BLACK LAGOON ―姉さん、俺はもう大人だ― 作:いっしきさん
幕間7.5話 保護者の保護者
アレクセイが約束を破っている。
最初に気づいたのは、グレーテルだった。
時計の長い針は、とっくに真上を通り過ぎていた。廊下には温めたスープの匂いが漂い、台所からはナディアが食器を並べる音が聞こえている。
それなのに、アレクセイは小さな執務室から出てこなかった。
扉は開いている。
入っていいか尋ねれば、たいていは返事がある。ただし、机の上の書類には触らない。それはこの家に来てから教えられた決まりだった。
グレーテルは敷居の外から中を覗いた。
灰色のシャツ。
薄い金髪。
机に積まれた紙。
アレクセイは右手のペンを動かし、時々、左側の帳面へ目を移していた。新しく巻かれた右腕の包帯が、袖口から覗いている。
「ご飯よ」
「ああ。すぐ行く」
顔を上げずに言った。
グレーテルは少し待った。
ペンが動いた。
紙が一枚めくられた。
それから、もう一枚。
「すぐって、いつ?」
そこでようやく、アレクセイが顔を上げた。
「これを確認したら」
「何枚?」
「あと二枚」
グレーテルは机を見た。
二枚より多かった。
アレクセイはその視線に気づいたらしく、手元の紙を軽く持ち上げる。
「こっちの二枚だ」
「終わったら来る?」
「行く」
グレーテルは頷いた。
廊下へ戻ると、ヘンゼルが壁際で待っていた。
「来るって?」
「あと二枚」
ヘンゼルは執務室を覗いた。
アレクセイが、今度は別の帳面を開いている。
二人は顔を見合わせた。
*
昼食が始まっても、椅子は一つ空いたままだった。
ナディアは鍋の蓋を閉じ、腰に手を当てた。
「まただよ」
大きくはない声だった。
だが、台所の窓辺で湯を飲んでいた護衛の男が、そっと視線を外した。
「あなたたちには時間どおり食べろって言うくせに、あの人は放っておくとこれだから」
ヘンゼルはスプーンを持ったまま尋ねた。
「食べなくても平気なの?」
「平気な顔をするのが上手いだけ」
ナディアは空いている椅子を見る。
「冷めたら自分で温めてもらうからね」
グレーテルは廊下の時計を見た。
針は、さらに進んでいた。
「二枚って言ったのに」
「紙は増えるんだよ。あの人の机の上じゃね」
ナディアは二人の前へパンの籠を置いた。
「先に食べなさい」
そのとき、廊下の電話が鳴った。
二人の手が止まる。
ここへ来たばかりの頃ほどではなかったが、突然の音には、まだ身体が先に反応した。
窓辺の男が立ち上がり、受話器を取る。
「はい」
短く応じたあと、その背筋が少し伸びた。
「いらっしゃいます。……はい」
男は食堂の入口へ顔を出した。
「グレーテル」
呼ばれた少女が顔を上げる。
「今、執務室へ行ったな。アレクセイは食事をしていたか?」
グレーテルは首を振った。
「紙を見てる」
男は受話器へ向き直った。
何かを答える前に、電話の向こうから声が聞こえたらしい。
少しだけ間が空いた。
「……代わりますか?」
グレーテルは椅子を降りた。
男が受話器を渡してくる。
重かった。
両手で持ち、耳に当てる。
『弟は食べたか?』
低い女の声だった。
グレーテルは、すぐに誰なのか分かった。
「まだ」
『何をしている』
「紙を見てる」
『そうか』
短い沈黙。
『代われ』
グレーテルは受話器を耳から離した。
そのまま執務室へ向かおうとして、電話のコードが伸びきる。
止まった。
後ろで護衛の男が口元を押さえた。
「呼んでくる」
彼はそう言って廊下を進んだ。
間もなく、アレクセイが現れた。
「誰から?」
グレーテルは受話器を差し出した。
「お姉さん」
アレクセイが一瞬だけ目を閉じた。
受話器を取る。
「……ああ」
少し間が空く。
「食べるところだ」
グレーテルは彼を見た。
ヘンゼルも食堂の入口まで来ていた。
