BLACK LAGOON ―姉さん、俺はもう大人だ―   作:いっしきさん

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幕間
小さな家主と、日本の客


幕間一・五話 小さな家主と、日本の客

 

ロックが、アレクセイという男をまだよく知らなかった頃のことだ。

 

分かっていたのは、バラライカの弟であること。

 

見た目に反して三十四歳であること。

 

そして、姉から薬の飲み方まで確認されることだった。

 

それ以外にも知っておくべきことがあると気づいたのは、港へ向かう車の中だった。

 

「今日は、何を運ぶんだ?」

 

ロックが尋ねると、隣のアレクセイは膝の上の封筒を開いた。

 

「人を一人」

 

「客か」

 

「取引相手だ。日本から来る」

 

「それで、俺が通訳?」

 

「ああ。契約書も見てほしい。日本語の方と、こちらの控えに食い違いがないか」

 

封筒から出てきたのは、倉庫の賃貸に関する書類だった。

 

会社名。

 

所在地。

 

使用面積。

 

賃料。

 

保証金。

 

ロックは目を通し、途中で指を止めた。

 

「これ、ホテル・モスクワの仕事?」

 

「一部は」

 

「一部?」

 

アレクセイは車窓へ目を向けた。

 

「あれだ」

 

ロックも顔を上げた。

 

運河に沿って、古い倉庫が三棟並んでいた。

 

大きな看板はない。

 

壁には塩と雨で汚れた跡があり、屋根の一部だけ新しい色をしている。

 

入口では、作業着の男たちが木箱を運んでいた。

 

「姉さんの倉庫?」

 

「俺のだ」

 

ロックは書類へ目を戻した。

 

所有者側の署名欄を見る。

 

名前がある。

 

聞き覚えのある名前だった。

 

彼はもう一度アレクセイを見た。

 

「……君の?」

 

「ああ」

 

「三棟とも?」

 

「二棟は共同で持っている。もう一棟は俺の分だ」

 

ロックは、今度こそ黙った。

 

アレクセイはその顔を見て、少し笑った。

 

「何だ」

 

「いや」

 

「子供が倉庫を持っているように見えるか」

 

「そういう意味じゃ」

 

「まだ慣れないんだな」

 

ロックは否定できなかった。

 

車が倉庫の前で止まった。

 

アレクセイは書類を封筒へ戻し、右手で鞄を持った。

 

左手には、まだ包帯が巻かれている。

 

「今日は、撃たれる予定はない」

 

彼は降りる前に言った。

 

ロックは顔をしかめた。

 

「予定で決まるなら、助かるんだけど」

 

「同感だ」

 

*

 

倉庫の事務所は、港を見下ろす二階にあった。

 

階段は鉄製で、上るたびに鳴った。

 

入口の扉には、何度も塗り直した跡がある。

 

アレクセイが入ると、机に向かっていた男が顔を上げた。

 

五十代ほど。

 

日に焼けた首。

 

太い腕。

 

右脚を、少し引きずっていた。

 

「家主が来たか」

 

ロシア語だった。

 

アレクセイが返事をする。

 

二人は短く言葉を交わしたあと、男がロックへ視線を向けた。

 

「日本の客か?」

 

今度は英語だった。

 

「通訳だ。ロック」

 

アレクセイが紹介する。

 

「こっちは管理を任せている、ミハイル」

 

男は立ち上がり、手を差し出した。

 

ロックが握る。

 

掌が大きく、硬かった。

 

握手を終えると、ミハイルはアレクセイの左手を見た。

 

「まだ巻いているのか」

 

「もう少しかかる」

 

「何をした」

 

「仕事だ」

 

男はそれ以上聞かなかった。

 

代わりに、机から分厚い帳簿を出した。

 

「こっちも仕事だ。先月分」

 

アレクセイは椅子へ座った。

 

自分で引き寄せた椅子だった。

 

誰も高さを気にしない。

 

誰も、子供用の席を探そうとしない。

 

ロックは、その自然さを少し羨ましく感じた。

 

アレクセイは帳簿を開いた。

 

「二番倉庫の電気代が上がっている」

 

「冷却機の修理だ。請求は後ろに挟んである」

 

紙をめくる。

 

領収書を見る。

 

「三番の賃料は?」

 

「半分入った」

 

「残りは」

 

「来週と言っている」

 

アレクセイは顔を上げた。

 

「先月も、来週だったな」

 

「だから、今週中に話すつもりだった」

 

「今日、俺から電話する」

 

声は淡々としていた。

 

怒鳴らない。

 

大げさにため息もつかない。

 

数字を見て、何が起きたか尋ね、次にすることを決める。

 

ロックには、よく知っている仕事の進め方だった。

 

前の会社の会議室にも、こういう人間はいた。

 

ただし、金髪の少年の姿はしていなかった。

 

アレクセイが一枚の紙を抜き出す。

 

「屋根の見積もりが、まだ仮のままだ」

 

ミハイルの顔が渋くなった。

 

「材料が上がったと言っている」

 

「前にも聞いた」

 

「今度は本当らしい」

 

「本当かどうか、明細を出させろ。値上がりしたのが材料なのか、気分なのか分からん」

 

