『十三』
『今すぐ、その少年から離れろ』
七月二十八日、午前十一時五十二分。
地下貨物搬送施設、ECHO中央保管庫。
N-13は、携帯端末に届いた文章を見つめていた。
送り主は不明。
発信元も特定できない。
だが、内容だけは明確だった。
久遠零司から離れろ。
それが、何者かの要求だった。
「……どうして」
少女が呟く。
隣では、零司が自分の端末を眺めていた。
「さあ?」
少年は肩をすくめる。
「僕が嫌いなんじゃない?」
「……そういう問題?」
「違うの?」
N-13は答えなかった。
研究施設から逃げ出した夜。
零司は、自分を捕まえるために現れた。
その後、研究施設と取引し、自分を連れ出した。
最初から味方だったわけではない。
今だって、本当に信用できるのかと聞かれれば、簡単には頷けない。
けれど。
見知らぬ相手から離れろと言われたからといって、従う理由もない。
少女は画面へ指を伸ばした。
『あなたは誰?』
送信。
数秒後。
返信が届いた。
『今は教えられない』
「…………」
N-13は眉をひそめた。
『理由も教えずに、命令しないで』
再び送信する。
今度は、返事がなかった。
「……無視された」
「面倒な相手だね」
零司が呟く。
「……あなたが言う?」
「僕は面倒くさいこと嫌いだもん」
零司は、欠伸を噛み殺した。
「知らない人からの命令なんて、いちいち聞いてられないよ」
「……でも、気になるんでしょ?」
「まあね」
少年の口元に、薄い笑みが浮かぶ。
「わざわざ僕のことを知ってるって教えてくれたわけだし」
N-13は端末を伏せた。
それから、中央保管庫の奥へ視線を向ける。
そこには、PROJECT:ECHOの記録装置が並んでいた。
「……先に、こっちを調べる」
「うん」
零司は頷いた。
「僕もそっちの方が面白そう」
◇
「その記録を、無断で閲覧することは認められません」
鳴瀬沙耶が言った。
PROJECT:ECHOの実験管理責任者。
彼女は中央端末の前に立ち、N-13を制止していた。
「……まだ、そんなこと言うの?」
少女は眉をひそめる。
「機密情報です。被験者本人であっても、閲覧権限はありません」
「へえ」
零司が口を挟んだ。
「じゃあ、鳴瀬さんは見られるの?」
「……一部は」
「なら、見せてよ」
「お断りします」
即答だった。
零司は、少しだけ考えた。
そして、鳴瀬へ視線を向ける。
「ねえ」
「……何でしょう」
「僕、さっきまで結構機嫌よかったんだけど」
鳴瀬の表情が僅かに変わる。
「…………」
「同じ話を何回もするのって、面倒なんだよね」
少年は笑っていた。
しかし、灰紫色の瞳には、先ほどまでの気楽さがなかった。
「見せるの?」
鳴瀬は唇を噛んだ。
地下第五区画。
十二名の武装警備兵。
そのうち一人が死亡し、残りは抵抗すらできずに拘束された。
数百トンの貨物列車を移動させるような存在。
その少年が、今、自分の目の前にいる。
「……分かりました」
鳴瀬は端末から離れた。
「ただし、私にも閲覧できない記録があります」
「それは後で考えるよ」
零司は、あっさりと答えた。
そして、N-13へ視線を向ける。
「はい。どうぞ」
少女は、鳴瀬を警戒しながら端末へ近づいた。
画面に表示されているのは、複数の研究項目だった。
《PROJECT:ECHO》
《第一段階:観測干渉能力の測定》
《第二段階:観測基準信号の維持》
《第三段階:外部観測者との接触試験》
「……第三段階?」
少女が呟く。
鳴瀬の表情が変わった。
「……その項目は」
「……何?」
「私の担当範囲ではありません」
N-13は振り返った。
「……計画の責任者なのに?」
「正確には、第二段階までの実験管理責任者です」
鳴瀬は答えた。
「第三段階は、別の管理系統によって追加されています」
「……また、上の人?」
「そういうことになります」
少女は、再び画面を見つめた。
そこには、一つの疑問が残っていた。
「……外部観測者って、誰?」
鳴瀬は答えなかった。
零司が横から覗き込む。
「開いてみれば?」
少女は頷いた。
画面に触れる。
《閲覧権限がありません》
「……駄目」
「ふうん」
零司は装置を眺めた。
