七月二十八日、午後四時十七分。
学園都市第七学区。
「……暑い」
久遠零司は、心底嫌そうに呟いた。
手にはコンビニで買ったアイス。
隣を歩くN-13は、呆れたように少年を見上げる。
「……さっきも言ってた」
「暑いものは暑いんだよ」
「……能力で何とかできないの?」
「できるけど、ずっと調整するの面倒じゃん」
「…………」
少女は何とも言えない顔をした。
数百トンの貨物列車を浮かせ、武装した警備部隊を壊滅させた少年が、暑さ対策を面倒くさがっている。
何度見ても、理解しがたい人物だった。
「……久遠様」
背後から声が掛かる。
八雲誠司だった。
黒いスーツは埃まみれ。
先ほどまで拘束されていた影響もあり、歩き方が少しぎこちない。
「……本当に徒歩で向かうのですか」
「もうすぐでしょ?」
「そうですが……」
「じゃあ頑張って」
零司は、最後の一口を食べた。
八雲は諦めたように息を吐く。
その様子を見ていたN-13が、前方を指差した。
「……あれ?」
通りの向こう。
古びた建物が見えていた。
周囲を背の高いビルに囲まれた、五階建ての灰色の建物。
壁面には古い通信設備の跡が残り、屋上には撤去されていないアンテナが並んでいる。
《第七学区・旧通信管理棟》
入口には、施設閉鎖を知らせる看板。
しかし。
「……人がいる」
少女が呟いた。
建物の脇には、黒いワゴン車が停まっていた。
さらに、二階の窓から僅かに光が漏れている。
閉鎖された施設にしては、不自然だった。
零司は建物を見上げた。
「……まだ使ってるみたいだね」
「……入れる?」
「入ろうと思えば」
少年は、あっさりと答えた。
そのとき。
建物の二階で、何かが動いた。
カーテンの隙間。
小さな黒い筒。
それが、零司たちのいる方向へ向けられる。
「……あ」
零司が呟いた。
次の瞬間。
パシュッ!
乾いた発射音。
窓から飛び出した小型弾頭が、三人へ向かって飛来した。
しかし。
それは零司の数メートル手前で停止した。
「……催涙弾?」
零司は、空中に浮かぶ弾頭を眺めた。
そして、少し考える。
「こんなところで使ったら、通行人も巻き込むでしょ」
軽く指を動かす。
弾頭が、発射元の窓へ向きを変えた。
「返すね」
直後。
パリンッ!
二階の窓ガラスが割れた。
続いて、白い煙が噴き出す。
『うわああっ!?』
建物の中から悲鳴が聞こえた。
零司は、満足そうに頷く。
「はい。邪魔者一人」
N-13は額を押さえた。
「……まだ始まってもいないのに」
「向こうから撃ってきたんだよ?」
「……それは、そうだけど」
零司は笑った。
「じゃ、行こっか」
◇
旧通信管理棟、二階。
「侵入者だ!」
「第零位を確認!」
「主任へ連絡しろ!」
廊下を警備員たちが走っていた。
施設内には緊急警報が鳴り響いている。
しかし、外部へは音が漏れていない。
周囲に気づかれないよう、防音設備だけは維持されているらしかった。
「……第零位が、どうしてここに……!」
警備責任者が通信端末へ怒鳴る。
『例の被験体と一緒です!』
「……N-13もいるのか!?」
『はい!』
男は舌打ちした。
「最悪だ……!」
そのとき。
背後から声がした。
「何が?」
「……っ!?」
男が振り返る。
そこには、黒髪に銀色の髪が混じる少年が立っていた。
久遠零司。
その後ろにはN-13と八雲。
「な、何故ここに……!」
「階段があったから」
零司は、当然のように答えた。
警備員たちが銃を構える。
「動くな!」
「うん」
零司は足を止めた。
次の瞬間。
ガシャンッ!
