BLACK LAGOON ―姉さん、俺はもう大人だ― 作:いっしきさん
幕間3.5話 小さな古参兵と、勝ってはいけない腕相撲
――双子の事件が起きる、少し前。
ロックがその倉庫を訪れたのは、翻訳した書類を届けるためだった。
港から少し離れた、ホテル・モスクワ所有の建物である。外壁の塗装は潮風に剥がされ、窓には錆びた格子が嵌まっていた。入口の脇には、どういうわけか新品の植木鉢が置かれている。
そこだけ妙に生活感があった。
「踏むなよ」
先を歩くレヴィが言った。
「何を?」
「花」
ロックは足元を見た。
鉢から、細い茎が頼りなく伸びている。
「誰が育ててるんだ?」
「知らねえ。前に酔った馬鹿が蹴って、翌朝、鉢が三つに増えてた」
「……弁償させられたのか」
「土まで買いに行かされたらしいぜ」
ホテル・モスクワには、町の花屋へ謝罪に行かされる構成員もいるらしい。
そんなことを考えながら建物に入ったロックは、奥から響いた乾いた音に肩を跳ねさせた。
短い間隔で、もう一度。
銃声だった。
レヴィは歩調を変えなかった。
「今日は奥、使ってんのか」
「訓練か?」
「そうだろ。仕事だったら、入口で止められてる」
ひどく簡潔な区別だった。
廊下の先で、ボリスが書類を確認していた。ロックに気づくと、手にした紙から目を上げる。
「来たか」
「依頼されていた訳文です。原本と、数字の照合表も」
「助かる。そこへ置いてくれ」
指示された机に封筒を置いたとき、隣の部屋から男たちの声が聞こえてきた。
「あと一つだ」
「分かってる」
「肘を使え」
「だから、分かってると言ってるだろう」
最後の声には聞き覚えがあった。
アレクセイだ。
ロックが開いた扉へ視線を向ける。
薄い金髪の少年――にしか見えない三十四歳の男が、作業台の前に立っていた。
灰色のシャツの袖をまくり、左手には白い包帯。
その右手に握られているのは、拳銃でも訓練用の器具でもなかった。
小さな瓶だった。
アレクセイは瓶を見つめたまま、黙っている。
向かいのサーシャが、口元を引き結んでいた。
笑うのを我慢している顔だった。
「……何してるんですか?」
ロックが尋ねる。
アレクセイは顔を上げた。
「交渉だ」
「瓶と?」
「相手が頑固でな」
横からイワンが口を挟んだ。
「さっきから蓋が開かない」
「事実だけを言え。さっきから、ではない」
「では、かなり前から」
アレクセイは無言で瓶を差し出した。
サーシャが受け取り、ひと捻りする。
小さな音を立てて蓋が開いた。
「ほら」
「ありがとう」
アレクセイは何事もなかったように瓶を受け取り、中の飴を一つ取り出した。
ロックにも差し出してくる。
「食べるか?」
「あ、どうも」
薄荷の飴だった。
レヴィがロックの横から覗き込み、鼻で笑う。
「何だよ。負けたのか」
「補給を受けただけだ」
「便利な言葉だな」
「使っていいぞ」
アレクセイは瓶を作業台に戻した。
サーシャが蓋を閉めようとすると、すかさず言う。
「軽くでいい」
イワンが顔を背けた。
肩が震えていた。
*
射撃場は建物の奥にあった。
倉庫の一部を改装したらしく、壁には分厚い防音材が張られ、天井の換気扇が低く唸っている。
ロックはボリスから耳当てを渡された。
「見学は構わん。ただし、指示した線から前へ出るな」
「分かりました」
レヴィも、面倒そうな顔をしながら耳当てを受け取った。
アレクセイは射撃台の前で、ボリスと短く言葉を交わしている。
その姿を見ながら、ロックは隣のレヴィに声を落とした。
「なあ」
「あ?」
「アレクセイさんって、実際、どのくらい強いんだ?」
レヴィが横目で見る。
「何だ、その質問」
「いや、前に倉庫で動いていたのは見たけど……」
落ち着いていた。
危険な状況でも、自分よりずっと早く物事を判断していた。