ロックは思わず笑った。

 

アレクセイがこちらを見る。

 

「日本でも、あるだろう」

 

「あるよ。理由が増えるたびに、請求も増える」

 

ミハイルが鼻で笑った。

 

「世界は広くないらしいな」

 

*

 

ロックは契約書を確認するため、窓際の机を借りた。

 

下では、荷物を載せた台車が動いている。

 

遠くにクレーン。

 

運河を渡る小さな船。

 

壁の時計は、五分ほど遅れていた。

 

アレクセイはミハイルと、破損した荷物の写真を見ていた。

 

木箱。

 

濡れた段ボール。

 

水滴の残る棚。

 

ロックは資料を揃えながら、貸主側の名前をもう一度見た。

 

「ここ、いつから持ってるんだ?」

 

アレクセイは写真から顔を上げた。

 

「数年前からだ」

 

「最初から三棟?」

 

「一棟だけだった。誰も欲しがらない倉庫だった」

 

ミハイルが口を挟む。

 

「屋根に穴があり、排水は詰まり、前の管理人は金を持って消えていた」

 

「なぜ買ったんだ?」

 

ロックの問いに、アレクセイは窓の外を指した。

 

「船は来る」

 

それから、倉庫の下を示した。

 

「荷物は、降ろした瞬間に消えるわけじゃない。置く場所が要る」

 

「それは分かるけど」

 

「海から近い。車が入れる。建物の骨組みは残っていた。直す費用を含めても、使い道はあると思った」

 

ミハイルが肩をすくめた。

 

「こいつは最初、屋根へ上ったんだ」

 

ロックがアレクセイを見る。

 

「自分で?」

 

「雨漏りを確かめるには、見るのが早い」

 

「そのあと、大尉が来た」

 

ミハイルが続けた。

 

アレクセイの顔が少し曇る。

 

男は気にせず話した。

 

「梯子の下から、いい声で名前を呼んだ」

 

「ミハイル」

 

「その場で工事の人間を呼ぶことになった」

 

ロックは笑いをこらえた。

 

アレクセイは写真を重ねた。

 

「今も、必要なら確認する」

 

「私は止めない。ただ、大尉に聞かれたら答える」

 

「余計なところまで答えるな」

 

ミハイルは楽しそうだった。

 

ロックは帳簿の数字を見た。

 

毎月の賃料。

 

必要経費。

 

修繕の積立。

 

残る額。

 

単純に全部が利益ではないと分かっていても、軽い金額ではなかった。

 

「ずいぶん、貯めたんだな」

 

「使わなかった」

 

アレクセイは答えた。

 

「服も車も、必要なら買う。必要がなければ買わない」

 

「投資は、ほかにも?」

 

「運送会社に少し。部屋を貸している建物が一つ。どれも、自分で様子を見られる範囲だ」

 

「銀行に預けるより?」

 

アレクセイは少し考えた。

 

「金が増えるかどうかだけなら、ほかのやり方もあるだろう。俺は、何が傷んで、誰が使っているか分かる方がいい」

 

彼はミハイルへ目を向けた。

 

男はすでに、別の書類へ取りかかっていた。

 

「仕事も残る」

 

アレクセイが付け加えた。

 

それ以上は説明しなかった。

 

ロックは、男の右脚を見た。

 

引きずる歩き方。

 

机の脇に置かれた古い杖。

 

そして、自分の仕事場として使い込まれた椅子。

 

何となく、話の続きを聞かなくても分かる気がした。

 

*

 

日本からの客は、約束の時刻より十分早く着いた。

 

黒い車が倉庫の前へ寄る。

 

男が二人降りてくる。

 

一人は若かった。

 

もう一人は、四十代半ばほどに見えた。

 

角張った顔。

 

落ち着いた足取り。

 

派手ではないが、安くもない服。

 

周囲を見る目に、観光客の浮つきはなかった。

 

ロックは窓からその姿を見た。

 

鷲峯組。

 

書類には、関連会社の名が使われていた。

 

その名前を聞いたとき、彼は一度アレクセイへ尋ねていた。

 

日本の、あの種の組織なのか。

 

アレクセイは、そうだと答えた。

 

それ以上の驚きはなかった。

 

この街へ来てから、ロックの周囲にはそういう相手ばかり増えていた。

 

だが、日本語を話す客となると、別の緊張があった。

 

昔の職場へ戻るような気がして、その実、戻る場所とはまるで違う。

 

足音が階段を上ってくる。

 

扉が開いた。

 

年長の男が、まずミハイルを見る。

 

次にロック。

 

最後に、書類を並べているアレクセイへ目を向けた。

 

「日本語は?」

 

男が尋ねた。

 

ロックが立ち上がる。

 

「私が通訳します。ロックと申します」

 

「坂東だ」

 

男は短く名乗った。

 

若い同行者が、後ろへ控える。

 

坂東は部屋を見渡した。

 

責任者らしい顔を探しているのが分かった。

 

ミハイルは窓際で書類を揃えている。

 

アレクセイは机の前にいる。

 

坂東は、小柄な金髪の男へ視線を戻した。

 

「坊主。責任者に、日本から坂東が来たと伝えてくれ」

 

