「……帰りたい」
「まだ着いたばっかりだよ?」
「……知ってる」
七月二十三日、午後一時過ぎ。
学園都市の某研究施設。
その正面玄関を前に、長い青緑色の髪を持つ少女は立ち尽くしていた。
被験体番号、N-13。
かつて自分が実験体として扱われていた場所。
白い壁。
無機質な建物。
出入りする研究員たち。
そのすべてが、嫌な記憶を呼び起こす。
「……ねえ、零司」
「ん?」
「……本当に、入るの?」
「君が行くって言ったんじゃん」
「……そうだけど」
少女は唇を噛んだ。
昨日、自分で決めた。
消えた少女――N-12の行方を調べる。
そのために、丹羽宗一郎と直接話す。
怖いからといって、逃げるわけにはいかない。
しかし。
「……やっぱり、怖い」
ぽつりと本音が漏れた。
隣に立つ久遠零司は、しばらく少女を眺めていた。
そして。
「じゃあ、帰る?」
「……え?」
「無理して入らなくてもいいよ」
あっさりと告げる。
「僕は別に、丹羽さんと話したいことないし」
「…………」
少女は目を瞬かせた。
零司は笑う。
「決めるのは君でしょ?」
その言葉に、少女は俯いた。
研究施設にいた頃なら。
自分がどうしたいかなど、聞かれることはなかった。
実験を受ける。
検査を受ける。
決められた場所へ移動する。
拒否するという選択肢は存在しなかった。
だが、今は違う。
「……行く」
少女は顔を上げた。
「……ちゃんと、聞きたいから」
「そっか」
零司は頷いた。
「じゃ、行こっか」
少年が歩き始める。
少女は深く息を吸い、その後を追った。
◇
「お待ちしておりました」
研究施設の第三応接室。
丹羽宗一郎は、いつもどおり丁寧な態度で二人を迎えた。
「久遠様。そして、N-13」
その番号を聞いた瞬間、少女の肩が強張る。
丹羽は気づいていないのか、そのまま言葉を続けた。
「お元気そうで何よりです」
「……あなたに、心配されたくない」
少女が低い声で答える。
丹羽は一瞬だけ目を瞬かせた。
しかし、すぐに穏やかな笑みを浮かべる。
「これは失礼しました」
「丹羽さん」
零司が口を挟んだ。
「挨拶はいいから、本題に入ろうよ」
「……承知しました」
丹羽は頷いた。
そして、テーブルの上に一枚の端末を置く。
「昨日ご連絡した、N-12についてです」
少女の表情が変わった。
「……知ってるの?」
「もちろんです」
丹羽は当然のように答えた。
「当研究施設で管理していた被験者ですから」
「……どこにいるの?」
少女は身を乗り出した。
「……あの子、今どこにいるの!?」
「落ち着きなさい」
「……答えて!」
丹羽の表情が、わずかに曇った。
その瞬間。
「丹羽さん」
零司が静かに言った。
「質問に答えてあげなよ」
声は穏やかだった。
だが、丹羽の背筋に冷たいものが走った。
「……失礼しました」
眼鏡の位置を直す。
「結論から申し上げます」
丹羽は端末を操作した。
「N-12は、すでに当施設の管理下にはありません」
「…………」
「七月十二日付で、別の研究機関への移送処理が行われています」
少女の目が見開かれた。
「……移送?」
「ええ」
「……死んだんじゃ、ないの?」
「死亡という記録は存在しません」
少女の呼吸が止まった。
死亡記録がない。
それは、生きているという証拠ではない。
しかし。
少なくとも、研究施設の記録上では。
あの少女は処分されたのではなく、別の場所へ移されたことになっている。
「……じゃあ」
少女の声が震える。
「……生きてる、かもしれないの……?」
「その可能性は否定できません」
丹羽は答えた。
「ただし、現在の所在までは確認できていません」
少女は唇を噛んだ。
生きているかもしれない。
その言葉だけで、胸の奥が熱くなる。
だが。
「……どうして」
ゆっくりと顔を上げる。
「……どうして、わたしには教えてくれなかったの?」
「必要がなかったからです」
丹羽は、迷いなく答えた。
「…………」
「被験者同士に、他者の移送情報を開示する義務はありませんので」
少女の拳が震えた。
そんな理由で。
ただ、必要がなかったから。
自分は、あの子が死んだと思い込んでいた。
「……っ!」
少女が立ち上がりかけた、そのとき。
「それで?」
