七月二十五日、午後二時十三分。
学園都市第十学区。
第六中継倉庫。
「……誰も、いない」
錆びついた門扉の前で、少女が呟いた。
長い青緑色の髪を灰色の帽子に収め、濃紺のシャツに黒いスカートを合わせた少女。
被験体番号、N-13。
彼女の視線の先には、古びた物流施設が広がっていた。
使われなくなった搬送レール。
積み上げられたコンテナ。
そして、窓の少ない巨大な倉庫。
人の気配はない。
もっとも、ここまで来る途中から、通行人の姿などほとんど見かけなかった。
「……本当に、ここで合ってる?」
「合ってるよ」
隣に立つ久遠零司が、携帯端末を見せる。
画面には、昨夜受信したメッセージが表示されていた。
『第十学区』
『第六中継倉庫』
少女は小さく息を吐いた。
「……罠だったら?」
「たぶん罠でしょ」
「……帰りたい」
「帰る?」
零司は即答した。
少女は一瞬、言葉に詰まる。
それから首を振った。
「……帰らない」
「じゃ、行こうか」
零司は門扉へ近づいた。
分厚い鉄製の扉。
そこには電子錠が設置されている。
少年が指先を伸ばしかけた瞬間。
ピッ。
短い電子音とともに、錠が解除された。
「……お?」
零司が目を瞬かせる。
続いて、敷地内のスピーカーから声が響いた。
『お待ちしておりました、久遠零司様』
落ち着いた男の声。
『どうぞ、お入りください』
零司の口元が緩んだ。
「へえ。歓迎してくれるんだ」
「……歓迎、なの?」
「少なくとも、門は開けてくれたよ?」
少女は、開いた門の向こうを見つめた。
薄暗い敷地。
その奥にある巨大な倉庫。
そして、自分たちの動きを追うように角度を変えた監視カメラ。
「……見られてる」
「そうだね」
零司はカメラへ向かって片手を振った。
「こんにちはー」
当然、返事はなかった。
少女は額に手を当てる。
「……少しは警戒して」
「してるよ?」
零司は笑った。
「何かあったら、君は離れててね」
その言葉に、少女は顔を上げた。
「……零司は?」
「僕?」
少年は首を傾げた。
「そのとき考える」
少女は口を開きかけた。
しかし、結局何も言わずに歩き始めた。
今さら、この少年の考え方を変えようとしても無駄だ。
それだけは、十分に理解していた。
◇
倉庫の内部は、予想以上に広かった。
天井近くを走る搬送レール。
整然と並ぶ貨物棚。
壁際に放置された大型コンテナ。
設備の多くは停止していたが、中央の一角だけには照明が灯っている。
そこに、一組のテーブルと椅子が置かれていた。
そして。
「ようこそ」
一人の男が立ち上がった。
三十代半ばほど。
黒いスーツに細い眼鏡。
整えられた髪と、穏やかな笑顔。
研究者というより、企業の営業担当者に近い雰囲気だった。
「久遠零司様。そして、N-13」
少女の表情が強張る。
男はそれに気づいたのか、軽く頭を下げた。
「失礼。まだ個人名はお持ちでないと聞いておりましたので」
「……あなた、誰?」
「私ですか?」
男は笑った。
「八雲誠司と申します。物流管理と情報保全に関わる仕事をしております」
零司が椅子へ視線を向けた。
「座っていい?」
「もちろん」
「ありがと」
少年は、何の躊躇いもなく腰を下ろした。
少女は立ったままだった。
その様子を見た八雲が、小さく笑う。
「警戒されるのも無理はありませんね」
「……当たり前」
少女は低い声で答えた。
「……昨日、わたしたちを襲ったの、あなたの人たち?」
「ええ」
八雲は、あっさりと認めた。
「正確には、契約している回収担当者ですが」
少女の拳が握りしめられる。
「……あの人たち、記録を燃やそうとした」
「報告は受けています」
「……知ってたの?」
「現場判断による処置だったと聞いております」
八雲は表情を変えなかった。
「少なくとも、私が火災を起こすよう命じたわけではありません」
「……そんな言い訳」
「そうですね。責任がないとは申しません」
少女は言葉に詰まった。
目の前の男は、否定しない。
悪びれる様子もない。
ただ、事実を事実として説明している。
その態度が、丹羽宗一郎を思い出させた。
「八雲さん」
零司が口を挟んだ。