ロックは一瞬だけ黙った。

 

アレクセイが顔を上げる。

 

「何と?」

 

ロックは、できるだけそのまま訳した。

 

坊主、の部分だけ少し迷った。

 

しかし省くのも違うと思った。

 

アレクセイは坂東を見た。

 

怒らなかった。

 

驚きもしない。

 

右手で、向かいの椅子を示した。

 

「聞こえている。アレクセイだ。倉庫の所有者でもある」

 

ロックが訳す。

 

坂東の顔は、ほとんど動かなかった。

 

ただ、視線が一度だけロックへ戻った。

 

訳し間違いではないか。

 

そう聞いている目だった。

 

ロックは小さく頷いた。

 

間違っていない。

 

坂東はアレクセイへ向き直った。

 

「……代理か?」

 

「本人だ」

 

短いやり取りを訳すうちに、ロックは初めて会ったときの自分を思い出した。

 

迷子かと思った。

 

父親か母親を待っているのかと聞いた。

 

今、坂東も似た場所に立っている。

 

アレクセイは契約書を机の中央へ置いた。

 

「座ってくれ。年齢の説明から始めるか、荷物の話から始めるかは、任せる」

 

ロックは少しだけ訳し方を考えた。

 

アレクセイが、彼を見る。

 

「そのままでいい」

 

ロックは訳した。

 

坂東は二秒ほど黙った。

 

それから椅子を引いた。

 

「荷物の話をしよう」

 

アレクセイが頷く。

 

「その方が、俺も助かる」

 

*

 

【挿絵表示】

 

最初の議題は、雨漏りだった。

 

日本側が預けていた荷物の一部が濡れ、梱包をやり直すことになった。

 

中身にも被害が出たと報告されていた。

 

アレクセイは写真を並べた。

 

坂東が一枚ずつ見る。

 

同行の若い男も、後ろから覗き込んだ。

 

「原因は、うちの屋根だ」

 

アレクセイが言った。

 

ロックが訳すと、坂東は彼を見た。

 

アレクセイは続けた。

 

「排水の点検が遅れた。強い雨だけが原因ではない。管理側にも落ち度がある」

 

坂東は腕を組んだ。

 

「話が早いな」

 

ロックが訳す。

 

「調べれば分かることだ」

 

アレクセイは見積書を出した。

 

「外装の交換費用。確認できた中身の損傷分。検品に必要だった作業費。この範囲は、こちらが負担する」

 

坂東は紙を受け取った。

 

数字を目で追う。

 

「輸送の遅れは?」

 

「記録があれば、確認する」

 

「こっちの取引先には迷惑をかけている」

 

「それは理解する。だが、金額は根拠が要る」

 

若い男が少し顔を上げた。

 

坂東は動かなかった。

 

アレクセイも、相手の反応を見て条件を変えなかった。

 

「同じ荷物の中に、予定外の保管品があった」

 

彼は別の紙を出した。

 

「こちらは、追加の使用面積に含まれる」

 

ロックは訳しながら、数字を確かめた。

 

確かに、最初の契約より箱が増えている。

 

出入りの記録もあった。

 

坂東の同行者が、口を開いた。

 

「その話は、現地の担当に――」

 

坂東が手を上げた。

 

若い男は黙った。

 

坂東はロックを見た。

 

「こちらの担当が、頼んだことになっているのか」

 

ロックはアレクセイへ訳した。

 

アレクセイがミハイルへ目を向ける。

 

男は帳簿を持ってきた。

 

日付。

 

署名。

 

受け渡した数。

 

坂東は、それを見ると目を細めた。

 

思い当たる署名だったらしい。

 

「なるほどな」

 

「この分の保管料は、契約どおり請求する」

 

アレクセイが言った。

 

「雨漏りの補償とは、別に計算したい」

 

ロックは訳した。

 

そのあとで、少し緊張した。

 

相手の落ち度を認めて金を払う。

 

だが、こちらの請求は取り下げない。

 

理屈は正しい。

 

正しい理屈だけで話が済む人間ばかりではないことも、ロックは知っていた。

 

坂東は二枚の紙を並べた。

 

補償。

 

追加料金。

 

しばらく見比べる。

 

そして、顔を上げた。

 

「そっちの不始末を認めるのは、早いんだな」

 

アレクセイは返事を待った。

 

ロックが訳す。

 

彼は頷いた。

 

「隠している間にも、修繕費は増える」

 

坂東の口元が、ほんの少し動いた。

 

「こっちも、黙って箱を増やした分は払えということか」

 

「使った分だけだ」

 

「慰謝料は取らねえんだな」

 

ロックが訳すと、アレクセイは少し眉を上げた。

 

「俺は、倉庫の機嫌を代わりに説明できない」

 

坂東が短く笑った。

 

同行者は笑わなかった。

 

ロックは、そこでようやく肩の力を少し抜いた。

 

坂東は書類を机へ置いた。

 

「分かった。追加分は、こちらで確認する。補償の明細も持ち帰る」

 

「修繕は先に進める」

 

「話がまとまる前にか」

 

「また降れば、次の荷物が濡れる」

 

坂東は、アレクセイの顔を見た。

 

