BLACK LAGOON ―姉さん、俺はもう大人だ―   作:いっしきさん

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第四話 子供たちのいる部屋

第四話 子供たちのいる部屋

 

扉の向こうで、しばらく音がしなかった。

 

アレクセイは動かなかった。

 

背後にはボリスがいる。

 

少し離れたところに、バラライカ。

 

路地には部下たちが配置についていたが、誰も不用意に声を出さなかった。

 

酒場の中から、椅子を引きずる音がした。

 

次いで、軽い足音。

 

扉の向こうにいた者が、近づいてくる。

 

「迎えに来たの?」

 

英語だった。

 

少女の声に聞こえた。

 

だが、姿はまだ見えない。

 

「ああ」

 

アレクセイが答えた。

 

「二人とも、仕事の途中なんだ」

 

「まだ遊んでいるのに」

 

背後で、ボリスの呼吸がわずかに変わった。

 

アレクセイは扉を見ていた。

 

古い塗装。

 

取っ手の上の傷。

 

下から漏れる、細い明かり。

 

その明かりを、小さな影が横切った。

 

「話があるなら、俺が聞く」

 

彼は言った。

 

「扉を開けてくれ」

 

「あなたも、一緒に遊ぶ?」

 

答えるまでに、ほんの少し間があった。

 

「顔を見て話そう」

 

鍵が動いた。

 

バラライカの視線が弟に刺さった。

 

アレクセイは、右手を腰へ近づけなかった。

 

ただ、足の位置を変えた。

 

扉が少し開く。

 

最初に見えたのは、銀色に近い髪だった。

 

次に、白い顔。

 

大きな目。

 

黒い服。

 

少女は隙間からアレクセイを見ると、驚いたように瞬きをした。

 

「……子供?」

 

アレクセイは答えなかった。

 

彼女の顔ではなく、手を見ていた。

 

片方は扉。

 

もう片方は、身体の陰に隠れている。

 

少女は彼を頭から足まで眺めた。

 

その目には、警戒よりも好奇心があった。

 

「あなた、あの人たちの子?」

 

「違う」

 

「じゃあ、どうして迎えに来たの?」

 

「仲間だからだ」

 

少女の首が、わずかに傾いた。

 

知らない単語を聞いたような仕草だった。

 

店の奥から、別の声がした。

 

「どうしたの、姉様」

 

よく似た声。

 

アレクセイは開いた隙間の向こうを見た。

 

同じ色の髪。

 

同じ顔。

 

黒い服の少年が、暗い店内に立っていた。

 

その手にあるものを見て、背後の空気が変わった。

 

銃だった。

 

身体の大きさに不釣り合いな、長い銃。

 

少年はそれを重そうには扱っていなかった。

 

慣れていた。

 

そのことが、アレクセイには何よりも嫌だった。

 

*

 

「子供が来たの」

 

少女が振り返って言った。

 

「おじさんたちを迎えに来たんですって」

 

少年が近づいてくる。

 

アレクセイは動かずに、店内を確かめた。

 

倒れた椅子。

 

床に散ったグラス。

 

奥の壁際に、サーシャとイワン。

 

二人とも椅子に縛られていた。

 

顔に傷はある。

 

だが、意識はある。

 

サーシャがこちらを見た。

 

目が合った瞬間、その顔から表情が消えた。

 

動くな。

 

そう伝えていた。

 

アレクセイは、ほんのわずかに顎を引いた。

 

分かっている。

 

それだけで通じた。

 

少女がそのやり取りに気づき、彼の顔を覗き込んだ。

 

「怖くないの?」

 

「怖いものはある」

 

「これも?」

 

隠れていた手が出てきた。

 

小さな刃物。

 

アレクセイはそれを見た。

 

それから、少女の目を見た。

 

彼女は反応を待っていた。

 

怯えるか。

 

怒るか。

 

逃げるか。

 

どれかを期待しているようだった。

 

「下ろしてくれ」

 

「どうして?」

 

「話をするのに、要らない」

 

少女は微笑んだ。

 

後ろの少年も、同じように笑った。

 

よく似た笑みだった。

 

アレクセイは、その笑顔を見て胸の奥が冷えるのを感じた。

 

楽しそうではある。

 

けれど、相手がどう感じるかを確かめるための笑顔ではない。

 

決まった動きを、決まった順番で繰り返しているように見えた。

 

少年が言った。

 

「あなたは、何人殺した?」

 

路地の向こうで、車のクラクションが鳴った。

 

ひどく遠かった。

 

アレクセイは答えなかった。

 

少年は続けた。

 

「強いんでしょう? あの人たち、あなたを見たら安心したもの」

 

少女が振り返る。

 

サーシャは、表情を変えなかった。

 

イワンは口元の血を舌で拭い、ゆっくり息を吐いていた。

 

「死ななくなる方法、知ってる?」

 

少年が尋ねた。

 

アレクセイは、もう一度その目を見た。

 

冗談を言っている目ではなかった。

 

本当に、答えを確かめようとしていた。

 

「知らない」

 

「教えてあげようか」

 

「その前に、二人を帰してくれ」

 

「駄目よ」

 

少女が言った。

 

声に、初めて硬いものが混ざった。

 

「まだ終わってないもの」

 

そのとき、彼女の視線がアレクセイの肩越しへ動いた。

 

