男の娘皇帝から股間を守れ!   作:深紫Sιn姉

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07:男の娘皇帝と、皇祖母の宮廷決戦

軍馬の蹄が、石畳を激しく叩く。

 

白泡を吹く軍馬の手綱を絞り、私は帝都の大通りを疾風のごとく駆け抜けた。

 

「やばいやばいやばいやばい……‼︎」

 

視界の先に、白亜の『元老院議事堂』が迫る。

広場は一触即発の殺気と怒号に包まれていた。

 

議事堂の階段を取り囲むのは、揃いの鎧に身を固めた三千の『都市警備隊』。

対する広場では、真紅の外套を羽織った我が『近衛隊』が睨み合う。

 

我ら近衛隊は、皇帝を守る直属の部隊だ。

都市警備隊は、元老院長老である帝都市長官が牛耳る伝統的な私兵部隊である。

 

「長官! ご無事でございましたか‼︎」

 

馬から飛び降りた私の元へ、副官のルキウスが蒼白な顔で駆け寄ってきた。

 

「ルキウス、なぜ突入しない⁉︎」

「帝都市長官が『正式な招集令』を盾に議事堂を完全封鎖しておりまして! 武力突破すれば、こちら側が逆賊として討伐されてしまいます!」

「……チッ、小賢しいジジイめ!」

 

殴り込めば、敵の思う壺というわけだ。

 

徹夜明けの激走で、胃がキリキリとしてくる。

私が腹を押さえて顔をしかめると、ルキウスが小さな青銅の水筒を差し出した。

 

「長官、故郷シリアの母が送ってくれた特製の胃薬をどうぞ!」

「む……? すまんな、ありがたく頂こう」

 

水筒を受け取りざま、ルキウスの指先がかすかに震えているのが、ふと目に入った。

 

「……そういえばルキウス。シリアのご母上と妹君は達者でやっているか?」

「えっ……? は、はい。ここ最近は便りが途絶えておりますが、隊商の遅れかと」

 

ルキウスは曖昧に微笑んだ。

私は栓を抜き、中身を一気に喉へ流し込んだ。

 

…………。

 

「——ッ、ぶふぉおおおおおおおっ⁉︎」

 

脳天に落雷のプラズマが直撃する。

それは、百匹のムカデと硫黄を煮詰めた激苦エキスが、舌の上で大爆発を起こしたのだ。

 

「ごほっ⁉︎ な、なんだこれはルキウス! 胃薬ではなく新手の暗殺毒だろうがァッ‼︎」

「いえ、故郷伝統の『強心覚醒茶』で、どんな昏睡からも魂ごと叩き起こす秘薬でございます!」

 

眠気も疲労も爆味で一瞬にして吹き飛んだ。

 

「これは劇物指定だ、残りは文字通り死にかけた時の最終兵器として預かる」

 

私は水筒を懐へねじ込むと、階段を固める都市警備隊の前へと歩み出た。

 

「止まれ! そこのお前、議事堂への武器持ち込みは死罪である! 丸腰で入るか、逆賊としてここで死ぬかのどっちかだ!」

 

警備隊長が槍を交差させ、私の進路を塞いだ。

私は鼻を鳴らすと、腰の剣を帯ごと外してルキウスへ無造作に放り投げた。

 

「ルキウス、磨いておけ。荒れた連中を黙らせるのに、鉄の刃など要らん」

「長官……! 丸腰で行かれるのですか⁉︎」

 

背後から、腰に木剣を佩いた美青年が進み出る。

かつて私がホワイト雇用した、近衛遊撃隊長の元奴隷剣闘士ゾティクスだ。

 

「長官殿、私と遊撃隊もお供いたします。我が剣と命、貴方様の盾とならん」

「気持ちは嬉しいが、武器を持ち込めば口実を与える。お前たちは広場を包囲し、逃げ出す腐敗議員どもを一人残らず拘束しろ」

「はっ、御意にございます、長官殿」

 

美青年ゾティクスが、誇らしげに深く敬礼した。

 

「安心しろ。必要なのは正しい説明と、鍛え抜かれた筋肉だけだ」

 

警備隊長は私の丸腰を確認すると、槍を引いて嘲笑を浮かべた。

 

