BLACK LAGOON ―姉さん、俺はもう大人だ―   作:いっしきさん

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第六話 帰る時間

第六話 帰る時間

 

庭には、遊ぶものがなかった。

 

少なくとも、ヘンゼルにはそう見えた。

 

高い塀。

 

古い物干し台。

 

脚の長さが揃っていない椅子が二つ。

 

隅には、土の乾いた植木鉢が並んでいる。

 

門は閉まっていた。

 

その向こうに、人が立っている。

 

ヘンゼルは庭へ出ると、まず塀を見た。

 

次に窓。

 

屋根の端。

 

隣の建物との隙間。

 

アレクセイは、その視線を追わなかった。

 

見ていることには気づいていたが、いちいち指摘する必要はないと思った。

 

「ここまでだ」

 

彼は門の手前を指した。

 

「外へ出たいときは、先に話してくれ」

 

ヘンゼルは返事をしなかった。

 

グレーテルは、物干し台のそばに立っていた。

 

洗ったシーツが風で揺れている。

 

白い布の端に、小さな蝶が止まっていた。

 

羽を開き、閉じる。

 

また開く。

 

少女は、その動きを見ていた。

 

蝶が飛ぶと、顔が少しだけ動いた。

 

植木鉢の向こうへ。

 

塀の上へ。

 

それから、庭の外へ消えた。

 

グレーテルは、蝶がいなくなった場所をしばらく見ていた。

 

アレクセイは椅子を一つ引いた。

 

がたつく。

 

脚の下に薄い木片を挟んで、もう一度座る。

 

今度は揺れなかった。

 

「そこ、座ってもいいの?」

 

少女が尋ねた。

 

もう一つの椅子を見ている。

 

「ああ」

 

グレーテルは近づいた。

 

椅子の背に触れる。

 

座る前に、アレクセイの顔を見た。

 

彼は何も言わなかった。

 

少女は腰を下ろした。

 

足が地面へ届くか確かめる。

 

少し伸ばす。

 

また戻す。

 

ヘンゼルはまだ立っていた。

 

門の方へ顔を向けている。

 

外から、自転車のベルが聞こえた。

 

荷台を引く車の音。

 

誰かの笑い声。

 

塀の向こうには、普通に動いている街があった。

 

ここにいる自分たちだけが、その外にいるようだった。

 

「いつまで?」

 

少年が尋ねた。

 

アレクセイが顔を上げる。

 

「庭にいる時間か?」

 

「ここにいる時間」

 

アレクセイは、少し間を置いた。

 

朝の光が、白い壁に当たっている。

 

昨日よりも風があった。

 

「今は、まだ決められない」

 

ヘンゼルは口元を歪めた。

 

「ずっと?」

 

「ずっとここへ閉じ込めるために、預かったわけではない」

 

「じゃあ、出してよ」

 

「外へ出ても安全に過ごせるか、まだ確かめられていない」

 

少年は門を見た。

 

「僕たちは強いよ」

 

「それは、別の話だ」

 

アレクセイは立ち上がった。

 

植木鉢を一つ持ち上げ、陽の当たる場所へずらす。

 

左手を使わず、右手だけで。

 

「相手を倒せるかと、無事に帰ってこられるかは、同じではない」

 

ヘンゼルが彼を見る。

 

アレクセイは鉢を置いた。

 

土の上に、細い芽が一本出ていた。

 

枯れているように見えていたが、全部が死んでいるわけではなかったらしい。

 

「あなたは?」

 

グレーテルが尋ねた。

 

「強いの?」

 

アレクセイは椅子へ戻った。

 

「仕事に必要なことは、覚えてきた」

 

「死なない?」

 

今度は、すぐには答えなかった。

 

二人とも彼を見ていた。

 

似た顔。

 

似た目。

 

だが、その問い方には少し違いがあった。

 

ヘンゼルは、答えが正しいか確かめるように。

 

グレーテルは、その先に何が続くか待つように。

 

「俺も死ぬことはある」

 

アレクセイは言った。

 

「だから、そうならないように考える」

 

ヘンゼルの眉が寄った。

 

期待していた答えではなかったのだろう。

 

グレーテルは何も言わず、さっき蝶が消えた方を見た。

 

風が、シーツを膨らませた。

 

*

 

ボリスが来たのは、昼食の少し前だった。

 

庭の門ではなく、玄関から入ってきた。

 

双子が居間へ戻ると、アレクセイは彼と廊下で話していた。

 

声は低い。

 

聞こえないようにしているのではなく、必要な距離で話す癖なのだろう。

 

それでも、ヘンゼルは足を止めた。

 

グレーテルも止まる。

 

アレクセイが二人へ気づいた。

 

「食事は先に始めてくれ」

 

「あなたは?」

 

少女が尋ねる。

 

「少し話をしてから行く」

 

「仕事?」

 

「ああ」

 

二人は居間へ入った。

 

だが、机に座っても食器には手をつけなかった。

 

廊下の声が聞こえる。

 

言葉の全部は分からない。

 

港。

 

確認。

 

別の店。

 

人の名前らしいもの。

 

ヘンゼルは、耳を澄ませた。

 

グレーテルが、彼の袖に触れる。

 

彼は少しだけ顔を向けた。

 

少女も聞いていた。

 

ナディアが皿を置いた。

 

「冷めるわよ」

 

二人は顔を上げた。

 

それから、ゆっくり食べ始めた。

 

廊下では、ボリスが封筒をアレクセイへ渡していた。

 

中には写真と、何枚かの紙。

 

酒場の主人から聞き取った内容がまとめられている。

 

双子を店へ入れたのは、伝票を持ってくる仲介人の紹介だった。

 

子供たちは手伝いだと説明されていた。

 

