七月二十八日、午後四時五十三分。
学園都市第七学区。
旧通信管理棟、地下第四保守室。
「……最初から、十三を逃がすつもりだったの」
N-12の言葉に、室内が静まり返った。
古びた机の上には、小さな記録媒体。
その隣には、研究施設の印章が押された書類が数枚。
久遠零司は椅子に腰掛け、頬杖をついていた。
「それで?」
続きを促す。
N-12は少年を警戒しながら、書類の一枚を差し出した。
《PROJECT:ECHO》
《初期実験計画書》
《第一観測対象:N-12》
《第二観測対象:N-13》
《実験区分:施設外行動観測》
《実施責任者:御影直哉》
「……御影?」
N-13が顔を上げた。
視線の先。
壁際に拘束されていた御影直哉が、顔を歪める。
「……その書類を、どこで手に入れた」
「七月十二日。搬送前の準備室」
N-12は答えた。
「……あなたたちが、わたしを眠らせる前」
御影の表情が変わった。
「……あの部屋には、認証が必要だったはずだ」
「書類を置いた人が、机を閉め忘れたの」
「……馬鹿な」
「本当に、そうだったよ」
N-12は、淡々と答えた。
「わたしだって、最初は信じられなかった」
零司が小さく笑った。
「随分と不用心だね」
御影は答えない。
N-13は書類を読み進めた。
《実験目的》
《観測干渉能力者の施設外行動、および第三者接触時の能力変化を測定する》
《第一段階:N-12の施設外移送》
《第二段階:N-13の自主的施設離脱を誘導》
《第三段階:両対象の接触・追跡・再回収》
少女の指が止まった。
「……自主的、施設離脱……?」
N-12が頷く。
「……十三が、自分で逃げたと思うようにする計画だった」
「…………」
「外に出れば、誰かに助けを求めるでしょ?」
N-12は続けた。
「そのとき、十三の能力がどう働くのか。誰と接触するのか。どこへ逃げようとするのか」
少女は、書類を握りしめた。
「……それを、全部調べるため?」
「……うん」
N-12は目を伏せた。
「最初は、わたしが十三を外へ誘い出す役だった」
その言葉に、N-13の顔が上がった。
「……十二号が?」
「……そう」
N-12は小さく頷いた。
「先に外へ出されたわたしが、十三へ連絡する。助けに来たふりをして、決められた場所へ誘導する」
「…………」
「そういう計画だった」
N-13は、何も言えなかった。
七月十九日。
研究施設から届いたメッセージ。
『外へ出ろ』
『必ず迎えに行く』
あの言葉は、最初から自分を誘い出すために用意されていた。
「……じゃあ」
少女は、N-12を見た。
「……十二号が、あのメッセージを送るはずだったの?」
「……うん」
「……でも、送らなかった」
「……送れるわけないよ」
N-12は、少しだけ声を強めた。
「十三を、あの人たちに引き渡すことになるんだよ?」
少女の目が揺れた。
「……だから、逃げたの?」
「……そう」
N-12は、静かに答えた。
「外へ出されたら、研究施設の指示には従わないって決めてた」
零司が、書類の別の箇所を指差した。
「で、君が言うことを聞かなかったから、計画が変わったんだ」
そこには、後から追加された管理項目があった。
《誘導担当者変更》
《外部接触候補:ZERO》
《実施承認:七月十二日 二十時五分》
N-13が息を呑む。
「……零司……」
「うん」
少年は、少しだけ笑った。
「僕の出番ってわけだね」
◇
「……説明してもらおうか」
零司が御影へ顔を向けた。
御影は唇を噛んだ。
「……何をだ」
「どうして僕?」
少年は首を傾げる。