ただ、ロックにはその技量を測る物差しがない。
銃を持つ人間は、だいたい皆、自分より強い。
そこから先が分からなかった。
「お前、魚屋で一番強い魚を聞くタイプか?」
「そういう話じゃないだろ」
「同じだよ。海で泳がせんのか、まな板に載せんのかで話が違う」
レヴィは顎をしゃくった。
「本人に聞け」
「だから、聞き方が――」
「瓶の蓋なら、さっき負けたぞ」
前方から声がした。
アレクセイがこちらを見ている。
ロックは口を閉じた。
レヴィが笑った。
「聞こえてんじゃねえか」
「耳当てをする前でよかったな」
アレクセイは右手に持った耳当てを軽く上げる。
「何と比べたい?」
「……成人男性、とか」
「幅が広いな。ロックからサーシャまで入る」
サーシャが隣に立った。
二人の肩の高さは、かなり違った。
腕の太さに至っては、比べること自体が失礼な気さえする。
アレクセイはその腕を見上げた。
「こいつと荷物を運ぶ競争をしたら、俺が先に医者へ運ばれる」
「ちゃんと持っていってやる」
サーシャが請け合った。
「そういう信頼関係ですか」
「大切だぞ」
アレクセイは真顔で言った。
ボリスが時計を見る。
「始めるなら、そろそろにしろ」
「ああ」
アレクセイの表情が変わった。
険しくなったわけではない。
ただ、会話に向いていた意識が、目の前の作業へ戻った。
銃の確認。射線の確認。ボリスへの短い頷き。
左手は使わなかった。
包帯を巻いた手を身体の脇に置き、右手だけで拳銃を構える。
ボリスが言う。
「予定どおり、それだけだ」
「分かってる」
ロックは耳当てをしっかり押さえた。
アレクセイの身体は、拳銃を持つとますます小さく見えた。
けれど、不釣り合いには見えなかった。
ただそこにある道具を、扱い慣れた人間が持っている。
そんな光景だった。
銃声が響く。
一発。
間を置いて、もう一発。
派手な動作はなかった。
レヴィが酒場で見せるような、人の視線を攫う速さもない。
ロックが息を止めている間に、短い射撃は終わっていた。
アレクセイは銃を下ろし、必要な確認を済ませると、ボリスに場所を譲った。
標的が戻ってくる。
紙の中央付近に、小さくまとまった穴が並んでいた。
ロックは思わず身を乗り出した。
「……全部、ここに?」
「紙が動かなかったからな」
アレクセイが答える。
「いや、そういうことじゃなくて」
「褒めとけよ」
レヴィが言った。
「こいつ、素直に受け取らねえだけだから」
ロックは改めて標的を見る。
見た目には簡単そうだった。
それがかえって、簡単なことではないと分からせた。
サーシャが標的を覗き込む。
「昔より丁寧になったな」
「昔より弾を自分で買うようになった」
「昔も外すと怒ってただろ」
イワンが言った。
「誰にですか?」
ロックの問いに、イワンがアレクセイを指す。
「自分に」
「怒ってはいない」
「ずっと黙る」
「考えてるんだ」
「そして次の日、朝から標的を見てる」
アレクセイは少しだけ眉を寄せた。
「弾が来なかったんだ。無駄にできなかった」
イワンの笑みが、小さくなった。
「ああ」
サーシャも、それ以上は言わなかった。
換気扇の音が、急にはっきり聞こえた。
ロックはもう一度、標的を見た。
今度は穴のまとまりだけでなく、その一発ずつを見るように。
やがてレヴィが、自分の耳当てを外した。
「で、終わりか?」
「俺はな」
「競争しねえの?」
「負傷者に勝って嬉しいか?」
「治ったら?」
アレクセイはレヴィを見た。
「景品次第だ」
「逃げたな」
「参加条件を確認してる」
レヴィは楽しそうに笑った。
*
射撃場を出たあと、ロックたちは隣の広い部屋へ移った。
床に白い線が引かれ、木製の間仕切りがいくつも並んでいる。扉だけが立っている場所もあれば、机と椅子が雑に置かれた区画もあった。