バラライカが立っている。

 

女の顔の傷。

 

金色の髪。

 

目。

 

少女の笑みが、ほんの少し変わった。

 

「……ああ」

 

少年も気づいた。

 

銃を持つ腕が動く。

 

空気が切り替わった。

 

アレクセイは、少女の目から好奇心が消えるのを見た。

 

次に起きたことは、短かった。

 

声。

 

銃声。

 

扉の枠が砕ける音。

 

アレクセイは少女の前へ出た。

 

刃がシャツの袖を裂いた。

 

痛みを確かめる時間はなかった。

 

小さな身体が激しく抵抗する。

 

背後ではボリスたちが動いていた。

 

もう一度、何かが床へ落ちる。

 

レジの上の瓶が割れた。

 

アレクセイは少女の手から刃物が離れたことを確かめ、低く言った。

 

「もういい」

 

少女は止まらなかった。

 

歯を食いしばり、身体を捩る。

 

「離して!」

 

「刃物はない。動くと怪我をする」

 

彼女は聞いていなかった。

 

奥で少年が叫んだ。

 

「姉様!」

 

「ここにいる」

 

アレクセイは声を強めた。

 

少年に届くように。

 

「生きている。こっちを見ろ」

 

少年は床へ押さえられていた。

 

銃は離れた場所に転がっている。

 

部下の一人が、それを遠ざけた。

 

少女の動きが、一瞬だけ止まった。

 

少年を見る。

 

少年も、少女を見た。

 

二人の呼吸が荒かった。

 

銃声のあとに残る耳鳴りの中で、その呼吸だけが妙にはっきり聞こえた。

 

「サーシャ」

 

アレクセイが呼んだ。

 

「生きてる」

 

返事があった。

 

掠れた、いつもの声だった。

 

「イワン」

 

「……扇風機は、無事ですか」

 

アレクセイは目を閉じかけた。

 

しかし、まだ閉じなかった。

 

「本人より心配するな」

 

バラライカが店内へ入ってきた。

 

床の銃。

 

刃物。

 

縛られた部下。

 

そして、押さえられた子供たち。

 

彼女は一度で全部を見た。

 

その顔を見た少女が、急に大人しくなった。

 

抵抗をやめたのではない。

 

別の何かを待つ姿勢になった。

 

アレクセイは、それに気づいた。

 

彼は姉を見上げた。

 

「二人とも生きてる」

 

「聞こえた」

 

「この二人もだ」

 

バラライカの目が、弟へ移った。

 

彼は目をそらさなかった。

 

「医者を呼んでくれ」

 

*

 

サーシャは椅子から解放されても、すぐには立ち上がらなかった。

 

身体の感覚を確かめるように、両手を動かしている。

 

イワンは水を飲み、咳き込んだ。

 

アレクセイは二人の前にしゃがんだ。

 

「歩けるか」

 

「歩けます」

 

サーシャが言った。

 

立ち上がろうとする。

 

膝が揺れた。

 

アレクセイは肩を貸そうとして、横からボリスに先を越された。

 

体格の差を考えれば、その方がよかった。

 

「無理をするな」

 

ボリスが言う。

 

サーシャは素直に座り直した。

 

イワンが、アレクセイの袖を見た。

 

裂け目に、赤いものがにじんでいる。

 

「そっちは?」

 

「擦っただけだ」

 

「大尉に言われますよ」

 

「今は、お前の心配をしている」

 

イワンは少し笑った。

 

その笑いが、途中で消えた。

 

彼の視線の先に、双子がいた。

 

二人は離れすぎない距離で座らされていた。

 

手は自由ではない。

 

部下たちが見張っている。

 

少女がアレクセイを見ていた。

 

少年は、姉を見ていた。

 

視線が違う。

 

だが、どちらも何かを計っている。

 

アレクセイは立ち上がった。

 

サーシャの手が、彼の服の裾に触れた。

 

つかむほどではなかった。

 

彼は振り返った。

 

サーシャは双子を見ていた。

 

「あれは、何なんです」

 

問いには、怒りよりも戸惑いがあった。

 

身体の大きさも、顔も、声も。

 

すべてが、自分たちへ向けられた暴力と結びつかなかったのだろう。

 

アレクセイはすぐには答えられなかった。

 

やがて言った。

 

「子供だ」

 

サーシャの顔が強張った。

 

アレクセイは続けた。

 

「だから安全だとは言っていない」

 

サーシャは彼を見た。

 

「何をされてきたのかは、まだ分からん。何をしたかは、これから確かめる」

 

イワンが低く言った。

 

「楽しそうだった」

 

アレクセイはうなずいた。

 

否定しなかった。

 

「そう見えた」

 

「見えただけじゃない」

 

「……そうだな」

 

その返事に、イワンは口を閉じた。

 

無理に許させようとしなかった。

 

それが分かったのか、彼の肩から少し力が抜けた。

 

店の主人は、奥の物置で見つかった。

 

縛られていたが、生きていた。

 

助け出されると、何度も同じことを言った。

 

子供だったから。

 

客だと思った。

 

まさか。

 

アレクセイは聞いていた。

 

同じ言葉を、これまで別の意味で何度も聞いたことがあった。

 

子供に見える。

 

だから、こうであるはずだ。

 

その思い込みが、今夜は人を殺しかけた。

 

彼は双子を見た。

 

