BLACK LAGOON ―姉さん、俺はもう大人だ― 作:いっしきさん
第九話 少年の顔で帰ってくる
バラライカの机に置かれた契約書には、まだ誰の署名もなかった。
アレクセイは三枚目を読み終え、最初の頁へ戻した。
賃料は相場より高い。 保証金は現金。 修繕費は借主負担。
貸す側が喜びそうな条件を、丁寧に並べてある。
「景気のいい客だな」
アレクセイが言った。
向かいのバラライカは笑わなかった。
「金を払ってまで、何を近づけたいのかによる」
「署名する前に聞く」
「聞くだけで済むと思うな」
アレクセイは紙から顔を上げた。
「思ってない」
部屋の隅では、ボリスが短い報告を終えたところだった。
会合場所は、南側倉庫の事務所。 相手は二名。 代理人と運転手。
先方から送られてきた名前は、ダリオ・コンティ。
それが本名かどうかは、まだ分からない。
倉庫では荷役を止めていた。事務所と隣接する区画も空けさせ、管理人のミハイルには別棟で待機するよう伝えてある。
ただし、周囲の倉庫まで全て無人にすることはできなかった。
朝の港には朝の仕事がある。
荷車が通り、トラックが入り、誰かが怒鳴りながら帳簿に数字を書く。
その日常を丸ごと止めれば、こちらが何を警戒しているかも伝わる。
アレクセイは契約書を封筒へ入れた。
「ロックは?」
「下で待っている」
ボリスが答えた。
「レヴィも一緒だ」
バラライカの視線が、弟の袖口へ落ちる。
「腕は」
「朝、診せた」
「何と言われた」
「乱暴に扱うな、と」
「守れ」
「善処する、とは言わない方がいいな」
「分かっているなら言うな」
アレクセイは小さく息を吐いた。
立ち上がり、革鞄を肩へ掛ける。
バラライカはその動きを最後まで見ていた。
「帰りの車は残してある」
「軍曹から聞いた」
「終わったら一度連絡しろ」
「する」
「会合が長引く場合もだ」
弟は、扉へ向かいかけた足を止めた。
「姉さん」
彼女が目を上げる。
「時計を見るのは、約束の時間を過ぎてからにしてくれ」
ボリスが、手にしていた書類へ視線を落とした。
バラライカは椅子へ背を預ける。
「お前が時間どおり連絡すれば済む」
「そのつもりだ」
アレクセイは扉を開けた。
出ていく直前、声が戻る。
「行ってくる」
バラライカは頷いた。
「行け」
*
南側倉庫の事務所には、古い扇風機が一台あった。
回るたびに軸が小さく鳴る。
ロックは椅子に座る前に、それを見上げた。
「壊れそうだな」
「まだ動く」
ミハイルが答える。
右脚を庇うように立った、大柄な男だった。
「その言い方、持ち主に似てきたぞ」
アレクセイが言うと、ミハイルは鼻を鳴らした。
「修理代を出すか?」
「見積もりをくれ」
「安いのを買い直した方が早い」
「なら、そう書いてくれ」
ミハイルは机の上の鍵を取った。
「終わったら呼べ。隣にいる」
「こっちへ人を戻すのは、それからだ」
「分かってる」
彼が出ていくと、事務所は急に静かになった。
窓の向こうに、倉庫の屋根が並んでいる。
壁の時計は九時五十分を指していた。
ロックは書類を鞄から出し、机の上へ置いた。
アレクセイがその隣に座る。
レヴィは入口脇の壁にもたれた。
「なあ、ロック」
「何だ?」
「高い家賃ってのは、紙を眺めてるだけで貰えんのか?」
「借りてもらえればな」
「いい商売だ」
「屋根が漏れれば、俺が呼ばれる」
アレクセイが言った。
「床が割れれば、それも俺だ」
「撃たれるよりマシだろ」
「今日は、その話をしてる」
レヴィは口の端を上げた。
ボリスが入口へ顔を出す。
「来た」
*
コンティは、薄い灰色の上着を着た男だった。
四十前後。
髪は短く整えられ、靴は磨かれている。
右手に革の書類鞄を持っていた。
入口でボリスに中身を確認されても、表情は変えなかった。