「一つ聞いていい?」
「何でしょう」
「僕に警告送ったの、君?」
「はい」
即答だった。
「手を引くよう連絡したのも、昨夜こちらへお招きしたのも私です」
「ふうん」
零司は笑った。
「じゃあ、ようやく会えたね」
八雲は微笑んだ。
「ええ。できれば、もっと平和的な形でお会いしたかったのですが」
「今からでも平和的にできるんじゃない?」
「そう願っています」
零司は椅子の背もたれへ身体を預けた。
「じゃあ、話そうか」
その目が、僅かに細くなる。
「君たち、何を隠してるの?」
◇
「まず、こちらをご覧ください」
八雲が端末を操作した。
倉庫の壁面に設置された大型ディスプレイが起動する。
表示されたのは、一台の搬送車だった。
白い車体。
研究施設で使用される業務用車両。
側面には、管理番号が記されている。
《K-041》
少女が息を呑んだ。
「……これ」
「七月十二日に使用されたと記録されていた搬送車両です」
八雲は説明した。
「もっとも、昨日確認されたとおり、実際には整備中でした」
「……じゃあ、嘘の記録?」
「その認識で構いません」
八雲は画面を切り替えた。
今度は、倉庫内部の監視映像だった。
日付は七月十二日。
時刻は午後七時四十二分。
映像には、大型の密閉式搬送コンテナが映っていた。
その側面には、小さく管理番号が記されている。
《N-12》
「……っ!」
少女が身を乗り出した。
「……あの子!」
「落ち着いてください」
八雲は静かに言った。
「これは被験体の移送記録です」
映像が進む。
白衣姿の研究員。
警備員。
そして、コンテナを運ぶ搬送装置。
「七月十二日、午後七時四十二分」
八雲が続けた。
「N-12は、こちらの施設へ搬入されました」
「……生きてたの?」
少女の声が震える。
「……そのとき、あの子は生きてたの?」
「少なくとも、搬入時点では生命反応が確認されています」
八雲は別の記録を表示した。
《被験体N-12》
《生体監視:正常範囲》
《搬入時状態:鎮静下》
少女は画面を見つめた。
七月十二日。
自分が、あの子はもう戻ってこないと知った日。
そのとき。
彼女は、まだ生きていた。
「……よかった」
小さな声が漏れた。
しかし、すぐに表情が曇る。
「……それで?」
八雲が顔を上げる。
「……その後、どうなったの?」
男は答えなかった。
代わりに、映像を進めた。
午後七時五十八分。
コンテナが、搬送区画の奥へ移動する。
午後八時三分。
施設の照明が、一瞬だけ明滅した。
そして。
午後八時六分。
《映像記録欠落》
ディスプレイが暗転した。
「…………」
少女は、画面を見つめていた。
「……これで、終わり?」
「いいえ」
八雲は別の画面を開いた。
そこには、一枚の写真が表示されている。
破損したコンテナ。
開いた扉。
床に落ちた拘束具。
そして。
空になった内部。
「……まさか」
少女の声が震えた。
八雲は静かに頷く。
「N-12は、ここから姿を消したのです」
◇
倉庫に、沈黙が落ちた。
「……逃げた?」
少女が尋ねる。
「その可能性が高いと考えています」
「……あの子が、自分で?」
「少なくとも、正規の搬送手続きによって運び出された記録はありません」
八雲は画面を操作した。
「警備記録にも、出入りした人物は記載されていない。搬送コンテナの施錠機構は破損し、監視映像も一部失われています」
零司が口を開いた。
「で、受領確認が取れてなかったわけだ」
「お察しのとおりです」
八雲は頷いた。
「移送先へ引き渡す前に、対象が消失しました」
「それを隠すために、K-041の記録を使った?」
「ええ」
あっさりとした肯定だった。
「実際には使用されていない車両を、搬送が完了したように見せかけるための識別番号として利用しました」
少女は八雲を睨んだ。
「……どうして、そんなことを?」
「管理上の問題です」
「……問題?」
「極めて重要な研究対象を、移送途中で紛失した」
八雲は淡々と続けた。
「その事実が正式に報告されれば、関係者の責任問題になりますから」
「…………」
「少なくとも、移送完了の記録があれば、発覚を遅らせることはできます」