「普通に逃げた子を追いかけさせるなら、警備会社でも暗部の下請けでもよかったでしょ?」
「…………」
「わざわざ僕を選んだ理由、あるよね」
御影は黙っていた。
零司は、面倒くさそうに息を吐いた。
「黙るなら別にいいけど」
そして、椅子から立ち上がる。
「その場合は、別の人に聞くよ」
御影の身体が、僅かに浮き上がった。
「……待て!」
零司は足を止めた。
「何?」
「……第零位の能力を調べるためだ」
その場にいた全員の視線が、御影へ集まった。
「N-13の観測干渉能力を利用すれば、通常の測定では確認できない異能干渉の過程を記録できる可能性があった」
「……それで?」
「ZEROがN-13と行動を共にすれば、能力使用時の変化を継続的に観測できる」
御影は、苦々しく続けた。
「お前が研究施設からの依頼を引き受ける可能性があることも、把握していた」
零司は笑った。
「誰から聞いたの?」
「……暗部の仲介業者だ」
「ふうん」
それなら、あり得る。
久遠零司が暗部の仕事を受けること自体は、極一部の関係者には知られている。
面倒な仕事を嫌うことも。
報酬だけで動くとは限らないことも。
だが。
「面白そうなら引き受けると思った?」
御影が顔を上げた。
「……そうだ」
零司は、声を上げて笑った。
「正解」
「…………」
「実際、引き受けちゃったしね」
少年は、N-13へ視線を向けた。
「それで、こうなった」
N-13は複雑そうな顔をした。
「……笑い事じゃない」
「僕としては、結構笑えるんだけど」
「……零司」
「はいはい」
零司は肩をすくめた。
それから、御影へ向き直る。
「でもさ」
笑みを浮かべたまま、問いかけた。
「僕を観測して、どうするつもりだったの?」
御影は目を逸らした。
「……能力の作用条件を解析する」
「それから?」
「……対抗手段を研究する」
零司の目が、僅かに細くなった。
「なるほど」
学園都市の第零位。
公式には存在しない能力者。
その能力を解析し、対抗手段を開発する。
暗部の人間であれば、十分に価値のある研究だった。
「僕を倒せる方法が見つかれば、売れるってこと?」
御影は答えなかった。
零司は、それを肯定と受け取った。
「結構なこと考えるね」
少年は、小さく笑った。
「でも、僕を相手に実験するなら、もう少し上手にやらないと」
そのとき。
N-12が、突然顔を上げた。
「……待って」
「ん?」
零司が振り返る。
N-12は、壁際の古い通信装置を見つめていた。
小さな緑色の表示灯。
それが、規則的に点滅している。
「……それ」
少女の表情が変わった。
「……さっきまで、光ってなかった」
◇
ピッ。
短い電子音。
続いて、壁面の管理端末が起動した。
《PROJECT:ECHO》
《施設外実験:終了処理》
《残存記録:処分》
八雲の表情が強張った。
「……まずい!」
次の瞬間。
建物全体に、低い振動が走った。
ゴゴゴゴゴッ!
「……何!?」
N-13が叫ぶ。
天井から埃が落ちてくる。
壁面の通信装置が、次々と異常を示し始めた。
《記録媒体処分》
《設備機能停止》
《機密区画封鎖》
「……証拠を消すつもりだ!」
八雲が叫んだ。
御影は、口元を歪めた。
「……残念だったな」
零司が振り返る。
「君がやったの?」
「……私がここへ来た時点で、処分条件は設定されていた」
御影は笑った。
「計画が漏洩した場合、この施設はすべての記録を失う」
N-12の表情が強張る。
「……だから、わたしを追いかけてたの?」
「お前が持ち出した初期計画書は想定外だった」
御影は、N-12を睨んだ。
「だが、もう終わりだ」
次の瞬間。
バンッ!
