BLACK LAGOON ―姉さん、俺はもう大人だ―   作:いっしきさん

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第五話 返さなくていいもの

第五話 返さなくていいもの

 

朝になっても、パンはそこにあった。

 

壁際に置いた小さな容器。

 

蓋の隙間から、昨夜のパンの端が見えている。

 

グレーテルは毛布の中から手を伸ばした。

 

容器を引き寄せる。

 

蓋を開ける。

 

中身を確かめる。

 

それから、もう一度閉めた。

 

隣ではヘンゼルが目を開けていた。

 

眠っていたのか、ずっと起きていたのか、分からない。

 

二人とも、ベッドには移らなかった。

 

壁を背にしていれば、後ろから人が来ない。

 

部屋の入口が見える。

 

互いの身体が触れている。

 

そういう場所の方が、眠りやすかった。

 

階下で音がした。

 

重い足音。

 

扉の開閉。

 

低い男の声。

 

グレーテルの手が止まる。

 

ヘンゼルが顔を上げた。

 

そのあとで、別の足音が加わった。

 

軽いが、急いではいない。

 

階段を上ってくる。

 

部屋の前で止まる。

 

二度、扉が叩かれた。

 

「起きているか」

 

二人は顔を見合わせた。

 

昨夜の声だった。

 

「……起きてる」

 

ヘンゼルが答えた。

 

「入るぞ」

 

扉が開いた。

 

アレクセイが立っていた。

 

灰色のシャツ。

 

黒いズボン。

 

左手の包帯と、右腕の白い布。

 

昨日と違うのは、少し髪が乱れていることだった。

 

寝癖だった。

 

グレーテルは、そこを見た。

 

彼も眠るのだと、初めて気づいたような顔だった。

 

アレクセイは床の二人を見た。

 

次に、使われていないベッド。

 

何も言わなかった。

 

「朝食だ。下で食べる」

 

ヘンゼルが尋ねる。

 

「来たの?」

 

アレクセイは片方の眉を上げた。

 

「今、立っているだろう」

 

「朝に来るって言ったから?」

 

「そうだ」

 

その返事は簡単だった。

 

何かを期待するような笑顔もない。

 

約束を守ったことを、褒めてもらおうとする様子もない。

 

グレーテルは容器を抱えた。

 

アレクセイの目がそこへ向く。

 

彼女の指が、蓋を押さえた。

 

「それも持っていけばいい」

 

彼は言った。

 

「飲み物がないと、喉に詰まる」

 

階段を下りる前に、アレクセイは自分の髪を右手で押さえた。

 

直っていなかった。

 

グレーテルは、ヘンゼルへ小さく囁いた。

 

二人が笑う。

 

アレクセイは振り返った。

 

「何だ」

 

「頭」

 

グレーテルが指した。

 

彼は触り直し、少しだけ顔をしかめた。

 

「そこは、もういい」

 

二人はまた笑った。

 

今朝、最初の笑いだった。

 

*

 

台所には、年配の女がいた。

 

髪を後ろでまとめ、袖をまくっている。

 

鍋から皿へ、温かいものを移していた。

 

双子が入ってくると、一度だけ顔を上げた。

 

「おはよう」

 

英語だった。

 

返事はなかった。

 

女は構わず、皿を並べた。

 

「熱いから、気をつけて」

 

アレクセイが椅子を引く。

 

「ナディアだ。食事を頼んでいる」

 

女は二人に微笑もうとはしなかった。

 

皿の位置を直し、水差しを置いた。

 

「パンはここ。水はこっち。足りなかったら言って」

 

それだけだった。

 

双子は椅子に座った。

 

並んで。

 

扉に背を向けない方へ。

 

アレクセイは昨夜と同じく、正面へ座った。

 

卵。

 

柔らかく煮た野菜。

 

パン。

 

派手な料理ではなかった。

 

しかし、皿はそれぞれにあった。

 

誰かの残りを分けたようには見えない。

 

ヘンゼルは、自分の皿とグレーテルの皿を見比べた。

 

ほとんど同じ量だった。

 

グレーテルは容器を机へ置いた。

 

蓋を開ける。

 

昨夜のパンを出して、先に食べ始めた。

 

アレクセイは自分の皿へ手をつけた。

 

取り上げなかった。

 

新しいものを先に食べろとも言わなかった。

 

ヘンゼルが、彼の手元を見ていた。

 

アレクセイはそれに気づいたが、食事を続けた。

 

しばらくして、少年も食べ始める。

 

ナディアが彼の前を通ったとき、肩がわずかに上がった。

 

彼女は触れずに通り過ぎた。

 

それも、アレクセイは見ていた。

 

食卓の端には、砂糖の入った小さな瓶があった。

 

グレーテルがそれを見つけた。

 

手を伸ばしかけ、止める。

 

アレクセイの顔を見る。

 

「使いたいのか」

 

彼女はうなずいた。

 

「何に?」

 

グレーテルはパンを見た。

 

ナディアが振り返った。

 

「なら、ジャムの方がいいわ」

 

棚から小さな皿を持ってくる。

 

赤いジャムが少し。

 

机に置かれると、双子の視線が同時に動いた。

 

ヘンゼルが匙を取る。

 

グレーテルが彼の手首に触れる。

 

二人の間で、何かが通じた。

 

アレクセイは急かさなかった。

 

ヘンゼルがパンへ薄く塗った。

 

少しだけ残す。

 

皿をグレーテルへ寄せる。

 

ナディアがその様子を見て、何か言いかけた。

 

アレクセイは小さく首を振った。

 

彼女は口を閉じた。

 

食べ終わったあと、ヘンゼルは両手を膝へ置いた。

 

姿勢を正す。

 

グレーテルも同じようにした。

 

アレクセイは、水を飲む手を止めた。

 

二人とも、何かを待っている。

 

「どうした」

 

ヘンゼルが答えた。

 

「何をすればいい?」

 

