とある学園都市の第零位《ゼロナンバー》   作:右左右左右

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第三章 黄金錬成からの誘い
第21話 巫女と魔術師と退屈な午後


 八月八日、午前十時二十三分。

 

 学園都市第七学区。

 

「……ねえ、零司」

 

「やだ」

 

「まだ何も言ってない!」

 

 久遠零司の部屋に、N-13の抗議が響いた。

 

 ソファに寝転がっていた少年は、携帯ゲーム機から目を離さない。

 

「どうせ面倒な話でしょ?」

 

「違う!」

 

「じゃあ何?」

 

「……冷蔵庫」

 

「冷蔵庫?」

 

「中身、ほとんど空っぽ」

 

「ああ」

 

 零司は納得したように頷いた。

 

「じゃあ買ってきて」

 

「お金は?」

 

「そこ」

 

 テーブルを指差す。

 

 N-13が視線を向けると、財布が無造作に置かれていた。

 

「……これ、全部使っていいの?」

 

「いいよ」

 

「……中身、確認してないでしょ」

 

「してない」

 

「…………」

 

 少女は、深いため息をついた。

 

 七月十九日。

 

 研究施設から逃げ出して以来、彼女の生活は大きく変わった。

 

 そして七月二十八日。

 

 PROJECT:ECHOの事件を経て、N-12とも再会した。

 

 現在、二人は零司の部屋に身を寄せている。

 

 もっとも、当初の約束は一晩だけだった。

 

 それから、すでに十日以上が経過している。

 

「……零司」

 

 今度は、キッチンから声がした。

 

 N-12だった。

 

 淡い茶色の髪を後ろでまとめ、慣れない手つきで食器を洗っている。

 

「……何?」

 

「……そろそろ、別の部屋を探した方がいい?」

 

「んー」

 

 零司はゲーム機を置いた。

 

「別にどっちでも」

 

「……いいの?」

 

「二人がいると掃除しなくて済むし」

 

「……それが理由?」

 

「大事でしょ?」

 

 N-13が呆れたように言った。

 

「……わたしたち、家政婦じゃないんだけど」

 

「知ってるよ」

 

 零司は笑った。

 

「でも、助かってるのは本当」

 

 N-12は、少しだけ困ったように笑った。

 

 研究施設では、自由に外出することも、食事を選ぶこともできなかった。

 

 それが今では、買い物の相談をしている。

 

 奇妙な生活だった。

 

 だが、少なくとも自分たちの行動を自分で決められる。

 

 それだけで、以前とは大きく違っていた。

 

「……そういえば」

 

 N-13が顔を上げる。

 

「……今日は、どこか行くの?」

 

「うん」

 

 零司は立ち上がった。

 

「ちょっと外」

 

「……仕事?」

 

「違う」

 

「……じゃあ何?」

 

「暇潰し」

 

 即答だった。

 

 N-13は額を押さえた。

 

「……また?」

 

「ずっと部屋にいるのも飽きたし」

 

 零司は上着を手に取った。

 

「何か面白いものでもないかなって」

 

 N-12が首を傾げる。

 

「……そんな理由で出かけるの?」

 

「他に理由いる?」

 

「…………」

 

 少女は、何とも言えない顔をした。

 

 零司は気にせず玄関へ向かう。

 

「じゃ、行ってきまーす」

 

「……お昼は?」

 

「適当に食べる」

 

「……夕飯は?」

 

「気が向いたら帰る」

 

「……それ、帰ってこない可能性もあるよね」

 

「あるね」

 

 軽い返事。

 

 そして、扉が閉まった。

 

 残された二人は、しばらく玄関を見つめていた。

 

「……本当に自由な人だね」

 

 N-12が呟く。

 

 N-13は頷いた。

 

「……うん」

 

 それから、財布を持ち上げる。

 

「……とりあえず、買い物行こうか」

 

「……そうだね」

 

 二人は顔を見合わせた。

 

 そして、少しだけ笑った。

 

     ◇

 

 午後零時十四分。

 

 第七学区の繁華街。

 

「……何食べようかな」

 

 零司は、通りを歩いていた。

 

 夏休み中の学園都市。

 

 街には学生たちが溢れている。

 

 買い物袋を提げた少女たち。

 

 携帯端末を片手に歩く少年。

 

