ナリタタイシンを褒めちぎって勘違いさせるクソボケトレーナー

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ナリタタイシンのいいところを100個書いたら

「タイシン、今のはよかったな」

「……あのくらい、できるし」

 

 褒めたら、これである。

 最後の直線で見せた伸びについて、もう少し話したかったのだが、タイシンは俺の手元を指さした。

 

「タイム」

「ああ。予定より、かなりいい」

「……で、何秒?」

 

 ストップウォッチを見せる。

 タイシンの口元が、ほんの少し緩んだ。

 その顔を見て俺も笑うと、すぐに眉を寄せられた。

 

「何」

「いや、嬉しそうだなと思って」

「悪い?」

「いいに決まってるだろ」

 

 頑張ったな、と手を伸ばしかける。

 頭に触れる前に、タイシンが身を引いた。

 

「ガキ扱いしないで」

「……悪い」

 

 行き場を失った手で、自分の首をかく。

 担当になってしばらくたつが、距離の取り方は、まだまだ難しい。

 これでも、最初よりはよく喋ってくれるようになったのだ。

 

「タオルは?」

「ここ」

 

 差し出したタオルを、タイシンが受け取る。

 そのまま顔を拭きかけて、ふと手を止めた。

 

「……ありがと」

「うん?」

「……ありがとう、って聞こえなかった?」

「いや。どういたしまして」

 

 聞こえていた。少し意外で、聞き返してしまっただけだった。もっと普通に受け取ればよかったと、タオルの向こうへ消えた顔を見ながら思った。

 

  *

 

 トレーナー室へ戻ると、タイシンがコンビニの袋をテーブルに置いた。

 練習へ来る途中で買ったらしい。

 

「これ」

「俺に?」

「……ほかに誰がいんの」

 

 中には、俺がいつも飲んでいる缶コーヒーが入っていた。

 

「ありがとう。ちょうど飲みたかったんだ」

「……ふうん」

「よく分かったな」

「目の下、ひどいから。ちゃんと寝てんの?」

 

 昨夜、レース映像を見直していたら遅くなった。

 そう答えると、タイシンは露骨に顔をしかめた。

 

「今日走るの、アタシなんだけど」

「もちろん分かってる」

「アンタが先に潰れたら、どうすんの」

「今日は早く寝るよ」

「今日だけじゃなくて、ちゃんと寝なよ」

 

 返す言葉がなかった。

 タイシンはソファに腰を下ろし、自分の分の飲み物を開けた。

 

「そこまで気にしてくれてたんだな」

「担当トレーナーの顔くらい見るでしょ」

 

 こちらを見ずに言う。

 素直に礼を言いたいだけなのだが、毎回、受け取ってもらうまでが長い。

 

 コーヒーを飲んでいると、タイシンがスマホをこちらへ向けた。

 

「これ、昨日言ってたやつ」

「ああ、水族館の魚か」

 

 水槽の中から、妙に不機嫌そうな顔でこちらを見ている魚の写真だった。

 確かに、これは見せたくなる。

 もう少しよく見ようと隣へ腰を下ろすと、タイシンがすっと横にずれた。

 

「近い」

「画面、小さくて」

「送るから。自分ので見て」

 

 すぐに写真が送られてきた。

 俺はタイシンとの間にできた空間を見て、それから自分のスマホを取り出した。

 魚は、こちらで見てもやっぱり不機嫌そうだった。

 

「……何か言いたそう」

「いや、ちゃんと見えた。ありがとう」

「ならいいけど」

 

 タイシンは飲み物を口に運んだ。

 俺も缶コーヒーを飲む。

 ソファには2人で座っているのに、間にもう1人座れそうだった。

 

  *

 

「今日の走りでよかったのは、切り替えの速さだな」

 

 記録を見ながら、改めて練習を振り返る。

 タイシンは脚を組まずに座り直し、俺の話を聞いていた。

 

「前が開いた時、迷わず行けていた。判断もよかった」

「あそこで迷ってたら、間に合わないし」

「だから、いい判断だったって話だよ」

 

 タイシンは黙って、記録の数字を見た。

 少し間が空いてから、こちらを見る。

 

