BLACK LAGOON ―姉さん、俺はもう大人だ―   作:いっしきさん

5 / 5
幕間
幕間二・五話 酔わない弟と、帰らせたい姉


幕間二・五話 酔わない弟と、帰らせたい姉

 

イエローフラッグのカウンターに、透明な瓶が置かれた。

 

バオが栓を抜く。

 

短い音がして、細かな泡が瓶の内側を上がった。

 

アレクセイは右手で受け取り、一口飲んだ。

 

左手の包帯は、まだ新しかった。

 

隣へ座ったロックが、その瓶を見た。

 

ラベルを読む。

 

炭酸水だった。

 

「今日は、それなんだ」

 

アレクセイが顔を向ける。

 

「今日は、というほど俺と飲んだか?」

 

「いや。そうじゃなくて」

 

「薬を飲んでいる。今は酒をやめておけと言われた」

 

「お姉さんに?」

 

「医者にも、姉にも」

 

アレクセイは瓶を置いた。

 

「両方から言われれば、聞かない理由がない」

 

反対側で、レヴィが笑った。

 

彼女の前には酒があった。

 

まだ最初の一杯なのに、すでに機嫌がよさそうだった。

 

「珍しく物分かりがいいじゃねえか」

 

「いつもだ」

 

「誰の話だよ」

 

アレクセイは答えず、炭酸水を飲んだ。

 

店内には客が何組かいた。

 

カードを広げている男たち。

 

入口の近くで、仕事の話をしている二人組。

 

奥では、古い音楽が小さく流れていた。

 

ロックはネクタイを緩めた。

 

今日は急ぎの荷物がない。

 

明日の朝も、早い出航ではなかった。

 

そういう夜に、レヴィから酒場へ引っ張り出されることは珍しくなくなっていた。

 

ただ、今夜はアレクセイもいた。

 

モロゾフの診療所へ届ける書類を渡したあと、そのまま一緒に来たのだった。

 

レヴィがグラスを持ち上げる。

 

「ロック。お前、こいつと飲むことになっても、張り合うなよ」

 

ロックが彼女を見る。

 

「張り合う?」

 

「どっちが先に潰れるか、って話だ」

 

彼はアレクセイへ目を向けた。

 

小柄な身体。

 

少年の顔。

 

今は、炭酸水の瓶を両膝の間で支えるように持っている。

 

ロックは慎重に言葉を選んだ。

 

「……強いのか?」

 

レヴィは、その顔を見ただけで笑い始めた。

 

「また見た目で考えたな」

 

「いや、だって」

 

「まだ懲りてねえのかよ」

 

アレクセイは、少しだけ口元を緩めた。

 

「疑問に思うのは仕方ない」

 

バオが、拭いていたグラスを置いた。

 

「強いなんてもんじゃねえよ」

 

ロックはカウンターの向こうを見た。

 

「知ってるのか?」

 

「店をやってりゃな」

 

バオは別のグラスを取った。

 

「だが、今夜は水だ。それでいい。医者に怒られた客の面倒まで見たくねえ」

 

「姉に怒られる方が面倒だろ」

 

レヴィが言う。

 

バオは何も答えなかった。

 

答えないことで、全員へ伝わった。

 

アレクセイは、カウンターの瓶を指で軽く回した。

 

「俺のいないところでも、そういう話をしているのか」

 

「本人の前でもしてるだろ」

 

レヴィが返す。

 

ロックは少し笑った。

 

アレクセイは、呆れたように息を吐いた。

 

*

 

ボリスが店へ入ってきたのは、ロックが一杯目を半分ほど飲んだ頃だった。

 

大柄な軍曹は入口で店内を見渡し、すぐにアレクセイを見つけた。

 

迷わず歩いてくる。

 

レヴィがグラスを置く。

 

「お迎えか?」

 

「書類を届けに来ました」

 

ボリスは薄い封筒をアレクセイへ差し出した。

 

「診療所の契約です。確認を」

 

「今、ここで?」

 

「明朝までに、とのことです」

 

アレクセイは受け取った。

 

封筒を開け、中を見る。

 

数枚の紙。

 

短い付箋。

 

彼は付箋を読んだところで、眉を少し動かした。

 

「これは必要だったのか」

 

ボリスの表情は変わらなかった。

 

「大尉からです」

 

ロックが、つい視線を向ける。

 

アレクセイは紙を封筒へ戻した。

 

「何て?」

 

レヴィが尋ねた。

 

「服薬中」

 

二文字に相当する短い言葉だったのだろう。

 

アレクセイの返事も短かった。

 

レヴィが声を上げて笑った。

 

バオまで、口元を歪める。

 

ボリスだけは真顔だった。

 

だがロックには、その真顔がいつもより丁寧に作られているように見えた。

 

アレクセイは炭酸水を持ち上げた。

 

「報告してくれ。命令どおり、水を飲んでいる」

 

「承知しました」

 

「検体も持って帰るか?」

 

「その必要はありません」

 

軍曹は、あくまで平然としていた。

 

ロックは空いている椅子を示した。

 

「少し、座っていきませんか」

 

ボリスがアレクセイを見る。

 