少年が、こちらを見返した。

 

そして、にこりと笑った。

 

アレクセイは笑い返さなかった。

 

*

 

医者が到着するまでの間、バラライカは店の奥の小部屋を使った。

 

机。

 

帳簿。

 

壁にかかった古い暦。

 

扉の外にはボリスが立っていた。

 

中には姉と弟だけだった。

 

バラライカは最初に、弟の裂けた袖を見た。

 

「傷は」

 

「浅い」

 

「見せろ」

 

アレクセイは袖を少し上げた。

 

右の前腕に、細い切り傷があった。

 

血は止まりかけている。

 

彼女は一度見て、それ以上触れなかった。

 

「それで」

 

バラライカが言った。

 

「何を考えている」

 

アレクセイは椅子に座らなかった。

 

姉も立ったままだった。

 

「二人を、俺が預かる」

 

バラライカの表情は変わらなかった。

 

予想していたのかもしれなかった。

 

「どこへ連れていく」

 

「安全な場所へ」

 

「誰にとってだ」

 

弟は黙った。

 

彼女は続けた。

 

「あの二人にとってか。周囲の人間にとってか」

 

「両方だ」

 

「言うのは簡単だ」

 

「分かっている」

 

「分かっているようには見えん」

 

声は静かだった。

 

その静けさが、かえって重かった。

 

「私の部下が縛られていた。銃を向けられた。あと少し遅ければ、どうなったか分からない」

 

「助けた本人に言うことか、大尉」

 

バラライカの目が細くなった。

 

アレクセイは言葉を引っ込めなかった。

 

「サーシャとイワンがされたことは、なかったことにしない。許せとも言わない」

 

「なら、何のためだ」

 

「殺さずに済んだ。その先を考えたい」

 

彼女は弟を見ていた。

 

長い間、一緒にいた。

 

彼が、勢いだけでこんなことを言う人間ではないことも知っていた。

 

だからこそ、簡単には認められなかった。

 

「同じ子供に見えるからといって、理解し合えると思うな」

 

アレクセイは即座に首を振った。

 

「思ってない」

 

「お前を仲間だと思って近づいてきた。次には刃物を向けた」

 

「見ていた」

 

「それでも?」

 

「俺は大人だ」

 

弟はまっすぐに言った。

 

「あの二人を保護する側だよ、姉さん」

 

部屋の外で、誰かが椅子を動かした。

 

バラライカはその音を聞いてから、机へ手を置いた。

 

「保護して、どうする」

 

「まず、怪我と身体の状態を調べる。武器は渡さない。生活する場所を分ける」

 

「お前の部屋か」

 

「違う。ここも、兵舎も使わない」

 

「人員は?」

 

「必要だ。俺一人で二十四時間見張れるとは思っていない」

 

「お前が仕事で留守にするときは」

 

「引き継げる人間を置く」

 

「誰が進んでやる」

 

アレクセイは答えに詰まった。

 

そこで、初めて視線を落とした。

 

簡単に名前を挙げていいことではなかった。

 

サーシャとイワンを知っている者なら、怒りがある。

 

双子を知らない者なら、危険を理解できないかもしれない。

 

「人選は、相談させてくれ」

 

彼は言った。

 

「責任を持つと言って、全部他人に渡すつもりはない。だが、俺一人でできるとも言わない」

 

バラライカは椅子を引いた。

 

ゆっくり座る。

 

「金は?」

 

「俺の分から出す」

 

「施設と人員を維持すれば、安くはない」

 

「帳簿をつける」

 

「お前の生活費がなくなるぞ」

 

「酒を減らす」

 

バラライカは笑わなかった。

 

弟も笑っていなかった。

 

「その程度の話ではない」

 

「分かってる」

 

彼女は肘を机に置き、指を組んだ。

 

「私が認めなければ?」

 

アレクセイは少し息を吸った。

 

その質問は、避けられなかった。

 

彼は姉を見た。

 

「命令を破って連れ去ることはしない」

 

バラライカの目が動いた。

 

「だが、考えを変えてもらうまで話す。今夜の処分だけは、待ってくれ」

 

その言い方に、彼女は答えなかった。

 

弟が続ける。

 

「今すぐ、まともになるとは思わない。懐けば終わりだとも思わない。俺を好きになる必要もない」

 

「それでも、面倒を見ると」

 

「ああ」

 

「なぜだ」

 

アレクセイは、扉の向こうを見た。

 

二人の顔を思い出した。

 

武器を持っていたときの笑み。

 

取り上げられたあとの静けさ。

 

誰かを傷つけるときの顔と、傷つけられる順番を待つ顔。

 

どちらにも、迷いがなかった。

 

それが、彼には耐えがたかった。

 

「ほかのやり方を、知らないように見えた」

 

彼は言った。

 

「教えた人間がいる。ああやって生きるようにした人間が」

 

「だから、罪が消えるわけではない」

 

「消えない」

 

「また誰かを傷つけたら?」

 

アレクセイは姉を見た。

 

「止める。俺も含めて、誰かの安全より、あの二人の機嫌を優先しない」

 

バラライカは長く黙った。

 

弟は待った。

 

 

【挿絵表示】

 

やがて彼女は、扉の方へ顔を向けた。

 

「軍曹」

 

ボリスが入ってくる。

 