「いや、今からだ」
アレクセイの言い方が変わる。
「分かってる。確認が一つ――」
また、間が空いた。
長くはなかった。
「……いや。火急じゃない」
ナディアが台所で鍋を開けた。
「冷めてない。まだ」
アレクセイが言う。
ナディアは何も言わず、器へスープを注いだ。
「分かった。食べる」
それで電話は終わった。
受話器を戻したアレクセイが振り返ると、二人分の青い目が彼を見ていた。
「何だ」
ヘンゼルが尋ねる。
「紙は?」
「午後だ」
アレクセイは執務室へ戻り、帳面を閉じた。
ペンを置き、扉を半分ほど閉める。
それから、食堂へ向かった。
グレーテルは電話を見た。
ヘンゼルも見た。
二人は何も言わなかった。
言う必要がなかった。
*
午後、ナディアは妙な変化に気づいた。
二人が、よく時計を見るようになったのだ。
以前から時間は気にしていた。
誰が出かける。
いつ戻る。
次の食事は何時か。
それを確かめるために、廊下へ顔を出すことはあった。
けれど今日は少し違う。
時計を見て、アレクセイを見る。
また時計を見て、顔を寄せ合う。
何かを相談していた。
アレクセイ本人は、それに気づいていないらしかった。
執務室から出てきて、椅子の背へ上着を掛ける。
片手には、まだ書類があった。
グレーテルが近づいた。
「包帯」
アレクセイが顔を上げる。
「ん?」
「替える時間よ」
「ああ。これを書き終わったらな」
そう言って、書類の下へ薄い板を入れる。
グレーテルは、その手元を見た。
「あと二枚?」
「今回は一枚だ」
少し離れたところで、ヘンゼルが時計を確認した。
それから、廊下の電話を見た。
「お姉さんに電話する?」
ペンが止まった。
ナディアは布巾を畳む手を止めなかった。
アレクセイは、ゆっくりとヘンゼルへ顔を向けた。
「なぜ?」
「お昼は、それで来た」
説明としては、申し分なかった。
アレクセイはしばらく黙っていた。
グレーテルが首を傾げる。
「呼ぶ?」
「呼ばなくていい」
「じゃあ、替える?」
「……替える」
彼は書類を伏せた。
ナディアが棚から包帯と必要なものを取り出す。
その横で、グレーテルはヘンゼルを見た。
ヘンゼルが小さく頷いた。
アレクセイは、その頷きを見逃さなかった。
「今、何を確認した?」
「何でもない」
二人が揃って答えた。
ナディアが椅子を引いた。
「腕を出しなさい」
アレクセイは座った。
「この家、急に指揮官が増えてないか?」
「元からあなた一人で決める家じゃないでしょう」
「それはそうだが」
「だったら腕」
彼は袖をまくった。
グレーテルが少し離れて見ている。
傷そのものより、アレクセイの顔を見ていた。
痛いのかどうか。
怒っているのかどうか。
ナディアが古い包帯を外すと、アレクセイの眉が少しだけ動いた。
それ以外は、特に変わらなかった。
「電話は、本当に困ったときに使うんだぞ」
彼が言う。
ヘンゼルはすぐに答えた。
「包帯を替えないから困った」
ナディアが下を向いた。
アレクセイは彼女を見た。
「笑ってるだろ」
「手元を見てるの」
「肩まで動かす必要はない」
グレーテルは少し考えた。
そして尋ねた。
「あなたは、あのお姉さんが来ると困るの?」
「来ること自体には困らない」
「電話は?」
「内容による」
「包帯は?」
アレクセイは新しい包帯が巻かれていく腕を見た。
「……今回は、俺が先に替えるべきだった」
ヘンゼルが、また小さく頷いた。
アレクセイはその額を指で押す真似だけした。
「勝った顔をするな」
ヘンゼルは表情を変えなかった。
ただ、グレーテルの肩の向こうへ、少しだけ隠れた。
*
電話の力は、その日のうちにさらに試された。
夕方、アレクセイが庭から戻ってきたときだった。
護衛と話をしていたため、靴の裏に乾いた土がついていた。