警備員たちの銃が、一斉に床へ落ちた。
引き金を引こうとしても、指が動かない。
正確には、銃を保持する腕へ伝わる力が、不自然に変化していた。
「……なっ!?」
「はい、おしまい」
零司が片手を動かす。
警備員たちの身体が、壁際へ押しつけられた。
腕も脚も動かない。
だが、呼吸はできる。
零司は、そのまま横を通り過ぎようとした。
「……久遠様」
八雲が声を掛ける。
「この方々は、よろしいのですか?」
「何が?」
「……拘束したままですが」
「僕たちが出たら解けるようにしとくよ」
「……そうですか」
八雲は、それ以上何も言わなかった。
少女は廊下の奥を見た。
古い案内板。
《通信管理室》
《回線保守室》
《地下共同溝》
「……こっち」
N-13は、回線保守室を指差した。
「……R-4は、たぶんこの奥」
零司は頷いた。
「じゃ、案内よろしく」
少女が先頭に立つ。
その背中を見ながら、零司は少しだけ笑った。
最初は、逃げることしかできなかった少女。
今は、自分から危険な場所へ進もうとしている。
もっとも。
それを褒めるつもりはなかった。
本人が勝手に選んだことなのだから。
◇
午後四時二十六分。
回線保守室。
「……あった」
N-13が足を止めた。
室内には、古い通信装置が並んでいた。
壁一面の配線。
使われなくなった回線切替装置。
そして、比較的新しい管理端末。
その中央に、目的の表示があった。
《R-4》
《基準信号中継装置》
《運用状態:稼働中》
「……これだ」
少女は端末へ近づいた。
八雲も隣へ並ぶ。
「……間違いありません」
表示されている装置番号は、研究施設の記録と一致していた。
R-4。
N-12に関連する基準信号を中継していた装置。
そして、N-13の端末へ組み込まれていた観測用部品と通信していた設備。
「……七月二十七日」
少女は履歴を確認した。
《二十三時十四分》
《基準信号送信》
《対象:N-13端末》
《応答確認》
「……やっぱり」
小さく呟く。
あの夜、零司の部屋付近で検出されたN-12関連信号。
それは、この装置から送られたものだった。
N-12本人が近くにいた証拠ではない。
少女は一度目を閉じた。
期待していた答えではなかった。
しかし、これで一つの疑問は解消された。
「……次」
少女が画面を操作する。
七月十九日。
午後六時四十一分。
N-12の識別情報が使用された音声通信。
その履歴を検索した。
《該当記録:一件》
「……あった!」
少女が声を上げる。
零司が顔を向けた。
「見つかった?」
「……うん」
画面には、通信経路が表示されていた。
《七月十九日 十八時四十一分》
《通信種別:音声》
《発信端末識別:N-12》
《発信経路:地下保守回線》
《接続先:N-13》
「…………!」
少女の目が見開かれた。
接続先。
N-13。
それは、自分の識別番号だった。
「……わたしに?」
少女が呟く。
八雲が画面を覗き込む。
「……なるほど」
「……何?」
「この通信は、N-13を宛先として発信されています」
八雲は続けた。
「ただし、実際に接続された記録はありません」
画面の下部。
《接続状態:中断》
《音声保存:十一・六秒》
少女は、唇を噛んだ。
十一・六秒。
昨日、八雲から受け取った音声と同じ長さだった。
「……じゃあ」
少女は、小さく呟く。
「……あの声は、わたしに話そうとしてたんだ」
零司は画面を見た。
「少なくとも、君宛ての通信だったみたいだね」
「……うん」
少女は頷いた。
だが、まだ分からない。
その声が本当にN-12本人のものだったのか。
なぜ途中で通信が切られたのか。
そして。
N-12は、今どこにいるのか。
そのときだった。
ピッ。
管理端末に、警告が表示された。
《緊急保全処理》
《記録媒体初期化:開始》
「……っ!?」
八雲の表情が変わる。
「まずい!」
「……何?」
「記録を消去する命令です!」
画面の表示が赤く変わる。
《残り三十秒》
零司は、面倒くさそうに息を吐いた。
「……また?」
そして、端末へ手を伸ばす。
カチリ。
内部で小さな音がした。
《初期化処理:異常停止》
《記録媒体:保護状態》
消去処理が止まった。
「……はい」
