BLACK LAGOON ―姉さん、俺はもう大人だ―   作:いっしきさん

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第九話 少年の顔で帰ってくる

第九話 少年の顔で帰ってくる

 

 バラライカの机に置かれた契約書には、まだ誰の署名もなかった。

 

 アレクセイは三枚目を読み終え、最初の頁へ戻した。

 

 賃料は相場より高い。  保証金は現金。  修繕費は借主負担。

 

 貸す側が喜びそうな条件を、丁寧に並べてある。

 

「景気のいい客だな」

 

 アレクセイが言った。

 

 向かいのバラライカは笑わなかった。

 

「金を払ってまで、何を近づけたいのかによる」

 

「署名する前に聞く」

 

「聞くだけで済むと思うな」

 

 アレクセイは紙から顔を上げた。

 

「思ってない」

 

 部屋の隅では、ボリスが短い報告を終えたところだった。

 

 会合場所は、南側倉庫の事務所。  相手は二名。  代理人と運転手。

 

 先方から送られてきた名前は、ダリオ・コンティ。

 

 それが本名かどうかは、まだ分からない。

 

 倉庫では荷役を止めていた。事務所と隣接する区画も空けさせ、管理人のミハイルには別棟で待機するよう伝えてある。

 

 ただし、周囲の倉庫まで全て無人にすることはできなかった。

 

 朝の港には朝の仕事がある。

 

 荷車が通り、トラックが入り、誰かが怒鳴りながら帳簿に数字を書く。

 

 その日常を丸ごと止めれば、こちらが何を警戒しているかも伝わる。

 

 アレクセイは契約書を封筒へ入れた。

 

「ロックは?」

 

「下で待っている」

 

 ボリスが答えた。

 

「レヴィも一緒だ」

 

 バラライカの視線が、弟の袖口へ落ちる。

 

「腕は」

 

「朝、診せた」

 

「何と言われた」

 

「乱暴に扱うな、と」

 

「守れ」

 

「善処する、とは言わない方がいいな」

 

「分かっているなら言うな」

 

 アレクセイは小さく息を吐いた。

 

 立ち上がり、革鞄を肩へ掛ける。

 

 バラライカはその動きを最後まで見ていた。

 

「帰りの車は残してある」

 

「軍曹から聞いた」

 

「終わったら一度連絡しろ」

 

「する」

 

「会合が長引く場合もだ」

 

 弟は、扉へ向かいかけた足を止めた。

 

「姉さん」

 

 彼女が目を上げる。

 

「時計を見るのは、約束の時間を過ぎてからにしてくれ」

 

 ボリスが、手にしていた書類へ視線を落とした。

 

 バラライカは椅子へ背を預ける。

 

「お前が時間どおり連絡すれば済む」

 

「そのつもりだ」

 

 アレクセイは扉を開けた。

 

 出ていく直前、声が戻る。

 

「行ってくる」

 

 バラライカは頷いた。

 

「行け」

 

     *

 

 南側倉庫の事務所には、古い扇風機が一台あった。

 

 回るたびに軸が小さく鳴る。

 

 ロックは椅子に座る前に、それを見上げた。

 

「壊れそうだな」

 

「まだ動く」

 

 ミハイルが答える。

 

 右脚を庇うように立った、大柄な男だった。

 

「その言い方、持ち主に似てきたぞ」

 

 アレクセイが言うと、ミハイルは鼻を鳴らした。

 

「修理代を出すか?」

 

「見積もりをくれ」

 

「安いのを買い直した方が早い」

 

「なら、そう書いてくれ」

 

 ミハイルは机の上の鍵を取った。

 

「終わったら呼べ。隣にいる」

 

「こっちへ人を戻すのは、それからだ」

 

「分かってる」

 

 彼が出ていくと、事務所は急に静かになった。

 

 窓の向こうに、倉庫の屋根が並んでいる。

 

 壁の時計は九時五十分を指していた。

 

 ロックは書類を鞄から出し、机の上へ置いた。

 

 アレクセイがその隣に座る。

 

 レヴィは入口脇の壁にもたれた。

 

「なあ、ロック」

 

「何だ?」

 

「高い家賃ってのは、紙を眺めてるだけで貰えんのか?」

 

「借りてもらえればな」

 

「いい商売だ」

 