天井の一部が破裂した。
金属片が飛び散る。
N-13が反射的に身を伏せた。
しかし。
破片は、誰にも届かなかった。
すべてが空中で停止していた。
「……あーあ」
零司が、ため息をつく。
「本当に面倒くさいなぁ」
その声は、先ほどまでとは違っていた。
退屈そうで。
不機嫌そうで。
何より、心底うんざりしていた。
「証拠消しってさ」
零司は、天井を見上げた。
「そればっかりじゃん」
次の瞬間。
轟音が止まった。
建物を揺らしていた振動が、ぴたりと収まる。
破裂した配管から漏れ出していた気体も、空中で流れを失った。
零司は、軽く指を動かした。
壊れた配管が、元の位置へ戻っていく。
金属片が再び組み合わされ、亀裂が塞がる。
正確には、破損した部分の位置と結合条件が変更されていた。
「……何を」
御影が呟いた。
零司は、天井を見たまま答える。
「壊れるのを止めた」
「……馬鹿な」
「馬鹿って言われてもねぇ」
少年は、御影へ視線を戻した。
「君たちの仕掛けたものくらい、どうとでもなるんだけど」
その瞬間。
施設内の警告音が変わった。
《処分装置:作動不成立》
《非常停止》
《管理不能》
八雲が息を呑んだ。
「……停止した……?」
「うん」
零司は頷いた。
「この建物の分はね」
その言葉に、御影の笑みが戻った。
「……甘いな」
N-12が顔を上げる。
「……何?」
御影は、歪んだ笑みを浮かべた。
「ECHOの記録が、この施設だけにあると思ったか?」
N-13の表情が変わった。
「……他にも?」
「当たり前だ」
御影は答えた。
「研究施設。中継倉庫。外部管理拠点。複数の保存設備がある」
そして。
「今頃、すべて処分されているはずだ」
沈黙。
零司は、少し考えた。
それから。
「……へえ」
小さく笑った。
「そうなんだ」
御影が眉をひそめる。
「……何がおかしい」
「いや」
零司は肩をすくめた。
「全部壊したって、君がここにいるじゃん」
「…………」
「それに、最初の計画書も残ってるし」
少年は、N-12が持っている記録媒体を指差した。
「消し損ねたもの、結構あるね」
御影の顔から笑みが消えた。
◇
「……十三」
N-12が、小さく呼びかけた。
「……何?」
「……この装置、まだ動いてる」
N-12は、壁際の通信設備を指差した。
R-4。
ECHOの基準信号中継装置。
設備の処分処理は停止している。
だが、通信回線そのものは生きていた。
「……まだ、使える?」
N-13が尋ねる。
「……たぶん」
N-12は頷いた。
「保全用の回線があるはず」
少女は、管理端末へ近づいた。
画面には、複数の通信項目が表示されていた。
《通常管理回線:停止》
《外部接続:制限》
《緊急保全回線:利用可能》
「……これだ」
N-13が呟く。
八雲が隣へ並んだ。
「……なるほど」
「……何?」
「緊急時に、記録の一部を外部へ保全するための回線です」
N-13は、画面を見つめた。
この装置を使えば。
ECHOの記録を、施設の外へ送れるかもしれない。
「……十二号」
少女が振り返る。
「……その記録、複製していい?」
N-12は、少しだけ驚いた。
「……どうして?」
「……また消されるかもしれないから」
少女は続けた。
「……一つだけじゃ、危ない」
N-12は、しばらく考えた。
そして、頷いた。
「……うん」
記録媒体が接続される。
管理端末へ、初期計画書の内容が表示された。
N-13は、必要な項目を選択する。
《計画概要》
《実施責任者》
《管理認証履歴》
《施設外実験計画》
その中で、一つの項目に目が止まった。
《統括管理認証》
《ECHO-ROOT》
「……これ」
少女は、別の記録を開いた。
七月十二日。
午後八時三分。
八雲誠司が受け取った、N-12のコンテナ解錠命令。
その認証履歴。
《上位管理認証》
《ECHO-ROOT》
同じ識別だった。
「……零司!」
少女が声を上げる。
「……これ、同じ!」
少年が振り返った。
「何?」
「……七月十二日の命令」
少女は、画面を指差した。
「……この計画の統括認証と、同じ番号」
八雲が息を呑んだ。
「……ECHO-ROOT……」
その識別。
通常の管理系統には存在しない、上位権限。
七月十二日。
N-12をコンテナから出すよう命じたもの。
そして、七月十九日のメッセージ配送を承認したもの。
すべてが、その認証へ繋がっている。
「……じゃあ」
N-13は、御影へ視線を向けた。