 店先から流れる宣伝音声。

 

 いつもと変わらない、学園都市の日常だった。

 

 零司は、通りの向こうにあるファストフード店へ視線を向けた。

 

「……あそこにしよ」

 

 特に理由はない。

 

 近かったからだ。

 

 自動ドアを抜けると、涼しい空気が身体を包んだ。

 

「生き返るなぁ」

 

 適当に注文を済ませ、空いている席を探す。

 

 そのときだった。

 

「だから! どうしてお前はそんなに食べるんだよ!」

 

 聞き覚えのある声が響いた。

 

「お腹が空いてるからなんだよ!」

 

「それは分かってる! 俺が聞きたいのは量の問題であってだな!」

 

 零司が顔を向ける。

 

 店内の一角。

 

 ツンツンした黒髪の少年が、白い修道服姿の少女と口論していた。

 

 黒髪の少年。

 

 上条当麻。

 

 七月二十二日に、地下街で出会った人物だった。

 

「あれ」

 

 零司は、少しだけ笑った。

 

「変な右手の人だ」

 

 そのまま二人の席へ近づく。

 

「こんにちは」

 

「……ん?」

 

 上条が顔を上げた。

 

 零司を見る。

 

 そして、僅かに動きを止めた。

 

「……えっと」

 

「久しぶり」

 

「……お、おう!」

 

 上条は、慌てたように笑った。

 

「久しぶりだな!」

 

 零司は首を傾げた。

 

「覚えてる?」

 

「も、もちろん!」

 

「七月二十二日の地下街」

 

「ああ! あの時のな!」

 

 上条は頷いた。

 

 少しだけ、不自然な間があった。

 

 零司は、それを見逃さなかった。

 

 だが、追及するほどの興味は湧かなかった。

 

「そっか」

 

 それだけ言って、隣の席へ腰を下ろす。

 

 白い修道服の少女が、興味深そうにこちらを見ていた。

 

「とうまのお友達?」

 

「……友達ってほどじゃないけどな」

 

 上条が答える。

 

 零司は、少女へ視線を向けた。

 

「君は?」

 

「私はインデックスっていうんだよ!」

 

「インデックス?」

 

「うん!」

 

 少女は、得意げに胸を張った。

 

「よろしくなんだよ!」

 

「よろしく」

 

 零司は笑った。

 

 その直後。

 

 インデックスの視線が、零司のトレーへ向けられた。

 

「……ねえ」

 

「何?」

 

「そのポテト、食べる?」

 

「食べるために買ったんだけど」

 

「……そっか」

 

 露骨に残念そうな顔。

 

 上条が頭を抱えた。

 

「おいインデックス! さっき食べたばっかだろ!」

 

「まだ食べられるんだよ!」

 

「上条さんの財布はもう限界なんですよ!」

 

 零司は、二人を交互に見た。

 

 それから、ポテトを一本摘まむ。

 

「欲しい?」

 

 インデックスの表情が輝いた。

 

「いいの!?」

 

「一本なら」

 

「一本!?」

 

 少女が固まった。

 

 零司は笑った。

 

「冗談」

 

 ポテトの容器を差し出す。

 

「好きなだけどうぞ」

 

「ありがとうなんだよ!」

 

 インデックスは嬉しそうに手を伸ばした。

 

 上条は、深々と頭を下げた。

 

「悪いな……」

 

「いいよ。見てて面白いし」

 

「……それ、褒めてるのか?」

 

「さあ?」

 

 零司は肩をすくめた。

 

 そのとき。

 

 店内の奥から、妙な声が聞こえてきた。

 

「……追加をお願いします」

 

 抑揚の少ない少女の声だった。

 

 零司が視線を向ける。

 

 そこには、巫女装束の少女が座っていた。

 

 長い黒髪。

 

 白い上衣。

 

 赤い袴。

 

 その前には、食べ終わった商品の包みが大量に積まれている。

 

「……何あれ」

 

 零司が呟いた。

 

 上条が、疲れたような顔をする。

 

「……俺もさっき知り合ったばっかなんだが」

 

「知り合い?」

 

「ああ。ちょっと変わった女の子でな」

 

 零司は、巫女装束の少女を眺めた。

 

 見た目は普通の少女。

 

 しかし、学園都市のファストフード店で巫女装束というのは、なかなか目立つ。

 

