学園都市の夕暮れは、どこか人工的だった。
高層ビルの窓に反射する夕日。
規則正しく並ぶ街灯。
道路を走る無人清掃車に、頭上を巡回する警備用の小型飛行船。
科学技術の粋を集めたこの街では、夜が近づこうとも人々の営みが止まることはない。
そんな街の一角を、一人の少年が歩いていた。
「……やっぱり面倒くさくなってきたなぁ」
久遠零司は、心底嫌そうに呟いた。
手には先ほど購入したばかりの缶ジュース。
反対の手には携帯端末。
画面には、今回の依頼人である丹羽宗一郎から送られてきた地図が表示されていた。
目的地は第七学区の外縁部。
かつて物流関連の施設が集まっていた区画であり、現在は一部が研究機関の資材保管区域として利用されている。
一般の学生がわざわざ訪れるような場所ではない。
「もうちょっと近いところで待ち合わせてくれればいいのに」
零司は缶ジュースを一口飲んだ。
炭酸の刺激が喉を通り抜ける。
「まあ、いいか」
そう言って歩き出そうとした、そのときだった。
携帯端末が振動する。
『久遠様。現地の回収部隊には、すでにあなたの到着を伝えてあります』
「はいはい」
『なお、現場責任者には、あなたの指示を優先するよう通達しております』
「別に指揮するつもりはないんだけど」
『それでも、万一の際には――』
「ねえ、丹羽さん」
零司は相手の言葉を遮った。
「一つ聞いていい?」
『……何でしょうか』
「僕がその子を捕まえたとしてさ」
少しだけ間を置く。
「その後、どうするの?」
通信の向こうが静かになった。
数秒後、落ち着いた男の声が返ってくる。
『研究を再開します』
「ふうん」
『対象は極めて貴重な実験体です。失われれば、これまでの研究成果が無駄になってしまう』
「それだけ?」
『……と、申しますと?』
「いや、別に」
零司はあっさりと話を打ち切った。
「ただ聞いてみただけ」
そして、少し笑う。
「ちゃんと捕まえたら報酬は払ってよね。アイス代も含めて」
『もちろんです』
「じゃ、また後で」
通信を切る。
画面が暗くなった携帯端末をポケットにしまい、零司は小さく伸びをした。
逃亡した少女。
人体実験。
表沙汰にできない研究。
どう考えても、まともな仕事ではない。
だが、それがどうしたというのだろう。
零司は正義の味方ではない。
困っている人間を見かけたからといって、必ず助けるわけでもない。
悪党から依頼された仕事だからといって、必ず断るわけでもない。
自分が面白いと思えば引き受ける。
面白くなければ断る。
それだけの話だった。
「さて、と」
少年は夕焼けの空を見上げた。
「どんな子なのかなぁ」
その表情には、これから誰かの自由を奪う仕事をする人間特有の緊張感など、欠片も存在していなかった。
◇
「……本当に、こいつなのか?」
低い声が漏れた。
零司が指定された集合場所へ到着した直後のことだった。
古びた倉庫の前。
数台の黒い車両と、武装した男たち。
その中心に立っていた大柄な男が、露骨に不審そうな目を向けている。
年齢は三十代半ばほど。
短く刈り込まれた髪に、傷のある頬。
服装こそ一般的な作業着に見えるが、その立ち姿からは相応の訓練を受けた人間特有の雰囲気が感じられた。
「君が責任者?」
零司は気にした様子もなく尋ねた。
「ああ。桐島だ」
「久遠零司。よろしく」
「……丹羽主任から話は聞いている」
桐島は少年を上から下まで眺めた。
「だが、正直なところ理解できん」
「何が?」
「なぜ、こんなガキに作戦指揮権を渡す必要がある」
「ああ、それ?」
零司は笑った。
「僕もいらないって言ったんだけどね」
「……何?」
「別に君たちに命令したいわけじゃないし。好きに動いてくれていいよ」
あまりにも軽い返答。
桐島の眉間に皺が寄った。
「遊びじゃないんだぞ」
「知ってるよ」
「相手は危険な実験体だ。逃亡の際には研究施設の警備システムを突破し、複数の警備員を無力化している」
「へえ」
零司の瞳に、わずかな興味が宿った。
「それ、どうやって?」
「詳細は不明だ」
「……不明?」
「ああ」
桐島は端末を操作した。
空中に簡易的な映像が投影される。
映し出されたのは、研究施設内部と思われる廊下だった。
白い壁。
一定間隔で設置された監視カメラ。
そして、その中央を歩く一人の少女。
白い患者衣のような服装。
長い髪。
年齢は零司より少し下だろうか。