少年の顔。

 

淡い金髪。

 

落ち着いた青い目。

 

その目には、早く自分を認めてほしいという焦りがなかった。

 

認められなければ怒る、という構えもない。

 

仕事をするために必要な話だけを、前へ進めている。

 

坂東は背もたれへ身体を預けた。

 

「……なるほど。話の早い家主だ」

 

*

 

現場を確かめるため、四人は倉庫へ下りた。

 

ミハイルが先に立つ。

 

坂東と同行者。

 

ロック。

 

最後にアレクセイ。

 

倉庫の中は、外よりも少し涼しかった。

 

積まれた木箱には、行き先と番号が書かれている。

 

通路は広く取られていた。

 

荷物を急いで押し込んだような場所もあるが、歩けなくなるほどではない。

 

アレクセイは途中で足を止めた。

 

台車の脇に置かれた細長い箱を見る。

 

「これは、ここではないだろう」

 

作業員が振り返る。

 

何か説明する。

 

アレクセイは最後まで聞いた。

 

それから、別の場所を指した。

 

男は頷き、箱を動かし始めた。

 

坂東が、そのやり取りを見ていた。

 

「よく来るのか」

 

ロックが訳す。

 

「時間があれば」

 

アレクセイが答える。

 

「金だけ入っていればいい、という場所ではない」

 

坂東は倉庫の奥を見た。

 

屋根の一部が、新しい板で覆われている。

 

その下には、荷物が置かれていなかった。

 

「そこか」

 

「ああ」

 

ミハイルが説明する。

 

どこから水が入り、どこへ流れたか。

 

写真と現場が合っているか。

 

坂東は自分の目で確かめた。

 

アレクセイは横から急がせなかった。

 

ロックは、彼が実際の仕事を知っていることに気づいた。

 

机の数字だけではない。

 

荷物を動かすとき、どの角が邪魔になるか。

 

人が通る場所へ箱を置けば、何が起きるか。

 

雨が入ったとき、床のどちらへ水が流れるか。

 

それを、見れば分かるようだった。

 

坂東も同じことを感じたらしい。

 

「現場の人間だったのか」

 

アレクセイは少し考えた。

 

「荷物を運ぶ必要のある仕事は、していた」

 

「軍か?」

 

ロックは、訳す前に一瞬アレクセイを見た。

 

彼は頷いた。

 

「そうだ」

 

坂東はそれ以上聞かなかった。

 

知りたいことと、尋ねてよいことを分ける人間だった。

 

倉庫の出口で、ミハイルが荷台の位置を直すため離れた。

 

その歩き方を、坂東が見ていた。

 

右脚。

 

杖は持っていない。

 

だが、足を置くたびに少し身体が傾く。

 

「昔の仲間か」

 

坂東が尋ねる。

 

「ああ」

 

アレクセイが答えた。

 

「今は、ここの管理人だ」

 

短い返事だった。

 

戦友だったことを売りにもしない。

 

怪我をしたから雇った、とも言わない。

 

今している仕事を、そのまま伝えた。

 

坂東は小さく頷いた。

 

「いい場所を持ったな」

 

アレクセイは倉庫を見た。

 

屋根。

 

壁。

 

荷物。

 

働く男たち。

 

「まだ、雨漏りするがな」

 

坂東は今度こそ、少しはっきり笑った。

 

*

 

事務所へ戻ると、来客が増えていた。

 

バラライカだった。

 

窓際に立ち、外を見ている。

 

肩に軍用の上着。

 

その隣に、ボリス。

 

室内の空気が、先ほどとは違っていた。

 

坂東の同行者が、わずかに姿勢を正す。

 

坂東も足を止めた。

 

バラライカが振り返る。

 

「日本からの客か」

 

英語だった。

 

ロックが訳そうとする前に、坂東が短く答えた。

 

「坂東です」

 

名前だけなら、訳は要らなかった。

 

ボリスが事前に聞いていたのだろう。

 

バラライカは頷いた。

 

「遠路、ご苦労だった」

 

その声には、商談のために愛想を整える響きがなかった。

 

相手が誰であれ、自分の場所で迎えているという態度だった。

 

ロックは挨拶を訳した。

 

坂東が返す。

 

形式的だが、短すぎもしない。

 

その間、アレクセイは自分の席へ戻っていた。

 

書類を並べ直す。

 

写真を封筒へ入れる。

 

「まだ、契約の話が残っている」

 

彼が姉へ言った。

 

「少し待ってくれ」

 

ロックの手が止まった。

 

坂東の同行者も、アレクセイを見た。

 

バラライカは弟を見つめた。

 

彼は気にせず、椅子を引いた。

 

「茶は、ミハイルに頼んである」

 

「私は茶を飲みに来たわけではない」

 

「なら、余計に待ってくれ。今は客と話している」

 

室内が静かになった。

 

ロックは、自分が何を訳すべきなのか一瞬分からなくなった。

 

坂東が小声で尋ねた。

 

「何と言った」

 

「商談が終わるまで、待ってくれと」

 

坂東の目が、アレクセイへ向いた。

 

バラライカは、やがて窓際の椅子へ腰を下ろした。

 

