八月十一日、午前九時十七分。
学園都市第七学区。
「……痛っ」
「……だから、動かないで」
「……動いてない」
「……今、動いた」
久遠零司の部屋では、朝から小さな言い争いが起きていた。
テーブルの前に座っているのはN-12。
その左腕には、昨夜の爆発で負った傷を保護する包帯が巻かれている。
向かいに座るN-13は、真剣な表情で包帯の端を留めていた。
「……はい、終わり」
「……ありがとう」
N-12が小さく息を吐く。
昨夜、帰宅途中に立ち寄った診療所では、傷は浅いと診断されていた。
それでも、破片が当たった場所はまだ痛む。
「無茶しちゃ駄目だよ」
ソファから声がした。
零司だった。
片手にパンを持ち、もう片方で携帯端末を操作している。
「……零司にだけは言われたくない」
N-13が呟く。
「僕、昨日は怪我してないよ?」
「……そういう意味じゃない」
「難しいねぇ」
零司はパンを口に運んだ。
その隣で、ミサカ九九七一号が静かに座っている。
昨日、死亡するはずだった少女。
彼女は今、テーブルに置かれた二本の缶飲料を見比べていた。
「……質問があります」
「何?」
「昨日購入した飲料と、昨夜購入していただいた飲料について、味覚評価に差異がありました」
「同じジュースなのに?」
「はい」
九九七一号は頷いた。
「昨夜の方が、好ましいと感じられました」
「へえ。どうして?」
「不明です」
少女は、少しだけ考えた。
「ただし、昨日の実験が中止されたことによる心理的変化が、味覚評価へ影響した可能性があります」
零司は笑った。
「じゃあ、また一つ分かったね」
「はい」
九九七一号は、缶を大切そうに持ち直した。
その様子を見ていたN-13が、小さく微笑む。
しかし。
「……零司」
N-12が、テーブルの端を指差した。
「……それ、どうするの?」
そこには、黒い通信端末が置かれていた。
昨夜、襲撃してきた武装部隊から回収したものだ。
「調べてるところ」
「……分かった?」
「残念ながら、暗号は簡単には読めないね」
零司は端末を裏返した。
外装には管理番号と、小さな文字が刻まれている。
《北部共同物流管理区画》
《第四搬入口》
N-12の表情が変わった。
「……そこ」
「知ってる?」
「……うん」
少女は頷いた。
「……研究施設にいた頃、搬送記録で見たことがある」
「ECHOの?」
「……別の施設も使ってたと思う」
N-12は、記憶を辿るように言葉を続けた。
「……研究資材や、実験用の設備を運ぶ場所」
零司の目が細くなる。
昨夜の襲撃部隊。
その装備に残されていた管理番号。
そして、複数の研究施設が利用する物流拠点。
無関係とは考えにくかった。
「じゃあ、今日はそこに行ってみようか」
N-13が顔を上げる。
「……また研究施設?」
「物流施設らしいよ」
「……危なくない?」
「昨日の連中の関係者がいるなら、危ないかもね」
零司は平然と答えた。
N-13は、しばらく少年を見つめていた。
そして。
「……わたしも行く」
「いいよ」
即答だった。
「……十二号も?」
N-12が頷いた。
「……記録なら、わたしにも分かることがあるかもしれない」
零司は、少女の左腕を見た。
「無理はしないこと」
「……分かってる」
「なら、決まりだね」
そのとき。
「追加情報があります」
九九七一号が口を開いた。
「絶対能力進化計画の次回実験についてです」
零司が顔を向ける。
「次?」
「はい」
九九七一号は静かに頷いた。
「本日二十一時、ミサカ九九七二号を対象とする実験が予定されています」
部屋の空気が変わった。
N-13が、缶を握る少女を見つめる。
「……また?」
「はい」
「……また、殺されるの?」
「予定どおりであれば」
九九七一号は、淡々と答えた。
「ミサカ九九七二号は、本日死亡します」
N-12の拳が握られる。
昨日、ようやく一人を助けた。
だが、研究者たちは何事もなかったように次の実験を準備している。
零司は時計を見た。
午前九時二十三分。
「……そっか」
少年は、パンの最後の一口を食べた。
「じゃあ、先に物流施設を調べよう」
N-13が顔を上げる。
「……助けるんだよね?」
零司は、少しだけ笑った。
「本人が生きたいって言うならね」
◇
午後二時四十一分。
第七学区、某研究資料保管施設。
「……おかしい」
御坂美琴は、携帯端末の画面を睨んでいた。
そこには、かつて自分が関わった研究の記録が表示されている。
