ペロロンチーノが引退してから、一週間が過ぎた。
その朝、鈴木悟はいつもより少し早く目を覚ました。
窓の外は、相変わらず灰色だった。濁った膜のような空が、低く垂れ込めている。枕元の空気清浄機が、規則正しい唸りを上げていた。その音に混じって、遠くの工場地帯から、重い金属を叩くような響きが、かすかに届いてくる。
身体を起こすと、喉の奥がいがらっぽかった。夜のうちに、フィルターの隙間から入り込んだ外気のせいだ。舌の付け根に、鉄錆のような味がうっすらと残っている。台所で水を一杯飲み、それから、机の引き出しを開けた。
奥にしまってある、紙のノート。最初のページに書いた一行は、もう何度も読み返して、紙の角が丸く擦り切れていた。
『転移までに、やるべきこと』
その下に並ぶ項目のうち、一つにだけ、悟は昨夜、細い線を引いていた。
ペロロンチーノ。
消したのではない。
名前の横に、小さく「引退 夢を見つけた」と書き添えて、その下に線を一本引いただけだ。前回は、この名前の横に何も書けなかった。いつ去ったのかも分からなかったからだ。
悟は、ノートの次の行に目を移した。
たっち・みー。
その名前の横には、まだ何も書かれていない。けれど、悟には分かっていた。この名前の横に、何かを書き込む日が、もうそう遠くないことを。
会社では、一日中、キーボードを叩く音だけが響いていた。
課長の機嫌は、朝から悪かった。取引先からの急な仕様変更で、今週の締め切りが二日前倒しになったのだ。向かいの席の同僚が、溜め息を三回ついた。悟は、それを数えている自分に気づいて、少しだけ嫌な気持ちになった。
昼休み、自販機の前で、合成コーヒーの缶を握ったまま、悟は窓の外を眺めていた。灰色の空の下を、人工肺をつけた人々が、うつむいて歩いていく。
誰も空を見上げない。見上げたところで、何もないからだ。
(たっちさんは、今頃、アーコロジーの中だな)
オフ会で見た、あの澄んだ空気を思い出した。天井に映し出された、作り物の青空。人工肺を外して深呼吸したときの、肺の奥まで冷たく満たされる感覚。同じ街に住んでいながら、まるで違う世界だった。それでも、ユグドラシルの中では、同じ円卓に座っている。缶の中のコーヒーは、もう冷めていた。悟は、それを一息に飲み干した。苦味だけが、舌の上に長く残った。
二十二時。ログインすると、円卓の間には、誰の表示も灯っていなかった。モモンガは、四十一の空席を一度だけ見渡した。ペロロンチーノの席。金色の翼のエンブレムが刻まれた椅子の背もたれに、薄く光が反射している。一週間前まで、あの席から騒がしい声が飛んできていた。今は、何の音もしない。
指輪の力で、第九階層へ転移する。日課だった。
通路の先に、セバスが立っている。白髪を後ろに撫でつけ、両手を腰の後ろで組んだ、いつもの姿勢。
「来たぞ、セバス」
返事はない。
「今日は、課長がひどく機嫌が悪くてな。締め切りが二日も早まった。……お前の創造主なら、ああいう上司にどう対応するんだろうな。あの人は、警察の仕事でもっと理不尽な相手と向き合っているんだろうが」
セバスは、前を見つめたまま動かない。その横顔を見ていると、どうしても、たっち・みーのことを考えてしまう。あの人が、このNPCに込めたもの。弱き者を守る正義。礼節。揺るぎない背筋。
それはそのまま、たっち・みーという人の在り方だった。
前回、たっち・みーは、子どもが生まれてから少しずつ遠ざかっていった。最後の挨拶は、あったのかどうか。記憶の中のその部分は、霞がかかったように曖昧だ。覚えているのは、ウルベルトとの言い争いが続いていたこと。そして、いつの間にか、円卓に白銀の騎士の姿がなくなっていたこと。
(今回は、ちゃんと……)
