無職転生 ~愚弟の兄は全身鎧の剣士~ 作:鎧の剣士
その日の夕食後、俺は自室で鎧の手入れをしていた。
金具の緩みを確かめ、革紐の状態を確認する。将来、黒い全身鎧を身につけた剣士になるためにも、今ある装備を大切に扱うことは欠かせない。
そんな平穏な時間は、母さんの声によって唐突に終わりを告げた。
「アル、ルディ。二人とも、居間に来なさい」
いつもと変わらない声。
……なのに、なぜか嫌な予感がした。
俺は手入れ道具を片付け、居間へ向かった。
そこには、ゼニス、パウロ、リーリャが揃っていた。
パウロは妙に背筋を伸ばして座り、リーリャはいつも通り静かに控えている。
そして、ゼニスの表情は真剣そのものだった。
「……何かあったの?」
ルディが俺の隣で尋ねた。
「さあな」
俺は短く答えた。
もちろん、原作知識から察しはついていた。
だが、ここで俺が先回りして何かを言うわけにもいかない。
「二人とも、座ってちょうだい」
ゼニスに促され、俺たちはソファに腰を下ろした。
家族全員が揃ったところで、ゼニスが口を開いた。
「今日は、大事な話があります」
その言葉に、ルディが首を傾げる。
パウロはというと、目に見えて落ち着きがなかった。
……父さん、分かりやすすぎないか?
「実はね、私……赤ちゃんができたの」
「えっ?」
ルディが目を丸くした。
俺は表情を変えずに頷いた。
「そうなんだ。おめでとう、母さん」
「ありがとう、アル」
ゼニスは少し照れくさそうに微笑んだ。
ルディもすぐに笑顔になった。
「本当? 僕、お兄ちゃんになるんだ!」
「そうよ。アルもルディも、お兄ちゃんになるの」
ゼニスは嬉しそうだった。
家族が増える。
普通なら、喜ばしい話だ。
俺も弟か妹が生まれること自体には異論がない。家族が増えるのは、悪いことではないだろう。
ただし。
俺の視線は、パウロへと向いた。
父さんは、なぜそんなに顔色が悪いのだろうか。
その答えは、すぐに明らかになった。
「……それで、もう一つ話があります」
ゼニスが続けた。
今度はリーリャへ視線を向ける。
「リーリャも、妊娠しているそうです」
居間が静まり返った。
ルディは口を開けたまま固まっている。
俺は心の中で、そっと額を押さえた。
来たか。
原作知識で知っていた出来事だ。
ゼニスが妊娠し、その後にリーリャの妊娠が明らかになる。パウロの浮気が発覚し、家庭内で大騒動になる。
知識として知っていたからといって、目の前で起きれば気まずいものは気まずい。
しかも今回は、俺もその場にいる。
「……父さん?」
ルディが、ゆっくりとパウロを見た。
「いや、その……これはだな……」
パウロは言葉に詰まった。
ゼニスの笑顔は消えていた。
「パウロ」
「は、はい」
「説明してもらえるかしら?」
「……はい」
パウロの声が小さくなる。
俺は心の中で呟いた。
頑張れ、父さん。
いや、やっぱり頑張らなくていいから、正直に話してくれ。
◇
パウロは、リーリャとの関係について説明を始めた。
きっかけは、以前のことだった。
パウロが酒に酔い、リーリャと関係を持ってしまった。そして、それが一度きりでは終わらず、今回の妊娠につながったのだという。
説明を聞くほどに、パウロの立場が悪くなっていく。
当然だ。
ゼニスは妻であり、リーリャはこの家で働く使用人だ。
家の主人が使用人に手を出し、その結果として二人とも妊娠した。
家庭内の問題として、簡単に済ませられる話ではない。
「……そう」
ゼニスは静かに言った。
その静けさが、かえって怖かった。
パウロは深く頭を下げた。
「すまない、ゼニス。俺が悪かった」
「ええ。あなたが悪いわね」
即答だった。
パウロは何も言い返せなかった。
ルディは俺の隣で、状況を理解しようとしているようだった。
まあ、無理もない。まだ子供のルディにとって、父親の浮気だの、使用人の妊娠だのと言われても、すぐには理解できないだろう。
俺は詳しい事情を知らない、という顔をして話を聞いていた。
もちろん、実際には知っている。
原作知識がある俺にとって、ゼニスの妊娠が発覚した後にリーリャの妊娠も判明し、パウロの浮気が家族に知られるという展開は、記憶にあるものだった。
ただし、目の前で起きていることが、記憶している原作と寸分違わず同じというわけでもない。
細かい経緯や、その場にいる人間の反応には、わずかな違いがある。
俺がこの世界に存在している時点で、完全に同じ物語になるはずもないのだろう。
……まあ、概ね一緒だからいいんだけどさ。
今のところ、俺に直接関係するような変化はない。
