第11話 存在しない搬送車
「その車両、七月十二日には動いていませんよ」
七月二十四日、午前十一時十七分。
学園都市第七学区外縁部。
民間の車両整備会社が管理する保管施設で、作業着姿の女性がそう告げた。
「……え?」
少女の声が震える。
長い青緑色の髪を灰色の帽子に収めた、十五、六歳ほどの少女。
被験体番号、N-13。
その手には、一枚の紙が握られていた。
《被験体識別番号:N-12》
《移送処理日:七月十二日》
《移送車両:登録番号K-041》
昨日、丹羽宗一郎から入手した移送記録。
消えた少女の行方を追う、数少ない手掛かりだった。
「……動いてないって、どういうこと?」
「文字どおりです」
整備担当者は端末を操作した。
「K-041は七月九日に車両不具合が見つかり、運行停止になっています。修理待ちで、この施設に保管されたままですね」
「……でも」
少女は紙を差し出した。
「……ここに、書いてある」
「確かに登録番号は一致していますが……」
女性は困ったように眉をひそめた。
「少なくとも、当社の管理記録では運行していません」
「ふうん」
横から、楽しそうな声がした。
「じゃあ、実物を見せてもらえる?」
久遠零司だった。
黒髪に混じる銀色の髪。
眠たげな灰紫色の瞳。
黒と灰色を基調とした服装。
片手には、途中の売店で購入した炭酸飲料。
緊張感とは無縁の姿である。
「車両の確認ですか?」
「うん。まだ置いてあるんでしょ?」
「ええ。保管区画にあります」
「じゃ、見たいな」
女性は少し迷った。
本来、部外者を整備区画へ案内することはできない。
しかし、今回は事情が違った。
朝方、施設の管理責任者宛てに、車両登録情報の照会依頼が届いていた。
必要な範囲での現物確認についても、事前に許可されている。
依頼者は、目の前にいる少年。
久遠零司。
照会に掛かる費用も、すでに支払われていた。
「……分かりました」
女性は頷いた。
「こちらへどうぞ」
◇
保管区画の奥。
そこに、一台の小型搬送車が置かれていた。
白い車体。
学園都市内の研究機関でよく使われている、自動運転対応の業務用車両。
車体側面には、管理番号が記されている。
《K-041》
「……これ」
少女は思わず駆け寄った。
「……本当に、あった」
「そりゃ、登録されてるからね」
零司が隣へ歩いてくる。
「問題は、動いてたかどうかでしょ?」
「……うん」
少女は車両を見回した。
タイヤの一つが取り外されている。
車体は整備用の支持器具によって持ち上げられ、床には工具が並んでいた。
「こちらをご覧ください」
整備担当者が、車体の下部を指差す。
「駆動系統に異常がありまして。七月九日に運行停止措置が取られています」
「修理は?」
零司が尋ねる。
「交換部品の入荷待ちです。昨日も動作確認はしていません」
「じゃあ、十二日もここに?」
「ええ」
女性は頷いた。
「保管記録と整備日報の両方に残っています」
少女は、車体へ手を伸ばしかけた。
そして、止めた。
「……じゃあ」
小さな声。
「……あの子は、何に乗せられたの?」
返事はなかった。
少なくとも、ここにある車両ではない。
研究施設の記録が間違っているのか。
誰かが別の車両を使用したのか。
それとも。
最初から、移送そのものが嘘だったのか。
「……零司」
「ん?」
「……どう思う?」
零司は車両を見つめた。
それから、あっさりと答えた。
「書類がおかしいんじゃない?」
「……それは、分かる」
「なら、別の記録を探せば?」
「……別の?」
「うん」
零司は整備担当者へ振り返った。
「ねえ。この車が動いてなかったこと、他にも証明できる?」
「整備日報なら残っていますよ」
「見せてもらえる?」
「管理情報が含まれますので、公開できる範囲に限りますが」
女性は携帯端末を取り出した。
数回操作する。
そして。
「……あれ?」
その表情が変わった。
「どうしたの?」
零司が尋ねる。
「おかしいですね」
女性は画面を操作し直した。
「七月十二日の記録だけ、閲覧できません」
「……え?」
少女が顔を上げる。
「昨日までは、確かに確認できたはずなんですが……」
電子音。
画面に警告が表示された。
《対象記録:K-041》
《管理権限による閲覧制限》
《照会履歴の送信完了》
整備担当者の顔色が変わった。
「……照会履歴?」
零司の口元が、わずかに上がる。
「へえ」
少女は、その表情を見た。
そして、嫌な予感がした。
「……零司」
「うん?」
「……何か、来る?」
少年は答えなかった。
代わりに、保管区画の入口へ視線を向ける。
そこには、いつの間にか三人の男女が立っていた。
◇
「車両管理部門から来ました」
先頭の女が、身分証らしきものを提示した。
三十歳前後。
黒いスーツ。
短く切り揃えられた髪。
表情には、ほとんど感情が浮かんでいない。
「K-041に関する管理情報の照会が行われたと報告を受けています」
整備担当者が眉をひそめる。
「管理部門? どちらの所属ですか?」
「詳細は確認中です。端末をこちらへ」
「いえ、正式な手続きがなければ――」
「手続きを待つ必要はありません」
女が片手を上げた。
直後。
背後の男が、小型端末を操作した。
低い電子音。
保管区画の照明が、一斉に落ちた。
「きゃっ!?」
整備担当者が悲鳴を上げる。
非常灯が点灯するまでの数秒間。
暗闇の中で、何かが動いた。
ガシャンッ!
