BLACK LAGOON ―姉さん、俺はもう大人だ― 作:いっしきさん
第三話 帰ってくる場所
翌朝、バラライカが目を覚ましたとき、肩に上着がかかっていた。
自分のものではない。
袖が短い。
布地には、雨と煙草と、わずかに消毒薬の匂いが残っていた。
彼女はしばらく、それを見ていた。
隣の椅子は空だった。
机には古い写真が立てかけられたままになっている。輸送車の前に並ぶ兵士たち。その端に、自分と弟がいた。
バラライカは上着を膝へ下ろした。
向かいの簡易ベッドで、モロゾフがこちらを見ていた。
「何だ」
彼女が尋ねると、老人は眼鏡をかけた。
「いや」
「言いたいことがある顔だ」
「眠っているところを見るのは、久しぶりだと思ってな」
バラライカは時計を見た。
午前六時を少し回っている。
予定より長く眠っていた。
しかも椅子の上で。
彼女は眉を寄せた。
「あいつは?」
「診療所の患者のところだ。朝食を持っていった」
「左手を使っていなかったか」
モロゾフは黙った。
その沈黙で、彼女は顔を上げた。
老人が笑っている。
「何がおかしい」
「いや。懐かしくてな」
バラライカは上着を畳んだ。
「昔話なら、あとにしろ」
「昔も、同じことを聞かれた」
彼女の手が止まる。
モロゾフは窓の外へ目を向けた。
「熱はないか。薬は飲んだか。傷は塞がったか。本人より、お前の方が診療所へよく顔を出していた」
「部隊の健康状態を把握するのは指揮官の仕事だ」
「そうだったな」
老人は素直にうなずいた。
素直すぎるうなずきだった。
バラライカは、返事をしなかった。
廊下から足音がした。
扉が開き、アレクセイが入ってくる。
右手に紙袋。左手には何も持っていない。
姉の視線がそこへ落ちると、彼は呆れた顔をした。
「見れば分かるだろう」
「何の話だ」
「何でもない」
弟は紙袋を机に置いた。
パンと、蓋のついた容器。
「食堂で貰ってきた。先生も食べてくれ」
モロゾフがベッドから足を下ろした。
バラライカは弟へ上着を差し出す。
「これは、お前のだ」
「知ってる」
「勝手にかけるな」
アレクセイは受け取った。
肩に羽織り、袖を整える。
それから、姉の顔を見た。
「よく眠れた?」
バラライカは答えなかった。
弟は少し笑った。
「それならよかった」
モロゾフが、わざとらしく咳払いをした。
バラライカは二人を順に見た。
「……朝から、随分と暇そうだな」
*
事務所へ戻ると、ボリスが報告を待っていた。
船具店の男の名は、レオニード・グラチョフ。
表向きは中古機械の仲介業者。実際には、紙切れに価値があると見れば何でも売る男だった。
輸出許可証。
船員手帳。
診断書。
他人の借金を、別の人間の名義へ移す書類。
モロゾフの記録も、その一つに過ぎなかった。
「昔の部隊に関わりがあったわけではないのか」
アレクセイが尋ねた。
「ありません。医師から聞いた話を、使える情報だと判断したようです」
ボリスは机に封筒を置いた。
「国外へ送った写しの宛先も確認しました。架空の治療を斡旋する仲介先です。診療記録だけでなく、資産家の病歴を集めていました」
バラライカが封筒を開く。
アレクセイは、中を覗かなかった。
自分に関するものだけ受け取ればいい。
他人の身体まで、勝手に見たいとは思わなかった。
「製氷工場の連中は」
バラライカが聞いた。
「金で雇われた者たちです。弟君を連れてくれば報酬を払う、と」
「弟君はやめてくれ、軍曹」
アレクセイが言った。
ボリスは表情を変えなかった。
「相手の言い方です」
「なら、相手には名前を覚えさせておけ」
「その機会があれば」
バラライカが書類を閉じた。
「医者の借金は?」
「帳簿上の数字の大半が、あとから加えられています。利息も実在しない費用も」
「取り立てに来る人間は、もういないな」
「手配済みです」
彼女はうなずいた。
それ以上の説明は求めなかった。
アレクセイも聞かなかった。
ここが病院ではないことを、三人とも理解していた。
