BLACK LAGOON ―姉さん、俺はもう大人だ― 作:いっしきさん
幕間8.5話 帰投を待つ者
弟が「大丈夫だ」と言ったとき、私は時計を見る。
昔からの癖だ。
最後に食事をしたのは何時か。 医者に診せてから、何日経ったか。 眠ったと本人が申告した時間と、実際に部屋の灯りが消えた時間は合っているか。
言葉だけでは、判断できない。
あいつの言う「大丈夫」は、たいていの場合、まだ動けるという意味だからだ。
*
机の上には、三件の報告書が並んでいた。
港の荷役をめぐる揉め事。 取引先の支払いの遅延。 そして、マルコ・ベリーニの身柄確保。
最後の紙に、目を通す。
発砲一。 こちらの負傷者なし。 対象、生存。
簡潔で、必要なことが書いてある。
「アレクセイは?」
軍曹は、私がそこを尋ねると分かっていたらしい。
「負傷していません」
「既存の傷は」
「本人は変わらないと」
「本人は、か」
「出血は確認していません。右腕も動かせています」
私は紙を机へ戻した。
「医者が聞けば、喜ぶだろうな」
軍曹は答えなかった。
動かせるかどうかと、動かしてよいかどうかは別だ。
あいつはその区別を知っている。
知っていて、時々無視する。
「食事は?」
「まだです」
私は時計を見た。
午後一時を過ぎていた。
「お前もか」
「はい」
「交代で食え。対象が椅子ごと消えるわけではあるまい」
「了解しました」
軍曹が踵を返す。
扉に手を掛けたところで、私は呼び止めた。
「軍曹」
「はい」
こちらを向いた男の顔には、余計な表情がない。
長年、私の下で働いてきた顔だ。
「アレクセイに――」
食べさせろ。
そう続けかけた。
私は机の紙を揃えた。
「全員、だ。あいつだけの話ではない」
「承知しています」
扉が閉まった。
承知している。
まったく、気に入らない返事だった。
*
弟は、自分の身体についてよく知っている。
どの程度の荷物なら持てるか。 どれだけ歩けば翌日に響くか。 どの姿勢で眠ると古い傷が疼くか。
私より正確に知っていることも、多い。
それでも私は尋ねる。
知識があっても、本人がそれを大切に使うとは限らない。
あいつは他人の疲れにはよく気づく。
サーシャの足が重ければ歩く速度を落とし、イワンが咳をすれば煙草を取り上げる。軍曹が眠っていなければ、本人より先に私へ報告する。
そのくせ、自分のことになると説明が短い。
平気だ。
問題ない。
後で休む。
特に最後の言葉には、何度も付き合わされた。
後で、という時間は、放っておけばいつまでも来ない。
私は引き出しを開けた。
予備の封筒、便箋、使っていないペン。
その奥に、古い写真がある。
取り出すつもりはなかった。
ただ、そこにあることを確認した。
軍服を着た男たちの中に、弟が写っている。
現在より若い。
それは間違いない。
だが、その違いを、初めて見る者が正しく読み取れるとは思わなかった。
周囲の男たちには、年月が分かりやすく残った。
髪が薄くなり、腹が出て、目尻に皺が増えた。
弟にも、年月はあった。
あいつの声を聞けば分かる。 黙り方を見れば分かる。 死んだ者の名を口にするとき、どこで一度息を止めるか、私は知っている。
写真を動かさず、引き出しを閉めた。
*
アフガニスタンにいた頃、一度だけ、弟の帰着が大幅に遅れたことがある。
予定の時刻を過ぎても、報告がなかった。
珍しいことではなかった。
道路が使えない。 車両が止まる。 連絡がつかない。
いくらでも起こり得る。
私は地図の前に立ち、最後に確認された地点を見ていた。
部下が説明する。
分かっていることと、分かっていないこと。
私は聞いた。
指示も出した。
別の任務の報告が来れば、それにも答えた。
そうしている間、地図の上の距離を何度も測っていた。
この地点から、歩いた場合。 負傷者がいる場合。 車両を捨てた場合。
部下には、その計算をさせていた。
自分の頭でも、同じことを繰り返した。
弟が戻ったとき、最初に見えたのは、泥のついた肩だった。
隣の男に何かを言いながら歩いていた。
自分の足で。
私はその足を見た。
次に、両手。
顔。
血がどこから出ているのか。
そこでようやく、弟が私に話しかけていると分かった。
「報告します、大尉」
声は落ち着いていた。
腹が立った。
内容を聞けば、判断は間違っていなかった。
戻るために必要なことをしていた。
連絡が途絶えた理由にも、説明がついた。
私は報告を受け、処置を命じた。
弟は頷いた。
「先に装備を――」
「医療所へ行け」
「歩けます」