簡素な舞台装置のようだった。
「ここでも訓練を?」
「雨でも使えるからな」
ボリスが答える。
アレクセイは入口脇の棚に近づき、一番上を見た。
そこに挟まっている薄い板を見上げてから、サーシャを呼ぶ。
「上の記録板、取ってくれ」
「これか」
「ああ」
サーシャは簡単に手を伸ばした。
ロックは、何となくそのやり取りを見ていた。
アレクセイは背伸びをしなかった。
取れないことを隠そうともしなかった。
サーシャの方も、それを特別なこととして扱わない。
手が届く人間が取って、必要な人間へ渡す。
それだけだった。
「今、何を考えた?」
アレクセイに訊かれ、ロックは少し慌てた。
「いや、別に」
「何か考えてる顔だった」
「……自分で取ろうとはしないんだなって」
アレクセイは上の棚を見た。
「踏み台を持ってきてもいいが、サーシャはもうここにいる」
「俺は備品か」
「移動できる高性能な方だ」
「給料を上げろ」
「それは大尉に言え」
レヴィが横で吹き出した。
ロックも笑った。
笑ってから、少しだけ腑に落ちた。
この男は、自分にできないことを知られるのを、それほど恐れていないのだ。
自分は逆だった。
できないと思われたくなくて、引き受けてから困ることがある。
会社にいた頃から、そうだった。
ボリスが区画の中央に立った。
「見学するなら、そこだ。青い印から動くな」
ロックは指示された場所へ入った。
レヴィは壁際にもたれる。
実銃は持ち込まれず、訓練に使う器具は別に確認されていた。
アレクセイは記録板を手に、間仕切りの向こうを覗いた。
「今日は俺は見てるだけだ」
「珍しいな」
イワンが言う。
「左手を使うなと言われてる」
「医者に?」
「医者と、その話を聞いた姉に」
「後者の方が長かったか」
「診察より長かった」
サーシャが低く笑った。
訓練が始まると、空気は変わった。
男たちの足音が、急に少なくなった。
先ほどまで飴の瓶を開けていたサーシャが、間仕切りの向こうへ進む。
イワンがその動きに合わせる。
何をしているのか、ロックには半分も分からなかった。
それでも、二人が互いを見なくても位置を分かっていることは伝わった。
片方が動くと、もう片方が待つ。
誰かが短く声を出すと、それで十分らしかった。
ロックは前方を凝視した。
壁の陰に立てられた標的。
少し開いた扉。
机の脚の向こうに見える何か。
見落とすまいとするほど、見る場所が増えた。
「ロック」
背後で声がした。
びくりと肩が跳ねた。
振り向くと、すぐ後ろの見学通路にアレクセイが立っていた。
いつの間に来たのか、まったく分からなかった。
「……驚かさないでくださいよ」
「大声では呼んでないぞ」
「そういう意味じゃなくて」
アレクセイはロックの向こうを見た。
ボリスが訓練を止め、サーシャたちへ何か説明している。
「今、俺がどこにいたか分かったか?」
「最初は、あそこの入口に」
「途中は?」
「……見てませんでした」
「そうか」
責める響きはなかった。
アレクセイは、自分が通ってきた細い見学通路を示した。
「普通に歩いてきた」
「足音がしなかった」
「してたよ」
レヴィが口を挟む。
「あんた、前ばっか見てたからな」
ロックは通路を見た。
短い距離だった。
特別な仕掛けも、隠し扉もない。
「これ、皆さんも気づかなかったんですか?」
「俺たちは知ってた」
サーシャが答えた。
ロックは顔を向けた。
「え?」
「最初から、そっちは見学用の通路だ」
イワンが笑っている。
アレクセイも口元だけで笑った。
「騙されたのは君だけだ」
「……俺の訓練だったんですか?」
「今のところ、見学だ」
レヴィが声を立てて笑った。
ロックは額に手をやった。
「何だよ、それ」
「君が強さを知りたがってたからな」