「……通るがいい! だが……議事堂の扉は、中から頑丈な丸太の突っ張りで閉ざされているが。素手のお前に開けられるはずがなかろう?」

 

私は階段を駆け上がり、白亜の議事堂を閉ざす巨大な青銅扉の前に立った。

木製扉と違い、攻城兵器でなければ破れぬほどの分厚い金属板へ、静かに両掌を押し当てる。

 

「ふっ、簡単な仕事だ……。テコジアゲの原理を使えば、こんなものなんとでもない」

 

内側の頑丈な丸太の突っ張りごと、私は渾身の怪力で青銅扉を力任せに押し込んだ——

 

 

□■□■□

 

 

薄暗い元老院議事堂の内部。

そこは、冷たい静寂に支配されていた。

 

階段席に並ぶ六百人の議員たちが、獲物を狙うハゲタカのごとく中央を見下ろす。

議場の真ん中に立たされていたのは、十四歳の少年皇帝ヘリオガバルスだった。

 

「……はあ、はあ……っ」

 

緊急会議と騙されて呼び出され、護衛もすべて引き離されたのだ。

そして正面の演壇に立っていたのは——。

 

「もう観念して署名なさい、アントニヌス」

 

紫の衣を纏った皇祖母、ユリア・マエサだった。

傍らには、青い顔で巻物を抱える十二歳のアレクサンデルと、その母マミアが控えている。

 

「お祖母様……ドナウの兵士たちに、鉛の偽銀貨を送らせたのもお祖母様なの……?」

「ええ、そうよ。すべては我がセウェルス家の尊き血脈を守るためだわ」

 

マエサは表情ひとつ変えず、冷徹に言い放った。

 

「人形として笑っていればよかったものを。野蛮な長官に毒され、自我など持つからこうなるの」

「オリエンタは野蛮じゃない。ボクを叱ってくれる、たった一人の味方だもん!」

「その味方も街道の露と消えたわ。怒り狂ったドナウ軍団三万の陣営へ乗り込んだそうね」

 

ドクン、と少年の心臓が嫌な音を立てて跳ねた。

 

演壇下の帝都市長官が進み出て、退位宣誓書とペンを少年の鼻先へ突きつける。

 

「さあ狂帝アントニヌス、後ろ盾はもはや死んだ。アレクサンデル様へ帝位を譲るのだ!」

 

老貴族の手が、少年の華奢な手首を万力のようにぐっと強く締め上げた。

 

(……オリエンタが死んだ……? ボクを、一人ぼっちにして……?)

 

視界が滲みかけたその時、脳裏に蘇ったのはあの大きな手の温もりだった。

 

『雇い主が勝手に倒産宣言をするなというのです。私は退職金も有給休暇も貰っていませんよ』

 

——パシィッ!

 

ヘリオガバルスはペンを叩き落とした!

黒いインクが大理石の白い床へ激しく飛び散る。

 

「……嘘つき! オリエンタが死ぬわけないもん! 定年退職するまで絶対に死なないってボクに約束したんだ! オリエンタが帰るまで、この玉座は絶対に渡さないっ‼︎」

 

マエサの瞳に、冷酷な光が宿った。

 

「力ずくでもその指で署名させなさい!」

 

市長官が少年の腕を掴み、羊皮紙へ押しつけようとした——その瞬間だった。

 

 

□■□■□

 

 

メキメキメキッ……ドガアアアアンッ‼︎

 

議事堂の青銅扉が、内側に突っ張られた頑丈な丸太を粉砕しながら左右へ吹き飛んだ——!