少女の拳が震えた。
あの子は、生きていたかもしれない。
そして、逃げ出した可能性がある。
それなのに。
この男たちは、その事実を隠していた。
「……最低」
思わず言葉が漏れる。
八雲は微笑んだ。
「そうかもしれませんね」
その反応に、少女は余計に腹が立った。
「……どうして、そんなに平気なの?」
「私も仕事ですので」
「……仕事なら、何をしてもいいの?」
八雲は少し考えた。
「いいえ。何をしてもよいとは思っていません」
そして、穏やかに続ける。
「ただ、許されることと、必要なことが一致するとは限らないでしょう」
少女は、返す言葉を失った。
そのとき。
「ねえ、八雲さん」
零司が口を開いた。
「君、結構面白いね」
「……お褒めにあずかり光栄です」
「でもさ」
少年は、ディスプレイを指差した。
「一つ、変じゃない?」
八雲の表情が僅かに変わる。
「……何でしょう」
「これだけの騒ぎになったんでしょ?」
零司は笑った。
「なのに、丹羽さんは知らなかった」
「…………」
「君たち、研究所の人にも隠してたんだね」
八雲は数秒ほど黙っていた。
そして。
「……ええ」
静かに認めた。
「丹羽主任には、正式な移送処理が完了したと報告されています」
「ふうん」
零司は頷いた。
「じゃあ、丹羽さんも騙されてたんだ」
「少なくとも、この件については」
少女は画面を見つめた。
研究施設の責任者さえ、正確な情報を知らなかった。
それほどまでに、何かが隠されている。
しかし。
「……なら」
少女が口を開いた。
「……どうして、今になって教えるの?」
八雲の笑みが、僅かに深くなった。
「ようやく、本題に入れますね」
◇
「N-12を見つけていただきたいのです」
八雲の言葉に、少女は目を見開いた。
「……え?」
「我々は、七月十二日以降、対象の行方を追跡しています」
画面が切り替わる。
学園都市内の地図。
複数の監視地点。
通信履歴。
そして、いくつかの赤い印。
「ですが、現在まで確保には至っておりません」
「……それで?」
「あなた方に、協力していただきたい」
少女は黙り込んだ。
零司が、興味深そうに尋ねる。
「僕に?」
「正確には、N-13にです」
その瞬間。
少女の背筋が冷たくなった。
「……わたし?」
「ええ」
八雲は頷いた。
「七月十九日、あなたは何者かから逃亡を促すメッセージを受信したそうですね」
「……どうして、知ってるの?」
「丹羽研究室の通信記録を調べました」
八雲は端末を操作する。
ディスプレイに、短い文章が表示された。
『外へ出ろ』
『必ず迎えに行く』
少女の瞳が揺れた。
「……それ」
「送信には、N-12に関連する管理識別情報が利用されていました」
「……だったら!」
少女が身を乗り出す。
「……あの子が、送ったの?」
「分かりません」
八雲は首を横に振った。
「識別情報は、第三者が利用した可能性もあります」
「…………」
「ただし、我々が七月十二日以降に確認できた手掛かりの中では、極めて重要なものです」
八雲は少女を見つめた。
「あなたには、再び連絡が届く可能性があります」
そこで、少女は理解した。
この男が、自分たちを呼び出した理由。
「……わたしを、囮にするつもり?」
八雲は否定しなかった。
「協力をお願いしています」
「……同じこと」
「そうかもしれません」
男は、穏やかな笑みを浮かべた。
「ですが、あなたもN-12を探しているのでしょう?」
「…………」
「目的が一致するのであれば、協力する余地はあると思いませんか?」
少女は拳を握りしめた。
あの子を探したい。
それは本当だ。
だが。
目の前の男たちは、N-12を研究対象として追っている。
見つけたら、また施設へ閉じ込めるつもりなのだろう。
そんな人間たちに、協力していいはずがない。
「……嫌」
少女は、はっきりと答えた。
八雲の眉が僅かに動く。
「……理由を伺っても?」
「……あなたたちに、あの子を渡したくない」
静かな声だった。
「……見つけたとしても、絶対に渡さない」
八雲は、しばらく少女を見つめていた。
そして。