アレクセイが言う。
「俺があっちの二人と正面から押し合ってるところを想像してただろう」
「まあ……少しは」
「仕事で、それをわざわざやる理由がない」
アレクセイは記録板を小脇に抱えた。
「必要ならやる。必要になる前に済ませられるなら、その方がいい」
ロックは、先ほどまで自分が見つめていた扉を見た。
そこから何か出てくると思った途端、ほかの場所が見えなくなった。
アレクセイの身体が小さいことも、銃を持ったレヴィが目立つことも、似たようなものなのかもしれなかった。
どこを見るか、見る前から決めてしまう。
「でも、相手に捕まったら?」
ロックが聞くと、アレクセイはサーシャを見た。
「困る」
「……それだけですか」
「かなり困る」
サーシャが両腕を組んだ。
「昔、こいつを肩に担いで運んだことがある」
「余計な話だ」
「降ろせとずっと言ってた」
「歩けたんだ」
「片方の靴がなかった」
「それは歩けるかどうかと別の話だ」
イワンが口を挟んだ。
「泥の中を裸足で歩く気だったんだろう」
「そこまで話す必要はない」
ロックが笑うと、アレクセイは少しだけ不満そうな顔をした。
それも、長くは続かなかった。
「俺の腕がサーシャより細いことを忘れたら、最初に困るのは俺だ」
そう言って、記録板を机に置く。
「忘れないようにしてる。それだけだよ」
*
休憩は、外へ通じるシャッター脇で取ることになった。
古い作業台の周りに、折り畳み椅子が並べられている。
天井の扇風機は回っていたが、涼しいというより、熱い空気を公平に配っていた。
サーシャが木箱を運んできた。
瓶の炭酸水だった。
ロックが片側を持とうとすると、サーシャは首を振った。
「指を挟むぞ。置き場所を空けてくれ」
アレクセイはその指示を聞くより早く、作業台の上の工具を端へ寄せていた。
木箱が置かれる。
イワンが栓抜きを探す。
レヴィは既に一本手に取っていた。
「勝手に飲むな」
アレクセイが言った。
「駄目なのか?」
「誰かに取られる前に、俺のも寄越せ」
「何だよ」
レヴィがもう一本を取って放る。
アレクセイは右手で受け取った。
ボリスが、それを見ていた。
何も言わない。
アレクセイも、ボリスを見ない。
妙な間があった。
「……今のも報告されるんですか?」
ロックが小声で尋ねた。
「何をだ」
アレクセイが答える。
「瓶を投げて受け取ったこと」
「報告書に書いたら、紙が気の毒だ」
ボリスが平然と言った。
「口頭で済む」
イワンが咳き込んだ。
アレクセイはゆっくりとボリスを見上げた。
「軍曹」
「何だ」
「俺は敵地で包囲されてるのか?」
「お前が勝手に包囲網へ戻ってきた」
今度はサーシャまで笑った。
ロックは、ホテル・モスクワの男たちがこんなふうに笑うのを、まだ見慣れていなかった。
怖い人間たちであることは変わらない。
それでも、今ここにいる彼らは、仕事の合間に古い友人をからかう男たちでもあった。
レヴィが瓶を口から離す。
「で、ロック。分かったのか?」
「何が」
「こいつがどのくらい強いか」
ロックはアレクセイを見た。
小さな椅子に座り、片足を少し前へ出している。
左手は膝の上。右手には炭酸水。
瓶の中の泡を見ながら、暑そうに襟を引いていた。
「……前より分からなくなった」
「正直だな」
アレクセイが言った。
「銃は上手いし、動きも見えてる。でも、力はないっていうし」
「ないとは言ってない。君たちが想像するほどはない」
イワンが、そこで何かを思いついた顔をした。
アレクセイはそれを見逃さなかった。
「やめろ」
「まだ何も言ってない」
「言う前から顔がうるさい」
「単純な比較なら、できるじゃないか」
イワンが作業台を軽く叩いた。
それから、右肘を置く。
ロックにも意味が分かった。
「腕相撲?」
