BLACK LAGOON ―姉さん、俺はもう大人だ― 作:いっしきさん
第八話 帰る場所の値段
グレーテルが青いしおりを挟んだのは、本の終わりから三分の一ほどのところだった。
ヘンゼルは、まだその先を読みたがった。
けれど、廊下の時計を見てから何も言わずに本を閉じた。
アレクセイは気づいていたが、褒めなかった。
褒めれば、明日からそれが仕事になるかもしれない。
二人が時計を確かめる理由に、自分を喜ばせることまで加えたくはなかった。
「明日、続きを読んでもいい?」
ヘンゼルが尋ねた。
「ああ」
「あなたはいる?」
「午前中は出る。戻る時間は、朝に伝える」
グレーテルが顔を上げた。
「また、帳面の人?」
アレクセイは椅子の背へ掛けていた上着から、手を離した。
この家で、その話をしていないわけではない。
聞かれたことには答えた。
ただし、二人が話したがらないことまで引き出そうとはしなかった。
「その男につながる人間を探してる」
「まだ見つからないの?」
「一人ずつだ」
グレーテルはしおりの端を指で撫でた。
青い包み紙を切っただけのものだったが、角は折れていなかった。
「私たちが話したら、早くなる?」
アレクセイはすぐには答えなかった。
彼女の指が、しおりから離れるのを待った。
「思い出したことがあって、話してもいいと思うなら聞く」
「思い出さないと?」
「寝る時間だ」
グレーテルが彼を見る。
アレクセイは時計を指した。
「今日はもう終わり」
ヘンゼルが本を抱えた。
「役に立つことじゃなくても?」
「何が?」
「話すこと」
アレクセイは、少しだけ表情を緩めた。
「この本がつまらなかった、でも構わない」
ヘンゼルはすぐに首を振った。
「まだ、分からない」
「じゃあ、読み終わってからだな」
二人は部屋へ戻った。
扉は、少しだけ開けておく。
それも、二人が決めたことだった。
アレクセイが廊下の灯りを落としかけたとき、背後から声がした。
「ねえ」
振り向く。
グレーテルが扉の隙間に立っていた。
「マルコは、あの人が来ると手を洗うの」
アレクセイは動かなかった。
「帳面の男が来ると?」
「来る前に。爪も見てた」
「どうして?」
「汚い手で触ると、怒られるから」
少女は自分の手を見た。
石鹸で洗った、小さな手だった。
「お金も、紙も」
アレクセイは頷いた。
「覚えておく」
「それだけ?」
「ああ。話してくれてありがとう」
グレーテルは少し待っていた。
さらに何かを求められると思ったのかもしれない。
アレクセイは廊下の灯りを指す。
「これ、一つ残しておくぞ」
少女はようやく頷いた。
「うん」
*
翌朝、ボリスが持ってきた封筒には、写真が三枚入っていた。
一枚目は、ブルーノを捕らえた倉庫。
二枚目は、その裏口。
三枚目には、薄汚れた配送車が写っていた。
「所有者は?」
「洗濯業者だ。少なくとも登録上はな」
アレクセイは写真を机へ並べた。
ロックが横から覗き込む。
今日はネクタイを締めていなかった。代わりに、紙の束を紐で括って抱えている。
「同じ会社名が、押収した伝票にも出てた」
彼は束から一枚抜いた。
「でも、洗濯物の量に対して、請求が大きすぎる。しかも毎回ほとんど同じ金額なんだ」
「洗濯代ではない、と」
「たぶん。現金を動かすための名目じゃないかな」
ボリスが別の紙を差し出した。
「その車が昨夜、南側の修理工場へ入った。運転手は降りたが、車はまだ出ていない」
「マルコか?」
「顔を確認した」
アレクセイは三枚目の写真を取り上げた。
車の側面に、青い波のような印がある。
その下の文字は掠れていた。
「ブルーノの話と合う?」
ロックが訊いた。
「一部はな」
ボリスが答える。
「あの男は、自分が知らないことまで知っているふりをする」