「診療所はどうする」
姉が弟に尋ねた。
アレクセイは少し考えた。
「先生に決めてもらう。だが、今の場所へ戻すなら、看板と契約は整理した方がいい」
「人を置くか」
「医者が嫌がらない程度にな」
「お前が毎日見に行けば済む、とは言わんのか」
弟は姉を見た。
「それじゃ、仕事にならん」
バラライカの口元がわずかに動いた。
「そうだな」
ボリスが、もう一通の封筒を出した。
「こちらは、ラグーン商会へ」
報酬だった。
アレクセイが右手を出す。
「持っていく」
バラライカの視線が動いた。
弟は先に言った。
「昼前には戻る。車で行く。左手は使わない。途中で知らない人についていかない」
ボリスが、ほんのわずかに俯いた。
バラライカは弟を見つめた。
「最後の一つだけ守ればいい」
「信用がないな」
「昨日までの行動を思い出せ」
アレクセイは封筒を受け取った。
反論はしなかった。
*
ラグーン商会の事務所では、レヴィが窓を開けようとしていた。
窓は動かなかった。
何かが噛んでいるらしい。
彼女は枠を叩き、もう一度持ち上げ、最後に悪態をついた。
「朝から賑やかだな」
入口からアレクセイが言うと、レヴィが振り向いた。
「修理代を持ってきたのか?」
「昨日の報酬だ」
「なら、修理代にできるな」
ロックが机から立ち上がった。
「おはよう。手はどうだ?」
「順調だ。君まで毎回確かめなくていい」
「ごめん」
「謝ることでもない」
アレクセイはダッチへ封筒を渡した。
ダッチは中を確かめ、眉を少し上げた。
「気前がいいな」
「書類を見る目に金を払ったそうだ」
ロックが困ったように笑う。
「古い会社名を知ってただけなんだけど」
「知らなければ、それで終わりだ」
アレクセイは言った。
「銃で解決できるなら、レヴィを二人雇えば済む」
「私が二人いたら、街が先に壊れるぜ」
「だから一人でいい」
ベニーが机の向こうで笑った。
アレクセイは、右手に持っていた小さな紙包みをロックへ渡した。
「これは個人的に」
中には白いハンカチが入っていた。
飾りのない、丈夫そうなものだった。
ロックは顔を上げた。
「本当に、気にしなくてよかったのに」
「君はそう言った。俺は返したかった」
ロックは包みを閉じた。
「ありがとう」
今度は、それだけにした。
アレクセイが満足そうにうなずく。
レヴィが横から覗いた。
「ガキの使いにしちゃ、律儀だな」
「ガキの使いじゃない。本人が来ている」
「言うじゃねえか」
ダッチが椅子にもたれた。
「医者は?」
「無事だ。患者も」
「なら、仕事は終わりだな」
「ああ」
そう答えてから、アレクセイはロックを見た。
「このあと、時間はあるか」
ロックが時計を確かめる。
「急ぎの仕事はないけど」
「市場まで付き合ってくれ」
レヴィが露骨に面白そうな顔をした。
「また保護者が必要なのか?」
「荷物を持つ手が足りない」
アレクセイは包帯を示した。
「医者に叱られたくないからな」
「姉貴だろ」
「両方だ」
ロックが立ち上がった。
ダッチを見ると、彼は片手を上げた。
「昼過ぎには戻れ。港へ行くぞ」
「分かった」
アレクセイは腕時計を見た。
「俺も昼前に戻れと言われている」
レヴィはとうとう声を上げて笑った。
*
市場は朝から混んでいた。
通路に張り出した籠。
氷の上に並べられた魚。
湯気を上げる鍋。
裸電球の下で、肉屋の男が新聞を読んでいる。
アレクセイは迷わず歩いた。
ロックが後ろからついていく。
彼は目立った。
白い肌と金髪。それに、子供に見える外見。
店の人間が二人を見比べると、たいてい先にロックへ声をかけた。
アレクセイは慣れた様子で、その間へ自分の言葉を入れた。
短いタイ語。
ロックには意味が分からなかったが、店主の態度が変わるのは分かった。
年齢を説明しているわけではないらしい。
買う物と値段を、普通に話している。
ある店では、ロックへ渡されかけた釣り銭を、アレクセイが横から受け取った。
また別の店では、老人が彼の顔を覚えていた。