「アンタ、いっつも褒めるよね」

「いいところがあったらな」

「担当なんだから、それくらい言うでしょ」

「担当でも、思ってないことは言わないぞ」

「……まあ、走ることならね」

 

 少し引っかかる言い方だった。

 

「走ること以外にも、いいところはあるだろ」

「例えば?」

「人のこと、よく見てる」

「何それ」

「俺が寝不足なのも、すぐ分かったし。コーヒーまで買ってきてくれた」

「顔見れば分かるって言ったじゃん」

「分かったあと、買ってきてくれたのがいいところなんだよ」

 

 タイシンが口を閉じた。

 だが、すぐに視線を外す。

 

「……無理して褒めなくていいって」

 

 無理はしていなかった。今、目の前にある缶を見れば出てくる話だ。たぶん俺が、普段、走りのことばかり褒めているのがよくない。

 

「ほかにもあるぞ。100個くらいは言える」

 

 タイシンの視線が戻ってきた。

 

「100?」

「ああ」

「適当に言ってない?」

「言ってない」

「じゃあ、言ってみれば」

 

 こちらを向き直り、続きを待つ。

 売り言葉に買い言葉、というほどではなかったが、少し大きく出た自覚はあった。

 

「……書いてきてもいいか?」

「今は出ないんだ」

「順番に整理したいんだよ。同じことを2回言ったら、数に入れてくれないだろ」

「当たり前でしょ」

 

 タイシンはそう言って、少しだけ笑った。

 

「別に、そこまでしなくてもいいけど」

 

 それで話は終わった。

 はずだった。

 

 帰り際、タイシンがドアのところで振り向いた。

 

「……いつ?」

「何が?」

「書いてくるの」

 

 俺は、つい笑いそうになったのをこらえた。

 

「明日には」

「ふうん」

 

 ドアが閉まる。

 今度こそ、1人で笑った。

 100個のうち、1個はもう決まった。

 

  *

 

 家に帰り、紙に『ナリタタイシンのいいところ』と書いた。

 

 1.最後まで勝ちを狙って走るところ。

 2.小さな違和感をごまかさずに伝えてくれるところ。

 3.納得するまで質問するところ。

 

 走りに関する項目は、すぐに出てきた。

 次に、今日あったことを書き込む。

 

 12.人の疲れに気づけるところ。

 13.相手の好みを覚えているところ。

 14.気づくだけで終わらず、何かしてくれるところ。

 

 ここは、まとめて1個だと言われるかもしれない。

 ただ、好みを覚えることと、実際に買ってくることは別だと思う。指摘されたら、そう答えよう。

 

 27.人の話が長くても、最後まで聞いているところ。

 

 ウイニングチケットが勢いよく話し始めると、タイシンはよく面倒そうな顔をする。だが、途中でいなくなるところは見たことがない。俺が聞き逃していた話の続きまで、あとで教えてくれる。

 

 41.面白いものを見つけると、人にも教えてくれるところ。

 42.自分と意見が違っても、理由を聞こうとするところ。

 

 練習の相談で言い合いになることはある。こちらがきちんと説明すれば、聞いてくれる。納得していない時に、うなずいて済ませることもない。おかげで、見落としていたことに気づけた日もあった。

 

 63.言い過ぎたと思った時、あとからでも話をしに来るところ。

 

 前に、練習の負荷を巡って少し険悪になった。その日の夕方、タイシンはトレーナー室に戻ってきた。俺が謝ると、向こうも「言い方は悪かった」と答えた。次の日まで待たずに来てくれたのが、ありがたかった。

 

 ペンを動かしていると、細かいことばかり思い出す。

 道を聞かれた時、説明だけで伝わらないと分かって、途中まで送っていったこと。

 俺がなくしたと思っていたクリップを拾い、黙って机に置いてくれたこと。

 差し入れの最後の1個を、人が来るまで残していたこと。

 

 99.気になっていることを、気になっていないふりで聞きに来るところ。

 

 これは長所だろうか。

 少なくとも、俺にはありがたい。今日のように聞きに来てくれると、何を気にしているのか分かる。

 消さずに、残した。

 