「知っていることは、忘れたふりか」
アレクセイが言う。
ボリスは頷いた。
ドアが開いた。
レヴィが入ってくる。
「いつまで紙を見てんだよ」
「君が来るまで」
「じゃあ終わりだな」
彼女は壁際へ寄り、写真を覗いた。
「こいつが例の?」
「ああ」
「生きたまま、だろ?」
「話を聞く」
レヴィは短く息を吐いた。
「最初から言っといてくれると助かるよ」
そのとき、廊下で靴音がした。
全員が入口へ視線を向ける。
バラライカは開いたドアの前で立ち止まり、机の上を一瞥した。
「車の出入りは押さえてある」
ボリスが姿勢を正した。
「はい」
「騒ぎを起こして町中を走らせるな。必要なのは、あの男の口だ」
アレクセイが頷く。
「分かってる」
バラライカは弟の右腕を見た。
袖の下に巻かれた包帯。
何か言いかけ、やめる。
代わりにボリスへ向き直った。
「終わり次第、連絡を」
「了解しました」
彼女が出ていくと、レヴィがアレクセイを見た。
「今日は説教なし?」
「まだ朝だからな」
ロックが笑いかけたが、笑い切る前に、アレクセイは写真を封筒へ戻した。
「行こう」
*
出発の前に、アレクセイは家へ電話を入れた。
まだ朝食の片づけが終わった頃だった。
最初に出たのはナディア。
少し待つと、受話器の向こうで声が入れ替わる。
『今日、帰る?』
ヘンゼルだった。
「帰るつもりだ。夕食に間に合うかは、午後に連絡する」
『つもり?』
「必ず何時だとは、まだ言えない」
車の横で、レヴィが煙草に火をつけた。
アレクセイは背中を向け、話を続けた。
「遅くなっても、食事は先に食べていい」
『待たなくていい?』
「ああ」
受話器の向こうで、何か囁く声がした。
次に聞こえたのはグレーテルだった。
『お姉さんには言った?』
アレクセイは額へ指を当てた。
「言った」
『ならいいわ』
「許可をもらった覚えはないが」
電話の向こうで、小さく息が漏れた。
笑ったのかもしれなかった。
確かめず、彼は受話器を置いた。
レヴィが煙を吐く。
「報告先が増えたな」
「まだ二人だ」
「増える予定があんのか?」
「勘弁してくれ」
*
修理工場の入口には、外したタイヤが積まれていた。
トタン屋根の下から、金属を叩く音がする。
油と熱いゴムの匂い。
道を挟んだ向こうでは、屋台の男が串焼きを裏返していた。
ロックは助手席から工場を見た。
こんな場所にも、普通の朝がある。
誰かが車を直し、誰かが昼の仕込みをする。
その奥に、子供を追いかける男が隠れている。
それらは同じ通りに、何の区切りもなく並んでいた。
「ここで待ってろ」
レヴィが言った。
「分かってる」
ロックは頷いた。
以前なら、一緒に行くと言ったかもしれない。
今も気にならないわけではない。
けれど、自分が中へ入ることで、誰が自分を見る仕事を増やされるかは分かっていた。
アレクセイが車のドアを閉める。
ボリスが先に歩いた。
レヴィは少し間を置いて続く。
工場の主人らしい男が、入口から顔を出した。
ボリスが何かを言う。
男の手が止まった。
奥を振り向く。
その瞬間、建物の中で椅子の倒れる音がした。
続けて、怒鳴り声。
レヴィが走った。
アレクセイの姿が、入口の柱の陰へ消える。
ロックは膝の上で手を握った。
短い銃声が一発。
屋台の男が身を屈める。
道を歩いていた二人が、振り返りもせず角へ逃げた。
ロックは車内へ頭を低くした。
二発目は鳴らなかった。
代わりに、金属の板が大きく鳴った。
何か重いものがぶつかった音だった。
それから、レヴィの声。
「そこまでだ、馬鹿!」
ロックは息を止めた。
数秒後、ボリスが入口に現れた。
片腕で男を押さえている。
男の片方の靴が脱げかけていた。
腹の出た、四十代ほどの男。
写真で見た顔だった。
