とある学園都市の第零位《ゼロナンバー》   作:右左右左右

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第10話 第零位

「……帰りたい」

 

「まだ着いたばっかりだよ?」

 

「……知ってる」

 

 七月二十三日、午後一時過ぎ。

 

 学園都市の某研究施設。

 

 その正面玄関を前に、長い青緑色の髪を持つ少女は立ち尽くしていた。

 

 被験体番号、N-13。

 

 かつて自分が実験体として扱われていた場所。

 

 白い壁。

 

 無機質な建物。

 

 出入りする研究員たち。

 

 そのすべてが、嫌な記憶を呼び起こす。

 

「……ねえ、零司」

 

「ん?」

 

「……本当に、入るの?」

 

「君が行くって言ったんじゃん」

 

「……そうだけど」

 

 少女は唇を噛んだ。

 

 昨日、自分で決めた。

 

 消えた少女――N-12の行方を調べる。

 

 そのために、丹羽宗一郎と直接話す。

 

 怖いからといって、逃げるわけにはいかない。

 

 しかし。

 

「……やっぱり、怖い」

 

 ぽつりと本音が漏れた。

 

 隣に立つ久遠零司は、しばらく少女を眺めていた。

 

 そして。

 

「じゃあ、帰る?」

 

「……え?」

 

「無理して入らなくてもいいよ」

 

 あっさりと告げる。

 

「僕は別に、丹羽さんと話したいことないし」

 

「…………」

 

 少女は目を瞬かせた。

 

 零司は笑う。

 

「決めるのは君でしょ?」

 

 その言葉に、少女は俯いた。

 

 研究施設にいた頃なら。

 

 自分がどうしたいかなど、聞かれることはなかった。

 

 実験を受ける。

 

 検査を受ける。

 

 決められた場所へ移動する。

 

 拒否するという選択肢は存在しなかった。

 

 だが、今は違う。

 

「……行く」

 

 少女は顔を上げた。

 

「……ちゃんと、聞きたいから」

 

「そっか」

 

 零司は頷いた。

 

「じゃ、行こっか」

 

 少年が歩き始める。

 

 少女は深く息を吸い、その後を追った。

 

     ◇

 

「お待ちしておりました」

 

 研究施設の第三応接室。

 

 丹羽宗一郎は、いつもどおり丁寧な態度で二人を迎えた。

 

「久遠様。そして、N-13」

 

 その番号を聞いた瞬間、少女の肩が強張る。

 

 丹羽は気づいていないのか、そのまま言葉を続けた。

 

「お元気そうで何よりです」

 

「……あなたに、心配されたくない」

 

 少女が低い声で答える。

 

 丹羽は一瞬だけ目を瞬かせた。

 

 しかし、すぐに穏やかな笑みを浮かべる。

 

「これは失礼しました」

 

「丹羽さん」

 

 零司が口を挟んだ。

 

「挨拶はいいから、本題に入ろうよ」

 

「……承知しました」

 

 丹羽は頷いた。

 

 そして、テーブルの上に一枚の端末を置く。

 

「昨日ご連絡した、N-12についてです」

 

 少女の表情が変わった。

 

「……知ってるの?」

 

「もちろんです」

 

 丹羽は当然のように答えた。

 

「当研究施設で管理していた被験者ですから」

 

「……どこにいるの?」

 

 少女は身を乗り出した。

 

「……あの子、今どこにいるの!?」

 

「落ち着きなさい」

 

「……答えて!」

 

 丹羽の表情が、わずかに曇った。

 

 その瞬間。

 

「丹羽さん」

 

 零司が静かに言った。

 

「質問に答えてあげなよ」

 

 声は穏やかだった。

 

 だが、丹羽の背筋に冷たいものが走った。

 

「……失礼しました」

 

 眼鏡の位置を直す。

 

「結論から申し上げます」

 

 丹羽は端末を操作した。

 

「N-12は、すでに当施設の管理下にはありません」

 

「…………」

 