彼は肩をすくめた。

 

「俺に許可を取るな。勤務は終わったんだろう」

 

「緊急の予定はありません」

 

ボリスは椅子へ腰を下ろした。

 

バオへ、水を頼む。

 

レヴィが片方の眉を上げる。

 

「揃いも揃って、景気の悪い連中だな」

 

「店の売上に貢献するために来たわけではありませんので」

 

ボリスが答える。

 

バオがグラスを置いた。

 

「椅子代は取るぞ」

 

「勘定に入れておいてくれ」

 

アレクセイが言った。

 

バオは、少し笑って奥へ戻った。

 

ロックは軍曹に尋ねた。

 

「アレクセイが酒に強いって、本当なんですか?」

 

ボリスは水へ手を伸ばしかけたまま、止まった。

 

それから、ゆっくり弟を見た。

 

アレクセイが目を細める。

 

「軍曹」

 

「事実かどうかを尋ねられただけです」

 

「嫌な返事だな」

 

レヴィが、カウンターへ肘をついた。

 

「聞かせろよ」

 

ボリスは水を一口飲んだ。

 

それから言った。

 

「酒量だけで張り合うのは、勧めません」

 

「ほらな」

 

レヴィがロックを指す。

 

ロックはまだ半信半疑だった。

 

「でも、酔わないわけじゃないでしょう?」

 

今度は、アレクセイが答えた。

 

「酔う」

 

短く、はっきりと。

 

「普通に酔う。気づかれにくいだけだ」

 

ボリスは彼を見た。

 

その目に、わずかな笑みがあった。

 

「ご本人が、そう認めるまでに時間がかかることもあります」

 

アレクセイは瓶を置いた。

 

「軍曹も、あの夜は椅子から立てなかっただろう」

 

ボリスの表情が止まった。

 

レヴィが身を乗り出す。

 

「何だ。その話」

 

ロックも、思わず軍曹を見た。

 

アレクセイは、少し後悔した顔をした。

 

自分で、入口を開けてしまったらしかった。

 

*

 

その夜、倉庫には、まだ新しい塗料の匂いが残っていた。

 

港の倉庫を買い、最初の修繕が終わった頃だった。

 

雨は、少なくとも以前のようには入らなくなった。

 

荷物を置く区画も決まり、最初の契約が取れた。

 

管理を任せる人間が入り、鍵が渡された。

 

大きな成功ではなかった。

 

借りた金を全部返したわけでもない。

 

この先、何年も安泰という話でもなかった。

 

それでも、始められた。

 

そのことを祝うため、仕事を終えた男たちが集まった。

 

場所は、倉庫の脇にある小さな事務室だった。

 

広い部屋ではない。

 

古い机を寄せ、椅子を借り、足りない分は木箱で補った。

 

誰かが肉を買ってきた。

 

誰かがパンを運んだ。

 

別の誰かは、音の悪いラジオを持ってきた。

 

酒は、頼んだ量より増えていた。

 

人が来るたび、瓶を持ってきたからだった。

 

「仕事場を酒場にするなよ」

 

アレクセイは最初に言った。

 

ミハイルが、壁に立てかけた杖を示す。

 

「帰りの階段さえ降りられればいい」

 

「それを心配している」

 

「なら、先に帰るか」

 

「ここは俺の倉庫だ」

 

「だったら、最後までいろ」

 

それで話は終わった。

 

ロアナプラへ来てから、初めて全員が同じ理由で笑った夜だったかもしれない。

 

少なくとも、アレクセイにはそう思えた。

 

始まる前に、彼は帳簿を開いた。

 

支払いの確認。

 

修理に使った金。

 

作業員への賃金。

 

ミハイルの取り分。

 

それらを確かめていると、サーシャが覗き込んできた。

 

「まだ仕事か」

 

「払うものを払ってから飲む」

 

「明日でもいいだろう」

 

「明日の俺を信用していない」

 

サーシャは笑った。

 

「それは賢い」

 

アレクセイは封筒を渡した。

 

サーシャが受け取る。

 

中を見る。

 

自分が手伝った分の金だった。

 

「手伝いだと言っただろう」

 

「働いただろう」

 

「仲間の倉庫だ」

 

「だから、曖昧にしたくない」

 

サーシャは少し黙った。

 

それから封筒を畳み、ポケットへ入れた。

 

「なら、今夜の酒は一本、俺が出す」

 

「もう持ってきただろう」

 

「足りなくなるかもしれん」

 

「足りなくならない」

 

アレクセイは部屋の隅を指した。

 

並ぶ瓶。

 

サーシャは、しばらくそれを見た。

 

「……そうだな」

 

*

 

最初の乾杯は、短かった。

 

倉庫のこと。

 

ここで働く者のこと。

 

これからの仕事のこと。

 

誰かが言い終える前に、別の男が「長い」と口を挟み、笑いが起きた。

 

ボリスは入口に近い席へ座っていた。

 

バラライカは、まだ来ていなかった。

 

別の用件があった。

 

来られれば寄る、とだけ言っていた。

 

アレクセイは瓶を開け、自分の分を注いだ。

 

量は多くない。

 