金属音。
続いて、短い呻き声。
「……ぐっ!」
非常灯が点灯した。
整備担当者は床へ倒れ込んでいた。
その横には、壊れた携帯端末。
そして。
「……あーあ」
久遠零司が、呆れたように呟いていた。
「随分と乱暴だね」
女は表情を変えない。
「久遠零司」
その名前を聞いた瞬間、少女の肩が強張った。
零司は首を傾げる。
「知り合いだっけ?」
「あなたの情報は確認しています」
「ふうん」
「これ以上、N-12に関する調査を続けないでいただきたい」
「それ、昨日も聞いたよ」
零司は笑った。
「同じ人?」
女は答えなかった。
ただ、静かに続ける。
「警告は伝達済みのはずです」
「うん」
「にもかかわらず、調査を継続した」
「そうだね」
「こちらとしても、対応を変更せざるを得ません」
女の背後で、男たちが動いた。
取り出したのは、銃ではない。
小型の円筒形装置だった。
床へ置かれた装置が、低い駆動音を発する。
次の瞬間。
保管区画の防火シャッターが作動した。
ガァンッ!
出入口が閉ざされる。
同時に、天井の消火設備が待機状態へ移行した。
「……なっ!?」
整備担当者が顔を上げる。
「何をするつもりですか!」
「必要な記録を回収します」
女は淡々と答えた。
「それが終われば、退出していただいて構いません」
零司は、装置を眺めた。
「へえ。随分と準備がいいね」
「あなたと交戦するつもりはありません」
「じゃあ、何しに来たの?」
「情報の回収です」
女は少女へ視線を向けた。
「そちらの被験体が持つ資料も含めて」
少女は反射的に、服の内側へ手を伸ばした。
N-12の移送記録。
昨日、丹羽の研究施設から持ち出した紙。
そして、通信履歴の写し。
すべて、自分で集めたものだった。
「……渡さない」
女は、小さく息を吐いた。
「抵抗は推奨しません」
「……嫌」
「それは残念です」
背後の男が、一歩踏み出した。
しかし。
「ねえ」
零司が口を開いた。
「僕のこと、知ってるんだよね?」
女が振り返る。
「……ええ」
「じゃあさ」
少年は、いつもの笑みを浮かべた。
「一つ聞いていい?」
「何でしょう」
「どうして、僕が大人しく従うと思ったの?」
沈黙。
女の表情が、わずかに変わった。
零司は続ける。
「君たち、僕が何者か知ってるんでしょ?」
「……はい」
「だったら、命令するより先にやることがあると思うんだけど」
「……何を?」
「交渉だよ」
零司は笑った。
「何をくれるの?」
女が、初めて言葉に詰まった。
◇
「……交渉?」
「うん」
零司は頷いた。
「僕に調査をやめてほしいなら、何か代わりにくれないと」
「金銭であれば、相応の額を――」
「お金かぁ」
零司は少し考えた。
「それも悪くないけどね」
そして。
「N-12について教えてよ」
女の表情が止まった。
「…………」
「どこにいるの?」
答えはなかった。
「生きてる?」
沈黙。
「そもそも、何でそんなに隠したいの?」
女は、小さく息を吐いた。
「……開示できません」
「そっか」
零司は頷いた。
「じゃあ、交渉不成立だね」
女が片手を上げた。
その瞬間。
背後の男が装置を起動した。
《消火設備:強制作動》
警告音が響く。
天井の噴出口が開き、消火剤が放出されようとする。
しかし。
何も起きなかった。
「…………」
男が端末を確認する。
《作動異常》
《圧力条件不成立》
「……何?」
零司は、天井を見上げた。
「あ、それ?」
少年は笑った。
「止めといたよ」
あまりにも簡単な説明だった。
消火設備が正常に動作するためには、一定の圧力条件が必要となる。
弁の開閉。
配管内の流体。
放出機構に掛かる力。
それらの物理的な条件が、零司によって変更されていた。
設備は動作命令を受けている。
だが、命令された結果を生み出せない。
それだけだった。
「……能力干渉を確認!」
男の一人が叫ぶ。
女の表情が険しくなった。
「想定どおりです。第二段階へ」
「了解!」
男が別の装置を取り出した。
小型の電磁投射装置。
発射されたのは、複数の金属製ワイヤーだった。
鋭い音を立てて、零司へ向かって飛来する。
