第21話 巫女と魔術師と退屈な午後
八月八日、午前十時二十三分。
学園都市第七学区。
「……ねえ、零司」
「やだ」
「まだ何も言ってない!」
久遠零司の部屋に、N-13の抗議が響いた。
ソファに寝転がっていた少年は、携帯ゲーム機から目を離さない。
「どうせ面倒な話でしょ?」
「違う!」
「じゃあ何?」
「……冷蔵庫」
「冷蔵庫?」
「中身、ほとんど空っぽ」
「ああ」
零司は納得したように頷いた。
「じゃあ買ってきて」
「お金は?」
「そこ」
テーブルを指差す。
N-13が視線を向けると、財布が無造作に置かれていた。
「……これ、全部使っていいの?」
「いいよ」
「……中身、確認してないでしょ」
「してない」
「…………」
少女は、深いため息をついた。
七月十九日。
研究施設から逃げ出して以来、彼女の生活は大きく変わった。
そして七月二十八日。
PROJECT:ECHOの事件を経て、N-12とも再会した。
現在、二人は零司の部屋に身を寄せている。
もっとも、当初の約束は一晩だけだった。
それから、すでに十日以上が経過している。
「……零司」
今度は、キッチンから声がした。
N-12だった。
淡い茶色の髪を後ろでまとめ、慣れない手つきで食器を洗っている。
「……何?」
「……そろそろ、別の部屋を探した方がいい?」
「んー」
零司はゲーム機を置いた。
「別にどっちでも」
「……いいの?」
「二人がいると掃除しなくて済むし」
「……それが理由?」
「大事でしょ?」
N-13が呆れたように言った。
「……わたしたち、家政婦じゃないんだけど」
「知ってるよ」
零司は笑った。
「でも、助かってるのは本当」
N-12は、少しだけ困ったように笑った。
研究施設では、自由に外出することも、食事を選ぶこともできなかった。
それが今では、買い物の相談をしている。
奇妙な生活だった。
だが、少なくとも自分たちの行動を自分で決められる。
それだけで、以前とは大きく違っていた。
「……そういえば」
N-13が顔を上げる。
「……今日は、どこか行くの?」
「うん」
零司は立ち上がった。
「ちょっと外」
「……仕事?」
「違う」
「……じゃあ何?」
「暇潰し」
即答だった。
N-13は額を押さえた。
「……また?」
「ずっと部屋にいるのも飽きたし」
零司は上着を手に取った。
「何か面白いものでもないかなって」
N-12が首を傾げる。
「……そんな理由で出かけるの?」
「他に理由いる?」
「…………」
少女は、何とも言えない顔をした。
零司は気にせず玄関へ向かう。
「じゃ、行ってきまーす」
「……お昼は?」
「適当に食べる」
「……夕飯は?」
「気が向いたら帰る」
「……それ、帰ってこない可能性もあるよね」
「あるね」
軽い返事。
そして、扉が閉まった。
残された二人は、しばらく玄関を見つめていた。
「……本当に自由な人だね」
N-12が呟く。
N-13は頷いた。
「……うん」
それから、財布を持ち上げる。
「……とりあえず、買い物行こうか」
「……そうだね」
二人は顔を見合わせた。
そして、少しだけ笑った。
◇
午後零時十四分。
第七学区の繁華街。
「……何食べようかな」
零司は、通りを歩いていた。
夏休み中の学園都市。
街には学生たちが溢れている。
買い物袋を提げた少女たち。
携帯端末を片手に歩く少年。
店先から流れる宣伝音声。
いつもと変わらない、学園都市の日常だった。
零司は、通りの向こうにあるファストフード店へ視線を向けた。
「……あそこにしよ」
特に理由はない。
近かったからだ。
自動ドアを抜けると、涼しい空気が身体を包んだ。
「生き返るなぁ」
適当に注文を済ませ、空いている席を探す。