ただ、鞄を受け取るとき、口の端が少し引きつった。
アレクセイはそこを見た。
「お待たせしました」
コンティが言う。
「時間どおりだ」
アレクセイは立ち上がった。
男の視線が、その顔から背後のロックへ移る。
それから、もう一度戻る。
「所有者の方は」
「俺だ」
「……失礼しました」
コンティはすぐに言った。
驚きを隠すのは上手かった。
隠す前に見えてしまったことには、気づいていないようだった。
握手を交わす。
男の手は乾いていた。
爪の縁まで、よく手入れされている。
だが、アレクセイが見たのは顔だった。
この男が、会計士本人だとは思わなかった。
値段を決める側の目ではない。
決められた値段を、どう受け取らせるか考えている目だった。
コンティが椅子へ座る。
窓を一度見てから、鞄を開いた。
運転手は外に残された。
ボリスが廊下へ戻り、扉は開けたままになった。
「条件は、ご確認いただけましたか」
「ああ」
「ご不満な点があれば、調整できます」
「何を保管する?」
「機械部品です」
「種類は」
「船舶用の」
「明細は?」
コンティは書類を一枚出した。
アレクセイは受け取らず、ロックを見た。
ロックが紙を引き寄せる。
品目は書いてある。
数量もある。
だが、具体的な製造元も、荷姿も曖昧だった。
倉庫を借りる話としては、妙に輪郭が薄い。
「搬入予定日は?」
ロックが訊いた。
「契約が済み次第、順次」
「荷役業者は、こちらで指定します」
「それは困ります」
初めて、返答が速くなった。
アレクセイがコンティを見る。
「なぜ?」
「扱いに慣れた者を使いたいので」
「なら、その会社名も必要だ」
コンティは笑顔を作った。
「細かいところまで、きちんとされている」
「貸す倉庫だからな」
アレクセイは封筒へ指を置いた。
「君たちは借りたい。俺は何が入るのか知りたい。難しい話か?」
扇風機が鳴った。
コンティは、机の端へ視線を落とした。
「率直に申し上げましょう」
ようやく、本題らしい言葉が出た。
「今回の契約には、こちらからの善意も含まれています」
レヴィが壁際で姿勢を変えた。
アレクセイは黙って待った。
「最近、そちらでお預かりになっている資料があるかと思います」
「資料?」
「弊社の取引先に関わるものです。事情があって、外へ出た」
ロックの指が止まる。
アレクセイはコンティの顔を見た。
「倉庫と交換したいのか?」
「交換という表現は適切ではありません。双方にとって、有益な関係を――」
「帳簿を返せば、相場以上の金を払う」
アレクセイが言った。
「短くすると、それで合ってるか?」
コンティの笑顔が薄くなった。
「お話が早い」
「まだ返事はしていない」
男は一度、唇を湿らせた。
「あなたも、支出が増えているでしょう」
アレクセイは動かなかった。
「人を抱えるというのは、何かと費用が掛かる。住まい、食事、警備。今後のことまで考えれば、安定した収入は必要です」
「倉庫の話を続けろ」
「その負担を減らすお手伝いもできます」
コンティは言った。
「子供たちについても、こちらで責任を持って――」
アレクセイが契約書を閉じた。
紙の擦れる音は、小さかった。
それでも、コンティの言葉が止まった。
「倉庫の話をしに来たんだろう」
声も、大きくはなかった。
「子供の話を混ぜるな」
ロックは横を見た。
アレクセイの表情は変わっていない。
ただ、先ほどまで相手の説明を待っていた目が、もう待っていなかった。
コンティは背筋を伸ばした。
「誤解なさらないでください。無理にとは申しません。ただ、あなたにとっても危険な――」
「その危険を作っている人間から、親切を買うつもりはない」
レヴィが、ゆっくりと壁から背を離した。
コンティはそれを見た。
それから鞄を見る。
「一度、確認の電話を」
「誰に?」
「私に判断権はありません」