「そうだ」
「いや、怪我してるし」
「左だ」
アレクセイが言った。
ロックが見る。
「右は何ともない」
「やるんですか?」
「君が、いつまでも俺を秘密兵器みたいな目で見てるからな」
レヴィが椅子を引き寄せた。
「面白えじゃん」
「お前は参加するな」
「何でだよ」
「負けた方に一週間言う」
「一週間で済ませてやるよ」
アレクセイは返事をしなかった。
ロックは向かいの椅子に座った。
作業台の表面には、古い傷と油染みがあった。
イワンが工具を遠ざけ、サーシャがぐらつく脚の下に薄い板を差し込む。
準備だけが、やけに手際よかった。
「ちょっと待ってください。本当に大丈夫なんですよね?」
「ロック」
「はい」
「腕相撲だ。相続の相談じゃない」
レヴィが噴き出した。
ロックは右肘をついた。
アレクセイも、右腕を伸ばしてくる。
握った手は、見た目から想像したほど柔らかくなかった。
指の付け根に硬いところがある。
けれど、手自体は小さかった。
それだけで、ロックはまた戸惑ってしまう。
「手加減した方が――」
「しなくていい」
「でも」
「急に捻るな。それだけでいい」
アレクセイは椅子を少し引いた。
「あと、そんな深刻な顔をするな」
「してますか」
「銀行で断られた男みたいだ」
サーシャが声を出して笑った。
イワンが二人の手を見て、妙に真面目な声を出す。
「用意はいいか」
ロックは頷いた。
アレクセイも頷く。
「始め」
力を入れた。
最初の一瞬、ロックは警戒した。
何かされるのではないかと思った。
体勢を変えられるとか、指先だけで崩されるとか、自分の知らない技があるのではないかと。
だが、何も起こらなかった。
アレクセイの腕は、普通に押し返してきた。
思ったより力はある。
けれど、それ以上にロックの腕の方が重く、肩の位置にも余裕があった。
少しずつ、手が傾いた。
アレクセイの眉が寄る。
ロックは反射的に力を緩めかけた。
「そのまま」
言われ、もう一度力を入れた。
数秒後。
作業台に、アレクセイの手の甲がついた。
終わった。
あっけないほど、普通に。
ロックは握った手を離した。
「……あれ?」
アレクセイが顔を上げる。
「何が、あれ、だ」
「いや……」
ロックは作業台と、自分の右手を交互に見た。
「わざと負けてくださったんですか?」
間があった。
アレクセイの目が、少し細くなる。
「今ので俺の気遣いを増やすな」
レヴィが腹を抱えた。
イワンは顔を伏せたまま、机を叩いている。
サーシャがロックの肩に大きな手を置いた。
「おめでとう」
「いや、何がですか」
「お前の勝ちだ」
「それは分かりますけど」
アレクセイは右手を開いたり閉じたりしてから、炭酸水を取った。
「腕力だけなら、君の方が上だ」
「……本当に?」
「今やっただろう」
「でも、さっきの射撃は」
「標的を腕で押し倒したわけじゃない」
レヴィが、さらに笑った。
ロックは顔が熱くなるのを感じた。
よく考えれば当たり前だった。
腕相撲に勝ったからといって、レヴィと同じ仕事ができるわけではない。
会社にいた頃、腕の太い上司ほど交渉が上手かったわけでもない。
なのに、アレクセイに関してだけ、何か一つの尺度で分かろうとしていた。
「……すみません。変な期待をしてました」
「期待されるのは悪くないが、重量制限は守ってくれ」
アレクセイが言う。
「俺にもある」
サーシャが頷いた。
「前に発電機を一人で動かそうとして、十分間悪口を言ってた」
「結局、お前を呼んだだろ」
「最初から呼べ」
「お前は昼寝してた」
「起こせ」
「機嫌が悪くなる」
「発電機より話は通じる」
レヴィが、息を整えながら言った。
「いいから次はサーシャとやれよ、ロック」
「何でそうなるんだ!」
「比較だろ?」
サーシャは真面目な顔で袖をまくった。