少女は裸足のまま、ゆっくりと廊下を進んでいた。
「これが対象だ」
「ふうん」
零司が映像を覗き込む。
少女は途中で足を止めた。
監視カメラを見上げる。
その直後。
映像が乱れた。
画面全体を走るノイズ。
そして、暗転。
「この後、施設内の監視網が一斉に機能停止した」
桐島が説明する。
「非常電源は正常だった。通信系統にも物理的な損傷は確認されていない。それなのに、監視記録だけが途切れた」
「へえ……」
「さらに、対象を確保しようとした警備員が三名倒れている」
「死んだの?」
「いや。全員生存している」
「じゃあ、どうなったの?」
「分からん」
桐島の表情が険しくなる。
「本人たちは、何も覚えていないと言っている。気づけば床に倒れていたそうだ」
零司は映像を見つめた。
少女の表情はほとんど読み取れない。
だが、カメラを見上げた一瞬。
その口元が、何かを呟くように動いていた。
「……なるほどね」
「何か分かったのか?」
「んー?」
零司は首を傾げた。
「ちょっと面白そうだなって」
桐島は深いため息をついた。
「……丹羽主任は、何を考えているんだ」
「それ、僕にも分かんない」
「お前のことだよ」
「あはは」
零司は楽しそうに笑った。
そんな二人のやり取りを、周囲の武装した男たちが怪訝そうに見つめていた。
彼らにとって、この少年はどう見ても場違いな存在だった。
学生服姿の十六歳。
緊張感の欠片もない態度。
危険な実験体の回収作戦に参加する人間とは到底思えない。
しかし。
その認識が、どれほど甘いものだったのか。
彼らは間もなく思い知ることになる。
◇
「現在、対象の潜伏範囲はこの区画に絞られている」
桐島が地図を表示する。
廃棄された物流施設。
地下に張り巡らされた旧搬送路。
稼働を停止した自動倉庫。
その一帯が赤く囲まれていた。
「施設から持ち出された位置発信機が、この区域で発見された」
「位置発信機?」
「対象に装着されていた識別装置だ。逃亡の途中で取り外されたらしい」
「じゃあ、ここにいるとは限らないよね」
「その通りだ」
桐島は別の資料を表示した。
「だが、周辺の監視記録から、対象と思われる人物が区域内に入る姿が確認されている。その後、外へ出た記録がない」
「監視カメラが全部正常なら、ね」
「……どういう意味だ?」
零司は地図を指差した。
「さっきの映像。カメラを壊したわけじゃないんでしょ?」
「ああ」
「だったら、同じことをここでもやってるかもしれないじゃん」
「それは想定している」
「本当に?」
零司は笑顔のまま問い返した。
「出入り口を監視してれば逃げられない、って考えてるように見えるけど」
桐島は黙り込んだ。
「まあ、別にいいけどね」
零司は地図を閉じた。
「とりあえず、僕は一人で探してみるよ」
「待て」
「ん?」
「単独行動は許可できん」
「どうして?」
「対象の能力が不明だからだ。何が起こるか分からん」
「うん。だから面白いんじゃない?」
桐島は、目の前の少年が何を言っているのか理解できなかった。
危険だからこそ面白い。
未知だからこそ興味が湧く。
それは研究者の好奇心に似ていたが、どこか決定的に異なっていた。
零司にとって重要なのは、研究成果でも実験データでもない。
ただ、自分が退屈しないこと。
それだけだった。
「……お前、自分が死ぬ可能性を考えていないのか?」
「考える必要ある?」
零司は不思議そうに尋ね返した。
桐島の顔が険しくなる。
「ふざけるな」
「ふざけてないよ」
少年は穏やかに笑った。
「だって、死なないし」
その言葉には、虚勢も強がりもなかった。
ただ、当たり前の事実を口にしただけ。
そんな響きがあった。
「……好きにしろ」
しばらく睨み合った末、桐島が折れた。
「ただし、通信は常に維持しろ。対象を発見したら直ちに報告すること」
「はーい」
「勝手な行動は――」
「あ、それは無理」
「……何?」
「僕、気分で動くから」
零司は悪びれもせず答えた。
「言われた通りにしか動いちゃ駄目なら、最初から別の人に頼んだ方がいいよ」
桐島が何か言い返そうとする。
しかし、その前に零司は歩き出していた。
「じゃ、行ってくるね」
「おい、待――!」
次の瞬間。
少年の姿が消えた。
「…………は?」
桐島の声が、虚しく響いた。
そこには、もう誰もいなかった。
◇
旧物流区画。
その地下には、かつて物資輸送に利用されていた大型搬送路が存在する。