零司は手を離した。
「続けていいよ」
少女は、思わず笑いそうになった。
ここまで来ると、研究施設側が少し気の毒になってくる。
どれほど周到に準備しても、目の前の少年には通用しない。
しかし。
問題は、記録の消去だけではなかった。
◇
「……失敗した?」
旧通信管理棟、四階。
御影直哉は、管理端末を睨んでいた。
PROJECT:ECHO第三段階の実施管理者。
中央保管庫での観測実験が失敗した後、彼はR-4へ移動していた。
目的は、残存する通信記録の回収と処分。
だが。
《初期化処理:異常停止》
《原因:不明》
表示された結果は、最悪だった。
「……久遠零司か」
御影は、低く呟いた。
通常の能力者なら、電源を落とすだけで済む。
あるいは、保護処理を突破できずに諦める。
しかし、ZEROは違う。
装置を壊さず、必要な部分だけを停止させる。
物理的な制約を利用した対策が、まるで意味を持たない。
「……ならば」
御影は、机の引き出しを開いた。
中から取り出したのは、小さな操作装置。
電子回線とは独立した、物理的な緊急処分装置だった。
保守室の記録媒体を、薬剤で破壊する仕組み。
通信が遮断されても、作動させられる。
「……ここまでだ」
御影が操作装置を握った。
その瞬間。
「それ、何?」
「……っ!?」
背後から声がした。
御影が振り返る。
そこには、久遠零司が立っていた。
いつの間にか。
何の前触れもなく。
「……貴様!」
御影が操作装置を起動しようとする。
しかし。
指が動かなかった。
手の中で、装置の外装が音もなく割れる。
内部の部品が、空中へ浮かび上がった。
「……なっ!?」
零司は、その部品を眺めた。
「また記録を消すつもり?」
御影は後ずさった。
「……どうやって、ここまで……!」
「階段」
零司は、あっさりと答えた。
そして、少しだけ眉をひそめる。
「ていうかさ」
その声から、笑みが消えた。
「君たち、毎回同じことばっかりするよね」
「…………」
「記録を消して、逃げて、また別の装置で同じことをする」
零司は、ゆっくりと御影へ近づいた。
「正直、飽きてきた」
御影の表情が引きつる。
背後には窓。
目の前には、規格外の能力者。
逃げ場はない。
「……待て!」
御影が叫んだ。
「私は、命令に従っただけだ!」
零司は足を止めた。
「そう」
「……そうだ!」
「じゃあ、その命令を出した人は?」
「……それは」
「知らない?」
御影は黙った。
零司は、露骨に嫌そうな顔をした。
「またそれかぁ」
少年が、軽く手を動かす。
次の瞬間。
御影の身体が、宙へ浮き上がった。
「ぐっ……!?」
足が床から離れる。
背中が壁へ押しつけられる。
呼吸はできる。
だが、身体を動かせない。
「……殺すつもりか!」
御影が叫んだ。
零司は首を傾げた。
「まだ決めてないよ」
「…………!」
「君が何を知ってるかによるかな」
少年は、御影の目を見た。
「僕、面倒な尋問とか嫌いなんだよね」
その声は、静かだった。
「だから、簡単に話してくれると助かる」
御影は、息を呑んだ。
この少年にとって、自分を殺すことは特別な選択ではない。
必要と判断すれば、実行する。
ただし、今は情報を持つ相手として利用価値がある。
それだけだった。
「……分かった」
御影は、ゆっくりと答えた。
「……話す」
◇
午後四時三十八分。
回線保守室。
「……古い記録装置?」
N-13が、首を傾げた。
八雲が、壁際の設備を指差していた。
「ええ。こちらです」
そこには、古い機械式の記録装置があった。
電子管理系統とは別に、通信障害時の保全用として設置されていたものらしい。
八雲は説明した。
「緊急時に、通信経路の切替履歴を独立して保存する設備です」
「……じゃあ、消されてない?」
「可能性はあります」
少女は装置を見つめた。
古い金属製の筐体。
取り外し可能な記録媒体。
そして、手動操作用のレバー。
「……開けてみよう」
少女が言った。
八雲は頷いた。
二人で固定具を外す。
内部には、細長い記録用テープが残っていた。
「……あった」
少女は、ゆっくりと取り出した。
そこには、複数の日付が印字されている。
七月十二日。
七月十九日。
そして。
