無職転生 ~愚弟の兄は全身鎧の剣士~   作:鎧の剣士

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第8話 兄は魔術の使い道を考える

家庭教師。

 

その言葉を聞いて、俺の頭に真っ先に浮かんだ人物がいる。

 

ロキシー・ミグルディア。

 

前世の知識によれば、ルーデウスに魔術を教えることになる人物だ。

 

……いよいよ来るのか。

 

青い髪の魔族の少女。優秀な魔術師であり、ルーデウスの人生に大きな影響を与える存在。

 

もっとも、俺の知っている物語と今の世界が完全に同じとは限らない。何しろ、俺という長男が存在している時点で、すでに違いがある。

 

前世の知識は便利だが、未来を保証してくれる説明書ではない。

 

そこは忘れないようにしよう。

 

それにしても、家庭教師か。

 

ルーデウスには魔術の先生が来る。

 

俺は今までどおり、父さんから剣術を習う。

 

役割分担としては実に分かりやすい。

 

魔術の勉強まで始めたら、俺の自由時間が減ってしまう。剣術の鍛錬に鎧の手入れ、それだけでも十分に忙しいのだ。

 

よし。

 

俺は魔術を習わない。

 

今のところは。

 

◇

 

「アル、ルーデウス。ちょっといいかしら」

 

朝食のあと、母さんが俺たちを呼び止めた。

 

「ルーデウスに魔術を教えてくださる先生が見つかったの。もうすぐ、この家にいらっしゃるそうよ」

 

「本当ですか、お母さん!」

 

ルーデウスの顔が明るくなった。

 

独学で魔術を覚えてきた弟にとって、専門の先生に教わる機会は待ち遠しいものなのだろう。

 

「ええ。パウロも賛成してくれたわ」

 

「魔術の腕もかなり上がってきたからな。ちゃんとした先生に習えば、もっと伸びるだろう」

 

父さんも納得している様子だった。

 

俺が剣術を学び、ルーデウスが魔術を学ぶ。

 

父さんは俺に剣術を教え、ルーデウスには魔術の先生を招く。それぞれの適性に合わせて学ばせるというだけの話だ。

 

夫婦の意見が食い違っている様子もない。

 

平和だ。

 

家庭内の揉め事は、できる限り少ないほうがいい。

 

俺は心の中で静かにうなずいた。

 

「アルベルトは、先生に会ってみたい?」

 

母さんに尋ねられ、俺は少し考えた。

 

会ってみたいか、と言われれば、もちろん興味はある。

 

前世の知識に登場した人物が、目の前に現れるのだから。

 

ただし、興味があることと、自分も魔術を習いたいかどうかは別問題だ。

 

「ご挨拶はしたいです」

 

「そう。きちんと挨拶するのよ」

 

「はい」

 

よし。これで問題ない。

 

魔術の勉強を始める約束はしていない。

 

俺はあくまで、弟の先生に挨拶をするだけだ。

 

◇

 

家庭教師がやってきたのは、それから間もなくのことだった。

 

「初めまして。ロキシー・ミグルディアと申します。本日から、ルーデウス君に魔術を教えることになりました」

 

青い髪。

 

小柄な体格。

 

記憶の中にある姿とよく似ていた。

 

……本当に来た。

 

前世で知っていた人物が、今では自分の家に立っている。

 

不思議な気分だった。

 

しかし、目の前にいるのは物語の登場人物ではない。一人の人間だ。俺の知らない考えもあれば、俺が知らない経験だってある。

 

前世の知識があるからといって、相手のすべてを知っているつもりになるのは危険だろう。

 

「初めまして。アルベルト・グレイラットです。よろしくお願いします」

 

俺は礼儀正しく頭を下げた。

 

「こちらこそ、よろしくお願いします。アルベルト君は剣術を習っているそうですね」

 

「はい。父から教わっています」

 

「そうですか。剣術は身を守るためにも大切な技術ですね」

 

ロキシーは穏やかな口調で答えた。

 

「ですが、魔術も覚えておくと、いろいろな場面で役に立ちます。攻撃だけでなく、自分を守ったり、生活を便利にしたりすることにも使えますから」

 

生活を便利にする。

 

その言葉に、俺の意識が少しだけ引っかかった。

 

便利。

 

なんと素晴らしい響きだろう。

 

俺はすでに、ルーデウスの水魔術に助けられている。

 

鎧についた汚れを落としてもらえるのは非常にありがたい。布で何度も磨く手間が減るし、細かい部分の手入れも楽になる。

 

あれはいいものだ。

 

魔術を使えば、ほかにも面倒な作業を減らせるのではないだろうか。

 

「たとえば、どのような使い方があるのでしょうか?」

 

気がつけば、俺は質問していた。

 

ロキシーは少し考えてから答えた。

 

「魔術の種類や使う人の工夫によりますね。水や火を扱う魔術は、生活の助けにもなります。風魔術も、使い方次第でさまざまな場面に応用できますよ。ただし、魔術には練習が必要ですし、何でも簡単にできるわけではありません」

 

なるほど。

 

まず、水魔術。

 

これはすでに実績がある。

 

鎧の洗浄に使えるし、水を用意する助けにもなるかもしれない。使い方を工夫すれば、戦闘中に相手の動きを妨げることだって考えられる。

 

