八月八日、午後三時十二分。
学園都市第七学区、三沢塾。
建物全体を揺らしていた振動が収まった。
その直後。
『――――』
廊下の向こうから、声が聞こえてきた。
一人ではない。
二人でもない。
何十人もの声が、複雑に重なり合っている。
「……まずいな」
ステイル=マグヌスが煙草を咥え直した。
上条当麻が顔を向ける。
「何がまずいんだ?」
「始まったんだよ」
ステイルは廊下の奥を睨んだ。
「偽・聖歌隊(グレゴリオ=レプリカ)だ」
「……聖歌隊?」
上条が眉をひそめる。
その隣で、久遠零司は天井を見上げていた。
「なるほど。さっきの生徒たち、まだ繋がってたんだ」
ステイルの視線が動く。
「……君、何を知っている?」
「さっき、一人だけ術式を切ったんだよね」
「何?」
「でも、建物全体に繋がってるみたいだし」
零司は軽く肩をすくめた。
「他の子たちは、そのままだったみたい」
ステイルの表情が険しくなる。
「……君は、生徒に組み込まれた術式を解除できるのか?」
「できるよ」
あっさりとした返答。
「ただ、全部まとめて触ると、仕組みが分からなくなりそうだったから」
「…………」
「せっかく珍しい魔術なんだし、ちょっと観察したかったんだよね」
ステイルは深々と息を吐いた。
「……君の好奇心に付き合っている暇はないんだが」
「じゃあ、先に行けば?」
零司は笑った。
「僕も勝手にするから」
上条が、慌てて口を挟む。
「おいおい! 喧嘩してる場合じゃねえだろ!」
その瞬間。
廊下の先から、一人の男子学生が現れた。
制服姿。
片手には参考書。
ごく普通の学生だった。
しかし。
その口は、絶え間なく何かを呟いていた。
続いて、別の生徒。
さらに三人、五人。
教室の扉が開き、次々と学生たちが廊下へ出てくる。
「……おい」
上条の表情が変わった。
「これ、全員……?」
「ああ」
ステイルが答える。
「魔術の詠唱装置にされている」
その言葉を聞いた瞬間。
上条の拳が握りしめられた。
「……ふざけやがって」
生徒たちの声が重なる。
そして。
彼らの頭上に、白く輝く球体が現れた。
「伏せろ!」
ステイルが叫ぶ。
次の瞬間。
無数の光球が、一斉に放たれた。
◇
轟音。
廊下の壁が砕け散る。
床が抉れ、天井の照明が破裂する。
その中心で。
「うわっ!?」
上条が頭を抱えていた。
目の前を光球が通過した。
直撃していれば、無事では済まなかっただろう。
しかし。
光球は、上条の手前で不自然に方向を変えていた。
まるで、見えない壁に沿って流されたように。
「……え?」
上条が顔を上げる。
そこには、零司が立っていた。
「危ないね、これ」
少年は、のんびりと呟いた。
光球が次々と迫る。
しかし、そのどれもが三人に届かない。
零司の周囲だけ、攻撃の進路が書き換えられている。
ステイルが目を細めた。
(……物理的な軌道をずらしているのか?)
しかし、それだけではなかった。
光球を構成する魔力そのものも、局所的に変質している。
科学的な能力だけでは説明できない現象。
ステイルは、隣の少年を見た。
「……君、本当に何者なんだ?」
「それ、さっきも聞いたよ」
零司は笑った。
「今はこっちが先でしょ?」
少年が、廊下に並ぶ生徒たちを指差した。
「この子たち、止めていい?」
「……できるのか?」
「できるって」
零司は、面倒くさそうに答えた。
「何回も同じこと聞かないでよ」
そして、軽く右手を上げた。
その瞬間。
廊下を満たしていた詠唱が、途切れた。
「…………え?」
上条が目を瞬かせる。
生徒たちの口は、まだ動いている。
だが、声が重ならない。
一人ひとりの詠唱が、別々のものとして分断されていた。
零司は、周囲へ視線を巡らせる。
「……ふうん」
生徒たちを利用していた術式。
個々の人間の声を集め、一つの魔術として成立させる仕組み。
その接続部分を、零司は見ていた。
「よくできてるね」
小さく笑う。
「でも、こういうのって」
指先を鳴らした。
パキンッ!