「屋根が漏れれば、俺が呼ばれる」

 

 アレクセイが言った。

 

「床が割れれば、それも俺だ」

 

「撃たれるよりマシだろ」

 

「今日は、その話をしてる」

 

 レヴィは口の端を上げた。

 

 ボリスが入口へ顔を出す。

 

「来た」

 

     *

 

 コンティは、薄い灰色の上着を着た男だった。

 

 四十前後。

 

 髪は短く整えられ、靴は磨かれている。

 

 右手に革の書類鞄を持っていた。

 

 入口でボリスに中身を確認されても、表情は変えなかった。

 

 ただ、鞄を受け取るとき、口の端が少し引きつった。

 

 アレクセイはそこを見た。

 

「お待たせしました」

 

 コンティが言う。

 

「時間どおりだ」

 

 アレクセイは立ち上がった。

 

 男の視線が、その顔から背後のロックへ移る。

 

 それから、もう一度戻る。

 

「所有者の方は」

 

「俺だ」

 

「……失礼しました」

 

 コンティはすぐに言った。

 

 驚きを隠すのは上手かった。

 

 隠す前に見えてしまったことには、気づいていないようだった。

 

 握手を交わす。

 

 男の手は乾いていた。

 

 爪の縁まで、よく手入れされている。

 

 だが、アレクセイが見たのは顔だった。

 

 この男が、会計士本人だとは思わなかった。

 

 値段を決める側の目ではない。

 

 決められた値段を、どう受け取らせるか考えている目だった。

 

 コンティが椅子へ座る。

 

 窓を一度見てから、鞄を開いた。

 

 運転手は外に残された。

 

 ボリスが廊下へ戻り、扉は開けたままになった。

 

「条件は、ご確認いただけましたか」

 

「ああ」

 

「ご不満な点があれば、調整できます」

 

「何を保管する?」

 

「機械部品です」

 

「種類は」

 

「船舶用の」

 

「明細は?」

 

 コンティは書類を一枚出した。

 

 アレクセイは受け取らず、ロックを見た。

 

 ロックが紙を引き寄せる。

 

 品目は書いてある。

 

 数量もある。

 

 だが、具体的な製造元も、荷姿も曖昧だった。

 

 倉庫を借りる話としては、妙に輪郭が薄い。

 

「搬入予定日は?」

 

 ロックが訊いた。

 

「契約が済み次第、順次」

 

「荷役業者は、こちらで指定します」

 

「それは困ります」

 

 初めて、返答が速くなった。

 

 アレクセイがコンティを見る。

 

「なぜ?」

 

「扱いに慣れた者を使いたいので」

 

「なら、その会社名も必要だ」

 

 コンティは笑顔を作った。

 

「細かいところまで、きちんとされている」

 

「貸す倉庫だからな」

 

 アレクセイは封筒へ指を置いた。

 

「君たちは借りたい。俺は何が入るのか知りたい。難しい話か?」

 

 扇風機が鳴った。

 

 コンティは、机の端へ視線を落とした。

 

「率直に申し上げましょう」

 

 ようやく、本題らしい言葉が出た。

 

「今回の契約には、こちらからの善意も含まれています」

 

 レヴィが壁際で姿勢を変えた。

 

 アレクセイは黙って待った。

 

「最近、そちらでお預かりになっている資料があるかと思います」

 

「資料?」

 

「弊社の取引先に関わるものです。事情があって、外へ出た」

 

 ロックの指が止まる。

 

 アレクセイはコンティの顔を見た。

 

「倉庫と交換したいのか?」

 

「交換という表現は適切ではありません。双方にとって、有益な関係を――」

 

「帳簿を返せば、相場以上の金を払う」

 

 アレクセイが言った。

 

「短くすると、それで合ってるか?」

 

 コンティの笑顔が薄くなった。

 

「お話が早い」

 

「まだ返事はしていない」

 

 男は一度、唇を湿らせた。

 

「あなたも、支出が増えているでしょう」

 

 アレクセイは動かなかった。

 

「人を抱えるというのは、何かと費用が掛かる。住まい、食事、警備。今後のことまで考えれば、安定した収入は必要です」

 

「倉庫の話を続けろ」

 

「その負担を減らすお手伝いもできます」

 

 コンティは言った。

 

「子供たちについても、こちらで責任を持って――」

 

