第1話 第零位の日常
七月十九日。
夏休みを目前に控えた学園都市は、朝からうんざりするほどの暑さに包まれていた。
学生たちが行き交う大通り。
自動運転の清掃ロボットが歩道を走り、街頭の大型ディスプレイには最新の能力開発技術に関するニュースが流れている。
科学技術が外の世界より二、三十年進んでいるとされるこの街では、そんな光景もごくありふれた日常の一部だった。
もっとも。
「……暑い」
久遠零司にとっては、科学技術の発展など今この瞬間に限ってはどうでもよかった。
黒髪にわずかに銀色の混じった少年は、気だるそうに空を見上げる。
十六歳。
整った顔立ちに、どこか眠たげな瞳。
制服の上着を片手に引っ掛け、もう片方の手で携帯端末を操作する姿は、どこにでもいる男子高校生そのものだった。
「気温三十四度……。いや、もう少しあるんじゃない?」
端末に表示された数字を眺め、零司は小さくため息をつく。
周囲の空気を操作して温度を下げることは難しくない。
それどころか、街全体を真冬のような気温に変えることさえ、彼にとっては不可能ではなかった。
しかし、そんなことをすれば面倒な騒ぎになる。
何より、たかが暑さをしのぐためにそこまでする気にもなれない。
「アイスでも買おうかな」
ちょうど近くにコンビニエンスストアがあった。
期間限定のラムネ味アイス。
昨日見かけたときには売り切れていたが、今日は入荷しているかもしれない。
そんなことを考えながら歩いていた零司は、不意に足を止めた。
「……あれ?」
視線を横へ向ける。
大通りから一本外れた、薄暗い路地。
そこに三人の男が立っていた。
いずれも学生には見えない。
黒い服装に、周囲を警戒するような視線。
そして、明らかにこちらを待っていたかのような立ち位置。
「君たち、僕に用事?」
零司が声を掛けると、男たちの一人がわずかに表情を変えた。
「久遠零司だな?」
「そうだけど」
「少し付き合ってもらう」
「えー……」
零司は露骨に嫌そうな顔をした。
「今からアイス買いに行くところなんだけど」
「黙ってついて来い」
「それ、アイスより大事な用事?」
男は答えなかった。
代わりに、懐から拳銃を取り出した。
残る二人も、それぞれ武器を構える。
周囲に一般人の姿はない。
どうやら、あらかじめ人通りの少ない場所を選んでいたらしい。
零司は拳銃を見つめた。
それから、男の顔へ視線を戻す。
「……本物?」
「動くな」
「いや、そうじゃなくてさ」
零司は困ったように首を傾げる。
「僕、まだ何もしてないよ?」
「こちらの指示に従えば危害は加えない」
「ふうん」
少年は少し考え込んだ。
逃げることは簡単だ。
無視して通り過ぎることもできる。
そもそも、この程度の相手に危険を感じる理由がない。
だが。
わざわざ武装した人間を三人も送り込んでくる相手が、いったい何を考えているのか。
それには少し興味があった。
「じゃあ、一つ質問」
零司が人差し指を立てる。
「君たち、誰に雇われたの?」
「答える必要はない」
「そっか」
少年は笑った。
「なら、こっちも遠慮しなくていいね」
次の瞬間。
乾いた銃声が路地に響いた。
男が引き金を引いたのだ。
放たれた弾丸は、一直線に零司の胸元へ向かい――。
止まった。
「…………は?」
男の口から、間の抜けた声が漏れる。
弾丸は少年の胸に届く寸前、空中で静止していた。
何かに衝突したわけではない。
見えない壁に弾かれたわけでもない。
ただ、そこに留まっている。
まるで、最初からそういう物体であったかのように。
「へえ、実弾なんだ」
零司は目の前の弾丸をつまみ上げた。
指先で軽く転がす。
「学園都市の治安、大丈夫かな」
「な、何を……!」
「それ、こっちの台詞なんだけど」
零司は弾丸を指で弾いた。
金属音を立てて、それが地面に落ちる。
「いきなり撃つのはひどくない?」
「能力者か……!」
一人が叫んだ。
別の男が懐から端末を取り出そうとする。
だが、その手は途中で止まった。
否。
止められた。
「動かない方がいいよ」
零司の声は、先ほどと何も変わらない。
「別に痛いことする気はないけど、抵抗されると面倒だから」
男たちの周囲で、何かが変わっていた。
空気の流れ。
重力の方向。
物体が運動を始めるための条件。
普段であれば意識することさえない物理現象が、何者かの意思によって組み替えられている。
三人は立ったまま、一歩も動けなくなっていた。