「食べ終わったなら、皿を置いておいてくれ」

 

「そうじゃなくて」

 

少年の口元に、あの笑みが戻った。

 

「誰を殺せばいいの?」

 

台所で、皿の音が止まった。

 

ナディアが動かなくなった。

 

グレーテルは当然のように、ヘンゼルの言葉を待っていた。

 

冗談ではなかった。

 

ふざけて怖がらせているわけでもない。

 

仕事の内容を聞く顔だった。

 

アレクセイは水の入ったグラスを置いた。

 

音を立てないように。

 

「誰も」

 

少年の笑みが薄れた。

 

「まだ決まってない?」

 

「決める予定がない」

 

「僕たち、できるよ」

 

「知っている」

 

アレクセイは言った。

 

「だから頼む、という話にはならない」

 

グレーテルが眉を寄せた。

 

「じゃあ、何を返すの?」

 

彼は二人を見た。

 

きれいに食べた皿。

 

減った水。

 

空になったパンの容器。

 

何も残さなければ、その分だけ何かを差し出さなければならない。

 

二人は、そういう計算をしていた。

 

「食事の代金は、もう払ってある」

 

アレクセイは言った。

 

「君たちに取り立てるつもりはない」

 

「あなたに返すんでしょう?」

 

グレーテルが尋ねる。

 

「返さなくていい」

 

二人は黙った。

 

納得した顔ではなかった。

 

何かを隠されていると疑っている顔だった。

 

アレクセイは言葉を足した。

 

「俺が働いて、食事を用意する人に払う。君たちが誰かを傷つけることを、その支払いに使うつもりはない」

 

ヘンゼルが自分の指を見た。

 

グレーテルはナディアを見た。

 

女は少し間を置いて、皿を重ね始めた。

 

「冷める前に食べてくれたら、それで助かるわ」

 

彼女は言った。

 

「作ったものを、ずっと温め直すのは面倒だから」

 

アレクセイは小さくうなずいた。

 

双子は、それ以上質問しなかった。

 

だが、答えを受け入れたわけではなかった。

 

まだ、何か別の値段があると思っていた。

 

*

 

朝食のあと、アレクセイは家の中を案内した。

 

昨日は、必要な場所しか見せていない。

 

今朝は居間と台所。

 

洗面所。

 

寝室。

 

そして、入ってはいけない部屋。

 

扉を指して、彼は言った。

 

「ここは仕事の部屋だ。俺や係の者がいないときは入らない」

 

グレーテルが尋ねる。

 

「何があるの?」

 

「書類。電話。人の荷物」

 

「銃は?」

 

「触らせない」

 

「あるの?」

 

「何があるかと、君たちが触っていいかは別の話だ」

 

少女は唇を少し尖らせた。

 

アレクセイは続けた。

 

「外へ出たいときも、先に言ってくれ。一人で出ることは、今は認められない」

 

ヘンゼルが窓を見た。

 

「逃げると思ってる?」

 

「その可能性も考えている」

 

少年は彼を見る。

 

アレクセイは目をそらさなかった。

 

「誰かを傷つけるかもしれない。君たちが傷つけられるかもしれない。その両方を考えている」

 

「信用してないんだ」

 

「まだ、よく知らない」

 

グレーテルが笑った。

 

「昨日、あんなに話したのに」

 

「一晩で、人を全部知ることはできない」

 

アレクセイは扉を閉めた。

 

鍵をかける。

 

それを、双子に見えるようにした。

 

隠して自由なふりをするつもりはなかった。

 

少年の視線が、鍵へ向いた。

 

少女は、別の方を見ていた。

 

廊下に立つ見張り。

 

まだ若い男だった。

 

二人が笑いかけると、彼は一瞬だけ困った顔をした。

 

アレクセイは、その様子を覚えておいた。

 

居間へ戻ると、ナディアが紙と鉛筆を置いていた。

 

絵を描けるようにしたのだという。

 

鉛筆は数本。

 

使ったあとで戻せるよう、小さな皿に並べてある。

 

ヘンゼルは一本を手に取った。

 

グレーテルは紙を撫でた。

 

白い紙。

 

何も書かれていない。

 

彼女は裏を見た。

 

そちらも白かった。

 

「何を描くの?」

 

アレクセイへ尋ねる。

 

「決まっていない」

 

「何でも?」

 

「紙に描くなら」

 

ヘンゼルが笑った。

 

「壁は?」

 

「困る」

 

「困るだけ?」

 

アレクセイは少年を見た。

 

「消す仕事が増える」

 

ヘンゼルは少し考えた。

 

そして、紙へ鉛筆を下ろした。

 

アレクセイは向かいに座り、必要な物の一覧を直した。

 

しばらく、鉛筆の音だけがした。

 

普通の午前に見えた。

 

だからこそ、気を緩めないようにした。

 

*

 

問題が起きたのは、電話に呼ばれた直後だった。

 

アレクセイは廊下の向こうで、モロゾフと話していた。

 

午後の予定。

 

必要な検査。

 

連絡がついた医師について。

 

数分もかからない話だった。

 

電話を置いて居間へ戻る途中、仕事部屋の扉が開いているのを見つけた。

 

若い見張りが、その前に立っていた。

 

グレーテルが中へ入ろうとしている。

 

ヘンゼルは少し離れたところで、見張りへ何か話しかけていた。

 

アレクセイは足を止めた。

 

「グレーテル」

 

少女が振り返った。

 

驚いた顔をした。

 

すぐに、笑顔になる。

 

「鉛筆を探してたの」

 

「居間にある」

 

「折れちゃったから」

 

彼女の手には、先の欠けた鉛筆があった。

 

嘘ではない。

 

だが、それだけでもなかった。

 

アレクセイは見張りを見た。

 

若い男が口を開いた。

 

「削る道具があるかと……」

 

「出てきてくれ」

 

アレクセイは少女へ言った。

 