その仲介人と接点のある人物が、港で見つかった。

 

ただし、話をする相手を選ぶという。

 

ホテル・モスクワへ直接来るのは嫌だ。

 

大人数も嫌だ。

 

金の話が分かり、口の堅い人間がいい。

 

「よく注文をつける」

 

アレクセイが言った。

 

「怯えているようです」

 

「俺たちにか」

 

「こちらにも、向こうにも」

 

ボリスは写真を指した。

 

倉庫の前に立つ男。

 

顔は半分しか写っていない。

 

その手前に、別の男の肩が入っていた。

 

「マルコ・ベリーニ。船員や荷役の仲介をしていますが、ほかの手配も請け負っていたようです」

 

アレクセイは名前を読んだ。

 

初めて見る名だった。

 

双子へ仕事を渡した本人か、その一段上にいる者か。

 

そこまでは、まだ分からない。

 

「大尉は?」

 

「確認してこい、と」

 

「了解」

 

アレクセイは写真を封筒へ戻した。

 

居間から、匙が皿へ当たる音がする。

 

その音を聞いてから、ボリスへ尋ねた。

 

「今日は、どのくらいかかる」

 

「問題がなければ、夕方までには」

 

問題がなければ。

 

この街では、その前置きが一番長くなることがある。

 

アレクセイは腕時計を見た。

 

「少し待ってくれ。食事を済ませる」

 

ボリスがうなずいた。

 

「車で待ちます」

 

*

 

アレクセイが席へつくと、ヘンゼルはすぐに尋ねた。

 

「出かけるの?」

 

「ああ。午後は留守にする」

 

グレーテルの匙が止まった。

 

「また、おじさんたちのところ?」

 

「今日は別の仕事だ」

 

「何をするの?」

 

アレクセイは自分の皿を手前へ寄せた。

 

「話を聞く」

 

ヘンゼルが少し笑った。

 

「それだけ?」

 

「それだけで済めば、助かる」

 

「僕たちも行けるよ」

 

少年は当然のように言った。

 

グレーテルも、隣でうなずいた。

 

「静かにもできるわ」

 

「今日は連れていかない」

 

アレクセイは答えた。

 

「ここで待っていてくれ」

 

ヘンゼルの顔から笑みが薄れた。

 

「役に立つよ」

 

「今日は、君たちに仕事を頼むつもりはない」

 

「どうして?」

 

彼は食事の手を止めた。

 

二人を見る。

 

怒っているわけではない。

 

追い払いたいわけでもない。

 

それを声だけで伝えるのは、思っていたより難しかった。

 

「俺の仕事だからだ。ここで過ごしていてくれればいい」

 

グレーテルは、窓の方へ顔を向けた。

 

ヘンゼルはまだ彼を見ていたが、やがて匙を取り直した。

 

食事の速度が少し落ちた。

 

アレクセイは、無理に明るい話題へ変えなかった。

 

食べ終えると、机の時計を二人の方へ向けた。

 

「夕食までには戻るつもりだ」

 

グレーテルが時計を見る。

 

「どの針?」

 

アレクセイは短い針を指した。

 

次に、六の数字。

 

「ここへ来る頃だ。ただ、仕事が延びることはある。そのときは連絡する」

 

ヘンゼルが尋ねる。

 

「あなたが?」

 

「俺がかける。直接話せなければ、ここの者へ伝えてもらう」

 

少年の顔が、少しだけ曇った。

 

アレクセイは気づいた。

 

だが、必ず本人が電話すると約束することはできなかった。

 

「連絡があれば、ナディアか見張りが二人にも話す」

 

「来なかったら?」

 

グレーテルが言った。

 

「まず、こちらから確かめる」

 

「ずっと来なかったら?」

 

その問いに、ナディアが手を止めた。

 

アレクセイは少女を見た。

 

「今は、戻るつもりで出かける」

 

彼は言った。

 

「何か起きたときの話は、起きたことを確かめてからする」

 

グレーテルは、納得していない顔をした。

 

アレクセイも、それで安心させられたとは思わなかった。

 

ただ、できない約束で出発を楽にしたくはなかった。

 

上着を取る。

 

玄関へ向かう。

 

振り返ると、二人はまだ机に座っていた。

 

「行ってくる」

 

返事はなかった。

 

扉が閉まる直前、ヘンゼルが時計へ手を伸ばすのが見えた。

 

見やすい位置へ、少し動かしていた。

 

*

 

話を聞く相手は、港の小さな修理工場にいた。

 

油に汚れた作業台。

 

壁に並ぶ工具。

 

扇風機が、熱い空気をゆっくり混ぜている。

 

アレクセイはそれを見て、サーシャの顔を思い出した。

 

今度会ったら、修理代の領収書を渡そう。

 

そう思えることが、少しありがたかった。

 

修理工場の主人は、ボリスを見ると口を閉ざした。

 

アレクセイを見たときには、さらに困った顔になった。

 

「どうした」

 

アレクセイが尋ねる。

 

男はボリスを見た。

 

「この子に話すのか」

 

ボリスは何も答えなかった。

 

アレクセイが椅子を引いた。

 

「俺に話してくれ」

 

男はまだ迷っていた。

 

彼は封筒から写真を出し、机へ置いた。

 

「この男を知っているな」

 

工場主の視線が写真へ落ちた。

 

顔が変わった。

 

相手の年齢を考える余裕が消えたらしい。

 

「あんたたちが探してるのは、そいつか」

 

「まず、知っていることを聞きたい」

 

「俺は何もしてない」

 

「何をしたかは、まだ聞いていない」

 

男は唇を舐めた。

 

扇風機が軋む。

 

外で車のエンジンがかかった。

 

長い沈黙のあと、男は話し始めた。

 

ベリーニは、人を集める仕事をしていた。

 