「今、お前の移動能力を尋ねたか?」
周囲の男たちが、揃って視線を外した。
弟だけが、私を見ていた。
それから、ほんの少し困った顔をした。
「……了解」
あの顔を、私は今でも覚えている。
命令が不合理だとは思っていない。
ただ、なぜ私がこれほど短い言葉で話すのか、理解しようとしている顔だった。
説明したことはない。
あいつが戻るまで、私は一度も、自分の手が冷えていると気づかなかった。
*
廊下から声が聞こえた。
ロックだった。
数字の説明をしている。
弟が何かを尋ねる。
ロックが紙をめくる。
二人とも、同じところを何度か確認していた。
あの日本人は、以前より部屋へ入るときに周囲を見るようになった。
それでも時々、立つ場所が悪い。
軍曹が黙って移動すると、慌てて道を空ける。
この町に馴染んだというには、まだ早い。
だが、数字を見る目は役に立つ。
弟もそう思っているらしかった。
扉が開く。
先に入ってきたのは、その弟だった。
「帳簿に妙なところがある」
そう言って、机の前へ来る。
頬は拭いたらしい。
襟元に、薄く埃が残っていた。
右腕を庇っているかどうか、私は見た。
庇ってはいない。
それが、いい兆候なのか悪い兆候なのかは、まだ分からなかった。
「食事は」
「食べた」
「何を」
弟が私を見る。
「パンと肉。軍曹も一緒だった」
後ろから入ってきた軍曹が頷いた。
「確認済みか」
弟は呆れたように言った。
「報告の重複だ」
私は紙へ目を落とした。
「続けろ」
ロックが帳簿を広げる。
部屋の空気が変わった。
金の動きは、言葉より正直なことがある。
誰が誰に支払い、何を費用として扱い、何を損失としたか。
その線を辿れば、本人が語りたがらない仕事の輪郭が現れる。
やがて、ロックの指が止まった。
整理。
その下に、人の名前があった。
さらに、番号が二つ。
私は弟を見た。
顔は変わらない。
紙の端に置いた指だけが、止まっている。
双子のことだろう。
確定はしていない。
だが、この場で別のものを想像した者はいなかった。
あの子供たちを初めて見たときのことを思い出した。
私の部下を傷つけようとした子供たち。
私へ銃を向けた子供。
弟へ刃を向けた子供。
その事実は、何も変わっていない。
弟が保護を申し出ても、私は彼らのしたことまで消すつもりはなかった。
サーシャとイワンにも、同じ気持ちになるよう命じてはいない。
命じられることではない。
それでも、処分対象として並べられた番号を見て、私は目を細めた。
私の部下を襲わせた。
弟の車を追わせた。
そして今、用が済んだ相手を帳簿の端から消そうとしている。
勝手な勘定だった。
*
倉庫の住所が出てきたとき、弟は一度だけ顔を上げた。
南側の物件。
あいつ個人の所有だ。
修繕の見積もりについて、少し前に言い合った場所でもある。
弟は、自分で支払うと言った。
私は、施工業者をこちらで押さえると言った。
結局、業者を紹介し、契約は本人に任せた。
その倉庫の名前が、相手の帳簿にあった。
まだ受け取ってもいない金。
まだ交わしてもいない契約。
私は軍曹へ確認を命じた。
弟は紙を読み直していた。
怒りに任せて破ることも、机を叩くこともしない。
そういう男に育った。
育ったのだ。
見た目がどうであれ。
私はその横顔を見ながら、自分に言い聞かせるように思った。
弟が時計を見る。
ほんの短い動きだった。
帰る時間を気にしている。
「大尉」
「行け」
私は先に言った。
弟が止まる。
「こちらは私が進める。明朝、続きを聞け」
何か言いたそうにしたが、結局、頷いた。
「了解」
踵を返す。
私は背中を見た。
引き止める理由は、いくつも考えられた。
仕事は終わっていない。
負傷した腕を診せろ。
明日の予定を詰める。
どれも嘘ではない。
だが、あいつには戻ると言った場所がある。
そこへ帰らせることも、今は必要だった。
*
弟が出ていくと、部屋が少し広くなった。
騒がしい男ではない。
身体も小さい。
それでも、いなくなったことは分かった。
私は報告書へ署名し、軍曹へ渡した。
「帰りの車は」
「用意してあります」
「運転手は」
軍曹が名前を答えた。
古くからいる男だった。
余計なことを喋らず、無理な運転をしない。
「着いたら報告させろ」
「はい」
軍曹が紙を受け取る。
私はもう一枚、別の書類を引き寄せた。
「家へ直接はかけるな」
彼が顔を上げた。
「二人が気にする。運転手からでいい」
「了解しました」
少し間が空いた。
私はペンを持ったまま軍曹を見る。