 アレクセイが契約書を閉じた。

 

 紙の擦れる音は、小さかった。

 

 それでも、コンティの言葉が止まった。

 

「倉庫の話をしに来たんだろう」

 

 声も、大きくはなかった。

 

「子供の話を混ぜるな」

 

 ロックは横を見た。

 

 アレクセイの表情は変わっていない。

 

 ただ、先ほどまで相手の説明を待っていた目が、もう待っていなかった。

 

 コンティは背筋を伸ばした。

 

「誤解なさらないでください。無理にとは申しません。ただ、あなたにとっても危険な――」

 

「その危険を作っている人間から、親切を買うつもりはない」

 

 レヴィが、ゆっくりと壁から背を離した。

 

 コンティはそれを見た。

 

 それから鞄を見る。

 

「一度、確認の電話を」

 

「誰に?」

 

「私に判断権はありません」

 

「そうだろうな」

 

 アレクセイは机の電話を示した。

 

「ここで話せ」

 

     *

 

 コンティが受話器を取った。

 

 指が、番号を押す。

 

 ロックはその間に、出された紙へもう一度目を落とした。

 

 会社名。

 

 前にも見た綴りだった。

 

 帳簿の送金先。

 

 その下に、小さく支店の住所がある。

 

 ロックは手元の紙へ、短く書き写した。

 

 呼び出し音が漏れていた。

 

 コンティは窓を見た。

 

 アレクセイも、同じ方向を見た。

 

 ガラス越しに、外階段の手すりが見える。

 

 その向こうに、向かいの倉庫。

 

 朝日で白く光る窓。

 

 次の瞬間、コンティの肩が大きく跳ねた。

 

 受話器が落ちる。

 

 窓が砕けた。

 

 ロックは音の方へ顔を向けた。

 

 何が起きたのか、考えるより先に、隣の椅子が横倒しになった。

 

 襟元が引かれる。

 

 身体が椅子から外れた。

 

「伏せろ」

 

 アレクセイの声だった。

 

 ロックは膝から床へ落ちた。

 

 肩に、小さな手が食い込む。

 

 その直後、机の向こうの棚が破裂した。

 

 紙と木片が降った。

 

 ロックが座っていた位置だった。

 

 ガラスが床へ散る音。

 

 レヴィが動いた。

 

 ロックには、銃を抜くところが見えなかった。

 

 気づいたときには、彼女は窓から見えない壁際へ身体を寄せ、入口へ声を飛ばしていた。

 

「向かいだ!」

 

 廊下でボリスが何かを叫ぶ。

 

 別の男が応じた。

 

 アレクセイはロックの肩を押したまま、机の脚の向こうを見ていた。

 

「こっちを見ろ」

 

 ロックは彼を見た。

 

 青い目が近かった。

 

「立つな。俺が動いてから、壁まで来い」

 

 ロックは頷いた。

 

 コンティが床で呻いていた。

 

 上着の肩が濡れている。

 

 アレクセイは一瞬だけそちらを見て、レヴィへ言った。

 

「こいつも連れて出る」

 

「足手まといが二人かよ!」

 

「一人は歩ける」

 

「お前、自分を数に入れてねえだろうな!」

 

 銃声がまた響いた。

 

 窓枠の端が削れる。

 

 レヴィが低く罵った。

 

 アレクセイは這うように机の端を回った。

 

 少年が落とした物を拾いに行くような、小さな動きだった。

 

 だが、その右手には銃があった。

 

 ロックは息を止めた。

 

 アレクセイはコンティの襟を掴み、壁側へ引いた。

 

 動かない。

 

 男の体重が、床へ沈んでいた。

 

「起きろ。足を使え」

 

「撃たれた……」

 

「肩だ。足はある」

 

 コンティが呻いた。

 

 アレクセイは無理に引かなかった。

 

 扉へ顔を向ける。

 

「軍曹!」

 

 ボリスが低い姿勢で入ってきた。

 

 コンティの上着を掴み、一息に持ち上げる。

 

 アレクセイは、その動きが済む前にロックへ手を伸ばしていた。

 

「来い」

 

 ロックは床に手をつき、壁まで移動した。

 

 靴の下でガラスが砕けた。

 

 アレクセイの手は、もう肩から離れていた。

 