その先を考えようとして、モモンガは首を振った。引き止めないと決めたのだ。来られる時に来ればいい。来られない時は、無理しない。分かっている。分かっているのに、胸の奥が、ひどく重かった。
ビビアンの部屋を回り、最後に暖炉の家へ向かおうとしたときだった。
《たっち・みーさんがログインしました》
視界の端に、システムメッセージが流れた。モモンガは、足を止めた。時刻は、二十三時を少し過ぎている。たっち・みーがこの時間にログインするのは、珍しいことではない。娘が寝てから、少しだけ顔を出す。
最近は、そういう日が週に一、二度あった。けれど、今夜は、なぜか胸がざわついた。一週間前、ペロロンチーノが同じような時間にログインしてきたことを、思い出したからかもしれない。
《たっち・みーさんからメッセージ:モモンガさん、今どちらにいますか?少しだけ、お話しできればと》
モモンガは、しばらくそのメッセージを見つめていた。それから、返信を打った。
《第九階層にいます。セバスのところで待っていてもらえますか》
モモンガがセバスの前に戻ると、白銀の騎士は、すでにそこに立っていた。
純白の鎧。赤いマント。胸に輝く、蒼いサファイア。その隣に、セバスがいる。
創造主と、その被造物。並んで立つ二人の背筋は、まるで同じ定規で引いたかのように、まっすぐだった。
「こんばんは、モモンガさん。夜分にすみません」
たっち・みーは、いつものように丁寧に頭を下げた。
「いえ。こんばんは、たっちさん」
「ここで待っていてくれと言われたので、驚きました。セバスに何か用事が?」
「……日課なんです」
モモンガは、少しだけ迷ってから、正直に答えた。
「毎晩、NPCのところを回っていて。最初がセバスなんです」
たっち・みーは、しばらく黙っていた。
兜の奥の表情は、見えない。けれど、彼がゆっくりとセバスのほうへ顔を向けたのが分かった。
「ペロロンチーノさんから、聞いていました」
「え」
「引退の挨拶のメッセージに、書いてあったんです。『モモンガさん、毎晩NPCに話しかけてるっすよ。たっちさんのセバスにも』と」
モモンガは、額に骨の手を当てた。
(ペロロンチーノさん……)
「すみません、勝手に」
「どうして謝るんですか」
たっち・みーの声は、穏やかだった。
「嬉しかったですよ。セバスが、一人じゃなかったんだなと思って」
白銀の籠手が、セバスの肩の上に、そっと置かれた。触れているのかどうか分からないほど、軽く。
「最近、あまりここに来られていなかったので。この子のことを、ずっと気にしていたんです。……ありがとうございます、モモンガさん」
モモンガは、何も言えなかった。その言葉の重さを、どう受け止めればいいのか分からなかった。
二人は、第九階層の通路をゆっくりと歩いた。
磨き上げられた大理石の床に、白銀の鎧と、黒いローブの影が並んで映る。壁に埋め込まれた〈永続光〉の燭台が、冷たく白い光を落としていた。
どこからか、かすかに水の流れる音がする。浴場のほうから響いてくる、作り物のせせらぎだ。
「娘が、最近、つかまり立ちを始めたんです」
たっち・みーが、ぽつりと言った。
「テーブルの縁に手をかけて、ぷるぷる震えながら立ち上がるんですよ。それで、手を離した瞬間に、尻もちをついて泣くんです。毎日、何回も」
「……かわいいですね」
「ええ。本当に」
その声には、モモンガが今まで聞いたことのない柔らかさがあった。
「それと、来月から、仕事の部署が変わることになりまして」
「部署、ですか」
「はい。少し、責任のある立場になります。正直、今までよりずっと忙しくなると思います」
モモンガは、足を止めなかった。止めたら、何かが崩れてしまいそうだった。
「なので」
たっち・みーも、足を止めなかった。