《量産型能力者研究》
《研究状態:凍結》
《関連資料:移管済》
量産型能力者。
幼い頃、難病の治療研究に役立つと言われて提供したDNA情報。
それを用いた研究は、すでに凍結されたはずだった。
少なくとも、美琴はそう認識している。
だが。
「……終わった研究の資料を、どうして今も運んでるのよ」
画面を切り替える。
閲覧可能な物流台帳には、研究名の記載こそないものの、関連する管理番号が残されていた。
搬送記録。
保管先変更。
機材の再配分。
それらが、研究凍結後も繰り返されている。
「……これ」
美琴は、指を止めた。
《搬送先》
《北部共同物流管理区画》
《研究資材・機密保管物》
同じ場所が、何度も登場している。
しかも、搬送先の研究機関名は一部が非公開になっていた。
「……怪しいわね」
美琴は端末を閉じた。
研究が本当に終わっているのなら、何も問題はない。
だが、そうでないなら。
「……確かめるしかないわね」
少女は立ち上がった。
学園都市第三位。
超電磁砲。
御坂美琴。
自分が提供したDNAが、どのように使われているのか。
それを知らないままでいるつもりはなかった。
◇
午後四時五十八分。
第七学区、北部共同物流管理区画。
「……広い」
N-13が、目の前の施設を見上げた。
複数の巨大な倉庫。
整備された貨物道路。
地下へ続く搬送用昇降機。
敷地内には、何台もの配送車両が並んでいる。
「普通の物流センターにも見えるね」
零司が言った。
N-12は、建物の表示を確認している。
「……第四搬入口は、あっち」
少女が指差した。
施設の北側。
一般の配送車とは別の経路に、警備用のゲートが設けられている。
「……監視カメラ、多いね」
N-13が呟く。
「そうだね」
零司は、周囲を一度見渡した。
屋上。
監視塔。
搬入口。
そして、ゲートの近くで警備員と話している作業員。
現時点で、明確な敵対行動はない。
「……まずは、中を調べようか」
そのとき。
「――ちょっと、そこのあんた!」
背後から、鋭い声が響いた。
零司たちが振り返る。
そこには、茶色い髪の少女が立っていた。
常盤台中学の制服。
強い意志を感じさせる瞳。
御坂美琴。
だが。
その表情は、驚愕に染まっていた。
「……何で」
美琴は、零司たちの中にいる一人を見つめている。
ミサカ九九七一号。
自分と同じ顔。
自分と同じ声。
しかし、見覚えのない服装とゴーグル。
「……何で、私と同じ顔の子がいるのよ」
◇
零司は、美琴と九九七一号を見比べた。
「……本当にそっくりだね」
美琴が睨む。
「そんな感想は聞いてない!」
「まだ何も質問されてないけど」
「……っ!」
美琴は一度口を閉じた。
そして、九九七一号へ向き直る。
「……あなた、誰?」
「ミサカ九九七一号です」
「……九九七一号?」
「はい」
少女は淡々と答える。
「ミサカは、御坂美琴のDNA情報を基に製造された量産型能力者です」
美琴の顔から、血の気が引いた。
「…………は?」
「御坂美琴の遺伝子情報を利用して製造されたクローン個体です」
「……クローン?」
「はい」
美琴は、少女を凝視した。
自分と同じ顔。
似た声。
そして、量産型能力者という言葉。
幼い頃に提供したDNA。
凍結されたはずの研究。
それらが、頭の中で繋がり始める。
「……嘘よ」
美琴が呟いた。
「そんな研究、とっくに終わってるはず……」
「研究そのものが完全に終了したわけではありません」
九九七一号が答える。
「ミサカたちは、現在も実験に使用されています」
「……現在も?」
美琴の声が震えた。
「……実験って、何の?」
九九七一号は、少しだけ間を置いた。
「絶対能力進化計画です」
その言葉に、零司が口を挟む。
「第一位の一方通行を、レベル6――絶対能力者にする計画なんでしょ?」
「はい」
九九七一号が頷いた。
「一方通行との戦闘実験に、ミサカたちが使用されています」
美琴が、目を見開いた。
「……戦闘実験?」
「はい」
「……まさか」
その声が、低くなる。
「……負けたら、どうなるの?」
九九七一号は、静かに答えた。
「ミサカが死亡することを前提としています」
沈黙。
美琴の身体から、青白い火花が散った。
パチッ。
「…………!」
少女は、震える拳を握りしめた。
目の前にいるのは、自分と同じ顔をした少女。
その少女が、何の感情も見せずに自分の死を説明している。
「……そんなの」
美琴は、唇を噛んだ。