そのときだった。
「だから! どうしてお前はそんなに食べるんだよ!」
聞き覚えのある声が響いた。
「お腹が空いてるからなんだよ!」
「それは分かってる! 俺が聞きたいのは量の問題であってだな!」
零司が顔を向ける。
店内の一角。
ツンツンした黒髪の少年が、白い修道服姿の少女と口論していた。
黒髪の少年。
上条当麻。
七月二十二日に、地下街で出会った人物だった。
「あれ」
零司は、少しだけ笑った。
「変な右手の人だ」
そのまま二人の席へ近づく。
「こんにちは」
「……ん?」
上条が顔を上げた。
零司を見る。
そして、僅かに動きを止めた。
「……えっと」
「久しぶり」
「……お、おう!」
上条は、慌てたように笑った。
「久しぶりだな!」
零司は首を傾げた。
「覚えてる?」
「も、もちろん!」
「七月二十二日の地下街」
「ああ! あの時のな!」
上条は頷いた。
少しだけ、不自然な間があった。
零司は、それを見逃さなかった。
だが、追及するほどの興味は湧かなかった。
「そっか」
それだけ言って、隣の席へ腰を下ろす。
白い修道服の少女が、興味深そうにこちらを見ていた。
「とうまのお友達?」
「……友達ってほどじゃないけどな」
上条が答える。
零司は、少女へ視線を向けた。
「君は?」
「私はインデックスっていうんだよ!」
「インデックス?」
「うん!」
少女は、得意げに胸を張った。
「よろしくなんだよ!」
「よろしく」
零司は笑った。
その直後。
インデックスの視線が、零司のトレーへ向けられた。
「……ねえ」
「何?」
「そのポテト、食べる?」
「食べるために買ったんだけど」
「……そっか」
露骨に残念そうな顔。
上条が頭を抱えた。
「おいインデックス! さっき食べたばっかだろ!」
「まだ食べられるんだよ!」
「上条さんの財布はもう限界なんですよ!」
零司は、二人を交互に見た。
それから、ポテトを一本摘まむ。
「欲しい?」
インデックスの表情が輝いた。
「いいの!?」
「一本なら」
「一本!?」
少女が固まった。
零司は笑った。
「冗談」
ポテトの容器を差し出す。
「好きなだけどうぞ」
「ありがとうなんだよ!」
インデックスは嬉しそうに手を伸ばした。
上条は、深々と頭を下げた。
「悪いな……」
「いいよ。見てて面白いし」
「……それ、褒めてるのか?」
「さあ?」
零司は肩をすくめた。
そのとき。
店内の奥から、妙な声が聞こえてきた。
「……追加をお願いします」
抑揚の少ない少女の声だった。
零司が視線を向ける。
そこには、巫女装束の少女が座っていた。
長い黒髪。
白い上衣。
赤い袴。
その前には、食べ終わった商品の包みが大量に積まれている。
「……何あれ」
零司が呟いた。
上条が、疲れたような顔をする。
「……俺もさっき知り合ったばっかなんだが」
「知り合い?」
「ああ。ちょっと変わった女の子でな」
零司は、巫女装束の少女を眺めた。
見た目は普通の少女。
しかし、学園都市のファストフード店で巫女装束というのは、なかなか目立つ。
しかも、食べる量がおかしい。
「……今日は大食い大会でもやってるの?」
上条が、思わず笑った。
「そんな大会、聞いたことねえよ!」
インデックスが抗議する。
「私はまだ本気出してないんだよ!」
「お前は張り合わなくていい!」
零司は、声を出して笑った。
なかなか愉快な連中だった。
◇
「……お待たせしました」
しばらくして。
巫女装束の少女の前に、二人の男が現れた。
どちらもスーツ姿。
一般企業の社員にも見える。
しかし、零司の視線は別のものへ向けられていた。
男の一人が、胸元に下げている小さな銀製の装飾品。
その表面に、見慣れない刻印が施されていた。
(……ん?)