グレーテルは動かなかった。

 

扉の向こうを見ている。

 

机の上。

 

引き出し。

 

電話。

 

どこまで近づけるか確かめているようだった。

 

「すぐ終わるわ」

 

「今は入れない」

 

「この人は、いいって」

 

若い男の顔が変わった。

 

ヘンゼルが、横から言った。

 

「僕も聞いたよ」

 

アレクセイは二人を順に見た。

 

そして、見張りへ向いた。

 

「許可したのか」

 

男は迷ってから、うなずいた。

 

「鉛筆を削るだけなら、と」

 

「分かった」

 

アレクセイは少女を見た。

 

「話が揃っていなかった。そこは、こちらの問題だ」

 

グレーテルの笑みが、わずかに深くなった。

 

アレクセイは続けた。

 

「だが、今は俺が戻っている。外へ出てくれ」

 

笑みが止まった。

 

少女の指が、扉の端をつかんだ。

 

「どうして?」

 

「そこは仕事の部屋だからだ」

 

「何もしないのに」

 

「触っていいものを、まだ説明していない」

 

「だったら、説明すれば?」

 

「今は、別の用事がある」

 

ヘンゼルが近づいた。

 

歩き方が変わっていた。

 

ただの見物ではない。

 

アレクセイは少年へ顔を向けた。

 

「そこで待ってくれ」

 

少年は止まらなかった。

 

少女が扉を引いた。

 

閉めようとしたのか、アレクセイを遠ざけようとしたのか。

 

その動きで、指が隙間へ寄った。

 

アレクセイは扉を押さえた。

 

「手を離せ」

 

声が強くなった。

 

グレーテルの顔から、笑みが消えた。

 

ヘンゼルがさらに近づく。

 

見張りが動こうとした。

 

アレクセイは短く言った。

 

「手を挟む。離してくれ」

 

少女は彼の顔を見た。

 

怒っている。

 

それは分かったのだろう。

 

だが、その目は彼女を打つ場所ではなく、扉の隙間を見ていた。

 

彼女はゆっくり指を離した。

 

アレクセイは扉を止めたまま、半歩下がった。

 

通れる場所を空ける。

 

グレーテルはそこから出てきた。

 

ヘンゼルが彼女の横へ立つ。

 

二人は並んだ。

 

身構えていた。

 

アレクセイは扉を閉めた。

 

鍵をかける。

 

それから、二人へ向き直った。

 

「鉛筆は、別のものを渡す。削るのはこちらでやる」

 

グレーテルは、まだ彼の手を見ていた。

 

右手。

 

左手。

 

何かを持つのを待っている。

 

アレクセイは何も取らなかった。

 

「部屋へ戻ってくれ。あとで、もう一度話す」

 

ヘンゼルが尋ねた。

 

「何をするの?」

 

「今の話だ」

 

「それだけ?」

 

「それだけ」

 

二人はすぐには動かなかった。

 

やがてグレーテルが先に歩き出した。

 

ヘンゼルも続く。

 

居間へ戻るまで、何度も振り返った。

 

*

 

若い見張りは、廊下に残った。

 

「申し訳ありません」

 

アレクセイは首を振った。

 

「俺の説明も足りなかった」

 

「ですが、勝手に」

 

「許可したことは、次から変えてくれ。子供に合わせて、その場で条件を緩めない」

 

男はうなずいた。

 

アレクセイは声を落とした。

 

「可愛らしく見えても、怖く見えても、同じように扱ってくれ。嫌われないように特別な許可を出すのも、腹を立てて罰を増やすのも困る」

 

見張りは、居間の方を見た。

 

「試されたんでしょうか」

 

「そうかもしれない」

 

「分かってやっているんですね」

 

アレクセイは少し黙った。

 

分かっていること。

 

分かっていないこと。

 

その区別は、自分にもまだつかなかった。

 

「相手によって通る話が違うと、知っているんだろう」

 

彼は言った。

 

「だから、こちらが揃える」

 

そのあと、アレクセイは居間へ戻った。

 

二人は椅子に座っていた。

 

紙には、途中まで描かれた絵がある。

 

何の絵なのか、今は尋ねなかった。

 

新しい鉛筆を皿へ置く。

 

グレーテルがそれを見た。

 

「くれるの?」

 

「描いていたんだろう」

 

彼女は受け取らなかった。

 

ヘンゼルが尋ねた。

 

「怒ってる?」

 

「約束が守られなかったことには、困っている」

 

「でも、あの人は」

 

「許可が食い違ったのは、こちらの問題だ。それは直す」

 

アレクセイは椅子へ座った。

 

「これから、閉めてある部屋は、俺がいないときには入らない。何か欲しいものがあれば、外で待っていてくれ」

 

グレーテルが鉛筆へ触れた。

 

「言えば、何でもくれる?」

 

「何でもではない」

 

「じゃあ、言っても同じね」

 

「駄目なときは、理由を話す」

 

少女は肩をすくめた。

 

納得していない。

 

アレクセイは、それ以上言葉を重ねなかった。

 

一度話せば伝わるなら、ここまで警戒する必要はない。

 

彼は机の端へ、小さな時計を置いた。

 

「これから、外へ出る」

 

双子の顔が上がった。

 

「どこへ?」

 

「サーシャとイワンのところだ。昨日、店にいた二人」

 

名前を聞いても、二人の表情は大きく変わらなかった。

 

アレクセイは続けた。

 

「昼過ぎには戻る。遅れるなら、ここへ電話する」

 

ヘンゼルが時計を見た。

 

「その間は?」

 

「ナディアと、ここにいる人の話を聞いてくれ」

 

グレーテルが尋ねる。

 

「お昼は?」

 

「用意してある」

 

「食べていいの?」

 

アレクセイは彼女を見た。

 

少女は、少し前の扉の方を見ていた。

 

約束を破った。

 

怒らせた。

 