零司が口を開いた。
「移送先は?」
「……それが」
丹羽の表情が曇る。
「現在、照会できない状態になっておりまして」
「照会できない?」
「はい。移送処理そのものは確認できます。しかし、引き渡し先の情報が上位権限によって制限されているのです」
「ふうん」
零司は画面を覗き込んだ。
《被験体識別番号:N-12》
《移送処理日:七月十二日》
《移送区分:外部研究機関》
《引渡先:閲覧権限なし》
《受領確認:未照合》
零司の視線が、最後の項目で止まった。
「……あれ?」
「何か?」
「受領確認、取れてないんだ」
丹羽が頷く。
「ええ。当施設側の記録には、引き渡し先での受領を確認できる情報が残されていません」
「じゃあ、向こうに着いたかどうかも分からないんだね」
「……そのとおりです」
零司は小さく笑った。
「随分と雑な管理だねぇ」
丹羽の眉が動いた。
しかし、反論はしなかった。
◇
「……一つ、聞きたい」
少女が口を開いた。
丹羽が顔を向ける。
「何でしょう」
「……あの子が、いなくなった日」
少女は、ゆっくりと言葉を続けた。
「……研究所の人は、もう使えないって言ってた」
丹羽は黙っている。
「……なのに、どうして別の場所に送ったの?」
「…………」
「……使えないなら、何のために?」
丹羽は、少し考えた。
「研究価値というものは、必ずしも一つではありません」
「……どういうこと?」
「ある研究に適さない被験者でも、別の研究では有用である可能性があります」
淡々とした説明。
「当施設における研究対象としての適性を失っても、他施設での利用価値まで失われたとは限らないのです」
「……利用価値」
少女が、小さく繰り返した。
それが。
あの子を別の施設へ送った理由。
人間ではなく、研究に使えるかどうか。
結局、何も変わっていなかった。
「……もう、いい」
少女は俯いた。
「……あなたに聞いても、同じ答えしか返ってこない」
丹羽は不思議そうに眉をひそめた。
「私は事実を説明しているだけですが」
「……だから、嫌なの」
少女が顔を上げる。
その瞳には、恐怖とは違う光が宿っていた。
「……あの子は、物じゃない」
「…………」
「……わたしも」
丹羽は黙り込んだ。
零司は、二人のやり取りを眺めていた。
そして、少しだけ口元を緩める。
「へえ」
少女が零司を睨んだ。
「……何?」
「いや、ちゃんと言えたなって」
「……茶化さないで」
「茶化してないよ」
零司は笑った。
「前なら、丹羽さんの顔を見るだけで固まってたでしょ?」
「…………」
少女は、返す言葉を失った。
確かに。
まだ怖い。
今も、手は震えている。
それでも。
自分の意思で、丹羽に言葉を返した。
それだけは、事実だった。
◇
「それで、丹羽さん」
零司が話題を変えた。
「昨日、わざわざ僕に連絡してきた理由は?」
「……はい」
丹羽は姿勢を正した。
「実は、N-12に関連する通信記録について、不可解な点が確認されまして」
「通信記録?」
少女が顔を上げる。
「……あのメッセージ?」
「おや」
丹羽の表情が変わった。
「何かご存じなのですか?」
少女は一瞬、口を閉ざした。
零司は何も言わない。
説明するかどうか。
それを決めるのは、少女自身だった。
「……わたし」
少しの沈黙の後、少女が口を開いた。
「……逃げる前に、メッセージを受け取った」
丹羽の目が細くなる。
「……どのような?」
「……外へ出ろって」
少女は続けた。
「……必ず迎えに行くって」
「…………」
丹羽の表情から、笑みが消えた。
「……なるほど」
小さく呟く。
「それで、研究施設から逃亡したのですね」
「……うん」
「送信者は?」
「……分からない」
丹羽はしばらく考え込んだ。
それから、端末の画面を切り替える。
《通信経路異常》
《発生日:七月十九日》
《関連識別:N-12》
《送信者情報:欠落》
「……こちらをご覧ください」
少女が身を乗り出す。
「……これ」
見覚えのある文字列。
N-12。
昨日、修理店で確認したものと同じだった。
「……やっぱり」
少女が呟く。
丹羽は頷いた。
「施設側の記録にも、同様の識別番号が残されていました」
「……だったら!」