零司の目が、僅かに細くなる。
学園都市の電子機器ではない。
能力開発に関係するものでもない。
だが、そこには確かに何らかの力が宿っていた。
それも、零司にとっては見覚えのある種類の力だった。
(……魔術か)
少年の口元が、少しだけ上がった。
学園都市では、珍しい。
もっとも、零司にとって魔術そのものが未知というわけではない。
科学とは異なる体系。
別の理屈で成立する力。
それが存在することは、以前から知っていた。
ただ。
こんな場所で目にするとは思っていなかった。
「……行きましょう」
スーツ姿の男が告げる。
巫女装束の少女は、静かに立ち上がった。
「……分かりました」
そのまま、男たちと一緒に店を出ていく。
零司は、その背中を眺めた。
(……あの巫女さんも、関係者かな)
気にはなった。
しかし、追いかけるほどではない。
少なくとも、今のところは。
「……さて」
零司は立ち上がった。
トレーを片づける。
「じゃあね、上条君」
「おう。またな」
インデックスが手を振った。
「ポテトありがとうなんだよ!」
「どういたしまして」
零司は、笑って店を出た。
その後ろで。
上条が、小さく首を傾げていた。
「……久遠、零司……」
口の中で名前を繰り返す。
見覚えがあるような、ないような。
いや。
正確には、記憶がない。
七月二十八日。
インデックスを救った代償として、上条当麻はそれまでの記憶を失っていた。
だが、その事実を周囲には隠している。
先ほどの少年も、失う前の自分と出会っていたらしい。
(……今度会ったら、もう少し話を合わせられるようにしねえとな)
上条は、小さく息を吐いた。
そして。
「……不幸だ」
誰にも聞こえないほど小さく呟いた。
◇
午後一時二十六分。
零司は、繁華街を歩いていた。
すでに食事は済ませた。
特に目的地もない。
そろそろ帰ろうか。
そんなことを考えていたときだった。
「……おい、待て」
聞き覚えのある声がした。
顔を向ける。
少し離れた路地。
そこには、上条当麻が立っていた。
そして、その正面。
長身の少年。
燃えるような赤い髪。
黒い神父服。
口元には煙草。
「……何だ、あれ」
零司は足を止めた。
上条が、赤髪の少年へ何かを言っている。
相手は、明らかに苛立っている様子だった。
その手元から、僅かに魔力が漏れている。
(……また魔術関係?)
零司は、少しだけ笑った。
今日という日は、どうやら当たりらしい。
別に聞き耳を立てるつもりはなかった。
だが。
「……三沢塾?」
会話の中に出てきた名前が、耳に入った。
続いて。
「……錬金術師?」
零司の足が止まる。
少しだけ考える。
学園都市。
進学塾。
そして、魔術師。
普通なら結びつかない単語が、同じ会話の中に出てきた。
「……へえ」
零司は、口元を緩めた。
面白そうだ。
その瞬間だった。
「……そこの君」
赤髪の少年が、こちらへ顔を向けた。
鋭い視線。
零司は、片手を上げた。
「こんにちは」
「……いつから聞いていた?」
「三沢塾ってところから」
赤髪の少年の表情が険しくなる。
「……一般人が首を突っ込む話じゃない」
「一般人?」
零司は、思わず笑った。
「それ、誰のこと?」
「君以外に誰がいる」
「さあ?」
零司は肩をすくめた。
上条が、慌てて二人の間へ入る。
「お、おい! ちょっと待て!」
そして、零司へ向き直った。
「久遠! 何でここにいるんだよ!」
「散歩」
「散歩!?」
「うん」
零司は頷いた。
「そしたら、魔術師っぽい人がいたから」
その瞬間。
赤髪の少年の目が細くなった。
「……君」
低い声。
「今、何と言った?」
「魔術師」
零司は、何でもないことのように答えた。
「違うの?」
沈黙。
赤髪の少年は、煙草を指で挟んだ。
「……君は何者だ」
「久遠零司」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
零司は、楽しそうに笑った。
赤髪の少年は、あからさまに苛立った。
「……面倒な相手だな」
「それ、こっちの台詞なんだけど」
零司は首を傾げた。
「で、君は?」
数秒の沈黙。
そして。
「……ステイル=マグヌス」
赤髪の少年が名乗った。
零司は頷いた。
「ステイル君ね」
「君付けはやめろ」
「じゃあ、ステイル」
「…………」
上条が、隣で顔を覆った。
(……こいつ、全然物怖じしねえな)