「これからは、本当に、ほとんど来られなくなると思います。完全に辞めるつもりはありません。でも、月に一度来られるかどうか。それも、約束はできません」
通路の先で、燭台の光がわずかに揺れた。せせらぎの音が、急に遠く聞こえた。
「……そうですか」
やっと出てきたのは、それだけだった。
一週間前、ペロロンチーノに言ったのと、同じ言葉。
「すみません。ペロロンチーノさんが辞めたばかりなのに、こんな話を」
「謝らないでください」
モモンガは、立ち止まった。たっち・みーも、立ち止まった。二人は、通路の真ん中で向き合った。
「来られる時に来ればいい。来られない時は、無理しない。……それが、うちのギルドのルールですから」
「……ええ」
たっち・みーは、ゆっくりと頷いた。
「モモンガさんが、最初に言ったんでしたね」
それからしばらく、二人は何も言わずに立っていた。
モモンガは、自分の内側で、二つの声がせめぎ合っているのを感じていた。
一つは、引き止めたい、という声だった。行かないでほしい。もう少しだけ、ここにいてほしい。
あなたがいなくなったら、このギルドは、少しずつ静かになっていく。前回と同じように。
もう一つは、それを押さえつける声だった。引き止めてはいけない。この人には、守るべき家族がいる。この人が幸せになっていく過程を、自分の寂しさで邪魔してはいけない。そして、その二つの声の、さらに奥に。
もう一つ、別の思いがあった。
「たっちさん」
モモンガは、顔を上げた。
「一つ、お願いがあります」
「何でしょう」
「俺と、決闘してもらえませんか」
通路が、静まり返った。
たっち・みーは、すぐには答えなかった。
兜の奥で、こちらをじっと見つめている気配がした。
「決闘、ですか」
「はい」
「PvPの、という意味で?」
「はい。本気で。手加減なしで」
モモンガの声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
たっち・みーは、しばらく考えるように顎に手を当
てた。
「理由を、聞いてもいいですか」
モモンガは、言葉を選んだ。
本当の理由は、言えない。いつか、自分は異世界に渡る。そこには、自分たちよりも強い存在がいるかもしれない。竜王たち。法国の切り札。ワールドアイテムを振るう誰か。
前回、自分はシャルティアと戦った。準備に準備を重ね、知識と道具のすべてを使って、ようやく勝てた。それでも、あれは紙一重だった。
自分には、足りないものがある。ユグドラシルの頂点。ワールドチャンピオンの剣。その本気を、一度でいい、この身で受けておきたかった。それを知らずに異世界へ渡るのは、あまりにも心許ない。けれど、それだけではなかった。
「……たっちさんと、一度も本気で戦ったことがないんです」
モモンガは、言った。これは、嘘ではなかった。
「初めて会った日から、ずっと、たっちさんの背中を見てきました。異形種狩りから助けてもらって、クランに誘ってもらって、ナザリックの最奥で、最後の一撃を任せて。たっちさんは、いつも俺たちの前に立っていた」
白銀の騎士は、黙って聞いていた。
「だから、一度だけ、正面から向き合ってみたいんです。背中じゃなくて」
言いながら、モモンガは、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
「たっちさんが、ほとんど来られなくなる前に」
長い沈黙だった。たっち・みーは、何も言わずに、通路の天井を見上げていた。〈永続光〉の白い光が、兜の表面を滑っていく。
やがて、彼はゆっくりと口を開いた。
「モモンガさん」
「はい」
「私は、手加減が苦手です」
「知ってます」