「七月十二日付で、別の研究機関への移送処理が行われています」

 

 少女の目が見開かれた。

 

「……移送?」

 

「ええ」

 

「……死んだんじゃ、ないの?」

 

「死亡という記録は存在しません」

 

 少女の呼吸が止まった。

 

 死亡記録がない。

 

 それは、生きているという証拠ではない。

 

 しかし。

 

 少なくとも、研究施設の記録上では。

 

 あの少女は処分されたのではなく、別の場所へ移されたことになっている。

 

「……じゃあ」

 

 少女の声が震える。

 

「……生きてる、かもしれないの……?」

 

「その可能性は否定できません」

 

 丹羽は答えた。

 

「ただし、現在の所在までは確認できていません」

 

 少女は唇を噛んだ。

 

 生きているかもしれない。

 

 その言葉だけで、胸の奥が熱くなる。

 

 だが。

 

「……どうして」

 

 ゆっくりと顔を上げる。

 

「……どうして、わたしには教えてくれなかったの?」

 

「必要がなかったからです」

 

 丹羽は、迷いなく答えた。

 

「…………」

 

「被験者同士に、他者の移送情報を開示する義務はありませんので」

 

 少女の拳が震えた。

 

 そんな理由で。

 

 ただ、必要がなかったから。

 

 自分は、あの子が死んだと思い込んでいた。

 

「……っ!」

 

 少女が立ち上がりかけた、そのとき。

 

「それで?」

 

 零司が口を開いた。

 

「移送先は?」

 

「……それが」

 

 丹羽の表情が曇る。

 

「現在、照会できない状態になっておりまして」

 

「照会できない?」

 

「はい。移送処理そのものは確認できます。しかし、引き渡し先の情報が上位権限によって制限されているのです」

 

「ふうん」

 

 零司は画面を覗き込んだ。

 

《被験体識別番号:N-12》

 

《移送処理日:七月十二日》

 

《移送区分:外部研究機関》

 

《引渡先:閲覧権限なし》

 

《受領確認:未照合》

 

 零司の視線が、最後の項目で止まった。

 

「……あれ?」

 

「何か?」

 

「受領確認、取れてないんだ」

 

 丹羽が頷く。

 

「ええ。当施設側の記録には、引き渡し先での受領を確認できる情報が残されていません」

 

「じゃあ、向こうに着いたかどうかも分からないんだね」

 

「……そのとおりです」

 

 零司は小さく笑った。

 

「随分と雑な管理だねぇ」

 

 丹羽の眉が動いた。

 

 しかし、反論はしなかった。

 

     ◇

 

「……一つ、聞きたい」

 

 少女が口を開いた。

 

 丹羽が顔を向ける。

 

「何でしょう」

 

「……あの子が、いなくなった日」

 

 少女は、ゆっくりと言葉を続けた。

 

「……研究所の人は、もう使えないって言ってた」

 

 丹羽は黙っている。

 

「……なのに、どうして別の場所に送ったの?」

 

「…………」

 

「……使えないなら、何のために?」

 

 丹羽は、少し考えた。

 

「研究価値というものは、必ずしも一つではありません」

 

「……どういうこと?」

 

「ある研究に適さない被験者でも、別の研究では有用である可能性があります」

 

 淡々とした説明。

 

「当施設における研究対象としての適性を失っても、他施設での利用価値まで失われたとは限らないのです」

 

「……利用価値」

 

 少女が、小さく繰り返した。

 

 それが。

 

 あの子を別の施設へ送った理由。

 

 人間ではなく、研究に使えるかどうか。

 

 結局、何も変わっていなかった。

 

「……もう、いい」

 

 少女は俯いた。

 

「……あなたに聞いても、同じ答えしか返ってこない」

 

 丹羽は不思議そうに眉をひそめた。

 

「私は事実を説明しているだけですが」

 

「……だから、嫌なの」

 

 少女が顔を上げる。

 

 その瞳には、恐怖とは違う光が宿っていた。

 

