とある学園都市の第零位《ゼロナンバー》   作:右左右左右

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第23話 黄金錬成と第零位

 八月八日、午後三時四十八分。

 

 学園都市第七学区、三沢塾。

 

「――入れ」

 

 低い声が響いた。

 

 その直後、目の前の扉がひとりでに開いた。

 

「……おお」

 

 久遠零司が感心したように声を上げる。

 

「便利だね、それ」

 

「感心している場合か!」

 

 ステイル=マグヌスが怒鳴った。

 

 上条当麻も警戒した様子で開いた扉を見つめている。

 

 その向こうに広がっていたのは、広い執務室だった。

 

 高価そうな調度品。

 

 壁一面の書棚。

 

 窓際に置かれた大きな机。

 

 その中央に、一人の男が立っている。

 

 白いスーツ。

 

 緑色の髪。

 

 そして、神経質そうな表情。

 

「……アウレオルス=イザード」

 

 ステイルが呟いた。

 

 男は静かに顔を上げた。

 

「当然。ここまで辿り着いたことは評価しよう」

 

 その視線が、ステイルから上条へ移る。

 

 そして最後に、零司で止まった。

 

「……貴様は何者だ」

 

「久遠零司」

 

「名前ではない。何故、私の術式へ干渉できる」

 

「そっち?」

 

 零司は肩をすくめた。

 

「会って早々、質問ばっかりだね」

 

 アウレオルスの眉が動く。

 

 ステイルが一歩前へ出た。

 

「アウレオルス。僕たちは姫神秋沙を引き取りに来た」

 

「……当然。用件は把握している」

 

「なら話が早い。彼女を解放しろ」

 

 アウレオルスは答えなかった。

 

 代わりに、部屋の奥へ視線を向ける。

 

 そこには、巫女装束の少女がいた。

 

 姫神秋沙。

 

 彼女は窓際の椅子に座り、三人を見つめていた。

 

「……来たんだ」

 

 小さな声。

 

 上条が顔を上げる。

 

「姫神!」

 

「……上条君」

 

 姫神は、僅かに目を細めた。

 

「……本当に来た」

 

「当たり前だろ。助けに来たんだからな!」

 

 その言葉に、姫神の表情が僅かに緩んだ。

 

 しかし。

 

「――動くな」

 

 アウレオルスの声が響いた。

 

 瞬間。

 

 上条の足元で、床が変形した。

 

「うおっ!?」

 

 両足を覆うように石材が盛り上がり、動きを封じる。

 

 ステイルが即座にルーンを取り出した。

 

「――炎よ!」

 

 紅蓮の炎が、アウレオルスへ向かって放たれる。

 

 だが。

 

「消えよ」

 

 たった一言。

 

 炎が消滅した。

 

 最初から存在しなかったかのように。

 

「……っ!」

 

 ステイルの表情が強張る。

 

 零司は、その光景を眺めていた。

 

 そして、口元を緩める。

 

「……へえ」

 

 アウレオルスが顔を向ける。

 

「何がおかしい」

 

「いや、すごいなって」

 

 零司は、消えた炎のあった空間を見つめた。

 

「魔力の流れを切ったわけじゃない。燃えるっていう結果そのものを消したんだ」

 

 ステイルの目が細くなる。

 

「……分かるのか?」

 

「何となくね」

 

 零司は頷いた。

 

「でも、これって普通の魔術とは随分違うよね」

 

 アウレオルスの表情が変わった。

 

「……当然」

 

 男は、ゆっくりと右手を持ち上げた。

 

「これこそが黄金錬成。アルス=マグナだ」

 

 細い針が、その手に握られている。

 

「私の思い描く事象は、現実となる」

 

 零司の瞳が細くなった。

 

「……それ、本当?」

 

「当然だ」

 

「何でも?」

 

「そうだ」

 

「ふうん」

 

 零司は少し考えた。

 

 そして。

 

「じゃあ、試してみようか」

 

     ◇

 

「……何?」

 

 アウレオルスが眉をひそめた。

 

 その瞬間。

 

 男の手から、細い針が消えた。

 

「……っ!?」

 

 視線を落とす。

 

 先ほどまで確かに握っていた針。

 

 それが、いつの間にか零司の指先へ移動していた。

 

「……これ、何に使うの?」

 

 零司は針を眺めた。

 

 アウレオルスの表情が険しくなる。

 

「返せ」

 

「はい」

 

 零司は、あっさりと投げ返した。

 

 針が空中を飛ぶ。

 

 アウレオルスが受け止める。

 

 その一連の動作を見て、ステイルは眉をひそめた。

 

(……何を考えている?)