だから次の食事がどうなるのか、確かめている。

 

「食事は出る」

 

彼ははっきり言った。

 

「部屋へ入ろうとした話と、昼食を食べる話は別だ」

 

少女は唇を閉じた。

 

アレクセイは立ち上がった。

 

机の時計を、二人から見える向きへ少し直した。

 

*

 

サーシャはベッドの上で、新聞を逆さに持っていた。

 

アレクセイが扉を開けると、慌てて向きを変える。

 

隣のベッドでイワンが笑った。

 

「読んでいるふりです」

 

「字が小さいんだ」

 

「逆でも同じくらい読めるんですね」

 

アレクセイは椅子を引いた。

 

二人とも、昨夜より顔色がよかった。

 

それでも、腫れは残っている。

 

手首には、拘束されていた跡があった。

 

彼はそこを見てから、果物の袋を机へ置いた。

 

「医者は?」

 

「問題なし、と」

 

サーシャが言う。

 

イワンが訂正した。

 

「数日は休め、とです」

 

「同じことだ」

 

「違う」

 

アレクセイは即答した。

 

サーシャは新聞を畳んだ。

 

しばらく、誰も話さなかった。

 

明るく始まった会話が、そこで止まった。

 

双子の話をするかどうか。

 

誰が先に言うか。

 

その沈黙だと、アレクセイには分かった。

 

彼は自分から口を開いた。

 

「昨夜は、別の家へ移した。見張りをつけている」

 

イワンは窓を見た。

 

サーシャはアレクセイを見ていた。

 

「武器はない。お前たちのところへ、勝手に連れてくることもしない」

 

「それは、頼む」

 

イワンが言った。

 

声は平らだった。

 

「今は、顔を見たくない」

 

「分かった」

 

アレクセイはうなずいた。

 

イワンは膝の上で手を組んだ。

 

指を動かす。

 

止める。

 

「昨夜、目が覚めたら、手が動かなかった気がした」

 

彼は窓を見たまま言った。

 

「実際は動く。布団が引っかかっていただけだ。だが、少しの間、分からなかった」

 

アレクセイは何も挟まなかった。

 

「戦場でも、ああいうことはあった。捕まることだって考えた。だが、今回は」

 

イワンの言葉が切れた。

 

サーシャが低く言った。

 

「笑っていた」

 

アレクセイは二人を見た。

 

サーシャの顔から、いつもの気安さが消えていた。

 

「俺たちが何を言っても、面白いことを聞いたみたいに笑う。話が通じているのか、いないのか、それも分からなかった」

 

彼は自分の手首を見た。

 

「撃ち合いなら、まだ分かる」

 

アレクセイは頷いた。

 

「そうだな」

 

「何か、理由があったのか」

 

サーシャが尋ねた。

 

「俺たちを選んだ理由だ」

 

「調べている」

 

「分かったら、教えてくれ」

 

「分かった範囲で話す」

 

サーシャは息を吐いた。

 

イワンが、ようやくアレクセイへ顔を向けた。

 

「可哀想な子供なんでしょう」

 

問いではなかった。

 

責める響きも、少しあった。

 

アレクセイは急いで答えなかった。

 

やがて言った。

 

「何をされてきたのか、まだ全部は知らない」

 

「何かあったから、ああなった」

 

「たぶんな」

 

「それを聞けば、俺たちも許すべきなのか」

 

「違う」

 

今度は、すぐに答えた。

 

「お前たちが怖かったことも、痛かったことも、それで小さくはならない」

 

イワンは口を閉じた。

 

アレクセイは続けた。

 

「保護を決めたのは俺だ。お前たちに、納得して支えてくれとまでは言えない」

 

「支える気は、今はない」

 

「分かった」

 

「面倒も見ない」

 

「頼まない」

 

イワンは、そこで初めて背をベッドへ預けた。

 

口に出しても、責められないと分かったのだろう。

 

サーシャが、果物の袋を見た。

 

「お前は、休んでいるのか」

 

アレクセイは苦笑した。

 

「今日は、そればかり聞かれる」

 

「答えろ」

 

「昨夜は交代した。少し寝た」

 

「少し、か」

 

「十分ではない。だから午後も交代する」

 

サーシャはしばらく彼を見ていた。

 

それから、袋へ手を伸ばした。

 

「ならいい」

 

イワンが小さく言った。

 

「連れてきた責任を取るとか言って、一人で無理をするなよ」

 

アレクセイは二人を見た。

 

双子を許したわけではない。

 

引き受けるとも言っていない。

 

それでも、自分のことは心配している。

 

彼は静かにうなずいた。

 

「気をつける」

 

帰り際、サーシャが呼び止めた。

 

「扇風機は?」

 

「修理に出した」

 

「高かったか」

 

「部品を買い直すらしい」

 

イワンが、サーシャを見た。

 

サーシャは目をそらした。

 

アレクセイは扉のところで言った。

 

「余った部品は、余っていなかったそうだ」

 

イワンが笑った。

 

短い笑いだった。

 

今度は、サーシャも否定しなかった。

 

*

 

バラライカが家を訪れたとき、昼食はすでに終わっていた。

 

弟はまだ戻っていない。

 

ボリスから聞いていたので、それは承知していた。

 

彼女は玄関で上着を預け、居間へ入った。

 

双子が机に座っていた。

 

紙が数枚。

 

鉛筆。

 

時計。

 

二人とも、扉が開いた瞬間に顔を上げた。

 

バラライカを見た途端、動きが止まる。

 

彼女はそれを見た。

 

笑って安心させようとはしなかった。

 

椅子にも座らず、ナディアへ尋ねた。

 

「食事は」

 

「二人とも食べました」

 

「残したか」

 

「少し。でも、無理には食べさせていません」

 

「それでいい」

 

バラライカは机の上を見た。

 

水差し。

 

空のグラス。

 

昨日のパンを入れていた容器。

 