「……あの子は、物じゃない」

 

「…………」

 

「……わたしも」

 

 丹羽は黙り込んだ。

 

 零司は、二人のやり取りを眺めていた。

 

 そして、少しだけ口元を緩める。

 

「へえ」

 

 少女が零司を睨んだ。

 

「……何?」

 

「いや、ちゃんと言えたなって」

 

「……茶化さないで」

 

「茶化してないよ」

 

 零司は笑った。

 

「前なら、丹羽さんの顔を見るだけで固まってたでしょ?」

 

「…………」

 

 少女は、返す言葉を失った。

 

 確かに。

 

 まだ怖い。

 

 今も、手は震えている。

 

 それでも。

 

 自分の意思で、丹羽に言葉を返した。

 

 それだけは、事実だった。

 

     ◇

 

「それで、丹羽さん」

 

 零司が話題を変えた。

 

「昨日、わざわざ僕に連絡してきた理由は?」

 

「……はい」

 

 丹羽は姿勢を正した。

 

「実は、N-12に関連する通信記録について、不可解な点が確認されまして」

 

「通信記録?」

 

 少女が顔を上げる。

 

「……あのメッセージ?」

 

「おや」

 

 丹羽の表情が変わった。

 

「何かご存じなのですか?」

 

 少女は一瞬、口を閉ざした。

 

 零司は何も言わない。

 

 説明するかどうか。

 

 それを決めるのは、少女自身だった。

 

「……わたし」

 

 少しの沈黙の後、少女が口を開いた。

 

「……逃げる前に、メッセージを受け取った」

 

 丹羽の目が細くなる。

 

「……どのような?」

 

「……外へ出ろって」

 

 少女は続けた。

 

「……必ず迎えに行くって」

 

「…………」

 

 丹羽の表情から、笑みが消えた。

 

「……なるほど」

 

 小さく呟く。

 

「それで、研究施設から逃亡したのですね」

 

「……うん」

 

「送信者は?」

 

「……分からない」

 

 丹羽はしばらく考え込んだ。

 

 それから、端末の画面を切り替える。

 

《通信経路異常》

 

《発生日:七月十九日》

 

《関連識別:N-12》

 

《送信者情報:欠落》

 

「……こちらをご覧ください」

 

 少女が身を乗り出す。

 

「……これ」

 

 見覚えのある文字列。

 

 N-12。

 

 昨日、修理店で確認したものと同じだった。

 

「……やっぱり」

 

 少女が呟く。

 

 丹羽は頷いた。

 

「施設側の記録にも、同様の識別番号が残されていました」

 

「……だったら!」

 

 少女は勢いよく顔を上げた。

 

「……あの子が、送ったんじゃ……!」

 

「可能性はあります」

 

 丹羽は答えた。

 

「ですが、断定はできません」

 

「……どうして?」

 

「N-12に割り当てられていた管理識別情報を、第三者が利用した可能性もあるからです」

 

「…………」

 

「現時点で判明しているのは、通信にその識別情報が使用されたという事実だけです」

 

 少女は俯いた。

 

 期待した。

 

 あの子が生きていて。

 

 自分を逃がそうとしてくれたのだと。

 

 そう思いたかった。

 

 しかし、証拠はまだ足りなかった。

 

「……じゃあ」

 

 小さく呟く。

 

「……どうすれば、分かるの?」

 

 丹羽は答えなかった。

 

 代わりに、零司へ視線を向ける。

 

「……久遠様」

 

「ん?」

 

「一つ、お願いがございます」

 

 その瞬間。

 

 零司の笑みが、少しだけ深くなった。

 

「……何?」

 

「N-13が受信した端末を、調査のためにお預かりできないでしょうか」

 

「ふうん」

 

 零司は少女を見る。

 

「どうする?」

 

 少女は即答した。

 

「……嫌」

 

 丹羽が眉をひそめる。

 

「ですが、調査のためには――」

 

「……渡さない」

 

