BLACK LAGOON ―姉さん、俺はもう大人だ―   作:いっしきさん

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第十話 小さな協力者

第十話 小さな協力者

 アレクセイが目を覚ますと、椅子が二つ増えていた。

 寝台の脇に、一つ。

 足元に、もう一つ。

 どちらにも銀色の髪の子供が座っている。

 窓の外は明るかった。庭で鳥が鳴き、台所からはナディアの声が聞こえていた。

 右腕は痛む。

 背中も痛む。

 医者の言うとおり、昨日より今朝の方が身体は重かった。

 だが、それより先に確かめることがあった。

「……いつからいる?」

 グレーテルが顔を上げた。

「少し前」

 ヘンゼルも頷く。

 その手には、読みかけの本があった。

「少し、というのは」

「鳥が鳴く前」

 アレクセイは窓を見た。

 鳥の勤務時間までは知らなかった。

 肘をついて起きようとすると、背中に鈍い痛みが走った。

 途中で止まる。

 双子の視線が、同時に動いた。

 アレクセイは諦めて、ゆっくり起き直した。

「手伝う?」

 ヘンゼルが訊く。

「枕を寄せてくれ」

 少年は本を置き、枕を取った。

 背中へ入れる。

「ありがとう」

 アレクセイが言うと、ヘンゼルは寝台の端へ手を置いたまま、こちらを見た。

 何か、続きがある顔だった。

「どうした」

「ほかにも手伝えるよ」

「そうか。じゃあ、水を――」

「あなたの代わりに、殺してあげる」

 窓の外で、鳥がもう一度鳴いた。

 アレクセイは、まだ半分眠っていた頭を起こした。

 グレーテルが続ける。

「そうすれば、休めるでしょう?」

 言い方は穏やかだった。

 湯を沸かす。  本を取ってくる。  邪魔なものを片づける。

 その中に、同じ重さで人を殺すという選択肢が入っている。

 アレクセイは二人を見た。

「俺を助けたいのか」

 二人が頷く。

「それとも、殺したい?」

 今度は少し間があった。

 ヘンゼルがグレーテルを見る。

 彼女も見る。

 相談は、目だけで済んだ。

「両方」

 ヘンゼルが答えた。

 アレクセイは、しばらく黙っていた。

 二人も待っていた。

 怒鳴られると思って身構えているわけではない。

 ただ、返事を知りたがっている。

 その顔を見て、アレクセイは膝の上へ手を置いた。

「分かった。その上で話そう」

 グレーテルが椅子から立った。

 ヘンゼルも続く。

「何時に出るの?」

「何を持っていけばいい?」

「まだ最後まで言ってない」

 二人が止まる。

 アレクセイは、寝台脇の水差しを指した。

「まず水だ」

     *

 医師のモロゾフは、話を聞く間、一度も驚いた顔をしなかった。

 診察を終えたあと、眼鏡を外して布で拭いた。

「お前は、走るな」

「それはさっき聞いた」

「登るな」

「聞いた」

「重いものを持つな。腕を振り回すな。背中を打つな」

「最後のは、昨日も希望してた」

 モロゾフは眼鏡を掛け直した。

「希望では治らん」

 アレクセイは返す言葉を諦めた。

 居間では、レヴィが椅子へ斜めに座っていた。

 ロックは書類を広げている。

 ボリスは窓のそばで、電話の報告を待っていた。

 双子は部屋の入口から、全員を見ていた。

 昨日の襲撃後、追跡された車両の一台が、運河沿いの旧製氷所へ入っていた。

 契約書にあった支店住所と同じ区画だった。

 表の会社は、もう営業していない。

 だが、夜になってから何人かが出入りし、荷物を運び出している。

 帳簿に記載された倉庫とも、伝票の上でつながっていた。

「逃げ支度だな」

 レヴィが言った。

 ロックが頷く。

「放っておくと、書類も人も消える」

 双子へ説明をしたのは、そのあとだった。

 アレクセイは二人を呼び、古い製氷所の外観写真を見せた。

 ヘンゼルがすぐに指を置く。

「ここ、裏に長い部屋がある」

「入ったことがあるのか?」

「待たされた」