「続けろ」

 

アレクセイが頷く。

 

「ありがとう」

 

そのやり取りに、坂東は何も言わなかった。

 

だが、視線は先ほどよりも慎重になっていた。

 

ロックは契約書を開いた。

 

残るのは、次年度の使用面積と、修繕中に使う代替区画だった。

 

話は順調に進んだ。

 

面積。

 

日程。

 

費用。

 

責任の範囲。

 

坂東は必要なところだけ質問し、アレクセイも曖昧な返事をしなかった。

 

ロックは、通訳する言葉が少なくて済むことに気づいた。

 

二人とも、余計な飾りをつけない。

 

だからこそ、どちらが何を引き受けたかが分かりやすかった。

 

最後の書類を出そうとして、アレクセイが分厚い帳簿へ手を伸ばした。

 

右手は、契約書を押さえている。

 

自然に、左手が動いた。

 

帳簿が持ち上がる前に、別の手がそれを取った。

 

バラライカだった。

 

椅子を立ったことに、ロックは気づかなかった。

 

彼女は帳簿を机の中央へ置いた。

 

「左手を使うなと言っただろう」

 

アレクセイが姉を見上げる。

 

「今、商談中だ」

 

「右手は使える」

 

「書類を押さえている」

 

「離せばいい」

 

「……姉さん」

 

坂東が、ロックを見た。

 

今の呼び方は、聞き取れたらしい。

 

それでも確かめるように尋ねた。

 

「身内か」

 

ロックは頷いた。

 

「実の姉弟です」

 

坂東は、バラライカを見た。

 

次にアレクセイ。

 

顔立ちは、確かに似ている。

 

だが、外見の年齢差をどう考えても、さっきまでの会話と結びつかなかった。

 

ロックは小声で付け加えた。

 

「彼は三十四歳です」

 

坂東は、今度はロックの顔を見た。

 

冗談を言う場面ではない。

 

ロックも、冗談の顔をしていなかった。

 

短い沈黙のあと、坂東はアレクセイへ向き直った。

 

「さっきは、失礼した」

 

アレクセイはロックの訳を聞き、少し首を傾けた。

 

「何についてだ」

 

「坊主と呼んだ」

 

アレクセイの口元が緩んだ。

 

「倉庫の話を聞いてくれた。それで十分だ」

 

坂東は頷いた。

 

バラライカは二人を見ていた。

 

それから弟の包帯へ視線を戻した。

 

アレクセイが低く言った。

 

「大丈夫だ」

 

「何も聞いていない」

 

「顔で聞いてる」

 

ロックは、その部分を訳さなかった。

 

坂東も、尋ねなかった。

 

*

 

商談が終わると、ミハイルが茶を運んできた。

 

小さなグラス。

 

濃い茶。

 

砂糖。

 

坂東は受け取り、一口飲んだ。

 

甘くしなかった。

 

アレクセイも、自分の分へ手を伸ばす。

 

バラライカが机の帳簿を見る。

 

「三番は、まだ満室ではないのか」

 

弟の手が止まった。

 

「八割だ」

 

「残りは?」

 

「屋根を直してから貸す」

 

「業者は決まったのか」

 

アレクセイは姉を見た。

 

「俺の帳簿を、なぜ知ってる」

 

「共同で持っている物件があるだろう」

 

「それは二棟だけだ」

 

バラライカは茶を置いた。

 

「三棟目の話をしているのか?」

 

ロックは目を伏せた。

 

この応酬を、どこまで訳すべきか迷った。

 

坂東が少しだけ口元を動かした。

 

内容が全部分からなくても、姉弟の空気は伝わるらしい。

 

アレクセイが言った。

 

「誰から聞いた」

 

「屋根を直すなら、業者は選べ。前の男は仕事が遅い」

 

「ミハイルか」

 

管理人は、窓の外を見ていた。

 

アレクセイはボリスを見る。

 

軍曹は微動だにしない。

 

バラライカが言った。

 

「私を見ろ。今、話している」

 

弟は姉へ顔を戻した。

 

「自分で確認している」

 

「なら、見積もりを出させろ」

 

「今朝、言った」

 

「そうか」

 

彼女はそこで、ようやく話を止めた。

 

アレクセイは茶を飲んだ。

 

少し熱かったらしく、眉を寄せる。

 

バラライカがそれを見る。

 

彼は先に言った。

 

「吹いてから飲め、とは言わなくていい」

 

坂東が、低く咳払いをした。

 

笑いを抑えたのだと、ロックには分かった。

 

アレクセイは、少し疲れた顔で彼を見た。

 

「日本にも、こういう姉はいるか」

 

ロックが訳す。

 

坂東は茶を置いた。

 

「国は関係ねえだろうな」

 

短い返事だった。

 

バラライカはロックへ視線を向けた。

 

彼は、できるだけ平静に訳した。

 

彼女は何も言わなかった。

 

ただ、弟の前に置かれた砂糖の皿を、少し手前へ寄せた。

 

アレクセイはそれを使わなかった。

 

*

 

坂東たちを見送るため、ロックとアレクセイは階段を下りた。

 

バラライカは別の用事があるらしく、ボリスと事務所に残った。

 

