BLACK LAGOON ―姉さん、俺はもう大人だ―   作:いっしきさん

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幕間7.5話 保護者の保護者

幕間7.5話 保護者の保護者

 アレクセイが約束を破っている。

 最初に気づいたのは、グレーテルだった。

 時計の長い針は、とっくに真上を通り過ぎていた。廊下には温めたスープの匂いが漂い、台所からはナディアが食器を並べる音が聞こえている。

 それなのに、アレクセイは小さな執務室から出てこなかった。

 扉は開いている。

 入っていいか尋ねれば、たいていは返事がある。ただし、机の上の書類には触らない。それはこの家に来てから教えられた決まりだった。

 グレーテルは敷居の外から中を覗いた。

 灰色のシャツ。

 薄い金髪。

 机に積まれた紙。

 アレクセイは右手のペンを動かし、時々、左側の帳面へ目を移していた。新しく巻かれた右腕の包帯が、袖口から覗いている。

「ご飯よ」

「ああ。すぐ行く」

 顔を上げずに言った。

 グレーテルは少し待った。

 ペンが動いた。

 紙が一枚めくられた。

 それから、もう一枚。

「すぐって、いつ?」

 そこでようやく、アレクセイが顔を上げた。

「これを確認したら」

「何枚?」

「あと二枚」

 グレーテルは机を見た。

 二枚より多かった。

 アレクセイはその視線に気づいたらしく、手元の紙を軽く持ち上げる。

「こっちの二枚だ」

「終わったら来る?」

「行く」

 グレーテルは頷いた。

 廊下へ戻ると、ヘンゼルが壁際で待っていた。

「来るって?」

「あと二枚」

 ヘンゼルは執務室を覗いた。

 アレクセイが、今度は別の帳面を開いている。

 二人は顔を見合わせた。

     *

 昼食が始まっても、椅子は一つ空いたままだった。

 ナディアは鍋の蓋を閉じ、腰に手を当てた。

「まただよ」

 大きくはない声だった。

 だが、台所の窓辺で湯を飲んでいた護衛の男が、そっと視線を外した。

「あなたたちには時間どおり食べろって言うくせに、あの人は放っておくとこれだから」

 ヘンゼルはスプーンを持ったまま尋ねた。

「食べなくても平気なの?」

「平気な顔をするのが上手いだけ」

 ナディアは空いている椅子を見る。

「冷めたら自分で温めてもらうからね」

 グレーテルは廊下の時計を見た。

 針は、さらに進んでいた。

「二枚って言ったのに」

「紙は増えるんだよ。あの人の机の上じゃね」

 ナディアは二人の前へパンの籠を置いた。

「先に食べなさい」

 そのとき、廊下の電話が鳴った。

 二人の手が止まる。

 ここへ来たばかりの頃ほどではなかったが、突然の音には、まだ身体が先に反応した。

 窓辺の男が立ち上がり、受話器を取る。

「はい」

 短く応じたあと、その背筋が少し伸びた。

「いらっしゃいます。……はい」

 男は食堂の入口へ顔を出した。

「グレーテル」

 呼ばれた少女が顔を上げる。

「今、執務室へ行ったな。アレクセイは食事をしていたか?」

 グレーテルは首を振った。

「紙を見てる」

 男は受話器へ向き直った。

 何かを答える前に、電話の向こうから声が聞こえたらしい。

 少しだけ間が空いた。

「……代わりますか?」

 グレーテルは椅子を降りた。

 男が受話器を渡してくる。

 重かった。

 両手で持ち、耳に当てる。

『弟は食べたか?』

 低い女の声だった。

 グレーテルは、すぐに誰なのか分かった。

「まだ」

『何をしている』

「紙を見てる」

『そうか』

 短い沈黙。

『代われ』

 グレーテルは受話器を耳から離した。

 そのまま執務室へ向かおうとして、電話のコードが伸びきる。

 止まった。

 後ろで護衛の男が口元を押さえた。

「呼んでくる」

 彼はそう言って廊下を進んだ。

 間もなく、アレクセイが現れた。

「誰から?」

 グレーテルは受話器を差し出した。

「お姉さん」

 アレクセイが一瞬だけ目を閉じた。

 受話器を取る。

「……ああ」

 少し間が空く。