「超能力……いや、何だこれは……!」
「秘密」
零司は笑って答えた。
「で、誰に雇われたの?」
男たちは答えない。
その沈黙に、零司は小さく肩をすくめた。
「まあ、いいか」
次の瞬間、三人の身体を拘束していた力が消失する。
男たちは一斉に膝をついた。
その手から武器が落ちる。
「帰っていいよ」
「……何?」
「だから、帰っていいって」
零司は路地の出口へ向き直った。
「次はもうちょっと面白い人を連れてきてね」
それだけ告げると、少年は何事もなかったように歩き始めた。
背後の男たちが、呆然とその姿を見送る。
彼らは知らなかった。
自分たちが今、どれほど異常な存在を相手にしていたのかを。
そして零司自身も、そんなことを説明するつもりはなかった。
「……あ」
路地を抜けたところで、少年が声を漏らす。
携帯端末の時刻表示。
そこには、登校時刻まで残りわずかであることが示されていた。
「アイス、買えなくなったじゃん」
零司は心底残念そうにため息をついた。
つい数分前まで銃口を向けられていたことなど、すでにどうでもよくなっているらしい。
「……今日は運が悪いなあ」
その呟きだけが、朝の雑踏に溶けて消えた。
◇
学園都市には、七人の超能力者が存在する。
能力開発を受けた学生たちの頂点。
最高位の能力強度、レベル5。
第一位、一方通行。
第二位、未元物質。
第三位、超電磁砲。
その存在は、学園都市に暮らす学生であれば誰もが一度は耳にするものだった。
だが、久遠零司の名前はその序列に存在しない。
当然である。
彼は、公式には超能力者ですらないのだから。
「久遠!」
「んー?」
「また寝てたのか!」
教室に教師の怒声が響いた。
零司は机に突っ伏したまま、ゆっくりと顔を上げる。
「……寝てないよ」
「よだれを拭いてから言え!」
「え、嘘」
零司が慌てて口元を拭う。
何もついていない。
教室のあちこちから笑い声が上がった。
「……先生、騙したね?」
「授業中に寝ている方が悪い!」
「なるほど。確かに」
零司は妙に納得した様子で頷いた。
教師はこめかみを押さえる。
この少年は、いつもこうだった。
授業態度は決して良くない。
課題は提出するが、必要最低限。
小テストでは平均点前後の成績を取る。
遅刻も欠席もそれほど多くはないが、どこか掴みどころがない。
何より、本人に向上心というものがまるで感じられなかった。
「久遠。明日から夏休みだからといって気を抜くなよ」
「はーい」
「返事だけは良いんだがな……」
教師のぼやきを聞き流しながら、零司は再び窓の外へ視線を向けた。
青空。
遠くに見える研究施設のビル群。
頭上を通過する無人飛行機。
この街は、今日も平和そうだった。
少なくとも、表向きは。
「なあ、久遠」
隣の席の男子生徒が、小声で話しかけてきた。
「お前、夏休みどうすんの?」
「特に決めてない」
「旅行とか行かねえの?」
「暑いし、面倒くさい」
「お前って本当にやる気ないよな」
「人生、頑張りすぎると疲れるよ?」
「まだ十六歳だろ、お前」
「十六年も生きれば十分分かることだよ」
零司は涼しい顔で答える。
男子生徒は呆れたように笑った。
「そういや、お前って能力レベルいくつだっけ?」
「ゼロ」
「だよな。俺もだけどさ」
男子生徒は苦笑する。
「せっかく学園都市にいるんだから、一度くらいレベル3とかになってみたいよなあ」
「そう?」
「そうだよ! 能力が使えれば色々便利だろ?」
「うーん……」
零司は少し考えた。
自分の周囲に存在する物理現象を操作する。
それがどれほど簡単なことか、彼はよく知っている。
しかし。
「便利なことばっかりじゃないと思うけどね」
「何で?」
「できることが増えると、面倒なお願いも増えるから」
「何だよ、それ。能力者みたいな言い方だな」
「あはは。そうかもね」
零司は笑った。
能力測定において、彼が示す数値は常にレベル0。
正式な記録でも、一般の学生が閲覧できる情報でも、それは変わらない。
もちろん、測定機器が彼の能力を正確に評価したことなど一度もない。
だが、それを知る人間は極めて少数だった。
本人もわざわざ訂正しようとは思わない。
強さを証明することに興味がないからだ。
誰が一番強いのか。
誰が優れているのか。
誰が学園都市の頂点なのか。
そんなものは、他人が好きに決めればいい。
少なくとも零司にとっては、今日の昼食を何にするかという問題の方がよほど重要だった。