「それ、どこに保存されてるの?」
鳴瀬が眉をひそめる。
「中央記録媒体ですが……」
「じゃあ、媒体を取り出せば?」
「待ってください!」
鳴瀬が慌てて声を上げた。
「認証せずに取り外せば、保護処理が作動します!」
「面倒だなぁ」
零司は、本当に嫌そうな顔をした。
しかし、すぐに笑う。
「じゃ、保護処理だけ止めればいいね」
少年が装置へ手を伸ばした。
内部から、小さな金属音が響く。
固定機構が解除され、記録媒体の収納部が開いた。
同時に、保護用の電気回路が作動しようとする。
だが。
必要な箇所に電流が流れない。
零司が、局所的な電気伝導の条件を変更していた。
装置は消去命令を出している。
しかし、記録媒体へ破壊的な書き込みを行うことができない。
「……何を」
鳴瀬が呟く。
「壊してはいないよ」
零司は、媒体を取り出した。
「必要な情報まで消えたら、つまんないでしょ?」
◇
解析には、少し時間が掛かった。
記録媒体そのものは取り出せた。
しかし、保存されている情報がすべて読めるわけではない。
暗号化された領域。
アクセス制限。
そして、欠落している管理情報。
零司が物理的な装置を操作できても、存在しない認証情報を知っているわけではなかった。
「……読めない」
N-13が呟く。
「じゃあ、別のを見ようよ」
零司は椅子に腰を下ろした。
「暗号解読とか、時間掛かりそうだし」
「……諦めるの?」
「面白いものが出てくるなら待つけど、ずっと画面見てるのは退屈」
少年は頬杖をついた。
N-13は小さく息を吐いた。
そのとき。
「……あれ?」
画面の一角に、別の項目が表示されていることに気づいた。
《緊急保全記録》
《観測対象照合履歴》
少女は、その項目を選択した。
画面が切り替わる。
《観測基準識別:N-12》
《信号種別:端末応答》
《最終検出:七月二十七日 二十三時十四分》
《検出範囲:第七学区・住宅区画》
「…………」
見覚えのある情報だった。
昨日の夜。
零司の住居付近で、N-12に関連する信号が確認されたという記録。
しかし。
「……端末応答?」
N-13の指が止まった。
昨日は、位置情報ばかり気にしていた。
だが、今見ると違和感がある。
これは、人間の生体反応を示す記録ではない。
何らかの通信装置からの応答だ。
「……鳴瀬」
少女が振り返る。
「……これ、どういう意味?」
鳴瀬は画面を確認した。
「観測基準用の端末が、管理系統へ応答したという意味です」
「……じゃあ」
少女の声が僅かに震えた。
「……N-12がそこにいたわけじゃない?」
「そうとは限りません」
鳴瀬は答えた。
「観測基準信号は、対象本人とは別の装置から送信される場合があります」
N-13は、画面を見つめた。
その言葉が意味すること。
N-12の信号が、自分たちの家の近くで検出された。
だから、あの子が近くにいたのかもしれないと思った。
しかし。
実際には、端末が応答しただけだった。
「……その装置、どれ?」
少女が尋ねる。
鳴瀬は画面を操作した。
《基準信号送信装置》
《登録識別:E-12R》
《管理状態:外部運用》
さらに、装置の製造情報が表示される。
N-13は、その文字列を見つめた。
そして。
「……待って」
小さく呟いた。
思い出した。
七月二十二日。
電子機器修理店。
自分の端末を調べてもらったとき、店員が言っていた。
『通信基板に、後付けの部品が組み込まれています』
製造元の標準仕様にはない装置。
外部から端末の状態を確認するためのもの。
「……零司」
「ん?」
「……わたしの端末」
少女は、服の内側から割れた携帯端末を取り出した。
「……これに、変な部品が入ってた」
零司が顔を上げた。
「ああ、修理屋さんで言ってたやつ?」
「……うん」
少女は、二つの記録を見比べた。
以前の解析結果。
そこに記されていた部品の製造識別。
そして、今表示されているECHOの装置情報。
完全には一致しない。
だが、製造系列と通信方式が共通していた。
「……これ」
少女は鳴瀬へ画面を向けた。
「……同じ種類の装置?」
鳴瀬の表情が変わる。
「……確認させてください」
少女は、端末を渡さなかった。