「食べるところだ」

 グレーテルは彼を見た。

 ヘンゼルも食堂の入口まで来ていた。

「いや、今からだ」

 アレクセイの言い方が変わる。

「分かってる。確認が一つ――」

 また、間が空いた。

 長くはなかった。

「……いや。火急じゃない」

 ナディアが台所で鍋を開けた。

「冷めてない。まだ」

 アレクセイが言う。

 ナディアは何も言わず、器へスープを注いだ。

「分かった。食べる」

 それで電話は終わった。

 受話器を戻したアレクセイが振り返ると、二人分の青い目が彼を見ていた。

「何だ」

 ヘンゼルが尋ねる。

「紙は?」

「午後だ」

 アレクセイは執務室へ戻り、帳面を閉じた。

 ペンを置き、扉を半分ほど閉める。

 それから、食堂へ向かった。

 グレーテルは電話を見た。

 ヘンゼルも見た。

 二人は何も言わなかった。

 言う必要がなかった。

     *

 午後、ナディアは妙な変化に気づいた。

 二人が、よく時計を見るようになったのだ。

 以前から時間は気にしていた。

 誰が出かける。

 いつ戻る。

 次の食事は何時か。

 それを確かめるために、廊下へ顔を出すことはあった。

 けれど今日は少し違う。

 時計を見て、アレクセイを見る。

 また時計を見て、顔を寄せ合う。

 何かを相談していた。

 アレクセイ本人は、それに気づいていないらしかった。

 執務室から出てきて、椅子の背へ上着を掛ける。

 片手には、まだ書類があった。

 グレーテルが近づいた。

「包帯」

 アレクセイが顔を上げる。

「ん?」

「替える時間よ」

「ああ。これを書き終わったらな」

 そう言って、書類の下へ薄い板を入れる。

 グレーテルは、その手元を見た。

「あと二枚?」

「今回は一枚だ」

 少し離れたところで、ヘンゼルが時計を確認した。

 それから、廊下の電話を見た。

「お姉さんに電話する?」

 ペンが止まった。

 ナディアは布巾を畳む手を止めなかった。

 アレクセイは、ゆっくりとヘンゼルへ顔を向けた。

「なぜ?」

「お昼は、それで来た」

 説明としては、申し分なかった。

 アレクセイはしばらく黙っていた。

 グレーテルが首を傾げる。

「呼ぶ?」

「呼ばなくていい」

「じゃあ、替える?」

「……替える」

 彼は書類を伏せた。

 ナディアが棚から包帯と必要なものを取り出す。

 その横で、グレーテルはヘンゼルを見た。

 ヘンゼルが小さく頷いた。

 アレクセイは、その頷きを見逃さなかった。

「今、何を確認した?」

「何でもない」

 二人が揃って答えた。

 ナディアが椅子を引いた。

「腕を出しなさい」

 アレクセイは座った。

「この家、急に指揮官が増えてないか?」

「元からあなた一人で決める家じゃないでしょう」

「それはそうだが」

「だったら腕」

 彼は袖をまくった。

 グレーテルが少し離れて見ている。

 傷そのものより、アレクセイの顔を見ていた。

 痛いのかどうか。

 怒っているのかどうか。

 ナディアが古い包帯を外すと、アレクセイの眉が少しだけ動いた。

 それ以外は、特に変わらなかった。

「電話は、本当に困ったときに使うんだぞ」

 彼が言う。

 ヘンゼルはすぐに答えた。

「包帯を替えないから困った」

 ナディアが下を向いた。

 アレクセイは彼女を見た。

「笑ってるだろ」

「手元を見てるの」

「肩まで動かす必要はない」

 グレーテルは少し考えた。

 そして尋ねた。

「あなたは、あのお姉さんが来ると困るの?」

「来ること自体には困らない」

「電話は?」

「内容による」

「包帯は?」

 アレクセイは新しい包帯が巻かれていく腕を見た。

「……今回は、俺が先に替えるべきだった」

 ヘンゼルが、また小さく頷いた。

 アレクセイはその額を指で押す真似だけした。

「勝った顔をするな」

 ヘンゼルは表情を変えなかった。

 ただ、グレーテルの肩の向こうへ、少しだけ隠れた。

     *

 電話の力は、その日のうちにさらに試された。

 夕方、アレクセイが庭から戻ってきたときだった。