「水は、自分で飲めるようにしてあるな」

 

「ええ」

 

双子は会話を聞いていた。

 

ヘンゼルの視線が、彼女の腰へ落ちる。

 

グレーテルは、顔の傷を見ていた。

 

バラライカは気づいていたが、何も言わなかった。

 

そのとき、ヘンゼルが尋ねた。

 

「アレクセイは?」

 

「帰ってくる」

 

「いつ?」

 

「予定どおりなら、間もなくだ」

 

少年は時計を見た。

 

針を読めるのか、動くものとして見ているのか。

 

彼女には分からなかった。

 

グレーテルが鉛筆を置いた。

 

「怒られたの?」

 

バラライカは少女を見る。

 

「誰が」

 

「アレクセイ」

 

「なぜそう思う」

 

「私たちが、部屋に入ったから」

 

ナディアが説明しようとした。

 

バラライカは片手を少し上げた。

 

話はすでに報告されている。

 

「その件は、聞いている」

 

彼女は言った。

 

グレーテルは肩をすくめた。

 

「じゃあ、帰ってこないかもしれないね」

 

軽い声だった。

 

だが、鉛筆を持っていない手が、机の下で動いていた。

 

服の端を揉んでいる。

 

バラライカはその手を見た。

 

それから少女の顔へ戻った。

 

「あいつは、自分で決めた」

 

声は低かった。

 

「お前たちの世話をすると言った。午前中に面倒を起こされたくらいで、取り消す男ではない」

 

双子は黙った。

 

バラライカは続けなかった。

 

慰めるために長い約束を並べるつもりはない。

 

ただ、自分の知っている弟のことを話した。

 

玄関で車の音がした。

 

少し遅れて、扉が開く。

 

アレクセイが入ってきた。

 

双子の顔が、同時にそちらへ向いた。

 

彼は姉を見つけ、少し眉を上げた。

 

「来ていたのか」

 

「見れば分かるだろう」

 

アレクセイは、一瞬だけ黙った。

 

今朝、自分が双子へ言った言葉と同じだった。

 

グレーテルが小さく笑った。

 

バラライカが少女を見る。

 

少女はすぐに口を閉じた。

 

アレクセイは机へ近づいた。

 

「戻った」

 

時計を見る。

 

予定より、少しだけ早い。

 

ヘンゼルは時計と彼の顔を見比べた。

 

「二人は?」

 

「休んでいる」

 

「死ななかった?」

 

部屋の空気が変わった。

 

バラライカの目が、少年へ向いた。

 

アレクセイは先に答えた。

 

「生きている。今は怪我を治している」

 

少年は頷いた。

 

何を考えたのかは、分からなかった。

 

アレクセイは姉へ向いた。

 

「俺の様子を見に来ただけじゃなかったのか」

 

彼女はナディアの持つ食事の記録を見た。

 

「預かると決めた以上、食わせるのは当然だ」

 

「俺が決めたんだが」

 

「建物も、人員も、こちらが出している」

 

「帳簿につけるんだろう」

 

「つける」

 

アレクセイは上着を脱いだ。

 

「分かった」

 

バラライカの視線が右腕へ落ちた。

 

彼はため息をついた。

 

「傷は開いていない」

 

「医者に見せたのか」

 

「サーシャたちのところで」

 

「薬は」

 

「あとで飲む」

 

バラライカが彼を見る。

 

弟は諦めたように水差しを取った。

 

双子は、そのやり取りを黙って見ていた。

 

怒られている。

 

だが、アレクセイは怯えていない。

 

彼女の顔を見て、普通に言い返している。

 

それなのに、誰も彼を殴らない。

 

グレーテルは机の下で、ヘンゼルの袖に触れた。

 

彼も見ていた。

 

同じことを、確かめるように。

 

*

 

午後、アレクセイは本当に休んだ。

 

双子のいる部屋を離れ、隣の建物の空いた部屋へ移った。

 

ベッドは古く、枕は硬かった。

 

それでも、横になるとすぐに身体が重くなった。

 

眠る直前、彼は右腕の痛みを感じた。

 

それから、サーシャの顔。

 

イワンの手首。

 

朝食の席で、誰を殺せばいいと尋ねた少年。

 

グレーテルの、扉をつかんだ指。

 

一つずつが、頭の中へ戻ってきた。

 

うまくいっているとは思えなかった。

 

昨日、命を助けた。

 

今日、食事を出した。

 

その二つのことと、二人が誰かを殺さずに生きられるようになることの間には、まだ途方もない距離があった。

 

自分は、その距離を知っているつもりで引き受けたのだろうか。

 

アレクセイは目を閉じた。

 

今ここで、すべてを考えても答えは出ない。

 

目覚めたときに、また考えればいい。

 

そのくらいのことを、他人には何度も言ってきた。

 

自分にも言う必要があった。

 

*

 

夕方には、家の中の音が少し変わっていた。

 

ナディアが鍋をかき混ぜる音。

 

見張りが交代する音。

 

紙をめくる音。

 

グレーテルが何かを尋ね、ヘンゼルが答える声。

 

アレクセイが戻ると、机の上に絵が増えていた。

 

家。

 

窓。

 

二つの人影。

 

別の紙には、黒い四角がいくつも並んでいる。

 

彼は勝手に持ち上げなかった。

 

「見てもいいか」

 

ヘンゼルが顔を上げた。

 

少し考え、紙を裏返した。

 

「まだ駄目」

 

「分かった」

 

アレクセイは向かいへ座った。

 

グレーテルが、彼の顔を覗き込んだ。

 

「寝てたの?」

 

「ああ」

 

「本当に?」

 

「見れば分かるかと思ったが」

 

少女は彼の髪を見た。

 

今度は、乱れていなかった。

 

「分からない」

 

「なら、少しはまともに起きられたらしい」

 

ヘンゼルが笑った。

 

アレクセイは机の端へ、小さな帳面を置いた。

 