次に、火魔術。

 

火を起こせれば、旅先で暖を取るのも楽になる。野営で火を用意する手間も減るだろう。戦闘では牽制にも使えるかもしれない。

 

そして、風魔術。

 

……風か。

 

風を起こせるなら、暑い日に涼めるのではないだろうか。

 

鎧の中は蒸れる。夏場の訓練など、できることなら一日中休んでいたいくらいだ。鎧の中に風を通せれば、少しは快適になるかもしれない。

 

それだけではない。

 

砂埃を払ったり、煙を遠ざけたり。使い方によっては、相手の体勢を崩したり、飛んでくるものへの対処を助けたりできる可能性もある。

 

もちろん、どこまでできるかは実際に学んでみなければ分からない。

 

だが、使い道を考えるだけなら自由だ。

 

……いや、待て。

 

風魔術が使えれば、鎧の中を涼しくできる。

 

水魔術が使えれば、鎧の手入れが楽になる。

 

火魔術が使えれば、野営の準備が楽になる。

 

これ、もしかして魔術を覚えれば覚えるほど、生活が楽になるのでは?

 

素晴らしい。

 

実に素晴らしい発見だ。

 

ただし、覚えるための勉強と練習は必要になる。

 

つまり、将来を楽にするために、今の俺が苦労しなければならない。

 

(なんという理不尽な仕組みだ……!)

 

いや、落ち着け。

 

必要なものから、少しずつ覚えればいい。

 

何も、すべてを極める必要はないのだ。

 

そして、もう一つ。

 

治癒魔術。

 

これは母さんが使っているところを見たことがある。怪我を治すための魔術だ。

 

もし自分で使えるようになれば、訓練で怪我をしたときに、誰かに手当てを頼む手間が減る。

 

もちろん、深い傷を簡単に治せるとは思っていない。失った血や体力が一瞬で戻るわけでもないだろう。

 

それでも、軽い怪我を自分で治せるだけで、ずいぶん便利になるはずだ。

 

治癒、水、火、風。

 

この四つを少しでも扱えるようになれば、剣術だけでは対応しづらい状況でも、選択肢が増える。

 

……あれ?

 

魔術って、思っていたより便利なのでは?

 

いや、待て。

 

便利だからといって、何でも覚えようとするのは危険だ。

 

覚えるには勉強が必要だし、練習にも時間がかかる。剣術の鍛錬だってある。鎧の手入れだって欠かせない。

 

これ以上、毎日の予定を詰め込むのは避けたい。

 

だが、最低限の魔術を覚えることで、将来の面倒を減らせるのなら。

 

今の努力で、未来の面倒を減らす。

 

これは悪くない考えだ。

 

決して魔術に夢中になったわけではない。

 

あくまで実用性を検討しているだけである。

 

そういうことにしておこう。

 

「アルベルト君は、魔術に興味があるのですか?」

 

ロキシーに尋ねられ、俺は少しだけ返答に迷った。

 

興味がないと言い切るのは、さすがに無理がある。

 

しかし、今すぐ習いたいかと聞かれれば、それも違う。

 

「生活に役立つものなら、少し興味があります」

 

「それはいいことだと思います。魔術は、使う目的を考えて学ぶことも大切ですから」

 

ロキシーは微笑んだ。

 

「ただ、最初から何もかも覚えようとする必要はありません。自分に必要なものから、少しずつ学んでいけばいいのです」

 

少しずつ。

 

実にいい言葉だ。

 

今すぐ全部を習得しろと言われたわけではない。

 

まずは剣術を続けながら、将来的に必要だと思った魔術を学べばいい。

 

治癒魔術は怪我への備え。

 

水魔術は手入れと生活の補助。

 

火魔術は野営や暖を取るため。

 

風魔術は暑さ対策や、状況に応じた補助。

 

どれも実用的だ。

 

……うん。魔術は、意外と悪くないかもしれない。

 

もちろん、勉強が楽しいという意味ではない。

 

将来の面倒を減らすための投資として、検討する価値があるという意味だ。

 

そういうことにしておこう。

 

◇

 

ロキシーとルーデウスが魔術の話を始めると、俺は少し離れたところから二人の様子を眺めた。

 

弟は目を輝かせ、ロキシーの話に耳を傾けている。

 

本当に魔術が好きなのだろう。

 

俺には、あそこまで夢中になれるものがあるわけではない。

 

強いて言うなら、鎧だ。

 

格好いい鎧を着て、剣を振るう。

 

それでいて、無駄な危険は避けたい。

 

理想を言えば、強敵と戦うことなく、十分な実力を身につけて、穏やかな生活を送ることだ。

 

……いや、そんな都合のいい話があるわけないか。

 

それでも目標は目標だ。

 

剣術を鍛える。

 

鎧を着る。

 

必要なら魔術も覚える。

 

できるだけ安全に強くなり、できるだけ面倒を減らす。

 

そして、できれば休みたい。

 

俺は静かに決意した。

 

その決意が、将来どれほどの修行を呼び込むことになるのか。

 

このときの俺は、まだ知らなかった。

 

……いや、本当に知らないままでいたかった。

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