だが。
「……遅いなぁ」
少年は、動かなかった。
ワイヤーが空中で停止する。
続いて、方向を変えた。
「……っ!?」
装置を持つ男の手元へ、ワイヤーが巻き付く。
そのまま腕を拘束した。
「ぐあっ!」
男が膝をつく。
もう一人が後退する。
しかし、零司は追わなかった。
女の方へ視線を向ける。
「ねえ」
笑顔だった。
「まだ何かある?」
女は、ゆっくりと息を吐いた。
「……なるほど」
その声には、恐怖よりも諦めが滲んでいた。
「通常の対能力者装備では、やはり対応できませんか」
「そうみたいだね」
「ですが」
女の視線が動いた。
零司ではない。
保管区画の奥。
事務記録を保管している、小さな管理室だった。
「……目的は達成できます」
直後。
管理室の奥で、破裂音が響いた。
◇
「……っ!」
少女が振り返る。
管理室の窓から、黒い煙が上がっていた。
「……火!?」
整備担当者が叫ぶ。
その部屋には、紙の整備日報や古い搬送記録が保管されている。
電子化される前の資料も、多数残されているはずだった。
そして。
七月十二日の記録。
K-041が動かなかったことを証明できる、数少ない手掛かり。
「……零司!」
少女が叫んだ。
少年は、煙の上がる管理室を見た。
「……あー」
少しだけ眉を上げる。
「そっちが目的だったんだ」
女が淡々と告げる。
「あなたと戦う必要はありません」
零司を倒す。
そんな無謀な目的ではなかった。
最初から、狙いは情報の破壊。
車両に関する証拠が失われれば、調査は振り出しに戻る。
だからこそ。
零司を足止めしている間に、別の手段で記録を処分する。
それが、相手の作戦だった。
「……なるほどね」
零司が、小さく笑う。
「結構考えてるじゃん」
少女は、その声に苛立った。
「……笑ってる場合じゃない!」
「ん?」
「……あの中に、記録が……!」
少女は管理室へ駆け出した。
「おい、待て!」
整備担当者が叫ぶ。
「危険だ!」
だが、少女は止まらなかった。
管理室の扉。
煙。
そして、内部に見える書類棚。
息を止め、扉へ手を掛ける。
鍵は掛かっていなかった。
「……っ!」
熱い空気が、顔へ流れ込む。
少女は思わず後ずさった。
怖い。
身体が震える。
研究施設での記憶が蘇る。
だが。
(……逃げない)
少女は歯を食いしばった。
七月十二日。
N-12。
あの子が、どこへ行ったのか。
その答えが、ここにあるかもしれない。
「……お願い」
少女は小さく呟いた。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
次の瞬間。
周囲の光が、微かに揺らいだ。
彼女の能力。
観測干渉。
それが、不完全ながら発現し始める。
少女の姿が、入口付近の監視装置から認識しづらくなる。
しかし。
能力によって炎が消えるわけではない。
熱を防げるわけでもない。
燃え始めた紙を元に戻せるわけでもない。
それでも。
少女は中へ踏み込んだ。
「……見つける……!」
書類棚。
古い日報。
管理番号。
煙で視界が霞む中、必死に文字を追う。
そして。
《K-041》
見つけた。
「……あった!」
少女が手を伸ばす。
しかし、その直後。
棚の上部が崩れた。
「……っ!」
重い金属製の棚が、少女へ倒れ込む。
避けられない。
そう思った瞬間。
棚が、空中で停止した。
「……危ないなぁ」
背後から、呑気な声。
「さすがに、それは無茶じゃない?」
零司だった。
いつの間にか、管理室の入口に立っている。
少年が指を動かすと、倒れかけていた棚が元の位置へ戻った。
周囲の炎も、まるで燃焼に必要な条件を失ったかのように弱まっていく。
「……零司」
「ん?」
「……これ!」
少女は、手にした書類を掲げた。
煤で汚れた、古い整備記録。
「……見つけた!」
零司は、それを見た。
そして、少しだけ目を細める。
「……へえ」
少女は必死に書類を抱え込んだ。
火傷しそうなほど熱い紙。
震える手。
煙を吸い込み、咳き込む身体。
それでも、離さない。
零司は一瞬だけ考えた。
そして、少女の身体を軽く持ち上げた。