 グレーテルが写真を引き寄せる。

「この扉は、開きにくいわ」

「窓は?」

「割れば通れる」

 アレクセイは少女を見た。

「割る前の状態を聞いてる」

 レヴィが笑った。

「いいじゃねえか。解決策までついてる」

「今は建物の話をしてる」

「だから、窓だろ?」

 アレクセイはロックへ顔を向けた。

「何か言ってくれ」

「……外から見えない部屋があるなら、図にしてもらった方がいいんじゃないか」

「そういう助けはありがたい」

 紙と鉛筆が出された。

 ヘンゼルが部屋の形を描く。

 グレーテルが横から、壁を一本足した。

「そこ、通れないわ」

「前は通れたよ」

「棚を置いたでしょう」

「ああ」

 会話が進む。

 入口の写真だけでは分からなかった内側の形が、少しずつ紙の上に現れた。

 ロックが聞き、ボリスが確かめる。

 二人は、尋ねられたことへ自然に答えていた。

 やがてアレクセイが言った。

「よく覚えてたな」

 鉛筆が止まる。

 ヘンゼルが顔を上げた。

 グレーテルも。

「役に立つ?」

「ああ」

 アレクセイは頷いた。

「これは使える」

 二人は、ほんの少しだけ背筋を伸ばした。

     *

 バラライカが来たのは、説明が一通り終わった頃だった。

 入ってくるなり、部屋の中を見渡した。

 机の図面。

 双子。

 レヴィ。

 最後に、アレクセイ。

「聞いた」

 弟は頷いた。

「直接話すつもりだった」

「軍曹から先に聞いた」

 ボリスは何も言わなかった。

 アレクセイが椅子を引く。

 バラライカは座らず、双子へ目を向けた。

 二人の表情が静かになった。

「お前たちが申し出たのか」

 ヘンゼルが頷く。

「手伝いたいの」

 グレーテルが言った。

 バラライカは答えず、弟を見た。

「少し、外へ出ろ」

     *

 廊下には、誰もいなかった。

 居間の声だけが、扉越しに聞こえる。

 バラライカが足を止めた。

「責任を持つと言ったな」

「ああ」

「それで、使うのか」

 アレクセイは姉を見上げた。

「使うなら、俺が頼む。俺の知らないところで働かせない」

「言葉の問題ではない」

「分かってる」

 彼は包帯の腕を動かしかけ、やめた。

「二人を家に置いて、何も見せず、何もさせずに暮らすことも考えた」

「考えた結果は」

「俺が出ていくたび、自分たちの代わりに誰かが働いてると思ってる。止める理由も、まだ腑に落ちてない」

「だから同行させる?」

「能力をなかったことにはできない。あの二人が何を楽しむかも、俺の都合で消えない」

 バラライカの目が細くなった。

「味方に向けたら」

「止める」

「止められるのか。その腕で」

「俺一人で抱えない。軍曹も、レヴィもいる」

 しばらく、二人とも黙った。

 居間からレヴィの笑い声が聞こえた。

 何かを言っている。

 ロックが否定する声。

 それから、双子の小さな声。

 バラライカは扉へ目を向けた。

「保護と仕事を混同させるな」

「断っても、家にはいられる。それは話す」

「サーシャとイワンに納得を求めるな」

「求めない」

「お前は前へ出るな」

 アレクセイが姉を見る。

「指揮と確認だ。走れない」

「医者には、何と言われた」

「走るな、登るな、重いものを持つな」

「ほかには」

 弟は少し考えた。

「背中を打つな」

 バラライカは、しばらくその顔を見ていた。

「昨日守れなかったことだな」

「昨日も、わざと打ったわけじゃない」

「今日も打てば、同じことだ」

 アレクセイは息を吐いた。

 彼女は続けた。

「軍曹に中止の判断を任せる。お前が続けたいと言っても、だ」

「了解」

「双子が命令を無視した場合も、即座に切り上げる」

「ああ」

 バラライカは廊下の先へ歩き出した。

 数歩で止まり、振り返る。

「アリョーシャ」

「何だ」

「三人で帰ってこい」

 アレクセイは、今度は冗談を言わなかった。

「帰る」

     *

 居間へ戻ると、レヴィが双子に何かを教えていた。