倉庫の前には、午後の光が差していた。

 

作業員が荷物を運ぶ。

 

ミハイルが伝票を受け取り、何かを指示している。

 

一人の男が笑い、別の男が言い返した。

 

仕事は止まっていなかった。

 

坂東は車へ乗る前に、アレクセイへ向き直った。

 

「次も、あんたと話せばいいんだな」

 

ロックが訳す。

 

アレクセイは頷いた。

 

「倉庫の話なら、俺に」

 

「分かった」

 

坂東は上着の内側から、名刺を一枚出した。

 

今度は、ロックへ渡さなかった。

 

直接、アレクセイへ差し出す。

 

「日本へ来ることがあれば、連絡をくれ」

 

アレクセイは右手で受け取った。

 

文字を見る。

 

日本語の方は読めない。

 

裏返すと、連絡先が別の表記でも書かれていた。

 

「ありがとう」

 

彼も、鞄から小さなカードを出した。

 

派手な肩書きはない。

 

会社名。

 

名前。

 

電話番号。

 

坂東が受け取る。

 

一度、目を通す。

 

その扱いが、最初に部屋へ入ってきたときとは違っていた。

 

「屋根の件は、急いでくれ」

 

「次の雨までには」

 

「それは、約束か?」

 

アレクセイは空を見た。

 

雲が少し増えている。

 

彼は答えた。

 

「業者へ、今日もう一度言う」

 

坂東が笑った。

 

「安請け合いはしねえか」

 

「雨にも業者にも、命令が通らないことがある」

 

「違いねえ」

 

二人は握手した。

 

大きな手と、小さな手。

 

坂東は強く握りすぎなかった。

 

かといって、壊れ物を扱うようにも握らなかった。

 

アレクセイも、同じくらいの力で返した。

 

車の扉が開く。

 

坂東が乗り込む前に、ふと事務所の窓を見た。

 

バラライカが立っていた。

 

こちらを見ている。

 

坂東は軽く会釈した。

 

彼女も、ごくわずかに顎を引いた。

 

車が走り出す。

 

アレクセイは名刺を鞄へしまった。

 

ロックは、その動作を見ていた。

 

「どうだった?」

 

アレクセイが尋ねた。

 

「何が」

 

「俺の話し方だ。日本語にすると、妙なところはあったか」

 

ロックは少し考えた。

 

「いや。むしろ、訳しやすかった」

 

「ならよかった」

 

「ただ、最初の年齢の説明は」

 

「慣れてる」

 

アレクセイは答えた。

 

ロックは頷いた。

 

今日、何度も見たことだった。

 

見た目で、まず決められる。

 

そのあと、自分で話を進める。

 

相手が受け入れるかどうかを、無理に急がせない。

 

ただし、仕事に必要なところでは譲らない。

 

それを毎回やるのは、簡単ではないはずだった。

 

「疲れないか」

 

ロックが聞く。

 

アレクセイは車が消えた通りを見ていた。

 

「疲れる」

 

正直な返事だった。

 

「だが、毎回怒る方が、もっと疲れる」

 

*

 

二人は倉庫の脇を歩いた。

 

運河に面した側には、小さな出入口があった。

 

そこから、涼しい風が入ってくる。

 

水は綺麗ではない。

 

油が薄く浮き、岸にはごみが引っかかっていた。

 

それでも、船は通る。

 

荷物は動く。

 

人は働く。

 

アレクセイは手すりのそばで立ち止まった。

 

ロックも並ぶ。

 

しばらく、二人とも何も言わなかった。

 

やがてロックが口を開いた。

 

「それだけ収入があるなら」

 

アレクセイが顔を向ける。

 

「危険な仕事をやめることも、できるんじゃないか?」

 

声に、責める響きはなかった。

 

単純な疑問だった。

 

それだけに、アレクセイは答えを少し考えた。

 

「俺一人ならな」

 

ロックは彼を見た。

 

アレクセイは倉庫の中へ目を向けた。

 

ミハイルが、伝票を持って歩いている。

 

右脚を少し引きずりながら。

 

その近くには、昼食を終えた男たち。

 

使い込まれた靴。

 

汚れた作業着。

 

手押し車。

 

「ここを買ったとき、最初に言われたことがある」

 

アレクセイは話し始めた。

 

「誰の場所か、分かるようにしろと」

 

「看板を?」

 

「そういう意味ではなかった」

 

ロックは黙った。

 

アレクセイは続けた。

 

「建物を持っているだけでは、持ち続けられない街だ。勝手に荷物を置く者も来る。金を払わない者も来る。誰かを使って、管理人を脅す者もいる」

 

「ホテル・モスクワが守っている?」

 

「ああ」

 

彼は隠さなかった。

 

「俺が持っているものの中には、姉の名前で守られている部分もある」

 

「でも、自分の金で買ったんだろう」

 

「それも事実だ」

 

二つは矛盾しない。

 

そう言うような口調だった。

 

「だから、俺だけが何も知らない顔で抜けるわけにはいかん。ここで働く人間に、あとは頼むと言って去れば、いずれ別の誰かが支払うことになる」

 

ロックは手すりへ目を落とした。

 