バラライカは机に置かれた帳簿を閉じた。

 

「今夜は、東の空き家を使う」

 

アレクセイの肩が、ほんの少し下がった。

 

彼女は続けた。

 

「一般の者を近づけるな。医者を入れろ。見張りは交代制にする。武器を持った人員と、子供の生活する部屋は分ける」

 

「了解しました」

 

「外へ出すときは、私にも報告しろ」

 

そこまで言って、彼女は弟を見た。

 

「お前の責任だ」

 

アレクセイはうなずいた。

 

「了解、大尉」

 

バラライカは、さらに言った。

 

「責任を取るつもりで、死ぬなよ」

 

弟はすぐには答えなかった。

 

やがて、静かに言った。

 

「生きて面倒を見る」

 

*

 

サーシャとイワンは、車へ移されるところだった。

 

アレクセイは、その前へ立った。

 

二人とも彼を見た。

 

話があることは、すぐに分かったらしい。

 

「双子は、俺が預かる」

 

サーシャの顎が動いた。

 

イワンは黙っていた。

 

「武器は持たせない。お前たちのいる場所にも、勝手には近づけさせない」

 

「大尉は」

 

サーシャが尋ねる。

 

「条件つきで認めた」

 

長い沈黙があった。

 

医者の鞄が閉まる音が、近くで聞こえた。

 

イワンが先に口を開いた。

 

「俺たちに、許せと言うんですか」

 

「言わない」

 

アレクセイは答えた。

 

「顔を見たくなければ、会わなくていい。今日のことも、話せるときに話してくれればいい」

 

「じゃあ、なぜ俺たちに言う」

 

「あとから噂で聞かせたくなかった」

 

イワンは目を伏せた。

 

サーシャはアレクセイの顔を見ていた。

 

何かを確かめるように。

 

「危ないぞ」

 

彼は言った。

 

敬語ではなかった。

 

昔の、同じ場所にいた人間への声だった。

 

「あいつらは、お前が何者か分かっていない」

 

「分からせるために殴るつもりはない」

 

「そういうことじゃない」

 

「分かってる」

 

サーシャは息を吐いた。

 

疲れが、一気に顔へ出た。

 

「俺は、あの顔をしばらく見たくない」

 

アレクセイはうなずいた。

 

「分かった」

 

イワンも、小さくうなずいた。

 

賛成ではなかった。

 

反対をやめたわけでもなかった。

 

ただ、今はそれ以上話せなかった。

 

アレクセイは道を空けた。

 

二人が車へ乗る。

 

扉が閉まる直前、サーシャが言った。

 

「アリョーシャ」

 

アレクセイが顔を上げた。

 

「……迎えに来てくれて、助かった」

 

弟は、一瞬だけ言葉を失った。

 

それから、軽く顎を引いた。

 

「扇風機は、業者へ出しておく」

 

サーシャの口元が動いた。

 

「勝手に決めるな」

 

「修理は得意じゃないんだろう」

 

車の扉が閉まった。

 

走り出すまで、アレクセイはそこに立っていた。

 

*

 

双子は、同じ車に乗せられた。

 

離すと激しく抵抗したからだった。

 

だからといって、自由にしたわけではない。

 

危険なものがないか確かめられ、互いの顔を見られる位置に座らされた。

 

アレクセイは向かいに座った。

 

ボリスは前の席。

 

別の車が後ろについてくる。

 

少女は窓の外を見た。

 

少年はアレクセイを見ていた。

 

「どこへ行くの?」

 

「今夜、泊まる場所だ」

 

「売るの?」

 

質問は、あまりにも自然だった。

 

アレクセイはすぐに否定した。

 

「売らない」

 

「じゃあ、誰かにあげる?」

 

「それもしない」

 

「何のため?」

 

彼は二人を見た。

 

似ている。

 

顔だけではない。

 

相手が答える前から、次の言葉を用意しているような目も似ていた。

 

「怪我をしていないか確かめる。それから、食事だ」

 

少女が笑った。

 

「そのあと?」

 

「眠る」

 

「そのあと」

 

「明日になったら、明日の話をする」

 

少年は首を傾けた。

 

「何をすればいいの?」

 

アレクセイは、その問いを聞いて少し黙った。

 

何をさせられるのか。

 

二人は、それを知りたがっている。

 

何もしなくていいという答えが、理解できないのだろう。

 

彼は言葉を選んだ。

 

「今夜は、誰も傷つけないことだ」

 

少女の視線が彼の包帯へ落ちた。

 

左手。

 

そして、右の袖。

 

「あなたは痛くないの?」

 

「痛い」

 

「泣かないのね」

 

「泣くほどではない」

 

少年が言った。

 

「僕たちは、泣かないよ」

 

誇らしげだった。

 

アレクセイは褒めなかった。

 

ただ、うなずいた。

 

「そうか」

 

それだけだった。

 

期待した反応が返ってこなかったのか、少年は少し不満そうに窓へ顔を向けた。

 

やがて少女が、また尋ねた。

 

「あなた、何歳?」

 

「三十四だ」

 

二人が同時に彼を見た。

 

少女が吹き出す。

 

少年も笑い始めた。

 

まるで、初めて面白い冗談を聞いたようだった。

 

「嘘」

 

「よく言われる」

 

「大人なの?」

 

「ああ」

 

「じゃあ、どうして小さいの」

 