「……そんなの、おかしいじゃない!」
九九七一号が、僅かに首を傾げた。
「……おかしい、とは?」
「人間を作って、殺すために使ってるんでしょ!?」
「はい」
「……はい、じゃないわよ!」
美琴の声が大きくなる。
零司は、二人を見つめていた。
その表情は、普段と変わらない。
それが、美琴には理解できなかった。
「……あんた」
美琴が、零司を睨んだ。
「……何で、そんなに落ち着いてるのよ」
「何が?」
「この子の話、聞いたでしょ!?」
「聞いたよ」
「だったら!」
美琴の拳が、震えた。
「……何とも思わないの?」
零司は、少しだけ考えた。
そして。
「少なくとも、まともな研究じゃないね」
静かに答えた。
美琴が、目を瞬かせる。
「……だったら」
「だから、昨日一人助けた」
零司は、九九七一号を見た。
「この子」
美琴の視線が動く。
「……昨日?」
「そう。本当なら昨日死んでたんだって」
「…………!」
九九七一号が頷く。
「ミサカ九九七一号の戦闘実験は、久遠零司の介入により無効となりました」
美琴は、しばらく二人を見つめていた。
そして。
「……あんたが、助けたの?」
「本人が死にたくないって言ったからね」
零司は肩をすくめた。
「帰ることにしたんだ」
美琴は、言葉を失った。
だが。
その沈黙は、長く続かなかった。
「……それで、他の子たちは?」
九九七一号が答える。
「現在も実験が継続されています」
「……何人いるの?」
「計画上、二万体の量産個体が使用される予定です」
その数字に。
美琴は、息を呑んだ。
「……二万?」
「はい」
少女は頷いた。
「すべての個体が同時に生存しているわけではありませんが、計画全体では二万体が対象となっています」
「…………」
美琴は、顔を伏せた。
自分のDNA。
自分と同じ顔。
そして、殺されるために用意された少女たち。
「……ふざけないで」
小さな声。
「……そんなの、絶対に認めない」
青白い火花が、再び散った。
零司は、その様子を見ていた。
そして。
「……君、結構熱いね」
美琴が顔を上げる。
「……何よ!」
「いや、第三位ってもっと冷静な人かと思ってた」
「……あんた!」
その瞬間。
美琴の指先から、短い電撃が走った。
本人も、感情に引きずられた放電だった。
しかし。
電撃は、零司へ届かなかった。
その直前。
青白い光が、複数の方向へ枝分かれする。
周囲の空気中で放電経路が変わり、電流は少年の左右へ流れていった。
零司は、動いていない。
手を上げることも。
指を動かすことも。
視線を向けることすらなかった。
「……っ!?」
美琴の表情が変わった。
「……何、今の」
「電気」
「それは分かってるわよ!」
美琴は、少年を睨んだ。
「……あんた、能力者?」
「そうだよ」
「レベルは?」
「ゼロ」
「……は?」
「公式にはレベル0」
美琴のこめかみに青筋が浮かぶ。
「……ふざけてる?」
「本当なんだけどなぁ」
零司は笑った。
美琴は、目を細めた。
今の放電。
たとえ威力は低くても、普通のレベル0があのように処理できるはずがない。
しかも。
能力発動のための動作が、確認できなかった。
「……あんた、何者なのよ」
美琴が呟いた。
そのとき。
零司の表情が、僅かに変わった。
「……その話は、後にしようか」
「……何?」
零司は、建物の上を見ていた。
屋上の端。
先ほどまで誰もいなかった場所。
そこに、黒い戦闘服の男が姿を見せていた。
手には、狙撃銃。
その銃口は、零司ではなくN-12へ向けられている。
「……また、あの子を狙うんだ」
零司が、静かに呟いた。
次の瞬間。
狙撃銃の銃身が、内側から大きく歪んだ。
◇
午後五時六分。
第三搬入口。
「……なっ!?」
屋上の狙撃手が、目を見開いた。
銃身が、不自然な方向へ曲がっている。
引き金を引く前だった。
それなのに。
銃は、すでに使用不能になっていた。
「……くそっ!」
男が、通信装置へ手を伸ばす。
『対象ZEROに発見された!』
『了解。正面班、作戦開始』
その直後。
搬入口のシャッターが、一斉に開いた。
ガラガラガラッ!
内部から、武装した男たちが飛び出してくる。
その数、十人以上。
美琴が、目を見開いた。
「……何よ、あいつら!」
「たぶん、僕たちのお迎え」
零司が答えた。
「……お迎え!?」
「昨日も来たんだよね」
「……昨日も!?」
美琴が叫ぶ。
その瞬間。
銃声が響いた。
パパパパッ!