何かを言われて、彼は苦笑した。
「何て?」
ロックが尋ねる。
「久しぶりだと」
「それだけ?」
「前より少し太ったと言われた」
ロックは思わず彼を見た。
アレクセイが目を細める。
「確認しなくていい」
「悪い」
買ったものは、茶葉と果物と小さな菓子だった。
あの患者と娘に持っていくのだという。
「女の子、何歳なんだ?」
「十一だそうだ」
「家族は?」
「父親と二人。親戚が郊外にいる。連絡はついた」
ロックは両手の袋を持ち直した。
昨日、少女がアレクセイを見たときの顔を思い出す。
自分と変わらないように見える相手が、急に大人の言葉で周囲を動かした。
戸惑うのも当然だった。
「君のこと、何て呼んでた?」
「先生」
ロックは笑いかけ、途中で止めた。
「医者だと思われた?」
「白い包帯をしていて、病室に出入りしているからな」
「訂正した?」
「ああ。医者ではないと」
「それでも?」
「それでも先生だ」
アレクセイは少し考えた。
「名前を覚えるまでだろう」
市場を抜けたところで、二人は飲み物を買った。
アレクセイは瓶入りの炭酸水。
ロックは缶のコーヒー。
栓を開けようとした店主を、アレクセイが右手で止めた。
ロックを見る。
「今日は、先に開けてもらえる」
「俺がいなくても?」
「ああ。だが、いてくれて助かる」
彼はロックの持つ袋を示した。
昨日までの緊張が、少し遠のいていた。
ロックは歩道の縁に立ち、冷たい缶を額に当てた。
「こういう仕事もするんだな」
「買い物か?」
「いや。誰かの面倒を見たり」
アレクセイは瓶を口から離した。
「軍では、そればかりだった」
「戦うことより?」
「弾が飛んでいない時間の方が長い。食わせる。寝かせる。靴を乾かさせる。くだらない喧嘩を止める」
少し笑う。
「命令を出すより、風呂へ行かせる方が難しい奴もいた」
ロックも笑った。
「今も?」
「今もいる」
言い方が具体的だった。
顔が浮かんでいるのだろう。
「姉さんも、そういうことを?」
アレクセイは炭酸水を飲んだ。
「昔からだ」
「意外だな」
「世話を焼く顔をしていないだけだ」
ロックは、バラライカの顔を思い浮かべた。
確かに、そのとおりだった。
*
昼前に事務所へ戻ると、食堂の端で兵士が二人、言い争っていた。
一人は大柄で、鼻の脇に古い傷がある。
もう一人は痩せていて、袖を肘までまくっていた。
机の上には、分解しかけの扇風機。
その羽根を挟んで、二人とも真剣な顔をしている。
「だから、その部品は余らないんだ」
「外したときからあった」
「外す前には、余っていなかっただろう」
アレクセイが近づいた。
「何を壊した」
二人が振り返る。
大柄な方が、すぐに言った。
「修理です」
「質問を変える。何を修理しようとして壊した」
痩せた方が笑った。
大柄な男が睨む。
アレクセイは机を見て、ため息をついた。
「専門の人間を呼べ。感電して医者の仕事を増やすな」
「あと少しで動きます」
「その『あと少し』を、先月も聞いた」
ロックは、少し離れて見ていた。
二人の男は、アレクセイを子供扱いしなかった。
しかし、上官の前で畏まるばかりでもない。
古い付き合いのある相手への遠慮と、気安さが同居していた。
アレクセイがロックを手招きした。
「紹介する。大きい方がサーシャ。余った部品を隠す方がイワン」
「隠してません」
イワンが言う。
サーシャがロックへ手を差し出した。
「日本人か」
「ロックです」
「知っている。昨日、役に立ったそうだな」
握手は痛いほど強かった。
イワンも手を出した。
こちらは指が油で汚れていた。
握る直前に気づき、ズボンで拭こうとする。
アレクセイが止めた。
「洗ってこい」
「大丈夫だ」
「ロックの方が大丈夫じゃない」
イワンは素直に流しへ向かった。
サーシャが、机の椅子を足で引いた。
「食べていくか」
ロックは時計を見た。
「少しなら」
アレクセイも椅子に座る。
すぐに食堂の女が、深い皿を二つ運んできた。