「本気でやるなら、本気でやります。ワールドチャンピオンの装備も、スキルも、全部使います。……モモンガさんが相手でも」
「それで、お願いします」
たっち・みーは、また黙った。それから、ふっと、兜の奥で笑う気配がした。
「実は、私も、同じことを考えていたことがあるんです」
「え?」
「モモンガさんと、一度、本気で戦ってみたいと」
白銀の騎士は、モモンガのほうへ向き直った。
「モモンガさんは、強いですよ。ステータスの話じゃありません。戦い方の話です。造物主の試練のときも、ナザリックのときも、あなたはいつも、誰も見ていないところを見ていた。正直、PvPで相手にしたら、一番読めない人だと思っています」
「……買いかぶりです」
「そうかもしれません。だから、確かめてみたい」
たっち・みーは、右手を差し出した。白銀の籠手。初めて会った日、異形種狩りの草原で、同じように差し出された手。
「受けますよ、その決闘」
モモンガは、その手を見つめた。それから、骨の指で、しっかりと握り返した。籠手の冷たさが、骨を通して伝わってくる気がした。
決闘の日取りは、次の土曜日の夜に決まった。場所は、第六階層の円形闘技場。
「観客は、どうしますか」
別れ際、たっち・みーが訊いた。
「呼びたい人がいれば、どうぞ。私は、誰に見られても構いません」
モモンガは、少し考えた。
「……一人だけ、声をかけてみたい人がいます」
「ウルベルトさんですか」
モモンガは、驚いて顔を上げた。たっち・みーは、少しだけ肩をすくめたようだった。
「ペロロンチーノさんのメッセージに、もう一つ書いてあったんです。『ウルベルトさんのこと、たまに気にかけてあげてください』と。……私宛てにも、書いてあったんですよ」
「……そうですか」
「来るかどうかは、分かりません。最近、ほとんどログインしていないみたいですし。それに、私が相手だと知ったら、余計に来ないかもしれない」
たっち・みーの声に、わずかな苦さが混じった。
「でも、声をかけてあげてください。モモンガさんからなら、きっと読みます」
その夜、日課の最後に、暖炉の家の扉を開けた。薪のはぜる音。橙色の灯り。乾いた木の香りに、ほんのわずか、焦げた樹脂の甘い匂いが混じっている。ナザリックのどこよりも、空気が柔らかい部屋だった。暖炉の前に、クロワが立っている。白い髪に、黒い一筋。黒衣に、紅い布。赤い十字の瞳。
「ただいま、クロワ」
モモンガは、暖炉脇の椅子に腰を下ろした。炎の熱が、骨の身体の表面を撫でていく。ゲームの中の熱のはずなのに、この部屋に来ると、いつも少しだけ肩の力が抜けた。
「たっちさんも、ほとんど来られなくなるそうだ」炎が揺れる。
「娘さんが、つかまり立ちを始めたらしい。手を離した瞬間に尻もちをついて、泣くんだそうだ。毎日、何回も」
モモンガは、自分の骨の手を見下ろした。
「……そういう話を、あの人は、すごく嬉しそうにするんだ」
クロワは、暖炉の炎を見つめている。
「だから、引き止められなかった。引き止めちゃいけないと思った」
薪が、小さく崩れた。
「代わりに、決闘を申し込んだ」
言ってから、自分でも少しおかしくなった。
「おかしいよな。寂しいからって、殴り合いを申し込むなんて」
赤い十字の瞳は、何も答えない。
「でも、知っておきたいんだ。あの人の、本気を」
モモンガは、炎の奥を見つめた。
「いつか、俺たちは別の世界に行く。そこで、お前たちを守らないといけない。前の俺は、守れなかった。足りなかったんだ。何かが」
その何かが、たっち・みーとの戦いの中で見つかるのかどうかは、分からない。けれど、あの人の剣を一度も受けずに、この世界を終えたくはなかった。
「それに」
モモンガは、少しだけ声を落とした。
「あの人の背中じゃなくて、正面を、一度だけ見ておきたいんだ」