複数の銃弾が、地面を抉る。
だが。
零司へ向けられた弾丸の軌道が、突然変化した。
少年の身体を避けるように左右へ流れ、背後の空きコンテナへ突き刺さる。
同時に。
先頭の警備員が、奇妙な声を上げた。
「……何だ!?」
手にしていた銃が、異常な熱を持ち始めたのだ。
発砲で生じる熱。
銃身内部の応力。
その伝わり方が変更され、金属が急激に変形する。
ガギンッ!
銃身が潰れた。
男が、慌てて銃を捨てる。
「……くそっ!」
別の警備員が、銃口を向けた。
しかし。
今度は発砲できなかった。
引き金は動く。
内部の機構も正常に作動している。
それなのに、弾丸が発射されない。
発射時の圧力が、弾丸へ十分に伝わらなくなっていた。
「……何で撃てない!?」
男が、銃を確認する。
その隙に。
「――どきなさい!」
美琴が動いた。
青白い電撃が、警備員たちの足元を走る。
バチィッ!
電子照準装置が火花を散った。
「……っ!?」
「機器が!」
さらに。
地面から、黒い砂鉄が舞い上がった。
磁力によって集められた粒子。
それが、細い帯となって伸びる。
ガギギギッ!
警備員たちの銃へ絡みつき、銃口を引き下げた。
「……くそっ!」
一人が転倒する。
別の男が、銃を手放す。
その隙に、美琴が間合いを詰めた。
バチンッ!
短い放電。
先頭の男が、意識を失って倒れた。
続いて、砂鉄の帯が別の警備員へ伸びる。
腕。
足首。
銃器。
それらをまとめて絡め取り、動きを封じる。
「……なっ!?」
男が、驚愕の表情で少女を見る。
美琴は、歯を見せて笑った。
「……相手が悪かったわね!」
その瞬間。
背後の搬入口から、無人警備車両が飛び出した。
低い車体。
六つの車輪。
上部には、複数の発射管。
「……まだいるの!?」
美琴が振り返る。
次の瞬間。
パシュッ!
非金属製の硬質弾が、連続して放たれた。
美琴の目が細くなる。
「……なるほど」
その口元が、僅かに上がった。
「電撃対策ってわけね!」
周囲の砂鉄が、一斉に集まった。
黒い帯が、盾のように広がる。
ガガガガッ!
硬質弾が、砂鉄へ突き刺さる。
しかし、貫通しない。
そのまま、内部へ飲み込まれていく。
美琴は、右足を踏み込んだ。
「……だったら!」
砂鉄の帯が、地面を這う。
無人警備車両の車輪へ絡みついた。
ガギンッ!
車輪の回転が止まる。
車体が大きく傾いた。
そのまま。
ドォンッ!
横転した。
「……よし!」
美琴が、満足そうに息を吐く。
零司は、その様子を眺めていた。
「……さすが第三位」
美琴が振り返る。
「……あんた、見てるだけ!?」
「ちゃんと手伝ってるよ」
「……どこが!」
零司は、倒れた警備員たちへ視線を向けた。
その周囲。
複数の銃器が、床へ押しつけられたまま動かなくなっている。
さらに、別の警備員たちは足元の摩擦が変化し、まともに立てなくなっていた。
「……ほら」
美琴が、目を瞬かせる。
「……あ」
「君が倒してない人は、こっちで止めてる」
零司は、平然と答えた。
その言葉に。
美琴は、しばらく少年を見つめた。
そして。
「……本当に、何なのよ」
小さく呟いた。
◇
午後五時九分。
第三搬入口、側面通路。
「……こっち!」
N-12が、N-13と九九七一号を先導していた。
零司と美琴が正面の警備員を引きつけている間に、別の入口へ向かっていたのだ。
N-12の手には、黒い通信端末。
昨夜の襲撃部隊から回収したものだった。
「……その機械で開くの?」
N-13が尋ねる。
「……分からない」
N-12は、端末の管理番号を確認した。
「……でも、同じ管理区画の装備なら、認証できるかもしれない」
三人は、古い作業扉の前へ到着した。
その脇には、小さな認証装置。
N-12が、端末を近づける。
ピッ。
《認証確認》
カチリ。
扉の鍵が外れた。
「……開いた」
N-13が、目を瞬かせる。
N-12は、小さく笑った。
「……よかった」
しかし。
扉を開いた瞬間。
天井の監視カメラが動いた。
《未承認入室検出》
「……っ!」
N-13が、顔を上げる。
次の瞬間。
監視映像に映る三人の位置が、不自然に乱れ始めた。
N-13の観測干渉。
人間の注意や、観測情報の一致を乱す能力。
その影響で、監視側は三人の位置を正確に把握できなくなる。
しかし、完全な透明化ではない。
「……長くは持たない」
N-13が呟いた。
九九七一号が頷く。
「ミサカが、通信回路への干渉を試みます」
指先から、微弱な電流が流れた。
監視カメラの通信に、雑音が走る。
映像が、一瞬だけ乱れた。