マルコ・ベリーニ。
彼は何かを叫びながら抵抗したが、ボリスは歩調を変えなかった。
レヴィが後ろから出てくる。
手には、相手から取り上げたらしい拳銃があった。
最後にアレクセイが現れた。
頬に埃がついていた。
右袖にも黒い汚れ。
ロックは思わずドアを開けた。
「怪我は?」
「俺はない」
「撃ったのは?」
「あいつだ」
アレクセイは、別の車へ押し込まれるマルコを見た。
「自分で退路を狭くした」
レヴィが拳銃をボリスへ渡す。
「裏に抜けるつもりだったんだろ。荷物が積んであって、ひっくり返りやがった」
「撃たれなくてよかった」
ロックが言うと、レヴィは肩をすくめた。
「ほんとにな。修理屋の親父が」
ロックは工場を見た。
主人が柱の陰から出てきていた。
顔が青い。
アレクセイは彼のところへ戻った。
短く話し、壊れた物を確認する。
ボリスの部下が一人、その場に残った。
誰かが払うことになっているらしかった。
戻ってきたアレクセイに、ロックが尋ねる。
「修理代?」
「ああ」
「そっちも?」
「俺たちが来なければ、今日あの男は工場で撃たなかった」
彼はハンカチで頬を拭った。
「話の通じるところは、済ませておく」
*
マルコは、最初の十分で三種類の話をした。
何も知らない。
ただ車を借りただけ。
自分も脅されている。
三つ目の話だけは、一部本当かもしれなかった。
けれど、それで一つ目が本当になるわけではない。
アレクセイは机の上に、倉庫から押収した伝票の写しを置いた。
「君の名前だ」
「勝手に使われた」
次に、ブルーノの店で撮られた写真。
「一緒にいる」
「知り合いだ。それだけだ」
最後に、双子が描いた倉庫の絵の複写を置いた。
赤い扉。
階段。
高いところを通る車。
マルコの目が止まった。
ほんのわずかだった。
アレクセイは紙を伏せた。
「説明するか?」
マルコは椅子へ背中を押しつけた。
「ガキの絵だろ」
「そうだ」
「そんなもので――」
「そんなものを見ただけで、君は黙った」
部屋の隅に、ボリスが立っている。
レヴィは外だ。
ロックは別室で、取り上げた帳簿を確認していた。
マルコは舌で唇を湿らせた。
「俺が連れてきたわけじゃない」
「誰が連れてきた?」
「知らない」
「誰に引き渡すつもりだった?」
「話を聞け。俺は面倒を見ただけだ」
アレクセイは彼を見た。
その目に、マルコがわずかに顎を引く。
「面倒を見た?」
「飯だって食わせた。寝る場所も――」
「その代金として、何をさせた?」
マルコの口が閉じた。
アレクセイは急がなかった。
声も上げなかった。
彼が目を逸らす先へ、紙を一枚ずつ置いていく。
支払い。
仕事の日時。
サーシャとイワンが呼び出された店へつながる番号。
「俺の仲間を狙わせた件から話してもいい」
「俺が決めたんじゃない」
「決めたのは?」
マルコはボリスを見た。
それから、ドアを見た。
最後にアレクセイを見る。
「名前を言ったら、帰れるのか?」
「約束できない」
「だったら話す意味がない」
「君が黙っていても、こちらは調べる」
アレクセイは椅子へ浅く座り直した。
「ただ、君の代わりに話す人間が、君に都合のいい説明をするとは限らない」
マルコの視線が、伏せられた絵へ戻った。
「……あいつら、何を喋った?」
「君に伝える話じゃない」
「居場所を変えろ」
突然の言葉だった。
アレクセイは表情を動かさなかった。
「どういう意味だ」
「俺が見つかったら、あっちは切る。ブルーノも、俺も。あのガキどももだ」
「誰が?」
「だから――」
マルコは言葉を飲み込んだ。
喉が上下する。
「俺はあいつの本名を知らない」
「何と呼んでいた?」
「会計士だよ。それで通った」
「会う場所は」
「向こうが決める」
「次は?」
「知らない」