玄関で落としたつもりだったが、廊下に一粒だけ残っている。
ヘンゼルがそれを見つけた。
「アレクセイ」
「何だ?」
「床」
アレクセイは振り返り、土を見た。
「ああ。悪い」
近くの箒へ手を伸ばす。
その前に、ヘンゼルが言った。
「お姉さんに――」
「箒の方が近い」
アレクセイは土を掃いた。
ヘンゼルは電話を見た。
電話と箒を、見比べた。
確かに、箒の方が近かった。
そのあと、グレーテルが棚の上の缶に手を伸ばした。
ナディアが焼いた、小さな菓子の入った缶だった。
夕食まで、まだ少し時間があった。
「一つならいいか?」
アレクセイがナディアへ尋ねる。
「二人とも一つずつね」
彼は缶を下ろし、蓋を開けた。
ヘンゼルが一つ取る。
グレーテルも一つ取る。
アレクセイが蓋を閉じようとすると、グレーテルが手を止めた。
「もう一つ」
「夕食の後だ」
「小さいわ」
「大きさは見た」
「お姉さんに聞いたら?」
アレクセイは缶を持ったまま、彼女を見た。
グレーテルは真顔だった。
ふざけているというより、本当に別の窓口を思いついた顔をしている。
アレクセイは缶を棚へ戻した。
「姉さんは、この家の菓子の数を決めてない」
「でも、あなたのご飯は決めた」
「あれは時間だ」
「時間なら、今食べてもいい?」
「グレーテル」
「何?」
「君、話をよく聞いてるな」
少女は少しだけ顎を上げた。
褒められたと思ったらしい。
アレクセイは続けた。
「聞いた上で、都合のいいところだけ使ってる」
ナディアが台所から言った。
「誰に似たんだか」
アレクセイは振り返った。
「俺を見るな」
「まだ見てないよ」
ヘンゼルが菓子を齧った。
乾いた小さな音がする。
「お姉さんも、あなたにそう言う?」
アレクセイは返事をしなかった。
ナディアが笑った。
グレーテルは、もう一つの菓子を諦めた。
その代わり、新しいことを覚えたらしかった。
*
夕食のあと、アレクセイは電話について話すことにした。
大げさな話にするつもりはなかった。
叱るほどのことでもない。
ただ、このままではホテル・モスクワの幹部が、菓子の追加と床の土について逐次報告を受けることになる。
それは、さすがにまずかった。
二人は居間の絨毯に座っていた。
ヘンゼルが、挿絵の多い本を開いている。
グレーテルはその隣で、昼間に使った色鉛筆を箱へ戻していた。
アレクセイは椅子を引き寄せた。
「昼の電話だが」
二人の手が止まった。
彼は、できるだけいつもと同じ声で続けた。
「姉さんに話してはいけないわけじゃない」
ヘンゼルが顔を上げる。
「電話してもいい?」
「用があればな。ただし、誰かを呼び出すには、その人の時間を使う」
グレーテルは色鉛筆を一本持ったまま聞いていた。
「仕事をしているかもしれない。車に乗っているかもしれない。だから、まず近くにいる大人へ話してくれ」
「あなた?」
「俺でも、ナディアでも、廊下の連中でもいい」
ヘンゼルが考え込む。
「あなたが、駄目って言ったことは?」
「別の人に聞きたくなったら、俺が何と言ったかも伝える」
「隠したら?」
「話が違ってくる」
アレクセイは二人を見た。
「俺が昼飯を後回しにした話も、隠さなくていい。あれは俺が悪かった」
グレーテルが訊く。
「じゃあ、包帯も?」
「それも」
「床は?」
「掃いた」
「お菓子は?」
「夕食の後に一つ増えただろ」
グレーテルは空になった小皿を見た。
確かに、増えた。
アレクセイは少し身を乗り出した。
「ただ、俺が嫌なことを言ったからといって、毎回姉さんを呼ぶな。まず俺に言ってくれ」
ヘンゼルが本を閉じる。
「言っても、変わらなかったら?」
「変えられることなら話し合う。駄目なものは駄目だ」
グレーテルが、最後の色鉛筆を箱へ収めた。
「あなたも?」