 少女は、はっきりと言った。

 

「……また、消されるかもしれないから」

 

 丹羽の表情が変わる。

 

「……消される?」

 

「……昨日、記録が消されたの」

 

 少女は説明した。

 

 修理店で端末を解析していたこと。

 

 外部から制御要求が送られてきたこと。

 

 そして、直後に端末を狙う男たちが現れたこと。

 

 話を聞き終えた丹羽は、深く息を吐いた。

 

「……それは、初耳です」

 

「丹羽さんのところじゃないの?」

 

 零司が尋ねる。

 

「違います」

 

 丹羽は即答した。

 

「少なくとも、私が指示したものではありません」

 

「そっか」

 

 零司は頷いた。

 

 それ以上、追及しなかった。

 

 嘘かもしれない。

 

 本当かもしれない。

 

 ただ、今ここで無理に問い詰めるほどの興味はなかった。

 

 しかし。

 

「……なら」

 

 少女が口を開いた。

 

「……その記録、わたしにも見せて」

 

 丹羽が顔を上げる。

 

「何ですって?」

 

「……N-12の、移送記録」

 

 少女は、真っ直ぐに丹羽を見つめた。

 

「……見せてほしい」

 

「……機密情報です」

 

「……わたしには、関係ある」

 

「それとこれとは――」

 

「丹羽さん」

 

 零司が、静かに声を掛けた。

 

「見せてあげれば?」

 

「……久遠様」

 

「別に、減るものじゃないでしょ」

 

 丹羽は苦い表情を浮かべた。

 

 そして、数秒ほど考えた後。

 

「……分かりました」

 

 端末を操作する。

 

「閲覧可能な範囲に限りますが」

 

 画面に、移送関連の詳細情報が表示された。

 

     ◇

 

《被験体識別番号:N-12》

 

《移送処理日:七月十二日》

 

《最終搬出区画:地下第二搬送口》

 

《移送車両:登録番号K-041》

 

《引渡先:閲覧権限なし》

 

《受領確認:未照合》

 

 少女は、画面を見つめた。

 

 知らない情報ばかりだった。

 

 だが、一つだけ分かることがある。

 

 あの子は、研究施設から連れ出されている。

 

 少なくとも、書類上は。

 

「……これ、印刷して」

 

 少女が言った。

 

 丹羽は眉をひそめる。

 

「……何のために?」

 

「……自分で、調べるから」

 

「…………」

 

 丹羽は、しばらく少女を見つめていた。

 

 そして、零司へ視線を向ける。

 

 零司は何も言わない。

 

 ただ、椅子に深く腰掛けていた。

 

「……承知しました」

 

 丹羽は小さく息を吐く。

 

 印刷指示を出す。

 

 部屋の隅に設置された小型プリンターが動き出した。

 

 一枚の紙が排出される。

 

 少女は、その紙を手に取った。

 

 自分で調べる。

 

 そのための、最初の手掛かり。

 

 しかし。

 

 次の瞬間。

 

 室内に、甲高い警告音が響いた。

 

《警告》

 

《外部管理権限による接続》

 

《記録領域へのアクセスを検知》

 

「……何?」

 

 丹羽が顔を上げる。

 

 端末の画面が切り替わった。

 

《対象記録:N-12》

 

《管理情報の削除要求》

 

「なっ……!」

 

 丹羽が慌てて操作する。

 

「何ですか、これは……!」

 

 画面には、赤い警告表示が並んでいた。

 

 N-12に関する一部の管理情報が、外部から削除されようとしている。

 

「……誰が!」

 

 丹羽が別の端末へ手を伸ばす。

 

 しかし。

 

《操作権限:拒否》

 

 画面が暗転した。

 

 同時に、応接室の扉から電子音が響く。

 

 カチリ。

 

 ロックが掛かった。

 

「……っ!」

 

 少女が扉へ顔を向けた。

 

 丹羽は、すぐに内線端末を操作する。

 

「警備室! 第三応接室です! 至急、管理系統の異常を――」

 