急いでもいない。

 

一口飲み、食事を取る。

 

誰かの話を聞き、必要なら言い返す。

 

それだけだった。

 

しばらくして、イワンが彼のグラスを見た。

 

「もう空なのか」

 

アレクセイは手元を見る。

 

「ああ」

 

「早いな」

 

「お前が話している間に飲んだ」

 

「俺はそんなに長く話していない」

 

サーシャが横から言う。

 

「長かったぞ」

 

「お前が途中で口を挟むからだ」

 

「挟まなければ、まだ続いていた」

 

二人のやり取りを聞きながら、アレクセイは少し酒を足した。

 

その手つきを、向かいの男が見ていた。

 

港の仕事で知り合った、別の運送会社の男だった。

 

ロシア人ではない。

 

この日、初めてアレクセイと長く話した。

 

年齢の説明は、すでに済んでいた。

 

それでも、まだ信じきれてはいない顔だった。

 

「本当に飲めるのか」

 

男が尋ねた。

 

アレクセイはグラスを置いた。

 

「今、飲んでいる」

 

「そうじゃなくて。強いのかってことだ」

 

ミハイルが、椅子の上で背を伸ばした。

 

何かを察した顔だった。

 

ボリスも、視線を上げた。

 

アレクセイは肩をすくめた。

 

「困るほど弱くはない」

 

男は笑った。

 

「なら、一杯付き合え」

 

「付き合っているだろう」

 

「同じものを、だ」

 

アレクセイは相手の瓶を見た。

 

少し考える。

 

それから、空いたグラスを寄せた。

 

「味が分かる程度にしてくれ」

 

「何だ、怖いのか」

 

アレクセイは男を見た。

 

そして、穏やかに答えた。

 

「明日の帳簿が怖い」

 

周囲で笑いが起きた。

 

男も笑った。

 

そのときは、まだ、楽しい冗談で済んでいた。

 

*

 

ロックは、そこで話を止めた。

 

「それ、飲み比べになったんですか?」

 

ボリスは首を少し傾けた。

 

「本人は、そういうつもりではなかったようです」

 

アレクセイが横から言う。

 

「なかった」

 

レヴィは笑っていた。

 

「相手だけ、そのつもりだったってことか」

 

「自分で飲みたいものを、自分で飲めばよかったんだ」

 

アレクセイは炭酸水を飲む。

 

バオが、遠くから声をかけた。

 

「酒場じゃ、それができねえ奴ほど面倒なんだよ」

 

「ここにもいるな」

 

アレクセイが言う。

 

レヴィが睨んだ。

 

「誰の話だ?」

 

「名指しはしていない」

 

ボリスが水を置いた。

 

「結果から言えば、相手は先に休みました」

 

「倒れた?」

 

ロックが尋ねる。

 

「机に頭を置いて、話さなくなりました」

 

「気持ちよく寝ていただけだ」

 

アレクセイが付け加える。

 

ボリスは彼を見た。

 

「帰りの車へ乗せる際、あなたの名前を何度も間違えていました」

 

レヴィが腹を抱えた。

 

ロックも笑った。

 

アレクセイは、諦めたように瓶へ目を落とした。

 

*

 

夜が深くなるにつれ、部屋の中の声は大きくなった。

 

ラジオの音量が上がる。

 

誰かが歌い始める。

 

歌詞を覚えていない者が混ざり、途中から別の歌になる。

 

運送会社の男は、椅子へ深く沈んでいた。

 

グラスを持つ手が止まり、同じ話を二度した。

 

アレクセイは、その二度目にも相槌を打った。

 

三度目になる前に、ミハイルが水を渡した。

 

「少し休め」

 

男は、まだ大丈夫だと言った。

 

その直後、机へ両腕を置き、額を乗せた。

 

アレクセイは彼のグラスを遠ざけた。

 

代わりに、手の届く場所へ水を置く。

 

そこで、イワンが笑った。

 

「勝ったな」

 

「何に」

 

「何にって」

 

「俺は、賭けていない」

 

アレクセイは言った。

 

サーシャがグラスを持ち上げる。

 

「なら、次は俺だ」

 

ボリスが顔を上げた。

 

「やめておけ」

 

「少し飲むだけです」

 

「少しの定義を、先に決めておけ」

 

サーシャは笑った。

 

イワンも笑う。

 

アレクセイは二人を見る。

 

「飲みたいなら飲め。俺に合わせるな」

 

その言葉は、忠告だった。

 

だが、酒の入った席では、違う意味に聞こえることがある。

 

サーシャは、自分のグラスへ注いだ。

 

イワンも続いた。

 

ボリスはため息をついた。

 

ミハイルが小声で言う。

 

「軍曹。止めないのか」

 

「今、止めた」

 

「効いていない」

 

「承知している」

 

アレクセイは、また少し飲んだ。

 

平然としている。

 

顔色も、声も変わらない。

 

話を振れば答える。

 

誰かの冗談に笑い、空いた皿を端へ寄せる。

 

入口から新しい客が来れば、椅子を出す。

 

その間に、瓶の中身が少しずつ減っていった。

 