少女は勢いよく顔を上げた。
「……あの子が、送ったんじゃ……!」
「可能性はあります」
丹羽は答えた。
「ですが、断定はできません」
「……どうして?」
「N-12に割り当てられていた管理識別情報を、第三者が利用した可能性もあるからです」
「…………」
「現時点で判明しているのは、通信にその識別情報が使用されたという事実だけです」
少女は俯いた。
期待した。
あの子が生きていて。
自分を逃がそうとしてくれたのだと。
そう思いたかった。
しかし、証拠はまだ足りなかった。
「……じゃあ」
小さく呟く。
「……どうすれば、分かるの?」
丹羽は答えなかった。
代わりに、零司へ視線を向ける。
「……久遠様」
「ん?」
「一つ、お願いがございます」
その瞬間。
零司の笑みが、少しだけ深くなった。
「……何?」
「N-13が受信した端末を、調査のためにお預かりできないでしょうか」
「ふうん」
零司は少女を見る。
「どうする?」
少女は即答した。
「……嫌」
丹羽が眉をひそめる。
「ですが、調査のためには――」
「……渡さない」
少女は、はっきりと言った。
「……また、消されるかもしれないから」
丹羽の表情が変わる。
「……消される?」
「……昨日、記録が消されたの」
少女は説明した。
修理店で端末を解析していたこと。
外部から制御要求が送られてきたこと。
そして、直後に端末を狙う男たちが現れたこと。
話を聞き終えた丹羽は、深く息を吐いた。
「……それは、初耳です」
「丹羽さんのところじゃないの?」
零司が尋ねる。
「違います」
丹羽は即答した。
「少なくとも、私が指示したものではありません」
「そっか」
零司は頷いた。
それ以上、追及しなかった。
嘘かもしれない。
本当かもしれない。
ただ、今ここで無理に問い詰めるほどの興味はなかった。
しかし。
「……なら」
少女が口を開いた。
「……その記録、わたしにも見せて」
丹羽が顔を上げる。
「何ですって?」
「……N-12の、移送記録」
少女は、真っ直ぐに丹羽を見つめた。
「……見せてほしい」
「……機密情報です」
「……わたしには、関係ある」
「それとこれとは――」
「丹羽さん」
零司が、静かに声を掛けた。
「見せてあげれば?」
「……久遠様」
「別に、減るものじゃないでしょ」
丹羽は苦い表情を浮かべた。
そして、数秒ほど考えた後。
「……分かりました」
端末を操作する。
「閲覧可能な範囲に限りますが」
画面に、移送関連の詳細情報が表示された。
◇
《被験体識別番号:N-12》
《移送処理日:七月十二日》
《最終搬出区画:地下第二搬送口》
《移送車両:登録番号K-041》
《引渡先:閲覧権限なし》
《受領確認:未照合》
少女は、画面を見つめた。
知らない情報ばかりだった。
だが、一つだけ分かることがある。
あの子は、研究施設から連れ出されている。
少なくとも、書類上は。
「……これ、印刷して」
少女が言った。
丹羽は眉をひそめる。
「……何のために?」
「……自分で、調べるから」
「…………」
丹羽は、しばらく少女を見つめていた。
そして、零司へ視線を向ける。
零司は何も言わない。
ただ、椅子に深く腰掛けていた。
「……承知しました」
丹羽は小さく息を吐く。
印刷指示を出す。
部屋の隅に設置された小型プリンターが動き出した。
一枚の紙が排出される。
少女は、その紙を手に取った。
自分で調べる。
そのための、最初の手掛かり。
しかし。
次の瞬間。
室内に、甲高い警告音が響いた。
《警告》
《外部管理権限による接続》
《記録領域へのアクセスを検知》
「……何?」
丹羽が顔を上げる。
端末の画面が切り替わった。
《対象記録:N-12》
《管理情報の削除要求》
「なっ……!」
丹羽が慌てて操作する。
「何ですか、これは……!」
画面には、赤い警告表示が並んでいた。
N-12に関する一部の管理情報が、外部から削除されようとしている。
「……誰が!」
丹羽が別の端末へ手を伸ばす。
しかし。
《操作権限:拒否》
画面が暗転した。
同時に、応接室の扉から電子音が響く。
カチリ。
ロックが掛かった。
「……っ!」
少女が扉へ顔を向けた。
丹羽は、すぐに内線端末を操作する。