「……お腹空いた」
「お前、さっきからそればっかりだな」
「朝ご飯、食べ損ねたんだよね」
正確には、食べ損ねたというより、邪魔をされたのだが。
その説明をする気にはなれなかった。
◇
放課後。
零司は第七学区の大通りを歩いていた。
夏休みを目前にした学生たちの表情は明るい。
友人同士で遊びの予定を立てる者。
補習が決まって落ち込む者。
能力開発の追加講習について話し合う者。
様々な声が行き交う。
そんな中、零司はようやく念願のアイスを手にしていた。
「んー。やっぱりこれだね」
ラムネ味の冷たい甘さが口の中に広がる。
朝から続いていた不機嫌が、少しだけ解消された。
そのとき。
ポケットの中で携帯端末が振動した。
「……ん?」
画面には、見覚えのない送信者が表示されていた。
いや。
正確には、送信者の情報そのものが存在しない。
普通の端末なら、迷惑メッセージとして処理されてもおかしくない通信だった。
「へえ」
零司の口元がわずかに緩む。
メッセージを開く。
『本日午前の接触について、まずは謝罪させていただきます』
「……ああ、あれか」
朝の路地裏。
拳銃を持った三人組。
どうやら、あの男たちの雇い主らしい。
『あなたの能力を確認するためとはいえ、無礼な手段を取ったことをお詫びします』
「確認、ねえ」
零司はアイスを一口かじった。
続く文章を読む。
『改めて、正式に依頼を申し込みたいと考えています』
『報酬については、あなたの希望を可能な限り優先いたします』
『詳しい内容については、直接お話しできれば幸いです』
文章の最後には、一つの名前が記されていた。
丹羽宗一郎。
学園都市内の研究機関に所属する研究者。
零司にとって、特別な意味を持つ名前ではなかった。
もっとも、この街には研究者など腐るほどいる。
全員を覚えているわけでもない。
「研究者かあ……」
零司は少しだけ考えた。
どうせ面倒な仕事だろう。
能力実験。
兵器開発。
特殊な物質の解析。
それとも、表には出せない研究の後始末か。
これまでにも、似たような依頼は何度か受けたことがあった。
もっとも、依頼人が満足する結果になったとは限らない。
途中で飽きて帰ったこともあれば、気に入らないという理由で依頼そのものを潰したこともある。
反対に、面白いと感じれば、報酬など忘れて何日も付き合ったことさえあった。
零司の行動基準は、いつだって単純だ。
面白いか。
面白くないか。
それだけだった。
端末を操作し、返信を入力する。
『内容次第かな』
送信。
数秒後、返信が届いた。
『逃亡した被験者の回収をお願いしたいのです』
零司の指が止まった。
「……被験者?」
『研究施設から実験対象が脱走しました』
『対象は少女です。現在、学園都市内に潜伏していると推測されています』
『警備部門への正式な捜索依頼は出していません』
それを読んだ零司は、小さく笑った。
「なるほどね」
警備員や風紀委員に頼めない事情がある。
つまり、表沙汰にできない研究ということだ。
それも、相手は少女。
事情によっては、なかなか後味の悪い話になりそうだった。
『回収後、対象を施設へ返還していただければ依頼完了です』
『生死については問いませんが、可能であれば生存状態での回収を希望します』
「……ふうん」
零司の目が、わずかに細くなる。
生死は問わない。
少女を回収する仕事にしては、随分と物騒な条件だった。
おそらく、研究施設ではまともな実験など行われていないのだろう。
捕まれば、少女がどうなるのかも容易に想像できる。
普通なら、ここで依頼を拒絶する。
正義感の強い人間であれば、むしろ少女を助けようとするかもしれない。
だが。
「……で?」
零司は呟いた。
「僕に何を期待してるんだろうね」
少年の表情から、先ほどまでの眠たげな雰囲気が消えていた。
そこにあるのは、純粋な興味。
知らない玩具を見つけた子供のような、無邪気な好奇心だった。
逃げ出した少女。
秘密の研究施設。
武装した人間を送り込んでまで接触してきた研究者。
そして、依頼の成否を問わず、その存在を公にはできない仕事。
なるほど。
少なくとも、退屈しのぎにはなりそうだ。
零司は返信を打ち込んだ。
『その子、何をしたの?』
しばらく間が空いた。
『詳細については機密事項となります』
『ですが、通常の能力者とは異なる特性を持った被験者です』