 100.ありがとうを、相手に聞こえるように言い直してくれるところ。

 

 そこまで書いて、ペンを置いた。

 100個、ちゃんとあった。

 何気なく言ったことだったが、こうして並べてみると、本人にも知っておいてほしいと思った。

 

 時計を見て、慌てて立ち上がる。

 もう寝る時間だった。

 明日も同じ顔をしていたら、13個目あたりで紙を突き返される。

 

  *

 

「……本当に書いてきたんだ」

 

 翌日の練習後、タイシンは紙の束を両手で受け取った。

 俺は向かいのソファに座る。

 

「100個。数えてもらっていいぞ」

「そこは疑ってないけど」

 

 タイシンは1枚目から読み始めた。

 最初は普段と変わらない顔だった。

 12個目のあたりで、ちらりと俺を見る。

 

「……コーヒー1本で、そんなに褒める?」

「してもらったことだからな」

「大げさ」

 

 そう言って、続きを読んだ。

 

 ページをめくる。

 少し戻る。

 口が動きかけて、何も言わずに閉じる。

 

 練習の記録を開いて待っていたが、どうにも気になって集中できなかった。覗き込むのも落ち着かないだろうから、窓の外を見る。グラウンドを走っている子を目で追い、もう1周するまで待った。

 

「トレーナー」

「うん?」

「99個目」

 

 顔を向けると、タイシンが最後の紙を見ていた。

 

「これ、昨日のこと?」

「ああ」

「……分かってたんだ」

「気になるから聞きに来たんだろ」

 

 タイシンが紙を少し持ち上げ、口元を隠した。

 だが、目元までは隠れなかった。

 笑っている。

 昨日、タイムを見た時より、ずっとはっきり。

 

「……こういうのまで、いいところにするんだ」

「俺は、聞きに来てくれてよかったと思ってるよ」

 

 タイシンはまた紙に目を落とした。

 最後まで読む。

 読み終えたのに、そのまま膝の上に置いていた。

 

「これ、仕事だから書いたんじゃないよね」

「約束したから書いたけど、内容は全部、思ってることだぞ」

「……全部?」

「ああ」

 

 タイシンはもう一度、紙に目を落とした。

 それから、ゆっくり俺を見る。

 

「アンタ、アタシのこと……そんなに好きなの?」

 

 ずいぶん直球の聞き方だった。

 100個も並べたのだから、伝わってはいると思っていたのだが。

 

「好きだよ。だから、これくらいは書ける」

 

 タイシンが固まった。

 口を少し開けたまま、こちらを見ている。

 

「……ホントに?」

「もちろん」

 

 自分の担当だ。走りに惚れ込んで契約したし、人柄だって、知るほどにいいところが見つかる。もう少し早く、走り以外のことも伝えておけばよかったのかもしれない。

 

 タイシンは紙を丁寧に重ねた。

 端をそろえる。

 そろえたはずなのに、また指で確かめる。

 その指先が、少し震えていた。

 

「……アタシも」

 

 小さな声だった。

 

「アタシも、アンタが好き」

 

 俺はほっとした。普段、あまりにもつっけんどんにされるので、嫌われてはいないと思いつつ、多少は気にしていたのだ。

 

「そう言ってくれると、嬉しいな」

 

 タイシンの顔が真っ赤になった。

 かと思うと、目を伏せて笑う。

 もう一度こちらを見て、また笑った。

 

 俺の方まで、つられて顔が緩んだ。

 

「……そっち、行っていい?」

 

 隣の空いている場所を指さす。

 

「ああ」

 

 タイシンが立ち上がった。

 紙を鞄へしまい、俺の隣に座る。

 昨日あった1人分の空間が、今日はなかった。

 

 肩が触れる。

 袖をつかまれる。

 

「……こういうのも、いい?」

 

 俺の腕に、両手が添えられた。

 少し戸惑ったが、うなずく。

 

「いいけど」

 

 抱え込まれた。

 肩に、こつんと頭が触れる。

 