ロックは即座に両手を引っ込めた。
「もう十分分かった」
「賢明だ」
アレクセイが言った。
その声には、仲間を得たような響きがあった。
*
「楽しそうだな」
入口から声がした。
誰も、声を張ってはいなかった。
それでも部屋の音が、一段下がった。
イワンの手が作業台から離れた。
サーシャの背筋が伸びた。
ボリスは既に入口を向いていた。
レヴィだけが、笑いの残った顔のまま振り返る。
バラライカが立っていた。
肩に掛けたコート。整ったスーツ。片手には薄い書類入れ。
後ろに控えた男が一人、外の車へ戻っていく。
「大尉」
ボリスが言った。
バラライカは短く頷き、部屋の中を見渡した。
訓練器具。
炭酸水の木箱。
不自然に片づけられた作業台。
そして、その両側に座るロックとアレクセイ。
視線が弟の左手で止まった。
「何をしていた?」
「休憩」
アレクセイが答える。
「それは見れば分かる」
「なら、質問の範囲を狭めてくれ」
バラライカは作業台に近づいた。
ロックは、なぜか自分まで姿勢を正していた。
「その手は?」
「左は使ってない」
アレクセイが包帯の手をわずかに上げる。
「右で腕相撲をしてた」
「誰と?」
アレクセイがロックを示した。
バラライカの視線が移る。
ロックの喉が、勝手に鳴った。
「……あの」
「お前が相手か」
「はい。ただ、本当に、普通の腕相撲で」
「普通ではない腕相撲があるのか?」
「いや、そういう意味ではなくて」
レヴィが横で顔を伏せた。
ロックには分かった。
助けるつもりがない。
最初から一切ない。
バラライカは弟を見た。
「結果は」
「負けた」
アレクセイが答える。
隠す素振りもなかった。
バラライカはもう一度ロックを見た。
「ほう」
「いや、その……」
ロックは自分が何を弁明しようとしているのか分からなくなった。
勝ったことか。
参加したことか。
この場所に来たこと自体だろうか。
アレクセイが、静かに瓶を置いた。
「姉さん」
「何だ」
「俺に勝つのは犯罪じゃない」
イワンが咳き込んだ。
今度は明らかに、笑いを隠すためだった。
バラライカの目がそちらへ向く。
イワンは、窓の外を見るふりをした。
窓は閉まっていた。
「私はまだ何も言っていない」
「ロックが、言われる前に自供しそうな顔になってる」
バラライカはロックを見た。
ロックは笑おうとした。
うまくいかなかった。
彼女の口元が、ほんの少しだけ動いた。
「安心しろ。勝敗に異議を申し立てに来たわけではない」
「……そうですか」
「診察の時間だ」
今度はアレクセイへ言った。
アレクセイが壁の時計を見る。
「まだ早い」
「モロゾフが予定より早く戻った」
「電話をくれればよかったのに」
「近くにいた」
ボリスは何も言わなかった。
アレクセイも、彼が何も言わなかったことを確認するだけに留めた。
「分かった。片づけたら行く」
そう言って立ち上がり、机の端に置いた記録板を取る。
バラライカは、その紙を見た。
「お前も撃ったのか」
「少しだけ」
「少し、とは?」
ボリスが簡潔に報告した。
予定していた分だけで終えたこと。
左手を使っていないこと。
その後の訓練では見学と助言だけだったこと。
バラライカは最後まで聞き、それから弟の顔を見た。
「痛みは?」
「変わってない」
「ならいい」
それだけだった。
ロックは少し意外に思った。
取り上げるのかと思った。
銃も、訓練も、本人の判断も。
だが、バラライカはそうしなかった。
確認して、返した。
アレクセイも、確認される間は口を挟まなかった。
二人の間には、まだ時々軋むものがある。
それでも、以前とは違う場所へ動こうとしているのだと、ロックには思えた。
バラライカが標的の紙へ目を落とす。
「悪くない」
アレクセイは肩をすくめた。