     *

 

 事務所から倉庫へ通じる扉を抜けると、空気が変わった。

 

 木材。  油。  熱のこもった埃。

 

 高い天井の下に、荷物の列が伸びている。

 

 ボリスがコンティを柱の陰へ下ろした。

 

 部下の一人が負傷箇所を押さえる。

 

 男の口から、意味のない言葉が繰り返し漏れていた。

 

「知らない……俺は、知らない……」

 

「後で聞く」

 

 アレクセイはそう言って、ロックの肩へ触れた。

 

「怪我は」

 

「ない。たぶん」

 

「手を見せろ」

 

 ロックは両手を開いた。

 

 細かい傷はあった。

 

 血は少ない。

 

 アレクセイは頷いた。

 

「軍曹のそばにいろ」

 

「お前は?」

 

 答える前に、倉庫の奥で扉が鳴った。

 

 重い音。

 

 続いて、短い金属音。

 

 ボリスの顔がそちらへ向く。

 

 レヴィが銃を持ち直した。

 

「外だけじゃねえな」

 

 アレクセイは通路の先を見た。

 

 横の搬入口。

 

 今朝、閉じていたはずの扉が少し開いている。

 

 隙間の向こうに影が動いた。

 

 レヴィが撃った。

 

 激しい音が天井へ跳ね返る。

 

 ロックは反射的に頭を下げた。

 

 アレクセイは、もうそこにいなかった。

 

 荷物の列の間へ入っている。

 

 高く積まれた木箱と、腰ほどの機械部品。

 

 大人なら深く屈まなければ頭が出る隙間を、その身体は低い姿勢のまま抜けた。

 

 走り方は、速いというより短かった。

 

 足音が少ない。

 

 止まる。

 

 見る。

 

 次へ動く。

 

 レヴィが前方の相手へ撃ち返すたび、倉庫の空気が震えた。

 

 その音に隠れて、アレクセイが別の列へ移る。

 

 ロックには、途中から位置が分からなくなった。

 

 白い金髪が一瞬見えたと思うと、もういない。

 

 次に見えたのは、違う高さ、違う場所だった。

 

 銃声が二発。

 

 レヴィのものより、間があった。

 

 搬入口の陰から出かけた男が、引っ込んだ。

 

「右!」

 

 アレクセイの声がした。

 

 レヴィが向きを変える。

 

 ボリスがロックを柱の裏へ押し戻した。

 

 弾がどこかへ当たり、鉄板が長く鳴った。

 

 ロックは耳を押さえた。

 

 胸が苦しい。

 

 息を吸いすぎているのだと分かっても、止められなかった。

 

 少し離れたところで、男の叫び声がした。

 

 敵のものではなかった。

 

 倉庫の端。

 

 隣の区画へ続く通用口のそばに、若い作業員が倒れ込んでいた。

 

 帽子が床に落ちている。

 

 両手で頭を抱え、動けなくなっていた。

 

「まだ人がいたのか!」

 

 ロックが声を上げる。

 

 ボリスがそちらを見た。

 

 その前に、アレクセイの声が飛んだ。

 

「動くな! そこにいろ!」

 

 作業員は顔を上げなかった。

 

 アレクセイが荷物の陰から出た。

 

 姿を見せた瞬間、搬入口で男が銃を向ける。

 

 レヴィが撃った。

 

 男の身体が扉の内側へ消える。

 

「借り一つだぞ!」

 

「数えとけ!」

 

 アレクセイは作業員のそばへ滑り込んだ。

 

 ロックは、その小さな背中を見ていた。

 

 こんな場所で、そんなふうに屈むのかと思った。

 

 まだ銃声がしている。

 

 窓が割れ、誰かが叫んでいる。

 

 その中でアレクセイは、男と目を合わせようとしていた。

 

「顔を上げろ」

 

 作業員が震えている。

 

「俺を見ろ」

 

 若い男が、ようやく目を上げた。

 

 自分より幼く見える顔を見て、表情が混乱した。

 

 アレクセイは気にしなかった。

 

「立てるか。無理なら首を振れ」

 

 男の口が動く。

 

 声は出なかった。

 

「分かった」

 

 アレクセイは肩越しに叫んだ。

 

「軍曹、運べるか!」

 

「行く!」

 

 ボリスが部下へコンティを任せ、動いた。

 