「俺も?」
「お姉さんに、駄目って言うの?」
アレクセイは少しだけ口元を曲げた。
「言うよ」
「どうなる?」
「話が長くなる」
二人は黙った。
廊下で、護衛の男が小さく咳をした。
アレクセイはそちらを見ずに言った。
「聞こえてるぞ」
返事はなかった。
*
電話は、その夜にも鳴った。
アレクセイは執務室でボリスと話していた。
開いた扉の向こうから、短いロシア語のやり取りが聞こえてくる。
ナディアは台所の片づけをしていた。
グレーテルは、廊下にいた。
護衛が受話器を取り、少し話してから彼女を見る。
「大尉からだ。アレクセイに代わるが、その前に伝えてほしいことがあるそうだ」
グレーテルは受話器を受け取った。
『弟は食べたか?』
「食べた」
『包帯は』
「替えた」
『そうか』
グレーテルは少し考えた。
昼間と同じ声だった。
怖さがなくなったわけではない。
あの女が玄関に立つと、今でも身体が固くなる。
けれど、電話の向こうの彼女は、今のところ食事と包帯についてしか尋ねてこない。
「自分でやったわ」
『何を』
「床のお掃除」
電話の向こうが静かになった。
グレーテルは説明を足した。
「土を落としたから」
『……それは当然だな』
「そう」
会話が終わりかけたところで、ヘンゼルが近づいてきた。
グレーテルの袖を引く。
時計を指した。
あと少しで、寝る時間だった。
挿絵の本は、まだ途中だった。
グレーテルはヘンゼルを見た。
ヘンゼルが頷く。
それで決まった。
「聞いてもいい?」
『何だ』
「あと一時間、起きていたいの」
台所で、水の音が止まった。
護衛の男が、ゆっくりと壁へ顔を向けた。
電話の向こうから、すぐに返事はなかった。
やがてバラライカが尋ねた。
『アレクセイは何と言った?』
グレーテルは昼間の話を思い出した。
別の人に聞くなら、彼が何と言ったかも伝える。
だから、正直に答えた。
「寝ろって」
『なら寝ろ』
短かった。
とても短かった。
グレーテルは受話器を見た。
ヘンゼルが顔を寄せる。
「どう?」
グレーテルは小声で答えた。
「同じだった」
『聞こえている』
二人の背筋が伸びた。
廊下の向こうで、誰かが書類を落とした。
ボリスではなかった。
アレクセイが執務室の入口に立っていた。
片手に、拾い損ねた一枚の紙。
表情は何とも言えなかった。
驚きと、呆れと、笑いを押さえる努力が混ざっている。
グレーテルは受話器へ向き直った。
「本が、途中なの」
『明日もあるだろう』
「途中だと、忘れるかもしれない」
『しおりを挟め』
グレーテルはヘンゼルを見た。
ヘンゼルは本を見た。
解決策が出てしまった。
バラライカの声が続く。
『弟に代われ。お前たちが寝る前に、用を済ませる』
グレーテルは受話器を差し出した。
アレクセイは紙をボリスへ渡し、それを受け取る。
「……姉さん」
少し間が空いた。
「ああ。聞いてた」
さらに間が空く。
「いや、教えてない。独自の判断だ」
グレーテルはヘンゼルの横へ戻った。
二人で壁際に立つ。
アレクセイは、なるべくこちらを見ないようにしているようだった。
「分かってる。俺も切り上げる」
彼は言った。
「用件は?」
そのあと少しだけ、仕事の話になった。
名前。
時間。
明日の書類。
双子にはよく分からない言葉がいくつか続き、電話は終わった。
アレクセイが受話器を戻す。
振り返る。
二人は彼を見た。
彼も二人を見た。
「上官への直訴は終わったか?」
グレーテルが口を開いた。
「……あなたたち、仲間なのね」
アレクセイは片手で顔を覆った。
ボリスが廊下の奥へ顔を向けた。
肩が、一度だけ動いた。
「実の姉弟だと言っただろう」
「でも、いつも言い合ってる」
「言い合っていても、同じことを言う日はある」
ヘンゼルが本を抱え直した。
「今日は?」