 護衛と話をしていたため、靴の裏に乾いた土がついていた。

 玄関で落としたつもりだったが、廊下に一粒だけ残っている。

 ヘンゼルがそれを見つけた。

「アレクセイ」

「何だ?」

「床」

 アレクセイは振り返り、土を見た。

「ああ。悪い」

 近くの箒へ手を伸ばす。

 その前に、ヘンゼルが言った。

「お姉さんに――」

「箒の方が近い」

 アレクセイは土を掃いた。

 ヘンゼルは電話を見た。

 電話と箒を、見比べた。

 確かに、箒の方が近かった。

 そのあと、グレーテルが棚の上の缶に手を伸ばした。

 ナディアが焼いた、小さな菓子の入った缶だった。

 夕食まで、まだ少し時間があった。

「一つならいいか?」

 アレクセイがナディアへ尋ねる。

「二人とも一つずつね」

 彼は缶を下ろし、蓋を開けた。

 ヘンゼルが一つ取る。

 グレーテルも一つ取る。

 アレクセイが蓋を閉じようとすると、グレーテルが手を止めた。

「もう一つ」

「夕食の後だ」

「小さいわ」

「大きさは見た」

「お姉さんに聞いたら?」

 アレクセイは缶を持ったまま、彼女を見た。

 グレーテルは真顔だった。

 ふざけているというより、本当に別の窓口を思いついた顔をしている。

 アレクセイは缶を棚へ戻した。

「姉さんは、この家の菓子の数を決めてない」

「でも、あなたのご飯は決めた」

「あれは時間だ」

「時間なら、今食べてもいい?」

「グレーテル」

「何?」

「君、話をよく聞いてるな」

 少女は少しだけ顎を上げた。

 褒められたと思ったらしい。

 アレクセイは続けた。

「聞いた上で、都合のいいところだけ使ってる」

 ナディアが台所から言った。

「誰に似たんだか」

 アレクセイは振り返った。

「俺を見るな」

「まだ見てないよ」

 ヘンゼルが菓子を齧った。

 乾いた小さな音がする。

「お姉さんも、あなたにそう言う?」

 アレクセイは返事をしなかった。

 ナディアが笑った。

 グレーテルは、もう一つの菓子を諦めた。

 その代わり、新しいことを覚えたらしかった。

     *

 夕食のあと、アレクセイは電話について話すことにした。

 大げさな話にするつもりはなかった。

 叱るほどのことでもない。

 ただ、このままではホテル・モスクワの幹部が、菓子の追加と床の土について逐次報告を受けることになる。

 それは、さすがにまずかった。

 二人は居間の絨毯に座っていた。

 ヘンゼルが、挿絵の多い本を開いている。

 グレーテルはその隣で、昼間に使った色鉛筆を箱へ戻していた。

 アレクセイは椅子を引き寄せた。

「昼の電話だが」

 二人の手が止まった。

 彼は、できるだけいつもと同じ声で続けた。

「姉さんに話してはいけないわけじゃない」

 ヘンゼルが顔を上げる。

「電話してもいい?」

「用があればな。ただし、誰かを呼び出すには、その人の時間を使う」

 グレーテルは色鉛筆を一本持ったまま聞いていた。

「仕事をしているかもしれない。車に乗っているかもしれない。だから、まず近くにいる大人へ話してくれ」

「あなた?」

「俺でも、ナディアでも、廊下の連中でもいい」

 ヘンゼルが考え込む。

「あなたが、駄目って言ったことは?」

「別の人に聞きたくなったら、俺が何と言ったかも伝える」

「隠したら?」

「話が違ってくる」

 アレクセイは二人を見た。

「俺が昼飯を後回しにした話も、隠さなくていい。あれは俺が悪かった」

 グレーテルが訊く。

「じゃあ、包帯も?」

「それも」

「床は?」

「掃いた」

「お菓子は?」

「夕食の後に一つ増えただろ」

 グレーテルは空になった小皿を見た。

 確かに、増えた。

 アレクセイは少し身を乗り出した。

「ただ、俺が嫌なことを言ったからといって、毎回姉さんを呼ぶな。まず俺に言ってくれ」

 ヘンゼルが本を閉じる。

「言っても、変わらなかったら?」

「変えられることなら話し合う。駄目なものは駄目だ」

 グレーテルが、最後の色鉛筆を箱へ収めた。

「あなたも?」

「俺も?」

「お姉さんに、駄目って言うの?」