 アレクセイはその間、作業員の襟元を掴んで柱の影へ寄せた。

 

 右袖の包帯が引かれる。

 

 顔が、わずかに歪んだ。

 

 だが、次に銃を構えたとき、その歪みは消えていた。

 

     *

 

 倉庫の奥で、重いものが倒れた。

 

 作業員の後方だった。

 

 アレクセイが顔を向ける。

 

 木箱の陰から、大柄な男が出てきた。

 

 近かった。

 

 銃を向けるより早く、男の腕が伸びる。

 

 手首を弾かれた。

 

 肩を掴まれる。

 

 アレクセイの背中が柱へぶつかった。

 

 息が抜けた。

 

 足が、わずかに床から浮く。

 

 男の顔が間近にあった。

 

 汗。  油の匂い。  歯を食いしばった口。

 

 アレクセイは腕を押した。

 

 動かない。

 

 体重が違いすぎた。

 

 右腕に熱い痛みが走る。

 

 握った銃の向きが定まらない。

 

 男は彼の手首を押さえたまま、空いた手で何かを抜こうとした。

 

 ロックが声を上げかけた。

 

 アレクセイの声の方が早かった。

 

「レヴィ!」

 

 短かった。

 

 助けを求める声に、躊躇がなかった。

 

 レヴィが振り向く。

 

 顔つきが変わった。

 

 彼女は数歩で距離を詰め、男の脇へ飛び込んだ。

 

 鈍い衝撃音。

 

 男の肩が崩れる。

 

 アレクセイが身を捩り、腕の下から抜けた。

 

 足が床へ戻る。

 

 男がレヴィへ向き直ろうとした。

 

 銃声が一発、近くで響いた。

 

 男は床へ倒れた。

 

 アレクセイは柱へ手をついた。

 

 咳が出る。

 

 息がうまく戻らない。

 

 レヴィが彼の襟を掴み、荷物の陰へ引いた。

 

「一人で片づけようとすんな、チビ!」

 

 アレクセイは一度だけ大きく息を吸った。

 

「だから、呼んだ」

 

 レヴィは一瞬、彼を見た。

 

 それから歯を見せた。

 

「減らず口は動くんだな」

 

「足も動く」

 

「確認すんな。来い」

 

 彼女が先に立つ。

 

 アレクセイは右腕を見た。

 

 包帯に赤い色が滲んでいた。

 

 左手で押さえる。

 

 銃を持つ手を確かめる。

 

 まだ握れた。

 

 倉庫の向こうから、ボリスの声がした。

 

「作業員は確保した!」

 

 アレクセイは目を閉じかけ、すぐに開いた。

 

「ロックは!」

 

「無事だ!」

 

 返事を聞いてから、彼は柱の陰へ座った。

 

 数秒だけ。

 

 必要な息を、取り戻すために。

 

     *

 

 戦闘は、始まったときと同じくらい急に終わった。

 

 外でエンジンが唸る。

 

 タイヤの音。

 

 誰かの怒号。

 

 倉庫の中では、撃ち返してくる相手がいなくなった。

 

 ボリスが部下へ指示を出した。

 

 誰もすぐには立ち上がらなかった。

 

 レヴィも銃を下ろさない。

 

 アレクセイは壁に背をつけ、出入口を見ていた。

 

 やがて、外から短い報告が来る。

 

 ボリスが頷いた。

 

「こちらは押さえた。外の確認を続けろ」

 

 ようやく、ロックは立ち上がった。

 

 膝が震えた。

 

 自分の身体なのに、うまく命令が通らない。

 

 倒れた椅子。  砕けたガラス。  荷物に穿たれた穴。

 

 さっきまであった場所が、別のものになっていた。

 

 アレクセイは作業員の前に屈んでいた。

 

 男はボリスの部下から水を渡され、両手で持っている。

 

 まだ飲めてはいなかった。

 

「名前は」

 

 アレクセイが訊いた。

 

 作業員が答える。

 

 ロックには、よく聞こえなかった。

 

 アレクセイは聞き返さなかった。

 

 男の名を、そのまま一度呼んだ。

 

「足は痛むか?」

 

 男は首を振った。

 

「腕は?」

 

 また首を振る。

 

「分かった。今は立たなくていい」

 