「そうだろうな」
アレクセイは机の電話を示した。
「ここで話せ」
*
コンティが受話器を取った。
指が、番号を押す。
ロックはその間に、出された紙へもう一度目を落とした。
会社名。
前にも見た綴りだった。
帳簿の送金先。
その下に、小さく支店の住所がある。
ロックは手元の紙へ、短く書き写した。
呼び出し音が漏れていた。
コンティは窓を見た。
アレクセイも、同じ方向を見た。
ガラス越しに、外階段の手すりが見える。
その向こうに、向かいの倉庫。
朝日で白く光る窓。
次の瞬間、コンティの肩が大きく跳ねた。
受話器が落ちる。
窓が砕けた。
ロックは音の方へ顔を向けた。
何が起きたのか、考えるより先に、隣の椅子が横倒しになった。
襟元が引かれる。
身体が椅子から外れた。
「伏せろ」
アレクセイの声だった。
ロックは膝から床へ落ちた。
肩に、小さな手が食い込む。
その直後、机の向こうの棚が破裂した。
紙と木片が降った。
ロックが座っていた位置だった。
ガラスが床へ散る音。
レヴィが動いた。
ロックには、銃を抜くところが見えなかった。
気づいたときには、彼女は窓から見えない壁際へ身体を寄せ、入口へ声を飛ばしていた。
「向かいだ!」
廊下でボリスが何かを叫ぶ。
別の男が応じた。
アレクセイはロックの肩を押したまま、机の脚の向こうを見ていた。
「こっちを見ろ」
ロックは彼を見た。
青い目が近かった。
「立つな。俺が動いてから、壁まで来い」
ロックは頷いた。
コンティが床で呻いていた。
上着の肩が濡れている。
アレクセイは一瞬だけそちらを見て、レヴィへ言った。
「こいつも連れて出る」
「足手まといが二人かよ!」
「一人は歩ける」
「お前、自分を数に入れてねえだろうな!」
銃声がまた響いた。
窓枠の端が削れる。
レヴィが低く罵った。
アレクセイは這うように机の端を回った。
少年が落とした物を拾いに行くような、小さな動きだった。
だが、その右手には銃があった。
ロックは息を止めた。
アレクセイはコンティの襟を掴み、壁側へ引いた。
動かない。
男の体重が、床へ沈んでいた。
「起きろ。足を使え」
「撃たれた……」
「肩だ。足はある」
コンティが呻いた。
アレクセイは無理に引かなかった。
扉へ顔を向ける。
「軍曹!」
ボリスが低い姿勢で入ってきた。
コンティの上着を掴み、一息に持ち上げる。
アレクセイは、その動きが済む前にロックへ手を伸ばしていた。
「来い」
ロックは床に手をつき、壁まで移動した。
靴の下でガラスが砕けた。
アレクセイの手は、もう肩から離れていた。
*
事務所から倉庫へ通じる扉を抜けると、空気が変わった。
木材。 油。 熱のこもった埃。
高い天井の下に、荷物の列が伸びている。
ボリスがコンティを柱の陰へ下ろした。
部下の一人が負傷箇所を押さえる。
男の口から、意味のない言葉が繰り返し漏れていた。
「知らない……俺は、知らない……」
「後で聞く」
アレクセイはそう言って、ロックの肩へ触れた。
「怪我は」
「ない。たぶん」
「手を見せろ」
ロックは両手を開いた。
細かい傷はあった。
血は少ない。
アレクセイは頷いた。
「軍曹のそばにいろ」
「お前は?」
答える前に、倉庫の奥で扉が鳴った。
重い音。
続いて、短い金属音。
ボリスの顔がそちらへ向く。
レヴィが銃を持ち直した。
「外だけじゃねえな」
アレクセイは通路の先を見た。
横の搬入口。
今朝、閉じていたはずの扉が少し開いている。
隙間の向こうに影が動いた。
レヴィが撃った。
激しい音が天井へ跳ね返る。
ロックは反射的に頭を下げた。
アレクセイは、もうそこにいなかった。
荷物の列の間へ入っている。
高く積まれた木箱と、腰ほどの機械部品。
大人なら深く屈まなければ頭が出る隙間を、その身体は低い姿勢のまま抜けた。