乾いた音が響く。
生徒たちの頭上に浮かんでいた光球が、次々と砕け散った。
「繋がらなくすれば、終わりでしょ?」
次の瞬間。
生徒たちが、その場へ崩れ落ちた。
「……っ!」
上条が慌てて駆け寄る。
「おい! 大丈夫か!?」
一人の女子学生を支える。
呼吸はある。
脈も正常だった。
ただ、ひどく疲弊している。
「……よかった」
上条が息を吐いた。
零司は、その様子を眺めていた。
「とりあえず、この階の分は切ったよ」
「……この階だけ?」
ステイルが尋ねる。
「うん」
零司は頷いた。
「全部一気にやると、術式を組んだ人が気づいて引っ込んじゃうかもしれないし」
その答えに、ステイルは額を押さえた。
「……君は本当に」
「何?」
「……いや、もういい」
ステイルは煙草を咥え直した。
上条が顔を上げる。
「なあ、久遠」
「ん?」
「今の、助かった」
零司が目を瞬かせる。
そして。
「どういたしまして」
軽く答えた。
上条は、倒れた学生たちへ視線を戻した。
「……でも、まだ他の階にもいるんだよな」
「そうだね」
零司は頷く。
「面倒な仕組みだよね、ほんと」
上条は苦笑した。
「お前、そればっかだな」
「だって面倒なんだもん」
零司は笑った。
「でも、作った人には会いたくなったかな」
◇
午後三時二十一分。
三沢塾、中央管理区画。
「……偽・聖歌隊の接続が切断された?」
緑色の髪を後ろへ撫でつけた男が、眉をひそめた。
白いスーツ。
細身の身体。
整った顔立ち。
アウレオルス=イザード。
少なくとも、その姿をした男だった。
「……あり得ん」
男は、低く呟いた。
複数の生徒を詠唱装置として利用する術式。
科学側の人間には理解できないはずの魔術。
それを、侵入者が解除した。
しかも。
術式の根幹を破壊することなく、局所的な接続だけを切り離している。
「……何者だ」
男は、監視用の魔術式へ意識を向けた。
そこに映し出されたのは、三人の少年。
黒髪の学生。
赤髪の魔術師。
そして。
黒髪に銀色の髪が混じる、もう一人の少年。
「……こいつか」
男の目が細くなる。
久遠零司。
その名前は知らない。
しかし、先ほどから術式へ干渉しているのは、この少年らしかった。
「……興味深い」
口元に、冷たい笑みが浮かぶ。
「ならば、直接確かめてやろう」
◇
「……で、結局どうするんだ?」
上条が尋ねた。
三人は、上階へ続く連絡通路を歩いていた。
廊下の両側には教室が並び、内部ではまだ授業が続いている。
しかし、先ほどの騒動を考えると、その光景さえ不気味だった。
ステイルが答える。
「アウレオルスの居場所を突き止める」
「その後は?」
「姫神秋沙を確保する」
零司が顔を向けた。
「姫神?」
「この建物に監禁されている少女だ」
「ああ」
零司は思い出した。
「さっきの巫女さん?」
上条が頷く。
「そうだ。あの子を助けるために来たんだよ」
「へえ」
零司は、少しだけ考えた。
ファストフード店にいた巫女装束の少女。
ずいぶんと変わった格好だったが、普通の人間に見えた。
「何で捕まってるの?」
ステイルが答える。
「吸血殺し(ディープブラッド)という特殊な力を持っているからだ」
「……吸血殺し?」
「ああ。吸血鬼を呼び寄せ、結果として死に至らしめる力だ」
零司は足を止めた。
「……吸血鬼?」
その声に、僅かな興味が混じる。
ステイルは頷いた。
「信じられないか?」
「いや」
零司は首を横に振った。
「むしろ、ちょっと会ってみたい」
「…………」