サーシャが、自分のグラスと彼のグラスを見比べた。

 

「お前、薄めていないか」

 

「同じ瓶だ」

 

「本当に?」

 

アレクセイは瓶を渡した。

 

サーシャが匂いを嗅ぐ。

 

イワンがそれを見て笑い始めた。

 

「疑うなら飲むなよ」

 

「確認だ」

 

「何の?」

 

「重要なことだ」

 

やがて、サーシャの声が大きくなった。

 

イワンの話は長くなった。

 

ミハイルは椅子の背にもたれ、満足そうに目を閉じる時間が増えた。

 

ボリスは、まだ静かだった。

 

そしてアレクセイも、静かだった。

 

ただ、話す内容が少しずつ変わっていた。

 

*

 

「軍曹」

 

アレクセイが呼んだ。

 

ボリスが顔を向ける。

 

「何だ」

 

「覚えているか。橋の手前で、トラックが止まったことを」

 

ボリスはグラスを置いた。

 

「いつの話だ」

 

「雨で道が崩れていた。お前が、先に歩いて見に行った」

 

軍曹は少し考えた。

 

やがて、頷く。

 

「ああ」

 

「戻ってきて、安全だと言った」

 

「通れると言った」

 

「同じようなものだ」

 

「違う」

 

アレクセイは笑った。

 

「トラックは、途中で動かなくなった」

 

「運転手が、私の示したところを通らなかった」

 

「そうだったな」

 

ボリスは彼を見た。

 

アレクセイは窓の外へ目を向けていた。

 

港の灯り。

 

水面。

 

暗い倉庫の屋根。

 

目の前の風景ではないものを、見ているようだった。

 

「寒かった」

 

彼が言った。

 

「手袋が濡れて、指が動かなくなった。サーシャが、ずっと文句を言っていた」

 

少し離れた席で、サーシャが顔を上げる。

 

「何の話だ」

 

「お前の歌が、ひどかった話だ」

 

「俺は歌っていない」

 

「歌っていた」

 

ボリスが答えた。

 

「歌なら、まだよかった。途中から、誰かへの苦情になっていた」

 

部屋で笑いが起きた。

 

サーシャは否定した。

 

だが、イワンが別の証言を足した。

 

そのあと、また別の男が口を挟んだ。

 

昔の一夜が、少しずつ違う角度から戻ってくる。

 

誰が先に転んだか。

 

誰がパンを落としたか。

 

誰が、翌朝になっても靴下を見つけられなかったか。

 

アレクセイは笑っていた。

 

普段なら自分から始めない話を、次々に出した。

 

ボリスは、それに気づいていた。

 

顔色は変わらない。

 

姿勢も崩れない。

 

だが、今夜の彼は、昔の名前を口にすることをためらわなくなっていた。

 

「ドミトリが、笑っていたな」

 

アレクセイが言った。

 

その名前で、少しだけ場の音が減った。

 

サーシャがグラスを持ち直す。

 

イワンは机を見た。

 

ミハイルは、ゆっくり目を開けた。

 

ドミトリは、ここへ来なかった。

 

来られなかった。

 

ロアナプラへ渡る前に、彼らの隊列からいなくなっていた。

 

アレクセイは、そのことを忘れてはいなかった。

 

ただ、今夜は最後の場面より先に、笑っていた顔が出てきた。

 

「俺の靴を見て、子供の靴を盗んだのかと言った」

 

彼は続けた。

 

口元に、まだ笑みがあった。

 

「自分は、左右で違う靴下を履いていたくせに」

 

イワンが、低く笑った。

 

サーシャも頷く。

 

ボリスは、グラスを少し持ち上げた。

 

誰も大きな言葉を言わなかった。

 

それぞれが、一口飲んだ。

 

ラジオだけが、場違いに明るい曲を流していた。

 

*

 

バラライカが来たとき、最初に聞こえたのは歌だった。

 

途中で調子が変わる、不安定な歌。

 

次に、笑い声。

 

そして、誰かが椅子を引きずる音。

 

彼女は階段の途中で足を止めた。

 

下から見送っていた運転手が、何か言いたそうに顔を上げる。

 

バラライカは何も言わず、そのまま上った。

 

扉を開ける。

 

室内の何人かが立ち上がりかけた。

 

ボリスも姿勢を正した。

 

サーシャは少し遅れた。

 

イワンは、立つ途中で椅子へ膝をぶつけた。

 

バラライカは部屋を見渡した。

 

空いた瓶。

 

皿。

 

机で眠る知らない男。

 

木箱に腰を下ろし、靴の紐を結び直している男。

 

そして、窓際で普通に座っている弟。

 

アレクセイが顔を上げた。

 

「ご苦労さまです、大尉」

 

バラライカの目が、そこで止まった。

 

丁寧だった。

 

妙に丁寧だった。

 

弟は右手で、空いた椅子を示した。

 

「お席をどうぞ。まだ、食事もあります」

 

サーシャが笑いそうになり、咳に変えた。

 

ボリスは前を向いたままだった。

 

バラライカは弟へ近づく。

 

「何を飲んだ」

 

アレクセイは机の瓶を示した。

 