「よく寝ろ」
二人は顔を見合わせた。
今度は、相談が少し長かった。
アレクセイは待った。
やがてヘンゼルが言った。
「じゃあ、しおり」
「持ってくる」
*
しおりは、見つからなかった。
正確には、アレクセイが持っているはずのものが見つからなかった。
鞄の内ポケット。
本の間。
机の引き出し。
どこにもない。
二人は居間で待っていた。
ボリスは帰り支度を済ませ、扉の脇に立っている。
「紙を切ればいいだろう」
彼が言った。
「分かってる。だが、ここに入れたはずなんだ」
アレクセイは鞄を覗き込んだ。
グレーテルが時計を見る。
「寝る時間、過ぎたわ」
「知ってる」
「お姉さんに――」
「電話は置いておけ」
彼は顔を上げずに言った。
ボリスが小さく息を吐いた。
笑ったらしかった。
結局、ナディアが厚紙を一枚持ってきた。
青い包み紙の裏だった。
「これでいいでしょう」
アレクセイが受け取る。
「ありがとう」
机の端で細長く切り、角を整えた。
ヘンゼルへ渡そうとすると、グレーテルも手を出した。
アレクセイは二人の手を見る。
本は一冊だった。
しおりも一本で足りる。
そう言いかけて、やめた。
もう一本切った。
「はい」
グレーテルは受け取ったしおりを、光に透かすように持ち上げた。
「同じ色」
「違う方がいいか?」
「これでいい」
ヘンゼルは、本の途中へ一本を挟んだ。
グレーテルは自分の一本を、袖口に隠しかけた。
それから思い直したように、色鉛筆の箱へ入れた。
アレクセイは何も言わなかった。
「よし。寝よう」
立ち上がると、ヘンゼルが彼の机を見た。
「あなたは?」
「もう少しだけ片づける」
二人の視線が、同時に廊下へ向いた。
電話のある方向だった。
アレクセイは目を閉じた。
「……分かった。帳面を閉じるところまで見ていけ」
ボリスが先に玄関へ向かった。
「軍曹」
アレクセイが呼ぶ。
「何だ」
「助けろ」
「明日の書類は持った」
「そういう意味じゃない」
ボリスは靴を履きながら答えた。
「お前が決めた就寝時間だ」
アレクセイの味方は、今夜も少なかった。
*
翌日の午後、ロックがやってきた。
届け物は、子供向けの薄い読み物が数冊。
それと、アレクセイに頼まれた帳簿の照合結果だった。
双子は、まだロックに好き勝手に近づくほどではない。
ただ、玄関で声がすると、廊下の角から顔を出すようにはなっていた。
「こんにちは」
ロックが挨拶する。
ヘンゼルが頷いた。
グレーテルは彼の手元を見た。
「本?」
「そう。中を見てからでいいよ。気に入らないのがあったら、別のを探すから」
二人は袋を見た。
アレクセイが奥から出てくる。
「悪かったな。仕事のついでだったか?」
「いや、近くに店があったから」
ロックは書類の封筒も差し出した。
「こっちは確認できた。数字が違ったところには印をつけてある」
「助かる」
アレクセイが封筒を受け取る。
その動きを見たグレーテルが、すぐに時計を見た。
ロックは気づいた。
「何か予定があるの?」
「まだ」
グレーテルが答える。
「まだ?」
「ご飯には早い」
ロックは少し首を傾げた。
アレクセイが封筒を脇へ挟む。
「気にしなくていい」
ヘンゼルが言った。
「気にしないと、食べない」
ロックがアレクセイを見る。
アレクセイは、天井を見た。
「昨日、一度だ」
「包帯も」
グレーテルが付け加えた。
「替えた」
「電話するって言ったら」
ロックは目を瞬いた。
「電話?」
アレクセイが先に口を開く。
「説明すると長い」
「短いよ」
ヘンゼルが言った。
ロックが視線を落とす。
少年は真面目な顔で続けた。
「アレクセイが、僕たちの面倒を見る」
グレーテルが隣で頷く。
「そのアレクセイの面倒は、お姉さんが見るの」
ロックは少し考えた。
電話。
食事。