 アレクセイは少しだけ口元を曲げた。

「言うよ」

「どうなる?」

「話が長くなる」

 二人は黙った。

 廊下で、護衛の男が小さく咳をした。

 アレクセイはそちらを見ずに言った。

「聞こえてるぞ」

 返事はなかった。

     *

 電話は、その夜にも鳴った。

 アレクセイは執務室でボリスと話していた。

 開いた扉の向こうから、短いロシア語のやり取りが聞こえてくる。

 ナディアは台所の片づけをしていた。

 グレーテルは、廊下にいた。

 護衛が受話器を取り、少し話してから彼女を見る。

「大尉からだ。アレクセイに代わるが、その前に伝えてほしいことがあるそうだ」

 グレーテルは受話器を受け取った。

『弟は食べたか?』

「食べた」

『包帯は』

「替えた」

『そうか』

 グレーテルは少し考えた。

 昼間と同じ声だった。

 怖さがなくなったわけではない。

 あの女が玄関に立つと、今でも身体が固くなる。

 けれど、電話の向こうの彼女は、今のところ食事と包帯についてしか尋ねてこない。

「自分でやったわ」

『何を』

「床のお掃除」

 電話の向こうが静かになった。

 グレーテルは説明を足した。

「土を落としたから」

『……それは当然だな』

「そう」

 会話が終わりかけたところで、ヘンゼルが近づいてきた。

 グレーテルの袖を引く。

 時計を指した。

 あと少しで、寝る時間だった。

 挿絵の本は、まだ途中だった。

 グレーテルはヘンゼルを見た。

 ヘンゼルが頷く。

 それで決まった。

「聞いてもいい?」

『何だ』

「あと一時間、起きていたいの」

 台所で、水の音が止まった。

 護衛の男が、ゆっくりと壁へ顔を向けた。

 電話の向こうから、すぐに返事はなかった。

 やがてバラライカが尋ねた。

『アレクセイは何と言った?』

 グレーテルは昼間の話を思い出した。

 別の人に聞くなら、彼が何と言ったかも伝える。

 だから、正直に答えた。

「寝ろって」

『なら寝ろ』

 短かった。

 とても短かった。

 グレーテルは受話器を見た。

 ヘンゼルが顔を寄せる。

「どう?」

 グレーテルは小声で答えた。

「同じだった」

『聞こえている』

 二人の背筋が伸びた。

 廊下の向こうで、誰かが書類を落とした。

 ボリスではなかった。

 アレクセイが執務室の入口に立っていた。

 片手に、拾い損ねた一枚の紙。

 表情は何とも言えなかった。

 驚きと、呆れと、笑いを押さえる努力が混ざっている。

 グレーテルは受話器へ向き直った。

「本が、途中なの」

『明日もあるだろう』

「途中だと、忘れるかもしれない」

『しおりを挟め』

 グレーテルはヘンゼルを見た。

 ヘンゼルは本を見た。

 解決策が出てしまった。

 バラライカの声が続く。

『弟に代われ。お前たちが寝る前に、用を済ませる』

 グレーテルは受話器を差し出した。

 アレクセイは紙をボリスへ渡し、それを受け取る。

「……姉さん」

 少し間が空いた。

「ああ。聞いてた」

 さらに間が空く。

「いや、教えてない。独自の判断だ」

 グレーテルはヘンゼルの横へ戻った。

 二人で壁際に立つ。

 アレクセイは、なるべくこちらを見ないようにしているようだった。

「分かってる。俺も切り上げる」

 彼は言った。

「用件は?」

 そのあと少しだけ、仕事の話になった。

 名前。

 時間。

 明日の書類。

 双子にはよく分からない言葉がいくつか続き、電話は終わった。

 アレクセイが受話器を戻す。

 振り返る。

 二人は彼を見た。

 彼も二人を見た。

「上官への直訴は終わったか?」

 グレーテルが口を開いた。

「……あなたたち、仲間なのね」

 アレクセイは片手で顔を覆った。

 ボリスが廊下の奥へ顔を向けた。

 肩が、一度だけ動いた。

「実の姉弟だと言っただろう」

「でも、いつも言い合ってる」

「言い合っていても、同じことを言う日はある」

 ヘンゼルが本を抱え直した。

「今日は?」

「よく寝ろ」

 二人は顔を見合わせた。