「こちらを」

 

「それは見える」

 

「では、質問の意図をご説明いただけますか」

 

部屋が静かになった。

 

アレクセイの顔は真面目だった。

 

ふざけているようには見えない。

 

しかし、バラライカは分かった。

 

酔っている。

 

しかも、本人が自分を管理できていると思っている程度には、しっかり酔っている。

 

彼女は弟の前のグラスを見た。

 

「水にしろ」

 

「承知しました」

 

返事は素直だった。

 

その素直さが、さらに怪しかった。

 

バラライカはボリスを見る。

 

軍曹は短く言った。

 

「食事は取っています」

 

「それは聞いていない」

 

「はい」

 

彼女は椅子へ座った。

 

弟は、すぐに皿を手前へ寄せた。

 

肉。

 

パン。

 

まだ温かい煮物。

 

彼が自分の分から分けたものも混じっている。

 

バラライカは皿を見る。

 

アレクセイを見る。

 

「お前の分だろう」

 

「私は、十分にいただきました」

 

「普通に話せ」

 

弟は少し考えた。

 

それから、ようやく言った。

 

「姉さん。食ってないだろう」

 

声が戻った。

 

彼女は何も答えなかった。

 

アレクセイは頷いた。

 

「ほらな」

 

*

 

「それで、分かったんですか?」

 

ロックが尋ねた。

 

ボリスは頷いた。

 

「大尉は、入室してすぐに」

 

レヴィが笑っていた。

 

「丁寧になるのかよ」

 

アレクセイは、炭酸水の瓶を見つめていた。

 

「いつも失礼なわけじゃない」

 

「今の話は、そういう意味じゃねえだろ」

 

「知っている」

 

ロックは、まだ笑いをこらえていた。

 

「ほかには?」

 

アレクセイが彼を見る。

 

「そんなに知りたいか」

 

「いや、普段と違うのが、ちょっと想像できなくて」

 

ボリスが答えた。

 

「昔の話を、ご自分から始めます」

 

アレクセイの目が、少しだけ静かになった。

 

軍曹は続けた。

 

「同じことを何度も言うわけではありません。ただ、普段なら聞き役になるところで、話す側になる」

 

レヴィはグラスを回した。

 

「普通じゃねえか」

 

「ええ」

 

ボリスは頷いた。

 

「普通に、酔っておられました」

 

その言い方には、からかいが少なかった。

 

ロックはアレクセイを見た。

 

彼は口元をわずかに動かした。

 

「だから、最初に言っただろう。酔うと」

 

「じゃあ、酒豪っていうのは」

 

「人より、気づかれるまでに時間がかかる」

 

バオがカウンター越しに言った。

 

「それだけじゃねえよ。飲む量も多い。ただし、自分から勝負は始めねえ。そこは助かる」

 

アレクセイが彼を見る。

 

「褒めているのか」

 

「壊した椅子の数を比べりゃな」

 

レヴィがグラスを置いた。

 

「こっちを見るな」

 

「見てねえよ」

 

バオは彼女を見たまま答えた。

 

ロックはとうとう笑った。

 

*

 

宴会の夜、バラライカは皿の料理を食べた。

 

会話には、ほとんど入らなかった。

 

男たちの様子を見ていた。

 

疲れている。

 

酔っている。

 

しかし、今夜の酔い方には、底へ落ちていくような重さがなかった。

 

明日の仕事がある。

 

自分の名前の書かれた場所がある。

 

帰るための鍵がある。

 

それだけで、人の飲み方が変わることもある。

 

アレクセイは水を飲みながら、ミハイルの話を聞いていた。

 

倉庫の事務所に、新しい棚が要るらしい。

 

「買え」

 

弟は言った。

 

「安いものではないぞ」

 

「書類を床へ置く方が、高くつく」

 

「金属の棚にする」

 

「ああ」

 

「椅子も」

 

アレクセイが顔を向ける。

 

ミハイルは真面目な顔をしていた。

 

しかし、目だけは笑っていた。

 

「それは見積もりを出せ」

 

「急に厳しいな」

 

「酔っている相手から、余計な約束を取るな」

 

バラライカは茶を口元へ運ぶ途中で止まった。

 

弟は、自分が酔っていると分かっていた。

 

分かった上で、まだ机に座っている。

 

彼女は時計を見た。

 

夜は深くなっていた。

 

「帰るぞ」

 

アレクセイは窓の外を見る。

 

それから、部屋の中。

 

まだ眠っている男。

 

話し続けているサーシャとイワン。

 

ボリス。

 

ミハイル。

 

「先に帰ってくれ」

 

バラライカの目が細くなる。

 

「お前もだ」

 

「客を残して帰れない」

 

「管理人がいる」

 

ミハイルは椅子の上で、片手を上げた。

 

「ここで寝る」

 

「そういう問題ではない」

 

アレクセイが言う。

 

声は普通だった。

 

さっきほど丁寧ではない。

 

だが、言葉の間が少し長い。

 

バラライカは弟の前へ立った。

 

「客の車は手配してある」

 

「誰が?」

 

「私が」

 

「軍曹は」

 

「自分の車がある」

 