 

「——おっと、人の雇い主に無断で連帯保証のサインを強要するのは感心しませんなァ!」

 

舞い上がる木屑の向こうから、筋骨隆々の巨漢が悠然と姿を現した。

 

「「「な、なにィィッ⁉︎」」」

 

議員たちが一斉に総立ちとなり、マエサが目を見開いて息を呑んだ。

 

「オリエンタ……⁉︎ なぜ生きている! ドナウ兵に八つ裂きにされたはずでは‼︎」

「八つ裂き? まさか。古巣の後輩たちと、熱い抱擁を交わしてきたところですよ」

 

私は書記官の机へ革袋をドサリと放り投げた。

 

袋の口から、ドナウ軍団に送りつけられた『鉛の偽銀貨』がジャラリと転がり出る。

 

「ドナウ三万の諸君なら、金貨と年金手形に大満足してフラミニア街道で待機中ですよ。……お待たせしました、アントニヌス陛下」

 

私は呆然と立ち尽くす市長官を押しのけ、震える少年皇帝の肩へ大きな掌をポンと乗せた。

 

「オ、オリエンタ……っ! 生きてた……ほんとに帰ってきてくれたぁ……っ!」

「当然です。有給休暇も消化せずに殉職など、私の仕事の流儀が許しませんので」

 

少年は大粒の涙をこぼしながら、私の外套の裾をぎゅっと握りしめた。

私は少年の栗色の巻き毛を撫でると、演壇のマエサへ向き直った。

 

だが、さすがは百戦錬磨の女帝というべきか。

ドナウの調略が破られたと知っても、マエサは取り乱しなどしなかった。

彼女は演壇の縁へ進み出ると、冷笑を浮かべて議員たちへ両腕を広げた。

 

「——見ましたか議員諸君! これこそが私の恐れていた事態です! この男はドナウ三万を手懐け、薔薇利権を独占し、神殿と地下組織を掌握し、今や近衛隊と軍団の両方を手中に収めた!」

 

演壇から細い指先が突きつけられる。

 

「目を覚ましなさい! この男は孫を骨抜きにし、セウェルス朝を喰い破る『カエサル以上の怪物』——ローマを簒奪する野心家なのですよ‼︎」

 

議場全体が一瞬にしてパニックへと陥った。

 

「カエサルの再来だ! 軍団を引き入れて我らを皆殺しにする気だぞ!」

 

……ちょっと待てコラァァッ⁉︎

 

私は表面上冷徹な表情を保ちながら、脳内で盛大に白目を剥いた。

 

(何を言っているんだこのババアはァァッ⁉︎ 誰がこんなブラック国家の社長になりたいものか! 私はただ円満退社してオリーブ農園を開きたいだけの中間管理職なんですけどォォッ‼︎)

 

背後ではヘリオガバルスが紫紺の瞳を輝かせ、頬を染めてうっとり呟いている。

 

「ボクを独り占めするためにローマごと乗っ取ろうとしてたの? しゅ、しゅき……」

「陛下まで惑わされないでください! 断じて私は乗っ取ろうなどしませんから⁉︎」

 

---

 

「だ、黙れ逆賊オリエンタ!」

 

市長官が唾を飛ばして吠え立てた。

 

「私がたまたま造幣局を査察したからこそ、宮廷製の偽銀貨が暴かれたのだ! 長官も自白し、貴様らの犯行は証明済み‼︎ さあアレクサンデル様……弾劾状を読み上げ、狂帝と逆賊に裁きを下すのです‼︎」

 

マエサが十二歳の孫へ冷たく頷く。

 

「さあアレクサンデル、お前が新しい太陽になるのよ。愚かな兄の罪を読み上げなさい」

 

震えるアレクサンデルが演壇の中央へ歩み出た。

 

マエサの氷のような視線が、十二歳の少年の背に突き刺さる。

物心ついた幼少期から逆らうことなど許されなかった、一族絶対の支配者。

 

その冷酷な威圧に、少年の膝はガタガタと小刻みに震えていた。

巻物を握りしめる小さな指先は、恐怖で血の気を失い白く強張っている。

 

「さあ早く! 読み上げるのです!」

「狂帝を廃位し、逆賊オリエンタに死罪を!」

 

市長官をはじめとする議員たちの野卑な怒号が、頭上から容赦なく降り注ぐ。

演壇の少年は、恐怖に小さく肩を震わせていた。

 

祖母の命じる通りに読めば、自分は助かるのだ。

だが——少年は、議場の中央を見下ろした。

無数の敵に取り囲まれながらも、微動だにせず佇む私の姿を。

 

少年の唇が、かすかに震えているのが見えた。

小さな、だが魂を振り絞るような声が、静まり返る議場に零れ落ちる。

 