クロワは、何も答えなかった。その沈黙が、今夜は、静かに頷いてくれているように感じられた。
翌日の夜、モモンガはウルベルトにメッセージを送った。何度も書き直した。
最初の文面は、長すぎた。たっち・みーが来られなくなること、決闘のこと、ペロロンチーノのこと、全部を書こうとして、画面が文字で埋まってしまった。
二つ目の文面は、短すぎた。日時と場所だけ。それでは、ただの事務連絡だった。
三つ目を書きかけて、手を止めた。ウルベルトは、オフ会に来られなかった。交通費が払えなかったからだと、あとで知った。来てほしい、と書けば、それはきっと、彼にとって負担になる。ログインするだけなら、金はかからない。けれど、時間はかかる。生活がきつい人にとって、時間は金と同じくらい貴重なものだ。
モモンガは、しばらく画面を見つめてから、最後の文面を打ち込んだ。
《土曜の夜、第六階層の闘技場で、たっちさんと決闘します。本気でやります。もし時間があったら、見に来てください。なくても、大丈夫です》
送信ボタンを押す前に、一行だけ書き足した。
《ウルベルトさんに、見ていてほしいんです》
送信。既読の表示は、その夜のうちには、つかなかった。
土曜日までの数日間、悟は、仕事の合間を縫って、ノートに作戦を書き続けた。
ワールドチャンピオンの装備。その防御性能と、魔法への耐性。〈次元断切〉の射程と、発動までの予備動作。たっち・みーが戦闘中に好んで使う立ち位置。盾を構える角度の癖。ナザリック攻略、造物主の試練、数え切れない狩り。
十数年分の記憶の中から、たっち・みーの動きを一つずつ拾い上げていく。書けば書くほど、勝ち筋が見えなくなった。ステータスでは、勝てない。装備でも、勝てない。
ワールドチャンピオンとは、ユグドラシルという世界そのものが「最強」と認めた存在だ。正面から戦えば、十回やって十回負ける。
それでも、悟はペンを止めなかった。正面から勝てないなら、正面以外から勝つしかない。情報。準備。読み合い。相手が「知らない」動き。
それは、前回の自分が、異世界で守護者たちを守るために使ったものと、同じ武器だった。夜、布団に入っても、頭の中で、白銀の騎士の剣筋が何度も閃いた。
空気清浄機の唸りが、いつもより大きく聞こえた。
土曜日、二十一時五十分。
モモンガは、第六階層の円形闘技場の中央に立っていた。
頭上には、ブルー・プラネットが作った夜空が広がっている。本物の星座と同じ配置で、無数の星が瞬いていた。風が吹いている。乾いた砂の匂いと、闘技場を囲む森から流れてくる、湿った土と樹液の匂い。足元の砂は、細かく、白い。踏みしめるたびに、さらさらと小さな音を立てた。すり鉢状に広がる観客席は、ほとんど空だった。
いや、二人だけいる。
観客席の最前列に、アウラとマーレが並んで立っていた。
この階層の守護者として、いつもの待機位置に配置されているだけだ。
姉は腰に手を当て、弟は杖を抱えて、闘技場の中央をじっと見下ろしている。もちろん、ただのNPCだ。何も見ていないし、何も分かっていない。
それでも、モモンガは少しだけ、背筋を伸ばした。
(見られているな)
茶釜さんの子どもたちに。ウルベルトからの返信は、まだなかった。既読の表示は、決闘の前日の深夜に、ようやくついた。けれど、返事はなかった。来ないのかもしれない。来なくても、大丈夫だと書いたのは、自分だ。それでも、モモンガは何度も、空の観客席に目をやってしまった。
二十一時五十八分。
闘技場の東の入場門が、重い音を立てて開いた。最初に見えたのは、光だった。門の奥の暗がりから、白銀の輝きが近づいてくる。一歩ごとに、砂を踏む硬い音が、夜の闘技場に響いた。
そして、その背後に。巨大な文字が、浮かび上がった。
『正義降臨』