 俺は腕を見た。次に、タイシンを見た。目が合うと、タイシンは、今まで見たことがないほど嬉しそうに笑った。

 

「……何」

「いや、近いなと」

「……くっつきたくて、来たんだし」

 

 それはそうだった。

 ただ、昨日、隣に座ったら距離を取られたことが、どうしても頭から離れない。

 

 タイシンは俺の袖をつまみ、しばらく黙っていた。

 それから、ぽつりと言う。

 

「昨日まで、どうしようって考えてたの、バカみたい」

「何を?」

「……それは、まだ言わない」

 

 笑って、肩へ額を押しつけてくる。

 言わないという割に、機嫌はよさそうだった。

 

 空いた手を、どこへ置こうか迷う。

 タイシンが俺の手を見た。

 少しだけ、頭が近づいてきた。

 

「……撫でても?」

「うん」

 

 そっと髪に触れる。

 目が細められた。

 腕を抱く力が強くなり、肩へ頬が寄ってくる。

 

 同じ相手だ。

 少なくとも、今朝までは同じ相手だったはずだ。

 

「……もう少し」

 

 そう言われたので、もう少し撫でた。

 タイシンは笑ったまま、目を閉じた。

 

 100個書くと、こんなに懐いてくれるのか。

 

  *

 

 翌朝、学園の門をくぐったところで、名前を呼ばれた。

 顔を向けると、タイシンが小走りで近づいてくる。

 俺を見つけた瞬間に、表情が明るくなったのが見えた。

 

「トレーナー」

「おはよう」

「ん。おはよ」

 

 左腕に抱きつかれた。

 昨日の続きらしい。

 

「……今日も?」

「今日も」

 

 タイシンは満足そうにうなずいた。

 俺が歩き出すと、そのまま隣についてくる。

 

「歩きにくくないか?」

「平気」

 

 俺は少し歩きにくい。

 そう伝えると、タイシンはすぐに腕をほどいた。

 分かってくれたと思った次の瞬間、手を握られる。

 

「こっちは?」

「……歩くには、そっちの方が」

 

 また笑った。

 朝から何回笑っただろう。普段は見逃さないようにしていた表情を、今日は何の苦労もなく見られる。

 

 トレーナー室に入ると、タイシンはソファへ座った。

 隣を、ぽんと叩く。

 

「座って」

「先に荷物を置かせてくれ」

「うん。待ってる」

 

 機嫌よく待っていた。

 荷物を置き、上着を脱ぎ、ソファへ向かう。

 近づくだけで、タイシンが顔を上げる。

 座ると、すぐに肩へ寄ってきた。

 

 紙を渡す前は、向かいに座るか、わざわざ間を空けていたのに。

 

「タイシン」

「何?」

「どうして、急にこうなったんだ?」

 

 タイシンが顔を上げた。

 少し呆れたように、俺を見る。

 

「……昨日、アンタが言ったこと、忘れた?」

「覚えてるけど」

「じゃあ、分かるでしょ」

 

 分からなかった。

 ただ、あの100個がきっかけになったのは、間違いないようだ。

 

「そんなに嬉しかったか」

「……嬉しかったよ」

 

 頬が少し赤くなる。

 それから、また笑った。

 

「すっごく」

 

 褒めた内容を、ここまで素直に受け取ってもらえたのは初めてだった。

 肩へ頭が戻ってくる。

 そのまま、タイシンは俺の腕を抱き直した。

 

「ねえ」

「うん?」

「もう1回、言って」

「何を?」

「……好きって」

 

 まだ確かめたいらしい。

 昨日まで、長所を褒めるたびに言い返されていたことを思えば、こちらの方がずっといい。

 

「好きだよ」

「……ん」

 

 胸元に、額が押しつけられた。

 小さく笑う声がした。

 

 褒めるのは大事だと、養成課程でも何度か聞いた。

 しかし、ここまで変わるとは教わっていない。

 

  *

 

 廊下で、ウイニングチケットとビワハヤヒデに会った。

 2人の視線が、俺の左腕に集まる。

 

 タイシンがくっついていた。

 

「……タイシン?」

「何」

 

