「タイシン、今のはよかったな」
「……あのくらい、できるし」
褒めたら、これである。
最後の直線で見せた伸びについて、もう少し話したかったのだが、タイシンは俺の手元を指さした。
「タイム」
「ああ。予定より、かなりいい」
「……で、何秒?」
ストップウォッチを見せる。
タイシンの口元が、ほんの少し緩んだ。
その顔を見て俺も笑うと、すぐに眉を寄せられた。
「何」
「いや、嬉しそうだなと思って」
「悪い?」
「いいに決まってるだろ」
頑張ったな、と手を伸ばしかける。
頭に触れる前に、タイシンが身を引いた。
「ガキ扱いしないで」
「……悪い」
行き場を失った手で、自分の首をかく。
担当になってしばらくたつが、距離の取り方は、まだまだ難しい。
これでも、最初よりはよく喋ってくれるようになったのだ。
「タオルは?」
「ここ」
差し出したタオルを、タイシンが受け取る。
そのまま顔を拭きかけて、ふと手を止めた。
「……ありがと」
「うん?」
「……ありがとう、って聞こえなかった?」
「いや。どういたしまして」
聞こえていた。少し意外で、聞き返してしまっただけだった。もっと普通に受け取ればよかったと、タオルの向こうへ消えた顔を見ながら思った。
*
トレーナー室へ戻ると、タイシンがコンビニの袋をテーブルに置いた。
練習へ来る途中で買ったらしい。
「これ」
「俺に?」
「……ほかに誰がいんの」
中には、俺がいつも飲んでいる缶コーヒーが入っていた。
「ありがとう。ちょうど飲みたかったんだ」
「……ふうん」
「よく分かったな」
「目の下、ひどいから。ちゃんと寝てんの?」
昨夜、レース映像を見直していたら遅くなった。
そう答えると、タイシンは露骨に顔をしかめた。
「今日走るの、アタシなんだけど」
「もちろん分かってる」
「アンタが先に潰れたら、どうすんの」
「今日は早く寝るよ」
「今日だけじゃなくて、ちゃんと寝なよ」
返す言葉がなかった。
タイシンはソファに腰を下ろし、自分の分の飲み物を開けた。
「そこまで気にしてくれてたんだな」
「担当トレーナーの顔くらい見るでしょ」
こちらを見ずに言う。
素直に礼を言いたいだけなのだが、毎回、受け取ってもらうまでが長い。
コーヒーを飲んでいると、タイシンがスマホをこちらへ向けた。
「これ、昨日言ってたやつ」
「ああ、水族館の魚か」
水槽の中から、妙に不機嫌そうな顔でこちらを見ている魚の写真だった。
確かに、これは見せたくなる。
もう少しよく見ようと隣へ腰を下ろすと、タイシンがすっと横にずれた。
「近い」
「画面、小さくて」
「送るから。自分ので見て」
すぐに写真が送られてきた。
俺はタイシンとの間にできた空間を見て、それから自分のスマホを取り出した。
魚は、こちらで見てもやっぱり不機嫌そうだった。
「……何か言いたそう」
「いや、ちゃんと見えた。ありがとう」
「ならいいけど」
タイシンは飲み物を口に運んだ。
俺も缶コーヒーを飲む。
ソファには2人で座っているのに、間にもう1人座れそうだった。
*
「今日の走りでよかったのは、切り替えの速さだな」
記録を見ながら、改めて練習を振り返る。
タイシンは脚を組まずに座り直し、俺の話を聞いていた。
「前が開いた時、迷わず行けていた。判断もよかった」
「あそこで迷ってたら、間に合わないし」
「だから、いい判断だったって話だよ」
タイシンは黙って、記録の数字を見た。
少し間が空いてから、こちらを見る。
「アンタ、いっつも褒めるよね」
「いいところがあったらな」
「担当なんだから、それくらい言うでしょ」
「担当でも、思ってないことは言わないぞ」
「……まあ、走ることならね」
少し引っかかる言い方だった。
「走ること以外にも、いいところはあるだろ」
「例えば?」
「人のこと、よく見てる」
「何それ」
「俺が寝不足なのも、すぐ分かったし。コーヒーまで買ってきてくれた」
「顔見れば分かるって言ったじゃん」
「分かったあと、買ってきてくれたのがいいところなんだよ」
タイシンが口を閉じた。
だが、すぐに視線を外す。
「……無理して褒めなくていいって」