 アレクセイは足を止めた。

「何の話だ?」

「報酬の交渉」

「やめろ」

「働くなら大事だろ」

 ヘンゼルが顔を上げる。

「あなたも貰うの?」

「私はな」

 レヴィが親指で自分を指す。

 グレーテルがアレクセイを見る。

「私たちは?」

「まず、条件を聞け」

 彼は椅子へ座った。

 二人が向かいへ並ぶ。

 机の上には、描き終わった製氷所の図があった。

「勝手に相手を増やさない。止まれと言われたら止まる。戻ると言ったら戻る。仲間を置いていかない」

 ヘンゼルが図を見ながら訊く。

「逃げる人は?」

「追うかどうかは、俺か軍曹が決める」

「殺したら駄目な人は?」

「先に伝える。途中でも変わる」

 グレーテルが頷く。

 アレクセイは二人を見た。

「殺せるのは知ってる。俺が確かめたいのは、一緒に帰ってこられるかだ」

 少し静かになった。

 彼は続けた。

「それと、断っても部屋はそのままだ。食事も、本も取り上げない」

 ヘンゼルの目が、ロックの持ってきた本へ動いた。

「それでも来るか?」

 二人は互いを見た。

 今度は相談が短かった。

「行く」

 ヘンゼルが言う。

「手伝うわ」

 グレーテルが続ける。

 アレクセイは頷いた。

「分かった」

 すぐに、二人が立ち上がる。

 レヴィも椅子から腰を上げた。

「準備いいじゃねえか」

「君も見習うか?」

 アレクセイが言う。

 レヴィは手を差し出した。

「前金」

「座ってろ」

     *

 武器は、ボリスが持ってきた。

 保護した日に取り上げられたものだった。

 手入れをされ、別々に収められている。

 グレーテルがBARを見る。

 ヘンゼルの視線は斧へ向いた。

 そのときの表情を、ロックは見ていた。

 懐かしい物を返されたようでもあった。

 なくした手の一部が戻ったようでもあった。

 二人の身体の置き方が、少し変わった。

 アレクセイはそれを見ていた。

 驚かない。

 嬉しそうな顔を消せとも言わない。

「移動中はしまっておけ」

 そう伝えるだけだった。

 グレーテルが頷く。

 ヘンゼルも斧を収めた。

 レヴィがBARを見て、鼻を鳴らす。

「それ抱えて走れんのかよ」

 グレーテルは彼女を見上げた。

「あなた、二つ持ってるでしょう?」

「大きさが違えだろ」

「あなたも大きいわ」

 ロックが顔を伏せた。

 レヴィはしばらく少女を見ていた。

 それから、口の端を上げた。

「言うじゃねえか」

 アレクセイが鞄を持つ。

 ボリスが、無言でそれを取った。

「書類しか入ってない」

「私もそう聞いている」

「なら持てる」

「車へ積む」

 ボリスはそのまま出ていった。

 ヘンゼルがアレクセイを見る。

「あなたも、言うこと聞かないんだね」

 レヴィが声を上げて笑った。

「よく見てんな、坊主」

 アレクセイは、入口を指した。

「出発するぞ」

     *

 旧製氷所は、運河の脇にあった。

 壁の塗装は剥げ、看板の文字は半分しか残っていない。

 かつて水を運んだ管が、建物の外側を這っていた。

 今は何も流れていない。

 ただ、低い機械の唸りが、奥から聞こえた。

 使っていない建物の音ではなかった。

 ロックは後方の車に残った。

 回収した書類を確認する役目だった。

 ボリスが先に様子を聞く。

 周囲を押さえていた部下が報告する。

 数人が荷物を出している。  車は二台。  そのうち一台が、昨夜追ったものと一致する。

 アレクセイは双子を見た。

「建物は変わってるか」

 グレーテルが壁を見上げる。

「窓が一つ塞がった」

 ヘンゼルが指を伸ばしかけ、引っ込めた。

「あそこ。前は明るかった」

 ボリスが頷く。

「分かった」

 その一言に、ヘンゼルの口元が少し緩んだ。

 レヴィが二人を見てから、アレクセイへ顔を寄せる。

「楽しそうだな」

「君もな」

「私はいつもだ」

 アレクセイは返事をしなかった。

 ボリスが合図する。