アレクセイがボリスを見る。

 

軍曹は頷いた。

 

そのまま立とうとする。

 

だが、椅子が動かなかった。

 

彼の身体だけが少し浮き、また戻った。

 

アレクセイが首を傾ける。

 

「軍曹?」

 

ボリスは眉を寄せ、椅子の横を見る。

 

上着の裾が、木箱と椅子の間に挟まっていた。

 

隣に座っていたサーシャが、途中で木箱をずらしたらしい。

 

軍曹は布を引き抜いた。

 

今度は立てた。

 

アレクセイは、その一連の動作を見ていた。

 

そして、静かに言った。

 

「立てないほど飲んだのかと思った」

 

ボリスは彼を見る。

 

「違います」

 

「そうか」

 

「見ていたでしょう」

 

「暗いからな」

 

部屋に笑いが広がった。

 

ボリスは反論をやめた。

 

アレクセイは、悪びれずに水を飲んだ。

 

バラライカが言った。

 

「お前の方が、よほど質が悪い」

 

「姉さんの弟だからな」

 

返事は早かった。

 

ボリスが、今度こそ顔をそらした。

 

*

 

「つまり、酔って立てなかったわけでは?」

 

ロックが聞くと、ボリスはきっぱり答えた。

 

「ありません」

 

レヴィが笑いすぎて、目元を指で拭いた。

 

「盛ったな、お前」

 

アレクセイは平然としていた。

 

「椅子から立てなかった。そこは事実だ」

 

「原因が違うだろ」

 

「細部だ」

 

「大事な細部です」

 

ボリスが言った。

 

その声が珍しく強かったので、ロックまで笑った。

 

アレクセイは、少し満足そうに炭酸水を飲んだ。

 

笑いが落ち着くと、レヴィが尋ねた。

 

「で、最後まで歩けたのか?」

 

「歩いた」

 

「ちゃんと?」

 

「階段も降りた」

 

ボリスは、そこで黙った。

 

ロックが気づく。

 

「何かあったんですか」

 

アレクセイが軍曹を見る。

 

ボリスも彼を見た。

 

短い沈黙。

 

それから、軍曹が言った。

 

「階段は、降りておられました」

 

レヴィの口元が上がる。

 

「その先は?」

 

アレクセイは額へ右手を当てた。

 

「軍曹。さっきの話は取り消す」

 

「もう、皆さんがお聞きになりました」

 

「執念深いな」

 

「お互いに」

 

ロックは、普段の彼からは想像できない返事を聞いていた。

 

二人とも、楽しんでいた。

 

大きく笑ってはいない。

 

だが、長い付き合いのある者にしかできない、遠慮の外し方だった。

 

*

 

階段を降りると、港の風が冷たく感じられた。

 

暑い街だった。

 

それでも、酒と人の熱がこもった部屋から出れば、空気は違う。

 

アレクセイは手すりから手を離した。

 

足元は安定していた。

 

見た目には。

 

バラライカは、その半歩後ろを歩いた。

 

弟は急がなかった。

 

彼女も急かさなかった。

 

車は倉庫の前へ寄せられていた。

 

運転手が扉を開ける。

 

アレクセイは乗り込もうとして、ふと立ち止まった。

 

倉庫を見上げる。

 

二階の窓には、まだ明かりがあった。

 

サーシャの影が動いている。

 

誰かが笑った。

 

窓の向こうから、くぐもった歌が聞こえた。

 

バラライカは弟の隣へ立った。

 

「どうした」

 

アレクセイは、しばらく答えなかった。

 

やがて言った。

 

「ちゃんと、使われてるな」

 

彼女は倉庫を見た。

 

「そのために買ったんだろう」

 

「ああ」

 

弟は頷いた。

 

「そうなんだが」

 

言葉を探している。

 

酔った人間の、少し遅い探し方だった。

 

「買ったときは、壁と屋根だった」

 

バラライカは黙っていた。

 

「今は、ミハイルがいる。サーシャが来る。イワンがくだらない話をする」

 

「酒があれば、どこでも話す」

 

「そうだな」

 

弟は笑った。

 

それから、窓を見たまま言った。

 

「次の冬も、こうならいい」

 

ロアナプラに、彼らの知る冬は来ない。

 

雪も、凍る道路も、朝まで固くなる軍靴も。

 

バラライカは、弟が何を数えているのか分かった。

 

季節ではない。

 

一緒にいる人間が、次にも揃っているか。

 

それだけだった。

 

彼女は車の扉を少し押さえ直した。

 

「帰るぞ、アリョーシャ」

 

弟が顔を向ける。

 

その呼び方で、ほんの少し表情が緩んだ。

 

「姉さん」

 

「何だ」

 

「今日は、よく食べたな」

 

バラライカは眉を寄せた。

 

「お前が皿へ置いたんだろう」

 

「いつも、あのくらい食えよ」

 

「お前に言われる筋合いはない」

 

「ある」

 

返事が、妙に真剣だった。

 

彼女は弟を見た。

 

アレクセイは続けた。

 

「俺の食事を気にするなら、自分の分も食え。何も食わずに煙草ばかり――」

 