無理はしていなかった。今、目の前にある缶を見れば出てくる話だ。たぶん俺が、普段、走りのことばかり褒めているのがよくない。
「ほかにもあるぞ。100個くらいは言える」
タイシンの視線が戻ってきた。
「100?」
「ああ」
「適当に言ってない?」
「言ってない」
「じゃあ、言ってみれば」
こちらを向き直り、続きを待つ。
売り言葉に買い言葉、というほどではなかったが、少し大きく出た自覚はあった。
「……書いてきてもいいか?」
「今は出ないんだ」
「順番に整理したいんだよ。同じことを2回言ったら、数に入れてくれないだろ」
「当たり前でしょ」
タイシンはそう言って、少しだけ笑った。
「別に、そこまでしなくてもいいけど」
それで話は終わった。
はずだった。
帰り際、タイシンがドアのところで振り向いた。
「……いつ?」
「何が?」
「書いてくるの」
俺は、つい笑いそうになったのをこらえた。
「明日には」
「ふうん」
ドアが閉まる。
今度こそ、1人で笑った。
100個のうち、1個はもう決まった。
*
家に帰り、紙に『ナリタタイシンのいいところ』と書いた。
1.最後まで勝ちを狙って走るところ。
2.小さな違和感をごまかさずに伝えてくれるところ。
3.納得するまで質問するところ。
走りに関する項目は、すぐに出てきた。
次に、今日あったことを書き込む。
12.人の疲れに気づけるところ。
13.相手の好みを覚えているところ。
14.気づくだけで終わらず、何かしてくれるところ。
ここは、まとめて1個だと言われるかもしれない。
ただ、好みを覚えることと、実際に買ってくることは別だと思う。指摘されたら、そう答えよう。
27.人の話が長くても、最後まで聞いているところ。
ウイニングチケットが勢いよく話し始めると、タイシンはよく面倒そうな顔をする。だが、途中でいなくなるところは見たことがない。俺が聞き逃していた話の続きまで、あとで教えてくれる。
41.面白いものを見つけると、人にも教えてくれるところ。
42.自分と意見が違っても、理由を聞こうとするところ。
練習の相談で言い合いになることはある。こちらがきちんと説明すれば、聞いてくれる。納得していない時に、うなずいて済ませることもない。おかげで、見落としていたことに気づけた日もあった。
63.言い過ぎたと思った時、あとからでも話をしに来るところ。
前に、練習の負荷を巡って少し険悪になった。その日の夕方、タイシンはトレーナー室に戻ってきた。俺が謝ると、向こうも「言い方は悪かった」と答えた。次の日まで待たずに来てくれたのが、ありがたかった。
ペンを動かしていると、細かいことばかり思い出す。
道を聞かれた時、説明だけで伝わらないと分かって、途中まで送っていったこと。
俺がなくしたと思っていたクリップを拾い、黙って机に置いてくれたこと。
差し入れの最後の1個を、人が来るまで残していたこと。
99.気になっていることを、気になっていないふりで聞きに来るところ。
これは長所だろうか。
少なくとも、俺にはありがたい。今日のように聞きに来てくれると、何を気にしているのか分かる。
消さずに、残した。
100.ありがとうを、相手に聞こえるように言い直してくれるところ。
そこまで書いて、ペンを置いた。
100個、ちゃんとあった。
何気なく言ったことだったが、こうして並べてみると、本人にも知っておいてほしいと思った。
時計を見て、慌てて立ち上がる。
もう寝る時間だった。
明日も同じ顔をしていたら、13個目あたりで紙を突き返される。
*
「……本当に書いてきたんだ」
翌日の練習後、タイシンは紙の束を両手で受け取った。
俺は向かいのソファに座る。
「100個。数えてもらっていいぞ」
「そこは疑ってないけど」
タイシンは1枚目から読み始めた。
最初は普段と変わらない顔だった。
12個目のあたりで、ちらりと俺を見る。
「……コーヒー1本で、そんなに褒める?」
「してもらったことだからな」
「大げさ」
そう言って、続きを読んだ。
ページをめくる。
少し戻る。
口が動きかけて、何も言わずに閉じる。