現在、その大部分は閉鎖されていた。
老朽化した設備。
使われなくなった輸送機械。
積み重なった資材。
薄暗い通路の中には、時折、非常灯の赤い光が灯っている。
「……思ったより広いなぁ」
零司は、そんな地下通路を歩いていた。
先ほど桐島たちの前から消えたのは、何も瞬間移動をしたわけではない。
光の進み方を調整し、自分の姿が認識される条件を一時的に変えた。
それと同時に、周囲の空気と地面の状態に干渉して移動しただけだ。
理屈を説明することはできる。
もっとも、それを理解できる人間がどれほど存在するのかは別の話だった。
「さて、どこにいるのかな」
零司は周囲を見回した。
当然、誰もいない。
静まり返った通路には、古い換気設備の作動音だけが響いていた。
「普通に探すの、面倒だよね」
少年は小さく息を吐く。
そして、足を止めた。
瞬間。
周囲の空気が、わずかに揺らいだ。
地下通路を満たしていた音。
空調設備の振動。
遠くで稼働する機械の微かな動き。
それらが、目には見えない規則に従って変化していく。
零司は自身の周囲で生じる物理現象を調整し、その応答を読み取っていた。
反響。
振動。
熱の移動。
電磁波の伝播。
通常なら別々の測定機器を用いなければ観測できない情報が、彼の中で一つの空間構造として組み上がっていく。
もっとも、そこから何を読み取れるかは、観測した現象次第だ。
見えていないものの正体まで、何もかも分かるわけではない。
「……ん?」
零司の眉が、わずかに動いた。
地下通路の先。
立入禁止の表示が残された区画。
そこに、複数の人影があった。
「先客かぁ」
零司は少し考えた。
桐島の部下だろうか。
いや、違う。
位置が合わない。
先ほどの作戦説明では、回収部隊は地上の出入り口を中心に配置される予定だった。
地下への突入は、零司からの連絡を待つことになっていたはずだ。
それなのに、すでに武装した人間が内部を移動している。
「……へえ」
少年の口元が緩んだ。
「別口?」
どうやら今回の依頼は、思っていたよりも複雑らしい。
◇
「目標の反応は?」
「確認できません」
「監視系統はどうなっている」
「依然として不安定です。赤外線も正常に機能していません」
「くそっ……!」
地下搬送路の一角。
四人の男たちが、周囲を警戒しながら進んでいた。
いずれも統一された装備を身につけている。
手には小型の自動火器。
頭部には暗視装置。
明らかに、何らかの武装組織に所属する人間たちだった。
「対象はこの先にいるはずだ」
先頭の男が命じる。
「発見次第、確保しろ。抵抗が激しい場合は――」
「ねえねえ」
突然。
背後から声がした。
「君たち、何してるの?」
四人が一斉に振り返った。
そこにいたのは、学生服姿の少年だった。
片手をポケットに突っ込み、もう片方の手を軽く上げている。
「……誰だ!」
「久遠零司」
少年はあっさりと名乗った。
「君たちは?」
「民間人か!? どうやってここへ入った!」
「んー、普通に?」
「ここは立入禁止区域だ! 直ちに退去しろ!」
「それは困るなぁ」
零司は首を傾げた。
「僕も探し物してるんだよね」
男たちの間に緊張が走る。
先頭の男が銃口を向けた。
「動くな!」
「またそれ?」
零司はため息をついた。
「今日、何回目だろ」
「最後の警告だ!」
「はいはい」
少年は片手を上げた。
「分かった、分かった。撃たないでね」
その態度を見て、男がわずかに警戒を緩める。
だが。
「……なんてね」
零司が笑った。
次の瞬間。
四人の手から、武器が消えた。
「なっ!?」
いや。
正確には、消えたわけではない。
銃が、床へ落ちていた。
握っていたはずの武器が、本人たちの意思とは無関係に手から滑り落ちたのだ。
「何だ!?」
「武器を拾え!」
男たちが慌てて屈み込む。
だが、誰一人として銃を拾うことができなかった。
手を伸ばせば、銃が滑る。
触れようとすれば、わずかに位置がずれる。
まるで武器そのものが、彼らに触れられることを拒絶しているかのようだった。
「……あはは」
零司が笑う。
「それ、そんなに大事?」
「能力者か!」
「まあ、そんな感じ」
先頭の男が腰のナイフへ手を伸ばした。
しかし、その動きも途中で止まる。
身体が動かない。
いや、動かそうとする力は確かに生じている。
それなのに、手足が思うように動かせない。