「……見るだけ」
「……承知しました」
鳴瀬が身を乗り出す。
数秒後。
「……可能性はあります」
静かに答えた。
「ただし、内部の識別情報を照合しなければ、同一装置かどうかは判断できません」
N-13は、ゆっくりと息を吐いた。
もし、自分の端末にN-12の基準信号を送る装置が組み込まれていたのなら。
七月二十七日の夜。
第七学区の住宅区画で信号が検出された理由を説明できる。
そのとき、自分は零司の部屋にいたのだから。
「……じゃあ」
少女は、小さく呟いた。
「……あの子が近くにいたんじゃなくて」
零司が、隣から画面を覗き込む。
「君の端末が反応しただけかもしれないんだね」
「……うん」
少女は頷いた。
少しだけ、胸が痛んだ。
あの子が近くにいるかもしれない。
そう思ったからこそ、希望が持てた。
だが、それもまだ確かなものではなかった。
零司は、端末を見つめていた。
そして。
「……でもさ」
少女が顔を上げる。
「……何?」
「どうして、君の端末にそんなものが入ってるの?」
その一言に。
少女の動きが止まった。
◇
「……被験者の観測情報を取得するためです」
鳴瀬が答えた。
「N-13の能力は、通常の観測方法では測定が困難になることがあります」
少女は黙って聞いていた。
「そのため、別の基準信号と照合する方式が検討されていました」
「……つまり?」
零司が尋ねる。
「N-13本人の観測情報が不安定になっても、基準信号との関係を記録することで、間接的に変化を追跡するということです」
零司は少し考えた。
「なるほど。見えなくなっても、別のものを手掛かりに追いかけるんだ」
「概ね、その理解で構いません」
N-13は、手元の端末を見下ろした。
ずっと持っていた。
研究施設から逃げ出した夜も。
零司と出会ったときも。
彼の部屋で暮らすようになってからも。
この端末は、常に近くにあった。
「……じゃあ」
少女が呟く。
「……わたしが、どこにいるか」
鳴瀬を見る。
「……ずっと、調べられてたの?」
「装置が正常に通信していれば、その可能性はあります」
「…………」
少女は、端末を強く握った。
研究施設を出た。
あの白い部屋から逃げた。
ようやく、自由になれたと思っていた。
だが。
自分の手で持ち歩いていたものが、研究施設の監視に使われていたかもしれない。
「……壊したい」
小さく呟く。
零司が顔を向けた。
「壊す?」
「……うん」
少女は端末を見つめた。
「……でも」
すぐに首を振る。
「……まだ、記録が残ってる」
大切なメッセージ。
通信履歴。
N-12へ繋がるかもしれない情報。
それを消してしまいたくはなかった。
零司は、少しだけ考えた。
そして、片手を差し出した。
「貸して」
「……え?」
「余計な部品だけ外せばいいんでしょ?」
少女は、零司を見つめた。
そして、ゆっくりと端末を渡した。
「……記録は、消さないで」
「分かってる」
零司は端末を眺めた。
内部の構造。
基板。
記憶素子。
通信部品。
そして、後付けされた小さな装置。
その接続状態を確認する。
「……あった」
少年が呟いた。
次の瞬間。
カチリ。
端末の外装が、音もなく開いた。
内部の固定具が外れ、小さな基板が浮き上がる。
配線は引きちぎられていない。
接続端子だけが、正確に切り離されていた。
零司は、その基板を指先で摘まんだ。
「これかな」
少女が覗き込む。
「……小さい」
「そうだね」
零司は、基板をテーブルへ置いた。
それから端末の外装を元に戻す。
「はい」
少女へ返した。
「これで、余計な通信は減ると思うよ」
少女は、端末を受け取った。
画面が正常に点灯する。
保存された記録も残っている。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
零司は、小さな基板を眺めていた。
そして。
「これ、捨てちゃう?」
少女は首を横に振った。
「……まだ、持っておく」
「何で?」
「……証拠になるかもしれないから」
零司は、少しだけ笑った。
「そっか」
少女は基板を小さな保管袋へ入れた。
その目には、先ほどまでとは違う強い意思が宿っていた。