 

 敵の道具を奪った。

 

 それなら、そのまま破壊すればいい。

 

 しかし、零司は返した。

 

 まるで。

 

 相手がどう使うのか、見たがっているように。

 

「……貴様」

 

 アウレオルスが、低く呟いた。

 

「私を試しているのか?」

 

「そうだよ?」

 

 即答だった。

 

「だって、何でも現実にできるんでしょ?」

 

 零司は笑った。

 

「それなら、ちょっと面白そうじゃん」

 

 上条が顔をしかめる。

 

「久遠! お前、何やってんだ!」

 

「実験?」

 

「敵に実験させんな!」

 

「えー」

 

 零司は不満そうに口を尖らせた。

 

 そのとき。

 

「……ならば」

 

 アウレオルスが、静かに針を首元へ突き刺した。

 

 その表情から、動揺が消える。

 

「望みどおり、見せてやろう」

 

 そして。

 

「――地に伏せよ」

 

 瞬間。

 

 上条の身体が床へ叩きつけられた。

 

「ぐっ!?」

 

 ステイルも膝をつく。

 

 凄まじい圧力。

 

 まるで、天井そのものが落ちてきたかのようだった。

 

 だが。

 

「……あれ?」

 

 零司は立っていた。

 

 何事もなかったかのように。

 

 アウレオルスの表情が変わる。

 

「……何故だ」

 

 零司は足元を見た。

 

 周囲の空間には、確かに魔術的な干渉が働いている。

 

 指定された対象を地面へ押しつけるという結果。

 

 その現象が、現実のものとして成立していた。

 

 しかし。

 

 零司の周囲だけ、その条件が書き換えられている。

 

「……うん」

 

 少年は頷いた。

 

「やっぱり、こっちの方がいいかな」

 

 その瞬間。

 

 上条とステイルに掛かっていた圧力が消えた。

 

「……っ!?」

 

 ステイルが顔を上げる。

 

 零司は、軽く肩を回した。

 

「物理的な力っていうより、そういう状態にしてるんだね」

 

 アウレオルスが目を見開いた。

 

「……貴様、何をした」

 

「君が作った結果を、ちょっと変えた」

 

 零司は笑った。

 

「結構便利だね、この魔術」

 

 その言葉に、アウレオルスの顔が歪んだ。

 

「……愚弄するか」

 

「褒めてるんだけどなぁ」

 

 零司は首を傾げた。

 

「もっと見せてよ」

 

     ◇

 

 アウレオルスが針を刺す。

 

「――鋼鉄の槍よ、貫け」

 

 直後。

 

 何もない空間から、無数の槍が出現した。

 

 鋭い切っ先。

 

 それらが、一斉に零司へ向かう。

 

 しかし。

 

 ガキンッ!

 

 すべての槍が、少年の目前で停止した。

 

「……遅いね」

 

 零司が指を動かす。

 

 槍が、空中で方向を変えた。

 

 その切っ先が、アウレオルスへ向けられる。

 

「……っ!」

 

 男が叫ぶ。

 

「消えよ!」

 

 瞬間。

 

 槍が消滅した。

 

 零司は感心したように頷く。

 

「便利便利」

 

「……貴様ぁ!」

 

 アウレオルスの声が荒くなる。

 

 次の瞬間。

 

 床が隆起した。

 

 壁が歪む。

 

 天井から巨大な刃が現れる。

 

 さらに、何もない空間へ炎が生まれた。

 

 そのすべてが、零司へ襲い掛かる。

 

 しかし。

 

 少年は動かなかった。

 

「……ふうん」

 

 片手を上げる。

 

 炎が消える。

 

 刃が砕ける。

 

 壁が元へ戻る。

 

 床の隆起が収まる。

 

 そして。

 

 アウレオルスの足元だけ、床が不自然に沈んだ。

 

「……っ!?」

 

 男が体勢を崩す。

 

 次の瞬間、身体が宙へ浮き上がった。

 

 腕。

 

 脚。

 

 胴体。

 