船の人手。

 

倉庫の夜番。

 

帳簿に載らない荷下ろし。

 

そして、ときどき、名前を聞かない方がいい仕事。

 

修理工場の主人が関わったのは、車だった。

 

短い期間だけ、目立たない車を貸す。

 

戻ってきたら掃除をする。

 

傷があれば直す。

 

中に何か残っていても、尋ねない。

 

「子供を見たか」

 

アレクセイが聞いた。

 

男の目が動いた。

 

「見たんだな」

 

「一度だけだ」

 

「何人」

 

「二人。よく似ていた」

 

ボリスが、わずかに姿勢を変えた。

 

工場主は急いで言葉を足した。

 

「何も知らない。客の子供かと思った。騒ぎもしなかったし、ちゃんとした服を着てた」

 

アレクセイは写真を指した。

 

「この男と一緒だったのか」

 

「そうだ」

 

「ほかには?」

 

「運転手がいた」

 

「顔は」

 

工場主は考えた。

 

思い出そうとしているのか、言わずに済む範囲を探しているのか。

 

アレクセイには、まだ判断できなかった。

 

「普通の男だ」

 

「普通では、探せない」

 

男は目を閉じた。

 

「痩せていた。髪が短くて、眼鏡をかけていたかもしれない。いや、眼鏡は別のときか」

 

アレクセイは急がせなかった。

 

ボリスも黙っていた。

 

覚えていない顔を、追い詰めて作らせても意味がない。

 

やがて男は、別のことを思い出した。

 

「そいつは、運転席を汚さなかった」

 

アレクセイが顔を上げる。

 

「どういう意味だ」

 

「ほかの連中は、煙草を落とす。靴の泥もそのままだ。だが、そいつのあとは綺麗だった。妙に綺麗すぎて、覚えてる」

 

それだけでは人物を絞れない。

 

それでも、男が実際に覚えていることではあった。

 

アレクセイはうなずいた。

 

「分かった。ほかに何かあれば、あとでもいい。連絡してくれ」

 

工場主は写真を見た。

 

「俺が話したと、知られたら」

 

ボリスが初めて口を開いた。

 

「こちらも、それを避けたい」

 

約束しすぎない言い方だった。

 

男は気づいたらしい。

 

不満そうに眉を寄せた。

 

だが、嘘の保証よりはましだと判断したのか、それ以上は求めなかった。

 

アレクセイは椅子から立った。

 

時計を見る。

 

まだ、時間はあった。

 

このまま帰れば、約束より早く戻れる。

 

その時点では、そう思っていた。

 

*

 

庭の影が長くなっていた。

 

グレーテルは窓辺に立っていた。

 

門の外は、部屋からはよく見えない。

 

車の音がすると、身体を少し前へ出す。

 

通り過ぎる。

 

元へ戻る。

 

ヘンゼルは机に座っていた。

 

前には紙。

 

鉛筆。

 

朝の続きの絵。

 

だが、しばらく線は増えていなかった。

 

ナディアが台所から顔を出す。

 

「水は?」

 

二人とも、首を振った。

 

彼女は机の時計を見た。

 

まだ、約束の時刻ではない。

 

しかし双子にとっては、時間の長さが違うのだろう。

 

時計を見る。

 

窓を見る。

 

扉を見る。

 

同じ順番を、何度も繰り返していた。

 

グレーテルが尋ねた。

 

「もう、夕食?」

 

「まだよ」

 

「作ってる」

 

「すぐにはできないから」

 

少女は鍋の方を見た。

 

何かを確かめるように匂いを嗅ぐ。

 

それから、また窓へ戻った。

 

ヘンゼルが言った。

 

「遅いね」

 

ナディアは椅子を引いた。

 

二人から少し離れた場所に座る。

 

「まだ、戻ると言った時刻ではないわ」

 

少年は時計を指した。

 

「針、進んでる」

 

「ええ」

 

「ずっと」

 

ナディアは、その言葉に返すものをすぐには見つけられなかった。

 

時計は、アレクセイがどこにいても進む。

 

それを今、二人は見ている。

 

彼女は立ち上がった。

 

「戻ったら温かいものが食べられるように、準備しておきましょう」

 

ヘンゼルは返事をしなかった。

 

グレーテルは窓のそばを離れ、台所の入口まで来た。

 

「何をするの?」

 

「食器を並べる。運びたいなら、一枚ずつ」

 

少女は皿を見た。

 

先日のコップの音を思い出したのか、すぐには手を出さなかった。

 

ナディアは急かさず、自分で一枚運んだ。

 

机へ置く。

 

戻る。

 

もう一枚。

 

グレーテルが、三枚目へ触れた。

 

両手で持つ。

 

ゆっくり運ぶ。

 

ナディアは礼を言った。

 

ヘンゼルが、その様子を見ていた。

 

*

 

ボリスが異変に気づいたのは、港の大通りへ出る前だった。

 

運転手と短く言葉を交わす。

 

アレクセイは窓の外を見た。

 

車の流れは、いつもと変わらない。

 

トラック。

 

三輪車。

 

客を乗せた車。

 

ただ、その中に、さっき見た車があった。

 

少し前から、同じ距離を保っている。

 

「こちらか?」

 

アレクセイが尋ねる。

 

ボリスは短く答えた。

 

「まだ、断定はできません」

 

彼は頷いた。

 

断定できるまで、家へ向かうわけにはいかなかった。

 

双子のいる場所へ、誰かを連れて帰ることになる。

 

車は帰路を外れた。

 

しばらくして、後ろの車も同じ方向へ動いた。

 

アレクセイは時計を見た。

 

余裕は減っていた。

 

「大尉へ連絡を」

 

「入れます」

 

ボリスが通信を始める。

 