「……今!」
三人は、扉の内側へ飛び込んだ。
◇
午後五時十三分。
第三搬入口、内部管理室。
「……侵入された?」
黒いスーツの男が、眉をひそめた。
物流管理区画の保安責任者。
黒岩。
その前には、複数の監視モニターが並んでいる。
零司。
美琴。
そして、別経路から侵入した三人の少女。
警備員たちは、次々と制圧されていた。
だが、黒岩の表情に焦りはない。
「……予定どおりだ」
隣の警備員が、顔を上げる。
「……予定どおり、ですか?」
「ああ」
黒岩は、端末を操作した。
《搬送記録》
《対象個体:第九九七二号》
《搬出時刻:十一時四十分》
《搬送完了》
「目的は、連中をここへ引きつけることだ」
警備員の表情が変わった。
「……囮ですか」
「そうだ」
黒岩は、画面を見つめた。
久遠零司。
御坂美琴。
正面から戦って勝てる相手ではない。
ならば、勝つ必要などない。
時間を稼げばいい。
「本来の搬送は、すでに終わっている」
男は、静かに続けた。
「第九九七二号は別の施設へ移された」
そして。
「……ここには、処分して構わない資料しか残していない」
警備員が、息を呑んだ。
「……まさか」
黒岩が笑った。
「記録を消す」
端末へ、新しい命令を入力する。
《管理区画:封鎖》
《記録媒体:破棄準備》
《防災設備:強制作動》
警告灯が、赤く点灯した。
◇
午後五時十九分。
第三倉庫、内部通路。
「……何?」
N-13が、天井を見上げた。
照明が、一斉に赤く変わる。
《警告》
《管理区画封鎖》
《関係者は退避してください》
N-12が、顔を上げる。
「……まずい」
「……何が?」
「……ここ、閉じ込めるつもりかも」
その瞬間。
背後の防火シャッターが動き始めた。
ガラガラガラッ!
「……っ!」
N-13が振り返る。
出口が、閉じていく。
「……急いで!」
三人が走り出す。
しかし。
シャッターの下を潜るには、距離が足りない。
N-12が、咄嗟に壁際の操作盤へ手を伸ばした。
《非常停止》
赤いボタン。
押す。
だが、シャッターは止まらなかった。
「……っ!」
もう一度押す。
変化はない。
九九七一号が、装置へ視線を向けた。
「電子制御が無効化されています」
「……じゃあ、どうするの!?」
N-13が叫ぶ。
その直後。
天井の設備から、白い霧が噴き出し始めた。
「……っ!」
N-12が、袖で口元を覆う。
九九七一号が、周囲を確認する。
「不活性ガス消火設備が作動した可能性があります」
「……消火?」
「はい。ただし、酸素濃度の低下が発生する可能性があります」
N-13の顔色が変わった。
火災が起きていない場所で、消火設備だけが作動している。
しかも、区画は封鎖されていた。
「……逃がす気、ないんだ」
N-12が呟く。
そのとき。
倉庫の外壁から、巨大な金属音が響いた。
◇
ガギギギッ!
シャッターが、中央から大きく歪み始めた。
次の瞬間。
固定具が、音を立てて外れる。
巨大な金属板が、外側へ折れ曲がった。
ガシャンッ!
外気が、勢いよく流れ込んでくる。
「……っ!」
N-13が、顔を上げた。
そこには、久遠零司が立っていた。
「……遅くなったね」
「……零司!」
N-13が、駆け寄る。
少年は、室内を見渡した。
白い霧。
閉鎖された換気口。
そして、赤く点灯する警告灯。
「……なるほど」
零司が、小さく呟く。
その直後。
室内の空気の流れが、急激に変化した。
天井付近へ集まっていたガスが、外部へ排出されていく。
同時に、閉じていた換気口が、内部から押し開かれた。
数秒後。
N-12が、大きく息を吐いた。
「……助かった」
「どういたしまして」
零司は、軽く答えた。
そのとき。
「――久遠!」
背後から、美琴の声が響いた。
「……まだ中に人がいる!」
零司が振り返る。
美琴が、管理端末を指差していた。
《作業員所在確認》
《第四保管室:三名》
《隔離状態》
零司は、画面を見た。
「……三人?」
「そうよ!」
美琴が叫ぶ。
「記録を消すついでに、作業員まで閉じ込めてる!」
零司は、少しだけ眉をひそめた。
「……随分、雑なやり方だね」
「感想は後!」
美琴が、端末へ手を当てた。
電子回路へ干渉する。
しかし。
《非常解錠:拒否》
「……っ!」
美琴が、歯を食いしばった。
さらに調べる。
通常の電子制御とは別に、機械式の固定具が作動している。
「……なるほど」
少女の目が細くなった。
「だったら、動力を止める!」
配電盤へ電流を流す。
内部の回路が、次々と切り替わる。
ガコンッ!
