無職転生 ~愚弟の兄は全身鎧の剣士~ 作:鎧の剣士
ロキシーがブエナ村にやってきてから、約二年。
ルディは五歳になり、魔術の腕を着実に伸ばしていた。
俺も七歳になり、相変わらず父さんとの剣術訓練を続けている。
この二年間、俺は剣術だけでなく魔術も学んできた。剣術だけでは対応できない状況もある。そう考えた俺は、ロキシーや母さんに教わりながら、少しずつ魔術を身につけてきた。
まだ使える魔術は限られているが、いざというときの備えにはなる。
一方、ルディは魔術の才能を存分に発揮していた。
そんなある日の朝。
「ルディ、今日は、魔術の卒業試験をしましょう」
ロキシーの言葉に、ルディの顔がぱっと明るくなった。
「卒業試験ですか?」
「はい。これまで学んできたことが、どれだけ身についているか確かめます」
「わかりました! 頑張ります!」
元気よく返事をするルディ。
しかし、ロキシーが続けた言葉によって、その表情は一変した。
「試験の場所は、村の外にある丘です」
「……え?」
ルディの顔から笑顔が消えた。
村の外。
その言葉が、ルディにとってどれほど大きな壁なのか、俺は知っている。
前世の記憶に由来する恐怖。ルディは庭の門を越えて外へ出ることさえ、簡単にはできない。
それでも、魔術の勉強を続けてきた彼にとって、卒業試験は大切な節目だ。
「む、村の外ですか……?」
「そうです。ここでは十分な魔術を使えませんから」
ロキシーは、いつもと変わらない落ち着いた口調で答えた。
ルディはうつむき、ぎゅっと拳を握った。
「……わかりました」
返事はしたものの、その顔には明らかな不安が浮かんでいた。
俺はルディの様子を見ながら、心の中で息を吐いた。
(ここが最初の大きな壁だな)
知っている。
原作で読んだ、魔術の卒業試験。
ロキシーが聖級魔術を披露し、ルディがそれを再現する、あの出来事だ。
だが、俺が知っているのは物語の展開だけ。
ルディが今どんな気持ちでいるのか、実際にこの場に立ってみなければわからない。
それに、俺は原作には存在しない人間だ。
知識があるからといって、すべてがその通りに進むとは限らない。
「ルディ」
俺は普段どおりに声をかけた。
「せっかくここまで勉強したんだろ? 試験、頑張ってこいよ」
「……うん」
ルディは小さくうなずいた。
無理に励ましすぎても仕方がない。
最後に一歩を踏み出すのは、ルディ自身なのだから。
◇
出発の時間になると、ロキシーは馬を連れてきた。
「ルディ、乗ってください。私が一緒に行きますから」
「は、はい……」
ルディは馬を見上げ、緊張した様子で近づいた。
村の外へ出る。
ただそれだけのことが、彼にとっては大きな挑戦だった。
ロキシーは急かさなかった。
ルディが馬に乗るのを手伝い、落ち着くまで待ってから、自分もその後ろに乗った。
「大丈夫です。私がついています」
「……はい、師匠」
馬がゆっくりと歩き出す。
庭の門を越える。
ルディは、きっと恐怖を感じているはずだ。それでも、彼は逃げ出さなかった。
俺は二人の背中を見送った。
(さて、どうなるか)
もちろん、結末は知っている。
それでも、知識を表に出すわけにはいかない。
俺は何も知らない兄として、二人が帰ってくるのを待つことにした。
◇
しばらくして、ロキシーとルディが帰ってきた。
二人とも濡れていた。
いや、濡れているというより、全身ずぶ濡れだ。
「おかえり。……何があったんだ?」
俺は初めて見る光景に驚いたような顔をした。
実際、二人が無事に戻ってきたことには安堵している。
ただ、ずぶ濡れになった理由は知っていた。
「アル兄さん!」
ルディは興奮した様子で駆け寄ってきた。
「師匠が、すごい魔術を見せてくれたんだ!」
「すごい魔術?」
「うん! 聖級の水魔術だよ!」
ルディは身振り手振りを交えながら、丘での出来事を説明し始めた。
ロキシーが天に向かって魔術を放ち、広範囲に雨を降らせたこと。
その魔術を見たルディが、自分でも再現しようと挑戦したこと。
そして、見事に成功させたこと。
「本当にできたんだよ! 師匠と同じように、雨を降らせることができたんだ!」
「へえ、聖級魔術か! すごいじゃないか!」
俺は素直に褒めた。
内心では、やはり原作どおりだと考えていた。
だが、それを口にすることはない。
「ルディ君は、本当に素晴らしい才能を持っていますね」