走り方は、速いというより短かった。
足音が少ない。
止まる。
見る。
次へ動く。
レヴィが前方の相手へ撃ち返すたび、倉庫の空気が震えた。
その音に隠れて、アレクセイが別の列へ移る。
ロックには、途中から位置が分からなくなった。
白い金髪が一瞬見えたと思うと、もういない。
次に見えたのは、違う高さ、違う場所だった。
銃声が二発。
レヴィのものより、間があった。
搬入口の陰から出かけた男が、引っ込んだ。
「右!」
アレクセイの声がした。
レヴィが向きを変える。
ボリスがロックを柱の裏へ押し戻した。
弾がどこかへ当たり、鉄板が長く鳴った。
ロックは耳を押さえた。
胸が苦しい。
息を吸いすぎているのだと分かっても、止められなかった。
少し離れたところで、男の叫び声がした。
敵のものではなかった。
倉庫の端。
隣の区画へ続く通用口のそばに、若い作業員が倒れ込んでいた。
帽子が床に落ちている。
両手で頭を抱え、動けなくなっていた。
「まだ人がいたのか!」
ロックが声を上げる。
ボリスがそちらを見た。
その前に、アレクセイの声が飛んだ。
「動くな! そこにいろ!」
作業員は顔を上げなかった。
アレクセイが荷物の陰から出た。
姿を見せた瞬間、搬入口で男が銃を向ける。
レヴィが撃った。
男の身体が扉の内側へ消える。
「借り一つだぞ!」
「数えとけ!」
アレクセイは作業員のそばへ滑り込んだ。
ロックは、その小さな背中を見ていた。
こんな場所で、そんなふうに屈むのかと思った。
まだ銃声がしている。
窓が割れ、誰かが叫んでいる。
その中でアレクセイは、男と目を合わせようとしていた。
「顔を上げろ」
作業員が震えている。
「俺を見ろ」
若い男が、ようやく目を上げた。
自分より幼く見える顔を見て、表情が混乱した。
アレクセイは気にしなかった。
「立てるか。無理なら首を振れ」
男の口が動く。
声は出なかった。
「分かった」
アレクセイは肩越しに叫んだ。
「軍曹、運べるか!」
「行く!」
ボリスが部下へコンティを任せ、動いた。
アレクセイはその間、作業員の襟元を掴んで柱の影へ寄せた。
右袖の包帯が引かれる。
顔が、わずかに歪んだ。
だが、次に銃を構えたとき、その歪みは消えていた。
*
倉庫の奥で、重いものが倒れた。
作業員の後方だった。
アレクセイが顔を向ける。
木箱の陰から、大柄な男が出てきた。
近かった。
銃を向けるより早く、男の腕が伸びる。
手首を弾かれた。
肩を掴まれる。
アレクセイの背中が柱へぶつかった。
息が抜けた。
足が、わずかに床から浮く。
男の顔が間近にあった。
汗。 油の匂い。 歯を食いしばった口。
アレクセイは腕を押した。
動かない。
体重が違いすぎた。
右腕に熱い痛みが走る。
握った銃の向きが定まらない。
男は彼の手首を押さえたまま、空いた手で何かを抜こうとした。
ロックが声を上げかけた。
アレクセイの声の方が早かった。
「レヴィ!」
短かった。
助けを求める声に、躊躇がなかった。
レヴィが振り向く。
顔つきが変わった。
彼女は数歩で距離を詰め、男の脇へ飛び込んだ。
鈍い衝撃音。
男の肩が崩れる。
アレクセイが身を捩り、腕の下から抜けた。
足が床へ戻る。
男がレヴィへ向き直ろうとした。
銃声が一発、近くで響いた。
男は床へ倒れた。
アレクセイは柱へ手をついた。
咳が出る。
息がうまく戻らない。
レヴィが彼の襟を掴み、荷物の陰へ引いた。
「一人で片づけようとすんな、チビ!」
アレクセイは一度だけ大きく息を吸った。
「だから、呼んだ」
レヴィは一瞬、彼を見た。
それから歯を見せた。
「減らず口は動くんだな」
「足も動く」
「確認すんな。来い」
彼女が先に立つ。
アレクセイは右腕を見た。
包帯に赤い色が滲んでいた。
左手で押さえる。
銃を持つ手を確かめる。
まだ握れた。