「ぐっ……!」
「無理しない方がいいよ」
零司は男の前まで歩み寄った。
「変に力を入れると、筋肉とか傷めるかもしれないし」
「て、てめえ……!」
「それで?」
少年は微笑んだ。
「君たちも、あの子を探してるの?」
男の表情が変わった。
それだけで十分だった。
「あ、やっぱり」
零司は満足そうに頷いた。
「じゃあ、ちょっと教えてよ」
「誰が……!」
「依頼人、誰?」
返答はない。
零司は少し考えた。
そして。
「まあ、別にいいか」
あっさりと諦めた。
男たちは呆気に取られる。
「え……?」
「だって、君たちが誰に雇われてても、僕にはあんまり関係ないし」
零司は踵を返した。
「僕の仕事の邪魔さえしなければ、それでいいよ」
そう言って歩き出す。
しかし、数歩進んだところで足を止めた。
「あ、そうだ」
振り返る。
「そこから先には行かない方がいいよ」
「……何?」
「僕、今はあの子を捕まえる側だからさ」
少年は楽しそうに笑った。
「横取りされるの、好きじゃないんだよね」
その言葉を最後に、零司は通路の奥へ姿を消した。
取り残された男たちは、しばらく動けずにいた。
誰も、追いかけようとはしなかった。
◇
『久遠! 応答しろ!』
耳元の通信機から、桐島の怒鳴り声が響いた。
「はいはーい」
『お前、今どこにいる!』
「地下」
『地下のどこだ!』
「えっと……」
零司は周囲を見回した。
壁に記された古い区画番号。
錆びついた案内板。
「第五搬送路って書いてある」
『第五搬送路だと!?』
通信の向こうで何かが倒れる音がした。
『そこは封鎖区域のはずだ!』
「そうなの?」
『どうやって入った!』
「普通に」
『普通に入れる場所じゃない!』
「でも入れたよ?」
『お前は……!』
桐島が言葉を詰まらせる。
零司は気にせず、先ほど遭遇した男たちの話をした。
「そういえば、別の人たちがいたよ」
『……何?』
「武装した四人組。君の部下じゃないよね?」
『こちらはまだ地下に人員を入れていない』
「だよねぇ」
『その連中は今どこにいる?』
「ちょっと動けなくしておいた。殺してないから安心して」
『……お前、本当に何者なんだ?』
「高校生」
『ふざけるな!』
「あはは。今日はよく言われるなぁ」
零司は笑った。
しかし、通信の向こうの桐島は笑っていなかった。
『いいか、久遠。こちらで確認したところ、その区域に別の武装組織が侵入している可能性がある』
「うん。見たよ」
『相手の目的は分からんが、対象の回収を妨害される可能性が高い』
「そうだね」
『場合によっては、対象を処分するつもりかもしれん』
「……ふうん」
零司は足を止めた。
「処分、ね」
『何か気になるのか?』
「いや、別に」
少年は再び歩き出した。
「でも、それはちょっと困るかな」
『なぜだ?』
「僕が先に見つけたいから」
あまりにも身勝手な理由だった。
桐島はしばらく沈黙した。
『……本当に、それだけか?』
「うん」
零司は即答した。
「僕が捕まえるって言ったんだから、横取りされたらつまんないじゃん」
通信の向こうから、深いため息が聞こえた。
『……分かった。こちらも地下へ部隊を送る』
「別に来なくていいよ」
『そういうわけにはいかん』
「じゃあ、好きにして」
零司は通信を切った。
地下通路には、再び静寂が戻った。
薄暗い天井。
錆びた配管。
長い年月を経て傷んだ壁。
そんな場所を、少年は一人で歩き続ける。
「さて……」
零司は、先ほどから気になっていたことを思い返していた。
監視映像。
機能停止した警備システム。
意識を失った警備員。
そして、地下区画に潜伏している少女。
どれも、単独で見れば珍しい話ではない。
学園都市には、特殊な能力を持つ人間が数多く存在する。
監視カメラを妨害する能力者。
他人の意識に干渉する能力者。
機械の動作を狂わせる能力者。
そういった存在がいても、不思議ではない。
しかし。
「……妙なんだよね」
零司は呟いた。
監視映像が乱れたとき、少女は確かにカメラを見上げていた。
だが、機器そのものが破壊された形跡はなかった。
通信も、電源も、正常。
記録装置の内部データだけが、特定の時間帯に限って失われていた。
単純な電磁干渉とは考えにくい。
ならば、何が起きたのか。
「自分の姿を消したかった……とか?」
可能性の一つを口にする。