ボリスが一歩動いた。
マルコが慌てて付け足す。
「本当だ。昨日、連絡が来るはずだった。でも来なかった。金も取りに来なかった」
「どこへ来る?」
マルコは顔を歪めた。
そのとき、ドアが二度叩かれた。
ボリスが開ける。
ロックが、細い紙片を手に立っていた。
「ちょっといいか」
*
廊下へ出ると、ロックは紙片を差し出した。
乾燥した指先ほどの幅。
印刷された数字と、手書きの印。
「帳簿の背表紙に挟まってた」
「何だ?」
「荷物の預かり証だと思う。店名が省略されてるけど、住所は読める」
アレクセイは目を走らせた。
港に近い、古い商店街。
「今日の日付だ」
「受け取り期限かもしれない」
ロックは、もう一枚の紙を出す。
「それと、こっち。洗濯代の支払い記録なんだけど、合計と現金の残りが合わない」
「抜いたか?」
「そう思う。少しずつ。目立たない額だけど、何度も」
アレクセイは紙を見た。
その横で、ボリスが中の部屋へ目を向ける。
「話す理由が増えたな」
ロックの表情は明るくならなかった。
「……あいつ、自分も追われるって分かってるのかもしれない」
「分かっていても、俺たちに追わせようとはする」
アレクセイは預かり証を持ち上げた。
「こっちが欲しがるものを使ってな」
部屋へ戻ると、マルコは真っ先に紙片を見た。
肩が落ちた。
それが答えだった。
「何を預けた」
「鞄だ」
「中身は」
「金と……帳簿の写し」
「誰のために?」
マルコは黙った。
アレクセイは机に紙片を置いた。
「自分のためか」
「保険だ」
男はようやく言った。
「いつか切られると思ってた。だから残した」
「残して、それで?」
「金を受け取って出ていくつもりだった」
「誰から金を受け取る」
マルコが目を閉じた。
「……会計士から」
アレクセイは椅子に座らなかった。
「帳簿を返す代わりに、見逃してもらう?」
「悪いか」
「その交渉が成立すると、本気で思ったのか」
マルコは急に声を荒らげた。
「お前に何が分かる!」
ボリスが動きかけた。
アレクセイは片手を上げる。
男は息を切らしていた。
「生きて出ていくには、何か持ってなきゃ駄目なんだ。何も持ってない奴から消される。あのガキどもだって、使い道があるから――」
「君が生きたいのは分かった」
アレクセイが遮った。
「だから、もう二人を君の説明に使うな」
マルコは口を開いたまま止まった。
「預け先を言え。君をどう扱うかは、その後だ」
*
電話を入れたのは、午後三時を少し過ぎた頃だった。
予定より遅れていた。
商店街に人を向かわせ、周囲を調べさせる必要があった。
マルコの鞄が、本当にそこにあるか。
誰かが見張っていないか。
本人が知らないまま、別の役目を与えられていないか。
確認することは多かった。
家の電話にはナディアが出た。
「二人は?」
『いるよ。庭』
「夕食には間に合わないかもしれない。先に食べさせてくれ」
『代わるかい?』
「ああ」
待っている間、アレクセイは壁にもたれた。
右腕に鈍い痛みがあった。
疲れが出ると、忘れていた傷まで思い出す。
受話器の向こうで、扉の開く音がした。
『アレクセイ?』
「今日は遅くなる」
グレーテルだった。
彼女は黙って聞いていた。
「夕食は、ナディアたちと食べてくれ。戻ったら顔を出す」
『怪我した?』
「新しいのはない」
『マルコは?』
アレクセイは少し間を置いた。
「見つかった。今、こちらにいる」
電話の向こうが静かになった。
遠くで、鳥が鳴いていた。
それから、ヘンゼルの声。
『僕たちも行く』
「来なくていい」
『話をさせられる』
アレクセイは目を閉じなかった。
廊下の向こうを、じっと見た。
「それは、君たちに頼む仕事じゃない」
『でも』
「会わなくていい」
返事がなかった。