「……この認証、誰が使ってたの?」
御影は答えなかった。
だが。
N-12が、ゆっくりと別のページを開いた。
《統括認証管理者》
《御影直哉》
沈黙。
御影の顔色が変わった。
「……っ!」
零司は、画面を覗き込んだ。
そして、楽しそうに笑う。
「……あれ?」
御影へ視線を向ける。
「君じゃん」
八雲は、呆然と男を見つめていた。
「……御影主任」
その声が震える。
「……まさか」
御影は、何も答えなかった。
N-13は、静かに口を開いた。
「……あなたが、命令したの?」
御影は、唇を噛みしめた。
「…………」
「……七月十二日」
少女は続ける。
「……十二号を、コンテナから出せって」
沈黙。
そして。
「……七月十九日」
少女の声が強くなる。
「……わたしに、メッセージを送れって」
御影は、目を逸らした。
その反応を見て。
少女は、ようやく理解した。
何者かの上位命令。
正体不明の管理者。
その指示に従ったと説明していた研究者たち。
だが。
最初から、その命令を出していたのは。
目の前にいる男だった可能性が高い。
「……答えて」
N-13が言った。
「……あなたが、全部決めたの?」
御影は、しばらく黙っていた。
そして。
「……計画を立案したのは、私だ」
静かに答えた。
「……では、解錠命令も」
八雲が尋ねる。
御影は、ゆっくりと頷いた。
「……私が承認した」
八雲の表情が強張った。
「……あなたは、私に……」
「必要な措置だった」
御影は、吐き捨てるように言った。
「管理権限を偽装しなければ、計画の実行は難しかった」
零司が、小さく笑った。
「なるほど」
少年は頷いた。
「つまり、君が一番偉い人のふりをしてたんだ」
御影は、何も言わなかった。
その沈黙だけで、十分だった。
◇
「……どうして」
N-13が、静かに尋ねた。
御影は顔を上げた。
「……何だ」
「……どうして、わたしたちを外へ出したの?」
御影は、しばらく黙っていた。
そして。
「……研究のためだ」
答えた。
「観測干渉能力の実用化には、施設外でのデータが必要だった」
「……実用化?」
「監視網から対象を隠す。記録を不安定にする。観測者の認識を誘導する」
御影は続ける。
「それが可能になれば、情報戦における利用価値は計り知れない」
N-13の拳が震えた。
「……だから?」
「……そうだ」
「……わたしたちを、勝手に外へ出して」
少女の声が震える。
「……追いかけて、観測して、また捕まえるつもりだったの?」
御影は答えなかった。
N-12が、静かに口を開く。
「……十三」
少女が振り返る。
N-12は、小さく首を横に振った。
「……もう、いいよ」
「……でも」
「……あの人に、何を言っても変わらない」
その声は、静かだった。
怒りがないわけではない。
恐怖が消えたわけでもない。
ただ。
これ以上、御影に言葉を向けても、自分たちが失ったものは戻らない。
そう理解していた。
零司は、二人のやり取りを眺めていた。
そして。
「……じゃあ」
御影へ向き直った。
「君は、もういらないかな」
その瞬間。
御影の顔から、血の気が引いた。
「……待て!」
零司が首を傾げる。
「何?」
「……まだ、話せることがある!」
「もう聞いたよ」
少年は、面倒くさそうに答えた。
「君がやったことも、目的も」
そして、小さく笑う。
「他に何か面白い話ある?」
御影は、息を呑んだ。
その問いには、答えられなかった。
目の前の少年は、命を奪うことに躊躇しない。
しかも。
自分がどれほど優秀な研究者なのか。
どれほど重要な情報を持っているのか。
そんなものは、もう興味がないらしかった。
「……零司」
N-13が呼びかけた。
少年が振り返る。
「ん?」
「……待って」
零司は、少しだけ眉を上げた。
「どうしたの?」
少女は、御影を見つめた。
そして。
「……この人、まだ証人になる」
零司の目が細くなる。
「……へえ」
少女は続ける。
「……研究施設で何が行われてたのか、話せる人が必要」
N-12も、小さく頷いた。
「……わたしも、そう思う」
零司は、二人を見比べた。
それから、少しだけ笑った。
「……なるほど」
御影へ視線を戻す。
「命拾いしたね」
その言葉に、御影は膝から崩れ落ちた。
零司は、それ以上興味を示さなかった。
生かしておけば、利用価値がある。
ならば、今は殺す必要もない。
ただ、それだけの判断だった。
◇
午後五時二十三分。
旧通信管理棟。
《記録保全処理:完了》