 今度は、相談が少し長かった。

 アレクセイは待った。

 やがてヘンゼルが言った。

「じゃあ、しおり」

「持ってくる」

     *

 しおりは、見つからなかった。

 正確には、アレクセイが持っているはずのものが見つからなかった。

 鞄の内ポケット。

 本の間。

 机の引き出し。

 どこにもない。

 二人は居間で待っていた。

 ボリスは帰り支度を済ませ、扉の脇に立っている。

「紙を切ればいいだろう」

 彼が言った。

「分かってる。だが、ここに入れたはずなんだ」

 アレクセイは鞄を覗き込んだ。

 グレーテルが時計を見る。

「寝る時間、過ぎたわ」

「知ってる」

「お姉さんに――」

「電話は置いておけ」

 彼は顔を上げずに言った。

 ボリスが小さく息を吐いた。

 笑ったらしかった。

 結局、ナディアが厚紙を一枚持ってきた。

 青い包み紙の裏だった。

「これでいいでしょう」

 アレクセイが受け取る。

「ありがとう」

 机の端で細長く切り、角を整えた。

 ヘンゼルへ渡そうとすると、グレーテルも手を出した。

 アレクセイは二人の手を見る。

 本は一冊だった。

 しおりも一本で足りる。

 そう言いかけて、やめた。

 もう一本切った。

「はい」

 グレーテルは受け取ったしおりを、光に透かすように持ち上げた。

「同じ色」

「違う方がいいか?」

「これでいい」

 ヘンゼルは、本の途中へ一本を挟んだ。

 グレーテルは自分の一本を、袖口に隠しかけた。

 それから思い直したように、色鉛筆の箱へ入れた。

 アレクセイは何も言わなかった。

「よし。寝よう」

 立ち上がると、ヘンゼルが彼の机を見た。

「あなたは?」

「もう少しだけ片づける」

 二人の視線が、同時に廊下へ向いた。

 電話のある方向だった。

 アレクセイは目を閉じた。

「……分かった。帳面を閉じるところまで見ていけ」

 ボリスが先に玄関へ向かった。

「軍曹」

 アレクセイが呼ぶ。

「何だ」

「助けろ」

「明日の書類は持った」

「そういう意味じゃない」

 ボリスは靴を履きながら答えた。

「お前が決めた就寝時間だ」

 アレクセイの味方は、今夜も少なかった。

     *

 翌日の午後、ロックがやってきた。

 届け物は、子供向けの薄い読み物が数冊。

 それと、アレクセイに頼まれた帳簿の照合結果だった。

 双子は、まだロックに好き勝手に近づくほどではない。

 ただ、玄関で声がすると、廊下の角から顔を出すようにはなっていた。

「こんにちは」

 ロックが挨拶する。

 ヘンゼルが頷いた。

 グレーテルは彼の手元を見た。

「本?」

「そう。中を見てからでいいよ。気に入らないのがあったら、別のを探すから」

 二人は袋を見た。

 アレクセイが奥から出てくる。

「悪かったな。仕事のついでだったか?」

「いや、近くに店があったから」

 ロックは書類の封筒も差し出した。

「こっちは確認できた。数字が違ったところには印をつけてある」

「助かる」

 アレクセイが封筒を受け取る。

 その動きを見たグレーテルが、すぐに時計を見た。

 ロックは気づいた。

「何か予定があるの?」

「まだ」

 グレーテルが答える。

「まだ?」

「ご飯には早い」

 ロックは少し首を傾げた。

 アレクセイが封筒を脇へ挟む。

「気にしなくていい」

 ヘンゼルが言った。

「気にしないと、食べない」

 ロックがアレクセイを見る。

 アレクセイは、天井を見た。

「昨日、一度だ」

「包帯も」

 グレーテルが付け加えた。

「替えた」

「電話するって言ったら」

 ロックは目を瞬いた。

「電話?」

 アレクセイが先に口を開く。

「説明すると長い」

「短いよ」

 ヘンゼルが言った。

 ロックが視線を落とす。

 少年は真面目な顔で続けた。

「アレクセイが、僕たちの面倒を見る」

 グレーテルが隣で頷く。

「そのアレクセイの面倒は、お姉さんが見るの」

 ロックは少し考えた。

 電話。

 食事。

 包帯。

 それから、先日の訓練場で見た光景を思い出した。