 その声は、さっきロックを床へ伏せさせた声と同じだった。

 

 静かで、短い。

 

 ただ、作業員が答えるまでの時間を、きちんと待っていた。

 

 ロックは近づいた。

 

 アレクセイの右腕から、血が一滴落ちた。

 

「おい、その腕」

 

「見えてる」

 

「だったら――」

 

「布をくれ」

 

 ロックはポケットを探った。

 

 ハンカチがあった。

 

 取り出す。

 

 アレクセイはそれを見て、わずかに眉を上げた。

 

「また借りるのか」

 

「今、それ気にするところかよ」

 

 ロックは彼の腕へ布を当てた。

 

 アレクセイが息を止める。

 

 痛いのだ。

 

 ようやく、それが顔に出た。

 

 ロックは少しだけ力を緩めた。

 

「そのままでいい」

 

 アレクセイが言った。

 

「押さえてくれ」

 

 ロックは頷いた。

 

 近くで見ると、頬にも血がついていた。

 

 本人のものかどうかは分からない。

 

 埃が髪に入り、シャツの背中が擦れている。

 

 それでも、顔そのものは変わらなかった。

 

 街角で炭酸水を飲んでいた顔。

 

 菓子の瓶を開けられず、サーシャへ渡した顔。

 

 腕相撲に負けて、呆れた目を向けてきた顔。

 

 同じ顔で、あの倉庫を動いていた。

 

 ロックは、それが恐ろしかった。

 

 子供に見える者が銃を撃ったからではない。

 

 この男だけが、自分たちよりずっと前から、この場所を知っていたように見えたからだ。

 

 床へ伏せることも。

 

 相手を撃つことも。

 

 動けない者へ声を掛けることも。

 

 自分にできない仕事を、仲間へ渡すことも。

 

 全てが、続いていた。

 

 途中で別の人間になったわけではなかった。

 

「ロック」

 

 呼ばれ、彼は顔を上げた。

 

「顔色が悪い」

 

「お前に言われたくない」

 

「それもそうだな」

 

 アレクセイは、そこで初めて少し笑った。

 

     *

 

 コンティは生きていた。

 

 肩を押さえられ、壁際に座らされている。

 

 運転手も確保されていた。

 

 逃げようとしたところを外の人間に止められたらしい。

 

 彼は何度も、自分は運転を頼まれただけだと言っていた。

 

 誰も、今すぐその言葉を信じるとは言わなかった。

 

 アレクセイが近づくと、コンティは顔を上げた。

 

 汗が額から顎へ流れている。

 

「俺は知らなかった」

 

 最初の言葉は、それだった。

 

「電話をすれば、条件を確認すると言われていた。こんなことになるとは――」

 

「誰に言われた」

 

「直接会ってない。声だけだ」

 

 アレクセイは彼を見る。

 

「その話は、場所を変えてから聞く」

 

「本当だ」

 

「聞くと言った」

 

 コンティの目が、彼の腕へ動く。

 

 血のついた布。

 

 埃を被った銃。

 

 それから、顔へ戻る。

 

「お前……」

 

 男は乾いた唇を動かした。

 

「何歳なんだ」

 

 アレクセイは少し黙った。

 

 レヴィが横で顔を背けた。

 

 笑ったわけではなかった。

 

 呆れたらしかった。

 

「その話、今必要か?」

 

 コンティは答えなかった。

 

 アレクセイはボリスへ向き直った。

 

「二人とも別々に」

 

「ああ」

 

「修理屋の件と同じだ。こっちの作業員を先に診せてくれ」

 

「医者へ向かわせる」

 

 ボリスはそう言ってから、アレクセイの腕を見た。

 

「お前もだ」

 

「分かってる」

 

「その返事を、今日は二度聞いた」

 

 アレクセイは反論しなかった。

 

     *

 

 バラライカが来たとき、ロックは倉庫の外で水を飲んでいた。

 

 一口飲むたび、喉が痛んだ。

 

 車が止まる。

 

 扉が開く。

 

 彼女は降りると、真っ先にボリスを見た。

 

 軍曹が短く報告する。

 

 対象は生存。  こちらに死者なし。  負傷者の搬送を手配中。  襲撃側の一部は逃走。

 

 バラライカは途中で口を挟まなかった。

 