シャッターの駆動音が途切れた。
美琴が振り返る。
「……久遠!」
「何?」
「動力は止めた! あとは開けて!」
「了解」
零司は、シャッターを一度見た。
次の瞬間。
金属製の固定具が、内側から音を立てて変形した。
ガギンッ!
シャッターが、ゆっくりと左右へ開いていく。
巨大な扉を、両側から引き離したかのようだった。
美琴が、目を瞬かせる。
「……ほんっと、反則ね」
零司は笑った。
「褒め言葉?」
「違うわよ!」
そのまま、美琴が走り出す。
N-12たちも後を追った。
◇
午後五時二十七分。
第四保管室。
「……いた!」
美琴が、部屋の奥へ駆け込んだ。
そこには、三人の作業員が倒れていた。
全員、意識はある。
しかし、呼吸が荒い。
「……大丈夫!?」
美琴が駆け寄る。
一人の男が、苦しげに顔を上げた。
「……た、助けてくれ……!」
「分かってる!」
美琴は、男の腕を肩へ回した。
そのとき。
背後で、金属音が響いた。
カチリ。
振り返る。
部屋の奥。
そこに、黒い戦闘服の男が立っていた。
銃口は、作業員の頭へ向けられている。
「……動くな」
低い声。
美琴の表情が険しくなる。
「……あんた」
「そこから離れろ」
男が告げる。
「さもなければ、この男を撃つ」
美琴の身体から、青白い火花が散った。
「……そんなこと」
「動くなと言った」
男の指が、引き金へ掛かる。
その瞬間。
美琴の目が細くなった。
「……遅いわよ」
パチンッ!
小さな放電音。
銃に取り付けられた照準装置が、火花を散らした。
男が目を見開く。
しかし、引き金から指は離れない。
「……っ!」
美琴は、同時に床の砂鉄を動かしていた。
黒い粒子が、男の腕へ絡みつく。
ガギンッ!
銃口が、強引に天井へ向けられた。
直後。
銃声が響いた。
パァンッ!
弾丸は天井へ突き刺さる。
美琴は、そのまま距離を詰めた。
バチンッ!
短い放電。
男が、床へ崩れ落ちた。
「……ふう」
美琴が、息を吐く。
その背後から、声がした。
「……やるね」
零司だった。
美琴が振り返る。
「……見てたなら手伝いなさいよ!」
「君なら大丈夫そうだったから」
「……ほんっと、適当ね!」
零司は、倒れた男を見た。
呼吸はある。
意識は失っているが、命に別状はなさそうだった。
「……殺さずに済ませたんだ」
その言葉に、美琴が眉をひそめる。
「……当たり前でしょ」
零司は、少しだけ笑った。
「そう?」
「殺す必要なんてないじゃない!」
美琴が、はっきりと告げた。
零司は、数秒ほど少女を見つめていた。
そして。
「……そうだね」
小さく頷いた。
「必要がなければ、ね」
その言葉に。
美琴の表情が、僅かに変わった。
◇
午後五時三十四分。
第三搬入口、管理通路。
「……あれ?」
N-12が、端末を見つめていた。
管理室から回収した搬送記録。
そこには、研究施設の管理番号と、貨物の移送先が残されている。
「……この記録」
N-13が顔を向ける。
「……何?」
N-12が、画面を指差した。
《対象個体:第九九七二号》
《搬送予定:八月十一日》
《搬出時刻:十一時四十分》
《搬送完了》
N-13の表情が変わった。
「……もう、いない?」
「……うん」
N-12は頷いた。
「……ここには、もういない」
そのとき。
零司が、後ろから声を掛けた。
「……どうしたの?」
「……九九七二号」
N-12が答える。
「……もう、別の場所へ移されたみたい」
零司は、画面を見た。
「……なるほど」
その瞬間。
通路の奥から、男の声が響いた。
「……ようやく気づきましたか」
黒いスーツ。
銀色の腕時計。
そして、冷たい表情。
保安責任者、黒岩。
零司が顔を向けた。
「……君が責任者?」
「この施設の保安管理を担当しています」
「そっか」
零司は、あっさりと頷いた。
「じゃあ、聞きたいことがあるんだけど」
黒岩が、薄く笑う。
「……何でしょう」
「九九七二号、どこに運んだの?」
黒岩は、答えなかった。
代わりに、携帯端末を取り出す。
「……教えると思いますか?」
「思わないね」
零司は、笑った。
その瞬間。
黒岩の右手から、携帯端末が滑り落ちた。
「……っ!?」
男が、驚愕の表情を浮かべる。
違う。
滑り落ちたのではない。
端末を握る指へ掛かる力が、突然変化したのだ。
さらに。
足元の床が、不自然に軋んだ。
男の身体が、壁際へ押しつけられる。
「……ぐっ!?」
四肢が動かない。
呼吸はできる。
だが、それ以外の自由は失われていた。
零司は、ゆっくりと歩み寄った。
「……ねえ」
その灰紫色の瞳が、男を見据える。
「昨日、僕のところにいた子たちを殺そうとしたのも、君の仲間?」
黒岩は、歯を食いしばった。
「……何の話だ」
「知らない?」
「……知らん!」
零司は、少しだけ考えた。
「……そう」
その瞬間。
黒岩の右腕へ、異常な負荷が掛かった。
ガキッ!