上条が呆れた顔をした。
「お前、本当に怖いもの知らずだな」
「怖がる理由がないし」
零司は笑った。
「それより、その巫女さんを利用して何するつもりなんだろうね」
ステイルの表情が険しくなる。
「……錬金術師の目的は、まだ断定できない」
「ふうん」
零司は肩をすくめた。
「じゃあ、本人に聞こうか」
その瞬間。
廊下の照明が、一斉に消えた。
◇
カツン。
足音が響いた。
暗くなった廊下の奥。
そこに、一人の男が立っていた。
白いスーツ。
緑色の髪。
冷たい視線。
「……侵入者ども」
男が口を開いた。
「随分と好き勝手に動いてくれたものだ」
ステイルの表情が変わる。
「……アウレオルス!」
上条が身構えた。
「こいつが……!」
零司は、男を眺めていた。
そして、少しだけ目を細める。
「……あれ?」
何かが引っ掛かった。
見た目は人間。
声も、動きも、普通の人間と変わらない。
だが。
その身体を成立させているものが、妙だった。
魔力。
霊装。
そして、中心部分に存在する特殊な基礎物質。
(……何だろ、これ)
零司の口元が、僅かに上がった。
男は、三人を見渡した。
「ここまで辿り着いたことは評価しよう」
そして。
「だが、これ以上の侵入は認めん」
白いスーツの袖から、細い鎖が伸びた。
その先端。
黄金色の鏃が、鈍く光っている。
ステイルが叫んだ。
「避けろ!」
次の瞬間。
金色の鏃が、凄まじい速度で放たれた。
◇
ガギンッ!
鏃が、廊下の壁を貫いた。
直後。
コンクリートの表面が、黄金色に変化する。
「……は?」
上条が目を見開いた。
壁が、溶け始めた。
高温の液体金属。
それが、床へ流れ落ちていく。
「瞬間錬金(リメン=マグナ)だ!」
ステイルが叫ぶ。
「触れるな! 金に変えられるぞ!」
「金!?」
上条が思わず声を上げた。
「ちょっと待て! それって錬金術そのものじゃねえか!」
「だから錬金術師だと言っているだろう!」
「そういう問題じゃねえ!」
二人が言い合っている間にも、鏃は何度も射出されていた。
壁。
床。
天井。
触れた部分が、次々と黄金へ変化する。
廊下は、急速に危険な場所へ変わっていった。
しかし。
「……なるほど」
零司は、金色の液体を眺めていた。
「接触した物質を変換するんだ」
少年が、指を動かす。
床に広がっていた溶融金属が、空中へ浮き上がった。
「……何?」
白いスーツの男が、眉をひそめる。
金属が、零司の周囲で球形に集まっていく。
その温度が下がる。
液体だった金が、ゆっくりと固まり始めた。
「……金って重いよね」
零司が呟く。
「これ、落としたら床が抜けそう」
そのまま、金属の塊を廊下の隅へ移動させる。
ゴトンッ。
鈍い音。
金の塊が、床へ降ろされた。
上条は、その光景を呆然と見ていた。
「……お前、何やってんの?」
「片づけ」
「……片づけ?」
「危ないでしょ、これ」
零司は、当然のように答えた。
そのとき。
男が、再び鏃を放った。
今度は零司の胸元。
しかし。
鏃は、少年へ届かなかった。
空中で停止する。
鎖が軋み、張り詰める。
「……なっ!?」
男の表情が変わった。
零司は鏃を眺めた。
「これも面白いね」
そして。
「でも、何回も撃つのは芸がないかな」
指先を動かす。
鎖が、途中から分解された。
鏃が床へ落ちる。
男は目を見開いた。
「……馬鹿な!」
だが、すぐに別の鎖が袖口から現れた。
破壊されたはずの武器。
それが、再び形成されている。
「……へえ」