 通信が途切れた。

 

 丹羽の表情が凍りつく。

 

「……馬鹿な」

 

 研究施設の内部管理権限。

 

 それも、研究責任者である自分より上位の権限。

 

 その何者かが、今この瞬間に情報を消そうとしている。

 

「……零司」

 

 少女が、小さく声を掛けた。

 

「ん?」

 

 少年は、まだ椅子に座っていた。

 

 まるで、騒ぎを楽しんでいるかのように。

 

「……これ、どうなるの?」

 

「んー」

 

 零司は画面を眺めた。

 

「たぶん、記録が消えるんじゃない?」

 

「……っ!」

 

 少女は手元の紙を見た。

 

 そして、素早く折り畳む。

 

 服の内側へしまい込んだ。

 

 端末の情報が消されても。

 

 この紙だけは、絶対に渡さない。

 

 その様子を見た零司が、小さく笑った。

 

「……へえ」

 

 しかし。

 

 次の瞬間。

 

 天井の設備から、低い駆動音が響き始めた。

 

《緊急区画制御》

 

《室内安全設備:遠隔操作》

 

 換気装置が停止する。

 

 壁面の警告灯が赤く点滅した。

 

「……何をするつもりですか!」

 

 丹羽が叫ぶ。

 

 返答はない。

 

 代わりに、室内の環境制御装置が異常な動作を始めた。

 

 空調設備の風量が急激に変化する。

 

 そして。

 

 金属製の扉が、内側へ向かって軋んだ。

 

「……っ!」

 

 少女は反射的に後ずさった。

 

 研究施設。

 

 閉じ込められた部屋。

 

 自分の意思では、開けられない扉。

 

 嫌な記憶が、脳裏を駆け巡る。

 

「……また……」

 

 小さな声が漏れた。

 

「……また、閉じ込められる……!」

 

 そのとき。

 

「ねえ、丹羽さん」

 

 場違いなほど穏やかな声が響いた。

 

 零司だった。

 

「……は、はい?」

 

「この施設、警備弱くない?」

 

「……今、それを言っている場合では――!」

 

「いやぁ」

 

 零司は立ち上がった。

 

「昨日から、ずっと変な人たちに弄られてるみたいだし」

 

 そして、扉へ歩み寄る。

 

「セキュリティ、見直した方がいいと思うよ?」

 

「……久遠様!」

 

 丹羽が叫ぶ。

 

「不用意に触れては危険です!」

 

「大丈夫、大丈夫」

 

 零司は軽く手を振った。

 

 そして。

 

 扉の前で、足を止める。

 

「……さて」

 

 右手を伸ばした。

 

 金属製の扉へ、指先を触れる。

 

 次の瞬間。

 

 ガコンッ。

 

 重い音が響いた。

 

 扉のロックが外れる。

 

 電子的な解除ではない。

 

 施錠機構を構成する部品の運動条件が、直接書き換えられたのだ。

 

 さらに、零司は天井へ視線を向ける。

 

「……静かにしててね」

 

 その一言。

 

 直後。

 

 換気装置の異常な駆動音が止まった。

 

 警告灯の点滅も消える。

 

 室内には、何事もなかったかのような静寂が戻っていた。

 

「…………」

 

 丹羽は、呆然と立ち尽くしていた。

 

 研究施設の内部管理システム。

 

 複数の安全装置。

 

 電子的な制御機構。

 

 それらを、たった数秒で沈黙させた。

 

「……一体、何を……」

 

「ん?」

 

 零司は振り返った。

 

「邪魔だったから止めただけだよ」

 

 いつもの調子だった。

 

 まるで、うるさい目覚まし時計を止めたかのように。

 

 丹羽の額に、冷たい汗が浮かぶ。

 

 これが。

 

 学園都市の極秘識別番号、ZERO。

 

 通常の能力測定では分類できない存在。

 

 研究者として、その原理を知りたい。

 

 だが。

 

 それ以上に。

 