 それぞれへ異なる方向から力が掛かる。

 

「……何だ、これは!」

 

「僕の番」

 

 零司が笑った。

 

 アウレオルスの身体が、壁際へ移動する。

 

 そのまま、壁面へ押しつけられた。

 

「ぐっ……!」

 

 手足が動かない。

 

 針を刺すこともできない。

 

 零司は、その様子を眺めた。

 

「……ねえ」

 

 少年が口を開く。

 

「その力、本当に何でもできるの?」

 

 アウレオルスは、苦しげに顔を上げた。

 

「……当然だ!」

 

「じゃあ、何で僕を倒せないの?」

 

 沈黙。

 

 その瞬間。

 

 男の表情が、僅かに揺れた。

 

 零司は、それを見逃さなかった。

 

「……ああ」

 

 小さく笑う。

 

「なるほどね」

 

     ◇

 

「……久遠」

 

 上条が、呆然と呟いた。

 

 目の前では、黄金錬成を完成させた錬金術師が、壁へ押しつけられている。

 

 しかも。

 

 それをやっているのは、つい先ほどまで一緒に歩いていた少年だった。

 

「……お前、本当に何者なんだよ」

 

 零司は振り返った。

 

「前にも言ったでしょ?」

 

「いや、レベル0って話だろ!?」

 

「うん」

 

「絶対嘘だろ!」

 

「記録上は本当だよ」

 

「そういう問題じゃねえ!」

 

 零司は、楽しそうに笑った。

 

 その隣で、ステイルが険しい表情を浮かべていた。

 

「……久遠零司」

 

「ん?」

 

「君が強いことは分かった。だが、ここで遊んでいる時間はない」

 

「……ああ、巫女さん?」

 

「それだけじゃない」

 

 ステイルは、部屋の奥を見た。

 

 そこには、もう一つの扉があった。

 

 その向こう。

 

 微かに、魔力の気配がする。

 

「……あの子がいる」

 

 零司が首を傾げた。

 

「誰?」

 

「インデックスだ」

 

 上条の表情が変わった。

 

「……何だと!?」

 

 ステイルが頷く。

 

「どうやら、僕たちの後を追ってきたらしい」

 

「……あいつ!」

 

 上条が、思わず頭を抱えた。

 

 そして、奥の扉へ駆け寄る。

 

 だが。

 

「――開くな」

 

 アウレオルスの声が響いた。

 

 次の瞬間。

 

 扉が、壁の一部へ変化した。

 

「……っ!?」

 

 上条が足を止める。

 

 零司は、壁を眺めた。

 

「……また面倒なことを」

 

 少年が、軽く指を動かす。

 

 壁の一部が、ゆっくりと変形した。

 

 そこに、扉の輪郭が現れる。

 

 さらに、魔術的な境界へ位相勅令が働く。

 

 通路を閉ざすという条件が、局所的に解除された。

 

 そして。

 

 ギィ……。

 

 扉が開いた。

 

「……はい」

 

 零司が上条へ手を振る。

 

「どうぞ」

 

「……助かった!」

 

 上条が駆け込む。

 

 ステイルも後を追った。

 

 零司は、壁へ押しつけられたアウレオルスへ視線を戻した。

 

「……さて」

 

 その口元に、薄い笑みが浮かぶ。

 

「君は何がしたかったの?」

 

     ◇

 

「……私の目的だと?」

 

 アウレオルスが、低く呟いた。

 

 零司は頷いた。

 

「うん」

 

「……知ってどうする」

 

「面白かったら聞く」

 

 即答だった。

 

「退屈だったら帰る」

 

「…………」

 

 アウレオルスは、少年を睨んだ。

 

 その瞳には怒りが宿っている。

 

 しかし。

 

 同時に。

 

 どこか疲れ切ったような色もあった。

 

「……私は」

 

 男が口を開く。

 

「……一人の少女を救うために、ここまで来た」

 

 零司は、少しだけ目を細めた。

 

「少女?」

 

「そうだ」

 

 アウレオルスは、ゆっくりと続けた。

 

「彼女は、膨大な魔道書の知識を抱えていた」

 

 その言葉に、零司の瞳が動いた。

 

「……インデックス?」

 

「……知っているのか」

 

「さっき会ったよ」

 

 零司は答えた。

 

「ご飯食べてた」

 