零司が笑った。
「作り直せるんだ」
男は、得意げに口元を歪めた。
「当然だ。私の錬金術を、その程度で封じられると思うな」
零司は、少しだけ考えた。
そして。
「……ねえ」
男が顔を上げる。
「何だ」
「君、本当にアウレオルス?」
その瞬間。
男の表情が、凍りついた。
◇
「……何を言っている」
男の声が低くなる。
「私はアウレオルス=イザードだ」
「そう?」
零司は、首を傾げた。
「何か変なんだよね」
ステイルが顔を向ける。
「……どういう意味だ?」
零司は、男を指差した。
「この人、人間っぽくないんだよ」
沈黙。
上条が目を瞬かせる。
「……は?」
「いや、見た目は人間なんだけど」
零司は続けた。
「身体の中心に、変な魔術的な仕組みがある」
その言葉に、ステイルの目が細くなった。
男の魔力。
術式の構造。
そして、どこか不自然な存在感。
「……まさか」
ステイルが呟く。
男は、激しく顔を歪めた。
「黙れ!」
次の瞬間。
黄金の鏃が、一斉に放たれた。
その数、十数本。
上条とステイルへ向かって、別々の角度から襲い掛かる。
「……っ!」
上条が右手を突き出した。
真正面から迫った鏃へ、その手が触れる。
パキンッ!
魔術的な変換効果が消えた。
しかし、鏃そのものの運動は止まらない。
「うおっ!?」
上条が身を捻る。
鏃が頬を掠めた。
血が一筋流れる。
「上条当麻!」
ステイルが叫ぶ。
赤い炎が、廊下へ広がった。
空中に刻まれたルーンが輝く。
「――魔女狩りの王(イノケンティウス)!」
轟音。
灼熱の巨人が、炎の中から現れた。
巨大な腕が振り下ろされる。
白いスーツの男が後退した。
その直後。
零司が、上条の前へ出た。
「……ねえ、上条君」
「何だよ!?」
「その右手、魔術も消せるんだ」
上条は、目を見開いた。
「……お前、今それ聞く!?」
「だって気になるし」
「今は戦ってる最中だろ!」
「そうだね」
零司は笑った。
「じゃあ、ちょっと試してみようか」
少年が、男へ視線を向けた。
その瞬間。
男の身体が、空中へ浮き上がった。
「……なっ!?」
腕。
脚。
胴体。
それぞれへ異なる力が働き、身動きできなくなる。
「……貴様!」
男が叫ぶ。
「何をした!」
「ちょっと止めた」
零司は答えた。
「この人、魔術的な人形っぽいからさ」
そして、上条へ顔を向ける。
「君の右手で触ったら、どうなるのかなって」
「……は?」
「試してみない?」
上条は、一瞬だけ呆然とした。
それから。
「……いや、待てよ」
男を見る。
白いスーツ。
緑色の髪。
先ほどから次々と武器を作り出している。
零司の言うとおり、普通の人間ではないとしたら。
「……こいつ、偽物なのか?」
ステイルが、炎の巨人を制御しながら答えた。
「……おそらくな」
その瞳が、僅かに細くなる。
「ケルト十字を核にした、魔術的な人形だろう」
男が激昂した。
「違う!」
叫ぶ。
「私はアウレオルス=イザードだ!」
零司は、少しだけ眉を上げた。
「本人はそう思ってるんだ」
興味深そうな声。
「よくできてるじゃん」
男の顔が怒りに歪む。
その瞬間。
ステイルが叫んだ。
「上条当麻!」
「……分かってる!」
上条が走り出した。
床を蹴る。
一直線に距離を詰める。
男は、必死に鏃を放とうとする。
しかし、身体が動かない。
零司によって、攻撃に必要な姿勢そのものを封じられていた。
「……貴様ら!」
男が叫ぶ。
その直後。
上条の右拳が、男の胸元へ叩き込まれた。
ドゴンッ!