「……嫌だ。そんなの、絶対に嫌だ……!」

 

少年の瞳に、ハッと強い光が宿った。

奥歯を噛み締め、竦む太ももに力を込める。

毎朝の稽古で体に叩き込んだ、揺るぎないスクワットの重心。

下半身に意識を落とし、大腿四頭筋に力を漲らせることで、恐怖を力づくでねじ伏せる。

 

少年は顔を上げ、私の瞳をまっすぐに見つめた。

私は頼れる師匠として、静かに口元を緩めた。

 

「アレクサンデル殿。周囲の雑音に怯える必要はありませんよ。いつもの稽古と同じです。背筋を伸ばし、ご自身の目で確かめた『正しい数字』をお聞かせください」

 

少年の背筋が、美しくピンと伸びた。

 

「——はい、オリエンタ兄上!」

 

アレクサンデルは弾劾状を床へ投げ捨てた!

そして懐から『黒い革装丁の帳簿』を取り出し、書見台へバンッと広げたのだ!

 

「元老院の皆様! 僕はこの偽りの弾劾状を読むことはできません! なぜならオリエンタ兄上に教わった通り——筋肉と数字は、決して嘘をつかないからです!」

「アレクサンデル⁉︎ その帳簿をどこで——」

 

マエサの顔色が変わる。

 

「お祖母様の書斎にあった直筆裏帳簿です! 複式簿記で裏金を追ったところ、ふた月前——『鉛三万ポンドを造幣局長官の別邸倉庫へ秘密搬入』と、長官の受領署名と封蝋つきで記されていました! これはドナウ兵三万の給与銀貨をそっくり偽造できる量です!」

「「「な、なんだとぉぉっ⁉︎」」」

 

議場がひっくり返るような大騒ぎとなる。

アレクサンデルはさらにページをめくり、市長官をビシッと指差した。

 

「さらに三日前! そこにいる市長官殿の私邸へ、『議事堂包囲の報酬として金貨二千枚を送金』と受取署名まであります! ドナウ軍団を怒らせて兄上たちに罪を着せようとした真犯人は——お祖母様、あなたです‼︎」

 

「ば、馬鹿なことを言うな!」

 

市長官が顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。

 

「騙されるな議員諸君! そんな帳簿、この子供が適当に書き殴った偽造の落書きだ!」

「そうだ! 元老院を愚弄するな!」

 

市長官に連なる悪徳貴族たちが、一斉に席から立ち上がって騒ぎ立てる。

議場が再び不穏なざわめきに包まれかけた——まさに、その刹那だった。

 

「落書きではありません!」

 

アレクサンデルは怯むことなく、凛とした気高い声を議場全体へ響かせた。

 

「造幣局の鉛の搬入記録、長官邸の金庫に残る受領証、そして市長官殿の署名と封蝋印! 複式簿記の通り、帳簿の数字は一粒の狂いもなく全て一致しています! 嘘は誤魔化せません!」

「なっ……ぐ、ぬぬぬ……っ!」

 

完璧な数字の連鎖を前に、悪徳議員たちが一斉に青ざめて口を噤んだ。

私はニヤリと口角を上げ、脂汗を滝のように流す市長官へ詰め寄った。

 

「ほう……市長官殿。先ほど造幣局の不正を『たまたま』見つけたと言いましたね?」

「そ、それは……たまたま調べましたら……」

「では三日前、あなたの私邸へ金貨二千枚が運び込まれたのも、たまたまかな?」

「ひっ⁉︎ そ、それはたまたま老後の祝い金が風で飛んできて……!」

「金貨二千枚が風で! そして今日、たまたま都市警備隊三千で議事堂を囲み、たまたま陛下に退位を迫ったと?」

「ぐ、ぐぬぬぬ……っ!」

「見事な『たまたま』だ。帳簿の筆跡と封蝋、今すぐ書記官全員で鑑定してもらいましょうか」

 

マエサが帳簿を奪おうと手を伸ばす。

 

だが——パシィッ!