スープだった。
肉と野菜が入っている。
ロックは礼を言い、スプーンを取った。
アレクセイの前には、それに加えてパンが二つ置かれた。
彼が顔を上げる。
食堂の女は肩をすくめた。
「上から」
アレクセイは天井を見た。
サーシャが笑った。
「大尉からだな」
「建物の構造を聞いたわけじゃない」
「残すと報告されるぞ」
「食べる」
彼はパンを一つ割った。
サーシャはその様子を見ながら、何か思い出したように笑った。
「昔、お前の分を食ったことがあったな」
アレクセイが顔を上げる。
「一度じゃない」
「大尉が来てな」
イワンが、手を拭きながら戻ってきた。
「ああ。あれか」
ロックは二人を見る。
サーシャは声を少し低くした。
「『部下の食糧を奪うほど、配給が足りないのか』と聞かれた」
イワンが続ける。
「それで、こいつは自分の缶詰を全部差し出した」
「全部じゃない」
「ほとんど全部だ」
アレクセイはスープを飲んでいた。
抗議する様子はない。
ロックが尋ねる。
「本当に、食べられたのか?」
「俺が渡した」
二人の笑いが止まった。
アレクセイはスプーンを置く。
「サーシャは、二日前からほとんど食っていなかった」
サーシャが目をそらした。
イワンはパンを取った。
「それを言えばよかったんだ」
「言った」
「大尉に?」
「あとでな」
ロックは聞いた。
「それで?」
アレクセイは淡々と答えた。
「俺も叱られた」
サーシャが吹き出した。
イワンも笑った。
アレクセイは呆れたように二人を見たが、口元は少し緩んでいた。
ロックは、スープの湯気越しにその顔を見た。
ここには、彼を説明なしで知っている人間がいる。
年齢を言わなくてもいい。
強さを示さなくてもいい。
同じ失敗を覚えていて、同じ話で笑える相手がいる。
戦友という言葉の意味が、少し分かった気がした。
*
昼食のあと、サーシャは小さな紙袋をアレクセイへ渡した。
「これは?」
「診療所の子に」
中には、安い色鉛筆が入っていた。
箱の角が潰れている。
店頭で長く置かれていたものらしかった。
アレクセイが顔を上げる。
サーシャは扇風機を見ていた。
「暇だろう。病室は」
「ありがとう。渡しておく」
「俺からだとは言わなくていい」
「なぜ?」
「別に」
イワンが笑いかけたので、サーシャは肘で小突いた。
ロックは、そのやり取りを見ないふりをした。
アレクセイは色鉛筆を袋へ戻した。
「二人は今日、どこへ?」
「南の倉庫です」
イワンが答える。
「受け取りの確認と、集金を一件」
「遅くなるか」
「夕方までには戻ります」
サーシャが扇風機を抱えた。
「帰ったら直す」
「人を呼べと言っただろう」
「見積もりを聞いてからです」
アレクセイは首を振った。
二人は笑いながら食堂を出ていった。
ロックは時計を見た。
そろそろ戻らなければならない。
アレクセイが玄関まで送った。
「今日は助かった」
「荷物持ちくらいなら」
「そういう仕事も必要だ」
ロックは階段を降りかけ、振り返った。
「いい人たちだな」
アレクセイはすぐには答えなかった。
通りの音が、二人の間を通った。
やがて彼は言った。
「俺にはな」
ロックは、その意味を考えた。
サーシャとイワンが何をする人間なのか、忘れたわけではない。
銃を持つ。
命令を受ける。
誰かを傷つけることも、あるのだろう。
それでも、さっきの笑いが嘘だったとは思えなかった。
「……そうだな」
ロックが言うと、アレクセイは軽くうなずいた。
「また来い。今度は、修理された扇風機が見られるかもしれない」
「直れば?」
「直れば」
*
午後、モロゾフはアレクセイの記録を机に広げた。
場所は診療所ではなく、ホテル・モスクワが用意した小部屋だった。
窓があり、清潔な机があり、椅子が三脚。
三脚目を見て、アレクセイは老人の顔を見た。
モロゾフは何も言わなかった。
案の定、数分後にバラライカが入ってきた。
弟は椅子の背にもたれた。
「仕事は?」
「一区切りついた」
「偶然だな」