「……なるほど」
小さく頷いた。
「では、交渉は難しそうですね」
その声には、落胆の色さえなかった。
最初から、断られる可能性を想定していたのだろう。
しかし。
「一つ、確認させてください」
八雲が続ける。
「あなたが協力しない場合でも、我々はN-12の捜索を継続します」
「……分かってる」
「そして、もし確保できた場合は、所定の管理施設へ移送します」
少女の表情が強張った。
八雲は静かに微笑む。
「それでも、よろしいのですね?」
沈黙。
少女は唇を噛んだ。
あの子を探したい。
助けたい。
しかし、目の前の男たちに利用されるのは嫌だ。
どうすればいいのか。
答えが出ない。
「……零司」
思わず、隣の少年へ視線を向けた。
零司は、椅子に深く腰掛けていた。
その視線に気づくと、首を傾げる。
「ん?」
「……どう思う?」
少年は少し考えた。
そして。
「別に、協力しなくていいんじゃない?」
あっさりと答えた。
八雲が顔を向ける。
「……それは、久遠様のご判断でしょうか」
「違うよ」
零司は笑った。
「この子が嫌だって言ってるんだから、それで終わりでしょ」
少女が目を見開いた。
八雲は、少しだけ目を細める。
「……では、あなたご自身は?」
「僕?」
零司は考えた。
そして。
「もうちょっと、話を聞きたいかな」
その答えに、少女は眉をひそめた。
「……零司」
「安心して。今すぐ誰かを捕まえて渡すつもりはないよ」
少年は笑った。
「でも、八雲さんが何を知ってるのかは気になるし」
八雲は、静かに頷いた。
「……なるほど」
そして。
「では、もう一つだけお見せしましょう」
端末を操作する。
画面に、新しい記録が表示された。
◇
《七月十九日》
《午後六時四十一分》
《旧第六中継倉庫周辺》
《不明通信を検出》
少女は、画面を見つめた。
「……これ」
「N-13の逃亡が発生した日の記録です」
八雲は説明した。
「施設周辺で、N-12の管理識別情報に関連する通信が確認されました」
「……ここから?」
「少なくとも、発信地点の候補にこの周辺が含まれています」
少女が息を呑んだ。
七月十九日。
自分が研究施設から逃げ出した日。
その日に、N-12と関係する通信がこの倉庫の近くから発信されていた。
「……だったら、あの子は……!」
「ここにいた可能性があります」
八雲は頷いた。
「ですが、映像記録には残っていません」
少女は俯いた。
また、可能性。
また、分からない。
それでも。
少しずつ近づいている。
確かに、そう感じられた。
「……ねえ」
少女が口を開いた。
「……この記録、欲しい」
八雲が顔を上げる。
「……何ですって?」
「……今の通信記録」
少女は、真っ直ぐに男を見つめた。
「……わたしにも、渡して」
八雲は小さく笑った。
「それは、協力していただけるということでしょうか」
「……違う」
即答だった。
「……わたしが、あの子を探すため」
「…………」
「……あなたたちに渡すためじゃない」
八雲は、しばらく少女を見つめていた。
そして、零司へ視線を向ける。
零司は何も言わない。
ただ、興味深そうに少女を眺めている。
「……困りましたね」
八雲が呟いた。
「我々にも、情報を提供する理由が必要なのですが」
「……なら」
少女は、少し考えた。
そして。
「……代わりに、教える」
八雲の目が細くなる。
「……何を?」
「……わたしが、最初にメッセージを受け取った時刻」
少女は続けた。
「……研究施設の記録には、正確な受信時刻が残ってないんでしょ?」
「…………」
「……わたしの端末には、残ってる」
八雲の表情が変わった。
僅かな変化。
だが、零司は見逃さなかった。
「……へえ」
少年が小さく笑う。
少女は続ける。
「……通信が、この倉庫から送られたのかどうか」
少しだけ息を吸う。
「……時刻を比べれば、分かるかもしれない」
八雲は、数秒ほど黙っていた。
そして。
「……なるほど」
口元に、ゆっくりと笑みが浮かぶ。
「悪くない提案です」
少女は、緊張したまま男を見つめていた。
「……じゃあ」
「ええ」
八雲は頷いた。
「その条件で、情報を交換しましょう」