鈍い衝撃音。
男の身体が、不自然に揺れる。
胸元から、眩い光が漏れ出した。
「……ぐっ!?」
上条が拳を引く。
その瞬間。
男の身体を覆っていた魔力が、急速に崩れ始めた。
「……何だ、これは……!」
男が、自分の胸元を見下ろす。
皮膚の下から、光が漏れている。
身体の輪郭が、僅かに歪む。
ステイルが、静かに告げた。
「君は本物ではない」
「……違う」
「アウレオルス=イザードが作り出した、防衛用の霊装だ」
「……違う!」
男は叫んだ。
その声には、怒りだけでなく恐怖が混じっていた。
自分が自分ではない。
その可能性を、認められないようだった。
「私は……!」
最後まで言い切る前に。
ステイルの炎が、男を包み込んだ。
ゴォッ!
燃え上がる炎。
魔力を失いつつある身体が、次々と崩れていく。
上条が顔を背けた。
そして。
炎が消えた後。
床には、小さな十字形の破片だけが残されていた。
◇
「……終わった?」
上条が尋ねた。
零司は、床に落ちた破片を眺めていた。
「この人はね」
少年は、破片を拾い上げる。
魔力の残滓。
霊装としての構造。
それらが、まだ僅かに残っている。
「……なるほど」
零司が笑った。
「人間の形をした魔術装置か」
ステイルが、手を差し出した。
「それを渡せ」
「何で?」
「調べる必要がある」
「僕も調べたいんだけど」
「……君は」
ステイルが、苛立ったように眉をひそめた。
零司は、破片を眺めた。
そして、少しだけ考える。
「……まあ、いいか」
あっさりと差し出した。
ステイルが目を瞬かせる。
「……いいのか?」
「もう大体分かったし」
零司は肩をすくめた。
「次は本物に会いたい」
上条が顔を上げる。
「……本物?」
「うん」
零司は、階段の奥へ視線を向けた。
「さっきの人形を作った本人」
ステイルも、同じ方向を見る。
そこには、上階へ続く長い通路があった。
その先からは、さらに濃い魔力の気配が漂っている。
零司が口を開いた。
「……ねえ、ステイル」
「何だ」
「本物は、もっと強いんでしょ?」
ステイルは、しばらく黙っていた。
そして。
「……比較にならない」
低い声で答えた。
「黄金錬成を完成させたアウレオルスは、あの程度の錬金術師ではない」
零司の笑みが深くなる。
「そっか」
その瞳に、期待が宿る。
「それなら、楽しみだね」
上条は、呆れたように少年を見た。
「……お前、これからもっと危険なところへ行くって分かってる?」
「分かってるよ」
「じゃあ、何で笑ってんだよ!」
「面白そうだから」
即答だった。
上条は頭を抱えた。
「……不幸だ」
零司は、そんな上条を見て笑った。
「君も大変だね」
「誰のせいだと思ってんだ!」
ステイルは、二人を無視して歩き始めた。
「……時間がない。行くぞ」
零司は、その背中を追った。
上条も慌てて後に続く。
三人は、再び上階へ向かった。
◇
三沢塾、最上階。
静かな部屋。
そこには、一人の男が立っていた。
緑色の髪。
白いスーツ。
先ほど倒された人形と、まったく同じ外見。
しかし。
こちらは、本物だった。
アウレオルス=イザード。
元ローマ正教の隠秘記録官。
そして、黄金錬成へ到達した錬金術師。
男は、机の上に置かれた資料を見つめていた。
その隣には、一本の細い針。
「……偽物が、破壊されたか」
小さく呟く。
侵入者は三人。
そのうち二人については、事前に情報があった。
上条当麻。
ステイル=マグヌス。
だが。
三人目については、何も知らない。
「……久遠零司」
男は、その名前を繰り返した。
科学の街の能力者。
それも、通常の能力分類には収まらない存在らしい。
術式の一部を解除し、偽・聖歌隊を停止させた。
そして、己が作り出した人形の正体を見抜いた。
「……興味深い」
アウレオルスは、静かに呟いた。
だが、今はそれどころではない。
自分には、果たさなければならない目的がある。