《七月十九日 十八時四十一分》
《地下保守回線・外部接続》
少女の指が止まった。
「……これ」
八雲が覗き込む。
《接続先:N-13》
《接続状態:中断》
《経路異常:音声記録のみ保存》
その下には、別の情報があった。
《発信側回線》
《地下共同溝・第四保守室》
「……第四保守室?」
少女が呟いた。
八雲は、壁面の案内図を確認した。
「……この建物の地下です」
少女が顔を上げる。
「……近い?」
「ええ。階段を下りた先にあるはずです」
少女は、記録媒体を保管袋へ入れた。
そして、すぐに立ち上がる。
「……行こう」
八雲が頷いた。
そのとき。
零司が保守室へ戻ってきた。
「お待たせ」
少女が振り返る。
「……どこ行ってたの?」
「ちょっと上」
「……何してたの?」
「面倒な人を捕まえてきた」
零司の背後。
一人の男が、空中に浮かんでいた。
御影直哉だった。
「…………」
八雲が目を見開く。
「……御影主任!?」
「知り合い?」
零司が尋ねる。
八雲は頷いた。
「PROJECT:ECHO第三段階の実施管理者です」
N-13の表情が変わった。
「……この人が?」
御影は、少女から目を逸らした。
零司は、面倒くさそうに息を吐いた。
「この人、研究計画のことは結構知ってるみたい」
そして、御影へ視線を向ける。
「ほら。さっきの話、もう一回」
御影は、唇を噛んだ。
それから。
「……第三段階は」
ゆっくりと口を開いた。
「N-13を研究施設の外へ出し、ZEROと接触させることを前提に設計されていた」
少女の目が見開かれる。
「……やっぱり」
「ただし、実際にZEROが依頼を引き受けるかどうかは不確定だった」
御影は続ける。
「予定外の行動も含めて、観測対象だったんだ」
零司が、少しだけ笑った。
「つまり、僕が君たちの言うとおりに動かなくても、記録するつもりだったんだね」
「……そうだ」
N-13は、拳を握りしめた。
「……じゃあ、あのメッセージも」
御影は答えた。
「七月十九日の通知は、計画の一部だ」
「……誰が書いたの?」
「上位管理系統が用意したものだ。私は配送準備を担当しただけだ」
少女は、御影を睨んだ。
七月十九日。
研究施設から逃げ出した日。
あのメッセージに希望を抱いた。
誰かが迎えに来てくれるのだと信じた。
だが、それは研究計画の一部だった。
自分を外へ出し、零司と接触させるための誘導。
「……ふざけないで」
少女が呟いた。
御影は、何も言わなかった。
そのとき。
「……でも」
少女は顔を上げた。
「……七月十九日の音声は?」
御影の表情が変わった。
「……何?」
「……N-12から、わたしへ掛けられた通信」
少女は続ける。
「……あれも、あなたたちが用意したの?」
御影は、しばらく黙っていた。
そして。
「……違う」
静かに答えた。
「少なくとも、私が指示したものではない」
少女の呼吸が止まった。
「……じゃあ」
御影は、唇を噛んだ。
「……あの通信は、予定外だった」
零司の目が、僅かに細くなる。
御影は続けた。
「N-12の識別情報を使用した音声通信が、七月十九日に検出された」
「……うん」
「我々は、その発信元を追跡した」
少女の拳が握りしめられる。
「……見つかったの?」
御影は首を横に振った。
「……発信者の身柄は確保できなかった」
そして。
「ただし、最後に通信が確認された場所は分かっている」
少女が息を呑む。
御影は、ゆっくりと顔を上げた。
「……この建物の地下だ」
◇
午後四時四十六分。
地下共同溝。
古い階段を下りると、湿った空気が漂っていた。
壁沿いには、何本もの配管。
天井には、使われなくなった通信ケーブル。
足元には、薄く水が溜まっている。
「……暗い」
N-13が呟いた。
零司は、指を軽く動かした。
天井の古い照明が、順番に点灯する。
パチッ。
パチッ。
パチッ。
暗かった通路が、ゆっくりと明るくなった。
「……便利だね」
少女が言った。
「そう?」
「……うん」
零司は、小さく笑った。
「こういうのは楽だから好き」
その後ろでは、御影が八雲に付き添われながら歩いていた。
零司の能力によって、両腕の動きが制限されている。
逃げようにも、逃げられない。