グレーテルが、近くで何か言った。
言葉までは聞き取れなかった。
アレクセイは声を落とした。
「二人とも聞いてくれ。マルコを見つけたことと、君たちがあの男の前へ戻ることは、別だ」
ヘンゼルの息が聞こえた。
『僕たちは、できるよ』
「知ってる」
すぐに答えた。
「できるかどうかを疑って、断ってるんじゃない」
廊下の角に、ロックが立っていた。
アレクセイは彼に目を向けたが、電話を続けた。
「俺たちがやる」
『じゃあ、僕たちは?』
「今日は家にいてくれ」
あまりにも小さな返事だった。
分かった、と聞こえた気がした。
だが、彼は聞き流さなかった。
「ヘンゼル」
『……分かった』
「ありがとう。ナディアに代わってくれ」
受話器を渡す音がした。
アレクセイはナディアに、二人から目を離さないよう短く伝えた。
彼女は理由を聞かなかった。
『分かったよ』
電話を切る。
ロックが近づいてきた。
「大丈夫か?」
「まだ分からない」
アレクセイは受話器を見た。
「俺が帰るまで、考える時間がある」
*
鞄は、商店街の時計修理店にあった。
店主は小柄な老人で、マルコについて尋ねられると、露骨に嫌な顔をした。
受け取りに来るのが遅い。
店に物を置かせる。
金払いだけはよかったが、もう関わりたくない。
そんな不満を、ボリスの部下へ一通り話したらしい。
鞄は回収された。
中に入っていたのは現金、着替え、数枚の写真。
そして、帳簿の写しだった。
ロックはそれを机に広げた。
数字を追うほど、口数が減っていった。
「どうだ」
バラライカが尋ねる。
部屋にはボリスとアレクセイもいた。
レヴィは入口の脇で腕を組んでいた。
「支払い先が分かれています」
ロックは指で紙を押さえた。
「運送。部屋代。仲介料。表向きは別の会社なんですけど、まとめて計算してある」
「元締めの帳面か」
「その一部だと思います」
彼は、別の紙を引き寄せた。
「ただ、ここだけ記載の仕方が違う」
アレクセイが覗き込む。
数字の列。
その横に、ごく短い文字。
「整理」
ロックが読んだ。
「その下に、ブルーノ。マルコ。それから番号が二つ」
誰も喋らなかった。
窓の外で車のクラクションが鳴った。
ロックは唇を湿らせる。
「金額が、まだ入ってません」
バラライカが葉巻を灰皿へ置いた。
「これから入れるつもりだったか」
アレクセイは二つの番号を見ていた。
双子の名前はなかった。
まだ、ここには。
ロックがさらに紙をめくる。
そこで手が止まった。
「……この会社」
「知っているのか?」
「前の書類に出てきました。アレクセイさんの倉庫を、借りたいと言っていたところです」
アレクセイが顔を上げた。
南側の倉庫。
条件が妙によかった。
急いで契約をしたがっていた。
だからミハイルに、もう少し調べるよう言ってあった。
「審査で止めてる」
「この帳簿では、もう手付金を払ったことになってます」
アレクセイは紙を受け取った。
金額。
日付。
窓口になっていた仲介会社。
自分の倉庫の住所だった。
ボリスが電話へ向かう。
「管理人に確認する」
バラライカは弟を見た。
「お前個人に近づいていたのか」
「物件が目当てなら、別の場所でもいいはずだ」
アレクセイは紙を机へ戻した。
「だが、今は断定できない」
レヴィが口を開く。
「断った腹いせに、ガキをけしかけた?」
「順番が逆かもしれない」
ロックが言った。
「事件の後、この会社からの問い合わせが増えてるんです。契約を進めたいって」
アレクセイの視線が止まった。
保護した後。
自分が、守るものを抱えた後。
部屋の空気が、ゆっくり変わった。
バラライカが椅子へ背を預ける。
「自分から窓口を用意してくれたわけだ」
電話を終えたボリスが戻ってきた。