そのために、すべてを捨ててきた。
所属していた教会も。
かつての立場も。
そして、多くの時間も。
ようやく辿り着いた。
黄金錬成。
思い描いた現実を成立させる、錬金術の到達点。
それさえあれば。
「……今度こそ」
男は、静かに呟く。
「……必ず、救う」
そのとき。
背後で、扉が開いた。
「……アウレオルス」
少女の声。
振り返ると、そこには巫女装束の少女が立っていた。
姫神秋沙。
吸血殺しを持つ少女。
「……どうした」
アウレオルスが尋ねる。
姫神は、静かに男を見つめた。
「……侵入者が来ている」
「承知している」
「……その中に」
少女は、少しだけ言葉を探した。
「……おかしな人がいる」
アウレオルスの目が細くなる。
「……おかしな人?」
「……うん」
姫神は頷いた。
「……普通の能力者とは、違う」
アウレオルスは、しばらく黙っていた。
そして。
「……問題ない」
静かに答えた。
「私には、黄金錬成がある」
姫神は、その言葉を聞いても表情を変えなかった。
ただ。
小さく呟く。
「……そう」
そして、扉へ向かう。
その背中を見ながら。
アウレオルスは、机の上の針を手に取った。
黄金錬成。
それを完成させるまでに、どれほどの時間を費やしただろうか。
今さら、邪魔されるわけにはいかない。
「……来るなら、来るがいい」
静かな声。
「私の目的を妨げる者は、すべて排除する」
その瞬間。
部屋の空気が、僅かに震えた。
黄金錬成。
言葉によって現実を確定させる、規格外の魔術。
その術者が、ついに動き始めようとしていた。
◇
午後三時四十七分。
三沢塾、上階通路。
「……あれ?」
零司が、突然足を止めた。
上条が振り返る。
「どうした?」
「……何か、変わった」
零司は、天井を見上げていた。
魔力の流れ。
術式の構造。
そして、建物全体に広がっていた特殊な境界。
その一部が、先ほどとは異なる状態へ変化している。
「……なるほど」
少年は、少しだけ笑った。
「本物が、こっちを見てる」
ステイルの表情が険しくなる。
「……分かるのか?」
「何となくね」
零司は頷いた。
「さっきまでとは、気配が違う」
その瞳が、僅かに細くなる。
人形ではない。
単なる結界でもない。
その奥に、明らかに異質な存在がいる。
科学の側では、これまでにも規格外の能力者を見てきた。
だが。
魔術の側で、ここまでの力を持つ人物と直接対峙する機会は、そう多くない。
「……いいね」
零司が、小さく笑った。
上条が顔をしかめる。
「……何がだよ」
「今日、出かけて正解だったなって」
「…………」
ステイルは、深く息を吐いた。
「……君は本当に、緊張感というものがないな」
「あるよ?」
「……どこに?」
「面白そうな相手には、ちゃんと期待するし」
零司は笑った。
「退屈な相手なら、すぐ帰るけどね」
上条は、額を押さえた。
そして。
「……分かった」
小さく息を吐く。
「もう、お前がそういう奴なのは分かったよ」
零司は、楽しそうに笑った。
「それはよかった」
そのとき。
廊下の奥から、低い声が響いた。
『……侵入者ども』
三人が顔を上げる。
目の前の扉。
その向こうから、強大な魔力が漂っていた。
『これ以上の侵入は許さん』
ステイルが身構える。
上条が右拳を握りしめる。
そして。
零司は、扉を見つめた。
「……やっと会えるんだ」
その口元に、ゆっくりと笑みが浮かぶ。
「本物の錬金術師に」
少年は、一歩前へ出た。
万象演算。
位相勅令。
二つの体系へ干渉する、学園都市の第零位。
その存在が、黄金錬成と対峙しようとしていた。
科学と魔術。
異なる理屈で成立する力。
その二つがぶつかり合ったとき、何が起きるのか。
零司自身にも、まだ分からない。
だからこそ。
その表情には、隠しきれない期待が浮かんでいた。
「……さて」
少年が、小さく呟く。
「どこまでできるのか、見せてもらおうかな」