無職転生 ~愚弟の兄は全身鎧の剣士~ 作:鎧の剣士
朝。
目が覚めた俺は、天井を見つめながら昨日の会話を思い出していた。
『これからは、剣術だけでなく、ほかの相手と戦うことも想定して訓練していこう』
パウロの言葉である。
昨日の訓練の最後に、確かにそう言われた。
魔術を使う相手への対処を考えたと思ったら、今度は槍使いや大柄な相手まで想定するらしい。
……仕事が増えていく。
俺は五歳児だぞ。
前世の記憶があるとはいえ、今の肉体は五歳児。成長途中の体に、そんなに次々と課題を追加して大丈夫なのだろうか。
いや、体の成長を考えて訓練しているのは分かっている。
パウロだって、俺を困らせるために訓練を増やしているわけではない。
俺が将来、危険な目に遭わないようにするためだ。
それは理解している。
理解しているのと、喜んで受け入れられるのは別の話だが。
俺は寝床から起き上がり、いつものように鎧を身につけた。
留め具を確かめ、部品の位置を整える。
重い。
暑い。
そして、着るのが面倒くさい。
それでも、鎧を身につけた姿を見れば気分は悪くない。
ブエナ村で旅の騎士の鎧を見たとき、俺は思ったのだ。
ああいう鎧を着て、剣を振るうのは格好いい、と。
それ以来、鎧を着た剣士に憧れている。
いつか黒い全身鎧を手に入れて、誰が見ても強そうな剣士になりたい。
もちろん、鎧を着るだけで強くなれるわけではない。
だから訓練もする。
ただし、できるだけ安全に、できるだけ効率よく。
格好よく強くなりたいのであって、無駄に苦労したいわけではないのだ。
この二つは両立する。
少なくとも、俺はそう信じている。
俺は木剣を手に取り、庭へ向かった。
◇
「おう、アル! 準備はできてるな!」
庭に出ると、パウロが待っていた。
その手には、普段の木剣とは違う、長い訓練用の棒が握られている。
……長いな。
俺の木剣より、ずっと長い。
パウロは棒を槍のように構えていた。
「今日は槍を使う相手を想定して訓練するぞ。剣と槍では間合いが違う。そこを意識して動いてみろ」
「分かったよ、父さん」
俺は木剣を構えた。
槍を相手にした訓練は、今日が初めてだ。
槍が剣より長い武器だという知識はある。だが、知識として知っていることと、実際に相手にすることは違う。
剣なら、こちらも攻撃できる距離まで近づかなければならない。
槍なら、その距離に入る前から攻撃される。
つまり、近づくまでが大変なのだ。
しかも、こちらは鎧を着ている。
鎧は身を守るためのものだが、何でも防げるわけではない。隙間に攻撃が当たれば痛いだろうし、転べば起き上がるのも大変だ。
結論。
できるだけ攻撃を受けず、相手の動きを見て、安全に近づく。
……よし。
方針は決まった。
「いくぞ!」
パウロが棒を突き出した。
俺は反射的に横へ動いた。
棒の先端が、鎧のすぐ脇を通り過ぎる。
危なっ!