包帯。
それから、先日の訓練場で見た光景を思い出した。
「ああ……なるほど。ちゃんとしてるな」
「ロック」
アレクセイが言った。
「そこは否定しろ」
ロックは口元を押さえた。
「いや、でも、理屈は通ってる」
「通すな」
「バラライカさんに電話したのか?」
グレーテルが頷いた。
「寝る時間も聞いた」
「それはどうなった?」
「寝ろって」
ロックは堪えきれずに笑った。
大きな笑いではなかった。
それでも双子は、少しだけ目を見開いた。
アレクセイも、笑いを止めさせようとはしなかった。
ただ、困ったように髪を掻いた。
「別の人間に聞けば答えが変わると思ったらしい」
「俺も子供の頃、やったよ」
ロックが言う。
「母親が駄目なら父親に聞く、とか」
グレーテルが彼を見た。
「変わった?」
「だいたい、母親に何て言われたって聞かれた」
「同じね」
「ああ。同じだ」
ヘンゼルは抱えていた本の袋を少し持ち上げた。
中で、紙が擦れる音がする。
アレクセイが袋を指した。
「見ていいぞ」
二人は居間へ向かった。
走りはしなかった。
ただ、普段より少し足が速かった。
ロックはその背中を見送った。
「……ちゃんと、子供らしいことで困ってるんだな」
小さな声だった。
アレクセイはすぐには答えなかった。
居間では、二人が袋から本を出している。
一冊ずつ並べる。
表紙を見る。
互いの手元を覗く。
アレクセイはそれを見てから言った。
「俺の電話代でな」
ロックが笑う。
「そこは我慢してやれよ」
「姉さんの時間も使う」
「それは……怒られそうだな」
「誰が?」
ロックは一瞬迷った。
アレクセイが頷く。
「そうだ。俺だ」
*
バラライカが訪ねてきたのは、その日の夕方だった。
仕事の帰りに寄ったのだという。
アレクセイはその説明に何も言わなかった。
玄関で迎え、短く仕事の話をする。
ロックはまだ居間にいた。
双子は本を閉じて、少し離れた場所からバラライカを見ていた。
彼女も二人に気づいた。
「昨夜は寝たか」
ヘンゼルが頷く。
グレーテルが答えた。
「しおりを作った」
「そうか」
それで済んだ。
長い髪が、肩のコートに触れる。
バラライカはアレクセイへ視線を戻した。
「お前もか?」
「帳面を閉じるところまで確認された」
ロックが顔を伏せた。
バラライカの口元が、ほんの少し動いた。
「念入りだな」
「誰に似たんだろうな」
「さあな」
彼女は平然と答えた。
アレクセイは返す言葉を探して、やめた。
グレーテルが、半歩だけ前へ出る。
「聞いてもいい?」
バラライカが見る。
少女の足が止まった。
彼女は急かさなかった。
「何だ」
グレーテルはアレクセイを見た。
それから、もう一度バラライカを見る。
「アレクセイが、駄目って言ったら、あなたも駄目?」
アレクセイが口を開きかけた。
バラライカは片手を少し上げ、それを止めた。
「内容による」
グレーテルの目が、わずかに動いた。
バラライカは続けた。
「だが、前に何と言われたかは聞く」
少女は黙った。
「自分に都合のいい部分だけ話せば、それも分かる」
アレクセイは壁際へ視線を逸らした。
ロックは、今度こそ完全に下を向いた。
「何か言いたそうだな、アリョーシャ」
「何も」
「そうか」
バラライカは双子へ向き直る。
「私へ話す必要があるなら、家の者に言え。ただし、電話をすれば望みどおりになると思うな」
ヘンゼルが尋ねた。
「あなたが駄目って言ったら?」
「駄目だ」
「誰に聞くの?」
部屋が静かになった。
ロックが、そっと顔を上げる。
アレクセイは口元を手で隠した。
ナディアが台所の入口で足を止める。
バラライカだけが、表情を変えなかった。
「理由を聞け」
ヘンゼルは彼女を見た。
「聞いていい?」
「ああ」
「それでも嫌だったら?」
「そう言え」