その直後、後方で短い破裂音がした。

 

路肩の看板が跳ねた。

 

運転手が顔を変える。

 

アレクセイは身を低くした。

 

ボリスが短く指示を出す。

 

車が速度を変えた。

 

外の人間が驚いて振り返る。

 

誰かが怒鳴る。

 

路上にいた荷車の男が、慌てて脇へ退いた。

 

撃ち合いにはならなかった。

 

こちらの車が離れると、後ろの車もすぐに見えなくなった。

 

追ってきたのか。

 

試したのか。

 

こちらが誰かを確かめたかったのか。

 

どれかは、まだ分からない。

 

ただ、普通の偶然ではなくなった。

 

アレクセイは窓の外を見た。

 

通行人が振り返っている。

 

泣き出した子供を、母親らしい女が抱き寄せている。

 

自分たちは無事だった。

 

それだけで、問題が終わったわけではなかった。

 

「家には戻せないな」

 

彼が言うと、ボリスも頷いた。

 

車はホテル・モスクワが使う別の建物へ入った。

 

運転手が降りる。

 

周囲の確認。

 

車体の傷。

 

連絡。

 

時間がかかる。

 

アレクセイは時計を見た。

 

夕方が近づいていた。

 

「家へ、遅れると伝えてくれ」

 

彼はボリスへ言った。

 

「怪我はない。用事が延びた。戻る時刻が分かり次第、また連絡する」

 

ボリスは復唱してから、通信機へ向き直った。

 

アレクセイは建物の中の電話を借りた。

 

家の番号を回す。

 

話し中だった。

 

ちょうど、連絡が入っているのだろう。

 

彼は受話器を置いた。

 

もう一度かけようとしたところで、外から呼ばれた。

 

運転手が、車体についた傷を見つけたらしい。

 

アレクセイは立ち止まった。

 

話したい。

 

自分の声で、遅れるだけだと伝えたい。

 

しかし今、確認しなければならないこともある。

 

「伝わりました」

 

ボリスが言った。

 

「ナディアに。二人にも、そのまま話すそうです」

 

アレクセイは頷いた。

 

「分かった」

 

それで足りると思ったわけではなかった。

 

だが、今はその連絡を信じて動くしかなかった。

 

*

 

六時になった。

 

ナディアは時計を見てから、双子へ伝えた。

 

「アレクセイは遅れるそうよ」

 

グレーテルの手が止まった。

 

机には皿が三枚並んでいた。

 

「誰が言ったの?」

 

「連絡を受けた人が、教えてくれた」

 

「アレクセイが?」

 

「伝えてほしいと、頼んだそうよ」

 

ヘンゼルが顔を上げた。

 

「声、聞いた?」

 

ナディアは首を振った。

 

嘘はつかなかった。

 

「私は聞いていない。でも、怪我はしていないと」

 

少年の目が冷えた。

 

グレーテルは時計を見る。

 

短い針は、教えられた場所へ来ていた。

 

長い針も、上を向いている。

 

二人はその時計を、長く見ていた。

 

ナディアが言った。

 

「先に食べましょう。戻ったら、温め直せるから」

 

ヘンゼルは首を振った。

 

グレーテルも動かなかった。

 

「食べないの?」

 

返事がない。

 

ナディアは、もう一度だけ尋ねようとして、やめた。

 

食事を命令に変える必要はない。

 

彼女は料理を少し取り分け、残りを保温した。

 

机の上に、二人の分を置く。

 

湯気が上がる。

 

その湯気が、ゆっくり薄くなる。

 

グレーテルが言った。

 

「嘘かもしれない」

 

ナディアは少女を見た。

 

「何が?」

 

「帰るって言ったこと」

 

ヘンゼルが、鉛筆を机へ置いた。

 

音が思ったより大きかった。

 

「もう、いらないんだよ」

 

ナディアの顔が動いた。

 

「誰が、そんなことを」

 

「言わないよ」

 

少年は笑った。

 

楽しそうな笑いではなかった。

 

「そういうときは、言わない」

 

グレーテルが、彼の袖をつかんだ。

 

ヘンゼルは扉を見た。

 

見張りはそこにいる。

 

外へは出られない。

 

二人を置いていくことと、二人を逃がさないことは、両立する。

 

彼らは、それを知っていた。

 

ナディアは二人のそばへ座らなかった。

 

近づけば、慰めに見えるかもしれない。

 

今、受け取れるものではない気がした。

 

彼女は少し離れた椅子へ腰を下ろした。

 

「戻るという連絡は来ている」

 

静かに言った。

 

「新しい連絡があれば、隠さず伝えるわ」

 

ヘンゼルは返事をしなかった。

 

グレーテルは、冷めかけた皿へ目を落とした。

 

匙には触れなかった。

 

*

 

バラライカは、まず弟の無事を確かめた。

 

電話の向こうで、アレクセイはいつもの声だった。

 

少し疲れている。

 

苛立ちもある。

 

だが、痛みを隠す声ではなかった。

 

「怪我は」

 

『ない』

 

「運転手は」

 

『同じだ。軍曹も無事』

 

「家には戻るな。確認が済むまで待て」

 

『分かってる』

 

彼女は窓の外を見た。

 

街に灯りが増えている。

 

「あちらへ連絡したか」

 

『伝言は頼んだ。直接かけたときは、話し中だった』

 

「今は、こちらで見る」

 

電話の向こうが少し静かになった。

 

『家へ行くのか』

 

「警戒の確認だ」

 

『そうか』

 

その声に、わずかな安堵が混じった。

 

バラライカは聞き取ったが、指摘しなかった。

 

「戻れると分かったら、もう一度連絡しろ」

 

『了解』

 

受話器を置く。

 

彼女はすぐに車を出させた。

 