「…………」

 

 アウレオルスの表情が固まった。

 

「……何?」

 

「すごい食欲だった」

 

 零司は、少しだけ笑った。

 

「上条君、財布が大変そうだったよ」

 

 アウレオルスは、何も言えなかった。

 

 そのとき。

 

 奥の扉から、上条の声が聞こえてきた。

 

「おい! 大丈夫か、インデックス!」

 

 そして。

 

「……とうま……?」

 

 少女の声。

 

 白い修道服を着たインデックスが、上条に支えられて姿を現した。

 

 眠らされていたのか、まだ少し足元が覚束ない。

 

 ステイルが、その後ろから続く。

 

「……無事のようだね」

 

 上条が頷く。

 

「ああ。ちょっと眠らされてただけみたいだ」

 

 零司は、インデックスを見た。

 

「やっほー」

 

「……あれ?」

 

 少女が目を瞬かせる。

 

「ポテトの人?」

 

「そうそう」

 

 零司は笑った。

 

「また会ったね」

 

 その気の抜けたやり取りを。

 

 アウレオルスは、呆然と見つめていた。

 

「……インデックス」

 

 小さく呟く。

 

 少女が顔を向ける。

 

「……あなたは?」

 

 アウレオルスの表情が揺れた。

 

 かつて、自分が救おうとした少女。

 

 彼女のために魔術を研究した。

 

 禁忌へ手を伸ばした。

 

 教会を離れた。

 

 すべてを捨てて、黄金錬成へ到達した。

 

 だが。

 

 その少女は、目の前で普通に笑っている。

 

 自分ではなく。

 

 別の少年の隣で。

 

「……何故だ」

 

 アウレオルスが呟いた。

 

「……何故、彼女が……」

 

     ◇

 

「……アウレオルス」

 

 ステイルが、静かに口を開いた。

 

 その声には、僅かな苦さがあった。

 

「もう終わったんだ」

 

「……何?」

 

「インデックスは、すでに救われている」

 

 アウレオルスの瞳が大きく開かれた。

 

「……馬鹿な」

 

「彼女の記憶を一年ごとに消す必要は、もうない」

 

「……何を」

 

「首輪は破壊された」

 

 ステイルは続ける。

 

「上条当麻がやったんだ」

 

 沈黙。

 

 アウレオルスが、ゆっくりと上条へ視線を向けた。

 

 黒髪の少年。

 

 特別な魔術師ではない。

 

 高度な錬金術を扱えるわけでもない。

 

 ただ、右手に異能を打ち消す力を持つ少年。

 

「……こいつが?」

 

 アウレオルスが呟く。

 

 上条は、静かに頷いた。

 

「ああ」

 

「……貴様が?」

 

「俺が、やった」

 

 その言葉に。

 

 アウレオルスの表情が、崩れた。

 

 黄金錬成。

 

 世界を思いどおりに変える力。

 

 それを手に入れるために、費やした時間。

 

 捨ててきたもの。

 

 犠牲にしてきたもの。

 

 それらが、たった一言で意味を失った。

 

「……ふざけるな」

 

 男の声が震える。

 

「……そんなことが」

 

 ステイルは、何も言わなかった。

 

 零司も黙っていた。

 

 ただ、アウレオルスの表情を観察している。

 

「……あり得るものか!」

 

 男が叫んだ。

 

 その瞬間。

 

 部屋全体が、激しく揺れた。

 

     ◇

 

 ゴゴゴゴゴッ!

 

 壁に亀裂が走る。

 

 床が変形する。

 

 天井から、無数の刃が現れた。

 

「……っ!?」

 

 上条が身構える。

 

 インデックスを庇うように前へ出た。

 

 ステイルもルーンを構える。

 

 しかし。

 

 零司だけは、アウレオルスを見つめていた。

 

「……ああ」

 

 小さく呟く。

 

「そういうことか」

 

 先ほどまで、男の術式は比較的安定していた。

 

 針を首元へ刺す。

 

 言葉を発する。

 

 その結果が、現実へ反映される。

 

 だが今は違う。

 

 言葉にしていない現象まで、次々と発生している。

 

 怒り。

 

 焦り。

 

 恐怖。

 

 それらが、術式へ直接影響していた。

 

(……言葉そのものじゃない)

 

 零司の目が細くなる。

 

(……思い描いたことが、現実になる)