少女は、通路の奥を見つめた。
地下第四保守室。
七月十九日。
N-12の識別情報を使った通信が発信された場所。
そこに、何が残されているのか。
分からない。
しかし。
今までで最も、N-12本人に近づいている気がした。
「……あれ?」
少女が、突然足を止めた。
零司が振り返る。
「どうしたの?」
「……足跡」
少女は、床を指差した。
薄く積もった埃。
その上に、小さな靴跡が残っていた。
しかも。
まだ乾ききっていない。
「……最近、誰か通った」
八雲が顔を上げる。
「……確かに」
零司は、通路の奥へ視線を向けた。
そして。
「……いるね」
小さく呟いた。
少女が顔を上げる。
「……誰か?」
「うん」
零司は頷いた。
「奥の部屋」
少女の心臓が跳ねた。
「……N-12……?」
「それは、見てみないと分からない」
零司は答えた。
そして、通路の奥を指差す。
「行く?」
少女は、迷わなかった。
「……うん」
◇
《第四保守室》
古い金属製の扉。
鍵は掛かっていなかった。
N-13は、ゆっくりと手を伸ばした。
そして、扉を押す。
ギィ……。
錆びた蝶番が、耳障りな音を立てた。
室内は薄暗かった。
机。
椅子。
古い通信装置。
そして、壁際に置かれた小さな鞄。
誰かが使用していた形跡が残っている。
「……誰か、いる?」
少女が呼びかけた。
返事はなかった。
零司は、入口で立ち止まっている。
御影の表情が、僅かに強張った。
「……馬鹿な」
小さく呟く。
「……ここにいるはずが……」
その声を、零司は聞き逃さなかった。
「知ってる人?」
御影は答えない。
零司は、少しだけ笑った。
「まあ、いいや」
そして、室内の奥へ視線を向ける。
「出てきたら?」
沈黙。
数秒後。
壁際の影が動いた。
小さな物音。
そして。
「……動かないで」
少女の声が響いた。
N-13は息を呑んだ。
室内の奥。
そこに、一人の少女が立っていた。
淡い茶色の髪。
肩にかかるほどの長さ。
痩せた身体。
灰色の上着。
そして、警戒するような瞳。
年齢は、N-13とそれほど変わらない。
「…………」
N-13は、動かなかった。
見覚えがあった。
研究施設。
白い廊下。
時折、扉の向こうに見えた少女。
一度だけ、短い会話を交わしたことがある。
その少女が、目の前にいた。
「……十二号?」
声が震えた。
目の前の少女は、僅かに目を見開いた。
そして。
「……十三?」
その声。
七月十九日の音声記録。
何度も聞き返した、途切れ途切れの声。
それと同じ声だった。
「…………!」
N-13は、一歩前へ出た。
「……本当に……?」
目の前の少女は、小さく頷いた。
「……うん」
その瞬間。
N-13の表情が崩れた。
「……生きてた……!」
声が震える。
そして、少女は駆け寄った。
N-12は、一瞬だけ身構えた。
しかし。
N-13だと分かると、力を抜いた。
「……十三」
N-13は、少女の手を握った。
温かい。
確かに、そこにいる。
通信記録でも。
識別番号でも。
観測信号でもない。
生きている人間だった。
「……よかった……」
N-13が呟いた。
「……本当に、よかった……!」
N-12は、困ったように笑った。
「……ごめんね」
その言葉に。
N-13は、首を横に振った。
「……謝らないで」
そして。
「……探してた」
小さく告げた。
「……ずっと、探してた」
N-12は、目を伏せた。
その表情には、安堵と申し訳なさが混じっていた。
しかし。
次の瞬間。
彼女の視線が、N-13の背後へ向けられた。
黒髪に銀色の髪。
灰紫色の瞳。
そして、どこか楽しそうな表情。
久遠零司。
その姿を見た瞬間。
N-12の顔から、血の気が引いた。
「……っ!?」
少女は、N-13の手を強く握った。
「……十三!」
その声には、明らかな焦りがあった。
「……その人から、離れて!」
N-13が目を見開く。
「……え?」
N-12は、零司を睨んだ。
その瞳には、恐怖が浮かんでいた。
「……どうして、その人と一緒にいるの……!?」
◇
「……僕?」
零司は、不思議そうに首を傾げた。
N-12は答えなかった。
ただ、N-13を庇うように前へ出る。
「……近づかないで」