「そうだな」
彼女は三脚目の椅子へ座ろうとした。
モロゾフが先に尋ねた。
「同席しても構わんか、アレクセイ」
バラライカの動きが止まった。
弟は姉を見た。
彼女は何も言わなかった。
少し考えてから、アレクセイはうなずいた。
「最初はいい。途中で出ていってもらうことはあるかもしれない」
「そのときは、そう言ってくれ」
モロゾフが答えた。
バラライカは座った。
普段、人に許可を取られてから席につくことなど、ほとんどない女だった。
それでも、何も言わなかった。
診察は地味なものだった。
昔の記録の確認。
最近の体調。
食事と睡眠。
頭痛や倦怠感があるか。
傷が治るまでに、以前と違うことがあるか。
バラライカが一度口を開きかけた。
モロゾフは彼女を見た。
「本人に聞いている」
アレクセイは俯いた。
笑うのをこらえたのだと、姉には分かった。
彼女は腕を組んだ。
そのあとは黙っていた。
一通り話を終えると、老人は眼鏡を外した。
「詳しく調べるには、ここにない設備が要る。検査先を探すことになる」
「急ぐのか?」
アレクセイが尋ねた。
「今の話だけで、緊急性があるとは言えん。ただ、放ってよいと決めつけることもできん」
弟はうなずく。
バラライカも、今度は横から口を出さなかった。
モロゾフは古い記録を一枚めくった。
「それと、過去の記録だけでは、原因を一つに決めることはできない。あの頃は、調べられなかったことが多すぎた」
「戦争のせいだと、みんな言った」
アレクセイが言う。
「間違いだとも言えん。だが、その一言で済ませてしまった部分もある」
老人は紙を置いた。
「分からないものを、分かったことにはしたくない」
アレクセイは少し笑った。
「昨日の仲介屋にも、聞かせてやりたいな」
モロゾフも笑った。
バラライカだけが、記録を見ていた。
そこに書かれた数字が、昔から何一つ変わっていないように見えているのかもしれなかった。
アレクセイは椅子の上で姿勢を変えた。
「姉さん」
彼女が顔を上げる。
「このあとは、先生と二人で話す」
一瞬だけ、沈黙があった。
しかし彼女は立ち上がった。
「分かった」
扉へ向かう。
途中で振り返るかと思ったが、振り返らなかった。
扉が閉まる。
アレクセイは息を吐いた。
モロゾフが言う。
「努力しているな」
「俺が?」
「お前たちが」
弟は、閉じた扉を見た。
否定はしなかった。
*
夕方、診療所の少女は色鉛筆を使っていた。
ベッドの脇に置かれた机に、紙が何枚も並んでいる。
父親は枕を高くして座り、娘の手元を見ていた。
熱はまだあるが、昨日より顔色がよかった。
アレクセイが入ると、少女は紙を伏せた。
「隠すほどひどいのか?」
英語で尋ねると、少女は慌てて首を振った。
それから紙を持ち上げた。
車だった。
黒い車。
その横に、金色の髪をした小さな人影が立っている。
アレクセイは紙を受け取った。
「俺か」
少女はうなずいた。
父親が何か言った。
娘は少し恥ずかしそうに、言葉を足した。
「先生じゃない先生」
アレクセイは笑った。
「難しい名前だな」
絵の中の自分には、左手に白いものが巻かれていた。
観察が細かい。
そして、自分の隣には大きな男が二人いた。
一人は眼鏡。
もう一人は、顔の半分に赤い線が描かれている。
アレクセイは眉を上げた。
「これは?」
少女は扉を指した。
廊下の向こう。
姉がいる方だった。
「怒ってる人」
父親が慌てて娘の肩を押さえた。
アレクセイは声を出さずに笑った。
「女の人だぞ」
少女が目を丸くした。
それから、紙を取り戻そうとする。
アレクセイは少し持ち上げた。
「いや。このままでいい」
「直す」
「本人には、俺から説明する」
少女は不安そうだった。
アレクセイは絵を眺めた。
赤い線。
大きな身体。
怒っている顔。
それでも、その人影は車の扉を開けていた。
中にいる父親と娘を、外から守るように立っている。
「よく描けてる」
彼は言った。
今度は、冗談ではなかった。
