無職転生 ~愚弟の兄は全身鎧の剣士~ 作:鎧の剣士
家庭教師。
その言葉を聞いて、俺の頭に真っ先に浮かんだ人物がいる。
ロキシー・ミグルディア。
前世の知識によれば、ルーデウスに魔術を教えることになる人物だ。
……いよいよ来るのか。
青い髪の魔族の少女。優秀な魔術師であり、ルーデウスの人生に大きな影響を与える存在。
もっとも、俺の知っている物語と今の世界が完全に同じとは限らない。何しろ、俺という長男が存在している時点で、すでに違いがある。
前世の知識は便利だが、未来を保証してくれる説明書ではない。
そこは忘れないようにしよう。
それにしても、家庭教師か。
ルーデウスには魔術の先生が来る。
俺は今までどおり、父さんから剣術を習う。
役割分担としては実に分かりやすい。
魔術の勉強まで始めたら、俺の自由時間が減ってしまう。剣術の鍛錬に鎧の手入れ、それだけでも十分に忙しいのだ。
よし。
俺は魔術を習わない。
今のところは。
◇
「アル、ルーデウス。ちょっといいかしら」
朝食のあと、母さんが俺たちを呼び止めた。
「ルーデウスに魔術を教えてくださる先生が見つかったの。もうすぐ、この家にいらっしゃるそうよ」
「本当ですか、お母さん!」
ルーデウスの顔が明るくなった。
独学で魔術を覚えてきた弟にとって、専門の先生に教わる機会は待ち遠しいものなのだろう。
「ええ。パウロも賛成してくれたわ」
「魔術の腕もかなり上がってきたからな。ちゃんとした先生に習えば、もっと伸びるだろう」
父さんも納得している様子だった。
俺が剣術を学び、ルーデウスが魔術を学ぶ。
父さんは俺に剣術を教え、ルーデウスには魔術の先生を招く。それぞれの適性に合わせて学ばせるというだけの話だ。
夫婦の意見が食い違っている様子もない。
平和だ。
家庭内の揉め事は、できる限り少ないほうがいい。
俺は心の中で静かにうなずいた。
「アルベルトは、先生に会ってみたい?」
母さんに尋ねられ、俺は少し考えた。
会ってみたいか、と言われれば、もちろん興味はある。
前世の知識に登場した人物が、目の前に現れるのだから。
ただし、興味があることと、自分も魔術を習いたいかどうかは別問題だ。
「ご挨拶はしたいです」
「そう。きちんと挨拶するのよ」
「はい」
よし。これで問題ない。
魔術の勉強を始める約束はしていない。
俺はあくまで、弟の先生に挨拶をするだけだ。
◇
家庭教師がやってきたのは、それから間もなくのことだった。
「初めまして。ロキシー・ミグルディアと申します。本日から、ルーデウス君に魔術を教えることになりました」
青い髪。
小柄な体格。
記憶の中にある姿とよく似ていた。
……本当に来た。
前世で知っていた人物が、今では自分の家に立っている。
不思議な気分だった。
しかし、目の前にいるのは物語の登場人物ではない。一人の人間だ。俺の知らない考えもあれば、俺が知らない経験だってある。
前世の知識があるからといって、相手のすべてを知っているつもりになるのは危険だろう。
「初めまして。アルベルト・グレイラットです。よろしくお願いします」
俺は礼儀正しく頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いします。アルベルト君は剣術を習っているそうですね」
「はい。父から教わっています」
「そうですか。剣術は身を守るためにも大切な技術ですね」
ロキシーは穏やかな口調で答えた。
「ですが、魔術も覚えておくと、いろいろな場面で役に立ちます。攻撃だけでなく、自分を守ったり、生活を便利にしたりすることにも使えますから」
生活を便利にする。
その言葉に、俺の意識が少しだけ引っかかった。
便利。
なんと素晴らしい響きだろう。
俺はすでに、ルーデウスの水魔術に助けられている。
鎧についた汚れを落としてもらえるのは非常にありがたい。布で何度も磨く手間が減るし、細かい部分の手入れも楽になる。
あれはいいものだ。
魔術を使えば、ほかにも面倒な作業を減らせるのではないだろうか。
「たとえば、どのような使い方があるのでしょうか?」
気がつけば、俺は質問していた。
ロキシーは少し考えてから答えた。
「魔術の種類や使う人の工夫によりますね。水や火を扱う魔術は、生活の助けにもなります。風魔術も、使い方次第でさまざまな場面に応用できますよ。ただし、魔術には練習が必要ですし、何でも簡単にできるわけではありません」
なるほど。
まず、水魔術。
これはすでに実績がある。
鎧の洗浄に使えるし、水を用意する助けにもなるかもしれない。使い方を工夫すれば、戦闘中に相手の動きを妨げることだって考えられる。
次に、火魔術。
火を起こせれば、旅先で暖を取るのも楽になる。野営で火を用意する手間も減るだろう。戦闘では牽制にも使えるかもしれない。
そして、風魔術。
……風か。
風を起こせるなら、暑い日に涼めるのではないだろうか。
鎧の中は蒸れる。夏場の訓練など、できることなら一日中休んでいたいくらいだ。鎧の中に風を通せれば、少しは快適になるかもしれない。
それだけではない。
砂埃を払ったり、煙を遠ざけたり。使い方によっては、相手の体勢を崩したり、飛んでくるものへの対処を助けたりできる可能性もある。
もちろん、どこまでできるかは実際に学んでみなければ分からない。
だが、使い道を考えるだけなら自由だ。
……いや、待て。
風魔術が使えれば、鎧の中を涼しくできる。
水魔術が使えれば、鎧の手入れが楽になる。
火魔術が使えれば、野営の準備が楽になる。
これ、もしかして魔術を覚えれば覚えるほど、生活が楽になるのでは?