 今、自分がこの少年と敵対していないことに、心の底から安堵していた。

 

     ◇

 

「……零司」

 

「ん?」

 

「……記録」

 

 少女が端末を指差した。

 

 画面は、すでに暗転していた。

 

 N-12に関する情報。

 

 少なくとも、この応接室から確認できた記録は失われていた。

 

「……消えた?」

 

「みたいだね」

 

 零司は頷いた。

 

 少女は、服の内側へ手を入れた。

 

 折り畳んだ紙。

 

 先ほど印刷した、移送記録。

 

「……でも」

 

 少女は、ゆっくりとそれを取り出した。

 

「……これは、残った」

 

 零司の目が細くなる。

 

「うん」

 

 少女は、その紙を握りしめた。

 

 まだ分からないことばかりだ。

 

 N-12が本当に生きているのか。

 

 誰がメッセージを送ったのか。

 

 なぜ、研究施設の管理記録が消されたのか。

 

 だが。

 

 確かな手掛かりは、自分の手元に残っている。

 

「……これで、調べられる」

 

 少女は小さく呟いた。

 

 零司は、少しだけ笑った。

 

「よかったね」

 

「……うん」

 

 少女は頷く。

 

 そして、丹羽へ視線を向けた。

 

「……わたし、帰る」

 

 丹羽が顔を上げた。

 

「……N-13」

 

「……もう、ここには戻らない」

 

 少女は、はっきりと言った。

 

「……それから」

 

 紙を胸元へ抱える。

 

「……あの子のことは、自分で調べる」

 

 丹羽は、しばらく黙っていた。

 

 そして。

 

「……そうですか」

 

 小さく息を吐いた。

 

「ですが、注意してください」

 

「……何?」

 

「今回の件に関与している者が、どのような目的を持っているのか、私にも分かりません」

 

 丹羽は眼鏡の位置を直す。

 

「あなたが調査を続ければ、再び狙われる可能性があります」

 

 少女は、ゆっくりと頷いた。

 

「……分かってる」

 

 声は震えていなかった。

 

「……でも、やめない」

 

 零司は、その隣に立っていた。

 

 そして、楽しそうに笑った。

 

「じゃあ、帰ろっか」

 

「……うん」

 

 二人は、応接室を後にした。

 

 丹羽は、その背中を見送る。

 

 そして。

 

「……久遠様」

 

 小さく呟いた。

 

 零司が振り返る。

 

「ん?」

 

「……一つだけ、お聞きしてもよろしいでしょうか」

 

「いいよ」

 

 丹羽は、少し迷った後。

 

「……あなたは、なぜそこまでN-13に関わるのですか?」

 

 零司は首を傾げた。

 

 そして。

 

「面白いから」

 

 あっさりと答えた。

 

「…………」

 

「最初は、ただの逃げた実験体だったけどね」

 

 零司は少女へ視線を向ける。

 

「最近、結構いい顔するようになったし」

 

 少女が眉をひそめた。

 

「……何、それ」

 

「褒めてるんだよ?」

 

「……そう聞こえない」

 

 零司は笑った。

 

 それから、丹羽へ振り返る。

 

「それにさ」

 

「……はい」

 

「僕、まだ今回の依頼、結構気に入ってるんだ」

 

 丹羽は瞬きをした。

 

「……どういう意味でしょうか」

 

「最初は、逃げた女の子を捕まえるだけの仕事だったでしょ?」

 

「ええ」

 

「でも、今は違う」

 

 少年は、少しだけ笑みを深めた。

 

「その子を追ってる人がいて、消えた実験体がいて、記録を消そうとする誰かまでいる」

 

 零司は軽く肩をすくめる。

 

「続きが気になるじゃん?」

 

 丹羽は、何も言えなかった。

 

 目の前の少年。

 

 彼にとって、この事件は善悪の問題ではない。

 

 正義のためでも。

 

 研究のためでも。

 

 誰かのためでもない。

 