買ったものの金額を書き込む。

 

紙。

 

鉛筆。

 

食器。

 

石鹸。

 

グレーテルの視線が、そこへ落ちた。

 

数字を見ている。

 

アレクセイは気づいた。

 

「これは、家で使う金の記録だ」

 

少女は顔を上げた。

 

「私たちの?」

 

「この家の」

 

「返すもの?」

 

「違う」

 

朝と同じ質問だった。

 

朝の答えが、まだ信用されていない。

 

彼は苛立たなかった。

 

少なくとも、顔には出さなかった。

 

「誰にいくら払ったか、忘れないためにつけている」

 

「私たちにも書く?」

 

「君たちが借金をしたことにはしない」

 

グレーテルは帳面を見ていた。

 

やがて、紙の方へ視線を戻した。

 

完全に安心したわけではなかった。

 

それでも、その場から逃げるような動きはしなかった。

 

夕食の匂いが漂ってきた。

 

ヘンゼルが顔を上げる。

 

アレクセイは帳面を閉じた。

 

「食べよう」

 

*

 

コップが割れたのは、夕食のあとだった。

 

特別な出来事は、何もなかった。

 

グレーテルが席を立つ。

 

袖が机の端に触れる。

 

水の残ったコップが傾く。

 

彼女がつかもうとする。

 

間に合わない。

 

床で、鋭い音がした。

 

その音だけが、家の中に大きく響いた。

 

グレーテルは動かなくなった。

 

椅子の横に立ったまま。

 

手が、まだ宙に浮いている。

 

ヘンゼルが彼女を見た。

 

次にアレクセイ。

 

少年はすぐに椅子から下りようとした。

 

「動くな」

 

アレクセイが言った。

 

二人の顔が強張った。

 

彼はグレーテルの足元を見ていた。

 

裸足だった。

 

破片が近い。

 

ヘンゼルの方にも、小さな欠片が飛んでいる。

 

「ガラスがある。そのまま」

 

ナディアが箒を取りに動いた。

 

グレーテルは、床へ手を伸ばしかけた。

 

アレクセイが止めた。

 

「拾わなくていい」

 

彼女の手が止まる。

 

目は彼を見ていた。

 

いや、彼の顔ではない。

 

腕。

 

肩。

 

次にどう動くか。

 

何が来るか。

 

それを見ていた。

 

アレクセイはゆっくり立ち上がった。

 

少女の身体が、わずかに縮む。

 

彼はそこで止まった。

 

一歩で近づける距離だった。

 

だが、近づかなかった。

 

「足を切ったか」

 

返事がない。

 

「痛いところは?」

 

グレーテルは首を振った。

 

小さく。

 

ほとんど見えない動きだった。

 

「分かった。そこにいてくれ」

 

彼はナディアから履物を受け取った。

 

破片のない場所へ置く。

 

安全に移れるところを確かめる。

 

少女へ手を差し出しかけ、途中で下ろした。

 

つかまれると思えば、動くかもしれない。

 

「椅子の方へ、一歩だけ戻れるか」

 

彼女は動かなかった。

 

ヘンゼルが低い声で言った。

 

「僕がやった」

 

アレクセイは少年を見た。

 

「見ていた。袖が触れたんだ」

 

「僕が押した」

 

「押していない」

 

「でも」

 

少年の声が強くなる。

 

アレクセイは遮らなかった。

 

ヘンゼルは続けられなかった。

 

彼の目もまた、アレクセイの手を見ていた。

 

一人を選ばせようとしている。

 

誰かが何かを受ければ、この場面が終わると思っている。

 

アレクセイは、そのことを理解した。

 

理解したくなかったが、分かった。

 

「二人とも、よく聞いてくれ」

 

彼は声を落とした。

 

「コップが落ちて、割れた。今やることは、破片を片づけることだ」

 

誰も動かなかった。

 

彼は続けた。

 

「怪我をしていないなら、それでいい」

 

グレーテルの唇が動いた。

 

声は出なかった。

 

アレクセイは急かさなかった。

 

ナディアが床の端から、静かに破片を集めている。

 

箒の音。

 

小さなガラスの触れ合う音。

 

台所の火を止める音。

 

それらが、沈黙の中へ戻ってきた。

 

やがてグレーテルが、一歩だけ後ろへ下がった。

 

椅子に手を置く。

 

アレクセイがうなずいた。

 

「そのまま座ってくれ」

 

彼女は座った。

 

ヘンゼルも、ゆっくり椅子へ戻った。

 

二人は動かず、片づけが終わるまで見ていた。

 

アレクセイは床を確かめた。

 

大きな破片。

 

細かな欠片。

 

濡れたところ。

 

残っていないか、光を変えて見る。

 

その間も、双子の視線を感じていた。

 

何も起きないことが、二人には不自然なのだ。

 

片づけが終わると、ナディアが別のコップを持ってきた。

 

今度は、落としても割れにくいものだった。

 

グレーテルの前へ置く。

 

水を少し注ぐ。

 

少女はそれを見た。

 

「また、くれるの?」

 

ナディアは答えた。

 

「喉が渇いたら、困るでしょう」

 

それから、濡れた布を持って台所へ戻った。

 

グレーテルはコップに触れなかった。

 

ヘンゼルも何も言わなかった。

 

アレクセイは椅子へ座り直した。

 

少し待った。

 

少女の口が動く。

 

今度は、声になった。

 

「怒らないの?」

 

「わざとではなかっただろう」

 

彼女はうなずいた。

 

アレクセイは言った。

 

「次は、立つ前に机の端を見てくれ」

 

それだけだった。

 

グレーテルは、長い間彼を見ていた。

 

やがて、コップへ指を伸ばした。

 

両手で持つ。

 

少しだけ飲む。

 

置くときは、机の奥へ置いた。

 

誰も、それを褒めなかった。

 

誰も、拍手しなかった。

 