 返事は、いつもの調子だった。

 

「えっと、その、トレーナーさんと」

「練習に行くとこ」

「そうじゃなくて、その腕」

 

 タイシンは俺の腕を見た。

 抱え直した。

 説明はなかった。

 

 ハヤヒデが、俺を見る。

 

「何か、あったのか?」

「いいところを100個、書いて渡したんだ」

 

 チケットが目を丸くした。

 

「100個!?」

「声、大きい」

 

 タイシンに注意され、チケットは口元を押さえた。

 だが、すぐに、にこにこと笑い始める。

 

「つまり……そっかあ。よかったね、タイシン」

「……うん」

 

 タイシンも笑った。

 チケットの目が潤んだ。

 

 ハヤヒデは2人を見てから、俺へ向き直った。

 

「つまり、お二人は」

「昨日から、急に懐いてくれるようになって」

 

 俺が答えると、ハヤヒデの言葉が止まった。

 

「……懐く?」

「ああ。今まで、あまりこういうことはなかったんだけどな」

 

 タイシンは俺の説明を聞いて、少し口を尖らせた。

 俺の袖を指先でつまむ。

 

「アンタが先に言ったんだから」

「そうだな」

「……ちゃんと覚えててよ」

 

 顔を上げ、こちらへ微笑む。

 覚えていると返すと、肩に頭が触れた。

 

 ハヤヒデが、口を開いた。

 俺を見る。

 タイシンを見る。

 それから、一度閉じた。

 

 チケットも、何か言いたそうにしていた。

 

「……あの、トレーナーさん」

「うん?」

「タイシンのこと、好きなんですよね?」

「もちろん」

 

 タイシンが俺を見上げた。

 嬉しそうに目を細める。

 

「アタシも」

 

 チケットの顔が、また緩んだ。

 ハヤヒデがその袖を引く。

 

「チケット、少し」

「えっ。でも」

「少しだけ」

 

 2人は廊下の端へ寄り、小声で話し始めた。

 邪魔をしてはいけないと思い、こちらも声を落とす。

 

「先に行こうか」

「うん」

 

 タイシンは、もう一度俺の腕に頬を寄せた。

 

  *

 

 走り始めれば、タイシンはいつもどおりだった。こちらの説明を聞き、自分の感覚も伝える。仕掛ける場所を決め、走り、戻ってきて確認する。

 

 最後の1本は、狙ったところで速度が上がった。

 

「今の、よかったぞ」

「……うん」

 

 記録を見せると、タイシンが笑った。

 そこから手が伸びてくるまでが、速い。

 

「待った。今、汗だくだろ」

「気にする?」

「先に拭こうな」

 

 タオルを渡す。

 タイシンは頬と首元を拭き、それから、もう一度俺を見た。

 待っている。

 

「まだ、クールダウンがある」

「終わったら?」

「少し休憩だな」

 

 満足そうにうなずいて、歩いていった。

 後ろ姿まで楽しそうだった。

 

 少し離れたところに、チケットとハヤヒデがいた。

 さっきから、こちらを見ていたようだ。

 何か相談でもあるのかと思い、近づく。

 

 ハヤヒデが、タイシンの姿を確かめてから口を開いた。

 

「すまない。ひとつ、確認したいことがある」

「どうした?」

「君は、その……タイシンと、交際しているのか?」

 

 思わず、顔を見た。

 

「いや。そういうわけじゃないよ」

 

 チケットが両手で口を覆った。

 ハヤヒデは目を閉じ、一度うなずいた。

 

「……先ほど、好きだと」

「大切な担当だからな。走りも、人柄も含めて」

 

 ああ、確かに好きと言うとそういう解釈もあるか。

 俺はタイシンの方を振り返った。

 ストレッチをしながら、こちらを見ている。

 目が合うと、嬉しそうに片手を上げた。

 

 上げ返す。

 タイシンが笑った。

 

 2人の方へ向き直ると、どちらも何とも言えない顔をしていた。

 

「突然変わって驚かせたよな。俺も、びっくりしてる」

「……ああ。そうだろうな」

 

 ハヤヒデが、ゆっくり答えた。

 