『研究を継続するため、どうしても回収する必要があります』
零司は眉を上げた。
「通常とは異なる、か」
学園都市の研究者という生き物は、実に面白い。
未知のものを見つければ、解剖してでも正体を知ろうとする。
理解できない現象があれば、何度でも実験を繰り返す。
人の命を数字に変えることさえ、研究という言葉で正当化してしまう者がいる。
零司は、そんな研究者たちを特別嫌っているわけではなかった。
もちろん、好いているわけでもない。
ただ。
そこまでして何かを知ろうとする執念には、少しだけ興味があった。
『最後に一つ』
零司は新たな文章を入力する。
『その子、どうして逃げたの?』
今度は、すぐに返事が来なかった。
三十秒。
一分。
やがて画面に短い文章が表示される。
『実験への協力を拒否したためです』
「……へえ」
少年が笑った。
今度は、少し楽しそうに。
「自分で逃げたんだ」
研究施設から逃亡した少女。
武装した警備員や監視設備を突破し、今もどこかで追跡から逃れている。
しかも、実験への協力を自ら拒否したという。
ただ保護されるのを待っているわけではない。
自分の意思で、研究者に逆らっているのだ。
「面白そうじゃん」
零司は端末を操作した。
『いいよ。引き受ける』
送信。
すぐに依頼人から返信が届く。
『ありがとうございます』
『では、対象の詳細資料と推定位置情報を送信いたします』
直後、暗号化されたファイルが端末へ転送されてきた。
零司はそれを開く。
表示されたのは、一人の少女の情報だった。
氏名欄は空白。
年齢は推定値のみ。
顔写真には、表情の乏しい少女が写っている。
その下に記された識別情報。
《被験体番号:N-13》
《状態:逃亡中》
《回収優先度:最高》
零司はしばらく画面を眺めていた。
少女の写真。
研究記録。
機械的に並べられた数字。
そこには、一人の人間としての名前さえ記されていなかった。
「N-13、ねえ……」
零司は呟く。
「名前くらいつけてあげればいいのに」
もっとも、それは彼にとって研究施設を敵に回す理由にはならなかった。
今のところは。
端末を閉じ、残っていたアイスを食べ終える。
空になった容器を近くのゴミ箱へ放り込んだ。
「さて、と」
少年は軽く伸びをした。
科学の街。
学園都市。
能力者たちが日々、自らの能力を高めようと努力する場所。
表向きは学生たちの未来を育む、世界最高峰の研究都市。
だが、その裏側には数え切れないほどの秘密が眠っている。
違法な研究。
隠蔽された事故。
存在を抹消された実験体。
そして、表の世界には決して姿を見せない者たち。
久遠零司は、そのすべてを正そうなどとは思っていなかった。
この街に正義が必要だとも、悪を滅ぼすべきだとも考えていない。
誰かを助けたいと思えば助ける。
誰かの敵になりたいと思えば敵になる。
それだけのことだ。
「まあ、今日は悪い人の味方ってことで」
何でもないことのように、少年は笑った。
そして歩き出す。
向かう先は、研究施設から逃亡した一人の少女が隠れているとされる区域。
少女が何を望んでいるのか。
研究者が何を隠しているのか。
そして、この依頼がどのような結末を迎えるのか。
その答えは、まだ誰にも分からない。
ただ一つ、確かなことがあるとすれば。
この日、学園都市の裏側で動き始めた小さな事件は、やがて多くの人間の運命を変えることになる。
そして、その中心に立つ少年は。
そんな未来など、少しも気にしていなかった。
「……あ、そうだ」
零司がふと足を止める。
携帯端末を取り出し、研究者へ追加のメッセージを送った。
『報酬なんだけどさ』
『今日食べ損ねたアイス代も追加してくれる?』
数秒後。
『……承知しました』
「あはは。話の分かる人だね」
零司は満足そうに頷いた。
そして、今度こそ歩き始めた。
学園都市に七人しか存在しないとされる超能力者。
その頂点に君臨する第一位の名は、一方通行。
だが、学園都市の奥深く。
通常の学生名簿にも、能力者の公式序列にも記されていない、もう一つの識別番号が存在していた。
その番号を知る者は、ごくわずか。
そして知る者の多くが、決してその存在を刺激しようとはしない。
なぜなら。
その少年が何をするのかは、誰にも分からないからだ。
識別番号《ZERO》。
――これは、後に科学と魔術の双方を巻き込むことになる、気まぐれな少年の物語。
その始まりは、あまりにも些細な出来事だった。