逃げるために、何かを捨てる。
それだけではない。
自分が何を持ち、何を手放すのか。
それを、自分で決める。
今度は、そうしたかった。
◇
「……あれ?」
零司が、記録媒体の一覧を眺めていた。
少女が顔を向ける。
「……何?」
「これ、面白そう」
少年は、一つの項目を指差した。
《第三段階》
《外部観測者接触計画》
少女の表情が変わる。
「……さっきの」
「うん」
零司は頷いた。
「暗号化されてるけど、管理概要だけ残ってるみたい」
画面には、複数の項目が並んでいた。
《計画登録日:七月十二日》
《対象:N-13》
《外部接触候補:ZERO》
「…………」
少女の目が見開かれた。
「……ZERO?」
零司は、画面を見つめた。
そして。
「……へえ」
口元に、ゆっくりと笑みが浮かぶ。
「僕のことだ」
鳴瀬が息を呑んだ。
「……そんな」
零司が振り返る。
「知らなかったの?」
「……第三段階については、私の管理権限では……」
「そっか」
零司は画面へ視線を戻した。
さらに、項目を開く。
《外部観測者接触計画》
《候補識別:ZERO》
《接触方式:外部回収業務への誘導》
《実施条件:N-13の施設外移動》
《計画承認:七月十二日 二十時五分》
少女は、何度も画面を読み返した。
七月十二日。
午後八時五分。
N-13へのメッセージの配送要求が作成された時刻。
それと同じ時刻に、外部接触計画が承認されている。
しかも。
その候補者として指定されていたのは。
「……零司」
少女が、小さく呼びかけた。
「ん?」
「……これ」
画面を指差す。
「……最初から、あなたを呼ぶつもりだったの?」
零司は、少しだけ考えた。
「そういう計画だったみたいだね」
「……でも」
少女の声が震えた。
「……あなたは、丹羽に頼まれて……」
「うん」
零司は頷いた。
「七月十九日に、逃げた君を捕まえてほしいって依頼された」
「……それも、計画の一部だったの?」
零司は画面を眺めた。
「さあ?」
そして、少しだけ笑う。
「少なくとも、そうなるよう仕向けたかったんだろうね」
少女は、何も言えなかった。
七月十九日。
研究施設から逃げ出した。
知らない誰かから、メッセージが届いた。
必ず迎えに行く。
そう書かれていた。
けれど、迎えに来たのは、その送り主ではなかった。
研究施設から雇われた少年。
久遠零司。
そして今。
その少年の名前が、七日前の計画書に記されている。
「……じゃあ」
少女は、唇を噛んだ。
「……わたしたちが出会ったのも、全部……?」
零司は、首を傾げた。
「全部って?」
「……誰かが、決めてたの?」
数秒の沈黙。
零司は、画面に表示された《ZERO》という文字列を見つめた。
それから。
「そこまでは分からないよ」
あっさりと答えた。
「僕に仕事を頼ませようとした人がいた。それは分かった」
「……うん」
「でも、僕が引き受けるかどうかは別でしょ?」
少女は顔を上げた。
零司は続ける。
「それに、君を研究所へ返さなかったのも、僕が決めたことだし」
「…………」
「誰かの計画が、全部そのとおりに進んだとは限らないんじゃない?」
少女は、しばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
確かに。
研究施設の人間が、零司を利用しようとしたのだとしても。
零司が、その命令に従い続けたわけではない。
何より。
自分も、ただ計画どおりに動き続けているわけではない。
「……でも、腹が立つ」
少女が呟いた。
「……勝手に、決められてたなんて」
「分かる」
零司が頷いた。
少女は、少し驚いて顔を上げる。
「……え?」
少年は画面を見つめていた。
その口元には、笑みが浮かんでいる。
しかし、目は笑っていなかった。
「僕の予定まで勝手に組んでるんだもん」
軽い声だった。
「面倒なことしてくれるねぇ」
鳴瀬の背筋が冷たくなった。
先ほどまでの零司とは、少しだけ雰囲気が違う。
怒鳴っているわけではない。
殺意を露わにしているわけでもない。
ただ。
他人に自分の行動を決められようとしたこと。
その事実が、気に入らないらしかった。
「……久遠様」
鳴瀬が、慎重に口を開いた。