少女は、小さく息を吐いた。
自分で交渉した。
零司に頼るのではなく。
誰かの命令に従うのでもなく。
自分が欲しい情報を、自分の持つ情報と交換した。
それが正しい判断だったのかどうかは、まだ分からない。
だが。
少なくとも、今は自分で決めた。
◇
情報の照合には、数分も掛からなかった。
少女が持っていた受信時刻。
倉庫側に残されていた通信検出記録。
その二つが、同じ画面に並べられる。
「……あれ?」
零司が、小さく声を上げた。
「どうしたの?」
少女が尋ねる。
少年は画面を指差した。
「時間、違うね」
少女が目を凝らす。
《倉庫周辺・通信検出》
《七月十九日 十八時四十一分》
そして。
《N-13端末・メッセージ受信》
《七月十九日 十八時四十三分》
二分間の差。
「……二分?」
少女が呟く。
八雲は、眉をひそめた。
「……通信の遅延でしょうか」
「普通のメッセージなら、あり得るかもね」
零司は頷いた。
「でも、二分って結構長くない?」
「……中継処理の影響かもしれません」
「うん。そうかも」
零司は笑った。
「ただ、もう一つ気になるんだけど」
八雲が顔を上げる。
「何でしょう」
「君たち、七月十九日の記録だけ、妙に詳しいね」
「…………」
「十二日にN-12が逃げたんでしょ?」
零司は続ける。
「なのに、一週間後の通信まで追ってる」
「それは当然です。重要な研究対象ですので」
「うん」
零司は頷いた。
そして。
「じゃあ、何で見つけられなかったの?」
八雲の表情が止まった。
「…………」
「通信があったことは分かった」
零司は笑っている。
「場所も、ある程度分かってる」
「…………」
「それなのに、本人の姿は確認できてない」
少年の灰紫色の瞳が、静かに細められた。
「……本当に、見つけられなかっただけ?」
八雲は答えなかった。
その沈黙が、少女の胸に小さな不安を生んだ。
「……八雲さん?」
呼びかける。
男は、ゆっくりと息を吐いた。
「……申し訳ありません」
静かな声。
「それについては、お答えできません」
少女の表情が変わった。
「……何で?」
「契約上の制約があります」
「……また、それ……!」
少女は、拳を握りしめた。
そのときだった。
ピッ。
短い電子音が響いた。
◇
《警告》
《外部からの接続を検知》
八雲の端末に、赤い表示が現れた。
「……何?」
男の表情が変わる。
続いて、倉庫の照明が明滅した。
《監視系統:異常》
《内部通信:遮断》
「……っ!」
八雲が立ち上がる。
零司は、天井へ視線を向けた。
「……へえ」
次の瞬間。
倉庫の高所に設置されていた整備用ハッチが、音を立てて開いた。
そこから、複数の小型飛行装置が降下してくる。
黒い機体。
機体下部には、小型の射出装置。
通常の警備用機器とは異なる、明らかな武装が確認できた。
「……何、あれ……!」
少女が後ずさる。
八雲は、顔を強張らせた。
「……予定にない!」
「そうなんだ」
零司が笑った。
「じゃあ、お客さん?」
直後。
小型飛行装置が、一斉に動いた。
狙いは。
久遠零司ではなかった。
「……っ!」
八雲が息を呑む。
複数の金属製弾体が、男へ向かって放たれた。
しかし。
そのすべてが、空中で停止した。
「……危ないなぁ」
零司が、ゆっくりと立ち上がる。
金属製の弾体が、床へ落ちる。
カラカラと音を立てて転がった。
八雲は、呆然としていた。
「……久遠様」
「ん?」
「……今、私を……」
「死なれたら困るでしょ」
零司は、あっさりと答えた。
「まだ聞きたいことあるし」
そのまま、天井を見上げる。
小型飛行装置が、再び射出装置を展開した。
「……でもさ」
零司は、小さく笑った。
「人が話してる途中に割り込むの、あんまり好きじゃないんだよね」
直後。
飛行装置の動きが止まった。
一機。
二機。
三機。
すべての機体が、空中で静止する。
回転翼は回り続けている。
姿勢制御装置も作動している。
しかし、機体は一切動かない。
まるで、空間そのものに縫い付けられたかのようだった。
零司が、軽く指を動かす。
次の瞬間。
バキンッ!