「やっと素直に甘えてくれるようになったみたいで。なるべく、受け止めてやりたいと思ってるんだ」

 

 チケットが何か言おうとした。

 だが、その視線が俺の後ろへ動いて、止まる。

 

「トレーナー」

 

 タイシンが来ていた。

 

「終わった」

「ああ。お疲れ」

 

 両腕が、少し広がる。

 俺はクリップボードを脇へ抱えた。

 

「……少しだけな」

 

 抱きついてきた。

 胸元に額が触れ、背中へ腕が回る。

 空いている手を添えると、タイシンは満足そうに目を閉じた。

 

 2人の前だ。

 俺は少し落ち着かなかったが、タイシンは気にしていない。

 

「……タイシン、人前だが」

「うん」

「恥ずかしくないのか?」

 

 顔が上がる。

 少し考えてから、笑った。

 

「……だって、くっついてたいし」

 

 チケットが、声を出さずに天を仰いだ。

 ハヤヒデは、その肩に手を置いていた。

 

  *

 

 夕方、タイシンがトレーナー室へ向かう途中で、2人はもう一度声をかけた。

 チケットは朝から何度も言葉を考えたのだが、結局、最初の一言しか決まっていなかった。

 

「タイシン、ちょっとだけ、聞いてもいい?」

「何?」

 

 いつもなら、用件を早く言うよう促される。

 今日は、タイシンが立ち止まって待ってくれた。

 それもまた、チケットを困らせた。

 

「その、トレーナーさんと……昨日から、なんだよね?」

「うん」

 

 タイシンの頬が赤くなる。

 

「100個も書いてきて。あんなに見てたのかと思ったら、嬉しくなっちゃって」

「……そっか」

「聞いたんだ。アタシのこと、そんなに好きなのって」

 

 ハヤヒデは、黙って続きを待った。

 

「そしたら、好きだよって。普通に言うから」

 

 タイシンが少し笑う。

 思い出しただけで嬉しい、という顔だった。

 

「アタシもって、ちゃんと言えた」

 

 チケットは、口を開いた。

 閉じた。

 タイシンが不思議そうに見る。

 

「……何?」

「えっと、じゃあ、その、今は」

「まだ、あんまり慣れないけど」

 

 タイシンは自分の手を見た。

 朝、トレーナーとつないでいた方だ。

 

「手、つないだり。くっついたり」

「……うん」

「でも、アンタらの前だと、ちょっと恥ずかしい」

 

 本人も意外そうに言う。

 それから、2人を見た。

 

「……あんまり、からかわないでよ」

 

 ハヤヒデは、首を横に振った。

 からかうつもりなど、少しもなかった。

 ただ、どこから話せばいいのか分からなかった。

 

 タイシンは、その返事に安心したようだ。

 

「じゃあ、アタシ、行くから」

 

 待ちきれないように、足がトレーナー室の方へ向く。

 チケットが反射的に呼び止めた。

 

「あ、タイシン」

「何?」

「……その、ね」

 

 言わなければならない。

 トレーナーは、大切な担当として言ったのだと。

 タイシンが受け取った意味とは、たぶん違うのだと。

 

 だが、タイシンの顔を見ると、喉が詰まった。

 今朝まで知らなかった笑顔が、まだそこにある。

 

 ハヤヒデが、隣で小さく息を吸った。

 

「トレーナーとは、よく話を」

「話してるよ」

 

 タイシンは、少し呆れた顔をした。

 

「昨日も今日も、好きって言ってくれたし」

 

 チケットがハヤヒデを見る。

 ハヤヒデは、続きの言葉を探した。

 

 その間に、タイシンの顔がまたほころんだ。

 

「……今日なんか、もう2回も」

 

 2人とも、何も言えなくなった。

 

「じゃあね」

 

 タイシンは軽く手を振り、トレーナー室へ向かった。

 廊下を歩く足取りが、いつもより少し速い。

 

 チケットはその背中を見送り、そっとハヤヒデの袖をつかんだ。

 