「……第三段階は、私の指示ではありません」
「うん。知ってる」
零司は振り返った。
「でも、君なら調べられることもあるでしょ?」
「……それは」
鳴瀬は言葉に詰まった。
零司は笑った。
「僕、細かいことを調べるのって苦手なんだよね」
少年は、記録装置を指差す。
「だから、お願い」
「……何を?」
「この計画を承認した人、調べてよ」
鳴瀬は息を呑んだ。
「……それは、危険です」
「そう?」
「私の権限を上回る管理系統です。調査したことが発覚すれば、私自身が処分される可能性もあります」
「そっか」
零司は、少しだけ考えた。
そして。
「じゃあ、断ってもいいよ」
鳴瀬が目を見開く。
「……よろしいのですか?」
「うん」
零司は頷いた。
「別の人を探すだけだし」
そして、楽しそうに笑った。
「ただ、君が何を知ってるのかは気になるから、もう少し付き合ってもらうけどね」
鳴瀬は、何も言えなかった。
目の前の少年は、自分の命を保証したわけではない。
協力しなければ殺すとも言っていない。
ただ、自分にとって都合のいい選択肢を並べている。
そのどれを選ぶかは、相手次第。
だが。
選んだ後にどうなるかまでは、約束していない。
「……分かりました」
鳴瀬は、静かに息を吐いた。
「調査できる範囲で、確認します」
「ありがと」
零司は満足そうに笑った。
◇
午後零時三十分。
中央保管庫。
N-13は、端末に表示された計画概要を見つめていた。
《第三段階》
《外部観測者接触計画》
《候補識別:ZERO》
零司を外部観測者として接触させる。
その計画が、七月十二日の時点で存在していた。
しかし。
実際に、誰が丹羽へ依頼を出させたのか。
どの段階まで計画が実行されたのか。
そして、なぜ零司が選ばれたのか。
まだ分からない。
「……零司」
「ん?」
少年は、近くの椅子に座っていた。
「……一つ、聞いていい?」
「いいよ」
少女は、少し迷った。
そして。
「……あのメッセージ」
自分の端末を見せる。
『十三』
『今すぐ、その少年から離れろ』
「……あなたは、どう思う?」
零司は文章を眺めた。
それから、肩をすくめる。
「僕と一緒にいるのが、都合悪い人なんじゃない?」
「……それだけ?」
「それだけでも十分でしょ」
零司は笑った。
「僕を呼び込もうとした人がいて、君を僕から離したい人もいる」
少女の瞳が動く。
「……別の人?」
「かもしれないね」
零司は頷いた。
「同じ組織でも、意見が違うことはあるし」
少女は画面を見つめた。
誰かが、自分と零司を出会わせようとした。
そして、別の誰かが、自分を零司から引き離そうとしている。
そのどちらも、自分たちの意思とは関係なく動いている。
「……嫌だ」
少女が呟いた。
「……また、誰かに決められるのは」
零司は、しばらく少女を見つめていた。
そして。
「じゃあ、決めなきゃいいじゃん」
少女が顔を上げる。
「……え?」
「知らない人の言うとおりにする必要ないでしょ?」
零司は、背もたれへ身体を預けた。
「僕から離れたいなら離れればいいし、まだ一緒にいたいならいればいい」
「…………」
「君の問題なんだから、君が決めれば?」
少女は、しばらく考えた。
零司と一緒にいることが安全なのか。
それは分からない。
彼は強い。
圧倒的な力を持っている。
しかし、昨日までの出来事で分かったこともある。
零司は、自分が想像していたような優しい保護者ではない。
必要なら、人を殺す。
しかも、その判断に躊躇しない。
だから。
彼と一緒にいれば、必ず安心できるというわけではない。
けれど。
「……今は、離れない」
少女は、静かに答えた。
零司が顔を向ける。
「……どうして?」
「……まだ、知りたいことがあるから」
少女は続ける。
「……あなたが、何を考えてるのかも」
少しの沈黙。
それから。
零司は笑った。
「そっか」
少女は頷いた。
「……でも」
「ん?」
「……あなたが何でも勝手に決めていいとは、思ってない」
零司は、少しだけ目を瞬かせた。
そして。
「それは難しい注文だね」
楽しそうに笑った。
「僕、自分のことは勝手に決めるよ?」
「……分かってる」