ワールドチャンピオンの装備に付与された、入場エフェクト。白銀の騎士がその姿を現すとき、背後に必ず浮かぶ、四つの文字。
モモンガは、思わず小さく笑ってしまった。何度見ても、この演出には慣れない。真面目なたっち・みーが、これを外さずにずっと使い続けていることも。
「お待たせしました」
たっち・みーが、闘技場の中央で足を止めた。モモンガとの距離は、およそ二十メートル。純白の鎧が、星明かりを受けて淡く光っている。赤いマントが、夜風にはためいている。胸の蒼いサファイアの奥で、何かが静かに燃えているように見えた。
「いえ。時間ぴったりです」
「……ウルベルトさんは」
「まだです」
たっち・みーは、空の観客席を一度だけ見渡した。それから、兜の奥で小さく息をつく気配がした。
「そうですか」
それ以上は、何も言わなかった。
モモンガは、杖を握り直した。
ギルド武器ではない。決闘に、ギルドの象徴を持ち込むのは違う気がした。
今夜の手にあるのは、自分一人の力で揃えた、自分の装備だけだ。骨の指の節が、杖の柄に当たって、かすかな音を立てた。心臓など、この身体にはない。それなのに、画面の向こうで、鈴木悟の鼓動は早鐘を打っていた。
「たっちさん」
「はい」
「本気で、お願いします」
「最初から、そのつもりです」
たっち・みーは、純白の盾を構えた。剣を抜く。刃が鞘を滑る音が、静まり返った闘技場に、長く尾を引いた。その構えを見た瞬間、モモンガは悟った。
今まで何度も、隣で、後ろで、見てきた構えだ。けれど、正面から見るのは、初めてだった。隙がない。どこにも、ない。これが、ユグドラシルの頂点に立つ者の、本気の構えなのだ。背筋を、冷たいものが這い上がった。同時に、胸の奥で、何かが熱く燃え上がった。
(……ああ、これだ)
これを、知りたかったのだ。
決闘の申請ウィンドウが、二人の間に浮かび上がった。
《PvP決闘を開始しますか?》
《挑戦者:モモンガ》《対戦者:たっち・みー》
モモンガは、承認のボタンに指を伸ばした。その時だった。
観客席の、一番上。星空を背にした最上段の暗がりに、転移の光が、一瞬だけ弾けた。モモンガの指が、止まった。光が収まったあとに、一つの影が立っていた。
捻じれた二本の角。
山羊の頭。
翻る、深紅と漆黒のマント。
ウルベルト・アレイン・オードルは、何も言わなかった。
ただ、観客席の最上段に腰を下ろし、膝の上で頬杖をついて、闘技場の中央をじっと見下ろしていた。
たっち・みーが、ゆっくりと顔を上げた。二人の視線が、夜空の下で交わる。
ウルベルトは、ふいと顔を背けた。それでも、席を立とうとはしなかった。たっち・みーは、何も言わなかった。ただ、盾を構える腕に、ほんのわずか、力がこもったのが分かった。
モモンガは、観客席の最上段を見上げた。来てくれた。それだけで、もう十分だった。
「……始めましょうか、たっちさん」
「ええ」
モモンガは、承認のボタンを押した。
たっち・みーも、押した。
ウィンドウが消え、二人の間に、巨大なカウントダウンの数字が浮かび上がった。
《10》風が止んだ。
《9》砂の音が消えた。
《8》観客席のアウラとマーレが、星明かりの中で、静かにこちらを見下ろしている。
《7》最上段で、ウルベルトが頬杖を外した。
《6》白銀の騎士の剣先が、わずかに沈んだ。
《5》モモンガは、杖の先に魔力を集め始めた。骨の指先が、かすかに震えている。恐怖なのか、高揚なのか、もう区別がつかない。
《4》初めて会った日の草原を、思い出した。三人のPKに囲まれた、レベル1の骸骨。その前に、風のように現れた白銀の背中。
《3》あの背中を、ずっと追いかけてきた。
《2》今夜だけは、追いかけない。
《1》正面から、向き合う。
《決闘開始》