 

黄金の腕輪が閃き、その腕を鮮やかに弾いた。

少年の母マミアが進み出て、息子を背後に庇う。

 

「母上、見苦しい真似はおやめください! 私は今の母上より、愛する息子を信じます!」

「お見事なご判断ですマミア様。そしてアレクサンデル殿、百点満点の決算報告でしたよ」

「ありがとうございます、兄上!」

 

事ここに至り、議員たちも即座に寝返った。

 

「これは大逆罪である!」

「市長官を捕らえろ!」

「衛兵、捕らえろーっ!」

 

昨日の友は今日の生贄。

 

保身に走る議員たちの怒号の中、市長官は自らの部下に組み伏せられ、あっという間に引きずり出されていった——。

 

 

□■□■□

 

 

騒乱が収まり、演壇の上にはマエサが一人取り残されていた。

だが彼女は膝をつくこともなく、憑き物が落ちたように笑った。

 

「……ふふ、お見事よ。予備の駒まであなた色に染め上げられていたとはね。負けたのなら殺される。それがローマの掟であり伝統……であれば。さあ、この老いぼれの首を刎ねなさい」

 

本物の権力亡者だけが持つ凄絶な覚悟だった。

私は隣の少年皇帝へ耳打ちした。

 

「……陛下。禍根を断つため極刑のご裁可を」

 

少年は、演壇に一人佇む祖母をじっと見つめた。

ずっと恐ろしくてならなかった、絶対の支配者。

 

だが、敗北を受け入れて立ち尽くすその姿は、どこか小さく老いて見えた。

 

少年は胸に手を当て、静かに首を横に振った。

その瞳に宿るのは、憎悪でも怒りでもない。

静かな哀愁と、皇帝としての深い慈悲だった。

 

「……ううん、殺さないよ」

 

ヘリオガバルスは私の腕に触れ、前へ進み出た。

少年皇帝は澄んだ紫紺の瞳を真っ直ぐ向けた。

 

「お祖母様はボクを着せ替え人形にして、最後は毒や偽銀貨で殺そうとした。……でも、たった一人のお祖母様だから。オリエンタが守ってくれた玉座を、身内の血で汚したくない!」

 

そして少年は皇帝の威厳を込めて宣言した。

 

「——ユリア・マエサ! 皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥスの名において命じる! あなたからすべての称号と財産を剥奪し、故郷シリアのエメサへ永久追放とする! ローマの土を二度と踏まないように厳命する‼︎」

 

静まり返った議場に、万雷の拍手が響き渡った。

 

「「「アントニヌス陛下、ばんざーいっ!」」」

 

昨日まで祖母の影に怯えていた少年が、今は誰よりも気高い皇帝の横顔をしていた。

 

危機管理の定石からすれば、まさに虎をそのまま野に放つようなものだろう。

だが少年が下した初めての『皇帝の裁定』を、臣下の私が踏みにじるわけにはいかない。

前を見据えるその気高く小さな横顔に、私は少年の確かな歩みを感じていた。

 

「うおおっ‼︎ ご無事ですか長官殿⁉︎」

 

破られた巨大な青銅扉から、外を固めていた我が近衛兵たちが雪崩れ込んできた。

都市警備隊を制圧した部下たちが、瞬く間に議場全体を掌握する。

 

「私は大丈夫だ皆! よくやってくれた‼︎」

 

先頭に立つ副官ルキウスが、近衛兵たちを引き連れて演壇へ駆け上がっていく。

そして、マエサの周囲を厳重に取り囲んだ。

視線を合わせようとしないほどだ。

 

——兵たちに囲まれ連行されるマエサが、階段を降りて私たちの真横で足を止めた。

 

「……甘い子ね、アントニヌス」

 

マエサは冷ややかに微笑み、孫の耳元で囁いた。

 

「その中途半端な優しさが、いつかお前自身の首を絞める猛毒になるのよ。せいぜい気をつけなさい? カエサルの二の舞を踏まないように、ね」

 

老婦人は背筋を伸ばし、議事堂を去っていった。

 

 

□■□■□

 

 

議事堂の外へ出ると、帝都ローマの空は夕暮れの茜色に染まり始めていた。

 

「——おお、やっと上がったか」

 

帝都の西、ヤニクルムの丘の頂から、天を突く『紫の狼煙』がモクモクと立ち昇っていた。

皇帝の黄金印章を高く掲げた連絡武官の早馬が、石畳を蹴ってフラミニア街道へ疾走していく。

 