「紙が動かなかったからな」
「言い訳を用意するには、結果が良すぎる」
レヴィが笑った。
「ほらな。姉貴にも言われてる」
「君はさっきから、ずいぶん楽しそうだな」
「今日は当たりの日だ」
*
片づけは早かった。
サーシャが木箱を持ち、イワンが器具を戻し、ボリスが記録を確認する。
ロックも空いた瓶をまとめた。
アレクセイは自分の革鞄を取ろうとして、先にバラライカに持ち上げられた。
「右で持てる」
「車までだ」
「車までなら、なおさら持てる」
バラライカは鞄を渡さなかった。
代わりに、中を一度だけ見る。
「何を入れている?」
「書類」
「それだけにしては重い」
「本も」
「何冊だ」
「必要な分」
「アリョーシャ」
アレクセイは息を吐いた。
「三冊」
バラライカが鞄から一冊取り出した。
厚い、古い本だった。
ロシア語の題名が見える。
ロックには読めなかったが、軽くはなさそうだった。
「全部読む気か?」
「待ち時間がどれくらいか分からない」
「診察だ。包囲戦ではない」
レヴィがまた笑った。
アレクセイは本を取り返そうとはしなかった。
「一冊にする」
「そうしろ」
「選ばせてくれ」
「早く選べ」
ロックは、つい笑ってしまった。
アレクセイがこちらを見る。
「何だ」
「いえ」
「勝ったからって余裕が出たな」
「腕相撲だけですよ」
言ってから、ロックは少し驚いた。
自分の口から自然に出ていた。
アレクセイは一瞬だけ目を細め、それから笑った。
「ああ。それでいい」
彼は三冊のうち一冊を選び、残りを棚へ戻した。
上の段には手を伸ばさず、空いていた下の段に置く。
サーシャが何か言いかけたが、バラライカがいたのでやめた。
イワンはその顔を見て、また笑いそうになっていた。
出入口まで来たところで、バラライカが足を止めた。
「ロック」
「はい」
彼女は、さっきの作業台をちらりと見た。
「次は私とやってみるか?」
ロックは一秒も迷わなかった。
「遠慮します」
沈黙。
それから、レヴィが盛大に吹き出した。
サーシャが下を向き、イワンが壁へ手をつく。
バラライカは、特に気を悪くした様子もなく頷いた。
「そうか」
アレクセイが姉を見上げる。
「俺の敵討ちをするな」
「誘っただけだ」
「相手が辞退する速さを見ただろ」
「判断が早いのはいいことだ」
「仕事の評価に混ぜるな」
バラライカは歩き出した。
アレクセイも、その横へ並ぶ。
小さな歩幅に合わせているのかどうか、ロックには分からなかった。
ただ、二人の距離は広がらなかった。
外へ出る直前、アレクセイが振り返る。
「ロック」
「はい?」
「次に重い荷物があったら、頼んでいいか」
ロックは笑った。
「俺で持てるものなら」
「助かる」
それだけ言って、今度こそ出ていった。
*
二人の足音が遠ざかってからも、レヴィはしばらく笑っていた。
「お前、見たか。あの顔」
「どの顔だよ」
「姉貴に“お前が相手か”って言われたときの、お前の顔」
「見えるわけないだろ」
「ひでえ顔だったぞ」
ロックは空き瓶の入った箱を持ち上げた。
思ったより重かった。
それでも、持てないほどではない。
「……結局、からかわれただけじゃないか」
「そうでもねえだろ」
レヴィが椅子から立つ。
「今日はあいつに勝った」
「腕相撲でな」
「そう。それだけだ」
レヴィはロックの肩を軽く叩いた。
「ようやく分かったじゃねえか」
ロックは箱を置き、振り返った。
奥ではサーシャとイワンが、間仕切りを片づけている。
さっきまで冗談を言っていた二人が、今は短い合図だけで重い板を動かしていた。
どちらか一人でも運べるのかもしれない。
けれど二人で持った方が、壁にも手にもぶつけずに済む。
ロックはしばらくそれを見ていた。
「レヴィ」
「あ?」