練習の記録を開いて待っていたが、どうにも気になって集中できなかった。覗き込むのも落ち着かないだろうから、窓の外を見る。グラウンドを走っている子を目で追い、もう1周するまで待った。
「トレーナー」
「うん?」
「99個目」
顔を向けると、タイシンが最後の紙を見ていた。
「これ、昨日のこと?」
「ああ」
「……分かってたんだ」
「気になるから聞きに来たんだろ」
タイシンが紙を少し持ち上げ、口元を隠した。
だが、目元までは隠れなかった。
笑っている。
昨日、タイムを見た時より、ずっとはっきり。
「……こういうのまで、いいところにするんだ」
「俺は、聞きに来てくれてよかったと思ってるよ」
タイシンはまた紙に目を落とした。
最後まで読む。
読み終えたのに、そのまま膝の上に置いていた。
「これ、仕事だから書いたんじゃないよね」
「約束したから書いたけど、内容は全部、思ってることだぞ」
「……全部?」
「ああ」
タイシンはもう一度、紙に目を落とした。
それから、ゆっくり俺を見る。
「アンタ、アタシのこと……そんなに好きなの?」
ずいぶん直球の聞き方だった。
100個も並べたのだから、伝わってはいると思っていたのだが。
「好きだよ。だから、これくらいは書ける」
タイシンが固まった。
口を少し開けたまま、こちらを見ている。
「……ホントに?」
「もちろん」
自分の担当だ。走りに惚れ込んで契約したし、人柄だって、知るほどにいいところが見つかる。もう少し早く、走り以外のことも伝えておけばよかったのかもしれない。
タイシンは紙を丁寧に重ねた。
端をそろえる。
そろえたはずなのに、また指で確かめる。
その指先が、少し震えていた。
「……アタシも」
小さな声だった。
「アタシも、アンタが好き」
俺はほっとした。普段、あまりにもつっけんどんにされるので、嫌われてはいないと思いつつ、多少は気にしていたのだ。
「そう言ってくれると、嬉しいな」
タイシンの顔が真っ赤になった。
かと思うと、目を伏せて笑う。
もう一度こちらを見て、また笑った。
俺の方まで、つられて顔が緩んだ。
「……そっち、行っていい?」
隣の空いている場所を指さす。
「ああ」
タイシンが立ち上がった。
紙を鞄へしまい、俺の隣に座る。
昨日あった1人分の空間が、今日はなかった。
肩が触れる。
袖をつかまれる。
「……こういうのも、いい?」
俺の腕に、両手が添えられた。
少し戸惑ったが、うなずく。
「いいけど」
抱え込まれた。
肩に、こつんと頭が触れる。
俺は腕を見た。次に、タイシンを見た。目が合うと、タイシンは、今まで見たことがないほど嬉しそうに笑った。
「……何」
「いや、近いなと」
「……くっつきたくて、来たんだし」
それはそうだった。
ただ、昨日、隣に座ったら距離を取られたことが、どうしても頭から離れない。
タイシンは俺の袖をつまみ、しばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言う。
「昨日まで、どうしようって考えてたの、バカみたい」
「何を?」
「……それは、まだ言わない」
笑って、肩へ額を押しつけてくる。
言わないという割に、機嫌はよさそうだった。
空いた手を、どこへ置こうか迷う。
タイシンが俺の手を見た。
少しだけ、頭が近づいてきた。
「……撫でても?」
「うん」
そっと髪に触れる。
目が細められた。
腕を抱く力が強くなり、肩へ頬が寄ってくる。
同じ相手だ。
少なくとも、今朝までは同じ相手だったはずだ。
「……もう少し」
そう言われたので、もう少し撫でた。
タイシンは笑ったまま、目を閉じた。
100個書くと、こんなに懐いてくれるのか。
*
翌朝、学園の門をくぐったところで、名前を呼ばれた。
顔を向けると、タイシンが小走りで近づいてくる。
俺を見つけた瞬間に、表情が明るくなったのが見えた。
「トレーナー」
「おはよう」
「ん。おはよ」
左腕に抱きつかれた。
昨日の続きらしい。
「……今日も?」
「今日も」
タイシンは満足そうにうなずいた。
俺が歩き出すと、そのまま隣についてくる。
「歩きにくくないか?」