 しかも、食べる量がおかしい。

 

「……今日は大食い大会でもやってるの?」

 

 上条が、思わず笑った。

 

「そんな大会、聞いたことねえよ!」

 

 インデックスが抗議する。

 

「私はまだ本気出してないんだよ!」

 

「お前は張り合わなくていい!」

 

 零司は、声を出して笑った。

 

 なかなか愉快な連中だった。

 

     ◇

 

「……お待たせしました」

 

 しばらくして。

 

 巫女装束の少女の前に、二人の男が現れた。

 

 どちらもスーツ姿。

 

 一般企業の社員にも見える。

 

 しかし、零司の視線は別のものへ向けられていた。

 

 男の一人が、胸元に下げている小さな銀製の装飾品。

 

 その表面に、見慣れない刻印が施されていた。

 

(……ん?)

 

 零司の目が、僅かに細くなる。

 

 学園都市の電子機器ではない。

 

 能力開発に関係するものでもない。

 

 だが、そこには確かに何らかの力が宿っていた。

 

 それも、零司にとっては見覚えのある種類の力だった。

 

(……魔術か)

 

 少年の口元が、少しだけ上がった。

 

 学園都市では、珍しい。

 

 もっとも、零司にとって魔術そのものが未知というわけではない。

 

 科学とは異なる体系。

 

 別の理屈で成立する力。

 

 それが存在することは、以前から知っていた。

 

 ただ。

 

 こんな場所で目にするとは思っていなかった。

 

「……行きましょう」

 

 スーツ姿の男が告げる。

 

 巫女装束の少女は、静かに立ち上がった。

 

「……分かりました」

 

 そのまま、男たちと一緒に店を出ていく。

 

 零司は、その背中を眺めた。

 

(……あの巫女さんも、関係者かな)

 

 気にはなった。

 

 しかし、追いかけるほどではない。

 

 少なくとも、今のところは。

 

「……さて」

 

 零司は立ち上がった。

 

 トレーを片づける。

 

「じゃあね、上条君」

 

「おう。またな」

 

 インデックスが手を振った。

 

「ポテトありがとうなんだよ!」

 

「どういたしまして」

 

 零司は、笑って店を出た。

 

 その後ろで。

 

 上条が、小さく首を傾げていた。

 

「……久遠、零司……」

 

 口の中で名前を繰り返す。

 

 見覚えがあるような、ないような。

 

 いや。

 

 正確には、記憶がない。

 

 七月二十八日。

 

 インデックスを救った代償として、上条当麻はそれまでの記憶を失っていた。

 

 だが、その事実を周囲には隠している。

 

 先ほどの少年も、失う前の自分と出会っていたらしい。

 

(……今度会ったら、もう少し話を合わせられるようにしねえとな)

 

 上条は、小さく息を吐いた。

 

 そして。

 

「……不幸だ」

 

 誰にも聞こえないほど小さく呟いた。

 

     ◇

 

 午後一時二十六分。

 

 零司は、繁華街を歩いていた。

 

 すでに食事は済ませた。

 

 特に目的地もない。

 

 そろそろ帰ろうか。

 

 そんなことを考えていたときだった。

 

「……おい、待て」

 

 聞き覚えのある声がした。

 

 顔を向ける。

 

 少し離れた路地。

 

 そこには、上条当麻が立っていた。

 

 そして、その正面。

 

 長身の少年。

 

 燃えるような赤い髪。

 

 黒い神父服。

 

 口元には煙草。

 

「……何だ、あれ」

 

 零司は足を止めた。

 

 上条が、赤髪の少年へ何かを言っている。

 

 相手は、明らかに苛立っている様子だった。

 

 その手元から、僅かに魔力が漏れている。

 

(……また魔術関係?)