ただ、水を飲んだ。

 

*

 

その夜、モロゾフが電話をかけてきた。

 

アレクセイは廊下で受けた。

 

今日の様子を話す。

 

立入禁止の部屋。

 

食事の代わりに何をするかという質問。

 

割れたコップ。

 

老人は途中で口を挟まずに聞いた。

 

話し終えると、少し間があった。

 

『お前は?』

 

「何が」

 

『どうだった』

 

アレクセイは壁へ背を預けた。

 

居間から、紙を動かす音が聞こえる。

 

「疲れた」

 

『そうだろうな』

 

「一つ言うたびに、別の意味に受け取られている気がする」

 

『実際、そういうこともあるだろう』

 

「何も約束しない方が楽だと思った」

 

電話の向こうで、老人が息を吐いた。

 

アレクセイは続けた。

 

「だが、それでは昨日までと変わらない」

 

『守れることだけ言えばいい』

 

「守れなかったら?」

 

『説明しろ。謝る必要があれば謝れ。大人が間違えないという芝居を続けるな』

 

アレクセイは目を閉じた。

 

「簡単に言う」

 

『簡単ではないから、先に言っている』

 

彼は少し笑った。

 

モロゾフも、短く笑った。

 

そのあとで、老人の声が真面目に戻る。

 

『一日大人しくしていたから、明日も同じだとは思うな』

 

「分かってる」

 

『逆も同じだ。明日何か起きても、今日のことまで無意味にはならん』

 

アレクセイは目を開けた。

 

居間の入口に、グレーテルが立っていた。

 

いつからいたのか分からない。

 

手には、空の容器。

 

彼は少女へ、少し待つように指で示した。

 

「先生。また明日」

 

『ああ。今夜も交代しろ』

 

「分かった」

 

電話を切る。

 

グレーテルは、その動作を見ていた。

 

「誰?」

 

「医者だ」

 

「私たちの話?」

 

「ああ」

 

少女の顔が少し曇る。

 

アレクセイは続けた。

 

「今日、何があったか話していた」

 

「コップも?」

 

「それも」

 

「悪いことをしたって?」

 

「怪我はなかったと伝えた」

 

彼女は容器を抱え直した。

 

アレクセイは、その手元へ目をやった。

 

「何か欲しいのか」

 

グレーテルはすぐには答えなかった。

 

居間の方を見る。

 

ヘンゼルが机に座っている。

 

こちらを見ていた。

 

少女は彼へ目を向け、それからアレクセイへ戻した。

 

「あとで」

 

彼はうなずいた。

 

「分かった」

 

急がせなかった。

 

彼女は居間へ戻った。

 

*

 

寝る前に、アレクセイは二人へ明日の予定を話した。

 

朝食。

 

医者が来ること。

 

身体の具合を見てから、庭へ出ること。

 

庭といっても、塀に囲まれた小さな場所だった。

 

自由な外出ではない。

 

それも説明した。

 

ヘンゼルは不満そうな顔をした。

 

グレーテルは、庭に何があるか尋ねた。

 

椅子。

 

植木鉢。

 

古い物干し台。

 

答えを聞くと、少女は少しがっかりしたようだった。

 

「面白くなさそう」

 

「日当たりはいい」

 

「それだけ?」

 

「今のところは」

 

ヘンゼルが笑った。

 

アレクセイは紙を揃えた。

 

今日描いた絵は、二人が持っていくことになった。

 

まだ見せないと言うので、見なかった。

 

机の上に残った鉛筆を確かめる。

 

数は揃っていた。

 

それで安心しきるわけではない。

 

ただ、今日確認できた事実として覚えておいた。

 

グレーテルが椅子から下りた。

 

今度は、先に机の端を見た。

 

コップは奥にある。

 

袖は触れない。

 

それを確かめてから立つ。

 

アレクセイは気づいたが、何も言わなかった。

 

階段の下で、ヘンゼルが止まった。

 

振り返る。

 

「今日は、何もしてないよ」

 

少年は言った。

 

アレクセイは彼を見た。

 

「絵を描いただろう」

 

「そうじゃなくて」

 

ヘンゼルの眉が少し寄る。

 

言葉を選んでいるようだった。

 

「役に立ってない」

 

グレーテルも、隣で彼を見ていた。

 

二人の顔には、朝から残っていた疑問があった。

 

食べた。

 

寝る場所がある。

 

紙も、鉛筆も、水も出た。

 

コップを割っても、新しいものが置かれた。

 

それなのに、何も返していない。

 

一日が終わろうとしている。

 

どこで帳尻を合わせるのか。

 

アレクセイは二人の前へしゃがまなかった。

 

無理に目線を合わせる必要はない。

 

もともと、背丈は大きく違わなかった。

 

彼は二人をまっすぐ見た。

 

「誰も傷つけなかっただろう」

 

ヘンゼルが瞬きをした。

 

グレーテルは自分の手を見た。

 

「それだけ?」

 

少年が尋ねる。

 

「今日は、それでいい」

 

アレクセイは答えた。

 

「それと、食べた。休んだ。割れたコップで怪我をしなかった」

 

グレーテルが小さく言った。

 

「割ったけど」

 

「片づいた」

 

少女は黙った。

 

ヘンゼルも、それ以上聞かなかった。

 

納得したかどうかは、分からない。

 

それでも、すぐに殺しの話へ戻ることはなかった。

 

二人は階段へ向き直った。

 

グレーテルの手には、まだ空の容器があった。

 

アレクセイはそれを見た。

 

声をかけようとして、やめた。

 

彼女が何か言おうとしている。

 

急いで先回りしない方がいいと思った。

 

少女は一段上った。

 

止まる。

 

ヘンゼルが振り返る。

 

彼女は容器の蓋を指で押した。

 

開ける。

 

閉める。

 

もう一度、アレクセイを見る。

 

「……パン」

 

声は小さかった。

 

彼は待った。

 