ステイルは、深く煙を吐いた。
「……上条当麻」
「な、何だよ」
「行くぞ」
「おい、まだ話が――」
「時間がない」
ステイルは、それだけ言って歩き始めた。
上条も慌てて後を追う。
零司は、二人の背中を見つめていた。
そして。
「……さて」
少し考える。
普通なら、ここで帰るところだ。
面倒事の匂いがする。
しかも、明らかに厄介な種類の。
だが。
「……錬金術師、か」
零司は笑った。
科学の街で活動する魔術師。
それも、錬金術。
なかなか珍しい組み合わせだった。
「……ちょっと見に行こ」
少年は、二人とは別の道へ歩き始めた。
◇
午後二時四十八分。
第七学区。
三沢塾。
「……でっか」
零司は、目の前の建物を見上げた。
大規模な進学予備校。
複数の建物が連結された、巨大な教育施設だった。
外見だけなら、学園都市のどこにでもありそうな建物である。
だが。
「……なるほど」
零司の目が、僅かに細くなる。
建物全体を覆う、奇妙な違和感。
それは、科学的な測定では説明できないものだった。
空気の流れ。
重力。
電磁場。
そうした物理的な条件は、正常に見える。
しかし、それとは別のところで何かが動いていた。
「……結界、かな」
零司は、小さく呟いた。
魔術による領域の区分。
外から見える建物と、その内部で起きている出来事。
それらを意図的に切り離しているようだった。
「随分と凝ったことするなぁ」
零司は、裏手の入口へ向かった。
そこには、小さな通用口があった。
鍵は掛かっている。
だが、そんなものは問題にならない。
「……開いて」
軽く手を動かす。
カチリ。
電子錠が解除された。
しかし。
扉は開かなかった。
「……ん?」
零司が首を傾げる。
物理的な鍵は外れている。
扉を固定する力も、正常に伝わっている。
それなのに。
扉の向こうへ進めない。
「……ああ」
少年が、小さく笑った。
「そういうこと」
物理的な扉ではない。
別の仕組みが、侵入者を拒んでいる。
零司は、ゆっくりと右手を伸ばした。
そして。
万象演算とは異なる力へ、意識を向ける。
科学によって説明される現象。
その成立条件を書き換える力。
だが、それだけが零司の持つ手札ではない。
別の理屈。
別の体系。
世界の位相へ働きかける力。
――位相勅令。
零司の灰紫色の瞳が、僅かに輝いた。
「……そこ、通して」
小さく告げる。
次の瞬間。
扉の周囲に存在していた魔術的な境界が、局所的に歪んだ。
侵入者を拒むという条件。
その条件が、零司の周囲だけで成立しなくなる。
そして。
ギィ……。
扉が開いた。
「……よし」
零司は、満足そうに頷いた。
「入れた」
そのまま、建物の中へ足を踏み入れる。
◇
三沢塾、内部通路。
「……何これ」
零司は、廊下を見渡した。
普通の進学塾。
学生たちが行き交い、教室からは講師の声が聞こえてくる。
だが。
廊下の隅には、血痕が残されていた。
さらに、破損した甲冑の一部。
明らかに、ここで戦闘が行われた形跡がある。
それなのに。
誰も気にしていない。
学生たちは、普通に歩いている。
血痕を踏んでも、反応しない。
零司は、少しだけ目を細めた。
「……なるほどね」
結界の効果が、ようやく理解できた。
同じ場所に存在しているのに、互いを認識できない。
表側の人間。
裏側の人間。
まるで、硬貨の表と裏。
同じ場所にありながら、別のものとして扱われている。
「……よくできてるじゃん」
零司は、廊下を歩いた。
そのとき。
一人の女子学生が、正面から歩いてきた。
参考書を抱えた、ごく普通の少女。
しかし。
その口が、突然動き始めた。
「――――」
聞き慣れない言葉。
日本語ではない。
零司が足を止める。
「……ん?」
少女は、無表情のまま言葉を紡いでいる。
その周囲で、魔力が集まり始めた。
床に刻まれた模様が、淡く光る。
次の瞬間。
光の槍が、零司へ向かって放たれた。
「……おっと」
零司が軽く手を上げる。
槍が、空中で停止した。
だが。
停止した光は、すぐに形を取り戻し始めた。
物理的な運動だけを止めても、術式が新たな力を供給してくる。
「……ああ、そうか」
零司は、小さく笑った。
「こっちで止めても、向こうが作り直すんだ」
ならば。
手段を変えればいい。
零司は、指先を軽く動かした。
今度は、光の槍そのものではなく、その成立を支える術式へ干渉する。
次の瞬間。
パキンッ!