 

 零司は、少しだけ笑った。

 

 今日という日は、どうやら当たりらしい。

 

 別に聞き耳を立てるつもりはなかった。

 

 だが。

 

「……三沢塾?」

 

 会話の中に出てきた名前が、耳に入った。

 

 続いて。

 

「……錬金術師?」

 

 零司の足が止まる。

 

 少しだけ考える。

 

 学園都市。

 

 進学塾。

 

 そして、魔術師。

 

 普通なら結びつかない単語が、同じ会話の中に出てきた。

 

「……へえ」

 

 零司は、口元を緩めた。

 

 面白そうだ。

 

 その瞬間だった。

 

「……そこの君」

 

 赤髪の少年が、こちらへ顔を向けた。

 

 鋭い視線。

 

 零司は、片手を上げた。

 

「こんにちは」

 

「……いつから聞いていた?」

 

「三沢塾ってところから」

 

 赤髪の少年の表情が険しくなる。

 

「……一般人が首を突っ込む話じゃない」

 

「一般人?」

 

 零司は、思わず笑った。

 

「それ、誰のこと?」

 

「君以外に誰がいる」

 

「さあ?」

 

 零司は肩をすくめた。

 

 上条が、慌てて二人の間へ入る。

 

「お、おい! ちょっと待て!」

 

 そして、零司へ向き直った。

 

「久遠! 何でここにいるんだよ!」

 

「散歩」

 

「散歩!?」

 

「うん」

 

 零司は頷いた。

 

「そしたら、魔術師っぽい人がいたから」

 

 その瞬間。

 

 赤髪の少年の目が細くなった。

 

「……君」

 

 低い声。

 

「今、何と言った?」

 

「魔術師」

 

 零司は、何でもないことのように答えた。

 

「違うの?」

 

 沈黙。

 

 赤髪の少年は、煙草を指で挟んだ。

 

「……君は何者だ」

 

「久遠零司」

 

「そういう意味じゃない」

 

「じゃあ、どういう意味?」

 

 零司は、楽しそうに笑った。

 

 赤髪の少年は、あからさまに苛立った。

 

「……面倒な相手だな」

 

「それ、こっちの台詞なんだけど」

 

 零司は首を傾げた。

 

「で、君は?」

 

 数秒の沈黙。

 

 そして。

 

「……ステイル=マグヌス」

 

 赤髪の少年が名乗った。

 

 零司は頷いた。

 

「ステイル君ね」

 

「君付けはやめろ」

 

「じゃあ、ステイル」

 

「…………」

 

 上条が、隣で顔を覆った。

 

(……こいつ、全然物怖じしねえな)

 

 ステイルは、深く煙を吐いた。

 

「……上条当麻」

 

「な、何だよ」

 

「行くぞ」

 

「おい、まだ話が――」

 

「時間がない」

 

 ステイルは、それだけ言って歩き始めた。

 

 上条も慌てて後を追う。

 

 零司は、二人の背中を見つめていた。

 

 そして。

 

「……さて」

 

 少し考える。

 

 普通なら、ここで帰るところだ。

 

 面倒事の匂いがする。

 

 しかも、明らかに厄介な種類の。

 

 だが。

 

「……錬金術師、か」

 

 零司は笑った。

 

 科学の街で活動する魔術師。

 

 それも、錬金術。

 

 なかなか珍しい組み合わせだった。

 

「……ちょっと見に行こ」

 

 少年は、二人とは別の道へ歩き始めた。

 

     ◇

 

 午後二時四十八分。

 

 第七学区。

 

 三沢塾。

 

「……でっか」

 

 零司は、目の前の建物を見上げた。

 

 大規模な進学予備校。

 

 複数の建物が連結された、巨大な教育施設だった。

 

 外見だけなら、学園都市のどこにでもありそうな建物である。

 

 だが。

 

「……なるほど」

 

 零司の目が、僅かに細くなる。

 

 建物全体を覆う、奇妙な違和感。

 

 それは、科学的な測定では説明できないものだった。

 

 空気の流れ。

 

 重力。

 

 電磁場。

 

 そうした物理的な条件は、正常に見える。

 

 しかし、それとは別のところで何かが動いていた。

 

「……結界、かな」

 

 零司は、小さく呟いた。

 

 魔術による領域の区分。

 

 外から見える建物と、その内部で起きている出来事。

 

 それらを意図的に切り離しているようだった。

 

「随分と凝ったことするなぁ」

 

 零司は、裏手の入口へ向かった。

 

 そこには、小さな通用口があった。

 

 鍵は掛かっている。

 

 だが、そんなものは問題にならない。

 

「……開いて」

 

 軽く手を動かす。

 

 カチリ。

 

 電子錠が解除された。

 

 しかし。

 

 扉は開かなかった。

 

「……ん?」

 