「近づいてないけど」
零司は肩をすくめた。
「……君、僕のこと知ってるの?」
N-12は、唇を噛んだ。
そして。
「……ZERO」
小さく呟いた。
八雲の表情が変わる。
御影は、目を伏せた。
零司は、少しだけ笑った。
「そっか。名前は知ってるんだ」
N-12は、少女を庇ったまま続けた。
「……学園都市の暗部で、仕事をしてる人」
「うん」
「……人を殺すことも、何とも思ってない」
「そうだね」
即答だった。
N-12の表情が強張る。
N-13は、二人を見比べていた。
そして、静かに口を開いた。
「……十二号」
N-12が振り返る。
「……十三?」
「……知ってる」
N-13は、ゆっくりと頷いた。
「……零司が、そういう人だってこと」
N-12の目が見開かれる。
「……だったら!」
「……でも」
N-13は、言葉を遮った。
「……わたし、ここにいる」
N-12は、何も言えなかった。
「……自分で決めて、一緒に来た」
その言葉に、N-12の表情が揺れた。
少女は、零司を振り返る。
少年は、二人のやり取りを眺めていた。
介入する様子はない。
「……ねえ」
N-13が、もう一度N-12へ向き直る。
「……昨日のメッセージ」
携帯端末を取り出す。
『十三』
『今すぐ、その少年から離れろ』
「……これ、送ったの?」
N-12は、数秒ほど黙っていた。
そして。
「……うん」
小さく頷いた。
N-13の呼吸が止まる。
「……じゃあ」
N-12は、N-13の手を握りしめた。
「……怖かったから」
「……何が?」
「……十三が、また利用されること」
N-12は、零司へ視線を向けた。
「……その人も、研究施設から仕事を受けたんでしょ?」
N-13は頷いた。
「……うん」
「……だったら、危ないよ」
その声は、切実だった。
「……あの人たちは、十三を外へ出すことまで計画してた」
「……知ってる」
N-12の目が見開かれる。
「……え?」
「……PROJECT:ECHO」
N-13が告げた。
その名前に、N-12の顔色が変わった。
「……どこで、それを……?」
「……調べた」
N-13は、はっきりと答えた。
「……零司と一緒に」
N-12は、しばらく黙っていた。
そして。
「……そう」
小さく息を吐いた。
その表情には、複雑な感情が浮かんでいた。
恐怖。
警戒。
そして、僅かな安堵。
「……十三」
N-12が、静かに口を開いた。
「……七月十九日の通信、聞いた?」
N-13は頷いた。
「……うん」
「……途中で、切られたでしょ」
「……うん」
N-12は、目を伏せた。
「……あれ、わたしが送ったの」
N-13の呼吸が止まる。
七月十九日。
午後六時四十一分。
十一・六秒の音声通信。
N-12の識別情報を使用した、未接続の通話。
その発信者が、ようやく分かった。
「……やっぱり」
N-13は、小さく呟いた。
N-12は続けた。
「……十三に、見つけないでって伝えたかった」
「……どうして?」
「……探されたら、居場所が知られると思ったから」
N-13が眉をひそめる。
「……誰に?」
N-12は、ゆっくりと顔を上げた。
そして。
八雲の隣に立つ男へ視線を向けた。
御影直哉。
その顔を見た瞬間。
N-12の表情が、冷たく変わった。
「……その人」
小さく告げる。
「……御影直哉」
御影の顔色が変わった。
「……十二号……!」
N-12は、男を睨んだ。
「……七月十二日」
そして。
「……わたしをコンテナから出した後、追いかけるように指示した人」
N-13の目が見開かれる。
「……え?」
N-12は続けた。
「……あの日、わたしは逃がされたんじゃない」
静かな声だった。
「……逃がされたことに、されたの」
その言葉に。
八雲の表情が強張った。
零司が、少しだけ目を細める。
N-12は、御影を見据えた。
「……最初から、外へ出した後の行動を調べるつもりだったんでしょ?」
御影は、答えなかった。
その沈黙が、何より雄弁だった。
◇
「……なるほどね」
零司が、静かに口を開いた。
御影が顔を上げる。
少年は、少しだけ笑っていた。
「十二号を外へ出して、逃げた後の行動を観測する」
そして、N-13へ視線を向ける。