自分が子供の待ち時間を埋めるために動いているとは、考えなかった。

 

あの家を知られていないか。

 

人員は足りているか。

 

外からの接触はないか。

 

確認することは、いくらでもあった。

 

そして、弟が戻ると言った場所を、そのままにしておく必要があった。

 

*

 

バラライカが居間へ入ると、双子は同時に立ち上がった。

 

机の上に食事。

 

ほとんど手がついていない。

 

時計。

 

白い紙。

 

ヘンゼルは彼女の背後を見た。

 

グレーテルも同じだった。

 

誰も続いてこない。

 

バラライカは上着を脱がなかった。

 

まず、ナディアへ目を向ける。

 

女が小さく首を振った。

 

食べていない。

 

それで分かった。

 

「座れ」

 

彼女は二人へ言った。

 

ヘンゼルは動かなかった。

 

グレーテルは椅子へ手をかけたが、座らなかった。

 

少年が先に尋ねた。

 

「死んだの?」

 

部屋が静かになった。

 

ナディアが顔を上げる。

 

見張りも動きを止めた。

 

バラライカは少年を見た。

 

声を荒らげなかった。

 

「生きている。今、話した」

 

ヘンゼルは彼女の顔を見ていた。

 

傷。

 

目。

 

口元。

 

嘘をついているか、確かめようとしている。

 

バラライカは椅子を引いた。

 

自分が先に座る。

 

「二人とも、怪我はしていないそうだ」

 

「二人?」

 

グレーテルが尋ねる。

 

「アレクセイと、軍曹だ。運転手も無事だ」

 

「何かあったの?」

 

少女の声が、少し細くなった。

 

バラライカは答えを選んだ。

 

何もないとは言えない。

 

しかし、確認の済んでいない話を与える必要もない。

 

「仕事の帰りに、確かめることが増えた。ここへ戻ってよいか、調べている」

 

ヘンゼルが眉を寄せた。

 

「ここへ来ちゃ駄目なの?」

 

「後ろに誰かを連れて帰るわけにはいかない」

 

少年は理解したらしかった。

 

顔つきが変わった。

 

グレーテルも、扉の向こうへ目を向ける。

 

二人は、危険の種類が分かれば、少し動きやすくなる。

 

分からないまま待つ方が、恐ろしいのだろう。

 

バラライカは机の皿を見た。

 

「食べろとは言わん。だが、冷めたものを無理に食う必要もない。食べるなら温めさせる」

 

グレーテルが彼女を見た。

 

「あなたは、待たないの?」

 

「ここで待っている」

 

「そうじゃなくて」

 

少女は言葉を探した。

 

視線が動く。

 

机。

 

扉。

 

時計。

 

それから、もう一度女の顔。

 

「怖くないの?」

 

バラライカは、すぐには答えなかった。

 

自分へその言葉を向ける人間は少ない。

 

向けたとしても、たいていは挑発だった。

 

だが少女は、本当に尋ねていた。

 

弟が死ぬかもしれない。

 

帰ってこないかもしれない。

 

それなのに、どうして座っていられるのか。

 

彼女は指を組んだ。

 

「心配だから、帰る場所を守っている」

 

声は低かった。

 

「外でできることは、外にいる人間がやっている。私は、ここで必要なことをする」

 

グレーテルは黙った。

 

ヘンゼルは、女の手を見た。

 

指先が、完全には力を抜いていなかった。

 

顔だけ見ていると分からないことが、手にはあった。

 

バラライカは視線に気づき、組んだ指をほどいた。

 

「窓から身を乗り出すな。外の者にも見える」

 

グレーテルは少し肩を動かした。

 

見られていたらしい。

 

彼女はようやく椅子へ座った。

 

ヘンゼルも、隣へ腰を下ろした。

 

誰も、安心したとは言わなかった。

 

それでも、窓を見る回数は少し減った。

 

*

 

アレクセイが電話をかけ直したのは、七時を過ぎてからだった。

 

家の電話が鳴った瞬間、双子が顔を上げる。

 

ナディアが出る前に、バラライカが立ち上がった。

 

受話器を取る。

 

短いやり取り。

 

彼女の肩から、ごくわずかに力が抜けた。

 

「分かった。こちらは変わりない」

 

そう言ってから、双子を見た。

 

「話すか」

 

ヘンゼルはすぐには動かなかった。

 

グレーテルが立った。

 

途中でヘンゼルを見る。

 

少年も立ち上がる。

 

二人は並んで電話へ近づいた。

 

バラライカは受話器を少し下げた。

 

アレクセイへ何か伝える。

 

それから、グレーテルへ渡した。

 

少女は耳へ当てた。

 

『グレーテルか』

 

彼の声だった。

 

少し遠い。

 

雑音がある。

 

それでも、間違えなかった。

 

少女の指が、受話器を強く握った。

 

「遅い」

 

最初に出た言葉は、それだった。

 

『ああ。遅れている』

 

「帰るって言った」

 

『夕食までには戻るつもりだった。間に合わなくなった』

 

「どうして?」

 

『この家へ、知らない相手をついてこさせたくなかった』

 

グレーテルは黙った。

 

昼間の言葉を思い出していた。

 

強いか。

 

死なないか。

 

彼は死ぬこともあると言った。

 

その答えが、今になって別の重さになっていた。

 

「血は?」

 

少女が尋ねた。

 

電話の向こうが、少し静かになった。

 

『出ていない。怪我はしていない』

 

「本当?」

 

『本当だ』

 

ヘンゼルが、少女の肩へ触れた。

 

受話器を少し寄せてもらう。

 

彼も聞こえる位置へ顔を近づけた。

 

「逃げたのかと思った」

 

少年が言った。

 

『どこへ』

 