鈍い破砕音。
すべての飛行装置から、武装部分だけが切り離された。
射出機構。
制御基板。
弾体を保持する装置。
それらが次々と床へ落ちる。
機体本体は、静かに着地した。
「はい、おしまい」
零司は満足そうに頷いた。
八雲は、何も言えなかった。
ほんの数秒。
それだけで、武装した飛行装置が完全に無力化された。
しかも、倉庫の設備にはほとんど被害がない。
必要な部分だけを、正確に破壊している。
「……これが」
八雲の声が震えた。
「……第零位……」
零司は振り返った。
「ん?」
そして、笑う。
「そう呼ぶ人もいるね」
その声には、何の感慨もなかった。
◇
「……八雲さん」
零司が声を掛けた。
男は、ゆっくりと顔を上げる。
「……はい」
「今の、君を狙ってたよね」
「…………」
「僕でも、この子でもなく」
零司は床に転がる飛行装置を指差した。
「君だけ」
八雲は、唇を噛んだ。
「……そうですね」
「何で?」
男は答えなかった。
零司は、少しだけ考えた。
そして。
「もしかして、君も知られちゃ困ること、喋っちゃった?」
八雲の表情が変わった。
その反応を見て、零司の笑みが深くなる。
「……当たり?」
「…………」
「ねえ」
少年は、一歩近づいた。
「君たち、本当に一枚岩じゃないんだね」
八雲は、ゆっくりと息を吐いた。
そして。
「……久遠様」
「ん?」
「一つ、お願いがございます」
「何?」
八雲は、少女へ視線を向けた。
「……N-13を、ここから連れ出してください」
少女が目を見開いた。
「……え?」
「できれば、すぐに」
八雲は続ける。
「今の襲撃は、私が手配したものではありません」
「……それは分かるけど」
零司は首を傾げた。
「君、何か知ってるの?」
八雲は、しばらく黙っていた。
そして。
「……一つだけ」
小さく答えた。
「N-12に関する記録は、私の管理権限ではすべて確認できません」
「うん」
「ですが、七月十九日の通信については、別の記録が存在します」
少女の表情が変わった。
「……別の?」
八雲は頷いた。
「監視映像ではありません」
「……何?」
「音声です」
その言葉に、少女は息を呑んだ。
「……音声……?」
「ええ」
八雲は、自分の端末を操作した。
画面には、短い記録が表示されている。
《七月十九日》
《通信記録・音声断片》
《保存時間:三・八秒》
少女は、画面を見つめた。
「……聞かせて」
八雲は少し迷った。
しかし、やがて再生操作を行った。
ザザッ。
短い雑音。
そして。
『……十三……』
少女の身体が、硬直した。
雑音が続く。
『……まだ……』
途切れ途切れの声。
若い女性のものだった。
そして、最後に。
『……見つけ……』
音声が途切れた。
沈黙。
少女は、動かなかった。
「……これ」
小さな声が漏れる。
「……誰の、声……?」
「断定できません」
八雲は答えた。
「識別情報はN-12に関連していますが、本人の声であるという確認は取れていません」
「…………」
少女は、端末を見つめていた。
自分の番号。
十三。
そして、見つけるという言葉。
あのメッセージと関係があるのだろうか。
それとも。
誰かが、自分を誘い出そうとしているだけなのだろうか。
「……零司」
少女が、小さく呼びかけた。
零司は、音声記録を眺めていた。
「ん?」
「……あの子、なのかな……」
少年は、少し考えた。
そして。
「分かんない」
正直に答えた。
少女は俯いた。
しかし、零司は続ける。
「でも、調べる方法はあるんじゃない?」
少女が顔を上げる。
「……どうやって?」
「音声の記録が残ってるなら、元の通信もどこかに残ってるかもしれないし」
零司は八雲へ視線を向けた。
「ねえ、八雲さん」
「……はい」
「それ、僕たちにも渡してよ」
八雲は、しばらく黙っていた。
そして、静かに頷いた。
「……分かりました」
端末を操作する。
暗号化された音声記録。
その写しが、零司の携帯端末へ送信された。
「ありがと」
零司は満足そうに笑った。
「じゃあ、これで取引成立かな」
八雲は、小さく息を吐いた。
「……ええ」
しかし。