「……えっ!?」
「外で見ようよ」
次の瞬間。
二人の姿が、管理室の外へ移動していた。
◇
「……逃走を確認」
保管区画の外。
黒いスーツの女が通信端末を操作していた。
拘束された男たちは、すでに救援を要請している。
しかし、彼女自身は退路を確保していた。
『状況は?』
通信の向こうから、低い声が響く。
「電子記録の一部削除は成功」
『紙媒体は?』
「処分を試みましたが、久遠零司に介入されました」
短い沈黙。
『……第零位か』
「はい」
『交戦したのか?』
「短時間のみ。こちらの装備では拘束できませんでした」
『だろうな』
声の主は、驚いていなかった。
『それで、資料は?』
「被験体N-13が一部を確保した模様です」
『……そうか』
女は次の指示を待った。
しかし、返ってきた言葉は意外なものだった。
『構わない』
「……よろしいのですか?」
『今の段階なら、問題ない』
女の眉が動く。
「ですが、K-041の偽装が露見する可能性があります」
『それはもう露見している』
通信の向こうで、誰かが小さく笑った。
『むしろ、どこまで辿り着けるのか見てみたい』
「……監視を継続しますか?」
『不要だ』
即答だった。
『久遠零司がいる限り、下手な追跡は逆効果になる』
「では」
『予定を変更する』
女は姿勢を正した。
『次の段階へ進めろ』
「……承知しました」
通信が切れる。
女は端末をしまった。
そして、保管施設へ視線を向ける。
「……久遠零司」
小さく、その名前を呟いた。
極秘識別番号、ZERO。
学園都市の公式序列には存在しない少年。
彼について与えられている情報は、極めて限られている。
だが、一つだけ確かなことがあった。
この少年を力で排除するという選択肢は、現実的ではない。
少なくとも、今の装備と人員では。
「……厄介ですね」
女は小さく息を吐いた。
そして、その場を離れた。
◇
午後三時過ぎ。
保管施設の外。
「……大丈夫?」
零司が少女へ尋ねた。
「……うん」
少女は頷いた。
もっとも、顔には煤がつき、帽子も汚れている。
咳は収まったが、まだ少し息苦しそうだった。
「一応、診てもらった方がいいと思うよ」
「……分かった」
少女は素直に頷いた。
保管施設の職員たちは、すでに警備員と消防設備担当者へ連絡を取っていた。
負傷した整備担当者も救護を受けている。
騒ぎの中心にいた零司たちは、事情を説明した後、施設の外へ出ていた。
少女は、手元の書類を見下ろす。
「……これ」
「うん」
「……本物だと思う?」
零司は書類を覗き込んだ。
印刷された文字。
手書きの確認欄。
そして、古い管理印。
「少なくとも、最近作った紙には見えないね」
「……じゃあ」
「中身まで本当かどうかは、別だけど」
少女は頷いた。
以前なら、すぐに信じてしまったかもしれない。
だが、今は違う。
研究施設の記録が嘘だった。
車両管理の情報も、誰かが消そうとした。
ならば。
紙に書かれていることが、必ずしも真実とは限らない。
「……ちゃんと、確かめる」
少女は呟いた。
零司は、少しだけ笑った。
「うん」
それから、書類の一部を指差す。
「で、これ見た?」
「……何?」
少女が視線を向ける。
そこには、七月十二日の整備日報が記されていた。
《車両番号:K-041》
《状態:運行停止》
《整備区画:第二保管庫》
《運行許可:無効》
そして、その下。
別の紙が、整備日報に重なっていた。
小さな搬出照合票。
何かを確認するための、簡易的な控えだった。
《七月十二日 十九時四十二分》
《照合対象:K-041》
《車体確認:未実施》
《代替搬送:承認済》
少女の指が止まった。
「……代替搬送……?」
零司は頷いた。
「みたいだね」
「……それって」
「車両は使ってないけど、別の方法で運んだってことかな」
少女は、もう一度紙を見た。
K-041。
動かなかった搬送車。
それなのに、研究施設では移送車両として記録されていた。
理由は、まだ分からない。
だが。
この紙には、もう一つの情報が残されていた。
《二次搬送先:第十学区・第六中継倉庫》
「…………」