 一行が動いた。

 アレクセイは最後尾寄りにいた。

 重い扉を開けるのも、先の様子を見るのも、仲間に任せる。

 身体が動かないわけではない。

 動かした後のことを、今日は考えなければならなかった。

 奥で、誰かが声を上げた。

 こちらに気づいた。

 続いて、慌ただしい足音。

 ボリスが呼びかける。

 返事は、銃声だった。

     *

 古い壁から、粉が落ちた。

 レヴィが身を寄せる。

 双子の表情が変わった。

 怖がったのではなかった。

 待っていた時間が終わったような顔だった。

 アレクセイは、それを見た。

「前へ出すぎるな」

 ヘンゼルがこちらを向く。

「分かってる」

 声は、朝と同じだった。

 グレーテルがBARを持ち上げた。

 大きな銃だった。

 少女の身体に比べて、長く、重い。

 それでも、彼女の手は迷わなかった。

 撃ち始めると、空気が変わった。

 低く重い連続音が、建物の中を埋めた。

 肩が反動を受ける。  銀色の髪が揺れる。  空薬莢が床へ落ちる。

 グレーテルは笑っていた。

 絵本の続きが気に入ったときよりも、はっきりと。

 奥の男たちが身を伏せる。

 その間に、ヘンゼルが動いた。

 斧を持った小さな影が、機械の陰へ消える。

 レヴィがそれを見て、短く息を吐いた。

「おいおい」

 驚きとも、感心ともつかない声だった。

 アレクセイは目を離さなかった。

「ヘンゼル、そこまでだ。先を見ろ」

 少年が止まる。

 すぐ前の扉が開いた。

 男が飛び出す。

 ヘンゼルが身体を避けた。

 振られた斧が、男の持っていた銃へぶつかる。

 鋭い音が響いた。

 男が体勢を崩す。

 少年は躊躇しなかった。

 次の動きで、男が床へ倒れた。

 ヘンゼルが顔を上げる。

「見たよ」

 返事は、少し得意げだった。

 アレクセイは短く頷いた。

「戻れ」

 ヘンゼルは倒れた男を一度見てから、戻ってきた。

 レヴィの横を通る。

「何だよ」

 彼女が訊く。

 少年は彼女の銃を見た。

「あなた、速いね」

「今さらか」

「二つ、同じように当たる?」

「試してみるか?」

「レヴィ」

 アレクセイが呼ぶ。

 彼女は肩をすくめた。

「冗談だよ」

 その直後、奥から銃撃が返ってきた。

 冗談は途切れた。

     *

 窓の端が砕けた。

 グレーテルが顔を引く。

 頬に、細い赤い線が走った。

 大きな傷ではなかった。

 だが、ヘンゼルは見た。

 笑顔が消える。

 首が、相手のいる方へ向く。

「ヘンゼル」

 アレクセイが呼んだ。

 少年は返事をしなかった。

 斧を握る手が動く。

 グレーテルが、その袖を掴んだ。

「平気よ」

 ヘンゼルが振り返る。

 少女は指で頬に触れた。

 赤くなった指先を見る。

「ここだけ」

 アレクセイが二人のそばへ寄った。

 走らず、壁の陰を伝って。

「目は?」

 グレーテルは瞬きをした。

「見える」

「眩しくないか」

「大丈夫」

 彼は頷き、ヘンゼルへ目を向けた。

「聞こえたな」

 少年はまだ、奥を見ていた。

「聞こえた?」

 もう一度、名前を呼ばずに訊く。

 ヘンゼルがアレクセイを見る。

 青い目が合った。

「……うん」

「一緒に動け」

 ヘンゼルは斧を持ち直した。

 今度は、グレーテルの横へ戻った。

 ボリスが別の入口から声を飛ばす。

 奥の動きが乱れた。

 逃げようとした男が、行き止まりへ追い込まれる。

 レヴィが前へ出る。

 グレーテルも、銃を構え直した。

 戦いは長くなかった。

 だが、音は長く残った。

 射撃が止まっても、耳の奥に唸りがある。

 古い配管から、水滴が落ちていた。

 誰かが呻く。

 床を擦る音。

 ヘンゼルが、その音へ顔を向けた。

     *

 男は倒れた棚のそばにいた。

 手から銃が離れている。

 片脚を引きずり、後ろへ下がっていた。

 アレクセイは、その顔を知っていた。