その顔には、安堵の色がなかった。
◇
午後四時四十八分。
第六中継倉庫の外。
少女は、静かに歩いていた。
手には、今日入手した記録。
七月十二日の搬入映像。
N-12が倉庫から消えたことを示す資料。
そして、七月十九日の音声断片。
すべて、零司の端末にも保存されている。
だが、少女はまだ安心できなかった。
「……零司」
「ん?」
「……あの人、どうなるの?」
倉庫の中に残った八雲誠司。
自分たちへ情報を渡した男。
そして、何者かに命を狙われた人間。
零司は少し考えた。
「さあ?」
「……また、狙われるんじゃ……」
「そうかもね」
少女は足を止めた。
「……助けなくて、いいの?」
零司も足を止めた。
そして、振り返る。
「助けたいの?」
少女は、言葉に詰まった。
八雲は、自分を利用しようとした。
N-12を捕まえるために、囮にしようとした。
それでも。
目の前で殺されそうになった人間を、そのまま放っておく。
それでいいのだろうか。
「……分からない」
少女は小さく答えた。
零司は頷いた。
「そっか」
「……零司は?」
「僕?」
少年は少し考えた。
「今のところ、もう助ける理由はないかな」
少女の表情が曇る。
しかし。
「でもさ」
零司が続けた。
「君が助けたいなら、戻ってもいいよ?」
「……え?」
「止めないし」
少年は笑った。
「ただ、僕が付き合うかどうかは別だけどね」
少女は、しばらく零司を見つめていた。
そして。
「……やめる」
小さく答えた。
「……今は、あの子を探したい」
零司は頷いた。
「うん」
「……それが、わたしの決めたことだから」
少女は、再び歩き始めた。
零司は、その後を追う。
今はまだ、すべてを救うことなどできない。
誰かを助けるために、別の誰かを見捨てることもある。
その選択が正しいのかどうか。
少女には分からなかった。
だが。
自分が選んだという事実だけは、消えなかった。
◇
同日、午後六時過ぎ。
第六中継倉庫。
八雲誠司は、一人で端末を操作していた。
周囲には、破壊された小型飛行装置が転がっている。
すでに救援は手配した。
施設の通信も、一部復旧している。
しかし。
「……まさか」
八雲は、小さく呟いた。
「本当に、あれほどとは……」
久遠零司。
極秘識別番号、ZERO。
学園都市の公式序列に存在しない少年。
事前に与えられていた情報では、危険性は理解していた。
だが、実際に目にした力は、それを遥かに上回っていた。
複数の武装飛行装置を、一瞬で無力化する。
しかも、必要な部分だけを正確に破壊していた。
あれほどの力を持ちながら、本人は何事もなかったかのように笑っていた。
「……化け物ですね」
小さな呟き。
しかし、八雲はすぐに首を振った。
今、重要なのは零司の力ではない。
自分が、どこまで知られてしまったのか。
それが問題だった。
八雲は、端末の画面を切り替えた。
《被験体N-12》
《七月十九日・通信記録》
《原本保存領域:制限中》
その下には、もう一つの表示があった。
《音声断片:提供済》
《未公開部分:保存》
八雲は、しばらく画面を見つめていた。
そして。
「……申し訳ありません」
誰に向けた言葉なのか。
本人にも、分からなかった。
ゆっくりと操作する。
画面に、短い音声記録が表示された。
今度は、先ほど再生したものよりも長い。
《保存時間:十一・六秒》
八雲は、再生ボタンを押した。
ザザッ。
雑音。
そして。
『……十三……』
若い女性の声。
『……まだ……』
途切れ途切れの言葉。
続いて。
『……見つけ……』
そこまでは、零司たちに聞かせたものと同じだった。
しかし。
音声は、まだ続いていた。
『……見つけないで……』
八雲の表情が、静かに曇った。
そして、最後の言葉。
『……あの人に……知られたら……』
ブツン。
通信が途切れた。
沈黙。
八雲は、端末を見つめた。
「……さて」
小さく息を吐く。
「どうしたものでしょうね」
N-12。
行方不明となった被験体。
そして、N-13へ送られた謎のメッセージ。
その二つが、本当に繋がっているのか。
八雲にも、まだ分からない部分があった。