「お前は、アレクセイさんと組むのはどうなんだ?」
「仕事で?」
「ああ」
レヴィは少し考えた。
煙草を一本取り出し、まだ火はつけずに指で回す。
「余計な説明が少なくて済む」
「それって、かなり褒めてるよな」
「そうか?」
「お前にしては」
レヴィは嫌そうな顔をした。
「ただし、口は悪い」
「お前が言うのか」
「聞こえたぞ」
ロックは口を閉じた。
レヴィは煙草を咥え、外へ向かう。
その背中を追いながら、ロックは最後にもう一度、アレクセイが座っていた椅子を見た。
小さな男だった。
腕相撲では、自分にも負ける。
瓶の蓋が開かなければ仲間を呼ぶし、高い棚には手が届かない。
それでも、あの男が「こっちだ」と言えば、自分はきっとそちらへ行く。
先ほどの射撃の腕だけが理由ではなかった。
できることも、できないことも、本人が分かっている。
そして、できないことを仲間に任せるとき、そこに妙な見栄を挟まない。
自分がこの町で覚えなければならないのは、もしかすると、そういうことなのだろう。
入口の植木鉢の前で、レヴィが立ち止まった。
「ああ、そうだ」
「何?」
「今日のこと、ベニーに話していいか?」
「どこからどこまでだよ」
「お前がホテル・モスクワの男を腕力でねじ伏せたって」
「やめろ!」
レヴィが笑いながら外へ出た。
ロックは慌てて後を追った。
*
車の中で、アレクセイは窓の外を見ていた。
隣ではバラライカが書類を読んでいる。
鞄は結局、二人の間に置かれていた。
「姉さん」
「何だ」
「ロックを脅かすなよ」
「脅してはいない」
「自覚がないなら、なお悪い」
バラライカは書類から目を上げなかった。
「お前は楽しそうだった」
アレクセイは少し黙った。
窓の外で、荷車を引く男が車道を横切る。
運転手が速度を落とした。
「……まあな」
そう答えると、バラライカはようやく弟を見た。
右手に視線を落とす。
「痛めてはいないな?」
「いない。あいつ、途中で力を緩めようとしたくらいだ」
「そうか」
「俺がそのままやれって言った」
「分かっている」
アレクセイは、少し疑わしそうに姉を見た。
「本当に?」
「お前は昔から、そういうところで面倒だ」
「負けてもいい勝負くらい、普通に負けさせてくれ」
バラライカは何も言わなかった。
しばらくして、書類を閉じた。
「次は勝てそうか?」
アレクセイは顔をしかめた。
「話を聞いてたか?」
「聞いていた」
「なら、その質問はおかしい」
姉の口元に、薄い笑みが浮かんだ。
からかわれている。
ようやくそう気づいて、アレクセイは座席へ背中を預けた。
「……本当に、今日は全員楽しそうだな」
「悪いことか?」
「俺が主な娯楽になってる」
「毎日ではない」
「今日の分は請求するぞ」
「経理へ回せ」
運転席の男が、小さく咳をした。
アレクセイは前を見た。
「お前もか」
「失礼しました」
返事だけは、見事に真面目だった。
アレクセイは諦めて鞄を開けた。
本を取り出そうとして、指先に別のものが触れる。
小さな瓶だった。
さっきの薄荷の飴。
いつの間にか、サーシャが入れてくれたらしい。
アレクセイは瓶を膝に載せ、右手で蓋を捻った。
動かなかった。
もう一度。
動かない。
隣から、バラライカの手が伸びてきた。
「貸せ」
「いや、これは――」
「貸せ」
アレクセイは瓶を渡した。
姉はあっさり蓋を開け、一粒だけ取り出してから返した。
本人は飴を口に入れ、何事もなかったように書類を開く。
アレクセイは、開いた瓶を見つめた。
「何だ」
バラライカが尋ねる。
「……いや」
彼は一粒取り出した。
薄荷の匂いが、少しだけ車内に広がる。
「今日は負け越しだ」
バラライカは書類を見たまま言った。
「帰って休め」
運転席で、また咳払いが聞こえた。
今度は、少し長かった。
幕間3.5話・了