アレクセイは窓に映る自分を見た。

 

「身体が、途中で育たなくなった」

 

少女の笑いが、ゆっくり止まった。

 

少年はまだ彼を見ていた。

 

「壊れたの?」

 

アレクセイは二人へ目を戻した。

 

「壊れたものとして扱われるのは、好きじゃない」

 

静かな返事だった。

 

二人は黙った。

 

怒鳴られたわけではない。

 

それでも、何かを越えてはいけないと言われたことは分かったらしい。

 

車は橋を渡った。

 

暗い水面に、街の灯りが揺れていた。

 

*

 

東の空き家は、以前、事務所兼宿舎として使われていた建物だった。

 

一階に小さな居間。

 

台所。

 

二階に寝室が二つ。

 

古いが、掃除はされている。

 

窓の外には隣家の壁が見えた。

 

華やかさはない。

 

ホテルのような広さもない。

 

ただ、ベッドには清潔なシーツがあり、水道からは水が出た。

 

双子は部屋へ入ると、同じように周囲を見た。

 

出口。

 

窓。

 

家具の隙間。

 

アレクセイは、その視線を見ていた。

 

彼らは部屋を気に入るかどうか考えているのではない。

 

何が起きる場所なのか、確かめている。

 

モロゾフは、少し遅れて到着した。

 

双子を見ると、扉のところで一度足を止めた。

 

だが、すぐにいつもの顔へ戻った。

 

「医者だ」

 

彼は英語で言った。

 

「怪我をしていないか、確認したい」

 

少女は少年を見た。

 

少年はアレクセイを見た。

 

アレクセイは椅子を引いた。

 

「ここにいる」

 

モロゾフは、急いで触れなかった。

 

まず自分の鞄を机へ置く。

 

何を使うか見せる。

 

熱を測ること。

 

腕を見ること。

 

呼吸の音を聞くこと。

 

一つずつ説明した。

 

少女は途中で笑った。

 

「そんなに言わなくても、いいのに」

 

老人は彼女を見た。

 

「嫌なら、先に言ってほしい」

 

その言葉で、彼女の顔から笑みが薄れた。

 

何かを試すように言った。

 

「嫌」

 

モロゾフは手を止めた。

 

アレクセイも動かなかった。

 

少女は二人を見た。

 

「……しないの?」

 

「今、嫌だと言っただろう」

 

老人が答える。

 

少女は少年を見た。

 

少年も、少し戸惑っているようだった。

 

しばらくして、彼女は腕を出した。

 

「じゃあ、これはいい」

 

「分かった」

 

モロゾフは、それ以上のことを一度に求めなかった。

 

診察は時間がかかった。

 

双子は落ち着きなく笑い、急に黙り、互いの顔を何度も確かめた。

 

老人は最後まで声を荒らげなかった。

 

終わると、子供たちは別の部屋へ案内された。

 

アレクセイは残った。

 

モロゾフが鞄を閉じる。

 

その手が、少し遅かった。

 

「先生」

 

老人は顔を上げた。

 

「今夜、言えることは少ない」

 

「分かってる」

 

「分かっていても、先に言っておく。私が診られる範囲だけでは足りん」

 

アレクセイはうなずいた。

 

モロゾフは椅子に座った。

 

「古い傷がある。ひどく警戒している。それなのに、警戒すべき場面で妙に従順になる」

 

老人は言葉を切った。

 

「誰かの都合に合わせることを、ずいぶん早く覚えさせられたんだろう」

 

アレクセイは扉を見た。

 

向こうで、小さな笑い声がした。

 

「普通に話すことがある」

 

彼は言った。

 

「笑うし、冗談も言う」

 

「だから、大丈夫だとは思うな」

 

「思ってない」

 

モロゾフは彼を見た。

 

「お前ができることにも、限りがある」

 

アレクセイは少し笑った。

 

「今日は、何度も言われるな」

 

「何度でも言う」

 

老人の声は優しくなかった。

 

その方が、ありがたかった。

 

「眠れ。食え。人を頼れ。お前まで壊れれば、面倒を見る人間が減る」

 

アレクセイは椅子にもたれた。

 

「努力する」

 

モロゾフは頷いた。

 

「いい返事とは言えんが、今夜はそれでよしとする」

 

*

 

食卓には、スープとパンが並んだ。

 

割れにくい器。

 

先の尖っていない食器。

 

水。

 

それだけだった。

 

双子は向かい合わず、並んで座った。

 

アレクセイは正面。

 

部屋の外には見張りがいる。

 

隠してはいなかった。

 

少女はスープを覗き込み、少年へ何か囁いた。

 

二人が笑う。

 

アレクセイは自分の匙を取った。

 

先に一口飲む。

 

それを見てから、少女も口をつけた。

 

少年はパンを持った。

 

指先で少しちぎり、匂いを確かめる。

 

食べる。

 

そのあと、急に速くなった。

 

少女も同じだった。

 

二人とも、口の中が空になる前に次を取ろうとする。

 

「まだある」

 

アレクセイが言った。

 

二人の手が止まった。

 

叱られたと思ったらしい。

 

彼は台所の鍋を指した。

 

「足りなければ、足す」

 

少年は鍋を見た。

 

少女はアレクセイの顔を見た。

 

どちらも、すぐには信じなかった。

 