「ミハイルは受け取っていない。鍵も渡していない」
「現地は?」
「異常なし。念のため、今夜は人を増やす」
バラライカが頷いた。
アレクセイは時計を見た。
夕食の時間は、もう過ぎていた。
「大尉」
「行け」
言い終わる前に、彼女が答えた。
「こちらは私が進める。明朝、続きを聞け」
アレクセイは一瞬だけ立ち止まった。
それから頷いた。
「了解」
*
家へ戻ると、玄関の灯りが点いていた。
護衛がドアを開ける。
アレクセイは靴を脱ぎかけ、その男の表情を見た。
「何かあったか」
「二人が、外へ出ようとしました」
動きを止める。
「いつ?」
「電話の後です。門まで来て、車を出してほしいと」
「勝手に抜けた?」
「いえ。正面から来ました」
アレクセイは長く息を吐いた。
「止めたか」
「はい。ナディアが話して、戻りました」
「何を持っていた」
「何も」
背後から、ナディアが現れた。
「部屋にいるよ」
彼女は小声で言った。
「怒られると思ってる」
「そうか」
アレクセイは上着を脱いだ。
袖が引っかかり、少し手間取る。
ナディアが手を貸そうとしたが、彼は首を振った。
「できる」
「それは見れば分かるよ」
彼女は上着を受け取った。
「食事は?」
「後で食べる」
ナディアの眉が動いた。
アレクセイは付け足した。
「逃げない。温めておいてくれ」
*
二人はベッドに座っていた。
並んで。
足は床についていない。
その姿を見たとき、アレクセイは昼間のマルコの声を思い出した。
使い道があるから。
部屋の入口で、拳を一度だけ握る。
開く。
「入っていいか」
ヘンゼルが頷いた。
アレクセイは椅子を持ってきて、二人の前へ置いた。
座る。
目の高さが、少し近づいた。
「外へ出ようとしたと聞いた」
グレーテルが先に答えた。
「まだ出てない」
「ああ。そこは聞いた」
ヘンゼルが彼女の手へ触れた。
「僕が言った」
「二人で行こうとしたんだろう」
少年は黙った。
アレクセイは膝に手を置いた。
「電話で、家にいてくれと言った」
「でも、帰ってこなかった」
「遅くなるとも言った」
グレーテルが顔を上げる。
「マルコが喋らないからでしょう」
アレクセイは二人を見た。
ヘンゼルの目は、妙に落ち着いていた。
知っている仕事の話をするときの顔だった。
「僕たちなら、喋らせられる」
アレクセイは、すぐに答えなかった。
二人の呼吸が浅くなる。
やがて彼は言った。
「俺を手伝いたかった?」
ヘンゼルが頷く。
グレーテルも。
「それとも、手伝わなかったら、ここにいられなくなると思った?」
今度は、どちらも動かなかった。
アレクセイは息を吐いた。
「君たちをあの男の前へ連れていかないと決めたのは、俺だ」
「できるのに?」
「できてもだ」
「役に立つのに?」
声が、少しだけ高くなった。
アレクセイは椅子の肘を握った。
叱る言葉は用意していた。
約束を守ること。
危険なことを勝手に決めないこと。
誰かのためと言えば何でも許されるわけではないこと。
どれも、伝える必要があった。
だが、その前にあった。
「ヘンゼル。グレーテル」
二人の名前を呼ぶ。
「今日はもう、マルコの話をしなくていい」
少女の眉が寄った。
「怒ってる?」
「約束を破ろうとしたことには、怒ってる」
ヘンゼルの指が、グレーテルの手を強く握った。
アレクセイはそれを見た。
「でも、君たちの部屋を取り上げる話はしていない」
沈黙が落ちた。
「明日の食事もある。本も読んでいい。ナディアに、君たちへ冷たくしろとも言わない」
グレーテルの口が、小さく開いた。
何も出てこなかった。
「怒っていることと、君たちを追い出すことは別だ」
廊下で、食器の触れ合う音がした。
誰かが歩き、また静かになる。
ヘンゼルは膝の上を見ていた。
「何もしなくていいの?」