ロキシーも、誇らしげにルディを見つめていた。
「いえ、師匠が見本を見せてくれたからです!」
「それでも、実際に魔術を再現するのは簡単なことではありません」
ルディは照れくさそうに頬をかいた。
その顔を見ていると、こちらまで少し嬉しくなる。
原作を知っている俺にとって、これは予定されていた出来事の一つだ。
しかし、目の前で起きたこととして見れば、やはりすごい。
五歳の子供が、聖級の魔術を再現したのだから。
「よく頑張ったな、ルディ」
俺がそう言うと、ルディは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、俺は胸の内で小さく息を吐いた。
(これで、ロキシーの教えを受ける時間も終わりか)
別れは、もうすぐそこまで来ていた。
◇
その日の夕方。
ロキシーは荷物をまとめ、旅立つ準備をしていた。
二年間、ルディに魔術を教えてくれた師匠。
その別れが近づくにつれ、家の中にはどこか寂しげな空気が漂っていた。
「ロキシーちゃん、もう行っちゃうんですか?」
ゼニスが尋ねると、ロキシーは静かにうなずいた。
「はい。私の役目はひとまず終わりましたから。これからは、別の場所で経験を積もうと思います」
「そうですか……。寂しくなりますね」
「私もです。皆さんには、とてもお世話になりました」
パウロも腕を組み、感慨深そうにロキシーを見ていた。
「ルディの魔術がここまで伸びたのは、あんたのおかげだ。ありがとうな」
「いえ。ルディ自身が努力した結果です」
その言葉に、ルディは少し照れたようにうつむいた。
ロキシーはそんなルディに向き直る。
「ルディ」
「はい、師匠!」
「これからも、魔術の勉強を続けてください。あなたなら、きっともっと成長できます」
「はい! 絶対に続けます!」
ルディは力強く答えた。
ロキシーは満足そうに微笑むと、懐から小さな包みを取り出した。
「それから、これを」
「えっ?」
「私からの餞別です。お守りのようなものだと思って、持っていてください」
ロキシーは包みをルディの手にそっと載せた。
「師匠からの……お守り?」
「はい。あなたがこれから先も、無事に成長できるように」
ルディは両手で包みを受け取った。
「ありがとうございます、師匠! 一生大切にします!」
その反応は、少々大げさにも見えた。
だが、ルディにとってロキシーは、初めて本格的に魔術を教えてくれた師匠だ。
その人からもらったものなら、大切にしたくなるのだろう。
……もっとも。
(知ってる。これも原作どおりだ)
俺は内心でそう思った。
ルディはお守りを大切そうにしまい、ロキシーに向かって深く頭を下げた。
「師匠、本当にありがとうございました!」
「こちらこそ。あなたに教えることができて、よかったです」
ロキシーはルディの頭にそっと手を置いた。
「さようなら、ルディ」
「……はい。さようなら、師匠!」
別れの挨拶を交わしたあと、ロキシーは俺たちにも頭を下げた。
「アル君も、これから頑張ってくださいね」
「はい。お世話になりました、ロキシー先生」
俺は礼を返した。
彼女は最後にもう一度微笑み、家を出ていった。
その背中が遠ざかるのを、俺たちは見送った。
◇
ロキシーが去ったあとの家は、少し静かになった。
ルディはもらったネックレスを大切にしまい、これまでの授業を振り返っているようだった。
父さんは、そんな弟の頭を軽く撫でた。
「魔術の勉強はひと区切りだな。だが、剣術の稽古はこれからも続けるぞ」
「はい、父さん」
ルディは素直にうなずいた。
魔術が好きなのは相変わらずだが、父さんから剣術も教わっている。これからも、両方を続けていくのだろう。
俺はその様子を見ながら、これからのことを考えていた。
ルディは、原作の物語を一歩ずつ進んでいる。
だが、俺は違う。
原作には存在しない人間。
この先に何が起こるのか、俺自身の未来については、何ひとつ確かなことがない。
だからこそ、準備を続ける。
剣術を鍛え、魔術を学び、必要な知識を身につける。
できるだけ危険を避け、無理をせず、それでも生き残るために必要な努力は惜しまない。
それが、俺のやり方だ。
(さて……明日からも、やることは変わらないな)
俺は小さく息を吐いた。
物語の先を知っていても、俺の未来までは書かれていない。
ならば、自分の身は自分で守るしかない。
それだけは、これから先も変わらないだろう。