少し間が空いた。
バラライカは付け加える。
「それで答えが変わるとは限らんがな」
ヘンゼルは考えた。
それから頷いた。
アレクセイが、ようやく手を下ろす。
「聞こえたな。まず話すんだ」
バラライカが弟を見る。
「お前もだ」
「俺は十分話してるだろ」
「時々、話しすぎる」
ロックの肩が震えた。
アレクセイは、もう見なかった。
*
ナディアが茶を運んできた。
バラライカは長居するつもりはなかったらしく、最初は断ろうとした。
だが、台所から出てきたナディアが、その顔を見た。
「お昼は?」
「済ませた」
バラライカが答える。
そのとき、玄関に控えていたボリスが時計を見た。
ほんの一瞬だった。
アレクセイは、それを見逃さなかった。
「姉さん」
「何だ」
「何時に?」
「仕事の合間だ」
「何を食べた?」
バラライカは弟を見た。
アレクセイは、さっきまで彼女がしていたのと同じ顔で待っている。
「……サンドイッチだ」
「それは朝、軍曹が持ってきたやつか?」
ボリスが無言になった。
十分な返事だった。
ナディアは茶盆を置いた。
「少し残ってるよ。温めればすぐ」
「必要ない」
バラライカが言う。
グレーテルが時計を見た。
ヘンゼルはバラライカを見た。
それから、二人ともアレクセイを見た。
アレクセイはゆっくりと頷いた。
「そうだな」
彼は姉の前の椅子を引いた。
「食べていけ」
「次の予定がある」
「軍曹」
呼ばれたボリスが答えた。
「多少の余裕はあります」
バラライカの視線が、彼へ移った。
ボリスは動かなかった。
長い付き合いの男だった。
この程度では、もう視線を逸らさない。
ナディアが台所へ戻る。
「小さい皿にするから」
グレーテルはバラライカを見上げた。
「冷める前に食べた方がいいのよ」
バラライカは少女を見た。
少女は、さっき教わったとおり、理由を付け足した。
「温め直す人が困るから」
アレクセイは咳払いをした。
ロックは顔を横へ向けた。
バラライカは、しばらく何も言わなかった。
やがてコートを肩から外し、ボリスへ渡した。
「少しだけだ」
椅子に座る。
ナディアが皿を持ってくる。
アレクセイは、満足そうに腕を組んだ。
その横で、ヘンゼルがロックの袖を引いた。
ロックが身をかがめる。
少年は小声で言った。
「違った」
「何が?」
ヘンゼルはバラライカを指ささず、目だけで示した。
「お姉さんの面倒は、アレクセイが見る」
ロックは二人を見た。
バラライカが匙を取る。
アレクセイが何か言う。
姉が睨む。
弟は睨まれたまま、パンの皿を近づける。
「……そうみたいだな」
ロックが答える。
グレーテルも近づいてきた。
少し考えてから、言う。
「じゃあ、二人とも食べない日は?」
ロックは答えに詰まった。
アレクセイがこちらを見る。
「聞こえてるぞ」
ヘンゼルはナディアを見た。
グレーテルも見た。
ナディアは台所の入口で、布巾を肩へ掛け直していた。
二人の視線を受けて、眉を上げる。
「何?」
グレーテルが尋ねた。
「あなたに言えばいい?」
「食事のことならね」
迷いのない答えだった。
双子は頷いた。
ロックはとうとう声を出して笑った。
アレクセイが深く息を吐く。
「また指揮官が増えた」
バラライカはスープを一口飲んでから言った。
「適切な人選だ」
「姉さんも対象だぞ」
「分かっている」
ナディアがアレクセイを見る。
「あなたの分も温めるよ」
「俺はもう少し後で――」
言いかけて、止まった。
二人分の青い目が見ている。
姉も見ている。
ロックまで、楽しそうに見ていた。
アレクセイは椅子を引いた。
「……今、食べる」
グレーテルが、小さく頷く。
ヘンゼルも頷いた。
電話は、廊下に置かれたままだった。
その日はもう、誰も受話器に手を伸ばさなかった。
幕間7.5話・了