N-13は、画面を見つめていた。
PROJECT:ECHOの初期計画書。
御影直哉の管理認証記録。
N-12の解錠命令。
七月十九日のメッセージ配送記録。
そして、施設外実験の概要。
それらの複製が、複数の記録媒体へ保存されていた。
「……できた」
少女は、小さく息を吐いた。
八雲が頷く。
「これだけ残れば、少なくとも計画の存在を完全に隠蔽することは難しくなるでしょう」
「……でも、まだ危ないよね」
N-12が尋ねる。
「……ええ」
八雲は、正直に答えた。
「ECHOに関係した人間が、すべて御影主任の指揮下にいたとは限りません」
少女は頷いた。
それは、分かっていた。
実験を行った研究者。
資金を提供した組織。
装置を製造した企業。
すべての関係者が、今回の出来事でいなくなるわけではない。
だが。
少なくとも。
自分たちを追いかけていた計画の中核は、止まった。
N-12は、少女の隣へ立った。
「……十三」
「……何?」
「……これから、どうするの?」
N-13は、少しだけ考えた。
研究施設へ戻るつもりはない。
誰かの観測対象になるつもりもない。
もう、誰かに行動を決められたくはない。
「……自分で決める」
静かに答えた。
N-12は、小さく笑った。
「……そっか」
「……十二号は?」
「……わたしも」
二人は顔を見合わせた。
それから、ほんの少しだけ笑った。
零司は、その様子を離れた場所から眺めていた。
そして。
「……終わった?」
欠伸を噛み殺す。
N-13が振り返る。
「……うん」
「じゃ、帰ろっか」
あまりにも気軽な声だった。
少女は、呆れたように笑った。
「……ほんと、気分屋」
「今さら?」
零司は、肩をすくめる。
「面倒なところは終わったし、もう帰りたい」
その言葉に、N-12が少しだけ目を丸くした。
「……あなた、本当にそれだけ?」
「何が?」
「……この計画を壊したのに」
零司は、不思議そうに首を傾げた。
「壊したかったから壊しただけだよ?」
「…………」
「面白かったしね」
少年は笑った。
N-12は、何とも言えない顔をした。
この少年は、やはり理解しがたい。
研究施設の計画を潰すほどの力を持っている。
人を殺すことにも躊躇しない。
なのに。
今は、夕食のことでも考えているような顔をしていた。
「……ねえ」
N-12が、小さく尋ねた。
「……十三は、あなたのところに住んでるの?」
「うん」
零司は頷いた。
その答えに、N-12が驚いた。
「……本当に?」
「本当だよ」
少女は、少しだけ考えた。
それから。
「……わたしも、一緒に行っていい?」
N-13が顔を上げる。
「……十二号?」
N-12は、少しだけ目を伏せた。
「……まだ、行くところがないから」
零司は、露骨に嫌そうな顔をした。
「えー」
N-12が身構える。
「……駄目?」
「一人増えるの?」
「……うん」
「面倒くさ……」
零司は、心底嫌そうに呟いた。
N-13が、思わず笑った。
「……零司」
「何?」
「……お願い」
少年は、二人を見比べた。
それから、少しだけ考える。
N-12。
消えた十二号。
その本人が、今ここにいる。
PROJECT:ECHOは止まった。
だが、彼女が知っている情報は、まだすべて聞いたわけではない。
それに。
二人を一緒にしておけば、また何か面白いことが起きるかもしれない。
「……まあ、いいか」
零司は、あっさりと頷いた。
「一晩くらいならね」
N-12が目を見開く。
「……いいの?」
「うん」
少年は続ける。
「でも、僕の生活まで面倒見てもらおうとは思わないでね」
N-13が、小さく笑った。
「……分かってる」
「あと、ご飯」
零司は、二人を指差した。
「自分たちで選んでね。僕、今日はもう考えるの面倒」
N-12は、数秒ほど呆然としていた。
それから。
「……変な人」
小さく呟いた。
N-13が頷く。
「……うん」
二人の視線が、零司へ向けられる。
少年は、すでに出口へ歩き始めていた。
「……早く帰ろー」
その背中を見て。
二人は、思わず顔を見合わせた。
そして。
今度こそ、声を出して笑った。
◇
同日、午後六時四十七分。
第七学区。
夏の夕暮れ。
街路樹の影が、歩道に長く伸びている。
零司は、コンビニの袋を提げて歩いていた。
その隣には、N-13とN-12。
二人は、小さな声で話している。
「……あのとき、どうやって逃げたの?」
「……地下の保守通路を使ったの」
「……怖くなかった?」
「……怖かったよ」