それでも食べる速さは、少しだけ落ちた。

 

アレクセイは自分のパンを半分に割った。

 

サーシャの話を思い出した。

 

昔、食べるものを渡した。

 

姉に叱られた。

 

食べることは、自分の身体を保つための仕事だと言われた。

 

今なら、あのときの彼女の苛立ちが分かる。

 

自分が食べなければ、いずれ誰かが支えなければならなくなる。

 

彼は半分を、ちゃんと自分で食べた。

 

少女が言った。

 

「名前、聞いてないわ」

 

「アレクセイだ」

 

「長い」

 

「そうか?」

 

「何て呼べばいい?」

 

「アレクセイ」

 

少女は不満そうに頬を膨らませた。

 

普通の子供のような顔だった。

 

その顔が、さっき刃物を持っていた顔と重なる。

 

アレクセイは目をそらさなかった。

 

「二人は?」

 

少年が、わずかに姿勢を正した。

 

「ヘンゼル」

 

少女が続けた。

 

「グレーテル」

 

二人は名乗ったあと、互いを見た。

 

何かの合図のようだった。

 

アレクセイは、そのやり取りを覚えておいた。

 

だが、問い詰めなかった。

 

「分かった」

 

グレーテルが尋ねる。

 

「あの女の人は?」

 

「姉だ」

 

「怒っていた人」

 

「そうだ」

 

「怖いね」

 

「怒っていたからな」

 

「あなたにも怒る?」

 

「よく怒る」

 

ヘンゼルが顔を上げた。

 

「叩くの?」

 

アレクセイは匙を置いた。

 

二人とも、彼を見ていた。

 

ただの好奇心ではなかった。

 

答えによって、この家でどう振る舞うかを決めようとしている。

 

「叩いて言うことを聞かせる関係ではない」

 

グレーテルが首を傾けた。

 

「じゃあ、どうするの?」

 

アレクセイは少し考えた。

 

「話す。怒鳴られることもある。俺が言い返すこともある」

 

「それで?」

 

「食事が冷める」

 

二人は黙った。

 

冗談だと分かるまでに、少し時間がかかった。

 

先に笑ったのはグレーテルだった。

 

ヘンゼルも、口元を動かした。

 

ほんの短い笑いだった。

 

アレクセイは、それを特別な成果のようには扱わなかった。

 

スープを飲み、パンを食べた。

 

食事は、食事のままで終わらせたかった。

 

*

 

食器を片づけるとき、パンが一つ足りなかった。

 

グレーテルの服の脇が、少し膨らんでいる。

 

アレクセイは気づいた。

 

彼女も、気づかれたことに気づいた。

 

身体が固くなる。

 

ヘンゼルが彼女の前へ半分出た。

 

アレクセイは台所の棚から、小さな蓋つきの容器を取った。

 

机へ置く。

 

「服に入れると、潰れる」

 

グレーテルは動かなかった。

 

「残したいなら、ここへ入れていい」

 

彼女は容器を見た。

 

次に彼の顔。

 

ゆっくりと、パンを出した。

 

少し平たくなっていた。

 

アレクセイは何も言わなかった。

 

彼女が自分で入れるのを待った。

 

蓋が閉まる。

 

グレーテルは容器を両手で抱えた。

 

「持っていっても?」

 

「ああ」

 

「明日もある?」

 

「朝食は用意する」

 

「これも?」

 

「それは、君が持っている」

 

彼女はもう一度蓋を押さえた。

 

確かめるように。

 

そのあとで、寝室の方を見た。

 

ベッドは二つ。

 

同じ部屋。

 

扉は開いている。

 

「鍵は?」

 

ヘンゼルが尋ねた。

 

「外には見張りがいる。勝手には出られない」

 

アレクセイは隠さず言った。

 

少年の目が細くなる。

 

「閉じ込めるの?」

 

「今夜は、安全だと確かめられていない。君たちが誰かを傷つけるかもしれないし、君たちを狙う者がいるかもしれない」

 

「あなたも?」

 

「俺も、傷つけられたくない」

 

グレーテルが、彼の右腕を見た。

 

今は手当てされ、白い布が巻かれている。

 

彼女はしばらくそこを見てから、視線を落とした。

 

謝らなかった。

 

アレクセイも、謝るようには言わなかった。

 

今、言葉だけ覚えさせても、何も分からない。

 

「眠れなければ呼んでくれ」

 

彼は言った。

 

「水が欲しいときも。気分が悪いときも」

 

ヘンゼルが尋ねる。

 

「呼んだら、来る?」

 

「誰かが来る」

 

「あなたは?」

 

「今夜は下にいる」

 

「ずっと?」

 

「交代する時間までは」

 

二人は顔を見合わせた。

 

曖昧な約束ではないことが、かえって奇妙に聞こえたらしい。

 

アレクセイは扉を閉めなかった。

 

明かりを少し落とし、廊下へ出た。

 

背後では、まだベッドが軋まなかった。

 

二人は立ったまま、部屋を確かめているのだろう。

 

彼は急かさなかった。

 

*

 

バラライカが来たのは、夜半近くだった。

 

アレクセイは台所の机で、紙に何かを書いていた。

 

必要な物。

 

翌日の予定。

 

誰に何を頼むか。

 

書いてみると、金より時間の方が足りなかった。

 

姉はその紙を見た。

 