 零司が首を傾げる。

 

 物理的な鍵は外れている。

 

 扉を固定する力も、正常に伝わっている。

 

 それなのに。

 

 扉の向こうへ進めない。

 

「……ああ」

 

 少年が、小さく笑った。

 

「そういうこと」

 

 物理的な扉ではない。

 

 別の仕組みが、侵入者を拒んでいる。

 

 零司は、ゆっくりと右手を伸ばした。

 

 そして。

 

 万象演算とは異なる力へ、意識を向ける。

 

 科学によって説明される現象。

 

 その成立条件を書き換える力。

 

 だが、それだけが零司の持つ手札ではない。

 

 別の理屈。

 

 別の体系。

 

 世界の位相へ働きかける力。

 

 ――位相勅令。

 

 零司の灰紫色の瞳が、僅かに輝いた。

 

「……そこ、通して」

 

 小さく告げる。

 

 次の瞬間。

 

 扉の周囲に存在していた魔術的な境界が、局所的に歪んだ。

 

 侵入者を拒むという条件。

 

 その条件が、零司の周囲だけで成立しなくなる。

 

 そして。

 

 ギィ……。

 

 扉が開いた。

 

「……よし」

 

 零司は、満足そうに頷いた。

 

「入れた」

 

 そのまま、建物の中へ足を踏み入れる。

 

     ◇

 

 三沢塾、内部通路。

 

「……何これ」

 

 零司は、廊下を見渡した。

 

 普通の進学塾。

 

 学生たちが行き交い、教室からは講師の声が聞こえてくる。

 

 だが。

 

 廊下の隅には、血痕が残されていた。

 

 さらに、破損した甲冑の一部。

 

 明らかに、ここで戦闘が行われた形跡がある。

 

 それなのに。

 

 誰も気にしていない。

 

 学生たちは、普通に歩いている。

 

 血痕を踏んでも、反応しない。

 

 零司は、少しだけ目を細めた。

 

「……なるほどね」

 

 結界の効果が、ようやく理解できた。

 

 同じ場所に存在しているのに、互いを認識できない。

 

 表側の人間。

 

 裏側の人間。

 

 まるで、硬貨の表と裏。

 

 同じ場所にありながら、別のものとして扱われている。

 

「……よくできてるじゃん」

 

 零司は、廊下を歩いた。

 

 そのとき。

 

 一人の女子学生が、正面から歩いてきた。

 

 参考書を抱えた、ごく普通の少女。

 

 しかし。

 

 その口が、突然動き始めた。

 

「――――」

 

 聞き慣れない言葉。

 

 日本語ではない。

 

 零司が足を止める。

 

「……ん?」

 

 少女は、無表情のまま言葉を紡いでいる。

 

 その周囲で、魔力が集まり始めた。

 

 床に刻まれた模様が、淡く光る。

 

 次の瞬間。

 

 光の槍が、零司へ向かって放たれた。

 

「……おっと」

 

 零司が軽く手を上げる。

 

 槍が、空中で停止した。

 

 だが。

 

 停止した光は、すぐに形を取り戻し始めた。

 

 物理的な運動だけを止めても、術式が新たな力を供給してくる。

 

「……ああ、そうか」

 

 零司は、小さく笑った。

 

「こっちで止めても、向こうが作り直すんだ」

 

 ならば。

 

 手段を変えればいい。

 

 零司は、指先を軽く動かした。

 

 今度は、光の槍そのものではなく、その成立を支える術式へ干渉する。

 

 次の瞬間。

 

 パキンッ!

 

 何かが割れるような音が響いた。

 

 光の槍が、消滅した。

 

 同時に、女子学生の身体が揺れる。

 

「……え?」

 

 少女は、目を瞬かせた。

 

 今まで、自分が何をしていたのか分からない。

 

 気づけば、廊下の真ん中に立っている。

 

「……あれ?」

 

 零司は、そんな少女を見つめていた。

 

「大丈夫?」

 

「……え?」

 

 少女が顔を上げる。

 

「……あなた、誰?」

 

「通りすがり」

 

「……えっと」

 

 少女は、周囲を見回した。

 

 そして、顔をしかめる。

 

「……何だか、頭が痛い……」

 

 零司は、床の模様を見た。

 

 術式は、まだ残っている。

 