倉庫の向こうから、ボリスの声がした。
「作業員は確保した!」
アレクセイは目を閉じかけ、すぐに開いた。
「ロックは!」
「無事だ!」
返事を聞いてから、彼は柱の陰へ座った。
数秒だけ。
必要な息を、取り戻すために。
*
戦闘は、始まったときと同じくらい急に終わった。
外でエンジンが唸る。
タイヤの音。
誰かの怒号。
倉庫の中では、撃ち返してくる相手がいなくなった。
ボリスが部下へ指示を出した。
誰もすぐには立ち上がらなかった。
レヴィも銃を下ろさない。
アレクセイは壁に背をつけ、出入口を見ていた。
やがて、外から短い報告が来る。
ボリスが頷いた。
「こちらは押さえた。外の確認を続けろ」
ようやく、ロックは立ち上がった。
膝が震えた。
自分の身体なのに、うまく命令が通らない。
倒れた椅子。 砕けたガラス。 荷物に穿たれた穴。
さっきまであった場所が、別のものになっていた。
アレクセイは作業員の前に屈んでいた。
男はボリスの部下から水を渡され、両手で持っている。
まだ飲めてはいなかった。
「名前は」
アレクセイが訊いた。
作業員が答える。
ロックには、よく聞こえなかった。
アレクセイは聞き返さなかった。
男の名を、そのまま一度呼んだ。
「足は痛むか?」
男は首を振った。
「腕は?」
また首を振る。
「分かった。今は立たなくていい」
その声は、さっきロックを床へ伏せさせた声と同じだった。
静かで、短い。
ただ、作業員が答えるまでの時間を、きちんと待っていた。
ロックは近づいた。
アレクセイの右腕から、血が一滴落ちた。
「おい、その腕」
「見えてる」
「だったら――」
「布をくれ」
ロックはポケットを探った。
ハンカチがあった。
取り出す。
アレクセイはそれを見て、わずかに眉を上げた。
「また借りるのか」
「今、それ気にするところかよ」
ロックは彼の腕へ布を当てた。
アレクセイが息を止める。
痛いのだ。
ようやく、それが顔に出た。
ロックは少しだけ力を緩めた。
「そのままでいい」
アレクセイが言った。
「押さえてくれ」
ロックは頷いた。
近くで見ると、頬にも血がついていた。
本人のものかどうかは分からない。
埃が髪に入り、シャツの背中が擦れている。
それでも、顔そのものは変わらなかった。
街角で炭酸水を飲んでいた顔。
菓子の瓶を開けられず、サーシャへ渡した顔。
腕相撲に負けて、呆れた目を向けてきた顔。
同じ顔で、あの倉庫を動いていた。
ロックは、それが恐ろしかった。
子供に見える者が銃を撃ったからではない。
この男だけが、自分たちよりずっと前から、この場所を知っていたように見えたからだ。
床へ伏せることも。
相手を撃つことも。
動けない者へ声を掛けることも。
自分にできない仕事を、仲間へ渡すことも。
全てが、続いていた。
途中で別の人間になったわけではなかった。
「ロック」
呼ばれ、彼は顔を上げた。
「顔色が悪い」
「お前に言われたくない」
「それもそうだな」
アレクセイは、そこで初めて少し笑った。
*
コンティは生きていた。
肩を押さえられ、壁際に座らされている。
運転手も確保されていた。
逃げようとしたところを外の人間に止められたらしい。
彼は何度も、自分は運転を頼まれただけだと言っていた。
誰も、今すぐその言葉を信じるとは言わなかった。
アレクセイが近づくと、コンティは顔を上げた。
汗が額から顎へ流れている。
「俺は知らなかった」
最初の言葉は、それだった。
「電話をすれば、条件を確認すると言われていた。こんなことになるとは――」
「誰に言われた」
「直接会ってない。声だけだ」
アレクセイは彼を見る。
「その話は、場所を変えてから聞く」
「本当だ」
「聞くと言った」
コンティの目が、彼の腕へ動く。
血のついた布。
埃を被った銃。
それから、顔へ戻る。
「お前……」