何かが割れるような音が響いた。
光の槍が、消滅した。
同時に、女子学生の身体が揺れる。
「……え?」
少女は、目を瞬かせた。
今まで、自分が何をしていたのか分からない。
気づけば、廊下の真ん中に立っている。
「……あれ?」
零司は、そんな少女を見つめていた。
「大丈夫?」
「……え?」
少女が顔を上げる。
「……あなた、誰?」
「通りすがり」
「……えっと」
少女は、周囲を見回した。
そして、顔をしかめる。
「……何だか、頭が痛い……」
零司は、床の模様を見た。
術式は、まだ残っている。
ただし、先ほどの少女へ繋がっていた部分だけが断たれていた。
建物全体の結界を壊したわけではない。
少女を利用していた、一つの回路を切っただけだ。
「……今日は帰った方がいいんじゃない?」
零司が言った。
少女は、不思議そうに彼を見た。
「……でも、授業が」
「休めば?」
「……そんな簡単に」
「倒れるよりはいいと思うけど」
少女は、しばらく考えた。
それから、小さく頷いた。
「……そう、ですね」
参考書を抱え直し、ゆっくりと廊下を歩いていく。
零司は、その背中を見送った。
そして。
「……ふうん」
周囲を見渡す。
学生たち。
教室。
床や壁に組み込まれた魔術式。
ここでは、普通の学生が魔術の一部として使われているらしい。
「……随分と悪趣味だね」
少年が呟いた。
もっとも、零司自身がそれを理由に怒っているわけではない。
学園都市の暗部では、もっと酷いものも見てきた。
ただ。
普通の学生をここまで組み込んだ魔術。
その仕組みには、興味があった。
「……さて」
零司は、階段の方へ視線を向けた。
「作った人に会ってみたいな」
◇
三沢塾、中央監視室。
「……異常です」
男が、端末へ視線を向けた。
そこには、魔術式の管理状況が表示されている。
《局所結界:干渉検出》
《術式接続:一部切断》
《侵入者:不明》
「……何だ?」
別の男が、画面を覗き込む。
「侵入者なら、すでに二名確認されているはずだが」
「……違います」
最初の男は、首を横に振った。
「別の経路です」
画面が切り替わる。
そこには、一人の少年が映し出されていた。
黒髪に銀色の髪。
灰紫色の瞳。
どこか楽しそうな表情。
久遠零司。
その姿を確認した瞬間。
管理者の顔色が変わった。
「……待て」
「……何でしょう」
「この少年……」
男は、慌てて別の資料を開いた。
学園都市側の能力者情報。
ただし、閲覧できる範囲は限られている。
《久遠零司》
《能力判定:レベル0》
表示された内容を見て、男が眉をひそめた。
「……レベル0?」
先ほどの術式異常。
物理的な破壊ではない。
魔術の接続条件そのものが変更されている。
ただの無能力者に、そんなことができるはずがない。
「……何者だ、こいつは」
そのとき。
画面の向こうで、零司が顔を上げた。
監視装置の方向。
そして。
ニッコリと笑った。
『……見えてるよ』
男の背筋が凍った。
次の瞬間。
監視映像が途切れた。
《観測不能》
画面には、それだけが残された。
◇
午後三時十二分。
三沢塾、上階通路。
「……面倒な建物だなぁ」
零司は、廊下を歩いていた。
先ほどから、何度も同じような場所へ戻されている。
物理的な通路の配置は変わっていない。
しかし、魔術的な区分によって、進む先がずらされている。
普通の能力者なら、状況を理解することすら難しいだろう。
だが。
零司にとっては、少し厄介な迷路程度だった。
「……もういいや」
少年は足を止めた。
そして、右手を上げる。
周囲の空気が、僅かに震えた。