少女の目が、台所へ向いた。

 

棚の上には、布をかけた籠がある。

 

夕食の残りが入っていた。

 

手を伸ばせば取れる高さだった。

 

ナディアは、今は奥で片づけている。

 

誰かの目を盗むこともできたかもしれない。

 

アレクセイは動かなかった。

 

少女が続きを言うまで待った。

 

グレーテルは、空の容器を少し持ち上げた。

 

「もう一つ、もらってもいい?」

 

ヘンゼルが、彼女を見た。

 

それから、アレクセイを見る。

 

答えを待っている。

 

アレクセイは頷いた。

 

「ああ」

 

台所へ行く。

 

籠の布をめくる。

 

パンを一つ取る。

 

少女へ戻る。

 

容器に入れる前に、彼は尋ねた。

 

「これでいいか」

 

グレーテルはうなずいた。

 

彼がパンを入れる。

 

少女は自分で蓋を閉めた。

 

強く押す。

 

確かめる。

 

昨夜と同じ仕草だった。

 

けれど今夜は、服の中から取り出したものではなかった。

 

彼女は容器を抱えた。

 

「ありがとう」

 

言葉は小さく、少し早かった。

 

アレクセイは、その言い方に意味を求めすぎなかった。

 

習った言葉かもしれない。

 

気に入られるための言葉かもしれない。

 

ただ、何かを欲しいと言って、受け取るまでの間に、刃物も嘘も必要なかった。

 

今夜は、それで十分だった。

 

「おやすみ」

 

彼は言った。

 

双子は少し間を置いて、同じ言葉を返した。

 

二人が階段を上っていく。

 

手すりの向こうに、小さな背中が消える。

 

アレクセイは、しばらくそこに立っていた。

 

*

 

夜の引き継ぎを終えたあと、バラライカから電話があった。

 

「問題は?」

 

最初の言葉がそれだった。

 

アレクセイは椅子に座り、今日の出来事を短く話した。

 

立入禁止の部屋へ入ろうとしたこと。

 

見張りと説明を揃えたこと。

 

サーシャとイワンに会ったこと。

 

コップが割れたこと。

 

姉は最後まで聞いた。

 

「お前に怪我は」

 

「増えていない」

 

「そうか」

 

その一言のあと、少しだけ沈黙があった。

 

アレクセイは机の上を見た。

 

新しい帳面。

 

食費の記録。

 

破損したコップの代金。

 

明日買うもの。

 

「姉さん」

 

「何だ」

 

「小さい頃、物を壊したら、どうしてた?」

 

電話の向こうが静かになった。

 

しばらくして、彼女が答えた。

 

「お前は、よく隠した」

 

アレクセイは目を閉じた。

 

思い当たることがあった。

 

「そうだったか」

 

「机の引き出し。ベッドの下。一度は私の鞄に入れた」

 

「それは覚えてない」

 

「私は覚えている」

 

彼は少し笑った。

 

バラライカが尋ねる。

 

「何を壊された」

 

「コップだ」

 

「報告は聞いた」

 

「割れたあと、殴られると思ったらしい」

 

今度の沈黙は、長かった。

 

アレクセイは受話器を持ち直した。

 

姉の呼吸が、かすかに聞こえる。

 

やがて彼女が言った。

 

「そうか」

 

それ以上の言葉はなかった。

 

彼も、説明を足さなかった。

 

しばらくして、バラライカが尋ねた。

 

「食事は取ったのか」

 

「二人とも」

 

「お前だ」

 

アレクセイは、思わず笑った。

 

「食べた」

 

「薬は」

 

「飲んだ」

 

「これから寝るのか」

 

「引き継ぎが終わったところだ」

 

「なら、帰ってこい」

 

その言葉で、彼の笑みが少し薄れた。

 

帰る場所。

 

二階に残した双子。

 

階下にいる見張り。

 

ナディアの使った鍋。

 

自分がいなくても続く夜。

 

アレクセイは、ゆっくり息を吐いた。

 

「分かった」

 

電話を切る。

 

椅子から立ち上がる。

 

玄関へ向かう途中で、一度だけ階段を見た。

 

二階は静かだった。

 

眠っているとは限らない。

 

まだ話しているかもしれない。

 

パンを二つに分けているかもしれない。

 

自分が帰ったことを確かめているかもしれない。

 

彼には分からなかった。

 

分からないまま、今夜も人に任せる。

 

それも、引き受けた責任の一部だった。

 

*

 

二階の部屋で、グレーテルは容器を開けた。

 

ヘンゼルが隣から見ている。

 

パンは一つ。

 

少女は半分に割ろうとして、手を止めた。

 

「食べる?」

 

ヘンゼルは少し考えた。

 

首を振る。

 

「明日でいい」

 

グレーテルはパンを戻した。

 

蓋を閉める。

 

壁際へ置く。

 

昨夜と、同じ場所だった。

 

下で扉が閉まる音がする。

 

車の音。

 

アレクセイが帰ったのだと、二人には分かった。

 

だが、ほかの足音は残っていた。

 

家が空になったわけではない。

 

グレーテルは毛布を引き寄せた。

 

ベッドは今夜も使わなかった。

 

床の方が、まだ落ち着く。

 

ヘンゼルが横になる。

 

少女も身体を寄せた。

 

しばらくして、彼女が言った。

 

「もらえた」

 

ヘンゼルは容器を見た。

 

「うん」

 

「聞いただけなのに」

 

少年は答えなかった。

 

二人とも、そのことを考えていた。

 

頼む。

 

断られるかもしれない。

 

取られるかもしれない。

 

何かを要求されるかもしれない。

 

それでも今夜は、パンが一つ渡された。

 

そのあとに、別の命令はなかった。

 

グレーテルは、容器へ手を伸ばした。

 

触れる。

 

そこにある。

 

彼女は指を離した。

 

蓋は、もう開けなかった。

 

第五話・了

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