錆びたところに、最近塗られた塗料が重なっている。

 

「じゃあ、ずっと続ける?」

 

アレクセイは少し笑った。

 

「ずっと銃を持つために、倉庫を買ったわけじゃない」

 

「そうか」

 

「いつか持てなくなる。俺も、ほかの連中も」

 

彼はミハイルを見た。

 

男は作業員の説明を聞き、帳簿を開いていた。

 

「そのとき、朝起きて行く場所があればいいと思った」

 

ロックは、管理人の机を思い出した。

 

使い込まれた椅子。

 

置き方の決まった書類。

 

仕事のある人間の手つき。

 

同情だけで用意された席には見えなかった。

 

「そのために、資産を?」

 

「全部を一つの理由で説明する気はない。金はあった方がいい。好きなものも買える」

 

アレクセイは言った。

 

「ただ、使ったら終わる金ばかりでは、困ると思った」

 

ロックは少し笑った。

 

「ちゃんと資産家なんだな」

 

「雨漏りの修理代で悩む程度には」

 

「もっと派手に暮らす人を想像してた」

 

アレクセイは自分のシャツを見た。

 

袖の端が、少し擦れている。

 

「派手な服を着ると、姉が買ったと思われる」

 

ロックは声を出して笑った。

 

アレクセイも、少しだけ笑った。

 

そのあと、彼は低く付け加えた。

 

「それに、姉もまだ仕事をしている」

 

ロックは笑うのをやめた。

 

アレクセイは運河の向こうを見ていた。

 

「俺だけ静かな場所へ行けば、あの人は安心するかもしれない」

 

「そうしないのか」

 

「本当に安心するかは、怪しい」

 

その答えに、ロックは思わず頷きかけた。

 

今日のやり取りを見ていれば、想像はついた。

 

遠くへ行けば、今度は遠くの心配をするのだろう。

 

アレクセイは手すりから離れた。

 

「今は、ここでやることがある」

 

言い切ってから、ロックへ顔を向けた。

 

「君は?」

 

「俺?」

 

「金が貯まったら、帰るのか」

 

ロックは答えられなかった。

 

日本へ。

 

どこへ。

 

元の会社へ戻るわけではない。

 

以前の自分へ戻れるわけでもない。

 

それでも、帰るという言葉には、まだ何かが残っていた。

 

「……分からない」

 

彼は言った。

 

アレクセイは頷いた。

 

「なら、今決めなくてもいい」

 

慰めのようには聞こえなかった。

 

今日決める必要のないことを、今日の机からどける。

 

商談のときと同じ、現実的な判断だった。

 

*

 

事務所へ戻ると、バラライカとボリスはいなくなっていた。

 

代わりに、机の上へ紙が一枚置かれていた。

 

業者の連絡先。

 

その下に、短いロシア語。

 

アレクセイが読み、眉を寄せる。

 

ロックが尋ねた。

 

「何て?」

 

「見積もりを取れ。契約は自分で決めろ、と」

 

「親切だな」

 

「知っている業者を、なぜ最初から言わない」

 

ミハイルが帳簿を閉じた。

 

「お前が、聞かなかったからだろう」

 

アレクセイは男を見た。

 

ミハイルは平然としていた。

 

「それと、昼食を忘れるなと言っていた」

 

「食べる」

 

「薬も」

 

「飲む」

 

「包帯を――」

 

「そこまで頼まれたのか?」

 

男は少し笑った。

 

「今のは、私からだ」

 

アレクセイは椅子へ座り、右手で額を押さえた。

 

ロックは窓際で笑った。

 

彼はすぐに、こちらを見る。

 

「そんなに面白いか」

 

「いや。大変だなと思って」

 

「笑いながら言うな」

 

ミハイルが、小さな封筒をロックへ渡した。

 

通訳料だった。

 

ロックは中を見て、顔を上げた。

 

「こんなに?」

 

アレクセイが頷く。

 

「日本語だけでなく、書類も見てもらった」

 

「でも、今日は」

 

「仕事をしただろう」

 

彼は言った。

 

「役に立った。時間も使った。払う理由は揃っている」

 

ロックは封筒を見た。

 

前の会社では、こういう言葉を聞くまでに、もっと多くの説明が必要だった気がした。

 

彼は封筒をしまった。

 

「ありがとう」

 

「こちらこそ」

 

アレクセイは机の電話を引き寄せた。

 

まず、業者へ。

 

次に、賃料の支払いが遅れている相手へ。

 

最後に、坂東側の担当者へ確認する書類を、ミハイルへ渡す。

 

ロックはそれを見ていた。

 

銃を持っていたときと、違う人間になったわけではない。

 

何を見るか。

 

どこで止めるか。

 

誰へ頼むか。

 

同じ判断が、違う場所で使われている。

 

電話を終えたアレクセイが立ち上がった。

 

「食べていくか」

 

ロックは時計を見た。

 

まだ、少し余裕があった。

 

「そうする」

 

ミハイルが階下へ声をかける。

 

返事がある。

 

少しして、作業員が紙に包んだパンを持ってきた。

 

アレクセイは包みを開いた。

 

一つ取る。

 

今度は、誰かへ渡す前に自分で食べた。

 