「平気」
俺は少し歩きにくい。
そう伝えると、タイシンはすぐに腕をほどいた。
分かってくれたと思った次の瞬間、手を握られる。
「こっちは?」
「……歩くには、そっちの方が」
また笑った。
朝から何回笑っただろう。普段は見逃さないようにしていた表情を、今日は何の苦労もなく見られる。
トレーナー室に入ると、タイシンはソファへ座った。
隣を、ぽんと叩く。
「座って」
「先に荷物を置かせてくれ」
「うん。待ってる」
機嫌よく待っていた。
荷物を置き、上着を脱ぎ、ソファへ向かう。
近づくだけで、タイシンが顔を上げる。
座ると、すぐに肩へ寄ってきた。
紙を渡す前は、向かいに座るか、わざわざ間を空けていたのに。
「タイシン」
「何?」
「どうして、急にこうなったんだ?」
タイシンが顔を上げた。
少し呆れたように、俺を見る。
「……昨日、アンタが言ったこと、忘れた?」
「覚えてるけど」
「じゃあ、分かるでしょ」
分からなかった。
ただ、あの100個がきっかけになったのは、間違いないようだ。
「そんなに嬉しかったか」
「……嬉しかったよ」
頬が少し赤くなる。
それから、また笑った。
「すっごく」
褒めた内容を、ここまで素直に受け取ってもらえたのは初めてだった。
肩へ頭が戻ってくる。
そのまま、タイシンは俺の腕を抱き直した。
「ねえ」
「うん?」
「もう1回、言って」
「何を?」
「……好きって」
まだ確かめたいらしい。
昨日まで、長所を褒めるたびに言い返されていたことを思えば、こちらの方がずっといい。
「好きだよ」
「……ん」
胸元に、額が押しつけられた。
小さく笑う声がした。
褒めるのは大事だと、養成課程でも何度か聞いた。
しかし、ここまで変わるとは教わっていない。
*
廊下で、ウイニングチケットとビワハヤヒデに会った。
2人の視線が、俺の左腕に集まる。
タイシンがくっついていた。
「……タイシン?」
「何」
返事は、いつもの調子だった。
「えっと、その、トレーナーさんと」
「練習に行くとこ」
「そうじゃなくて、その腕」
タイシンは俺の腕を見た。
抱え直した。
説明はなかった。
ハヤヒデが、俺を見る。
「何か、あったのか?」
「いいところを100個、書いて渡したんだ」
チケットが目を丸くした。
「100個!?」
「声、大きい」
タイシンに注意され、チケットは口元を押さえた。
だが、すぐに、にこにこと笑い始める。
「つまり……そっかあ。よかったね、タイシン」
「……うん」
タイシンも笑った。
チケットの目が潤んだ。
ハヤヒデは2人を見てから、俺へ向き直った。
「つまり、お二人は」
「昨日から、急に懐いてくれるようになって」
俺が答えると、ハヤヒデの言葉が止まった。
「……懐く?」
「ああ。今まで、あまりこういうことはなかったんだけどな」
タイシンは俺の説明を聞いて、少し口を尖らせた。
俺の袖を指先でつまむ。
「アンタが先に言ったんだから」
「そうだな」
「……ちゃんと覚えててよ」
顔を上げ、こちらへ微笑む。
覚えていると返すと、肩に頭が触れた。
ハヤヒデが、口を開いた。
俺を見る。
タイシンを見る。
それから、一度閉じた。
チケットも、何か言いたそうにしていた。
「……あの、トレーナーさん」
「うん?」
「タイシンのこと、好きなんですよね?」
「もちろん」
タイシンが俺を見上げた。
嬉しそうに目を細める。
「アタシも」
チケットの顔が、また緩んだ。
ハヤヒデがその袖を引く。
「チケット、少し」
「えっ。でも」
「少しだけ」
2人は廊下の端へ寄り、小声で話し始めた。
邪魔をしてはいけないと思い、こちらも声を落とす。
「先に行こうか」
「うん」
タイシンは、もう一度俺の腕に頬を寄せた。
*
走り始めれば、タイシンはいつもどおりだった。こちらの説明を聞き、自分の感覚も伝える。仕掛ける場所を決め、走り、戻ってきて確認する。
最後の1本は、狙ったところで速度が上がった。
「今の、よかったぞ」
「……うん」
記録を見せると、タイシンが笑った。
そこから手が伸びてくるまでが、速い。
「待った。今、汗だくだろ」