「僕たちのいないところ」

 

アレクセイは、すぐには返さなかった。

 

その沈黙で、ヘンゼルの顔が固くなる。

 

やがて声がした。

 

『今、そちらへ帰るために待っている』

 

少年は目を伏せた。

 

言い方が違った。

 

逃げない、捨てない、ずっといる。

 

そういう大きな約束ではなかった。

 

今、何をしているか。

 

それだけを言った。

 

『もう少しで出られる。だが、道が混んでいれば時間はかかる。時計どおりになるとは約束できない』

 

グレーテルは口を尖らせた。

 

「また遅れるの?」

 

『そうならないようにする』

 

「絶対?」

 

『絶対とは言えない』

 

少女の顔に、不満が浮かんだ。

 

電話の向こうで、アレクセイが息を吐く音がした。

 

『言ってほしい答えではないと思う。だが、守れないかもしれないことを、守れると言いたくない』

 

二人は黙っていた。

 

バラライカは少し離れて立っている。

 

口を挟まない。

 

ナディアも、台所で手を止めていた。

 

アレクセイが尋ねた。

 

『食事は?』

 

「まだ」

 

グレーテルが答える。

 

『先に食べていてくれ』

 

「いらない」

 

『今は食べたくないのか』

 

少女は頷きかけ、電話だと思い出した。

 

「うん」

 

『分かった。水は飲んでくれ』

 

それも命令のようには聞こえなかった。

 

だが、言葉ははっきりしていた。

 

最後に彼は言った。

 

『戻ったら、顔を見せる』

 

グレーテルは受話器を見た。

 

そこに彼が入っているわけではない。

 

声だけだった。

 

それでも、伝言とは違った。

 

彼女は小さく答えた。

 

「分かった」

 

電話を切ると、ヘンゼルが机へ戻った。

 

グレーテルも続く。

 

ナディアが水を置いた。

 

今度は、二人とも飲んだ。

 

*

 

アレクセイが帰ってきたのは、八時を回ってからだった。

 

玄関の前で車が止まる。

 

双子は立ち上がった。

 

だが、走っては来なかった。

 

居間の入口に並び、扉を見ていた。

 

鍵が動く。

 

見張りの声。

 

ボリスが先に入り、その後ろからアレクセイが現れた。

 

上着に少し埃がついている。

 

顔には疲れ。

 

しかし、包帯は増えていなかった。

 

グレーテルは、頭から足まで彼を見た。

 

右腕。

 

左手。

 

シャツの前。

 

ズボン。

 

靴。

 

アレクセイは、その視線を受けたまま立っていた。

 

どこかで見覚えのある確認の仕方だった。

 

視線を動かすと、奥に姉がいた。

 

同じように、彼を見ていた。

 

彼は思わず、小さく息を吐いた。

 

「戻った」

 

ヘンゼルが答えた。

 

「見れば分かるよ」

 

アレクセイは一瞬だけ目を見開いた。

 

それから、頷いた。

 

「そうだな」

 

グレーテルは腕を組んだ。

 

「すごく遅かった」

 

「待たせた」

 

「約束、違う」

 

「時刻は守れなかった。すまない」

 

彼は言い訳を先に並べなかった。

 

少女は、その返事で少し言葉を失った。

 

怒り返されるか。

 

子供には分からないと言われるか。

 

待っていたことを馬鹿にされるか。

 

そのどれでもなかった。

 

アレクセイは上着を脱いだ。

 

「ただ、遅れるときに連絡するという話は、守ったつもりだ」

 

ヘンゼルが口を開く。

 

「最初は、あなたじゃなかった」

 

「ああ。俺から直接話せたのは、あとになった」

 

「知らない人の言うことなんて」

 

少年は途中で言葉を切った。

 

ボリスを見た。

 

彼が伝えたと分かっているのだろう。

 

アレクセイは頷いた。

 

「信じにくかったんだな」

 

ヘンゼルは返事をしなかった。

 

認めるのも嫌なようだった。

 

アレクセイは続けた。

 

「次は、できる限り早く自分でも話す。ただ、必ず俺が電話できるとは言えない。仕事をしていれば、そういうことはある」

 

グレーテルが彼を睨んだ。

 

「また?」

 

「また起きるかもしれない」

 

彼は二人の前で立ち止まった。

 

「戻る予定を伝える。変われば知らせる。帰ってきたら、何が変わったか話す。今、約束できるのはそこまでだ」

 

ヘンゼルは彼を見ていた。

 

グレーテルは、少し視線を落とした。

 

アレクセイは、二人がすぐに納得するのを待たなかった。

 

「手を洗ってくる。食事の前に、少しだけ仕事の話を終わらせる」

 

「また出るの?」

 

グレーテルが顔を上げた。

 

「今夜は、ここで済む話だ」

 

彼女の肩が、わずかに下がった。

 

アレクセイはそれを見たが、触れなかった。

 

*

 

バラライカは廊下で弟を待っていた。

 

居間からは少し離れている。

 

彼が手を洗って戻ると、右腕を見た。

 

「本当に、怪我はないな」

 

「ない」

 

「車には傷があった」

 

「車と俺は別だ」

 

「減らず口を叩く余裕はあるか」

 

アレクセイは壁へ背を預けた。

 

疲れが、ようやく身体へ戻ってきていた。

 

「家を見ていてくれて、助かった」

 

バラライカは答えなかった。

 

代わりに、弟の肩についた埃を払った。

 

短い動作。

 

必要以上には触れない。

 

それでもアレクセイには、彼女が何を確かめているか分かった。

 

「心配した?」

 

彼が尋ねると、バラライカの目が細くなった。

 

「報告を聞く前に、その質問をするか」

 

「報告は軍曹から届いているだろう」

 