 ただし、先ほどの少女へ繋がっていた部分だけが断たれていた。

 

 建物全体の結界を壊したわけではない。

 

 少女を利用していた、一つの回路を切っただけだ。

 

「……今日は帰った方がいいんじゃない?」

 

 零司が言った。

 

 少女は、不思議そうに彼を見た。

 

「……でも、授業が」

 

「休めば?」

 

「……そんな簡単に」

 

「倒れるよりはいいと思うけど」

 

 少女は、しばらく考えた。

 

 それから、小さく頷いた。

 

「……そう、ですね」

 

 参考書を抱え直し、ゆっくりと廊下を歩いていく。

 

 零司は、その背中を見送った。

 

 そして。

 

「……ふうん」

 

 周囲を見渡す。

 

 学生たち。

 

 教室。

 

 床や壁に組み込まれた魔術式。

 

 ここでは、普通の学生が魔術の一部として使われているらしい。

 

「……随分と悪趣味だね」

 

 少年が呟いた。

 

 もっとも、零司自身がそれを理由に怒っているわけではない。

 

 学園都市の暗部では、もっと酷いものも見てきた。

 

 ただ。

 

 普通の学生をここまで組み込んだ魔術。

 

 その仕組みには、興味があった。

 

「……さて」

 

 零司は、階段の方へ視線を向けた。

 

「作った人に会ってみたいな」

 

     ◇

 

 三沢塾、中央監視室。

 

「……異常です」

 

 男が、端末へ視線を向けた。

 

 そこには、魔術式の管理状況が表示されている。

 

《局所結界:干渉検出》

 

《術式接続:一部切断》

 

《侵入者:不明》

 

「……何だ?」

 

 別の男が、画面を覗き込む。

 

「侵入者なら、すでに二名確認されているはずだが」

 

「……違います」

 

 最初の男は、首を横に振った。

 

「別の経路です」

 

 画面が切り替わる。

 

 そこには、一人の少年が映し出されていた。

 

 黒髪に銀色の髪。

 

 灰紫色の瞳。

 

 どこか楽しそうな表情。

 

 久遠零司。

 

 その姿を確認した瞬間。

 

 管理者の顔色が変わった。

 

「……待て」

 

「……何でしょう」

 

「この少年……」

 

 男は、慌てて別の資料を開いた。

 

 学園都市側の能力者情報。

 

 ただし、閲覧できる範囲は限られている。

 

《久遠零司》

 

《能力判定:レベル0》

 

 表示された内容を見て、男が眉をひそめた。

 

「……レベル0?」

 

 先ほどの術式異常。

 

 物理的な破壊ではない。

 

 魔術の接続条件そのものが変更されている。

 

 ただの無能力者に、そんなことができるはずがない。

 

「……何者だ、こいつは」

 

 そのとき。

 

 画面の向こうで、零司が顔を上げた。

 

 監視装置の方向。

 

 そして。

 

 ニッコリと笑った。

 

『……見えてるよ』

 

 男の背筋が凍った。

 

 次の瞬間。

 

 監視映像が途切れた。

 

《観測不能》

 

 画面には、それだけが残された。

 

     ◇

 

 午後三時十二分。

 

 三沢塾、上階通路。

 

「……面倒な建物だなぁ」

 

 零司は、廊下を歩いていた。

 

 先ほどから、何度も同じような場所へ戻されている。

 

 物理的な通路の配置は変わっていない。

 

 しかし、魔術的な区分によって、進む先がずらされている。

 

 普通の能力者なら、状況を理解することすら難しいだろう。

 

 だが。

 

 零司にとっては、少し厄介な迷路程度だった。

 

「……もういいや」

 

 少年は足を止めた。

 

 そして、右手を上げる。

 

 周囲の空気が、僅かに震えた。

 

 局所的な魔術式へ、位相勅令が働く。

 

 進路を偽装するという条件が、零司の周囲だけで崩れていく。

 

 次の瞬間。

 

 廊下の景色が、僅かに揺れた。

 

 目の前には、普通の階段が現れていた。

 

「……最初からそこにあるじゃん」

 

 零司は、呆れたように呟いた。

 

 そして、階段へ足を踏み出す。

 

 そのとき。

 

「……待ちたまえ」

 

 背後から声がした。

 

 零司が振り返る。

 