「気にする?」
「先に拭こうな」
タオルを渡す。
タイシンは頬と首元を拭き、それから、もう一度俺を見た。
待っている。
「まだ、クールダウンがある」
「終わったら?」
「少し休憩だな」
満足そうにうなずいて、歩いていった。
後ろ姿まで楽しそうだった。
少し離れたところに、チケットとハヤヒデがいた。
さっきから、こちらを見ていたようだ。
何か相談でもあるのかと思い、近づく。
ハヤヒデが、タイシンの姿を確かめてから口を開いた。
「すまない。ひとつ、確認したいことがある」
「どうした?」
「君は、その……タイシンと、交際しているのか?」
思わず、顔を見た。
「いや。そういうわけじゃないよ」
チケットが両手で口を覆った。
ハヤヒデは目を閉じ、一度うなずいた。
「……先ほど、好きだと」
「大切な担当だからな。走りも、人柄も含めて」
ああ、確かに好きと言うとそういう解釈もあるか。
俺はタイシンの方を振り返った。
ストレッチをしながら、こちらを見ている。
目が合うと、嬉しそうに片手を上げた。
上げ返す。
タイシンが笑った。
2人の方へ向き直ると、どちらも何とも言えない顔をしていた。
「突然変わって驚かせたよな。俺も、びっくりしてる」
「……ああ。そうだろうな」
ハヤヒデが、ゆっくり答えた。
「やっと素直に甘えてくれるようになったみたいで。なるべく、受け止めてやりたいと思ってるんだ」
チケットが何か言おうとした。
だが、その視線が俺の後ろへ動いて、止まる。
「トレーナー」
タイシンが来ていた。
「終わった」
「ああ。お疲れ」
両腕が、少し広がる。
俺はクリップボードを脇へ抱えた。
「……少しだけな」
抱きついてきた。
胸元に額が触れ、背中へ腕が回る。
空いている手を添えると、タイシンは満足そうに目を閉じた。
2人の前だ。
俺は少し落ち着かなかったが、タイシンは気にしていない。
「……タイシン、人前だが」
「うん」
「恥ずかしくないのか?」
顔が上がる。
少し考えてから、笑った。
「……だって、くっついてたいし」
チケットが、声を出さずに天を仰いだ。
ハヤヒデは、その肩に手を置いていた。
*
夕方、タイシンがトレーナー室へ向かう途中で、2人はもう一度声をかけた。
チケットは朝から何度も言葉を考えたのだが、結局、最初の一言しか決まっていなかった。
「タイシン、ちょっとだけ、聞いてもいい?」
「何?」
いつもなら、用件を早く言うよう促される。
今日は、タイシンが立ち止まって待ってくれた。
それもまた、チケットを困らせた。
「その、トレーナーさんと……昨日から、なんだよね?」
「うん」
タイシンの頬が赤くなる。
「100個も書いてきて。あんなに見てたのかと思ったら、嬉しくなっちゃって」
「……そっか」
「聞いたんだ。アタシのこと、そんなに好きなのって」
ハヤヒデは、黙って続きを待った。
「そしたら、好きだよって。普通に言うから」
タイシンが少し笑う。
思い出しただけで嬉しい、という顔だった。
「アタシもって、ちゃんと言えた」
チケットは、口を開いた。
閉じた。
タイシンが不思議そうに見る。
「……何?」
「えっと、じゃあ、その、今は」
「まだ、あんまり慣れないけど」
タイシンは自分の手を見た。
朝、トレーナーとつないでいた方だ。
「手、つないだり。くっついたり」
「……うん」
「でも、アンタらの前だと、ちょっと恥ずかしい」
本人も意外そうに言う。
それから、2人を見た。
「……あんまり、からかわないでよ」
ハヤヒデは、首を横に振った。
からかうつもりなど、少しもなかった。
ただ、どこから話せばいいのか分からなかった。
タイシンは、その返事に安心したようだ。
「じゃあ、アタシ、行くから」
待ちきれないように、足がトレーナー室の方へ向く。
チケットが反射的に呼び止めた。
「あ、タイシン」
「何?」
「……その、ね」
言わなければならない。
トレーナーは、大切な担当として言ったのだと。
タイシンが受け取った意味とは、たぶん違うのだと。
だが、タイシンの顔を見ると、喉が詰まった。
今朝まで知らなかった笑顔が、まだそこにある。