ゼニスが怒るのも当然だし、パウロが責任を問われるのも当然。リーリャも自分のしたことを理解しているようだ。
なら、俺がわざわざ口を挟む必要はない。
原作知識があるからといって、すべてを思い通りに動かせるわけじゃないし、すべての出来事に介入するつもりもない。
俺はあくまで、この世界で生きている一人の人間だ。
自分にできることをして、余計な面倒には首を突っ込まない。
それが、俺の基本方針だった。
「リーリャ」
ゼニスが呼びかけた。
「はい」
リーリャは静かに頭を下げた。
「あなたも、話したいことがあるでしょう?」
「……私は、奥様に対して申し開きのできないことをいたしました」
リーリャは目を伏せた。
「どのような処分も、受け入れるつもりでおります」
その言葉に、ゼニスはしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「私は、あなたをすぐに許せるわけではありません」
「はい」
「でも、お腹の子に罪はないわ」
リーリャが顔を上げた。
ゼニスは厳しい表情のまま、続けた。
「この子をどうするかは、これから考えましょう。あなたにも、パウロにも、きちんと責任を取ってもらいます」
「……ありがとうございます」
リーリャの声が、わずかに震えた。
パウロは深く頭を下げたまま、動かなかった。
俺はその様子を見て、内心で息を吐いた。
ゼニスは怒っている。
当然だろう。
それでも、子供には罪がないと考え、これからのことを話し合おうとしている。
母さんは強い人だ。
そして、父さんは後で相当大変なことになるだろう。
……自業自得だけどな。
◇
話し合いは、しばらく続いた。
リーリャをこの家から追い出すのか。
生まれてくる子供をどうするのか。
これからの家族関係をどうするのか。
決めなければならないことは、いくつもあった。
最終的に、ゼニスはリーリャを家から追い出さず、子供も受け入れる方向で話を進めることにした。
ただし、パウロには厳しい条件が付けられた。
「パウロ。これからは、家族に対して誠実でいること。リーリャにも、私にも、子供たちにもね」
「……分かった」
「分かっただけでは駄目よ。行動で示してちょうだい」
「はい……」
普段は豪快なパウロも、この時ばかりは完全にしおれていた。
ルディはまだ複雑そうな顔をしていたが、話し合いが終わる頃には、少しずつ落ち着きを取り戻していた。
俺も、余計なことは言わなかった。
原作知識を持っているからといって、すべての出来事に介入する必要はない。
ただ、原作と概ね同じ結末に向かっているからといって、今後も同じことが起きると決めつけるのも危険だろう。
ほんの小さな違いが、いつか大きな変化につながる可能性だってある。
だからこそ、知識に頼り切るのではなく、目の前の状況を見て判断する必要がある。
……まあ、今回に関しては、父さんが自分のやらかしの責任を取る。それだけの話だ。
「アル?」
ゼニスに呼ばれて、俺は顔を上げた。
「どうしたの?」
「いや、これから家族が増えるんだなと思って」
そう答えると、ゼニスの表情が少し和らいだ。
「そうね。あなたたちも、お兄ちゃんとして手伝ってくれると嬉しいわ」
「できる範囲ならね」
「もう、アルったら」
ゼニスが苦笑した。
ルディも、ようやくいつもの調子を取り戻したようだった。
「僕も、弟か妹が生まれるの楽しみだよ!」
「そうね。二人とも、きっと可愛がってくれるわ」
家族会議は、まだ完全に問題が解決したわけではない。
パウロが信頼を取り戻すには時間がかかるだろうし、ゼニスとリーリャの間にも、簡単には埋まらない溝が残るはずだ。
それでも、今日ここで話し合ったことで、少なくとも家族として前へ進む道はできた。
俺は立ち上がり、居間を出ようとした。
「アル、どこへ行くんだ?」
パウロが尋ねる。
「鎧の手入れの続き。今日はもう訓練も終わったし」
「……そうか」
パウロは少し気まずそうに目を逸らした。
俺はそれを見て、肩をすくめた。
父さん。
自分で蒔いた種なんだから、ちゃんと責任を取ってくれよ。
俺はそう心の中で呟き、自室へ戻った。
これから先、家族はさらに増える。
原作と同じ部分もあれば、少しずつ違っていく部分もあるだろう。
だからといって、俺がそのすべてを変えようとする必要はない。
俺は俺のやるべきことを続ける。
剣を磨き、鎧を整え、魔術を学ぶ。
いつか何が起きても、自分と大切な人たちを守れるように。
……まあ、まずは父さんが家庭内で生き残れることを祈っておこう。