「何だ」
「いえ」
「言いたいことがあるなら言え」
軍曹は、珍しく返答まで時間を置いた。
「アレクセイは、帰る場所が増えました」
私は彼を見た。
「だから何だ」
「いえ。それだけです」
それだけのために、余計なことを言う男ではない。
私はペン先を紙へ戻した。
「仕事へ戻れ」
「はい」
扉が閉じる。
帰る場所が増えた。
私はその言葉を、すぐには追い払えなかった。
*
双子から電話を受けた夜、弟の声が途中から妙に近く聞こえた。
寝る時間を延ばしたい。
そう言った少女へ、弟は何と言ったのか尋ねた。
寝ろ、と。
なら寝ろと答えた。
簡単な話だった。
少女は、本が途中なのだと言った。
しおりを挟めばいい。
それで解決したはずなのに、電話の向こうがしばらく静かになった。
小さな声で、同じだった、と言う。
聞こえている。
そう伝えると、向こうで紙の落ちる音がした。
弟に代わった。
声の出し方が、不自然だった。
笑いを堪えていたのだろう。
子供たちは真剣だった。
あいつも、それは分かっていたはずだ。
だから、笑わないようにしていた。
その努力が電話越しにも分かる程度には、苦労していた。
私は用件を伝えた。
明日の書類。
時間。
必要な確認。
最後に、弟にも仕事を切り上げろと言った。
あいつは文句を言わなかった。
珍しいことだった。
子供たちが聞いていたのかもしれない。
受話器を置いたあと、私はしばらく電話を見ていた。
あの二人は、私を恐れている。
それは知っている。
その相手へ、就寝時間について交渉してきた。
誰が教えたわけでもないらしい。
弟の家で、そういうことを考える時間ができたのだ。
私はそれを、悪い変化だとは思わなかった。
*
午後の報告が届いた。
支払いの遅れていた相手が、条件を変えたいと言っている。
断った。
荷役の揉め事は、現場の責任者を呼べば済む。
呼ばせた。
電話が二度鳴り、私は二度とも短く答えた。
仕事は進んだ。
時計の針も進んだ。
机の端に置いた紙へ、必要な指示を書き込む。
書き終え、次の紙を取る。
そのとき、扉が叩かれた。
軍曹だった。
「到着しました」
私は頷いた。
「そうか」
それだけでよかった。
それだけの報告を聞くまで、私は何度も時計を見ていた。
軍曹は部屋を出なかった。
「ほかにもあるのか」
「仲介会社から連絡です」
私は椅子へ座り直した。
「例の物件か」
「はい。明朝、所有者本人と会いたいと」
「条件は」
軍曹が読み上げる。
現金。
長期契約。
修繕費も先方負担。
私はこちらへ渡された紙を見た。
気前のよさには、理由がある。
「それだけか?」
「付け加えた言葉があります」
軍曹の声が、わずかに変わった。
「家族を養うには、まとまった金が必要でしょう、と」
私は紙を置いた。
端を机の縁に揃えた。
軍曹は黙って待っていた。
私は相手の名前を尋ねた。
会社名だけだった。
担当者は明朝、名乗るという。
随分と、気取った客だった。
「返答は保留にしろ」
「はい」
「アレクセイにつなげ」
*
食事中だった。
そう言われて、ほんの一瞬、後にしようかと思った。
だが、朝まで知らせない理由はなかった。
本人の物件だ。
本人を名指ししてきた話でもある。
私だけで処理すれば、弟は気づく。
そして怒る。
怒るだけなら構わない。
だが、それであいつが私に話さなくなる方が厄介だった。
弟が電話へ出る。
「姉さん?」
「食事中か」
「ほとんど終わった」
声を聞く。
ひどく疲れているわけではない。
だが、昼間より少し低い。
双子と何かあったのかもしれなかった。
今は尋ねなかった。
私は仲介会社の話をした。
条件を伝え、最後の言葉もそのまま告げた。
電話の向こうが静かになった。
私は待った。
弟が怒鳴るとは思っていなかった。
怒鳴ってくれた方が、まだ分かりやすいときもある。
あいつは、自分で腹を決めると静かになる。
「会う」
予想どおりだった。
「一人で決めるな」
言葉が先に出た。
弟は、少しだけ間を置いた。
「大尉。相談してる」
私は受話器を持つ手を動かした。
確かに、そうだった。
会うと言った。
一人で行くとは言っていない。
私へ話している。
部下として。
弟として。
私は息を整えた。
「明朝、私のところへ来い。先に話を詰める」
「了解」
切ろうとする気配がした。
私は名前を呼んだ。
「アリョーシャ」
「何だ」
「値段をつけさせるな」
向こうで、椅子の動く音がした。
少し離れたところに子供たちがいる。
そう分かった。
「分かってる」