「ああ……なるほど。ちゃんとしてるな」

「ロック」

 アレクセイが言った。

「そこは否定しろ」

 ロックは口元を押さえた。

「いや、でも、理屈は通ってる」

「通すな」

「バラライカさんに電話したのか?」

 グレーテルが頷いた。

「寝る時間も聞いた」

「それはどうなった?」

「寝ろって」

 ロックは堪えきれずに笑った。

 大きな笑いではなかった。

 それでも双子は、少しだけ目を見開いた。

 アレクセイも、笑いを止めさせようとはしなかった。

 ただ、困ったように髪を掻いた。

「別の人間に聞けば答えが変わると思ったらしい」

「俺も子供の頃、やったよ」

 ロックが言う。

「母親が駄目なら父親に聞く、とか」

 グレーテルが彼を見た。

「変わった?」

「だいたい、母親に何て言われたって聞かれた」

「同じね」

「ああ。同じだ」

 ヘンゼルは抱えていた本の袋を少し持ち上げた。

 中で、紙が擦れる音がする。

 アレクセイが袋を指した。

「見ていいぞ」

 二人は居間へ向かった。

 走りはしなかった。

 ただ、普段より少し足が速かった。

 ロックはその背中を見送った。

「……ちゃんと、子供らしいことで困ってるんだな」

 小さな声だった。

 アレクセイはすぐには答えなかった。

 居間では、二人が袋から本を出している。

 一冊ずつ並べる。

 表紙を見る。

 互いの手元を覗く。

 アレクセイはそれを見てから言った。

「俺の電話代でな」

 ロックが笑う。

「そこは我慢してやれよ」

「姉さんの時間も使う」

「それは……怒られそうだな」

「誰が?」

 ロックは一瞬迷った。

 アレクセイが頷く。

「そうだ。俺だ」

     *

 バラライカが訪ねてきたのは、その日の夕方だった。

 仕事の帰りに寄ったのだという。

 アレクセイはその説明に何も言わなかった。

 玄関で迎え、短く仕事の話をする。

 ロックはまだ居間にいた。

 双子は本を閉じて、少し離れた場所からバラライカを見ていた。

 彼女も二人に気づいた。

「昨夜は寝たか」

 ヘンゼルが頷く。

 グレーテルが答えた。

「しおりを作った」

「そうか」

 それで済んだ。

 長い髪が、肩のコートに触れる。

 バラライカはアレクセイへ視線を戻した。

「お前もか?」

「帳面を閉じるところまで確認された」

 ロックが顔を伏せた。

 バラライカの口元が、ほんの少し動いた。

「念入りだな」

「誰に似たんだろうな」

「さあな」

 彼女は平然と答えた。

 アレクセイは返す言葉を探して、やめた。

 グレーテルが、半歩だけ前へ出る。

「聞いてもいい?」

 バラライカが見る。

 少女の足が止まった。

 彼女は急かさなかった。

「何だ」

 グレーテルはアレクセイを見た。

 それから、もう一度バラライカを見る。

「アレクセイが、駄目って言ったら、あなたも駄目?」

 アレクセイが口を開きかけた。

 バラライカは片手を少し上げ、それを止めた。

「内容による」

 グレーテルの目が、わずかに動いた。

 バラライカは続けた。

「だが、前に何と言われたかは聞く」

 少女は黙った。

「自分に都合のいい部分だけ話せば、それも分かる」

 アレクセイは壁際へ視線を逸らした。

 ロックは、今度こそ完全に下を向いた。

「何か言いたそうだな、アリョーシャ」

「何も」

「そうか」

 バラライカは双子へ向き直る。

「私へ話す必要があるなら、家の者に言え。ただし、電話をすれば望みどおりになると思うな」

 ヘンゼルが尋ねた。

「あなたが駄目って言ったら?」

「駄目だ」

「誰に聞くの?」

 部屋が静かになった。

 ロックが、そっと顔を上げる。

 アレクセイは口元を手で隠した。

 ナディアが台所の入口で足を止める。

 バラライカだけが、表情を変えなかった。

「理由を聞け」

 ヘンゼルは彼女を見た。

「聞いていい?」

「ああ」

「それでも嫌だったら?」

「そう言え」

 少し間が空いた。

 バラライカは付け加える。

「それで答えが変わるとは限らんがな」