ハヤヒデが、隣で小さく息を吸った。
「トレーナーとは、よく話を」
「話してるよ」
タイシンは、少し呆れた顔をした。
「昨日も今日も、好きって言ってくれたし」
チケットがハヤヒデを見る。
ハヤヒデは、続きの言葉を探した。
その間に、タイシンの顔がまたほころんだ。
「……今日なんか、もう2回も」
2人とも、何も言えなくなった。
「じゃあね」
タイシンは軽く手を振り、トレーナー室へ向かった。
廊下を歩く足取りが、いつもより少し速い。
チケットはその背中を見送り、そっとハヤヒデの袖をつかんだ。
「……どうしよう」
「まずは、トレーナーに説明するべきだろう」
「タイシン、あんなに嬉しそうなのに」
「だからこそ、慎重に伝えなければ」
ハヤヒデは、自分に言い聞かせるように答えた。本人同士で話してもらえば済むと思っていた。話すたびに勘違いが深くなっているとは、思わなかった。
目の前で、トレーナー室のドアが開いた。
「トレーナー」
「おう。お疲れ。まだ少しかかるぞ」
「待ってる」
タイシンは中へ入り、ドアノブから手を離した。
閉まりきる前に、声が聞こえる。
「隣、行っていい?」
「そこだと狭いぞ」
「近い方がいい」
チケットが、両手で顔を覆った。
「ハヤヒデ」
「……ああ」
「言ったら、ああいうやりとり、なくなっちゃうかな」
ハヤヒデは答えられなかった。部屋から涙ながらに走り去るタイシンなど、想像したくない。かといって、このままにしておいてよいとも思えない。
「タイシンを悲しませずに、事情を説明する方法を考えよう」
「うん……」
2人は、その場を少し離れた。
*
タイシンが、俺の椅子のすぐ隣へもう1脚運んできた。
ソファで待つのかと思ったが、こちらがいいらしい。
タイシンが隣の椅子に座る。
肩が触れる。
画面をのぞき込みながら、俺の左腕にくっつく。
「……入力しにくいんだが」
「あ、ごめん」
腕が離れた。
頭は肩に残った。
耳が当たるのはもう気にしないようだ。
「肩は?」
「……腕が動けば、まあ」
タイシンが小さく笑う。
そのまま、俺が記録を書き終えるのを待っていた。
ようやく保存し、パソコンを閉じる。
タイシンの顔が上がった。
「終わった?」
「ああ」
「じゃあ」
両腕が伸びてきた。
紙を渡す前には、ここまでくっつかれることがあるなんて、考えたこともなかった。
受け止めると、胸元に額が触れる。
嬉しそうに、身体を預けてくる。
「……本当に、どうしたんだ」
「またそれ?」
タイシンが笑った。
「アンタのこと、好きなんだから、しょうがないでしょ」
随分、信頼してもらえるようになった。
よかったと思う。
よかったとは思うのだが、どうしてこうなったのかは、まだよく分からない。
「……そうか」
「うん」
タイシンが、顔を上げた。
笑ったまま、俺を見る。
「アンタは?」
今日も、確かめたくなったようだ。
頭へ手を置き、答える。
「もちろん、好きだよ」
タイシンが目を細めた。
首へ腕が回り、ぎゅっと抱きついてくる。
「……アタシも」
声が弾んでいた。
これだけ素直に気持ちを伝えてくれるなら、もう少し甘えさせてもいいだろう。
俺は時計を見上げた。
まだ、帰るまでには時間があった。
*
少し先の廊下で、チケットとハヤヒデは議論を続けていた。
指摘する言い方をお互いに確かめるたびに、どこかがひっかかる気がした。
「じゃあ、『トレーナーさん、タイシンは恋人になったと思ってます』は?」
「そのあとの対応まで、一緒に考えておいた方がいい」
「なら……『タイシン、実は』」
「先にタイシンへ話すのは、待とう」
チケットが壁へ背中を預ける。
ハヤヒデは、すぐ隣で頭を悩ませていた。
「100個も書いたんだよね」
「ああ」
「全部褒めてるんだよね」
「ああ」
「……そりゃ、勘違いするよ」
ハヤヒデはうなずいた。
100個書けるなら、あと少し、説明を添えてくれればよかったのだ。
『担当として』
たった5文字。
トレーナー室から、小さく笑う声がした。
チケットが、そちらを見る。
ハヤヒデも見た。
勘違いをしていない2人だけが、廊下で頭を抱えていた。