少女は小さく笑った。
父親が礼を言った。
何度も言おうとするので、アレクセイは片手を上げた。
「元気になってからでいい」
部屋を出ると、ボリスが廊下にいた。
アレクセイは絵を見せた。
ボリスは自分らしき人影を見つけ、眉をわずかに動かした。
「似ているな」
弟が言う。
「そうでしょうか」
「姉さんよりは」
ボリスの視線が赤い線の人物へ移る。
彼は、長い沈黙のあとに言った。
「お渡しになるのですか」
「もちろん」
「……ご健闘を」
アレクセイは笑いながら歩き出した。
そのときは、まだ、サーシャとイワンが戻っていないことを知らなかった。
*
事務所には、夕方の光が差し込んでいた。
バラライカは電話を終えたところだった。
アレクセイが絵を置くと、彼女は最初に全体を見た。
次に、赤い線のある人影を見た。
最後に弟を見た。
「お前が何か言ったのか」
「何も」
「本当か」
「本人は、見たままを描いたそうだ」
バラライカはもう一度絵を見た。
しばらくして、机の端へ移した。
書類の下ではない。
何も置かれていない場所だった。
アレクセイは、それを見ても何も言わなかった。
「父親の状態は?」
姉が尋ねる。
「よくなっている。先生は、まだ様子を見ると」
「親戚の迎えは明後日だ」
「聞いた」
弟は隣の椅子に座った。
そのとき、窓の外で車が停まった。
アレクセイが顔を向ける。
見覚えのある車だったが、降りてきたのは別の兵士だった。
彼は時計を見た。
「サーシャたちは?」
「南の倉庫へ行っている」
「まだ?」
バラライカが弟を見る。
アレクセイは続けた。
「夕方までには戻ると言っていた」
彼女は内線を取った。
短い確認。
少し待って、返事を聞く。
受話器を置いたときには、表情が変わっていた。
「予定の確認が一件増えたそうだ。連絡は入っている」
「誰に?」
「倉庫の係だ」
「本人から?」
バラライカは弟を見つめた。
アレクセイは机へ近づいた。
「二人は、予定が変わればこちらへ入れる。係にだけ伝える理由がない」
彼女はもう一度電話を取った。
今度はボリスを呼んだ。
弟は窓際へ移った。
外では、夕食の屋台が準備を始めている。
人が歩く。
車が走る。
何も変わっていない街だった。
それが、少しだけ不気味だった。
ボリスが入ってくる。
手には、簡単な行程を書いた紙。
「最後の確認は、午後四時十五分です」
「誰が聞いた」
バラライカが尋ねる。
「南倉庫の係です。イワンが、近くで伝票を受け取ると」
「近くとは」
「調べています」
アレクセイが紙を受け取った。
最初の荷受け。
次の集金。
その後は、帰るだけだった。
新しい仕事を引き受ける予定はない。
「その伝票は、誰が渡すことになっていた」
ボリスは首を振った。
「係は知らないと」
アレクセイは時計を見た。
最後の連絡から、すでに一時間半以上経っていた。
*
電話は、何度鳴らしてもつながらなかった。
携帯電話の調子が悪いこともある。
電池が切れることもある。
相手が眠っていることも、酒を飲んでいることも。
この街では、連絡がつかない理由はいくらでも作れた。
だが、仕事中の二人については、その説明がどれも合わなかった。
サーシャは粗雑だったが、仕事の区切りだけは守った。
イワンは軽口が多かったが、帰りが遅れるときには必ず連絡を入れた。
その癖を、アレクセイは知っていた。
紙の予定表より、長く見てきた習慣の方が頼りになることがある。
「車を出す」
彼が言うと、バラライカは止めなかった。
「軍曹と行け」
「分かった」
「現地で何か見つけても、連絡を先に入れろ」
「了解」
弟は扉へ向かった。
バラライカが名前を呼ぶ。
「アレクセイ」
彼は振り返った。
彼女の視線が、左手の包帯へ落ちた。
ほんの一瞬。
しかし、今度はそれについて何も言わなかった。
「二人を連れて戻れ」
弟はうなずいた。
「そのつもりだ」
*
南の倉庫は、もう片づけを始めていた。
係の男は、ボリスの顔を見ると説明を繰り返した。