「警備室! 第三応接室です! 至急、管理系統の異常を――」
通信が途切れた。
丹羽の表情が凍りつく。
「……馬鹿な」
研究施設の内部管理権限。
それも、研究責任者である自分より上位の権限。
その何者かが、今この瞬間に情報を消そうとしている。
「……零司」
少女が、小さく声を掛けた。
「ん?」
少年は、まだ椅子に座っていた。
まるで、騒ぎを楽しんでいるかのように。
「……これ、どうなるの?」
「んー」
零司は画面を眺めた。
「たぶん、記録が消えるんじゃない?」
「……っ!」
少女は手元の紙を見た。
そして、素早く折り畳む。
服の内側へしまい込んだ。
端末の情報が消されても。
この紙だけは、絶対に渡さない。
その様子を見た零司が、小さく笑った。
「……へえ」
しかし。
次の瞬間。
天井の設備から、低い駆動音が響き始めた。
《緊急区画制御》
《室内安全設備:遠隔操作》
換気装置が停止する。
壁面の警告灯が赤く点滅した。
「……何をするつもりですか!」
丹羽が叫ぶ。
返答はない。
代わりに、室内の環境制御装置が異常な動作を始めた。
空調設備の風量が急激に変化する。
そして。
金属製の扉が、内側へ向かって軋んだ。
「……っ!」
少女は反射的に後ずさった。
研究施設。
閉じ込められた部屋。
自分の意思では、開けられない扉。
嫌な記憶が、脳裏を駆け巡る。
「……また……」
小さな声が漏れた。
「……また、閉じ込められる……!」
そのとき。
「ねえ、丹羽さん」
場違いなほど穏やかな声が響いた。
零司だった。
「……は、はい?」
「この施設、警備弱くない?」
「……今、それを言っている場合では――!」
「いやぁ」
零司は立ち上がった。
「昨日から、ずっと変な人たちに弄られてるみたいだし」
そして、扉へ歩み寄る。
「セキュリティ、見直した方がいいと思うよ?」
「……久遠様!」
丹羽が叫ぶ。
「不用意に触れては危険です!」
「大丈夫、大丈夫」
零司は軽く手を振った。
そして。
扉の前で、足を止める。
「……さて」
右手を伸ばした。
金属製の扉へ、指先を触れる。
次の瞬間。
ガコンッ。
重い音が響いた。
扉のロックが外れる。
電子的な解除ではない。
施錠機構を構成する部品の運動条件が、直接書き換えられたのだ。
さらに、零司は天井へ視線を向ける。
「……静かにしててね」
その一言。
直後。
換気装置の異常な駆動音が止まった。
警告灯の点滅も消える。
室内には、何事もなかったかのような静寂が戻っていた。
「…………」
丹羽は、呆然と立ち尽くしていた。
研究施設の内部管理システム。
複数の安全装置。
電子的な制御機構。
それらを、たった数秒で沈黙させた。
「……一体、何を……」
「ん?」
零司は振り返った。
「邪魔だったから止めただけだよ」
いつもの調子だった。
まるで、うるさい目覚まし時計を止めたかのように。
丹羽の額に、冷たい汗が浮かぶ。
これが。
学園都市の極秘識別番号、ZERO。
通常の能力測定では分類できない存在。
研究者として、その原理を知りたい。
だが。
それ以上に。
今、自分がこの少年と敵対していないことに、心の底から安堵していた。
◇
「……零司」
「ん?」
「……記録」
少女が端末を指差した。
画面は、すでに暗転していた。
N-12に関する情報。
少なくとも、この応接室から確認できた記録は失われていた。
「……消えた?」
「みたいだね」
零司は頷いた。
少女は、服の内側へ手を入れた。
折り畳んだ紙。
先ほど印刷した、移送記録。
「……でも」
少女は、ゆっくりとそれを取り出した。
「……これは、残った」
零司の目が細くなる。
「うん」
少女は、その紙を握りしめた。
まだ分からないことばかりだ。
N-12が本当に生きているのか。
誰がメッセージを送ったのか。
なぜ、研究施設の管理記録が消されたのか。
だが。
確かな手掛かりは、自分の手元に残っている。
「……これで、調べられる」
少女は小さく呟いた。
零司は、少しだけ笑った。
「よかったね」
「……うん」
少女は頷く。
そして、丹羽へ視線を向けた。
「……わたし、帰る」
丹羽が顔を上げた。
「……N-13」
「……もう、ここには戻らない」