「明日は、出かけたくなったら先に話してくれ」
「それだけ?」
「返事を聞く前に、門へ行かない」
少年はしばらく考えていた。
それから、小さく頷いた。
グレーテルはまだアレクセイを見ていた。
「マルコは、何て言った?」
アレクセイは彼女から目を逸らさなかった。
「君たちを返す約束はしていない」
知りたかったのは、たぶんそこだった。
少女の肩が、ほんの少し下がった。
「……そう」
「そうだ」
アレクセイが立ち上がりかける。
ヘンゼルが訊いた。
「ご飯は?」
「これから」
二人が同時に顔を上げた。
アレクセイは、疲れた顔で少し笑った。
「分かってる。食べるよ」
グレーテルがベッドの端へ置いていた本を持ち上げた。
青いしおりが覗いている。
「そこにいてもいい?」
「食堂に?」
頷く。
「いいぞ。眠くなったら先に寝ろ」
二人はベッドを降りた。
今日は、役に立つものを何も持ってこなかった。
本だけを抱えて、ついてきた。
*
スープは、ちょうど飲める温度になっていた。
ナディアは何も言わず、パンの皿を置いた。
アレクセイが匙を取る。
少し離れた椅子で、双子が本を開いた。
読み聞かせを求めるわけでもない。
こちらへ内容を説明するわけでもない。
ただ、同じ部屋にいた。
アレクセイは食べた。
途中で何度か、頁をめくる音がした。
その音が、止まる。
グレーテルがこちらを見ていた。
「何だ?」
「冷めてない?」
「大丈夫だ」
「そう」
彼女は本へ戻った。
アレクセイも、皿へ視線を落とした。
電話が鳴ったのは、食べ終わる少し前だった。
護衛が受ける。
短い応答の後、入口へ来た。
「アレクセイ。大尉からです」
二人が顔を上げる。
アレクセイは匙を置いた。
「食べてるところだと伝えてくれ」
「そうではなく……仕事の件です」
彼は立ち上がった。
受話器を取る。
「姉さん?」
『食事中か』
「ほとんど終わった」
『そうか』
声が、仕事のものに変わる。
『例の仲介会社から連絡が来た』
アレクセイは廊下の奥を見た。
食堂の戸口に、双子の影が映っている。
『倉庫の契約を進めたいそうだ』
「この時間に?」
『明日の朝、一番で会いたいと』
アレクセイは受話器を持ち直した。
「誰に?」
『所有者本人に』
沈黙。
電話の向こうで、紙の動く音がした。
『条件は現金払い。長期契約。修繕費も向こう持ちだ』
「ずいぶん気前がいい」
『付け加えた言葉がある』
バラライカの声が低くなった。
『家族を養うには、まとまった金が必要でしょう、と』
アレクセイは目を閉じた。
一度だけ。
開いたとき、食堂で椅子が動いた。
グレーテルがヘンゼルへ何かを見せている。
頁の中の、小さな挿絵だった。
「会う」
アレクセイは言った。
『一人で決めるな』
「大尉。相談してる」
電話の向こうが静かになる。
やがて、バラライカが答えた。
『明朝、私のところへ来い。先に話を詰める』
「了解」
『アリョーシャ』
「何だ」
『値段をつけさせるな』
アレクセイは、食堂の灯りを見た。
「分かってる」
受話器を戻す。
しばらく、その場に立っていた。
やがて食堂へ戻ると、グレーテルが尋ねた。
「お姉さん?」
「ああ」
「怒ってた?」
アレクセイは椅子に座った。
「俺には、まだな」
ヘンゼルが本から顔を上げる。
グレーテルは少し考えたあと、パンの皿を彼の方へ押した。
「じゃあ、食べておいた方がいいわ」
アレクセイは笑った。
ほんの少しだったが、今度は堪えなかった。
「そうする」
窓の外では、門の灯りが夜の庭を照らしていた。
明日の朝、誰かが金の話をしに来る。
この家で暮らすために、いくら必要かと。
アレクセイは、残っていたパンを手に取った。
答えることと、答えないことは、もう決めていた。
第八話・了