 九話の襲撃後、追跡の報告に添えられた写真。

 向かいの建物から出てきた男の一人だった。

 男の視線が、ヘンゼルへ向く。

 斧を見る。

 顔が歪んだ。

「待て」

 男が言った。

 ヘンゼルは止まらなかった。

「ヘンゼル」

 アレクセイが呼ぶ。

 少年が、少しだけ顔を向ける。

「そいつは生かす。聞くことがある」

 ヘンゼルは男を見た。

 男も少年を見ている。

 斧は、まだ上がったままだった。

「質問するの?」

「ああ」

「ほかの人でもいいんじゃない?」

「そいつに聞く」

 沈黙が落ちた。

 グレーテルが少し離れたところで見ていた。

 レヴィも動かなかった。

 ヘンゼルの目が、男からアレクセイへ戻る。

「……早く聞いてね」

 斧が下がった。

 男が息を吐く。

 ヘンゼルは一歩横へ退いた。

「こいつは、あなたにあげる」

 アレクセイは近づいた。

「預かる」

 それだけ答える。

 ボリスが男を確保した。

 レヴィがアレクセイの横へ来る。

「お前より気が短えぞ」

「君に言われると深刻だな」

「何だと?」

 アレクセイは聞こえないふりをした。

 ヘンゼルがこちらを見ている。

「止まったぞ」

 その声には、確認があった。

 アレクセイは頷いた。

「見てた。助かった」

 少年は、少しだけ笑った。

     *

 奥の部屋には、燃やしかけの紙があった。

 金属の容器に入れられ、端が黒くなっている。

 ボリスの部下が火を消した。

 書類の一部は助かった。

 電話番号。  送金の控え。  出入りした車両の記録。

 ロックが呼ばれ、紙を一枚ずつ分け始めた。

 双子は入口で待っていた。

 グレーテルのBARは、もう下ろされている。

 ヘンゼルも斧を収めていた。

 アレクセイは壁へ寄り、静かに息を吐いた。

 背中が痛んだ。

 少し長く立ちすぎたらしい。

 レヴィがそれを見た。

「座れよ」

「床が濡れてる」

 彼女は近くの木箱を指した。

「そこ」

「中身が分からない」

「じゃあ私が座ってやろうか?」

「君が壊してからでは遅い」

 ボリスが椅子を持ってきた。

 アレクセイは何も言わず、座った。

 ヘンゼルがレヴィを見る。

「やっぱり、すぐ聞かないね」

「だろ?」

「二人とも聞こえてる」

 グレーテルがアレクセイの前へ立った。

 頬の傷からは、もう血が止まっていた。

 その服には、別の赤い染みがあった。

 彼女は袖を見下ろした。

 それから、彼を見る。

「怖くなった?」

 アレクセイは顔を上げた。

「何が」

「私たち」

 ヘンゼルも、隣へ来ていた。

 二人は、まだ彼の返事を知らなかった。

 力を貸せとは言われた。

 実際に見たあとでも同じかどうかは、分からない。

 アレクセイは布を取り出した。

 グレーテルの頬を指す。

「触っていいか」

 少女が頷く。

 彼は血の跡を拭った。

「今日初めて、君たちを知ったわけじゃない」

 グレーテルは動かなかった。

 布が離れる。

「傷は浅い。帰ったら洗おう」

「また手伝ってもいい?」

「必要なときは頼む」

 アレクセイは、二人を順番に見た。

「今日は助かった。二人とも、よく聞いて動いた」

 ヘンゼルの指が、服の裾から離れた。

 グレーテルも、袖を見るのをやめた。

「でも」

 アレクセイが続ける。

 双子の顔が上がる。

「次から、出発前に靴紐を確かめろ。途中で解けてたぞ」

 ヘンゼルが足元を見た。

 右の紐が緩んでいた。

 レヴィが笑った。

「斧の前に、そっちかよ」

「転べば斧も役に立たない」

 少年が屈む。

 今度は、すぐに結び直した。

     *

 回収した書類には、会計士本人の名前はなかった。

 だが、金の動きが一つ残っていた。

 ロックは濡れた紙を慎重に広げ、別の伝票と見比べた。

「同じ口座だ」

 アレクセイが顔を向ける。

「マルコの帳簿にあったものか」

「ああ。こっちは受け取り側の記録がある」

 ロックは指を置いた。