『黄金印章』と、ティルス紫の『紫の狼煙』。

勅命の正統性と、帝都現地の安全認証——この二つが揃って初めて軍団が動く、鉄の二重認証だ。

 

ほどなくして、北の街道の彼方から、大地を揺るがす軍団兵たちの歓声が風に乗って響いてきた。

 

正規給与と、将来を保障する『共済年金手形』。

二重認証を確認した三万の後輩たちが、槍を掲げて歓喜の声を上げる。

彼らは揚々と、北方防衛へ帰還していった。

 

隣に並び立つ十四歳の少年皇帝が、大きな紫紺の瞳を輝かせて私を見上げた。

 

「みんな、すごく喜んでるね」

「ええ。正しい手続きと、裏付けのある報酬……これこそが組織を動かす基本ですので」

 

 

□■□■□

 

 

そして、宮殿の近衛隊長官室。

 

執務机の前で、私は満面の笑みを浮かべていた。

 

議事堂から逃げ出した腐敗議員どもは、ゾティクスの遊撃隊が綺麗に一掃。

そして、黒幕マエサはシリアへと追放。

なお皇母ソエミアス様は、新作シルクの商談に夢中でクーデターにすら気づいていなかった。

 

——そう、つまるところだ。

 

全ての問題は解決、大大大大大勝利である‼︎

 

「実に長いデスマーチだったが、ついに終了だ」

 

机の奥から、絹紐で結んだ羊皮紙を取り出す。

長椅子で足をぶらつかせるヘリオガバルスの前へ進み、恭しく片膝をつく。

 

「アントニヌス陛下! あなた様は皇帝として立派な独り立ちを果たされました! つきましては私めは長官を辞し、故郷でオリーブ農園を——」

 

私が差し出した羊皮紙の表題には、『円満依願・早期退職願』と記されていた。

 

…………。

 

ピタリ、と少年の軽やかな足が止まった。

紫紺の瞳から、スーッとすべての光が消えた。

 

「……へえ? たいしょく、ねがい?」

「はい、規定の退職金だけで結構です」

 

し・か・し。

 

——ビリビリビリビリッ‼︎

 

「あええええっ⁉︎ 私の退職願がァァッ⁉︎」

「あっはっは〜! 残念、却下だよっ!」

 

少年皇帝は、私がこそこそ三日かけて清書した退職願を紙吹雪へと引き裂く。

そして私の胸板へと全力で抱きついてきた。

 

「お祖母様が消えたら、もうキミとボクの邪魔をする人は誰もいないってことでしょ?」

「い、いや私の業務は満了と——」

「——終わりなわけないじゃん! あの『絶対偶像計画』含めて、明日から片っ端から実行するんだから! キミの契約は死ぬまで更新される『しゅーしん雇用』なの! 一生ボクの隣で働いてもらうよ、ボクだけのオリエンタ?」

 

なんと⁉︎ 重しが消えた結果、暴走を止めるブレーキまで吹き飛んでしまったのではないか!

 

「終身雇用⁉︎ 労働基準法はいずこへ⁉︎」

「ろーどーきじゅんほー? そんな聞いたことないモノ、まだボク作ってないもん!」

「そ、そうだったああああああ⁉︎」

 

夕暮れの宮殿に、私の絶叫が木霊した。

 

(——絶対に、ちゃんとしたムキムキマッチョな法整備を、必ず成し遂げてやるからなッ⁉︎)




◆ユリア・マエサ
ローマ史上屈指の冷徹な女性。
史実でも、孫のヘリオガバルスが太陽神信仰や奇行に走って制御不能になると見るや、冷酷に見限って従弟のアレクサンデルを後継者に擁立し、近衛隊を買収して暗殺させた黒幕。

◆近衛隊と都市警備隊
帝都ローマには、皇帝直属の『近衛隊(プラエトリアニ)』とは別に、元老院の最高位長老である帝都市長官が指揮する『都市警備隊(コホルテス・ウルバナエ)』が存在した。
政治的危機の際には、この二つの武装組織どちらにつくかが皇帝の生死を分けたという。
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