「寝たのか」

 

「まだ分からない。静かにはなった」

 

「お前は?」

 

「交代が来たら眠る」

 

バラライカは椅子を引いた。

 

座る前に、弟の右腕を見る。

 

左手を見る。

 

顔を見る。

 

アレクセイはため息をついた。

 

「二本とも、まだついている」

 

「冗談を言う元気はあるな」

 

「仕事が増えただけだ」

 

彼女は机の紙を手に取った。

 

読み進める。

 

「衣類。食器。医師。見張り。食事の担当」

 

「足りないものがあれば」

 

「お前の休みがない」

 

アレクセイは紙を見た。

 

確かに書いていなかった。

 

バラライカは鉛筆を取り、空いたところへ線を引いた。

 

時間を書く。

 

「ここで交代しろ」

 

「その時間は、先生が来る」

 

「報告を聞けばいい」

 

「最初くらいは」

 

「アレクセイ」

 

彼は姉を見た。

 

彼女は鉛筆を置いた。

 

「お前が寝ずに見ていれば、何も起きないと思うな」

 

弟は答えなかった。

 

彼女は続けた。

 

「疲れて判断を誤れば、あの二人にも、周囲にも返ってくる」

 

アレクセイは椅子にもたれた。

 

昼間、モロゾフにも同じことを言われた。

 

今日は、人に頼れという言葉ばかり聞く。

 

その一方で、頼めば誰かの負担になることも、よく分かっていた。

 

「人員を出してくれて、助かる」

 

彼が言うと、バラライカは少し眉を動かした。

 

「帳簿につける」

 

「分かってる」

 

「安くはないぞ」

 

「酒を減らす」

 

「それは聞いた」

 

弟は小さく笑った。

 

姉も、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 

そのとき、二階で物音がした。

 

二人の表情が同時に変わる。

 

椅子から立つ。

 

廊下の見張りが顔を出した。

 

「寝室です」

 

アレクセイが階段へ向かった。

 

バラライカも続いた。

 

部屋の前で、弟が声をかける。

 

「入るぞ」

 

返事はなかった。

 

扉を開ける。

 

二つのベッドは空だった。

 

一瞬、空気が張りつめる。

 

次に、部屋の隅で小さな動きがあった。

 

双子は床に座っていた。

 

互いに身体を寄せ、毛布を引き下ろしている。

 

グレーテルの手には、あの容器。

 

ヘンゼルは彼女の前にいた。

 

何かが起きたわけではない。

 

ただ、ベッドから下りて、狭いところに集まっていた。

 

アレクセイは入口で止まった。

 

近づく前に、二人の顔を見た。

 

起きている。

 

怯えているのかどうかは、分からない。

 

笑ってはいなかった。

 

「床で眠るのか」

 

彼が尋ねる。

 

グレーテルが、ゆっくりうなずいた。

 

「こっちがいい」

 

アレクセイはベッドを見た。

 

それから、床。

 

無理に移動させる理由を考え、今夜はないと判断した。

 

「なら、下に敷くものを持ってくる。冷える」

 

ヘンゼルが、姉の方を見た。

 

いや、アレクセイの背後に立つ女を見た。

 

バラライカだった。

 

少年の身体が固くなる。

 

グレーテルも彼女を見る。

 

二人とも、何かを待つ顔になった。

 

バラライカは部屋を見渡した。

 

机。

 

ベッド。

 

隅の子供たち。

 

容器に入ったパン。

 

彼女の視線がそこで止まる。

 

アレクセイは何も説明しなかった。

 

バラライカはやがて、廊下へ顔を向けた。

 

「毛布をもう二枚。水も替えろ」

 

見張りがうなずいて下りていく。

 

グレーテルが、かすかに首を傾けた。

 

バラライカはその顔を見た。

 

何も言わなかった。

 

毛布が届くと、アレクセイが受け取った。

 

子供たちへ近づく。

 

途中で止まり、床を指した。

 

「ここに敷く。少し動けるか」

 

双子は互いを見た。

 

それから、ゆっくり場所を空けた。

 

アレクセイが毛布を畳んで敷く。

 

二人はそこへ戻った。

 

すぐにベッドへ行けとは言われなかった。

 

パンも取り上げられなかった。

 

それが何を意味するのか、まだ分からない顔だった。

 

アレクセイは立ち上がった。

 

バラライカが、弟の袖を軽く引いた。

 

毛布を敷いた拍子に、右腕の布が少しずれていた。

 

彼女は手早く直す。

 

弟が顔をしかめる。

 

「今じゃなくても」

 

「ずれている」

 

「あとで直す」

 

「もう直った」

 

そのやり取りを、双子が見ていた。

 

グレーテルが、アレクセイの名前を呼んだ。

 

まだ少し、発音がぎこちなかった。

 

彼は振り返った。

 

「何だ」

 

少女はバラライカを見た。

 

その手。

 

弟の腕。

 

顔。

 

「怒ってるのに、直すの?」

 

アレクセイは、一瞬言葉に詰まった。

 

バラライカは子供たちを見たまま、何も言わなかった。

 

やがて彼は答えた。

 

「怒っていても、怪我をしていいとは思っていないからだ」

 

グレーテルは黙った。

 

ヘンゼルも、黙っていた。

 

二人とも、理解した顔ではなかった。

 

それでも、その言葉を聞いていた。

 