少女は、その文字列を見つめた。
「……第十学区……」
零司が、横から覗き込む。
「へえ。場所が出てきたね」
少女は頷いた。
N-12がそこへ運ばれたという証拠ではない。
だが、七月十二日にK-041の番号を利用して行われた別の搬送が、確かに存在していた。
少なくとも、その記録が残っている。
「……ここに行けば」
少女は小さく呟いた。
「……何か、分かるかもしれない」
零司は笑った。
「そうかもね」
少女は、紙を胸元へ抱えた。
研究施設から逃げ出した夜。
自分は、ただ助かりたかった。
誰かに迎えに来てほしかった。
それだけだった。
だが、今は違う。
自分の足で調べた。
自分の意思で危険な場所へ踏み込んだ。
そして。
自分の手で、一つの手掛かりを掴んだ。
「……零司」
「ん?」
「……明日、ここに行きたい」
少女は書類を示した。
第十学区。
第六中継倉庫。
零司は、その文字列を眺める。
それから。
「いいよ」
あっさりと頷いた。
「……本当?」
「うん」
「……どうして?」
零司は少し考えた。
そして。
「さっきの人たち、結構面白かったから」
少女は眉をひそめた。
「……それだけ?」
「それだけじゃないよ」
零司は笑った。
「僕に手を引けって言った人、まだ顔見せてくれてないし」
少女の表情が変わった。
「……あの、警告の?」
「そう」
零司は頷いた。
「僕のこと知ってるみたいなのに、僕は相手のこと知らないんだよね」
その瞳が、わずかに細くなる。
「それって、ちょっと不公平じゃない?」
少女は、何も言わなかった。
ただ、少しだけ理解した。
零司が今回の事件に関わり続ける理由。
それは、自分を助けるためだけではない。
自分の知らない相手が、一方的に命令してきた。
そのこと自体が、彼の興味を引いているのだ。
そして。
その興味が失われたとき、零司がどうするのか。
少女には、まだ分からなかった。
◇
同日、午後六時過ぎ。
学園都市の某研究施設。
丹羽宗一郎は、端末に表示された報告を確認していた。
《車両登録番号K-041》
《管理記録の一部消失》
《関連施設における不審事案》
《現場確認者:久遠零司》
「……やれやれ」
丹羽は眼鏡を外した。
「また、久遠様ですか」
ため息が漏れる。
しかし、その表情には少しだけ笑みが浮かんでいた。
久遠零司。
何を考えているのか分からない少年。
だが、彼が関わる場所では、必ず何かが起きる。
それは、丹羽にとって不安であると同時に、研究者としての興味を刺激するものでもあった。
「……それにしても」
丹羽は、別の資料を開いた。
《被験体N-12》
《移送処理日:七月十二日》
《移送経路:非公開》
《受領確認:未照合》
「……第十学区、ですか」
小さく呟く。
久遠零司たちが何を調べているのか。
詳細は把握していない。
だが、K-041の記録が不自然であることは、丹羽自身も認識していた。
そして。
その車両番号が、別の搬送に利用されていた可能性。
その情報を知れば、研究者として気になることがある。
「……誰が、移送記録を処理したのでしょうね」
丹羽は、端末を操作した。
しかし、表示されたのは短い警告だった。
《閲覧権限がありません》
「…………」
丹羽は、しばらく画面を見つめていた。
そして。
「……なるほど」
静かに笑った。
「私にも、知らされていないことがあるようですね」
◇
午後九時過ぎ。
久遠零司の部屋。
「……ここ」
少女は、テーブルの上に広げた地図を指差した。
第十学区。
第六中継倉庫。
一般の学生が立ち入るような場所ではない。
物流施設や廃棄物処理設備が多く集まる区域。
その一角に、目的の倉庫が存在していた。
「……明日、行こうと思う」
「うん」
零司はソファに腰掛けていた。
少女は、手元の紙を見つめる。
「……でも」
「ん?」
「……また、あの人たちが来るかもしれない」
「だろうね」
零司はあっさりと頷いた。
「……怖くないの?」
「別に?」
「……わたしは、怖い」
少女は、正直に答えた。
零司は、少しだけ目を細めた。
「じゃあ、やめる?」
少女は首を横に振った。
「……やめない」