男は乾いた唇を動かした。
「何歳なんだ」
アレクセイは少し黙った。
レヴィが横で顔を背けた。
笑ったわけではなかった。
呆れたらしかった。
「その話、今必要か?」
コンティは答えなかった。
アレクセイはボリスへ向き直った。
「二人とも別々に」
「ああ」
「修理屋の件と同じだ。こっちの作業員を先に診せてくれ」
「医者へ向かわせる」
ボリスはそう言ってから、アレクセイの腕を見た。
「お前もだ」
「分かってる」
「その返事を、今日は二度聞いた」
アレクセイは反論しなかった。
*
バラライカが来たとき、ロックは倉庫の外で水を飲んでいた。
一口飲むたび、喉が痛んだ。
車が止まる。
扉が開く。
彼女は降りると、真っ先にボリスを見た。
軍曹が短く報告する。
対象は生存。 こちらに死者なし。 負傷者の搬送を手配中。 襲撃側の一部は逃走。
バラライカは途中で口を挟まなかった。
「周囲の確認を続けろ。民間人への被害は別にまとめろ」
「了解しました」
「窓側の射手は」
「現在、追っています」
「深追いさせるな。逃げ道だけ押さえろ」
声はいつもと同じだった。
ロックは、その横顔を見ていた。
彼女の視線が動く。
倉庫の入口。
積まれた木箱の前に、アレクセイが立っていた。
左手で右腕を押さえている。
シャツに血がついていた。
バラライカの足が速くなった。
走ってはいない。
けれど、ロックには分かった。
それまで報告を聞きながら歩いていた人間が、もう報告を聞いていなかった。
「アリョーシャ」
アレクセイが顔を上げる。
「大尉。代理人は――」
「座れ」
「まだ歩ける」
「歩けるかどうかは聞いていない」
レヴィが、近くの椅子を足で引き寄せた。
アレクセイは彼女を見た。
「協力が早いな」
「座った方が話が早えだろ」
彼は椅子へ座った。
バラライカが目の前に立つ。
「腕を見せろ」
「医者が来たら――」
「今だ」
アレクセイは布を少しだけ緩めた。
彼女は傷を見た。
触らなかった。
必要以上に布を剥がすこともしない。
確認して、もう一度押さえさせる。
「ほかは」
「背中をぶつけた」
「頭は」
「打ってない」
「息は」
「戻った」
バラライカの目が細くなった。
「戻った?」
アレクセイは、一瞬だけ黙った。
ロックは思った。
今、言葉を選び直そうとしている。
戦闘中には一度も見せなかった迷いだった。
「少し、詰まっただけだ」
「軍曹」
「柱に叩きつけられています」
返事は即座だった。
アレクセイは天井を見上げた。
「俺の報告は、最後まで聞かれないな」
「省くからだ」
バラライカが答える。
アレクセイは口を閉じた。
ロックは、そこでようやく息を吐けた。
さっきまで、倉庫のどこにいるのかさえ分からなかった男が。
敵を前にしても、動けない作業員を前にしても、同じ落ち着いた目をしていた男が。
今は姉の前で、いつもの困った顔をしている。
それが、妙に救いだった。
*
ロックが紙を持ってきたのは、応急処置が済んだあとだった。
契約書は、机の下へ落ちていた。
端にガラスの傷があり、数枚は破れている。
それでも、会社名と住所は読めた。
「これ」
ロックはアレクセイではなく、バラライカへ渡した。
「相手の書類に、支店の住所がありました。帳簿にあった会社と同じ名前です」
彼女が目を落とす。
「写しか?」
「原本もあります。こっちは俺が書き写した分です」
「よく残したな」
ロックは少しだけ視線を下げた。
「落ちてたのを拾っただけです」
「それでいい」
バラライカは軍曹へ紙を渡した。
アレクセイが椅子から言う。
「コンティは、電話の指示で来たと言ってる」
「嘘か?」
「全部ではないと思う。最初に狙われた」
レヴィが腕を組んだ。
「最初っから使い捨てか」
「帳簿を持って来ていれば、俺たちごと回収するつもりだったのかもしれない」