 そこには、ステイル=マグヌスが立っていた。

 

 その隣には、上条当麻。

 

 上条は、驚いたように零司を見つめていた。

 

「……久遠!?」

 

「やっほー」

 

 零司が片手を上げる。

 

 ステイルは、険しい表情を浮かべた。

 

「……どうやって、ここへ入った」

 

「裏口から」

 

「そういうことを聞いているんじゃない!」

 

 零司は首を傾げた。

 

「じゃあ、何?」

 

 ステイルは、周囲を見渡した。

 

 解除された術式。

 

 正常な位置へ戻った通路。

 

 そして、何事もなかったかのように立っている少年。

 

「……結界を破ったのか?」

 

「ちょっとだけ」

 

「……何?」

 

「全部壊すと、作った人が逃げちゃうかもしれないし」

 

 零司は笑った。

 

「それはつまんないでしょ?」

 

 ステイルは、言葉を失った。

 

 目の前の少年。

 

 学園都市の能力者と思われる人物。

 

 だが、結界への干渉方法は、通常の超能力とは異なる。

 

 それは、明らかに魔術側の領域だった。

 

「……君は」

 

 ステイルが、低い声で尋ねる。

 

「……魔術師なのか?」

 

 零司は、少し考えた。

 

「どうだろうね」

 

「……ふざけているのか」

 

「そんなに怒らなくても」

 

 少年は肩をすくめた。

 

 上条が、二人の間へ割って入る。

 

「おいおい! ちょっと待てって!」

 

 そして、零司へ向き直った。

 

「久遠、お前、ここがどういう場所か分かってるのか?」

 

「魔術師がいる塾でしょ?」

 

「……分かってんのかよ!」

 

 上条は、思わず叫んだ。

 

 零司は笑った。

 

「何となくね」

 

「何となくで入ってくる場所じゃねえぞ!」

 

「でも、面白そうだったから」

 

「……お前なぁ」

 

 上条は頭を抱えた。

 

 その様子を見ていたステイルが、深く息を吐く。

 

「……上条当麻」

 

「何だよ」

 

「その少年について、何か知っているのか?」

 

「……少しだけな」

 

 上条は、慎重に答えた。

 

「前に会ったことがあるらしい」

 

「……らしい?」

 

 ステイルの眉が動く。

 

 上条は、慌てて言い直した。

 

「い、いや! 会ったことがあるんだ!」

 

 零司は、そのやり取りを眺めていた。

 

 そして、少しだけ目を細める。

 

(……やっぱり、何か変だね)

 

 七月二十二日に会ったときとは、反応が違う。

 

 まるで、知らない相手に話を合わせているようだった。

 

 だが。

 

 今は、それより気になることがある。

 

「……ねえ、ステイル」

 

 零司が口を開いた。

 

「この建物、誰が作ったの?」

 

 ステイルが顔を上げる。

 

「……何?」

 

「結界とか、さっきの術式とか」

 

 零司は、周囲を指差した。

 

「結構な腕前だよね」

 

 その言葉に。

 

 ステイルの表情が、僅かに変わった。

 

 そして。

 

「……アウレオルス=イザード」

 

 低い声で告げる。

 

「元ローマ正教の錬金術師だ」

 

「……アウレオルス」

 

 零司は、その名前を繰り返した。

 

 上条が口を開く。

 

「そいつが、この塾を占拠してるらしいんだ」

 

「ふうん」

 

 零司は、少し考えた。

 

 錬金術師。

 

 三沢塾。

 

 そして、学園都市の学生たちを利用した魔術。

 

 科学の街で、そこまで大規模な術式を構築する人物。

 

 それだけでも、十分に興味深かった。

 

「……会える?」

 

 零司が尋ねた。

 

 ステイルは目を細める。

 

「……何のために?」

 

「話してみたい」

 

「……それだけか?」

 

「うん」

 

 零司は笑った。

 

「面白そうだから」

 

 ステイルは、深々と息を吐いた。

 

「……君は、状況を理解していない」

 

「そう?」

 

「この先にいるのは、ただの能力者でも、一般的な魔術師でもない」

 

 零司が顔を上げる。

 

 ステイルは続けた。

 

「錬金術師の到達点。その一つを実現した男だ」

 

 そして。

 

「……黄金錬成」

 