その声には、迷いがなかった。
零司は、しばらく少女を見つめていた。
そして。
「……そっか」
小さく頷いた。
「じゃあ、行こう」
少女は、ゆっくりと息を吐いた。
そのとき。
零司の携帯端末が振動した。
「……ん?」
画面を見る。
見知らぬ送信元。
短い文章だった。
『久遠零司』
『本日の件、確認した』
零司の目が細くなる。
続いて、二通目。
『これ以上、N-12の行方を追う必要はない』
そして。
三通目。
『知りたいのなら、直接会おう』
「…………」
零司は、しばらく画面を見つめていた。
そして。
口元に、ゆっくりと笑みが浮かんだ。
「……へえ」
少女が顔を上げる。
「……何?」
「どうやら、向こうも話す気になったみたい」
「……向こう?」
「僕に警告してきた人」
少女の表情が強張る。
零司は、端末を操作した。
『いいよ』
『どこで?』
送信。
数秒後。
返信が届いた。
『第十学区』
『第六中継倉庫』
零司の笑みが、さらに深くなった。
「……なるほど」
少女は、画面を見つめた。
そこには、先ほど自分たちが調べていた場所と同じ名前が表示されている。
「……どうして」
小さく呟く。
「……同じ場所なの……?」
零司は肩をすくめた。
「さあ?」
そして、楽しそうに笑った。
「でも、これで決まりだね」
少女は、地図を見下ろした。
第十学区。
第六中継倉庫。
消えた少女の手掛かり。
自分たちを妨害してきた何者か。
そして、久遠零司を名指しで呼び出す人物。
すべてが、同じ場所へ繋がっている。
「……零司」
「ん?」
「……これ、罠だと思う?」
零司は、少し考えた。
そして。
「たぶんね」
あっさりと答えた。
少女は目を見開く。
「……だったら!」
「でもさ」
零司は笑った。
「罠だって分かってるなら、何が仕掛けてあるか楽しみじゃない?」
「…………」
少女は、額に手を当てた。
やはり。
この少年は、根本的なところで普通ではない。
だが。
今回は、少しだけ違った。
「……分かった」
少女は顔を上げた。
「……わたしも行く」
「うん」
「……でも、約束して」
零司が首を傾げる。
「何?」
少女は、真っ直ぐに彼を見つめた。
「……あの子のことが分かっても、勝手に決めないで」
少しの沈黙。
零司は、少女を見つめた。
そして。
「……いいよ」
小さく頷いた。
「君に関することは、君が決めればいい」
少女は、ほっと息を吐いた。
しかし。
「ただし」
零司が続ける。
「僕に関することは、僕が決めるからね」
「……分かってる」
今度は、即答だった。
零司は、少しだけ驚いたように目を瞬かせた。
それから。
「……いいね」
楽しそうに笑った。
少女は、地図を折り畳んだ。
もう、逃げるだけではない。
研究施設から飛び出した、あの夜とは違う。
今度は、自分の意思で向かうのだ。
あの子の行方を確かめるために。
そして。
自分が知らなかった真実を、自分の目で確かめるために。
◇
同じ夜。
学園都市の別の場所。
科学の街には似つかわしくない、異質な気配が静かに動いていた。
それは、通常の能力者による現象ではない。
信仰。
象徴。
術式。
科学とは異なる体系の中で成立する、もう一つの力。
魔術。
その力を扱う者たちの事情によって、一人の少年が戦いへ巻き込まれようとしていた。
上条当麻。
右手に幻想殺しを宿す、学園都市のレベル0。
彼がこれから何を失い、何を守ろうとするのか。
久遠零司は、まだ知らない。
そして、今のところ知ろうともしていなかった。
彼の関心は、別の場所に向いていたからだ。
第十学区。
第六中継倉庫。
そこで待つ、正体不明の何者か。
久遠零司は、窓の外へ視線を向けた。
そして、静かに笑った。
「……明日が楽しみだね」
その隣で。
N-13は、折り畳んだ地図を強く握りしめていた。
正義の味方ではない少年と。
自分の意思で歩き始めた少女。
二人が向かう先には、誰も知らない真実が待っている。
それが救いなのか。
絶望なのか。
まだ、誰にも分からなかった。
ただ一つ。
明日、何かが起きる。
その予感だけは、確かに存在していた。