 ただ、自分が興味を持ったから関わっている。

 

 それだけだった。

 

「……では」

 

 丹羽は、最後に尋ねた。

 

「もし、我々の研究と対立することになった場合は?」

 

 零司は、少し考えた。

 

 そして。

 

「そのときの気分次第かな」

 

 笑顔で答えた。

 

 丹羽の背筋に、冷たいものが走った。

 

 その答えが、どれほど恐ろしい意味を持つのか。

 

 彼には、十分理解できた。

 

     ◇

 

 同日、午後八時過ぎ。

 

 学園都市。

 

 窓のないビル。

 

 都市の中心部に存在する、特異な建造物。

 

 その内部には、赤い液体で満たされた巨大な生命維持装置が設置されていた。

 

 そして。

 

 その中に、一人の人間が浮かんでいる。

 

 男にも、女にも。

 

 大人にも、子供にも見える存在。

 

 学園都市統括理事長。

 

 アレイスター=クロウリー。

 

 その眼前には、複数の情報が映し出されていた。

 

 能力者の行動記録。

 

 研究機関の動向。

 

 そして、都市内で発生した異常事象。

 

 その一つに、ある識別番号が表示されていた。

 

《ZERO》

 

 久遠零司。

 

 学園都市の公式序列には存在しない少年。

 

 通常の能力分類に当てはめることのできない存在。

 

 そして。

 

 科学と魔術。

 

 その双方に関わりを持つ、極めて特殊な人物。

 

 画面が切り替わる。

 

《七月二十二日》

 

《第七学区地下商店街》

 

《接触記録》

 

《久遠零司》

 

《上条当麻》

 

 映像には、二人の少年が映っていた。

 

 握手を交わす場面。

 

 そして、その直前に発生した局所的な能力干渉の消失。

 

 アレイスターは、静かに映像を眺めていた。

 

「……接触したか」

 

 感情の読み取れない声。

 

 再生映像が停止する。

 

 零司の右手。

 

 そして、上条当麻の右手。

 

 その二つが触れ合う直前の場面だった。

 

「幻想殺し」

 

 アレイスターは、静かに呟いた。

 

 異能を打ち消す右手。

 

 この街において、極めて重要な意味を持つ存在。

 

 そして。

 

 その力に興味を示した、もう一人の少年。

 

 久遠零司。

 

 既存の能力序列では評価することのできない存在。

 

 アレイスターにとっても、その行動を完全に予測することは容易ではなかった。

 

「……さて」

 

 画面に、新しい情報が表示された。

 

《関連事象》

 

《被験体N-13》

 

《旧被験体N-12》

 

《管理記録への不正アクセス》

 

 複数の事件。

 

 一見、無関係に見える出来事。

 

 しかし、そのいくつかに同じ少年の名前が現れていた。

 

 久遠零司。

 

 アレイスターは、しばらく表示を眺めていた。

 

 そして。

 

「……好きに動くといい」

 

 静かに告げた。

 

「ただし、どこまで自由でいられるかは別の話だ」

 

 その言葉に答える者はいなかった。

 

 ただ、生命維持装置の駆動音だけが響いていた。

 

     ◇

 

 同日、午後九時過ぎ。

 

 久遠零司の部屋。

 

「……ねえ」

 

「ん?」

 

 少女が、テーブルの上の紙を見つめながら声を掛けた。

 

「……今日のこと」

 

「うん」

 

「……ありがとう」

 

 零司の手が止まった。

 

「……お?」

 

 少し意外そうに顔を上げる。

 

「珍しいね」

 

「……何が?」

 

「君からお礼言われるの」

 

 少女は眉をひそめた。

 

「……別に」

 

 小さく俯く。

 

「……助けてくれたから」

 

「そっか」

 

 零司は笑った。

 

「どういたしまして」

 

 少女は、再び紙を見下ろす。

 

 N-12。

 

 七月十二日。

 

 地下第二搬送口。

 

 移送車両K-041。

 