「一週間後、十三号にも同じことをする」
御影は、唇を噛んだ。
「……それが、ECHOの計画だったの?」
零司が尋ねる。
御影は、しばらく黙っていた。
そして。
「……第三段階の一部だ」
静かに答えた。
「観測干渉能力を持つ被験体が、管理環境から離れた場合にどう行動するのか」
御影は続けた。
「その追跡と、外部の能力者との接触による変化を測定する」
零司が、少しだけ笑った。
「で、僕まで研究対象にしようとしたんだ」
「……そうだ」
「ふうん」
少年は、御影を見つめた。
そして。
「じゃあ、一つ聞きたいんだけど」
御影が顔を上げる。
「……何だ」
「君たち、僕が計画どおりに動くと思ってたの?」
御影は答えられなかった。
零司は肩をすくめる。
「仕事を受けるかどうかも気分次第なのにさ」
少年は、小さく笑った。
「結構、無茶な計画立てたね」
N-13は、零司を見た。
そして、N-12へ向き直る。
「……十二号」
「……何?」
「……もう、逃げなくていいよ」
N-12の目が見開かれる。
「……十三……?」
「……わたしも、もう逃げたくない」
少女は、はっきりと告げた。
「……あの人たちが何を考えてるのか、ちゃんと知りたい」
N-12は、しばらく黙っていた。
そして。
「……でも」
小さく呟く。
「……まだ、終わってないよ」
N-13が眉をひそめる。
「……どういうこと?」
N-12は、部屋の隅に置かれた小さな鞄へ視線を向けた。
その中には、一つの記録媒体が入っていた。
「……七月十二日」
N-12が、静かに口を開く。
「……わたし、持ち出したものがあるの」
N-13の目が見開かれる。
「……何?」
N-12は、鞄から記録媒体を取り出した。
そして。
「……ECHOの、最初の計画書」
その言葉に。
御影の表情が変わった。
「……馬鹿な……!」
N-12は、男を睨んだ。
「……消したと思ってた?」
御影は、何も言えなかった。
N-12は続けた。
「……七月十二日より前の記録」
そして、零司へ視線を向ける。
「……あなたの名前が登録される前のもの」
零司の目が細くなる。
「……へえ」
N-12は、記録媒体を握りしめた。
「……これを見れば、分かると思う」
N-13が尋ねる。
「……何が?」
N-12は、静かに答えた。
「……最初は、誰を使うつもりだったのか」
その言葉に、零司の笑みが深くなった。
「なるほど」
少年は、少しだけ身を乗り出す。
「それは気になるなぁ」
御影の顔から、血の気が引いた。
しかし、零司は彼を見ていなかった。
興味は、すでに別のものへ移っている。
七月十二日以前の計画。
まだ自分が組み込まれていなかった頃のPROJECT:ECHO。
その最初の構想。
そして。
なぜ、そこへ第零位である自分が追加されたのか。
「……ねえ」
零司は、N-12へ声を掛けた。
「その記録、見せてくれる?」
N-12は、警戒するように少年を見つめた。
だが、すぐには拒否しなかった。
目の前の少年は、確かに危険な存在だ。
それでも。
N-13が、ここまで辿り着けた理由の一つが彼にあることも、否定できない。
N-12は、ゆっくりと記録媒体を差し出した。
「……変なこと、しないで」
零司は笑った。
「それは約束できないかな」
「…………」
「でも、壊したら中身が見られないでしょ?」
少年は、媒体を受け取った。
そして、楽しそうに笑った。
「だから、今は壊さないよ」
N-12は、困ったように目を伏せた。
その隣で、N-13が小さく息を吐く。
「……やっぱり、そういう人なんだ」
「……みたい」
N-12が答えた。
二人は顔を見合わせた。
そして、ほんの少しだけ笑った。
七月十二日。
N-12が姿を消した日。
七月十九日。
N-13が研究施設から逃げ出した日。
そこから九日。
ようやく、二人は再会した。
しかし。
PROJECT:ECHOの計画は、まだ終わっていない。
そして、久遠零司は。
自分たちを利用しようとした何者かの計画書を手に、静かに笑っていた。
「……さて」
少年は、記録媒体を眺める。
「今度は、どんな面倒事かな」
少しだけ考えた後。
その口元に、悪戯っぽい笑みが浮かんだ。
「……ま、面白ければいいか」