いや、訓練用の棒だ。実際の戦場でもない。
だが、目の前に長い棒が伸びてくる感覚は、思っていたよりも厄介だった。
攻撃が届く距離が分かりにくい。
剣を相手にするつもりで近づけば、こちらが攻撃する前に突かれる可能性がある。
「もう一度だ!」
パウロが再び突きを放つ。
俺は今度、必要以上に飛び退かず、体を少し横にずらした。
棒が通り過ぎる。
それを見てから、元の位置へ戻る。
「ほう……」
パウロが感心したような声を漏らした。
いや、まだ感心するところじゃないだろ。
俺はただ、当たりたくないから避けただけだ。
わざわざ大きく動けば、その分疲れる。
避けすぎて体勢を崩したら、次の攻撃にも対応しにくくなる。
だったら、当たらない範囲で動けばいい。
それだけの話だ。
「必要以上に動かず、攻撃を見極めているな。鎧を着ていることも考えているのか?」
「大きく動くと、次に動くのが大変だからね」
俺は正直に答えた。
鎧を着たまま激しく動けば、姿勢を整えるのにも力がいる。
無理に跳んだり、勢いよく体をひねったりするより、少ない動きで避けられるなら、その方がいい。
「なるほど! 動いたあとのことまで考えているわけか!」
パウロがうんうんと頷いた。
……いや。
確かに、結果としてはそうなる。
だが、俺の頭の中で考えていたのは、もっと切実な問題だ。
どうすれば疲れずに済むか。
どうすれば痛い思いをせずに済むか。
どうすれば訓練のあとに、余計な疲労を持ち越さずに済むか。
要するに、体力と精神力の節約である。
俺の中では家計簿みたいなものだ。
体力を使いすぎれば、午後の自由時間に響く。
無駄な動きをすれば、疲労という名の出費が増える。
そして、予算を超過した場合、最も困るのは俺だ。
……なんだろう。
戦闘中に家計簿をつけているような気分になってきた。
「よし、次は避けたあとに近づいてみろ!」
パウロが棒を構え直した。
ですよね。
避けるだけでは終わらないですよね。
俺は木剣を握り直し、パウロの構えを観察した。
棒の先端。
握っている手。
足の位置。
体の向き。
まだ槍を相手にする経験がない以上、何が危険なのかを実際に確かめる必要がある。
攻撃が来たら避ける。
だが、避けたからといって、すぐに飛び込んでいいわけではない。
相手が次の攻撃を出せるなら、近づいたところを突かれる可能性がある。
俺はパウロの動きを待った。
「どうした、アル! もっと踏み込んでみろ!」
父さんは簡単に言う。
だが、棒が長い。
俺の腕が届く場所より、向こうの攻撃が届く場所の方が広い。
この差をどうにかしなければ、剣を振るうことすらできないのだ。
パウロが棒を突き出す。
俺は体を横にずらした。
棒が伸びきる。
俺は、すぐには踏み込まなかった。
棒が戻り始めたのを見てから、一歩前へ出る。
さらに距離を詰め、木剣を振った。
パウロは棒を引き戻して受け止めた。
「よし! 今のはいいぞ!」
パウロの声が弾んだ。
「攻撃を避けて、相手の武器が戻る瞬間に踏み込んだな。焦って突っ込まず、動きを見てから近づけている!」
俺は少しだけ息を整えた。
今の動きは、確かにうまくいった。
槍が伸びている間に飛び込むのは危険だ。
攻撃が戻る瞬間なら、少なくとも攻撃を出している最中よりは近づきやすい。
もちろん、相手がすぐに次の攻撃を出してくる可能性もある。毎回同じように動けばいいわけではない。
それでも、今の一度で少し分かったことがある。
槍の先端だけを見るのではなく、相手の動き全体を見なければならない。
攻撃を避けることと、攻撃できる距離に入ることは別の問題なのだ。
……なるほど。
これは覚えておく価値がある。
悔しいが、今日の訓練はちゃんと役に立っているらしい。
「もう一度だ!」
「……はい!」
その後も、訓練は続いた。
棒が伸びてくる。
避ける。
相手を見る。
近づけるか判断する。
危険なら距離を取る。
隙があれば、一歩踏み込む。
最初のうちは、タイミングが合わずに足が止まることもあった。
反対に、踏み込むのが早すぎて、パウロに棒を向けられ、慌てて下がることもあった。
そのたびに、俺は何が悪かったのかを考えた。
攻撃を避けたことに満足して、相手の次の動きを見ていなかった。
近づきたい気持ちが先走って、まだ危険な距離なのに踏み込んでしまった。