アレクセイは扉へ戻った。

 

「明かりは、これでいいか」

 

少女がうなずく。

 

少年が、小さく尋ねた。

 

「朝は、来る?」

 

アレクセイは彼を見た。

 

「朝食の時間に」

 

「誰が?」

 

「俺か、食事を持ってくる人が」

 

少年は少し考えた。

 

「あなたがいい」

 

アレクセイはすぐに頷かなかった。

 

机に書いた予定を思い出す。

 

交代。

 

睡眠。

 

人に頼ること。

 

それから答えた。

 

「朝食のときには、一度顔を出す」

 

少年は、その言い方を聞き分けたようだった。

 

ずっといるとは言われなかった。

 

必ず守れそうな約束だけだった。

 

彼は小さくうなずいた。

 

*

 

階段を下りると、バラライカは立ち止まった。

 

アレクセイも止まる。

 

二階は静かだった。

 

彼女は低い声で言った。

 

「今夜だけで、何かが変わったと思うな」

 

「思ってない」

 

「あの二人は、お前を傷つけた」

 

「覚えてる」

 

「サーシャたちもだ」

 

弟は姉を見た。

 

「それも忘れない」

 

バラライカは、その目を見た。

 

都合のいいことだけを信じようとしている目ではなかった。

 

疲れている。

 

迷っている。

 

それでも、引き受けたことを手放すつもりはない。

 

彼女は息を吐いた。

 

「なら、まず寝ろ」

 

「交代が」

 

「来ている」

 

玄関の方で、ボリスが立っていた。

 

アレクセイは彼を見た。

 

「軍曹が?」

 

「最初の引き継ぎですから」

 

「自分の仕事もあるだろう」

 

「あります。ですので、手短にお願いします」

 

アレクセイは少しだけ笑った。

 

それから、机の紙を取り上げた。

 

食事。

 

診察。

 

見つかった怪我。

 

二人が互いから離れたがらないこと。

 

眠る場所を自分で選ばせたこと。

 

約束した朝食。

 

一つずつ、伝えた。

 

ボリスは余計な感想を挟まなかった。

 

最後まで聞き、必要なことだけ尋ねた。

 

その態度に、アレクセイは救われた。

 

話し終えると、自分が思っていたより疲れていることに気づいた。

 

右腕が痛む。

 

左手も。

 

頭の奥が重い。

 

バラライカが上着を持ってきた。

 

弟へ差し出す。

 

アレクセイは受け取った。

 

今度は、暑いとは言わなかった。

 

玄関へ向かう前に、二階を見上げる。

 

静かだった。

 

その静けさが安全を意味するとは、まだ思えない。

 

それでも、今夜は銃声がしていない。

 

誰かを傷つける音も、しない。

 

彼はボリスへ向いた。

 

「何かあれば、起こしてくれ」

 

「承知しました」

 

「遠慮は」

 

「しません」

 

そこで、ようやくアレクセイは頷いた。

 

外へ出ると、夜の空気が少し冷たかった。

 

車の前で、バラライカが尋ねた。

 

「後悔しているか」

 

弟は家を見た。

 

二階の窓に、薄い明かりが残っている。

 

しばらく考えてから答えた。

 

「まだ、始まったばかりだ」

 

バラライカは、その返事を聞いて扉を開けた。

 

「そうだな」

 

*

 

二階の部屋で、双子はまだ起きていた。

 

毛布の上。

 

壁際。

 

パンの入った容器を、二人の間に置いている。

 

外で車が走り出す音がした。

 

グレーテルが顔を上げた。

 

「行ったの?」

 

ヘンゼルは耳を澄ませた。

 

階下で、別の足音がする。

 

重い靴。

 

人がいる。

 

完全に置き去りにされたわけではない。

 

彼は、小さく答えた。

 

「朝に来るって」

 

「嘘かもしれない」

 

「うん」

 

二人は黙った。

 

約束が守られないことを、知っていた。

 

優しい声のあとに、何が来るかも知っていた。

 

だから、まだ信じていなかった。

 

それでもグレーテルは、容器の蓋を開けなかった。

 

今、全部食べてしまうこともできた。

 

取られる前に、なくしてしまうことも。

 

彼女は蓋の上に手を置き、じっと見た。

 

やがて、容器を壁際へ寄せた。

 

手の届くところ。

 

明日も、そこにあるかもしれない場所へ。

 

ヘンゼルが毛布を引き上げた。

 

二人は肩を寄せた。

 

部屋の明かりは、消えなかった。

 

誰も入ってこなかった。

 

しばらくして、グレーテルが小さく言った。

 

「大人なんだって」

 

ヘンゼルは目を閉じていた。

 

「誰が?」

 

「アレクセイ」

 

少年は、少しだけ目を開けた。

 

幼い顔。

 

落ち着いた声。

 

刃物を取り上げた手。

 

傷つけられた腕。

 

それから、パンを入れるための容器。

 

彼は、それらをまだ一つの人間として理解できなかった。

 

「変な大人」

 

グレーテルが言った。

 

ヘンゼルは、かすかにうなずいた。

 

夜は、ゆっくり過ぎていった。

 

二人にとって初めての、安全な夜だったとは言えない。

 

まだ、何も終わってはいなかった。

 

ただ、その部屋には、朝食の約束があった。

 

第四話・了

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