氷遁でかき氷作ったら美味しそうですよね。
波の国での死闘より、ほんの少し前。あるいは、霧隠れの亡霊と追われた二人が、血の匂いから一時だけ身を隠すように紛れ込んだ、どこかの宿場町でのこと。
照りつける陽光が街道のアスファルトならぬ乾いた土を焼き、陽炎がゆらゆらと揺れていた。
夏である。蝉の鳴き声がやかましいほどに降り注ぎ、行き交う旅人や町人たちは手ぬぐいで汗を拭いながら、日陰を求めて喘ぐように歩いていた。
宿場町のはずれ、古びた長屋の軒先に、粗末な木製の看板が一枚立てかけられた。
墨痕鮮やかに、しかしどこか奥ゆかしい筆致で書かれている。
『氷 ありま寿』
暖簾をくぐった土間には、粗末な木の長机が二つと、丸太を輪切りにした腰掛けがいくつか。
その奥、薄暗い厨房めいたスペースに、白は静かに立っていた。
肩まで届く漆黒の髪を後ろで緩く束ね、白い小袖に身を包んだその姿は、一見すれば町娘のようであり、しかしその立ち姿には忍特有の無駄のない静謐さが宿っている。
「……白」
奥の薄暗い小上がりから、低く濁った声が響いた。
上半身に包帯を巻き、巨大な首斬り包丁を壁に立てかけた大男――桃地再不斬が、険のある双眸を白に向けていた。
「何の真似だ。我々は追手を撒くためにここに潜伏しているはずだ。目立つ真似はするなと言ったはずだが」
再不斬の冷徹な問いかけに、白は小首を傾げ、いつもの穏やかで儚げな笑みを浮かべた。
「再不斬様、軍資金が必要です。ここ数日、まともな食事をとられていませんし、傷薬も底をつきかけています。それに……この暑さです。忍の術を少しだけ民の生活に役立てれば、誰にも疑われず、手っ取り早く両を稼ぐことができます」
「……フン。氷遁をそんな下らん商売に使うか」
「下らなくなどありません。人は飢えと渇きに勝てませんから」
白はそう言うと、手元に用意した木桶に向き直った。
中に入っているのは、裏の井戸から汲み上げてきた清らかな水である。
白は静かに息を吸い込み、片手を胸の前で掲げた。
忍びの印を結ぶのではない。極めて微細に、チャクラの質を「水」から「風」へと滑らかに混交させ、自らの血継限界を発動させる。
「――氷遁」
ふわり、と室内の温度が三度ほど下がった。
木桶の中の水が、微かな結晶音を立てて中心から凍りついていく。それも、ただの氷ではない。空気を一切抱き込まず、不純物を排した、完全な透明度を誇る「天然氷」以上の極上結晶。
白はその透き通った氷塊を両手で持ち上げ、まな板の上に据えた。
通常なら削り器を用いるところだが、そんな道具を買う金はない。
白の袖口から、シュッと銀色の光が滑り出た。
細長く、鋭利無比なる千本。
白はその千本を指先で器用に回転させると、氷塊に向けて目にも留まらぬ速さで振るった。
ササササササササッ――!
まるで風が笹の葉を撫でるような微細な音が響く。
氷の塊から、削り節よりも遥かに薄く、羽毛のように繊細な氷の結晶がふわりと宙に舞い、椀の中へと吸い込まれていく。
刃物で削るのではない。千本の先端から放たれる微細な風チャクラが、氷の分子を極限の薄さに「剥ぎ取って」いるのだ。
椀の中に盛り上がったそれは、雪でも氷でもなく、まるで手で触れれば消えてしまいそうな純白の綿菓子のようだった。
「できました。まずは再不斬様、どうぞ」
白が差し出した椀には、裏山で摘んできた山桃をすり潰し、わずかな水飴と合わせた特製のシロップがかけられていた。鮮やかな紅色が、純白の削り氷にじわりと染み込んでいく。
「……毒見だ」
再不斬は渋々といった様子で竹のスプーンを取り、山盛りの氷を一口すくい、口へと運んだ。
その瞬間、元霧隠れの暗部にして「鬼人」と呼ばれた凶悪な忍の眉が、ピクリと跳ね上がった。
舌の上に乗せた瞬間、冷たさを感じるよりも早く、氷が儚く消え失せる。
頭にキーンとくる暴力的な冷気ではない。舌を優しく冷やし、山桃の爽やかな酸味と高雅な甘みだけを喉の奥へと滑り込ませる、極上の口溶け。
「…………」
「いかがですか、再不斬様?」
「……悪くねェ」
再不斬がそっぽを向いて椀を空にするのを見て、白は嬉しそうに目を細めた。
「では、店を開けますね」
白が表の暖簾を掲げた瞬間、通りを歩いていた行商人の男が、ふと立ち止まった。
店先から、砂漠のオアシスのようにひんやりとした冷気が漂い出ていたからだ。
「おい、娘さん……ここ、氷水(かきごおり)が食えるのか?」
「はい。旅のお疲れを癒やしていかれませんか?」