少女は、まっすぐに零司を見つめた。
「……だから、わたしも自分で決める」
零司は、数秒ほど黙っていた。
そして。
「……うん」
小さく頷いた。
「それでいいんじゃない?」
◇
午後一時四分。
中央保管庫の奥。
「……久遠様」
鳴瀬が、慎重に声を掛けた。
「少し、確認したいことがございます」
零司が顔を上げる。
「何?」
「第三段階の計画登録情報についてです」
「うん」
「……一部、奇妙な記録が残されています」
零司は立ち上がった。
「見せて」
鳴瀬が端末を操作する。
《外部観測者接触計画》
《候補識別:ZERO》
《接触方式:外部回収業務への誘導》
《計画承認:七月十二日 二十時五分》
そこまでは、先ほど確認した内容だった。
しかし。
その下に、新しい項目が表示された。
《対象外部観測者:久遠零司》
《接触後評価:未完了》
《観測対象追加:保留》
「……観測対象追加?」
N-13が呟く。
鳴瀬は頷いた。
「通常、外部観測者は研究対象の測定に協力する立場です」
「……うん」
「ですが、この記録では、外部観測者自身を観測対象へ追加する処理が準備されています」
零司の目が細くなる。
「……僕を?」
「ええ」
鳴瀬は続けた。
「N-13との接触後、久遠零司という人物を新たな観測対象として登録する計画だった可能性があります」
「…………」
少女は、零司を見た。
少年は画面を見つめていた。
そして。
「……あはっ」
小さく笑った。
「そういうことか」
鳴瀬の表情が強張る。
「……久遠様」
「僕が君を捕まえる仕事を受ける」
零司は、N-13へ視線を向けた。
「それで、君の能力を観測する」
「……うん」
「でも、向こうは僕のことも調べたかった」
少女の呼吸が止まった。
「……つまり」
零司が笑う。
「君だけじゃなくて、僕も研究対象にしようとしてたんだね」
鳴瀬は、ゆっくりと頷いた。
「……そのように読み取れます」
零司は、しばらく画面を見つめていた。
それから。
「……なるほど」
口元に、ゆっくりと笑みが浮かぶ。
「面白いじゃん」
N-13が眉をひそめた。
「……面白いの?」
「うん」
零司は頷いた。
「僕のことを研究したい人がいるんだって」
「……怒らないの?」
「ちょっと面倒だなとは思うけど」
少年は、楽しそうに笑った。
「でも、どうやって僕を調べるつもりだったのかは気になる」
鳴瀬は、息を呑んだ。
普通なら、自分が研究対象にされようとしていたと知れば、警戒する。
怒る。
あるいは、逃げる。
しかし、目の前の少年は違った。
自分を研究しようとする者の存在を、楽しんでいる。
それも、計画の全貌を知らないまま。
「……久遠様」
鳴瀬が、小さく呟いた。
「あなたは、本当に……」
「ん?」
零司が振り返る。
「何?」
鳴瀬は、言葉を飲み込んだ。
何を考えているのか分からない。
この少年に、常識的な説得が通用するのかどうか。
それすら、判断できなかった。
「……いえ」
小さく首を振る。
「何でもありません」
零司は肩をすくめた。
「そっか」
そして、もう一度画面を見る。
PROJECT:ECHO。
N-12。
N-13。
外部観測者、ZERO。
何者かが、自分たちを一つの計画へ組み込もうとしていた。
その目的は、まだ分からない。
しかし。
零司にとって、それは十分に興味を引く話だった。
「……ねえ、鳴瀬さん」
「……はい」
「この計画を考えた人、見つけられそう?」
鳴瀬は、少しだけ考えた。
「……可能性はあります」
零司の笑みが深くなる。
「じゃあ、よろしく」
少年は軽く手を振った。
「僕、そういう細かい作業は苦手だからさ」
鳴瀬は、何も言えなかった。
そして、N-13は思った。
この少年は、本当に気分屋だ。
面倒なことは嫌い。
退屈なことは、すぐに投げ出す。
だが。
面白いと感じた瞬間。
どれほど危険な相手でも、どれほど厄介な事件でも。
平然と首を突っ込んでいく。
それが、久遠零司という少年なのだ。
学園都市の第零位。
その存在を研究対象へ組み込もうとした何者かは、まだ知らない。
自分たちが計画に取り込もうとした少年が。
計画そのものを、面白がって壊しかねない存在であることを。