素晴らしい。
実に素晴らしい発見だ。
ただし、覚えるための勉強と練習は必要になる。
つまり、将来を楽にするために、今の俺が苦労しなければならない。
(なんという理不尽な仕組みだ……!)
いや、落ち着け。
必要なものから、少しずつ覚えればいい。
何も、すべてを極める必要はないのだ。
そして、もう一つ。
治癒魔術。
これは母さんが使っているところを見たことがある。怪我を治すための魔術だ。
もし自分で使えるようになれば、訓練で怪我をしたときに、誰かに手当てを頼む手間が減る。
もちろん、深い傷を簡単に治せるとは思っていない。失った血や体力が一瞬で戻るわけでもないだろう。
それでも、軽い怪我を自分で治せるだけで、ずいぶん便利になるはずだ。
治癒、水、火、風。
この四つを少しでも扱えるようになれば、剣術だけでは対応しづらい状況でも、選択肢が増える。
……あれ?
魔術って、思っていたより便利なのでは?
いや、待て。
便利だからといって、何でも覚えようとするのは危険だ。
覚えるには勉強が必要だし、練習にも時間がかかる。剣術の鍛錬だってある。鎧の手入れだって欠かせない。
これ以上、毎日の予定を詰め込むのは避けたい。
だが、最低限の魔術を覚えることで、将来の面倒を減らせるのなら。
今の努力で、未来の面倒を減らす。
これは悪くない考えだ。
決して魔術に夢中になったわけではない。
あくまで実用性を検討しているだけである。
そういうことにしておこう。
「アルベルト君は、魔術に興味があるのですか?」
ロキシーに尋ねられ、俺は少しだけ返答に迷った。
興味がないと言い切るのは、さすがに無理がある。
しかし、今すぐ習いたいかと聞かれれば、それも違う。
「生活に役立つものなら、少し興味があります」
「それはいいことだと思います。魔術は、使う目的を考えて学ぶことも大切ですから」
ロキシーは微笑んだ。
「ただ、最初から何もかも覚えようとする必要はありません。自分に必要なものから、少しずつ学んでいけばいいのです」
少しずつ。
実にいい言葉だ。
今すぐ全部を習得しろと言われたわけではない。
まずは剣術を続けながら、将来的に必要だと思った魔術を学べばいい。
治癒魔術は怪我への備え。
水魔術は手入れと生活の補助。
火魔術は野営や暖を取るため。
風魔術は暑さ対策や、状況に応じた補助。
どれも実用的だ。
……うん。魔術は、意外と悪くないかもしれない。
もちろん、勉強が楽しいという意味ではない。
将来の面倒を減らすための投資として、検討する価値があるという意味だ。
そういうことにしておこう。
◇
ロキシーとルーデウスが魔術の話を始めると、俺は少し離れたところから二人の様子を眺めた。
弟は目を輝かせ、ロキシーの話に耳を傾けている。
本当に魔術が好きなのだろう。
俺には、あそこまで夢中になれるものがあるわけではない。
強いて言うなら、鎧だ。
格好いい鎧を着て、剣を振るう。
それでいて、無駄な危険は避けたい。
理想を言えば、強敵と戦うことなく、十分な実力を身につけて、穏やかな生活を送ることだ。
……いや、そんな都合のいい話があるわけないか。
それでも目標は目標だ。
剣術を鍛える。
鎧を着る。
必要なら魔術も覚える。
できるだけ安全に強くなり、できるだけ面倒を減らす。
そして、できれば休みたい。
俺は静かに決意した。
その決意が、将来どれほどの修行を呼び込むことになるのか。
このときの俺は、まだ知らなかった。
……いや、本当に知らないままでいたかった。