局所的な魔術式へ、位相勅令が働く。
進路を偽装するという条件が、零司の周囲だけで崩れていく。
次の瞬間。
廊下の景色が、僅かに揺れた。
目の前には、普通の階段が現れていた。
「……最初からそこにあるじゃん」
零司は、呆れたように呟いた。
そして、階段へ足を踏み出す。
そのとき。
「……待ちたまえ」
背後から声がした。
零司が振り返る。
そこには、ステイル=マグヌスが立っていた。
その隣には、上条当麻。
上条は、驚いたように零司を見つめていた。
「……久遠!?」
「やっほー」
零司が片手を上げる。
ステイルは、険しい表情を浮かべた。
「……どうやって、ここへ入った」
「裏口から」
「そういうことを聞いているんじゃない!」
零司は首を傾げた。
「じゃあ、何?」
ステイルは、周囲を見渡した。
解除された術式。
正常な位置へ戻った通路。
そして、何事もなかったかのように立っている少年。
「……結界を破ったのか?」
「ちょっとだけ」
「……何?」
「全部壊すと、作った人が逃げちゃうかもしれないし」
零司は笑った。
「それはつまんないでしょ?」
ステイルは、言葉を失った。
目の前の少年。
学園都市の能力者と思われる人物。
だが、結界への干渉方法は、通常の超能力とは異なる。
それは、明らかに魔術側の領域だった。
「……君は」
ステイルが、低い声で尋ねる。
「……魔術師なのか?」
零司は、少し考えた。
「どうだろうね」
「……ふざけているのか」
「そんなに怒らなくても」
少年は肩をすくめた。
上条が、二人の間へ割って入る。
「おいおい! ちょっと待てって!」
そして、零司へ向き直った。
「久遠、お前、ここがどういう場所か分かってるのか?」
「魔術師がいる塾でしょ?」
「……分かってんのかよ!」
上条は、思わず叫んだ。
零司は笑った。
「何となくね」
「何となくで入ってくる場所じゃねえぞ!」
「でも、面白そうだったから」
「……お前なぁ」
上条は頭を抱えた。
その様子を見ていたステイルが、深く息を吐く。
「……上条当麻」
「何だよ」
「その少年について、何か知っているのか?」
「……少しだけな」
上条は、慎重に答えた。
「前に会ったことがあるらしい」
「……らしい?」
ステイルの眉が動く。
上条は、慌てて言い直した。
「い、いや! 会ったことがあるんだ!」
零司は、そのやり取りを眺めていた。
そして、少しだけ目を細める。
(……やっぱり、何か変だね)
七月二十二日に会ったときとは、反応が違う。
まるで、知らない相手に話を合わせているようだった。
だが。
今は、それより気になることがある。
「……ねえ、ステイル」
零司が口を開いた。
「この建物、誰が作ったの?」
ステイルが顔を上げる。
「……何?」
「結界とか、さっきの術式とか」
零司は、周囲を指差した。
「結構な腕前だよね」
その言葉に。
ステイルの表情が、僅かに変わった。
そして。
「……アウレオルス=イザード」
低い声で告げる。
「元ローマ正教の錬金術師だ」
「……アウレオルス」
零司は、その名前を繰り返した。
上条が口を開く。
「そいつが、この塾を占拠してるらしいんだ」
「ふうん」
零司は、少し考えた。
錬金術師。
三沢塾。
そして、学園都市の学生たちを利用した魔術。
科学の街で、そこまで大規模な術式を構築する人物。
それだけでも、十分に興味深かった。
「……会える?」
零司が尋ねた。
ステイルは目を細める。
「……何のために?」
「話してみたい」
「……それだけか?」
「うん」
零司は笑った。
「面白そうだから」
ステイルは、深々と息を吐いた。