「会計士が、ここの連中へ払ってた。その直前に、別の会社からまとめて金が入ってる」

 ボリスが紙を覗く。

 今度は、会社名が省略されていなかった。

 事務所の所在地もある。

「軍曹」

「確認させる」

 アレクセイは頷いた。

 足元では、ヘンゼルが靴紐を結び終えていた。

「これも、お手伝い?」

 彼が訊く。

 ロックは紙を押さえたまま笑った。

「そうだよ。残してくれた人に、これから話を聞ける」

 ヘンゼルは、隣室へ連れていかれた男の方を見た。

「じゃあ、よかったね」

 その声は明るかった。

 ロックは一瞬だけ返答に迷った。

 アレクセイが言った。

「ああ。あそこで止まったのは正解だった」

 ヘンゼルは彼を見た。

 それから、グレーテルを見た。

 少女が小さく頷いた。

 ロックは、そのやり取りを黙って見ていた。

 ここで何かを綺麗な言葉にしても、誰の役にも立たない気がした。

 彼は書類へ戻った。

 自分にできる仕事は、まだ残っていた。

     *

 帰りの車では、双子が静かだった。

 疲れたのかと思ったが、違った。

 後部座席で、顔を寄せ合って相談している。

 アレクセイは向かいの窓へ目を向けていた。

 レヴィが助手席から振り返る。

「何だよ。まだ何かあんのか?」

 グレーテルがアレクセイを見た。

「ご褒美」

 彼は顔を戻した。

「覚えてたか」

「貰っていいって言ってたわ」

「それはレヴィだ」

「払わねえとは言ってねえだろ」

 前から声が飛ぶ。

 アレクセイは彼女の頭の後ろを見た。

「余計な契約を増やすな」

「士気は大事だぜ」

 双子が待っている。

 アレクセイは諦めた。

「何が欲しい?」

 二人が顔を見合わせた。

 ヘンゼルが答える。

「本の続きを読んで」

 アレクセイは、少しだけ黙った。

「それでいいのか?」

「声を変えて」

 グレーテルが付け加える。

「昨日のお爺さんの声、変だったわ」

 レヴィが噴き出した。

 運転手の肩まで揺れた。

 アレクセイは窓へ顔を戻した。

「老人にも、いろいろいる」

「昨日のは、喉が痛そうだった」

 ヘンゼルが言う。

「医者に行った方がいい声だったよ」

 レヴィが膝を叩いた。

「聞かせろよ、お爺さん」

「君は次の角で降りろ」

「まだ着いてねえよ」

「歩ける」

 運転手が、咳払いをした。

 今度はアレクセイが彼を見る。

「前を見てくれ」

「見ています」

 返事だけは、軍曹によく似ていた。

     *

 家へ戻ると、バラライカがいた。

 ナディアと玄関脇で話している。

 アレクセイは車を降りたところで足を止めた。

「早いな」

「お前たちが遅い」

「寄り道はしてない」

「報告は来ている」

 彼女の視線が、三人を順番に見た。

 弟。  ヘンゼル。  グレーテル。

 少女の頬で止まる。

「それは」

「浅い傷だ。医者にも見せる」

 アレクセイが答えた。

 バラライカは頷いた。

「三人とも帰ったな」

「ああ」

「では次は、お前の診察だ」

「その前に報告書を――」

「軍曹から聞いた」

「俺の分もある」

「明日でいい」

 双子がアレクセイを見る。

 グレーテルが言った。

「従わないと駄目よ」

 ヘンゼルも頷く。

「あなたが決めたでしょう?」

 レヴィが車へ肘をつき、楽しそうに見ていた。

 アレクセイは彼女へ顔を向ける。

「助けてくれ」

「悪いな。今回はそっちが正しい」

「さっきまでは?」

「前金次第だった」

 バラライカが一歩近づいた。

 アレクセイは、もう言い返さなかった。

 家へ入る。

 双子も続いた。

 玄関で武器をボリスへ返すとき、二人とも少し手を止めた。

 手放したくないのだろう。

 アレクセイは急かさなかった。

「次に必要になったら、こちらから渡す」

 ヘンゼルが彼を見る。

「取り上げるんじゃない?」

「預かる。家の中で持ち歩くものじゃない」

 少年は斧を渡した。

 グレーテルもBARを渡す。

