無職転生 ~愚弟の兄は全身鎧の剣士~ 作:鎧の剣士
朝の鍛錬を終えるころには、俺はすっかり疲れていた。
原因は分かっている。
パウロだ。
「今の動き、もう一度やってみろ」
「はい」
俺は木剣を構え直した。
鎧を着た状態で剣を振り、動きの癖を修正する。言われたことを意識して繰り返すうちに、最初は気づかなかった細かな違いが見えてくる。
剣を振り下ろすときの肩の位置。踏み込んだときの足の向き。振り終えたあとの重心。
どれも少し意識するだけで、動きやすさが変わった。
「そうだ。その感覚を忘れるな」
パウロが頷いた。
「今の動きを、あと百回だ」
……増えた。
いや、待て。
俺は今、動きを改善した。改善した結果、同じ動作を楽にできるようになった。つまり、俺の努力は確実に成果を上げている。
なのに、なぜ成果を上げるたびに仕事が増えるのだろう。
世の中の労働環境は、五歳児の剣術訓練にまで同じ問題を抱えているらしい。
「どうした?」
「いえ。勉強になります」
「ははは、いい心がけだ!」
違う。
俺は心がけを褒めてほしいのではない。そろそろ休憩を褒めてほしい。
しかし、ここで疲れた顔を見せれば、体力がついたと思われてさらに鍛錬を増やされる可能性がある。
俺は表情を変えず、木剣を構えた。
「次をお願いします」
「よし、気合が入っているな!」
違うんだ、父さん。
これは気合ではない。追加訓練を避けるための防衛本能だ。
だが、説明するのも面倒なので、俺は黙って剣を振った。
◇
午後。
俺はルーデウスの魔術の授業を見学していた。
もちろん、魔術を学ぶためではない。
弟がどんなことを教わっているのか、少し気になっただけだ。
それに、今後何かと魔術を頼る機会があるかもしれない。どんなことができて、何ができないのかを知っておくのは損ではない。
決して、自分も魔術を覚えたくなったわけではない。
……本当に、少し見学するだけだ。
「アルベルトさんも、授業に興味があるのですか?」
ロキシーが俺に尋ねた。
「弟が何を学んでいるのか、気になっただけです」
「なるほど。ご家族の勉強を見守るのも大切なことですね」
ロキシーは納得した様子で頷いた。
違う。
俺が気にしているのは、弟の成績よりも、将来的に魔術をどこまで便利に使えるかという点だ。
とはいえ、そんなことを正直に言う必要もない。
俺は大人しく部屋の隅に座った。
「では、ルーデウス。前に使った魔術を、もう一度見せてください」
「はい!」
ルーデウスは元気よく返事をした。
彼の手元に水が集まり、形を変える。
水の塊は以前にも見たことがある。だが、ロキシーはそれを見ただけで終わらせなかった。
「今の魔術では、何を意識しましたか?」
「水の形を保つことです」
「では、形を保つことに集中しすぎると、どうなりますか?」
「えっと……動かしにくくなる、とか?」
「実際に試してみましょう」
ロキシーは次々と条件を変え、ルーデウスに考えさせた。
水を大きくしたときと小さくしたとき。形を変えるとき。思ったとおりに動かなかったとき。
そのたびにルーデウスは試し、失敗し、考え、もう一度試した。
俺は黙ってそれを見ていた。
ルーデウスは魔術を使える。しかも、三歳児としてはかなり上手いらしい。
だが、使えることと、仕組みを理解していることは別なのだろう。
俺も剣術を教わっているから、それは少し分かる。
ただ剣を振るだけなら、繰り返せばそれなりに形になる。しかし、なぜその動きが必要なのか、どこに無駄があるのかを理解すれば、同じ練習でも得られるものが変わってくる。
……まあ、理解が深まった結果、追加訓練が発生する場合もあるのだが。
「うーん、なるほど……」
ルーデウスは水を消し、考え込んでいた。
「今まで何となくできていたことも、ちゃんと考えると分からないことがあるんですね」
「そうですね。魔術は、ただ使えるだけでなく、どうすれば思いどおりに扱えるのかを考えることも大切です」
ロキシーの言葉に、ルーデウスは真剣な顔で頷いた。
どうやら、いい先生に巡り合えたようだ。
俺が教えられることには限界がある。そもそも、俺は魔術を使えない。
弟が自分で学び、考え、成長していくのなら、それに越したことはない。
……そして、魔術が上達すれば、鎧の手入れを頼むときにも、もっと細かい注文ができるかもしれない。
いや、違う。
今のは兄として弟の成長を願っただけだ。
決して、将来の雑用効率を計算したわけではない。
「兄さん」
授業が一区切りついたところで、ルーデウスがこちらを向いた。
「どうした?」
「さっきから、何か考えてる?」
「いや。ロキシー先生の教え方は丁寧だなと思っていた」
「本当に?」
「本当だ」
半分は本当だ。
残り半分については、追及しないでほしい。
ルーデウスは少し疑わしそうな顔をしたが、すぐにロキシーへ向き直った。
「先生、もう一度やってみてもいいですか?」
「もちろんです」
授業が再開される。
俺はその様子を眺めながら、静かに息を吐いた。
魔術を覚えるのは大変そうだ。
覚えれば便利なのだろうが、学ぶ時間も必要になる。俺には剣術の鍛錬があり、鎧の手入れもある。そこに魔術の勉強まで加えれば、休む時間がさらに減る。
今すぐ始めるのは、やはり得策ではない。
必要になったときに考えよう。
俺はそう結論づけた。
この判断がいつまで通用するのかは、まだ分からない。
少なくとも、今日のところは問題ない。
◇
夜。
俺は鎧の手入れをしていた。
金属の表面を確かめ、汚れを落とし、傷や留め具に異常がないかを確認する。
昼間の鍛錬でついた細かな汚れを落としていると、ふと、午後に見たルーデウスの授業が頭に浮かんだ。
ロキシーは、ルーデウスがすでにできることについても、なぜできるのかを考えさせていた。
ただ成功したから終わり、ではない。
失敗したら原因を探し、次に試す。
剣術でも同じことを言われている。
俺は鎧の留め具を確かめながら、昼間の自分の動きを思い返した。
パウロに指摘された肩の位置。踏み込んだときの足。振り終えたあとの重心。
少しずつ直していけば、無駄な動きは減らせるはずだ。
無駄な動きが減れば、疲れにくくなる。
疲れにくくなれば、余計な休憩を取らずに済む。
……いや、待て。
今日の俺は、動きがよくなったせいで追加訓練を課されたのではなかったか。
この理屈でいくと、上達するほど鍛錬の量が増える可能性がある。
恐ろしい。
剣術の上達とは、終わりのない労働契約なのかもしれない。
俺は手入れを終えた鎧を置き、深く息を吐いた。
それでも、剣術を鍛えることは必要だ。
鎧を着て戦う以上、技術が足りなければ危険が増える。できるだけ安全に戦いたいなら、面倒だからといって必要な努力まで放り出すわけにはいかない。
そこは分かっている。
分かっているからこそ、必要なことだけを効率よく身につけたいのだ。
明日は今日より少しでも上手く動く。
そして、できれば追加訓練は避ける。
この二つを両立させる方法を、俺は真剣に考えることにした。
……まずは、明日の鍛錬を乗り切ってから。
俺は鎧を所定の場所に置き、寝床へ向かった。
明日も、いつもどおりの一日になるだろう。
せめて、百回が二百回に増えないことを祈っておこう。