「車へ乗れ」

 

「まだ話している」

 

「続きは中で聞く」

 

弟は少し考えた。

 

それから、素直に乗った。

 

バラライカも続く。

 

扉が閉まる。

 

車が動き出した。

 

アレクセイは、まだ何か言おうとしていた。

 

だが、座席へ背を預けると、言葉が途切れた。

 

窓の外を見る。

 

灯りが流れる。

 

目を閉じる。

 

開く。

 

もう一度閉じる。

 

バラライカは横目で見ていた。

 

「眠るなら眠れ」

 

弟は返事をした。

 

短い返事だった。

 

そのあと、動かなくなった。

 

しばらくして、車が曲がる。

 

アレクセイの頭が、わずかに横へ傾いた。

 

バラライカは手を出し、額が窓へぶつかる前に支えた。

 

彼は目を開けなかった。

 

起きている間は、ほとんど分からなかった酔いが、そこでようやく見えた。

 

彼女は弟を座席の背へ戻し、肩に上着をかけた。

 

小さな身体。

 

昔と変わらない顔。

 

しかし、今夜彼が話していたのは、家主としての修繕費と、管理人の仕事と、帰ってこない戦友のことだった。

 

バラライカは前を向いた。

 

「揺らすな」

 

運転手が短く返事をした。

 

いつもより慎重に、車が進む。

 

隣から、弟の深い呼吸が聞こえた。

 

彼女は、それ以上起こさなかった。

 

*

 

ボリスの話が終わると、ロックはしばらく黙っていた。

 

レヴィも、すぐには茶化さなかった。

 

バオが空いたグラスを下げる。

 

店の奥で、誰かがカードを叩いた。

 

勝ったのか、負けたのか。

 

大きな声が上がり、また下がった。

 

アレクセイは、瓶に残った炭酸水を見た。

 

「後半は、軍曹の見ていない話だろう」

 

ボリスは頷いた。

 

「運転手から聞きました」

 

「口の軽い男だ」

 

「大尉が、次の日の予定を遅らせるよう命じられましたので」

 

「それは知らなかった」

 

アレクセイは顔を上げた。

 

ボリスは水を飲んだ。

 

「朝の会議は、あなたがいなくても済む内容でした」

 

弟は少し黙った。

 

レヴィが、そこでようやく口を開いた。

 

「つまり、酔ってない顔で最後まで飲んで、車で電池が切れたわけか」

 

「表現が雑だ」

 

「合ってるだろ」

 

アレクセイは否定しなかった。

 

ロックが尋ねる。

 

「翌日は、覚えてた?」

 

「大半は」

 

「お姉さんへの説教も?」

 

「それは、酔っていなくても言う」

 

ボリスが横から言った。

 

「言い方は、もう少し選ばれます」

 

レヴィが笑う。

 

アレクセイは肩をすくめた。

 

「酒が入れば、普段なら省く話もする。それだけだ」

 

ロックは、グラスへ目を落とした。

 

酒が強い。

 

最初は、その単純な話だと思っていた。

 

たくさん飲める。

 

顔に出ない。

 

周囲が先に潰れる。

 

確かに、そういう話ではあった。

 

だが、最後に残ったのは酒量ではなかった。

 

古い仲間の名前。

 

倉庫の灯り。

 

姉の食事。

 

そういうものが、普段より少し外へ出る。

 

アレクセイが、彼の顔を見る。

 

「難しいことを考えるな。酒の失敗談だ」

 

ロックは笑った。

 

「そうだな」

 

「俺ばかり話す必要もないだろう。君は?」

 

「俺?」

 

「酔うと、どうなる」

 

ロックは、少し考えた。

 

答える前にレヴィが言った。

 

「面倒くさくなる」

 

「おい」

 

「普段は飲み込むことを、急に言い始める」

 

アレクセイが頷く。

 

「同じだな」

 

ロックは否定しかけ、やめた。

 

違うと言い切れるほどの自信はなかった。

 

レヴィが続ける。

 

「しかも、こっちの話を聞かねえ」

 

「それは、君もだろ」

 

「私は普段からだ」

 

アレクセイが声を出して笑った。

 

ロックも、つられた。

 

ボリスは、グラスを置きながら少しだけ笑った。

 

*

 

バラライカが店へ入ってきたとき、レヴィはちょうど二杯目を飲んでいた。

 

ロックは一杯目を飲み終え、水へ替えていた。

 

ボリスも水。

 

アレクセイは、炭酸水の二本目だった。

 

入口近くの客が、会話を少し小さくする。

 

バオが顔を上げた。

 

彼女は店内を見渡し、カウンターへ歩いてきた。

 

ボリスが立ち上がる。

 

アレクセイは座ったまま振り返った。

 

「仕事は終わったのか」

 

「一区切りついた」

 

バラライカの視線が、弟の前の瓶へ落ちた。

 

【挿絵表示】

 

ラベル。

 

中身。

 

グラスはない。

 

彼女は一瞬だけ確かめ、弟の顔へ戻った。

 

アレクセイは、その動きを見逃さなかった。

 

「今日は一滴も飲んでない」

 

「分かっている」

 