 ボリスが受け取り、運び出した。

 二人の手が空いた。

 アレクセイは廊下を指した。

「まず洗おう。ナディアに床まで掃除させるな」

 グレーテルが自分の靴を見る。

 泥がついていた。

「箒の方が近い?」

 アレクセイは、少女を見た。

 以前、自分が言った言葉だった。

「ああ」

 彼は少し笑った。

「電話より、ずっと近い」

     *

 診察は、思ったより長く掛かった。

 傷が大きく悪化したわけではない。

 モロゾフが、弟の「大丈夫」を一つずつ確認したからだった。

 バラライカは横で聞いていた。

 アレクセイは途中から、返事を短くするのをやめた。

 どうせ、詳しく聞き直される。

 グレーテルの頬も診てもらった。

 洗われ、処置をされる間、少女は大人しくしていた。

 ヘンゼルはその隣で見ていた。

 終わると、すぐに尋ねる。

「治る?」

「この程度なら、じきだ」

 モロゾフが答えた。

 ヘンゼルは頷いた。

 それからアレクセイを見る。

「あなたは?」

「俺も治る」

「じき?」

 モロゾフが弟を見る。

「大人しくしていればな」

 双子が、揃って頷いた。

 アレクセイは医者を見た。

「また監督が増えた」

「よかったじゃないか」

 誰も、気の毒だとは言わなかった。

     *

 夜になって、本が開かれた。

 アレクセイは居間の長椅子に座っていた。

 背中へ枕を入れ、腕を楽な位置に置いている。

 右にヘンゼル。  左にグレーテル。

 少し離れた椅子には、なぜかレヴィがいた。

「帰ったんじゃなかったのか」

「ロックを待ってる」

「ここで?」

「居心地がいい」

 アレクセイは本へ目を戻した。

 青いしおりを抜く。

 頁の途中から読み始めた。

 双子は、黙って聞いていた。

 庭の虫の声がする。

 台所では、ナディアが器を片づけていた。

 やがて、物語に老人が出てきた。

 アレクセイは一度、喉を整えた。

 レヴィが身を乗り出す。

 彼は見ないふりをした。

「『おやおや。こんな遅くに、誰かね』」

 少し低い声で読んだ。

 グレーテルが顔を上げる。

 ヘンゼルも見た。

 レヴィは口元を押さえた。

「……何だ」

 アレクセイが訊く。

 ヘンゼルが真面目に答えた。

「昨日より元気になった」

 レヴィが折れるように前へ屈んだ。

 声を殺そうとして、失敗した。

 グレーテルも、小さく笑った。

 アレクセイは本を閉じかけた。

「今日はここまでにするか」

「続き」

 二人が同時に言った。

 彼は、少しだけ二人を見る。

 それから、開き直した。

「分かった。ただし、笑うなら君たちが読め」

 ヘンゼルが頷く。

 グレーテルは口元を手で押さえた。

 レヴィはまだ笑っていた。

「君は対象外だ。帰れ」

「待てよ。せっかく爺さんが回復したんだろ」

 廊下で、靴音が止まった。

 バラライカだった。

 帰るところらしい。

 彼女は部屋を覗き、弟と双子を見た。

「何をしている」

「仕事の報酬を払ってる」

 アレクセイが答える。

 バラライカは本を見た。

 それからレヴィを見る。

 最後に、双子へ視線を戻す。

「支払いが遅れたら、私に言え」

「姉さん」

 ヘンゼルとグレーテルが、揃って頷いた。

 バラライカは、それを見届けてから去っていった。

 アレクセイは扉を見たまま、しばらく黙っていた。

 グレーテルが袖を引く。

「続きを」

「ああ」

 彼は本へ戻った。

 昼間、斧を止めた手が、本の端を押さえている。

 BARを握っていた指が、挿絵の老人を指している。

 アレクセイは、その手を払いのけなかった。

 頁が見えるよう、本を少し傾けた。

「『まあ、中へお入り。外は冷えるだろう』」

 今度の老人の声には、誰も文句を言わなかった。

 ただ、レヴィだけが、もう一度小さく吹き出した。

第十話・了

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