しかし。
一つだけ確かなことがある。
七月十九日に記録された音声には、明らかな警告が含まれていた。
見つけないで。
あの人に知られたら。
その言葉が、誰へ向けられたものなのか。
何を意味しているのか。
八雲は、まだ判断できずにいた。
そして。
彼がその音声の続きを伏せたことによって、久遠零司とN-13は最も重要な情報の一つを知らないまま、倉庫を後にした。
◇
午後九時過ぎ。
久遠零司の部屋。
「……もう一回」
少女が言った。
零司は、携帯端末を操作した。
短い雑音。
そして、あの声。
『……十三……』
『……まだ……』
『……見つけ……』
そこで、音声が途切れる。
「…………」
少女は、じっと画面を見つめていた。
「……何回聞いても、分からない」
「そうだね」
零司は頷いた。
「でも、声は覚えてないの?」
「……少しだけ」
少女は俯いた。
研究施設。
白い廊下。
隣の部屋にいた少女。
N-12。
何度か姿を見かけた。
一度だけ、微笑みかけてもらった。
だが、まともに話したことはほとんどなかった。
声も、はっきりとは覚えていない。
「……あの子かどうか、分からない」
少女は、小さく呟いた。
零司は頷く。
「じゃあ、別の方法で調べるしかないね」
「……うん」
少女は、端末を見つめた。
音声の向こう側。
そこにいるのは、誰なのか。
あの子なのか。
それとも、まったく別の誰かなのか。
まだ、何も分からない。
しかし。
もう一つだけ、確かなことがあった。
誰かが、自分の番号を呼んだ。
十三。
研究施設で、自分に与えられた番号。
そして。
その声は、何かを伝えようとしていた。
「……零司」
「ん?」
「……わたし、やっぱり探す」
少女は顔を上げた。
「……あの子が、生きてるかもしれないから」
零司は、少しだけ笑った。
「うん」
「……それに」
少女は、端末を握りしめた。
「……もし、本当にあの子が送ってくれたなら」
言葉を探す。
そして。
「……今度は、わたしが迎えに行きたい」
零司は、しばらく少女を見つめていた。
その表情には、いつもの悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
だが。
今度は、何も茶化さなかった。
「……そっか」
小さく頷く。
「じゃあ、次はどこを調べる?」
少女は、少し驚いたように目を瞬かせた。
零司は続ける。
「君が決めるんでしょ?」
少女は、ゆっくりと頷いた。
「……うん」
そして、もう一度端末へ視線を向けた。
N-12。
消えた少女。
まだ、姿は見えない。
しかし。
確実に、何かが近づいている。
そんな予感がしていた。
そのとき。
零司の端末に、新しい通知が届いた。
「……ん?」
画面を見る。
差出人は不明。
短いメッセージだった。
『八雲誠司を信用するな』
零司の目が細くなる。
続いて、二通目。
『あの男は、まだ何かを隠している』
そして。
三通目。
『N-12を探すなら、まず彼女が何から逃げたのかを知れ』
零司は、数秒ほど画面を見つめていた。
それから。
静かに笑った。
「……へえ」
少女が顔を上げる。
「……何?」
零司は、端末を彼女へ向けた。
「また、新しいお客さんみたい」
少女は、表示された文章を読んだ。
そして。
「……何から、逃げたの……?」
小さく呟いた。
N-12。
研究施設から消えた少女。
彼女は、何から逃げたのだろう。
研究者たちからか。
実験からか。
それとも。
もっと別の、何かからか。
その答えは、まだ分からない。
だが。
久遠零司は、端末を見つめたまま楽しそうに笑っていた。
そして。
「……さて」
小さく呟く。
「今度は、誰が出てくるのかな」
学園都市の第零位。
その少年の知らないところで、複数の思惑が動き始めていた。
消えた十二号。
研究施設。
情報を隠す者。
情報を求める者。
そして。
何者かが、久遠零司へ接触しようとしている。
それぞれの目的は、まだ見えていない。
ただ一つだけ。
確かなことがあった。
この事件は、まだ終わっていない。
むしろ。
ようやく、本当の始まりを迎えようとしていた。