「本人からも聞く」

 

アレクセイは小さく笑った。

 

それから、仕事の顔に戻った。

 

修理工場で聞いたこと。

 

ベリーニの手配。

 

双子を乗せていた車。

 

もう一人の男。

 

帰路でついてきた車。

 

発砲らしきものがあったこと。

 

狙いは断定できないこと。

 

バラライカは最後まで聞いた。

 

「家へ戻らなかったのは正しい」

 

「それ以外の判断は?」

 

「確認を急がせている。工場の男にも、こちらから連絡する」

 

弟は頷いた。

 

「ベリーニ本人が動いたとは限らない」

 

「分かっている」

 

ボリスが書類を持って近づいた。

 

「車を手配した窓口について、追加が」

 

アレクセイが紙を受け取る。

 

「マルコ・ベリーニか」

 

その名を口にしたときだった。

 

居間の方で、音が止まった。

 

皿の音。

 

小さな話し声。

 

二人が振り返る。

 

ヘンゼルが入口に立っていた。

 

隣にグレーテル。

 

少女の手には、スプーンが一本あった。

 

二人とも、先ほどまでとは違う顔をしていた。

 

*

 

「誰の名前?」

 

ヘンゼルが尋ねた。

 

アレクセイは紙を下ろした。

 

バラライカは黙っていた。

 

ボリスも、双子を見ている。

 

「知っているのか」

 

アレクセイが聞く。

 

少年はすぐには答えなかった。

 

グレーテルが、彼の袖へ触れた。

 

いつもの仕草だった。

 

二人が互いを確かめる。

 

ヘンゼルが言った。

 

「マルコ?」

 

「ああ」

 

「口がよく動く人?」

 

アレクセイはボリスを見る。

 

彼は封筒から写真を取り出した。

 

ただし、子供たちへ押しつけるようには見せなかった。

 

アレクセイへ渡す。

 

弟が一度写真を見てから、二人へ向けた。

 

グレーテルの指が止まった。

 

スプーンが、手の中でわずかに傾く。

 

ヘンゼルは写真を見た。

 

長く見る必要はなかったらしい。

 

「あの人」

 

声は小さかった。

 

アレクセイは写真を下ろした。

 

「今夜、全部話す必要はない」

 

少年は顔を上げた。

 

その言葉が予想外だったのだろう。

 

「でも、聞きたいんでしょう?」

 

「聞きたい。だが、今すぐ無理に話させたいわけではない」

 

グレーテルが、少し笑った。

 

笑い方が、朝の庭とは違っていた。

 

相手が欲しいものを知ったときの笑いだった。

 

「教えたら?」

 

バラライカの目が動いた。

 

アレクセイは少女を見た。

 

「何と引き換えか、という話なら、食事も寝る場所も変えない」

 

少女の笑みが止まる。

 

彼は続けた。

 

「話したくないことは、今は話さなくていい。ただ、俺たちや、この家にいる人が危ないと分かることなら、教えてほしい」

 

ヘンゼルは写真へ視線を戻した。

 

少しして、言った。

 

「あの人、そういうときは一人じゃないよ」

 

ボリスが静かに尋ねる。

 

「どういうときだ」

 

少年はアレクセイを見た。

 

大柄な軍曹より、彼へ話すことを選んだ。

 

「誰かを探すとき。仕事を渡すとき。マルコが話して、別の人が決める」

 

アレクセイは口を挟まなかった。

 

ヘンゼルは続けた。

 

「マルコは、あとで怒られるのが嫌いなんだ。だから、難しいことは自分で決めない」

 

グレーテルが小さく言った。

 

「帳面の人」

 

ボリスの視線が、写真へ落ちた。

 

男の肩が写り込んでいる。

 

顔は見えない。

 

アレクセイは、そこを指さして確認しようとして、やめた。

 

子供たちが実際に覚えていることを聞くべきだった。

 

「その人を、見たことがある?」

 

グレーテルが頷く。

 

「いつも書くの。お金とか、場所とか」

 

「名前は?」

 

少女は首を振った。

 

ヘンゼルが言った。

 

「マルコは呼ばない。こっちへ来いとか、待てとか、そういう言い方だけ」

 

アレクセイは頷いた。

 

「顔は覚えている?」

 

少年は少し迷った。

 

「見れば」

 

「分かった。今夜は、そこまででいい」

 

ヘンゼルが眉を寄せた。

 

グレーテルも、不満そうだった。

 

止められるとは思わなかったのだろう。

 

アレクセイは写真を封筒へ戻した。

 

「二人とも、まだ夕食を食べていない」

 

「あなたも」

 

グレーテルが言った。

 

「ああ。俺もだ」

 

その返事で、少女は少し黙った。

 

バラライカがボリスへ向いた。

 

「続きは、こちらで確認する」

 

「了解しました」

 

二人は、子供たちの前で話を広げなかった。

 

誰を探す。

 

どこへ行く。

 

何をする。

 

その相談は、別の場所でできる。

 

ヘンゼルはアレクセイを見ていた。

 

「役に立った?」

 

問いは、低かった。

 

アレクセイは答えた。

 

「聞いておくべきことを話してくれた。ありがとう」

 

少年は視線をそらした。

 

グレーテルが尋ねる。

 

「じゃあ、明日は外へ行ける?」

 

アレクセイは首を振った。

 

「それは別に考える」

 

少女は唇を尖らせた。

 

分かりやすい不満だった。

 

彼は苦笑しかけて、こらえた。

 

命を奪うことよりも、庭の外へ出たいという不満の方が、今は話しやすかった。

 

*

 

夕食は、温め直された。

 

ナディアは鍋から湯気が上がるのを確かめてから、皿へ移した。

 

「長く待った分、お腹が空いたでしょう」

 