「なら、なぜ瓶を確かめた」

 

「帰るぞ」

 

「質問に答えてないぞ、姉さん」

 

レヴィが顔を背けた。

 

肩が揺れている。

 

ロックは水を飲んだ。

 

タイミングを間違えれば、吹き出しそうだった。

 

バラライカは弟を見た。

 

「確認したから、分かった」

 

アレクセイは黙った。

 

理屈としては通っていた。

 

それが余計に、言い返しにくかった。

 

バオが助け舟を出した。

 

「最初から炭酸水だ。俺も薬の話は聞いた」

 

バラライカは彼へ頷く。

 

「そうか」

 

アレクセイは瓶を持ち上げた。

 

「俺の証言より、店主の方が信用される」

 

「お前は、昔から自分に都合のいい部分だけ話す」

 

ボリスが、その言葉で少し顔を動かした。

 

椅子から立てなかった話を思い出したのだろう。

 

アレクセイは軍曹を見る。

 

「今のは、何の合図だ」

 

「何も」

 

「顔で言っていた」

 

バラライカの視線が二人の間を動いた。

 

「何の話をしていた」

 

レヴィが、待っていたように口を開いた。

 

「倉庫の宴会」

 

弟の目が細くなる。

 

姉の顔は変わらなかった。

 

「古い話だな」

 

「車に乗ったら、ぐっすりだったって?」

 

レヴィが続ける。

 

アレクセイは天井を見た。

 

ボリスは前を向いた。

 

ロックは、いよいよ逃げ道がなくなった気がした。

 

バラライカは弟へ目を戻す。

 

「よく眠っていた」

 

短い返事だった。

 

それが、かえって決定的だった。

 

レヴィが笑い声を漏らす。

 

アレクセイは瓶を置いた。

 

「俺は、自分で歩いて帰った」

 

「車で帰った」

 

「車までは歩いた」

 

「そうだな」

 

姉は、それ以上否定しなかった。

 

だが、言い負かされた気分だけが残った。

 

アレクセイは鞄を取った。

 

「分かった。帰ろう」

 

*

 

勘定を払おうとすると、バオが手を上げた。

 

「そっちの分は済んでる」

 

アレクセイが振り返る。

 

ボリスが財布をしまっていた。

 

「書類を届けたついでです」

 

「水と炭酸水のために、そこまでしなくていい」

 

「次の機会に」

 

アレクセイは少し考えた。

 

「薬が終わってからだな」

 

レヴィがすぐに言った。

 

「そのときは呼べよ。伝説が本当か、見てやる」

 

アレクセイは彼女を見た。

 

「俺は、見せ物ではない」

 

「知ってる。酒代は、お前持ちな」

 

「知らないようだ」

 

ロックが笑った。

 

アレクセイも少し笑い、鞄を肩へかけた。

 

バラライカの視線が、その左手に向きかける。

 

弟は先に右手を示した。

 

「使っていない」

 

「何も言っていない」

 

「言う前に答えた」

 

彼女は、ほんのわずかに口元を動かした。

 

その表情を見て、ロックは思った。

 

弟が酔っているかどうか分かるのは、酒の席を何度も見たからだけではないのだろう。

 

普段の返事。

 

黙る間。

 

目をそらす癖。

 

そういう小さな違いを、長い間見てきた。

 

だから、ほかの人間には同じに見えても、彼女には分かる。

 

アレクセイは入口で振り返った。

 

「ロック」

 

「何だ?」

 

「今度、酒を奢るという話は覚えているか」

 

最初の仕事のあと、自分が言った言葉だった。

 

ロックは頷いた。

 

「覚えてるよ」

 

「高いものは頼まん」

 

レヴィが横から言う。

 

「量で来るぞ」

 

「一杯でいい」

 

アレクセイが答えた。

 

「ゆっくり飲めるならな」

 

その言葉に、ロックは少し笑った。

 

「分かった。一杯、付き合う」

 

アレクセイは頷いた。

 

バラライカが先に店を出る。

 

弟も続く。

 

ボリスが最後にバオへ挨拶し、扉を閉めた。

 

外の車の音が、少しして遠ざかっていった。

 

店内の会話が、元の大きさへ戻る。

 

レヴィはグラスに残った酒を飲んだ。

 

それから、ロックへ顔を向けた。

 

「分かったか?」

 

「何が」

 

「あいつのことだよ」

 

ロックは、閉まった扉を見た。

 

「酒には強いんだな」

 

レヴィは口元を上げた。

 

「姉貴には勝てねえけどな」

 

ロックは笑った。

 

バオが空いた瓶を下げる。

 

透明な瓶の底に、炭酸水がほんの少し残っていた。

 

今夜のアレクセイは、酔っていなかった。

 

それでも、昔の話をした。

 

声を出して笑った。

 

次に飲む約束もした。

 

ロックは、自分の前の水を飲んだ。

 

いつか本当に一杯付き合うことになったら、強さを確かめるつもりはなかった。

 

急いで飲む必要もない。

 

彼が、自分から話し始めるのを待てばいい。

 

たぶん、その方が面白い夜になる。

 

幕間二・五話・了

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。