「……君は、状況を理解していない」
「そう?」
「この先にいるのは、ただの能力者でも、一般的な魔術師でもない」
零司が顔を上げる。
ステイルは続けた。
「錬金術師の到達点。その一つを実現した男だ」
そして。
「……黄金錬成」
静かに告げた。
「アルス=マグナ」
零司の笑みが、僅かに深くなった。
黄金錬成。
錬金術における究極の到達点。
それを実現した人物が、この建物のどこかにいる。
「……なるほど」
零司は、ゆっくりと顔を上げた。
「それは、ちょっと気になるなぁ」
ステイルは、少年を見つめていた。
何かがおかしい。
普通なら、黄金錬成という言葉だけで、その異常さを理解できる者は少ない。
しかし。
目の前の少年は、明らかに興味を強めている。
恐怖ではない。
警戒でもない。
期待。
それに近いものだった。
「……君は、本当に何者なんだ」
ステイルが呟く。
零司は、少しだけ笑った。
「ただの学生だよ」
「……信じられると思うか?」
「信じなくてもいいけど」
零司は肩をすくめた。
そして、階段の奥へ視線を向ける。
「……さて」
その先。
建物の上階から、強い魔力の気配が漂っていた。
これまでの術式とは、明らかに規模が違う。
零司は、ゆっくりと目を細めた。
(……これは)
科学の側にも、規格外の存在はいる。
学園都市の第一位。
第二位。
そして、公式記録には存在しない第零位。
だが。
魔術の側にも、それに匹敵する存在がいるというのなら。
それは、なかなか楽しそうだった。
「……ねえ、上条君」
「……何だ?」
「君たち、この先に行くんでしょ?」
「ああ」
上条が頷く。
「助けなきゃいけない女の子がいるからな」
「……そっか」
零司は、少しだけ笑った。
「じゃあ、途中まで一緒でいい?」
「……は?」
上条が目を見開く。
ステイルは、露骨に顔をしかめた。
「断る」
「えー」
「君を連れていく理由がない」
「そう?」
零司は、首を傾げた。
そして。
「でも、僕が勝手に行くのは止められないでしょ?」
その言葉に。
ステイルの表情が強張った。
目の前の少年が、どこまで本気なのか分からない。
しかし。
先ほど解除された結界。
通路を偽装する魔術式。
それらを、容易く突破してきたことだけは事実だった。
「……好きにしろ」
ステイルが、吐き捨てるように言った。
零司は、楽しそうに笑った。
「ありがと」
「礼を言われる筋合いはない」
「じゃあ、言わない」
「…………」
上条は、二人のやり取りを見て頭を抱えた。
「……何でこうなるんだよ」
零司は、上条へ視線を向けた。
「賑やかでいいじゃん」
「よくねえよ!」
その声が、廊下へ響いた。
しかし。
その直後。
建物全体を、低い振動が走った。
ゴゴゴゴゴッ!
床。
壁。
天井。
どこからともなく、強大な魔力が流れ始める。
ステイルの表情が変わった。
「……まずい!」
上条が顔を上げる。
「何だ!?」
「術式が動き始めている!」
零司は、静かに天井を見上げた。
そして。
「……ああ」
その口元に、笑みが浮かぶ。
「ようやく、向こうも動いたみたいだね」
少年の灰紫色の瞳が、僅かに輝いた。
万象演算。
位相勅令。
科学と魔術。
二つの体系へ干渉できる、規格外の存在。
久遠零司。
その少年が、ついに本格的な魔術事件へ足を踏み入れた。
退屈だった午後は、もう終わりだ。
これから先。
何が待っているのか。
どんな魔術師が現れるのか。
それを考えるだけで、少し楽しくなってくる。
「……さて」
零司は、ゆっくりと歩き始めた。
「どんな錬金術を見せてくれるのかな」
その声は、どこまでも楽しそうだった。