少女は、はっきりと言った。
「……それから」
紙を胸元へ抱える。
「……あの子のことは、自分で調べる」
丹羽は、しばらく黙っていた。
そして。
「……そうですか」
小さく息を吐いた。
「ですが、注意してください」
「……何?」
「今回の件に関与している者が、どのような目的を持っているのか、私にも分かりません」
丹羽は眼鏡の位置を直す。
「あなたが調査を続ければ、再び狙われる可能性があります」
少女は、ゆっくりと頷いた。
「……分かってる」
声は震えていなかった。
「……でも、やめない」
零司は、その隣に立っていた。
そして、楽しそうに笑った。
「じゃあ、帰ろっか」
「……うん」
二人は、応接室を後にした。
丹羽は、その背中を見送る。
そして。
「……久遠様」
小さく呟いた。
零司が振り返る。
「ん?」
「……一つだけ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「いいよ」
丹羽は、少し迷った後。
「……あなたは、なぜそこまでN-13に関わるのですか?」
零司は首を傾げた。
そして。
「面白いから」
あっさりと答えた。
「…………」
「最初は、ただの逃げた実験体だったけどね」
零司は少女へ視線を向ける。
「最近、結構いい顔するようになったし」
少女が眉をひそめた。
「……何、それ」
「褒めてるんだよ?」
「……そう聞こえない」
零司は笑った。
それから、丹羽へ振り返る。
「それにさ」
「……はい」
「僕、まだ今回の依頼、結構気に入ってるんだ」
丹羽は瞬きをした。
「……どういう意味でしょうか」
「最初は、逃げた女の子を捕まえるだけの仕事だったでしょ?」
「ええ」
「でも、今は違う」
少年は、少しだけ笑みを深めた。
「その子を追ってる人がいて、消えた実験体がいて、記録を消そうとする誰かまでいる」
零司は軽く肩をすくめる。
「続きが気になるじゃん?」
丹羽は、何も言えなかった。
目の前の少年。
彼にとって、この事件は善悪の問題ではない。
正義のためでも。
研究のためでも。
誰かのためでもない。
ただ、自分が興味を持ったから関わっている。
それだけだった。
「……では」
丹羽は、最後に尋ねた。
「もし、我々の研究と対立することになった場合は?」
零司は、少し考えた。
そして。
「そのときの気分次第かな」
笑顔で答えた。
丹羽の背筋に、冷たいものが走った。
その答えが、どれほど恐ろしい意味を持つのか。
彼には、十分理解できた。
◇
同日、午後八時過ぎ。
学園都市。
窓のないビル。
都市の中心部に存在する、特異な建造物。
その内部には、赤い液体で満たされた巨大な生命維持装置が設置されていた。
そして。
その中に、一人の人間が浮かんでいる。
男にも、女にも。
大人にも、子供にも見える存在。
学園都市統括理事長。
アレイスター=クロウリー。
その眼前には、複数の情報が映し出されていた。
能力者の行動記録。
研究機関の動向。
そして、都市内で発生した異常事象。
その一つに、ある識別番号が表示されていた。
《ZERO》
久遠零司。
学園都市の公式序列には存在しない少年。
通常の能力分類に当てはめることのできない存在。
そして。
科学と魔術。
その双方に関わりを持つ、極めて特殊な人物。
画面が切り替わる。
《七月二十二日》
《第七学区地下商店街》
《接触記録》
《久遠零司》
《上条当麻》
映像には、二人の少年が映っていた。
握手を交わす場面。
そして、その直前に発生した局所的な能力干渉の消失。
アレイスターは、静かに映像を眺めていた。
「……接触したか」
感情の読み取れない声。
再生映像が停止する。
零司の右手。
そして、上条当麻の右手。
その二つが触れ合う直前の場面だった。
「幻想殺し」
アレイスターは、静かに呟いた。
異能を打ち消す右手。
この街において、極めて重要な意味を持つ存在。
そして。
その力に興味を示した、もう一人の少年。
久遠零司。
既存の能力序列では評価することのできない存在。
アレイスターにとっても、その行動を完全に予測することは容易ではなかった。
「……さて」
画面に、新しい情報が表示された。
《関連事象》
《被験体N-13》