 ヘンゼルは考えた。

 それから頷いた。

 アレクセイが、ようやく手を下ろす。

「聞こえたな。まず話すんだ」

 バラライカが弟を見る。

「お前もだ」

「俺は十分話してるだろ」

「時々、話しすぎる」

 ロックの肩が震えた。

 アレクセイは、もう見なかった。

     *

 ナディアが茶を運んできた。

 バラライカは長居するつもりはなかったらしく、最初は断ろうとした。

 だが、台所から出てきたナディアが、その顔を見た。

「お昼は?」

「済ませた」

 バラライカが答える。

 そのとき、玄関に控えていたボリスが時計を見た。

 ほんの一瞬だった。

 アレクセイは、それを見逃さなかった。

「姉さん」

「何だ」

「何時に?」

「仕事の合間だ」

「何を食べた?」

 バラライカは弟を見た。

 アレクセイは、さっきまで彼女がしていたのと同じ顔で待っている。

「……サンドイッチだ」

「それは朝、軍曹が持ってきたやつか?」

 ボリスが無言になった。

 十分な返事だった。

 ナディアは茶盆を置いた。

「少し残ってるよ。温めればすぐ」

「必要ない」

 バラライカが言う。

 グレーテルが時計を見た。

 ヘンゼルはバラライカを見た。

 それから、二人ともアレクセイを見た。

 アレクセイはゆっくりと頷いた。

「そうだな」

 彼は姉の前の椅子を引いた。

「食べていけ」

「次の予定がある」

「軍曹」

 呼ばれたボリスが答えた。

「多少の余裕はあります」

 バラライカの視線が、彼へ移った。

 ボリスは動かなかった。

 長い付き合いの男だった。

 この程度では、もう視線を逸らさない。

 ナディアが台所へ戻る。

「小さい皿にするから」

 グレーテルはバラライカを見上げた。

「冷める前に食べた方がいいのよ」

 バラライカは少女を見た。

 少女は、さっき教わったとおり、理由を付け足した。

「温め直す人が困るから」

 アレクセイは咳払いをした。

 ロックは顔を横へ向けた。

 バラライカは、しばらく何も言わなかった。

 やがてコートを肩から外し、ボリスへ渡した。

「少しだけだ」

 椅子に座る。

 ナディアが皿を持ってくる。

 アレクセイは、満足そうに腕を組んだ。

 その横で、ヘンゼルがロックの袖を引いた。

 ロックが身をかがめる。

 少年は小声で言った。

「違った」

「何が?」

 ヘンゼルはバラライカを指ささず、目だけで示した。

「お姉さんの面倒は、アレクセイが見る」

 ロックは二人を見た。

 バラライカが匙を取る。

 アレクセイが何か言う。

 姉が睨む。

 弟は睨まれたまま、パンの皿を近づける。

「……そうみたいだな」

 ロックが答える。

 グレーテルも近づいてきた。

 少し考えてから、言う。

「じゃあ、二人とも食べない日は?」

 ロックは答えに詰まった。

 アレクセイがこちらを見る。

「聞こえてるぞ」

 ヘンゼルはナディアを見た。

 グレーテルも見た。

 ナディアは台所の入口で、布巾を肩へ掛け直していた。

 二人の視線を受けて、眉を上げる。

「何?」

 グレーテルが尋ねた。

「あなたに言えばいい?」

「食事のことならね」

 迷いのない答えだった。

 双子は頷いた。

 ロックはとうとう声を出して笑った。

 アレクセイが深く息を吐く。

「また指揮官が増えた」

 バラライカはスープを一口飲んでから言った。

「適切な人選だ」

「姉さんも対象だぞ」

「分かっている」

 ナディアがアレクセイを見る。

「あなたの分も温めるよ」

「俺はもう少し後で――」

 言いかけて、止まった。

 二人分の青い目が見ている。

 姉も見ている。

 ロックまで、楽しそうに見ていた。

 アレクセイは椅子を引いた。

「……今、食べる」

 グレーテルが、小さく頷く。

 ヘンゼルも頷いた。

 電話は、廊下に置かれたままだった。

 その日はもう、誰も受話器に手を伸ばさなかった。

幕間7.5話・了

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