N-12は、少しだけ笑った。
「……でも、十三まで捕まる方が嫌だった」
N-13は、何も言わなかった。
それから。
ゆっくりと、N-12の手を握った。
「……ありがとう」
N-12は、少しだけ驚いた。
しかし、すぐに笑った。
「……うん」
その様子を、零司は横目で見ていた。
そして、欠伸を一つ。
「……眠い」
N-13が振り返る。
「……まだ、六時だよ」
「今日は色々やったし」
「……あなた、ほとんど疲れてないでしょ」
「精神的に疲れたの」
「……嘘」
「ひどいなぁ」
零司は笑った。
N-12は、そのやり取りを見つめていた。
不思議だった。
暗部の仕事を引き受ける少年。
人を殺すことに躊躇しない存在。
それなのに。
今、目の前では。
ただの学生のように、他愛のない会話をしている。
N-12は、小さく息を吐いた。
この少年を信用していいのか。
まだ、分からない。
けれど。
少なくとも、N-13は自分の意思で彼と一緒にいる。
そのことだけは、理解できた。
「……零司」
N-12が声を掛けた。
「ん?」
「……一つ、聞いていい?」
「いいよ」
少女は、少しだけ迷った。
そして。
「……どうして、十三を助けたの?」
零司は、数秒ほど考えた。
それから。
「面白そうだったから」
あっさりと答えた。
N-12は、目を瞬かせた。
「……それだけ?」
「うん」
少年は笑った。
「最初はね」
N-12は、しばらく零司を見つめていた。
そして。
「……今は?」
零司が顔を向ける。
少し考える。
N-13。
逃亡した研究対象。
自分に歯向かい、文句を言い、それでも一緒に行動する少女。
そして、N-12。
ようやく見つかった消えた十二号。
二人を取り巻く事件は、ひとまず終わった。
けれど。
彼女たちがこれから何をするのか。
どんな選択をするのか。
それは、まだ分からない。
「……今も面白いから、かな」
零司は、楽しそうに笑った。
N-12は、少しだけ呆れた。
「……やっぱり、変な人」
「よく言われる」
その言葉に、N-13が小さく笑う。
そして。
三人は、夕暮れの街を歩いていった。
学園都市の第零位。
久遠零司。
その名前は、まだ表舞台には存在しない。
公式記録では、ただのレベル0。
だが、暗部の一部では、その存在を知る者たちがいる。
圧倒的な力を持ち。
善悪に縛られず。
気分次第で、人を助けることも、殺すこともある。
そして。
面倒なことを嫌いながらも、面白ければどこまでも首を突っ込む。
そんな少年のもとに。
二人の少女が、再び歩み寄った。
PROJECT:ECHO。
消えた十二号を巡る事件は、ひとまず幕を下ろした。
しかし。
久遠零司の日常が、平穏なものになるとは限らない。
学園都市には、まだ数えきれないほどの秘密が眠っている。
科学の側にも。
そして。
魔術の側にも。
零司は、空を見上げた。
夕焼けに染まる街。
その向こうにある、まだ知らない出来事。
「……さて」
少年は、小さく笑った。
「次は、何が起きるかな」
その声には、期待が滲んでいた。
新しい面倒事。
新しい出会い。
そして、まだ見ぬ強敵。
退屈しない日々が続くのなら。
それは、それで悪くない。
久遠零司は、楽しそうに笑った。
「……ま、面白ければ何でもいいか」
◇
七月二十九日、午前零時十二分。
第七学区某所。
研究施設の管理端末に、一つの通知が届いていた。
《PROJECT:ECHO》
《管理状態:停止》
《主要研究資料:保全記録あり》
《第三段階:終了》
画面の前に座っていた男が、静かに息を吐く。
「……なるほど」
そして。
別の資料を開いた。
《外部観測者》
《識別:ZERO》
《能力分類:未確定》
《危険度評価:最高》
男は、その記録をしばらく見つめていた。
そして、ゆっくりと画面を閉じた。
「……第零位、か」
その声は、静かだった。
「……やはり、普通の能力者とは違うらしい」
男は、椅子の背もたれへ身体を預けた。
PROJECT:ECHOは停止した。
だが、その過程で残された第零位の観測記録は、完全に消えたわけではない。
その一部は、すでに別の管理系統へ複製されていた。
「……さて」
男は、静かに呟く。
「これを、どう扱うべきか」
モニターが暗転した。
その部屋に、再び静寂が戻る。
学園都市の暗部。
そこでは、一つの計画が終わっても、別の計画が動き始める。
そして。
その中心に、久遠零司という存在が関わる可能性は、まだ消えていなかった。