 手掛かりは、それだけだった。

 

 しかし。

 

 何もなかった頃とは違う。

 

「……零司」

 

「ん?」

 

「……明日、調べに行きたい」

 

 零司は首を傾げた。

 

「どこに?」

 

「……この車」

 

 少女は、移送車両の登録番号を指差した。

 

「……どこへ行ったのか、調べたい」

 

「ふうん」

 

「……できると思う?」

 

 零司は少し考えた。

 

「記録が残ってれば、何か分かるかもね」

 

「……うん」

 

「でも、簡単には見つからないかもしれないよ?」

 

「……分かってる」

 

 少女は頷いた。

 

 その瞳には、はっきりとした意思が宿っていた。

 

「……それでも、探す」

 

 零司は、しばらく彼女を見つめていた。

 

 そして。

 

「……いいね」

 

 楽しそうに笑った。

 

「じゃあ、明日も出掛けよっか」

 

 少女は、小さく頷いた。

 

 そのときだった。

 

 零司の携帯端末が振動した。

 

「……ん?」

 

 画面を確認する。

 

 見知らぬ送信元。

 

 短いメッセージだった。

 

『久遠零司』

 

『N-12の件から手を引け』

 

 零司の目が細くなる。

 

 続いて、二通目。

 

『これ以上の干渉は許可されていない』

 

 そして。

 

 三通目。

 

『第零位であろうと、例外ではない』

 

「…………」

 

 数秒の沈黙。

 

 零司は、画面を見つめていた。

 

 そして。

 

「……あはっ」

 

 小さく笑った。

 

 少女が顔を上げる。

 

「……どうしたの?」

 

「いや」

 

 零司は、楽しそうに端末を持ち上げた。

 

「面白いこと言う人がいるなぁって」

 

「……何?」

 

「僕に、手を引けってさ」

 

 少女の表情が強張る。

 

「……誰から?」

 

「知らない」

 

「……え?」

 

 零司は笑った。

 

「でも、僕のことは知ってるみたい」

 

 少年は、メッセージの最後の一文を眺めた。

 

 第零位。

 

 学園都市の公式記録には存在しない識別番号。

 

 それを知る人間は、決して多くない。

 

 少なくとも、普通の研究者や能力者が知るような情報ではなかった。

 

 しかし。

 

 目の前の送信者は、それを知っている。

 

 そのうえで。

 

 手を引けと命令してきた。

 

「……零司」

 

 少女が、不安そうに声を掛ける。

 

「……どうするの?」

 

 零司は、少し考えた。

 

 それから。

 

「決まってるじゃん」

 

 笑顔で答えた。

 

 端末を操作する。

 

 短い返信を入力。

 

『嫌だよ』

 

 送信。

 

 少女は目を見開いた。

 

「……それだけ!?」

 

「うん」

 

 零司は頷いた。

 

「だって、まだ続きが気になるし」

 

「……でも、危ないんじゃ……」

 

「そうかもね」

 

 少年は楽しそうに笑った。

 

「だから、面白いんじゃない?」

 

 少女は、言葉を失った。

 

 目の前の少年。

 

 久遠零司。

 

 彼は、何も恐れていないわけではない。

 

 ただ。

 

 自分の自由を、他人に決められることが嫌いなのだ。

 

 そして。

 

 誰かに命令されたというだけで。

 

 その相手の思惑を、平然と踏みにじることができる。

 

 それが。

 

 学園都市の第零位。

 

 久遠零司という少年だった。

 

 その夜。

 

 差出人不明の通信に、一通の返信が届いた。

 

 わずか三文字。

 

『嫌だよ』

 

 送り主が、その言葉をどう受け取ったのか。

 

 零司は知らない。

 

 そして。

 

 知る必要もないと思っていた。

 

 ただ一つ、確かなことがあった。

 

 誰かが彼に命令した。

 

 そして、彼は拒絶した。

 

 その事実だけで。

 

 学園都市の暗部に、新たな火種が生まれたのだった。

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