アレクセイは自分の鞄を見た。
中には倉庫の書類しか入っていない。
「取り返せなくても、話せる人間を減らせる」
バラライカは倉庫の窓を見た。
砕けたガラス。 弾痕。 空になった事務所。
「勘定が増えたな」
低い声だった。
軍曹が頷く。
アレクセイは姉を見る。
「大尉」
「お前は医者へ行け」
「家へ連絡を入れたい」
バラライカは時計を見た。
約束の時間を、少し過ぎていた。
「かけろ」
それから、付け加えた。
「終わったら車だ」
*
電話を借りたのは、隣の事務所だった。
アレクセイは椅子に座ったまま、受話器を持った。
ナディアが出る。
「俺だ」
『遅かったね』
「少し揉めた」
入口に立っていたバラライカが、こちらを見た。
アレクセイは言い直した。
「撃ち合いになった」
電話の向こうで、水の音が止まった。
『怪我は』
「腕の傷が開いた。これから医者へ行く」
『帰りは?』
「診察が終わったら、もう一度連絡する」
ナディアは短く息を吐いた。
『分かった。二人に代わるよ』
少し待つ。
その間、アレクセイは目を閉じた。
肩が重い。
背中も痛い。
息を深く吸うと、鈍く響いた。
『アレクセイ?』
グレーテルだった。
「ああ」
『帰る?』
「医者に寄ってからだ」
沈黙。
『怪我したの?』
「腕を少しな」
入口で、バラライカが動いた。
アレクセイは彼女を見る。
そして、ため息をついた。
「背中も診てもらう」
『お姉さんは知ってる?』
「目の前にいる」
電話の向こうで、ヘンゼルの声がした。
『じゃあ、大丈夫だ』
アレクセイは受話器を見た。
何とも言えない顔になった。
バラライカが片眉を上げる。
「何だ」
アレクセイは首を振った。
「君たちの信頼関係が、俺の知らないところで進んでる」
『何?』
「こっちの話だ」
グレーテルが訊く。
『本は、置いておく?』
「ああ」
『昨日の続き』
「帰ったら、どこまで読んだか教えてくれ」
少し間が空いた。
『分かった』
電話が終わる。
アレクセイは受話器を置いた。
しばらく、手を離さなかった。
バラライカが近づく。
「立てるか」
「立てる」
彼女はその返事を聞いてから、椅子の横へ回った。
腕を掴むことはしなかった。
アレクセイが自分で立つのを待つ。
背中に痛みが走り、彼の動きが止まった。
そのときだけ、姉の手が肘を支えた。
「急ぐな」
アレクセイは小さく頷いた。
「分かってる」
今度は、言い返さなかった。
*
倉庫の外へ出ると、昼の日差しが強かった。
何もなかったように、遠くで荷車が動いている。
誰かがエンジンを掛ける。
屋台から、油の匂いがした。
ロックは車のそばで待っていた。
アレクセイが近づく。
「ハンカチ、また駄目にしたな」
「買い置きしとくよ」
「請求してくれ」
「そうする」
ロックは答えた。
冗談に聞こえた。
たぶん、二人ともそうしたかった。
アレクセイが車へ乗り込む。
その背中を見ながら、ロックはレヴィへ言った。
「……怖かった」
「だろうな」
「撃たれたこともだけど」
レヴィが彼を見る。
ロックは言葉を探した。
「あいつ、全部分かってるみたいに動いてた」
「全部は分かってねえよ」
レヴィは即座に言った。
「だから捕まった。だから呼んだ」
ロックは黙った。
「分かんねえことがあっても、やることを止めねえだけだ」
彼女は車へ目を向けた。
窓の向こうで、アレクセイがバラライカに何か言われていた。
片手で額を押さえている。
「慣れたくて慣れたんじゃねえだろうけどな」
レヴィはそう言って、煙草を取り出した。
ロックは車を見た。
少年の顔が、窓の向こうでこちらを向く。
右腕を持ち上げかけ、姉に止められる。
代わりに、顎で短く挨拶した。
車が動き出す。
用意されていた帰りの車だった。
ロックはそれが角を曲がるまで、見送っていた。
第九話・了