弟は言った。
今度の言葉は、そのまま受け取れた。
*
受話器を置いてから、私は軍曹へ指示した。
会合の場所。
出席者。
先方の会社と、金の出所の確認。
倉庫の管理人には、単独で客を迎えないよう伝える。
弟の家へは、必要以上に人を増やさない。
周囲に目を置く。
家の中まで、兵舎に変える必要はなかった。
軍曹が一つずつ確認する。
最後に、帰りの車について尋ねた。
「会合後は、こちらへ戻しますか」
「状況次第だ」
私は答えた。
「だが、車は残しておけ。本人が帰ると決めたとき、すぐ出せるように」
「了解しました」
軍曹が手帳を閉じる。
「大尉」
「何だ」
「彼は、明日それを聞けば、そこまでしなくてもと言うでしょう」
私は椅子へ背を預けた。
「言わせておけ」
軍曹の口元が、わずかに動いた。
「承知しました」
「お前まで楽しむな」
「そのつもりはありません」
信用できない返事だった。
*
夜が更けると、廊下の足音が減った。
私は残っていた報告書を読み終え、署名を済ませた。
灰皿の葉巻は、途中で消えていた。
火をつけ直さなかった。
机の電話を見る。
弟が食事を終えたか、確かめることはできる。
傷を診せたか。
今夜は眠るつもりか。
尋ねることはいくらでもあった。
私は受話器へ手を伸ばし、途中で止めた。
今夜、あいつは戻った。
食事もしていた。
明朝には、ここへ来る。
それ以上の確認が必要なのか。
私は手を引いた。
その直後、電話が鳴った。
我ながら、受けるのが早すぎた。
「私だ」
『俺だ』
弟だった。
私は姿勢を変えた。
「何かあったか」
『いや。明日の前に一つ』
「何だ」
『ミハイルへ連絡した。鍵は本人が持ってる。勝手に誰かへ渡すことはない』
「こちらでも確認した」
『だろうな』
少し間が空いた。
切らない。
私も待った。
『食事は済んだ』
「そうか」
『包帯も替えた』
「聞いていない」
『聞く前に言った』
私は机の上の時計を見た。
弟が小さく笑う。
『今、時計を見ただろ』
「用件はそれだけか」
『あと、今日は寝る』
「今日は、か」
『明日も寝る予定だ』
「予定で済ませるな」
電話の向こうで、息が漏れた。
疲れた笑い方だった。
だが、無理に明るくしているようには聞こえなかった。
「二人は?」
私が尋ねると、弟は少し静かになった。
『寝た』
「そうか」
『今日は少し、話をした』
「揉めたか」
『約束の確認だ』
私は続きを急かさなかった。
弟も、それ以上は説明しなかった。
それでよかった。
あいつが引き受けたことだ。
必要なときには話せばいい。
しばらくして、弟が言った。
『姉さんは?』
「何が」
『食事』
「済ませた」
『何時に?』
私は目を細めた。
「お前に提出する報告書はない」
『俺もないぞ』
返しが早い。
私は答えなかった。
弟も黙った。
数秒後、向こうで椅子が軋んだ。
『ちゃんと食べろよ』
「お前に言われたくはない」
『分かってる』
妙に素直な声だった。
『でも、言う』
私は机の端に置かれた皿を見た。
軍曹が運ばせたものだった。
手をつけたのは半分ほど。
残りは、もう冷めている。
「……食べる」
『そうか』
それだけで、弟は満足したらしかった。
『明日、行く』
「ああ」
『おやすみ、姉さん』
私は受話器を耳へ当てたまま、少しだけ待った。
この挨拶を、どれほど長く、当然のものとして聞けなかっただろう。
「おやすみ、アリョーシャ」
電話が切れた。
*
私は皿を引き寄せた。
冷めた肉を切る。
食べる。
途中で、軍曹が書類を取りに来た。
私の手元を見て、何も言わなかった。
「何だ」
「いえ」
「最近、その返事が多いな」
「申し訳ありません」
謝る声に、まるで反省がなかった。
私は残りを食べ終え、皿を脇へ寄せた。
軍曹が書類を受け取る。
「明朝の車は手配済みです」
「分かった」
「運転手にも伝えてあります」
私は頷いた。
軍曹が扉へ向かう。
その背中へ、もう一度声を掛けた。
「車を急がせるな」
彼が振り返る。
私は机の上を片づけながら続けた。
「時間には余裕を持たせろ。遅れを取り戻そうとして、無理をする必要はない」
「了解しました」
扉が閉じた。
私は時計を見た。
今夜は、もう帰着を待たなくていい。
弟は帰った。
子供たちは眠った。
明日になれば、また確認することが増えるだろう。
あいつは呆れる。
軍曹は余計なことを察する。
私も、いくつかは言わずに済ませるつもりでいる。
だが、帰りの車は用意しておく。
それくらいは、姉の勝手でよかった。
幕間8.5話・了