ロックは、それを見てから自分の分へ手を伸ばした。

 

*

 

夕方、坂東は宿泊先で書類を見直していた。

 

補償案。

 

契約更新。

 

使用面積。

 

修繕の日程。

 

必要なものが、必要な順番で揃っている。

 

同行していた若い男が、窓際で煙草を吸っていた。

 

「驚きましたね」

 

坂東は顔を上げなかった。

 

「何が」

 

「あの子供が、持ち主だったとは」

 

紙をめくる音が止まった。

 

坂東が若い男を見る。

 

「子供じゃねえと、聞いただろう」

 

「見た目の話です」

 

「それで話を間違えるな」

 

男は口を閉じた。

 

坂東は契約書へ目を戻した。

 

相手の顔。

 

声。

 

背丈。

 

そういうものから、分かることはある。

 

だが、それだけで決めたせいで見落とすこともある。

 

今日、自分も一度やった。

 

二度は必要ない。

 

彼はアレクセイから受け取ったカードを出した。

 

会社名。

 

名前。

 

電話番号。

 

飾り気のない紙だった。

 

同行者が言った。

 

「バラライカの弟だから、あれだけ持てるんでしょうか」

 

坂東はカードを見ていた。

 

しばらくして、答えた。

 

「それもあるだろうな」

 

男が頷きかける。

 

坂東は続けた。

 

「だが、姉貴の名前だけで商売をするなら、あんな面倒な話はしねえ」

 

「面倒な話?」

 

「自分の不始末を認めて、払う分を決める。相手の分は、きっちり請求する。現場へ下りて、屋根まで見せる」

 

坂東はカードを財布へしまった。

 

「脅して終わらせた方が、楽だろうよ」

 

若い男は黙った。

 

坂東は書類を封筒へ戻した。

 

最後に、修繕の見積もりをもう一度見る。

 

アレクセイは、雨が降るまでに終わるとは約束しなかった。

 

今日、業者へ連絡すると言った。

 

できることと、できないことを分けていた。

 

その分だけ、実際に言った言葉は信用できる。

 

坂東は椅子にもたれた。

 

「次も、あの男を通す」

 

若い男が顔を上げる。

 

「はい」

 

窓の外で、ロアナプラの夜が始まっていた。

 

坂東は煙草に火をつけた。

 

日本から来る前、この街で何が一番厄介かと聞いた。

 

銃の数。

 

警察。

 

組織の力関係。

 

いろいろな答えがあった。

 

だが今日、一つだけ確かめたことがある。

 

人を見るとき、最初の印象だけで席順を決めない方がいい。

 

特に、恐ろしい女幹部へ向かって、商談が終わるまで待てと言える男については。

 

*

 

その頃、アレクセイはバラライカの事務所にいた。

 

報告は短かった。

 

契約はおおむね合意。

 

補償の明細は確認待ち。

 

修繕業者には連絡済み。

 

三番倉庫の未払い分は、週末までに入る予定。

 

バラライカは聞き終え、頷いた。

 

「日本の客は?」

 

「話が通じる」

 

「気に入ったか」

 

「仕事が進めやすい」

 

「そうか」

 

彼女は書類へ目を戻した。

 

アレクセイは席を立ちかけた。

 

そこで、姉が言った。

 

「三番の修繕費が足りなければ、言え」

 

弟は振り返った。

 

「足りる」

 

「そうか」

 

「予備費も残してある」

 

「分かった」

 

「姉さん」

 

バラライカが顔を上げる。

 

アレクセイは少し迷ってから言った。

 

「俺の分は、俺でやれる」

 

彼女は弟を見た。

 

小柄な身体。

 

古い鞄。

 

包帯の巻かれた手。

 

今日、一日かけて金の話をまとめてきた男の顔だった。

 

バラライカはペンを置いた。

 

「知っている」

 

返事は短かった。

 

アレクセイは、もう一言何か言おうとした。

 

だが、彼女が続けた。

 

「できるかどうかと、必要なら助けることは別だ」

 

弟は黙った。

 

バラライカは再び書類へ目を落とした。

 

「用が済んだなら、帰って休め。明日も屋根は逃げん」

 

アレクセイは小さく笑った。

 

「業者は逃げるかもしれない」

 

「なら、朝に電話しろ」

 

「分かった」

 

彼は扉へ向かった。

 

開ける前に、振り返る。

 

「連絡先、助かった」

 

バラライカは顔を上げなかった。

 

「請求書は、お前へ送らせる」

 

「そのつもりだ」

 

扉が閉まった。

 

彼女は少ししてから、机の横へ目を向けた。

 

そこには、港の物件資料が一冊置かれていた。

 

三番倉庫。

 

屋根の状態。

 

周囲の道路。

 

修繕履歴。

 

弟が自分で買い、自分で管理している建物だった。

 

バラライカは資料を閉じた。

 

表紙には、小さな紙片が挟まれていた。

 

業者へ伝えたことが、短く書かれている。

 

――所有者へ直接説明すること。私を通す必要はない。

 

彼女は紙片を中へ戻した。

 

そして、何事もなかったように次の書類を開いた。

 

幕間一・五話・了

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