 静かに告げた。

 

「アルス=マグナ」

 

 零司の笑みが、僅かに深くなった。

 

 黄金錬成。

 

 錬金術における究極の到達点。

 

 それを実現した人物が、この建物のどこかにいる。

 

「……なるほど」

 

 零司は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「それは、ちょっと気になるなぁ」

 

 ステイルは、少年を見つめていた。

 

 何かがおかしい。

 

 普通なら、黄金錬成という言葉だけで、その異常さを理解できる者は少ない。

 

 しかし。

 

 目の前の少年は、明らかに興味を強めている。

 

 恐怖ではない。

 

 警戒でもない。

 

 期待。

 

 それに近いものだった。

 

「……君は、本当に何者なんだ」

 

 ステイルが呟く。

 

 零司は、少しだけ笑った。

 

「ただの学生だよ」

 

「……信じられると思うか?」

 

「信じなくてもいいけど」

 

 零司は肩をすくめた。

 

 そして、階段の奥へ視線を向ける。

 

「……さて」

 

 その先。

 

 建物の上階から、強い魔力の気配が漂っていた。

 

 これまでの術式とは、明らかに規模が違う。

 

 零司は、ゆっくりと目を細めた。

 

(……これは)

 

 科学の側にも、規格外の存在はいる。

 

 学園都市の第一位。

 

 第二位。

 

 そして、公式記録には存在しない第零位。

 

 だが。

 

 魔術の側にも、それに匹敵する存在がいるというのなら。

 

 それは、なかなか楽しそうだった。

 

「……ねえ、上条君」

 

「……何だ?」

 

「君たち、この先に行くんでしょ?」

 

「ああ」

 

 上条が頷く。

 

「助けなきゃいけない女の子がいるからな」

 

「……そっか」

 

 零司は、少しだけ笑った。

 

「じゃあ、途中まで一緒でいい?」

 

「……は?」

 

 上条が目を見開く。

 

 ステイルは、露骨に顔をしかめた。

 

「断る」

 

「えー」

 

「君を連れていく理由がない」

 

「そう?」

 

 零司は、首を傾げた。

 

 そして。

 

「でも、僕が勝手に行くのは止められないでしょ?」

 

 その言葉に。

 

 ステイルの表情が強張った。

 

 目の前の少年が、どこまで本気なのか分からない。

 

 しかし。

 

 先ほど解除された結界。

 

 通路を偽装する魔術式。

 

 それらを、容易く突破してきたことだけは事実だった。

 

「……好きにしろ」

 

 ステイルが、吐き捨てるように言った。

 

 零司は、楽しそうに笑った。

 

「ありがと」

 

「礼を言われる筋合いはない」

 

「じゃあ、言わない」

 

「…………」

 

 上条は、二人のやり取りを見て頭を抱えた。

 

「……何でこうなるんだよ」

 

 零司は、上条へ視線を向けた。

 

「賑やかでいいじゃん」

 

「よくねえよ!」

 

 その声が、廊下へ響いた。

 

 しかし。

 

 その直後。

 

 建物全体を、低い振動が走った。

 

 ゴゴゴゴゴッ!

 

 床。

 

 壁。

 

 天井。

 

 どこからともなく、強大な魔力が流れ始める。

 

 ステイルの表情が変わった。

 

「……まずい!」

 

 上条が顔を上げる。

 

「何だ!?」

 

「術式が動き始めている!」

 

 零司は、静かに天井を見上げた。

 

 そして。

 

「……ああ」

 

 その口元に、笑みが浮かぶ。

 

「ようやく、向こうも動いたみたいだね」

 

 少年の灰紫色の瞳が、僅かに輝いた。

 

 万象演算。

 

 位相勅令。

 

 科学と魔術。

 

 二つの体系へ干渉できる、規格外の存在。

 

 久遠零司。

 

 その少年が、ついに本格的な魔術事件へ足を踏み入れた。

 

 退屈だった午後は、もう終わりだ。

 

 これから先。

 

 何が待っているのか。

 

 どんな魔術師が現れるのか。

 

 それを考えるだけで、少し楽しくなってくる。

 

「……さて」

 

 零司は、ゆっくりと歩き始めた。

 

「どんな錬金術を見せてくれるのかな」

 

 その声は、どこまでも楽しそうだった。

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