《旧被験体N-12》
《管理記録への不正アクセス》
複数の事件。
一見、無関係に見える出来事。
しかし、そのいくつかに同じ少年の名前が現れていた。
久遠零司。
アレイスターは、しばらく表示を眺めていた。
そして。
「……好きに動くといい」
静かに告げた。
「ただし、どこまで自由でいられるかは別の話だ」
その言葉に答える者はいなかった。
ただ、生命維持装置の駆動音だけが響いていた。
◇
同日、午後九時過ぎ。
久遠零司の部屋。
「……ねえ」
「ん?」
少女が、テーブルの上の紙を見つめながら声を掛けた。
「……今日のこと」
「うん」
「……ありがとう」
零司の手が止まった。
「……お?」
少し意外そうに顔を上げる。
「珍しいね」
「……何が?」
「君からお礼言われるの」
少女は眉をひそめた。
「……別に」
小さく俯く。
「……助けてくれたから」
「そっか」
零司は笑った。
「どういたしまして」
少女は、再び紙を見下ろす。
N-12。
七月十二日。
地下第二搬送口。
移送車両K-041。
手掛かりは、それだけだった。
しかし。
何もなかった頃とは違う。
「……零司」
「ん?」
「……明日、調べに行きたい」
零司は首を傾げた。
「どこに?」
「……この車」
少女は、移送車両の登録番号を指差した。
「……どこへ行ったのか、調べたい」
「ふうん」
「……できると思う?」
零司は少し考えた。
「記録が残ってれば、何か分かるかもね」
「……うん」
「でも、簡単には見つからないかもしれないよ?」
「……分かってる」
少女は頷いた。
その瞳には、はっきりとした意思が宿っていた。
「……それでも、探す」
零司は、しばらく彼女を見つめていた。
そして。
「……いいね」
楽しそうに笑った。
「じゃあ、明日も出掛けよっか」
少女は、小さく頷いた。
そのときだった。
零司の携帯端末が振動した。
「……ん?」
画面を確認する。
見知らぬ送信元。
短いメッセージだった。
『久遠零司』
『N-12の件から手を引け』
零司の目が細くなる。
続いて、二通目。
『これ以上の干渉は許可されていない』
そして。
三通目。
『第零位であろうと、例外ではない』
「…………」
数秒の沈黙。
零司は、画面を見つめていた。
そして。
「……あはっ」
小さく笑った。
少女が顔を上げる。
「……どうしたの?」
「いや」
零司は、楽しそうに端末を持ち上げた。
「面白いこと言う人がいるなぁって」
「……何?」
「僕に、手を引けってさ」
少女の表情が強張る。
「……誰から?」
「知らない」
「……え?」
零司は笑った。
「でも、僕のことは知ってるみたい」
少年は、メッセージの最後の一文を眺めた。
第零位。
学園都市の公式記録には存在しない識別番号。
それを知る人間は、決して多くない。
少なくとも、普通の研究者や能力者が知るような情報ではなかった。
しかし。
目の前の送信者は、それを知っている。
そのうえで。
手を引けと命令してきた。
「……零司」
少女が、不安そうに声を掛ける。
「……どうするの?」
零司は、少し考えた。
それから。
「決まってるじゃん」
笑顔で答えた。
端末を操作する。
短い返信を入力。
『嫌だよ』
送信。
少女は目を見開いた。
「……それだけ!?」
「うん」
零司は頷いた。
「だって、まだ続きが気になるし」
「……でも、危ないんじゃ……」
「そうかもね」
少年は楽しそうに笑った。
「だから、面白いんじゃない?」
少女は、言葉を失った。
目の前の少年。
久遠零司。
彼は、何も恐れていないわけではない。
ただ。
自分の自由を、他人に決められることが嫌いなのだ。
そして。
誰かに命令されたというだけで。
その相手の思惑を、平然と踏みにじることができる。
それが。
学園都市の第零位。
久遠零司という少年だった。
その夜。
差出人不明の通信に、一通の返信が届いた。
わずか三文字。
『嫌だよ』
送り主が、その言葉をどう受け取ったのか。
零司は知らない。
そして。
知る必要もないと思っていた。
ただ一つ、確かなことがあった。
誰かが彼に命令した。
そして、彼は拒絶した。
その事実だけで。
学園都市の暗部に、新たな火種が生まれたのだった。