「周囲の確認を続けろ。民間人への被害は別にまとめろ」

 

「了解しました」

 

「窓側の射手は」

 

「現在、追っています」

 

「深追いさせるな。逃げ道だけ押さえろ」

 

 声はいつもと同じだった。

 

 ロックは、その横顔を見ていた。

 

 彼女の視線が動く。

 

 倉庫の入口。

 

 積まれた木箱の前に、アレクセイが立っていた。

 

 左手で右腕を押さえている。

 

 シャツに血がついていた。

 

 バラライカの足が速くなった。

 

 走ってはいない。

 

 けれど、ロックには分かった。

 

 それまで報告を聞きながら歩いていた人間が、もう報告を聞いていなかった。

 

「アリョーシャ」

 

 アレクセイが顔を上げる。

 

「大尉。代理人は――」

 

「座れ」

 

「まだ歩ける」

 

「歩けるかどうかは聞いていない」

 

 レヴィが、近くの椅子を足で引き寄せた。

 

 アレクセイは彼女を見た。

 

「協力が早いな」

 

「座った方が話が早えだろ」

 

 彼は椅子へ座った。

 

 バラライカが目の前に立つ。

 

「腕を見せろ」

 

「医者が来たら――」

 

「今だ」

 

 アレクセイは布を少しだけ緩めた。

 

 彼女は傷を見た。

 

 触らなかった。

 

 必要以上に布を剥がすこともしない。

 

 確認して、もう一度押さえさせる。

 

「ほかは」

 

「背中をぶつけた」

 

「頭は」

 

「打ってない」

 

「息は」

 

「戻った」

 

 バラライカの目が細くなった。

 

「戻った?」

 

 アレクセイは、一瞬だけ黙った。

 

 ロックは思った。

 

 今、言葉を選び直そうとしている。

 

 戦闘中には一度も見せなかった迷いだった。

 

「少し、詰まっただけだ」

 

「軍曹」

 

「柱に叩きつけられています」

 

 返事は即座だった。

 

 アレクセイは天井を見上げた。

 

「俺の報告は、最後まで聞かれないな」

 

「省くからだ」

 

 バラライカが答える。

 

 アレクセイは口を閉じた。

 

 ロックは、そこでようやく息を吐けた。

 

 さっきまで、倉庫のどこにいるのかさえ分からなかった男が。

 

 敵を前にしても、動けない作業員を前にしても、同じ落ち着いた目をしていた男が。

 

 今は姉の前で、いつもの困った顔をしている。

 

 それが、妙に救いだった。

 

     *

 

 ロックが紙を持ってきたのは、応急処置が済んだあとだった。

 

 契約書は、机の下へ落ちていた。

 

 端にガラスの傷があり、数枚は破れている。

 

 それでも、会社名と住所は読めた。

 

「これ」

 

 ロックはアレクセイではなく、バラライカへ渡した。

 

「相手の書類に、支店の住所がありました。帳簿にあった会社と同じ名前です」

 

 彼女が目を落とす。

 

「写しか?」

 

「原本もあります。こっちは俺が書き写した分です」

 

「よく残したな」

 

 ロックは少しだけ視線を下げた。

 

「落ちてたのを拾っただけです」

 

「それでいい」

 

 バラライカは軍曹へ紙を渡した。

 

 アレクセイが椅子から言う。

 

「コンティは、電話の指示で来たと言ってる」

 

「嘘か?」

 

「全部ではないと思う。最初に狙われた」

 

 レヴィが腕を組んだ。

 

「最初っから使い捨てか」

 

「帳簿を持って来ていれば、俺たちごと回収するつもりだったのかもしれない」

 

 アレクセイは自分の鞄を見た。

 

 中には倉庫の書類しか入っていない。

 

「取り返せなくても、話せる人間を減らせる」

 

 バラライカは倉庫の窓を見た。

 

 砕けたガラス。  弾痕。  空になった事務所。

 

「勘定が増えたな」

 

 低い声だった。

 

 軍曹が頷く。

 

 アレクセイは姉を見る。

 

「大尉」

 

「お前は医者へ行け」

 

「家へ連絡を入れたい」

 

 バラライカは時計を見た。

 

 約束の時間を、少し過ぎていた。

 

「かけろ」

 

 それから、付け加えた。

 

「終わったら車だ」

 