そういう失敗を繰り返しながら、少しずつタイミングを覚えていく。
地味だ。
とにかく地味だ。
だが、こういうことを積み重ねるしかないのだろう。
何も考えずに飛び込んで、運よく勝てるほど世の中は甘くない。
俺は英雄になりたいわけではない。
ただ、危険なときに自分の身を守れるようになりたい。
そのためには、危険な距離を覚える必要がある。
……ああ、面倒くさい。
でも、必要なことなら仕方がない。
俺は木剣を構え直した。
「よし、今日はここまでだ!」
ようやくパウロが棒を下ろした。
その言葉を聞いた瞬間、俺の心に平和が戻ってきた。
風が気持ちいい。
空気がおいしい。
地面が、こんなにも優しく見える。
俺は今、自由を取り戻したのだ。
訓練終了。
なんて素晴らしい言葉だろう。
「アル、初めて槍を相手にしたにしては、よく動けていたぞ」
「ありがとう、父さん」
「槍は間合いが長い。焦って近づこうとすれば、迎え撃たれる。今日みたいに相手の動きを見て、攻撃のあとを狙う意識を持つといい」
「うん。分かったよ」
これは素直にありがたい助言だった。
今日の訓練で、槍の間合いがどれほど厄介なのか、実際に体験できた。
次に同じ相手と戦うことがあれば、今日よりは落ち着いて動けるかもしれない。
もちろん、相手が変われば動き方も変わるだろう。
それでも、今日覚えたことは無駄にはならない。
……ただし。
今日の成果を父さんがどう評価するかによっては、明日から訓練がさらに増える可能性がある。
俺はそっとパウロの顔を見た。
満足そうだ。
非常に満足そうだ。
嫌な予感がする。
◇
昼食の時間。
鎧を脱いで汗を拭いた俺は、家族と食卓を囲んでいた。
パウロは機嫌がいい。
ゼニスはそんなパウロを見て、穏やかに笑っている。
ルーデウスは、今日の訓練について考えているようだった。
そこへリーリャが料理を運んできた。
「お待たせいたしました」
「ありがとう、リーリャ」
ゼニスが礼を言う。
俺も心の中で礼を言った。
ありがとうございます、昼食。
訓練のあとの飯は、いつもよりおいしく感じる。
もしかすると、俺は強くなるために訓練しているのではなく、訓練後の飯をおいしく食べるために訓練しているのかもしれない。
いや、違うな。
目的と手段が逆転している。
……でも、悪くない人生設計だ。
「アル。今日の訓練はどうだった?」
パウロが尋ねた。
「槍は剣より間合いが長いから、近づくタイミングが難しかったよ。相手の動きを見ないで飛び込むと危ないね」
「そうだな。武器が違えば、戦い方も変わる。剣を使う相手と同じつもりで動くわけにはいかない」
パウロは満足げに頷いた。
「兄さん、相手の棒が戻るタイミングを見てたよね」
ルーデウスが口を開いた。
「うん。攻撃している最中に近づくのは危ないからね」
「なるほど……。魔術を使うときも、相手がどう動くか考えた方がよさそうだ」
ルーデウスは何かを思いついたように考え込んだ。
……おっと。
その方向に話が進むのは、少々危険な気がする。
いや、ルーデウスが魔術を上達させるのはいいことだ。
弟が成長するのは嬉しい。
ただ、弟が新しい戦術を思いつくたび、父さんの訓練計画に新しい項目が追加される可能性がある。
剣術と魔術の連携訓練。
複数の相手を想定した訓練。
槍と魔術を組み合わせた訓練。
やめろ。
まだ決まってもいない訓練内容が、俺の脳内で勝手に増殖している。
想像するだけで疲れてきた。
「ルーデウス、気づいたことがあるなら、あとで試してみるといい」
パウロが言った。
「うん!」
弟が元気よく返事をした。
父さん。
その一言が、将来の俺の休日を削ることにならないよう祈っている。
「アルベルト様も、今日は頑張られたのですね」
リーリャが食器を整えながら声をかけた。
「初めて槍を相手にする訓練は、大変だったのではありませんか?」
「うん。剣とは距離が違うからね」
「それでも、落ち着いて対処されたのですね。日頃の鍛錬の成果でしょうか」
リーリャは丁寧に微笑んだ。
日頃の鍛錬の成果。
そう言われると、少し照れくさい。
実際、これまで鎧を着て剣を振ってきた経験は、今日の訓練にも役立っている。
鎧を着たまま動くことには、少しずつ慣れてきた。