 

 それなら。

 

 大きな欠点がある。

 

 自分自身が、何を現実だと確信できるのか。

 

 その確信が揺らげば。

 

「……君さ」

 

 零司が、静かに口を開いた。

 

 アウレオルスが顔を向ける。

 

「……何だ!」

 

「もう、その子は助かってるんでしょ?」

 

「…………!」

 

「だったら、何でまだ戦ってるの?」

 

 アウレオルスは、答えられなかった。

 

 零司は続ける。

 

「目的がなくなったなら、帰ればいいじゃん」

 

 その言葉に。

 

 アウレオルスの顔が、激しく歪んだ。

 

「……黙れ!」

 

「えー」

 

「貴様に何が分かる!」

 

「別に分かんないよ」

 

 零司は、あっさりと答えた。

 

「君の事情なんて知らないし」

 

 そして。

 

「でも、今の君、全然楽しそうじゃないね」

 

 沈黙。

 

 アウレオルスは、目を見開いた。

 

 目の前の少年は、自分の努力を否定したわけではない。

 

 救おうとした想いを嘲笑ったわけでもない。

 

 ただ。

 

 目的を失ったまま、怒り続けていることを不思議に思っている。

 

 その無邪気さが、ひどく癇に障った。

 

「……貴様ぁ!」

 

 アウレオルスが叫ぶ。

 

 その瞬間。

 

 零司を拘束していた空間が、大きく歪んだ。

 

「……ん?」

 

 零司が顔を上げる。

 

 アウレオルスは、怒りに震えながら告げた。

 

「――この男を、別の空間へ隔離せよ!」

 

 次の瞬間。

 

 零司の周囲の景色が、消えた。

 

     ◇

 

「……へえ」

 

 久遠零司は、真っ白な空間に立っていた。

 

 壁もない。

 

 床もない。

 

 天井もない。

 

 どこまでも続く、白い領域。

 

 アウレオルスの黄金錬成によって、局所的な空間の接続関係が変更されていた。

 

「……なるほどね」

 

 零司は、周囲を見渡す。

 

 物理的な移動ではない。

 

 空間そのものの扱いが変わっている。

 

 通常の万象演算だけでは、現在の位置関係を元へ戻すことが難しい。

 

 しかし。

 

「……こっちなら」

 

 零司は、ゆっくりと右手を上げた。

 

 位相勅令。

 

 世界の位相へ働きかける力。

 

 白い空間へ、細い亀裂が走る。

 

「……うん」

 

 零司は、小さく笑った。

 

「こういう使い方もできるんだ」

 

 亀裂が広がる。

 

 その向こうに、元の執務室が見え始めた。

 

 そして。

 

 零司は、一歩を踏み出した。

 

     ◇

 

 その数瞬前。

 

「……久遠!?」

 

 上条が叫んだ。

 

 目の前から、零司が消えた。

 

 突然。

 

 何の前触れもなく。

 

 ステイルが顔を上げる。

 

「……空間そのものを切り離したのか!?」

 

 アウレオルスは、荒い息を吐いていた。

 

「……当然」

 

 男は、震える手で針を首元へ刺す。

 

「私に、不可能などない!」

 

 そして。

 

 上条へ視線を向けた。

 

「……貴様だ」

 

 低い声。

 

「……貴様さえ、いなければ」

 

 上条は、静かに拳を握りしめた。

 

「……何だよ」

 

「……貴様が、私のすべてを奪った!」

 

 その言葉に、上条の表情が変わった。

 

「……ふざけんな」

 

 低い声だった。

 

 アウレオルスが目を見開く。

 

 上条は、一歩前へ出た。

 

「インデックスは、誰かのものじゃねえだろ」

 

「…………!」

 

「お前がどれだけ頑張ったのか、俺には分からねえ」

 

 上条は続けた。

 

「だけどな」

 

 その右拳が、強く握りしめられる。

 

「助かったなら、それでいいじゃねえか!」

 

 アウレオルスの顔が歪んだ。

 

「……黙れ!」

 

 次の瞬間。

 

 上条の周囲に、無数の刃が出現した。

 

 上条は右手を突き出す。

 

 真正面から迫った刃へ触れる。

 

 パキンッ!