返事はなかった。

 

だが、双子は椅子へ座った。

 

ヘンゼルが自分の皿を見る。

 

グレーテルが、その隣へ座る。

 

アレクセイは上着を椅子の背へかけた。

 

右腕の布が引っかからないように直してから、腰を下ろす。

 

机の上には、三人分の皿があった。

 

彼の前にも、スプーンが一本置かれている。

 

ほかのものより、少し斜めだった。

 

柄の向きも揃っていない。

 

アレクセイは、それを手に取った。

 

ナディアが台所へ戻りながら言った。

 

「それ、グレーテルが並べてくれたの」

 

少女の動きが止まった。

 

彼女はすぐに言った。

 

「余ったから」

 

アレクセイは少女を見る。

 

「そうか」

 

「一つ、置くところがなかったの」

 

「ここが空いていた?」

 

グレーテルは、少し迷ってからうなずいた。

 

ヘンゼルは自分の皿を見ていた。

 

だが、口元がわずかに動いた。

 

アレクセイは何も追及しなかった。

 

スプーンを持ち直す。

 

温かい料理を一口食べた。

 

腹が空いていたことを、そのときようやく思い出した。

 

「助かった」

 

彼は言った。

 

食器のことか。

 

食事のことか。

 

席が空けられていたことか。

 

どれとも言わなかった。

 

グレーテルも尋ねなかった。

 

食事が始まる。

 

最初は静かだった。

 

やがてヘンゼルが、昼間の庭の話をした。

 

椅子が揺れたこと。

 

アレクセイが木片を挟んだこと。

 

グレーテルが、蝶を見ていたこと。

 

少女はすぐに反論した。

 

「見てない」

 

「ずっと見てたよ」

 

「飛んでたから」

 

「塀の向こうまで」

 

「うるさい」

 

アレクセイは二人のやり取りを聞いていた。

 

他愛のない口論だった。

 

今日一日の終わりに、それが聞けることを、少し不思議に思った。

 

玄関の方で、バラライカが上着を受け取っていた。

 

ボリスが先に外へ出る。

 

彼女は居間を一度見た。

 

三人の食卓。

 

斜めに置かれていたスプーンは、弟の手に収まっている。

 

双子は、彼が席を立たないか確かめるように、ときどき顔を見ていた。

 

アレクセイが姉に気づく。

 

目が合った。

 

彼は軽くうなずいた。

 

ありがとう、とは言わなかった。

 

彼女も、礼を受け取る顔はしなかった。

 

ただ、弟の皿が減っていることを確かめた。

 

それから言った。

 

「食べたら、休め」

 

アレクセイは匙を持ったまま答えた。

 

「分かってる」

 

「聞き飽きた」

 

「俺も、その確認は」

 

バラライカの目が細くなる。

 

グレーテルが、思わず小さく笑った。

 

笑ってから、女の顔を見る。

 

バラライカは少女を見返した。

 

怒鳴らなかった。

 

笑い返しもしなかった。

 

ただ、机の水差しへ目を向けた。

 

「水も飲め」

 

誰に言ったのか、曖昧だった。

 

アレクセイがグラスを取る。

 

少し遅れて、双子も取った。

 

バラライカは、それ以上何も言わずに出ていった。

 

*

 

食事のあと、アレクセイは椅子に座ったまま、少しだけ目を閉じた。

 

寝るつもりではなかった。

 

身体の力を抜いた瞬間、今日一日の疲れが押し寄せてきただけだった。

 

ヘンゼルがそれに気づいた。

 

グレーテルも見る。

 

二人は顔を見合わせた。

 

アレクセイの胸が、ゆっくり動いている。

 

右手は机の上。

 

左手は膝。

 

武器には触れていない。

 

目を閉じれば、庭で答えたときのような強い目は見えなくなる。

 

幼い顔だった。

 

自分たちと、大きく違わない顔。

 

なのに彼は、大人だと言う。

 

働くと言う。

 

帰ると言う。

 

そして今日は、本当に帰ってきた。

 

グレーテルが、小さく呼んだ。

 

「アレクセイ」

 

彼は目を開けた。

 

すぐに、二人を見る。

 

「何だ」

 

少女は少し迷った。

 

「眠いの?」

 

「ああ。少し」

 

「寝れば?」

 

アレクセイは、机の時計を見た。

 

引き継ぎまで、まだ少しある。

 

彼は頷いた。

 

「交代が来たら、そうする」

 

ヘンゼルが尋ねる。

 

「明日も出かける?」

 

「まだ決まっていない」

 

「決まったら、言う?」

 

「言う」

 

少年はそれ以上、絶対かとは聞かなかった。

 

グレーテルも、何時に帰るかを続けて尋ねなかった。

 

代わりに、机の時計を持ち上げた。

 

昨夜より何度も動かされた時計だった。

 

窓のそば。

 

食卓の中央。

 

電話の近く。

 

今日は、針を見るたびに意味が変わった。

 

少女はそれを、棚の上へ置いた。

 

食卓からも見える。

 

けれど、真正面ではない場所だった。

 

アレクセイは、その動きを見た。

 

何も言わなかった。

 

少女が椅子へ戻る。

 

ヘンゼルが、残っていたパンを半分に割った。

 

片方を彼女へ渡す。

 

もう片方を自分で持つ。

 

アレクセイの席は、まだ空いていなかった。

 

今夜は、そこにいる。

 

二人は、ときどきそれを確かめながらパンを食べた。

 

外では車が走り、遠くで誰かが怒鳴っていた。

 

ロアナプラの夜は、いつもと変わらなかった。

 

ただ、この家には今日、帰りを待たれた人間が一人いた。

 

そしてその席には、帰ってくる前から、スプーンが一本置かれていた。

 

第六話・了

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