「へえ、こんな片田舎で氷とは贅沢だな……一杯もらおうか」
男が土間に腰を下ろすと、白は素早く氷を削り出した。千本を使う姿は客からは見えないよう、暖簾の影で一瞬のうちに処理する。
出されたのは、抹茶を練り上げた蜜に、丁寧に炊いた小豆を添えた宇治金時風の一杯。
男は半信半疑でスプーンを口に運んだ。
そして、目を見開いた。
「な、なんだこれは……!? 氷じゃねえ、これは……まるで新雪をそのまま食ってるみてえだ! 頭も痛くならねえし、蜜の味がすうっと身体中に染み渡る……!」
男の感嘆の声は、開け放たれた引き戸から外の街道へと漏れ出した。
猛暑に喘いでいた通行人たちが、吸い寄せられるように次々と足を止める。
「おい、氷だってよ!」
「この暑さだ、一杯食っていこうぜ!」
最初は二人、三人だった客が、ものの半刻(一時間)も経つ頃には、十人、二十人と膨れ上がっていった。
噂は瞬く間に宿場町中を駆け巡った。
『街道沿いにできた茶屋の氷が、尋常じゃなく美味い』
『貴族の屋敷で出される氷室の氷なんてもんじゃない』
『食べると身体の芯から涼しくなって、旅の疲れが吹き飛ぶ』
厨房は大わらわとなった。
白は涼しい顔で微笑みながら、裏手で超絶技巧の忍術を行使し続けていた。
(客足が途絶えませんね……氷の精製が追いつきません)
白は両手を合わせ、密かに印を結んだ。
「氷遁・氷岩堂無(ひがんどうむ)――の、極小版」
厨房の床下に極小の保冷結界を展開し、巨大な氷柱を瞬時に錬成。さらに、千本を十本同時に指の間に挟み、神速の運針によって氷を削り出していく。
シャカシャカシャカシャカッ!
職人が手回し機で削る何十倍もの速度で、完璧な粉雪状の氷が次々と器に盛られていく。
「お待たせいたしました。こちらは蜜柑(みかん)の果汁を煮詰めた蜜になります」
「こちらは煎じ茶の蜜でございます」
白の美貌と、どこまでも丁寧で柔らかい接客も相まって、店は大盛況となった。
男たちは白の笑顔を一目見ようと列をなし、女や子供はその極上の甘味に歓声を上げる。
客席の隅では、包帯を顔に巻いた再不斬が、腕組みをしたまま仁王立ちしていた。
あまりの凶悪な眼光に、客たちは「あの怖い親父さんは用心棒か何かだろう」と勝手に納得し、誰一人として無銭飲食や狼藉を働こうとはしなかった。結果として、治安維持も完璧であった。
陽が傾き、夕暮れ時になる頃。
用意していた食材も水もすべて底をつき、白は表の看板を『本日分、終了』へと裏返した。
暖簾を下ろし、鍵を閉めると、店内には静寂が戻ってきた。
土間の机の上には、竹のザルから溢れんばかりの銅貨と銀貨――山のような『両』が積まれていた。
「……大繁盛だったな」
再不斬が呆れたように鼻を鳴らした。
白はエプロンを外し、満足そうに微笑んだ。
「はい。これで再不斬様の新しい刀の手入れ道具も、上等な薬草も、明日の宿代も十分に賄えます」
「お前の氷遁をこんなことに使わせて……すまねえな、白」
再不斬がぽつりと落とした呟きに、白は驚いたように目を見張り、それから首を横に振った。
「いいえ、再不斬様。ボクは嬉しかったんです」
「何がだ」
「ボクのこの力……血継限界は、故郷では忌み嫌われ、母を奪い、ボクを化け物にした呪いでした。人を殺すための道具としてしか使えないと思っていたこの氷が……今日、あんなにもたくさんの人たちを笑顔にしました」
白は自分の掌を見つめた。
その指先から、小さな雪の結晶がふわりと生まれ、夕暮れの光を浴びてキラリと輝いた。
「『ありがとう』『生き返ったよ』と、みんなが言ってくれました。ボクの力が、誰かを幸せにできるのだと知りました。……でも、それもこれも、再不斬様がボクを拾い、生きる意味を与えてくださったからです」
白は深々と頭を下げた。
「ボクの力は、すべて再不斬様のものです。明日もまた、あなたのために氷を削ります」
再不斬はしばし沈黙し、それからフッと短く息を吐いた。
「……明日もやる気かよ。勘弁してくれ、あの人混みの中に突っ立ってるだけで、任務の三倍は肩が凝る」
「ふふ、では明日は再不斬様にも、特大の桃かき氷を作って差し上げますね」
「いらんと言いたいところだが……あの蜜だけは、もう一度食わせろ」
二人の間に流れる、束の間の穏やかな時間。
血煙の霧に追われ、いずれ過酷な運命へと身を投じることになる二人にとって、その小さなかき氷屋の夕暮れは、まるで溶け残った氷のように冷たく、そして甘く優しい奇跡の一幕であった。