「……どうしよう」

「まずは、トレーナーに説明するべきだろう」

「タイシン、あんなに嬉しそうなのに」

「だからこそ、慎重に伝えなければ」

 

 ハヤヒデは、自分に言い聞かせるように答えた。本人同士で話してもらえば済むと思っていた。話すたびに勘違いが深くなっているとは、思わなかった。

 

 目の前で、トレーナー室のドアが開いた。

 

「トレーナー」

「おう。お疲れ。まだ少しかかるぞ」

「待ってる」

 

 タイシンは中へ入り、ドアノブから手を離した。

 閉まりきる前に、声が聞こえる。

 

「隣、行っていい?」

「そこだと狭いぞ」

「近い方がいい」

 

 チケットが、両手で顔を覆った。

 

「ハヤヒデ」

「……ああ」

「言ったら、ああいうやりとり、なくなっちゃうかな」

 

 ハヤヒデは答えられなかった。部屋から涙ながらに走り去るタイシンなど、想像したくない。かといって、このままにしておいてよいとも思えない。

 

「タイシンを悲しませずに、事情を説明する方法を考えよう」

「うん……」

 

 2人は、その場を少し離れた。

 

  *

 

 タイシンが、俺の椅子のすぐ隣へもう1脚運んできた。

 ソファで待つのかと思ったが、こちらがいいらしい。

 

 タイシンが隣の椅子に座る。

 肩が触れる。

 画面をのぞき込みながら、俺の左腕にくっつく。

 

「……入力しにくいんだが」

「あ、ごめん」

 

 腕が離れた。

 頭は肩に残った。

 耳が当たるのはもう気にしないようだ。

 

「肩は?」

「……腕が動けば、まあ」

 

 タイシンが小さく笑う。

 そのまま、俺が記録を書き終えるのを待っていた。

 

 ようやく保存し、パソコンを閉じる。

 タイシンの顔が上がった。

 

「終わった?」

「ああ」

「じゃあ」

 

 両腕が伸びてきた。

 紙を渡す前には、ここまでくっつかれることがあるなんて、考えたこともなかった。

 

 受け止めると、胸元に額が触れる。

 嬉しそうに、身体を預けてくる。

 

「……本当に、どうしたんだ」

「またそれ?」

 

 タイシンが笑った。

 

「アンタのこと、好きなんだから、しょうがないでしょ」

 

 随分、信頼してもらえるようになった。

 よかったと思う。

 よかったとは思うのだが、どうしてこうなったのかは、まだよく分からない。

 

「……そうか」

「うん」

 

 タイシンが、顔を上げた。

 笑ったまま、俺を見る。

 

「アンタは?」

 

 今日も、確かめたくなったようだ。

 頭へ手を置き、答える。

 

「もちろん、好きだよ」

 

 タイシンが目を細めた。

 首へ腕が回り、ぎゅっと抱きついてくる。

 

「……アタシも」

 

 声が弾んでいた。

 これだけ素直に気持ちを伝えてくれるなら、もう少し甘えさせてもいいだろう。

 

 俺は時計を見上げた。

 まだ、帰るまでには時間があった。

 

  *

 

 少し先の廊下で、チケットとハヤヒデは議論を続けていた。

 指摘する言い方をお互いに確かめるたびに、どこかがひっかかる気がした。

 

「じゃあ、『トレーナーさん、タイシンは恋人になったと思ってます』は?」

「そのあとの対応まで、一緒に考えておいた方がいい」

「なら……『タイシン、実は』」

「先にタイシンへ話すのは、待とう」

 

 チケットが壁へ背中を預ける。

 ハヤヒデは、すぐ隣で頭を悩ませていた。

 

「100個も書いたんだよね」

「ああ」

「全部褒めてるんだよね」

「ああ」

「……そりゃ、勘違いするよ」

 

 ハヤヒデはうなずいた。

 100個書けるなら、あと少し、説明を添えてくれればよかったのだ。

 

 『担当として』

 

 たった5文字。

 

 トレーナー室から、小さく笑う声がした。

 チケットが、そちらを見る。

 ハヤヒデも見た。

 

 勘違いをしていない2人だけが、廊下で頭を抱えていた。


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