「――がああっ!?」
悲鳴が響く。
黒岩の顔が、苦痛に歪んだ。
零司は、表情を変えなかった。
「……じゃあ、もう一回聞くね」
静かな声。
「九九七二号、どこ?」
「……し、知らん!」
「本当?」
「……本当だ!」
黒岩は、荒い息を吐いた。
「……俺が管理しているのは、この物流施設だけだ!」
零司の目が細くなる。
「……なるほど」
そして。
「じゃあ、君に聞いても意味ないか」
黒岩の表情が変わった。
「……何?」
零司は、少しだけ首を傾げた。
「君、もう必要ないね」
その瞬間。
「――待ちなさい!」
美琴の声が響いた。
◇
「……何やってんのよ!」
御坂美琴が、通路へ駆け込んできた。
その視線が、黒岩へ向けられる。
壁へ押しつけられた男。
不自然に曲がった右腕。
そして、その前に立つ零司。
「……尋問?」
零司が答えた。
美琴の表情が険しくなる。
「……尋問って」
少女は、拳を握りしめた。
「……あんた、殺すつもり?」
「場合によるね」
零司は、あっさりと答えた。
その言葉に。
美琴の身体から、青白い火花が散った。
「……ふざけないで!」
零司は、少女を見た。
「何で?」
「何でって……!」
美琴は、言葉を詰まらせた。
目の前の少年は、まったく動揺していない。
人間の腕を折ったことも。
そのまま殺すかもしれないことも。
何でもないことのように話している。
「……人を殺していいわけないでしょ!」
零司は、少しだけ考えた。
そして。
「……昨日も似たようなこと言われたなぁ」
小さく呟いた。
N-13が、顔を上げる。
「……零司」
少年が振り返る。
「何?」
「……もう、いいと思う」
N-13は、黒岩を見つめていた。
「……その人、もう動けない」
零司は、少女を見た。
数秒の沈黙。
そして。
「……そっか」
あっさりと答えた。
次の瞬間。
黒岩の身体が、床へ落ちた。
「……ぐっ!」
男は、右腕を押さえてうずくまった。
美琴が、ほっと息を吐いた。
しかし。
零司は、静かに告げた。
「……じゃあ、御坂さん」
「……何よ」
「この人、任せるね」
「……え?」
「僕が続けると、殺すかもしれないから」
零司は、肩をすくめた。
「君が責任持って見張っててよ」
美琴は、少年を睨んだ。
「……言われなくても!」
そして、倒れた黒岩へ視線を向ける。
「……あんた」
その声が、低くなる。
「さっきの子たちを、どこへ運んだの?」
黒岩は、苦しげに顔を上げた。
そして。
薄く笑った。
「……もう、遅い」
美琴の表情が変わった。
「……何?」
「……お前たちが、ここで遊んでいる間に」
黒岩は、ゆっくりと続けた。
「……本当の搬送は、すべて終わっている」
その言葉に。
零司の目が、僅かに細くなった。
◇
午後五時四十二分。
第三搬入口、管理通路。
突然、警告音が鳴り響いた。
《緊急通知》
《絶対能力進化計画》
《次回実験予定変更》
《第九九七二次実験》
《開始時刻:十八時》
九九七一号が顔を上げた。
「……っ!」
N-13が尋ねる。
「……どうしたの?」
九九七一号は、しばらく黙っていた。
そして。
「……実験予定が変更されました」
その声に、僅かな緊張が混じる。
「ミサカ九九七二号の実験開始時刻が、繰り上げられています」
N-12が、目を見開いた。
「……何時に?」
「十八時です」
沈黙。
零司が、時計を見た。
午後五時四十二分。
残り十八分。
「……なるほど」
少年は、少しだけ眉を上げた。
黒岩が、低く笑った。
「……残念だったな」
そして。
「……第零位でも、すべてを救えるわけではない」
零司は、男を見た。
その表情から、笑みが消えていた。
「……場所は?」
静かな声。
黒岩は答えなかった。
「……教えても、間に合わない」
零司は、少しだけ考えた。
そして。
「……そう」