サーシャとイワンは予定どおりに来た。
荷物も金も問題はなかった。
帰ろうとしたところへ、伝言があった。
近くの酒場で、追加の伝票を預かっているという。
「誰からだ」
アレクセイが尋ねる。
男は口を開きかけ、閉じた。
「名前は」
「聞かなかったのか」
「いつもの関係者だと思って」
ボリスが一歩近づいた。
それだけで、係の男の声が小さくなった。
アレクセイは酒場の名前を聞いた。
知っている店だった。
港湾労働者が多く、昼間は食事も出す。
無関係な場所ではない。
だから二人も向かったのだろう。
ただ、それでも何かがおかしかった。
「伝言を持ってきたのは、大人か」
アレクセイが尋ねた。
係の男が瞬きをする。
「いや……子供でした」
ボリスが弟を見た。
アレクセイは表情を変えなかった。
この街では珍しくない。
子供は物を売り、荷物を運び、伝言を届ける。
それだけで疑う理由にはならない。
「一人?」
「ええ。小さな」
「男か、女か」
係の男は困った顔をした。
「よく見ていませんでした」
アレクセイは追及しなかった。
大人が子供をどう見るか、よく知っていた。
用件だけ聞いて、顔を忘れる。
人間ではなく、伝言の入った袋のように扱う者もいる。
「分かった」
彼はボリスへ向いた。
「酒場へ」
*
酒場の扉は閉まっていた。
まだ、閉店する時間ではなかった。
看板の明かりだけがついている。
窓には内側からカーテン。
通りを挟んだ向かいの店では、男たちが夕食を取っていた。
ボリスが近所の者に話を聞いている間、アレクセイは店の前に立った。
静かだった。
冷蔵庫の低い音が聞こえる。
中に人がいる気配は、分からない。
路地側へ回ると、見覚えのある車があった。
サーシャが運転していた車だ。
駐車の仕方が雑だった。
車体が少し斜めになり、後輪が縁石に近すぎる。
イワンなら、文句を言っただろう。
いつもなら、降りる前に言う。
アレクセイは窓から中を見た。
前の席に書類。
後ろに、修理に出すはずだった扇風機が積まれている。
まだ、持ち歩いていたらしい。
昼間の言い争いが蘇った。
あと少しで動きます。
その言葉が、不意に胸へ重く落ちた。
「見つかったか」
ボリスが来た。
アレクセイは車を示す。
彼の顔も変わった。
「大尉へ連絡します」
「ああ」
アレクセイは視線を下げた。
車の脇に、小さな紙袋が落ちていた。
食堂の売店で使っているものだった。
中には飴が二つ。
泥で汚れている。
サーシャのものか、イワンのものか。
それは分からない。
だが、昼に受け取った色鉛筆の袋と同じ紙だった。
アレクセイは拾わなかった。
そのまま見ていた。
ボリスが通信を終える。
「増援が来ます。大尉も」
「店の主人は?」
「午後から姿を見ていないそうです。閉めるという話も、周囲にはしていない」
アレクセイは酒場の裏口を見た。
扉の下に、薄く明かりが漏れていた。
その向こうから、何かが擦れる音がした。
椅子か。
箱か。
分からない。
二人は黙った。
もう一度。
今度は、小さな衝撃音。
続いて、低い声。
男の声だった。
言葉までは聞き取れない。
しかしアレクセイは、知っている声だと思った。
イワン。
そう思った瞬間、身体が前へ出かけた。
ボリスの手が、彼の肩に触れた。
強くはつかまない。
ただ、そこにあると知らせるだけだった。
アレクセイは止まった。
息を吸う。
ゆっくり吐く。
中にいる。
少なくとも、一人は。
その事実を、順番に考えなければならなかった。
店の奥で、別の声がした。
高い声。
子供のものに聞こえた。
何かを楽しそうに話している。
言葉は、まだ分からない。
アレクセイはボリスを見た。
大柄な軍曹も、聞いていた。
二人とも、何も言わなかった。
*
バラライカは車を降りるなり、弟の顔を見た。
次に、店の扉。
それから、路地の車。
余計な質問はしなかった。
「生きているのか」
アレクセイが答えた。
「中から声がした。イワンだと思う」
「サーシャは」