 

 魔術によって成立していた刃が、砕け散った。

 

 しかし。

 

 次の攻撃は、背後からだった。

 

 床が盛り上がる。

 

 壁が迫る。

 

 天井が崩れる。

 

 上条は、必死に右手を振るった。

 

 触れた魔術が、次々と消えていく。

 

「……くそっ!」

 

 ステイルがルーンを投げる。

 

「上条当麻! 下がれ!」

 

「……嫌だ!」

 

 上条は叫んだ。

 

「俺は、こいつに言わなきゃいけないことがある!」

 

 アウレオルスの目が、激しく揺れた。

 

 そのとき。

 

「――その右腕を、切り落とせ」

 

 低い声が響いた。

 

 次の瞬間。

 

 上条の右肩に、鋭い痛みが走った。

 

「……っ!?」

 

 何かが、床へ落ちる。

 

 赤い飛沫。

 

 上条の身体が、大きく傾いた。

 

「……とうま!?」

 

 インデックスの悲鳴。

 

 ステイルの顔色が変わる。

 

「……上条当麻!」

 

 そして。

 

 アウレオルスは、荒い息を吐いた。

 

「……当然」

 

 その目には、狂気に近い色が浮かんでいた。

 

「……これで、幻想殺しは失われた」

 

 上条は、膝をついた。

 

 失われた右腕。

 

 そこから流れ出す血。

 

 身体が、激しい痛みに震える。

 

 だが。

 

 その目は、まだアウレオルスを見つめていた。

 

     ◇

 

 パキンッ!

 

 乾いた音が響いた。

 

 白い空間に亀裂が走る。

 

 そして。

 

「……ただいま」

 

 久遠零司が、執務室へ戻ってきた。

 

 しかし。

 

 その直後。

 

 少年の足が止まった。

 

「……あれ?」

 

 床には、上条当麻が膝をついていた。

 

 右腕が失われている。

 

 その周囲には、血が広がっていた。

 

「……うわ」

 

 零司が、小さく呟く。

 

「随分と派手にやったね」

 

 アウレオルスが振り返った。

 

「……馬鹿な!」

 

 その表情が、凍りつく。

 

「……何故、戻ってこられる!」

 

「ちょっと道を直しただけ」

 

 零司は肩をすくめた。

 

 そして、上条へ視線を向ける。

 

「……上条君、大丈夫?」

 

「……大丈夫に、見えるかよ……!」

 

 上条が、苦しげに答えた。

 

 零司は、少しだけ考えた。

 

「……見えないね」

 

 そのときだった。

 

 零司の表情が変わった。

 

「……ん?」

 

 上条の右肩。

 

 失われた腕の、その先。

 

 そこから、何かが動き始めていた。

 

 魔力ではない。

 

 通常の超能力でもない。

 

 位相勅令で触れてきた魔術的な現象とも、明らかに違う。

 

 零司の灰紫色の瞳が、細くなる。

 

「……何、あれ」

 

 初めてだった。

 

 目の前の現象を、すぐに理解できない。

 

 そして。

 

 その瞬間。

 

 上条の右肩から、巨大な何かが姿を現した。

 

 鋭い牙。

 

 異形の顎。

 

 人間の腕とは到底思えない輪郭。

 

 それは、まるで。

 

 ――竜だった。

 

「…………!」

 

 ステイルが息を呑む。

 

 インデックスが目を見開く。

 

 アウレオルスの顔から、血の気が引いた。

 

「……何だ、それは……!」

 

 そして。

 

 零司は。

 

 静かに、その光景を見つめていた。

 

 灰紫色の瞳が、僅かに見開かれる。

 

 次の瞬間。

 

「……なるほど」

 

 少年の口元に、ゆっくりと笑みが浮かんだ。

 

「……君の右手」

 

 上条当麻を見る。

 

 以前、地下街で自分の能力を打ち消した右手。

 

 その中に、何かが隠されていることは薄々感じていた。

 

 だが。

 

 まさか、こんなものが出てくるとは思わなかった。

 

「……そういうことか」

 

 零司は、小さく笑った。

 

 その目には、これまで以上に強い興味が宿っていた。

 

「……上条当麻」

 

 少年は、静かに呟いた。

 

「君、僕が思ってたよりずっと面白いね」

 

 そして。

 

 黄金錬成の術者が、恐怖に顔を歪める中。

 

 竜の顎が、ゆっくりと開かれた。

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