短く呟く。
その瞬間。
黒岩の身体が、僅かに浮き上がった。
「……ぐっ!?」
零司が、ゆっくりと歩み寄る。
しかし。
「――待って!」
美琴が声を上げた。
零司が振り返る。
「……何?」
「……私が、調べる!」
美琴は、管理端末へ駆け寄った。
その指先から、青白い電流が流れる。
画面が切り替わる。
《搬送記録》
《第九九七二号》
《搬送経路:変更》
《最終搬送先:非公開》
「……っ!」
美琴が、歯を食いしばった。
しかし、諦めなかった。
別の記録を開く。
貨物の管理番号。
使用された搬送車両の識別情報。
そして、経由地点の通過記録。
「……これ!」
美琴が、画面を指差した。
《搬送車両識別》
《最終通過記録》
《第十学区・旧変電区画》
N-13が、息を呑んだ。
「……第十学区?」
美琴は、即座に地図を開いた。
「……ここよ!」
零司が、画面を見る。
第十学区。
旧変電区画。
現在はほとんど使用されていない施設が並んでいる。
「……なるほど」
零司は、小さく笑った。
そして、黒岩へ視線を向ける。
「……君、運がよかったね」
黒岩の表情が変わった。
「……何?」
「御坂さんが、ちゃんと調べてくれたから」
その言葉に、美琴が顔を上げた。
「……あんた!」
「何?」
「……そんなことより、早く行くわよ!」
零司は頷いた。
「そうだね」
そして。
N-13たちへ顔を向ける。
「……君たちは、ここから離れて」
N-13が目を見開く。
「……え?」
「次に狙われる可能性があるからね」
N-12が口を開いた。
「……でも」
「大丈夫」
零司は、軽く笑った。
「今回は、二人で行くから」
その視線が、美琴へ向けられる。
美琴は、強く頷いた。
「……当然よ!」
零司は、少しだけ笑った。
「……じゃあ、急ごうか」
美琴が端末を閉じる。
「……残り十八分」
その声には、迷いがなかった。
「絶対に、間に合わせる!」
零司は、少女を見た。
「……いいね」
そして、歩き始める。
学園都市第三位。
御坂美琴。
そして。
非公式の第零位。
久遠零司。
二人が、同じ目的のために動き始めた。
◇
同時刻。
第十学区、旧変電区画。
一人の少女が、暗い実験室へ連れてこられていた。
茶色い髪。
白いブラウス。
灰色のプリーツスカート。
ミサカ九九七二号。
少女は、周囲を見渡した。
「……実験開始時刻の変更を確認しました」
研究員が、端末を操作する。
「予定どおりだ。配置につけ」
「了解しました」
少女は、静かに頷いた。
そして。
ふと、顔を上げた。
ミサカネットワーク。
そこには、昨日まで存在しなかった情報が共有されている。
甘い飲み物。
研究施設の外。
そして、自分と同じ顔をした別の個体が、まだ生きているという記録。
「……質問があります」
研究員が振り返る。
「何だ」
「……実験終了後、飲料を購入することは可能でしょうか」
男は、眉をひそめた。
「……何を言っている」
「ミサカ九九七一号の観測記録に、飲料の嗜好に関する情報があります」
少女は、静かに続けた。
「ミサカも、その情報を確認したいと考えています」
研究員は、呆れたように息を吐いた。
「……そんなことは、どうでもいい」
そして。
「お前は、今日の実験で死ぬんだ」
少女は、何も答えなかった。
ただ。
その手が、僅かに握りしめられた。
研究員は、すでに次の作業へ移っていた。
だが。
ミサカ九九七二号は、もう一度だけ呟いた。
「……どうでも、いい」
その言葉を、ゆっくりと繰り返す。
そして。
「……本当に、そうなのでしょうか」
誰にも聞こえないほど、小さな声だった。
壁面の時計が、静かに時を刻んでいる。
午後五時四十四分。
実験開始まで、あと十六分。
その扉の向こうに、学園都市第一位が現れるまで。
もう、時間は残されていなかった。