ただ、今日の訓練で槍への対処まで身についたわけではない。
まだ初めて経験したばかりだ。
これからも繰り返し練習して、少しずつ覚えていく必要がある。
……できれば、ゆっくり覚えたい。
急いで覚えたら、急いで次の訓練に進みそうだからだ。
俺は黙って肉を口に運んだ。
今は食事に集中しよう。
目の前の幸福を味わうのだ。
未来の面倒は、未来の俺に任せればいい。
……いや、未来の俺も俺なんだけどな。
◇
昼食のあと、俺はいつものように鎧の手入れをした。
汚れを拭き、部品の状態を確かめる。
いつもの作業だ。
面倒ではあるが、放っておけば余計に面倒になる。
それに、汚れた鎧は格好悪い。
この三つ目の理由が、俺にとっては特に重要だった。
やはり、格好よさは大切だ。
以前、ルーデウスの水魔術で鎧を洗ってもらったことがある。
あれは便利だった。
自分で水を用意して汚れを落とす手間が減るだけでも、かなり助かる。
魔術は戦闘だけではなく、日常生活にも役立つ。
俺としては、鎧の手入れを楽にする魔術がもっと発達してほしい。
できれば、汚れを落とすだけでなく、乾燥も磨きも自動でやってくれるものがいい。
そうすれば、俺は鎧を着て格好よく立っているだけで済む。
完璧だ。
いや、実際には着て立っているだけでは強くなれないのだが。
夢くらい見たっていいだろう。
俺は鎧の表面を拭きながら、今日の訓練を思い返した。
槍の攻撃を避ける。
相手の動きを見る。
近づくタイミングを考える。
そして、無理に踏み込まない。
今日の経験で、少しだけ分かったことがある。
槍を相手にするなら、剣を振るう技術だけでは足りない。
相手の間合いを理解し、その中にどう入るかを考えなければならない。
それは、実際にやってみなければ分からなかったことだ。
俺は小さく息を吐いた。
訓練は面倒だ。
だが、今日のように新しいことを学べるなら、無意味ではない。
必要な努力はする。
ただし、無駄な努力はしたくない。
その線引きは、これからも大切にしていこう。
◇
夜。
俺はベッドに横になり、今日一日を振り返っていた。
初めて槍を相手に訓練した。
槍の間合いは剣より長い。
攻撃を避けるだけでなく、近づくタイミングも考えなければならない。
最初は戸惑ったが、繰り返すうちに少しずつ動きが分かってきた。
今日の経験は、今後の訓練にも役立つだろう。
……うん。
こうして振り返ると、ちゃんと意味のある一日だった。
訓練は疲れる。
面倒だ。
できれば、毎日こんなことをしたくはない。
でも、何も知らないまま危険な目に遭うのはもっと嫌だ。
ならば、今のうちに必要なことを覚えておいた方がいい。
俺は世界を救いたいわけでも、最強の剣士になりたいわけでもない。
ただ、自分の身を守れるくらいには強くなりたい。
好きな鎧を着て、格好よく剣を振れるようになりたい。
そして、できるだけ安全に暮らしたい。
それが俺の望みだ。
……なのに、周囲は俺をずいぶん真面目な人間だと思っているらしい。
パウロは俺の動きを褒めてくれる。
ルーデウスは俺の戦い方から何かを学ぼうとしている。
リーリャにも、日頃から努力していると思われている。
実際、努力はしている。
ただ、その動機は立派な騎士道精神などではない。
痛いのが嫌。
疲れるのが嫌。
余計な面倒を増やしたくない。
そして、格好いい鎧を着たい。
この四つが、俺の行動を支えている。
……いや、最後の一つが一番強いかもしれない。
俺は布団を引き上げた。
いつか黒い全身鎧を手に入れる。
その鎧を着こなせるだけの力をつける。
そのために、必要な訓練は続けていこう。
ただし、無理はしない。
安全第一。
ほどほどに努力。
できれば楽をする。
これが俺の人生設計だ。
明日も訓練があるだろう。
父さんはきっと、今日の成果を踏まえて次の課題を考えるはずだ。
……父さん。
お願いだから、明日は少しだけ優しくしてくれ。
今日、俺は初めて槍を相手にした。
新しいことを覚えた。
ちゃんと成長もした。
だから、明日くらいは、その成果をゆっくり味わう時間があってもいいと思うんだ。
具体的には、昼寝一回分くらい。
いや、二回分でもいい。
俺はそんなささやかな願いを胸に、目を閉じた。
……明日も訓練がある。
人生とは、どうしてこうも休みが少ないのだろう。