「まだ分からない」
彼女はうなずいた。
ボリスが短く状況を伝える。
近隣の者を離れさせたこと。
裏にも人を回したこと。
店から出た者は、今のところ見ていないこと。
バラライカは最後まで聞いた。
その横で、アレクセイは裏口を見ていた。
夕方の市場。
食堂のスープ。
壊れた扇風機。
色鉛筆。
数時間前のことが、妙にはっきり思い出された。
こういうとき、人は大げさな思い出を探すのだと思っていた。
一緒に銃弾をくぐり抜けた日。
負傷した仲間を運んだ夜。
食糧が尽きた朝。
しかし今、浮かぶのは、サーシャが色鉛筆を差し出した手だった。
俺からだとは言わなくていい。
あの照れた顔。
イワンが油のついた手を、ズボンで拭こうとしたこと。
洗ってこいと言えば、素直に従ったこと。
それらが、帰ってこなければ終わってしまう。
アレクセイは右手を開いた。
一度、握る。
左手の傷が鈍く痛んだ。
それは、かえってよかった。
今ここにいることを思い出せた。
バラライカが近づいた。
「何を考えている」
「扇風機だ」
彼女は眉を動かした。
アレクセイは車を顎で示した。
「サーシャが、帰ったら直すと言っていた」
バラライカは後部座席を見た。
壊れた扇風機。
そこへ視線を止めたまま、低く言った。
「直させろ」
弟は姉を見た。
彼女も弟を見た。
慰めではなかった。
命令だった。
その方が、今は助かった。
アレクセイは短くうなずいた。
「了解」
*
酒場の中で、サーシャは目を開けていた。
頭が重い。
口の中に、嫌な味が残っている。
手足が自由にならない。
何が起きたかを思い出そうとすると、途中から記憶が途切れた。
店に入った。
伝票を頼んだ。
何かがおかしいと、イワンが言った。
そのあとだった。
視界の端に、相棒の靴が見える。
動いた。
生きている。
サーシャは、まずそれを確かめた。
自分のことは、その次でよかった。
目の前には、小さな靴があった。
一足。
その向こうに、もう一足。
子供だ。
その事実が、どうしても頭の中で結びつかなかった。
声がする。
笑っているようにも聞こえる。
サーシャは顔を上げた。
灯りが眩しかった。
何かを尋ねられた。
意味が分かるまで、少し時間がかかった。
「……知らん」
彼は答えた。
本当だった。
何を聞かれているのか、半分も理解していなかった。
隣でイワンが咳をした。
サーシャはそちらへ目を動かした。
それだけで、小さな影が視界を塞いだ。
向こうを見るな、と言われた気がした。
彼は返事をしなかった。
代わりに、ゆっくり息を吸った。
まだ生きている。
二人とも。
なら、終わっていない。
そう考えたとき、どこかで小さな音がした。
外だ。
木が軋むような音。
サーシャは顔を動かさなかった。
ただ、耳を澄ませた。
今度は、聞き慣れた声がした。
扉の向こう。
低くはない。
だが、よく通る声だった。
「サーシャ」
呼びかけは短かった。
一度だけ。
サーシャは息を止めた。
目の前の小さな影も、動きを止めた。
隣でイワンが、何かを吐き出すように笑った。
サーシャは顔を伏せた。
安堵したことを、目の前の相手に見せたくなかった。
しかし、口元までは抑えられなかった。
扉の向こうから、もう一度声がした。
今度は、少し呆れたような調子だった。
「扇風機を放って、何をしている」
サーシャは、乾いた喉を動かした。
返事をしようとした。
うまく声が出なかった。
それでも、どうにか言葉にした。
「……修理中だ」
廊下の向こうで、アレクセイは目を閉じた。
ほんの一瞬。
生きている。
二人とも。
目を開けると、バラライカが見ていた。
彼は小さくうなずいた。
姉も、うなずき返した。
扉の向こうで、高い声が尋ねた。
「誰?」
アレクセイは扉を見た。
幼い声だった。
自分の声も、向こうには似たように聞こえているかもしれない。
しかし、そこにいるのが何者であれ、今やることは変わらなかった。
彼は静かに答えた。
「そいつらを迎えに来た」
第三話・了