     *

 

 電話を借りたのは、隣の事務所だった。

 

 アレクセイは椅子に座ったまま、受話器を持った。

 

 ナディアが出る。

 

「俺だ」

 

『遅かったね』

 

「少し揉めた」

 

 入口に立っていたバラライカが、こちらを見た。

 

 アレクセイは言い直した。

 

「撃ち合いになった」

 

 電話の向こうで、水の音が止まった。

 

『怪我は』

 

「腕の傷が開いた。これから医者へ行く」

 

『帰りは?』

 

「診察が終わったら、もう一度連絡する」

 

 ナディアは短く息を吐いた。

 

『分かった。二人に代わるよ』

 

 少し待つ。

 

 その間、アレクセイは目を閉じた。

 

 肩が重い。

 

 背中も痛い。

 

 息を深く吸うと、鈍く響いた。

 

『アレクセイ?』

 

 グレーテルだった。

 

「ああ」

 

『帰る?』

 

「医者に寄ってからだ」

 

 沈黙。

 

『怪我したの?』

 

「腕を少しな」

 

 入口で、バラライカが動いた。

 

 アレクセイは彼女を見る。

 

 そして、ため息をついた。

 

「背中も診てもらう」

 

『お姉さんは知ってる?』

 

「目の前にいる」

 

 電話の向こうで、ヘンゼルの声がした。

 

『じゃあ、大丈夫だ』

 

 アレクセイは受話器を見た。

 

 何とも言えない顔になった。

 

 バラライカが片眉を上げる。

 

「何だ」

 

 アレクセイは首を振った。

 

「君たちの信頼関係が、俺の知らないところで進んでる」

 

『何?』

 

「こっちの話だ」

 

 グレーテルが訊く。

 

『本は、置いておく?』

 

「ああ」

 

『昨日の続き』

 

「帰ったら、どこまで読んだか教えてくれ」

 

 少し間が空いた。

 

『分かった』

 

 電話が終わる。

 

 アレクセイは受話器を置いた。

 

 しばらく、手を離さなかった。

 

 バラライカが近づく。

 

「立てるか」

 

「立てる」

 

 彼女はその返事を聞いてから、椅子の横へ回った。

 

 腕を掴むことはしなかった。

 

 アレクセイが自分で立つのを待つ。

 

 背中に痛みが走り、彼の動きが止まった。

 

 そのときだけ、姉の手が肘を支えた。

 

「急ぐな」

 

 アレクセイは小さく頷いた。

 

「分かってる」

 

 今度は、言い返さなかった。

 

     *

 

 倉庫の外へ出ると、昼の日差しが強かった。

 

 何もなかったように、遠くで荷車が動いている。

 

 誰かがエンジンを掛ける。

 

 屋台から、油の匂いがした。

 

 ロックは車のそばで待っていた。

 

 アレクセイが近づく。

 

「ハンカチ、また駄目にしたな」

 

「買い置きしとくよ」

 

「請求してくれ」

 

「そうする」

 

 ロックは答えた。

 

 冗談に聞こえた。

 

 たぶん、二人ともそうしたかった。

 

 アレクセイが車へ乗り込む。

 

 その背中を見ながら、ロックはレヴィへ言った。

 

「……怖かった」

 

「だろうな」

 

「撃たれたこともだけど」

 

 レヴィが彼を見る。

 

 ロックは言葉を探した。

 

「あいつ、全部分かってるみたいに動いてた」

 

「全部は分かってねえよ」

 

 レヴィは即座に言った。

 

「だから捕まった。だから呼んだ」

 

 ロックは黙った。

 

「分かんねえことがあっても、やることを止めねえだけだ」

 

 彼女は車へ目を向けた。

 

 窓の向こうで、アレクセイがバラライカに何か言われていた。

 

 片手で額を押さえている。

 

「慣れたくて慣れたんじゃねえだろうけどな」

 

 レヴィはそう言って、煙草を取り出した。

 

 ロックは車を見た。

 

 少年の顔が、窓の向こうでこちらを向く。

 

 右腕を持ち上げかけ、姉に止められる。

 

 代わりに、顎で短く挨拶した。

 

 車が動き出す。

 

 用意されていた帰りの車だった。

 

 ロックはそれが角を曲がるまで、見送っていた。

 

第九話・了

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