にした。

 

バラライカの表情は変わらなかった。

 

しかしボリスには分かった。

 

彼女の右手が、完全に動きを止めた。

 

長い沈黙のあと、バラライカは椅子から立ち上がった。

 

「続きは軍曹に話せ」

 

扉へ向かう。

 

ボリスがついてきた。

 

廊下に出て、扉が閉まる。

 

「大尉」

 

「聞こえていた」

 

「本人とは限りません」

 

「分かっている」

 

彼女は写真を見た。

 

少年に見える弟。

 

その横顔の下に書かれた、とうに使われなくなった部隊番号。

 

忘れたことなどなかった。

 

忘れられる番号ではなかった。

 

「アレクセイには?」

 

ボリスが尋ねた。

 

バラライカは、すぐには答えなかった。

 

廊下の先から、食器を片づける音が聞こえる。

 

弟はまだ事務所にいる。

 

医者に渡された薬を飲んで、空いた椅子で本を読んでいるはずだった。

 

帰れと言っても、姉の仕事が終わるまで待つことがある。

 

本人は、車を二台出すのは無駄だからだと言う。

 

バラライカは写真を半分に畳んだ。

 

「隠しても、自分で調べる」

 

「では」

 

「私から話す」

 

彼女は廊下を歩き始めた。

 

事務所の扉の前で、一度だけ足を止める。

 

中から紙をめくる音がした。

 

生きている人間の、小さな生活の音だった。

 

バラライカは扉を開けた。

 

アレクセイが本から顔を上げる。

 

「終わった?」

 

「少し、話がある」

 

弟は彼女の顔を見た。

 

次に、その手の写真を見た。

 

椅子の背から身体を起こし、本を閉じる。

 

先ほどまでの柔らかな表情が消えた。

 

「仕事か、大尉」

 

バラライカは、弟の向かいに座った。

 

写真を机に置く。

 

「昔の話だ」

 

アレクセイは裏面の文字を読んだ。

 

長い間、何も言わなかった。

 

やがて右手を伸ばし、写真の折り目をゆっくりと撫でた。

 

その手つきだけが、ひどく年老いて見えた。

 

「……そうか」

 

窓の外では、ロアナプラの夜が始まっていた。

 

車のクラクション。

 

酒場の音楽。

 

どこかで誰かが笑い、別の場所で銃声がした。

 

アレクセイは写真から顔を上げた。

 

「今度は、俺にも全部話してくれ」

 

バラライカは、幼いままの弟の顔を見た。

 

そして、その奥にいる古参兵に向かってうなずいた。

 

「そのつもりだ」

 

第一話・了

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。