あるいは、記録そのものを残したくなかったのか。
零司は小さく笑った。
「へえ……」
少しずつ、興味が湧いてきた。
相手の能力は、まだ分からない。
正体も、目的も、何も分からない。
だからこそ。
「早く会ってみたいな」
その声は、純粋に楽しそうだった。
◇
地下第五搬送路の最奥。
かつて保守作業員が利用していた小さな管理室。
そこでは、一人の少女が膝を抱えていた。
白い患者衣は汚れ、裸足だった足には細かな傷がついている。
長い髪は乱れ、顔色も決して良くない。
しかし、その瞳だけは、強い意志を宿していた。
「……まだ、来ない」
少女は小さく呟いた。
手元には、壊れかけた携帯端末。
画面の大部分はひび割れ、正常に動作していない。
それでも、彼女は何度も画面を確認していた。
そこに表示されているのは、たった一つの文章。
『外へ出ろ』
『必ず迎えに行く』
送り主の名前はない。
いつ、誰が送ってきたのか。
それすら分からない。
だが、少女にとっては唯一の希望だった。
「……約束、したから」
自分に言い聞かせるように呟く。
「絶対に、戻らない」
研究施設。
白い部屋。
繰り返される実験。
名前ではなく番号で呼ばれる日々。
あの場所へ戻るくらいなら、ここで死んだ方がいい。
そう思えるほど、彼女は追い詰められていた。
そのとき。
かすかな足音が聞こえた。
「……っ!」
少女は顔を上げる。
通路の向こう。
誰かが近づいてくる。
足音は一人分。
だが、警備員かもしれない。
研究者が送り込んだ回収要員かもしれない。
少女は震える手で端末を握りしめた。
逃げなければ。
そう思った。
しかし、足が動かなかった。
疲労。
空腹。
そして、長時間の逃走によって限界を迎えた身体。
それでも少女は立ち上がろうとした。
まだ、捕まるわけにはいかない。
まだ、終わるわけにはいかない。
そのときだった。
「……あれ?」
通路の向こうから、呑気な声が聞こえた。
「こっちかな?」
少女は息を潜めた。
声の主は、ゆっくりと近づいてくる。
「んー……」
足音が止まる。
「変だな。反応はこの辺りなんだけど」
少女は震える手で口元を押さえた。
見つかってはいけない。
絶対に。
しかし。
「あ」
声がした。
先ほどよりも、ずっと近くで。
「いた」
少女の心臓が跳ねた。
管理室の入り口。
そこに、一人の少年が立っていた。
黒髪に銀色の混じった、学生服姿の少年。
年齢は自分と大して変わらないように見える。
彼は少女を見つめると、嬉しそうに笑った。
「やっと見つけた」
「……誰?」
少女が掠れた声で尋ねる。
少年は首を傾げた。
「ああ、自己紹介してなかったね」
そして、何でもないことのように答えた。
「久遠零司。よろしく」
少女は後ずさった。
「……研究所の、人?」
「んー、まあ、そんな感じ?」
零司は少し考えた。
「正確には、研究所の人に頼まれて来たんだけどね」
その言葉を聞いた瞬間。
少女の顔から、血の気が引いた。
「……いや」
「ん?」
「戻らない……!」
少女は壁に手をつきながら、必死に立ち上がった。
「絶対に……戻らない!」
零司は、そんな彼女を静かに見つめていた。
怯えている。
疲れ切っている。
それでも、決して諦めようとはしていない。
その姿を見て。
「……へえ」
少年の口元が、わずかに緩んだ。
面白い。
そう思った。
そして、彼は笑顔のまま告げた。
「残念だけど、今日は君を捕まえる仕事なんだ」
少女の表情が強張る。
「だからさ」
零司は、楽しそうに両手を広げた。
「どうする? 大人しく捕まってくれる?」
少しだけ間を置いて。
彼は、こう続けた。
「それとも――」
その瞳に、好奇心の光が宿る。
「僕を驚かせてくれる?」
地下通路に、静寂が落ちた。
少女は震える身体で少年を睨みつける。
そして。
「……絶対に」
小さく、しかしはっきりと呟いた。
「あなたなんかに、捕まらない……!」
その瞬間。
管理室の照明が、一斉に明滅した。
零司の足元で、何かが変わる。
周囲の空気が揺らぎ、天井の照明から火花が散った。
少年は、その現象を見つめた。
驚愕ではない。
恐怖でもない。
ただ、純粋な興味。
そして。
「……あはっ」
零司は、心底楽しそうに笑った。
「いいね」
今度こそ、退屈しなくて済みそうだった。
――学園都市の極秘第零位。
その少年が初めて、逃亡した実験体N-13と対面した瞬間だった。