とある学園都市の第零位《ゼロナンバー》   作:右左右左右

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第3話 逃げ出した少女

 地下管理室の照明が、不規則に明滅していた。

 

 古びた蛍光灯から火花が散り、壁に設置された監視端末の画面が一斉に乱れる。

 

 耳障りな電子音。

 

 足元を伝わる微かな振動。

 

 それらを前にして、久遠零司は笑っていた。

 

「へえ……」

 

 目の前には、一人の少女。

 

 白い患者衣を身に纏い、裸足のまま壁際に立っている。

 

 顔色は悪い。

 

 呼吸も荒い。

 

 長時間の逃走によって、身体が限界に近づいていることは明らかだった。

 

 それでも少女の瞳には、強い敵意が宿っていた。

 

「……来ないで」

 

「ん?」

 

「それ以上、近づかないで……!」

 

 震える声。

 

 しかし、その言葉に呼応するように、周囲の異常はさらに激しさを増していく。

 

 照明が消えた。

 

 闇が管理室を覆う。

 

 そして――。

 

 音が、消失した。

 

「…………」

 

 零司は目を瞬かせた。

 

 換気設備の駆動音。

 

 遠くを流れる排水の音。

 

 少女の荒い呼吸。

 

 それらが、何の前触れもなく途絶えている。

 

 単なる停電ではない。

 

 音が発生していないわけでもない。

 

 音を伝える空気が存在しなくなったわけでもない。

 

 現象は起きている。

 

 それなのに、その結果が観測できない。

 

 零司はゆっくりと片手を持ち上げた。

 

 指先を鳴らす。

 

 しかし、音は聞こえなかった。

 

 指が接触した感触はある。

 

 空気が振動していることも分かる。

 

 にもかかわらず、その振動は耳へ届かない。

 

(……なるほど)

 

 零司の表情が変わった。

 

 先ほどまでの退屈そうな雰囲気が薄れ、代わりに純粋な好奇心が浮かび上がる。

 

(音そのものを消してるわけじゃない。伝わる途中の何かを……)

 

 そこで思考を止めた。

 

 今は分析するよりも、目の前の少女が次に何をするのかを見たい。

 

 そんな気分だった。

 

 零司が少女へ視線を戻す。

 

 すると、そこにはもう誰もいなかった。

 

「……あれ?」

 

 声は出た。

 

 だが、やはり聞こえない。

 

 つい先ほどまで少女が立っていた場所。

 

 そこには、白い壁と古びた配管だけが残されている。

 

 零司はゆっくりと周囲を見回した。

 

 少女の姿はない。

 

 足音も聞こえない。

 

 気配すら、先ほどよりずっと曖昧になっている。

 

 しかし。

 

(ああ、そっちか)

 

 零司は天井を見上げた。

 

 古い管理室。

 

 崩れかけた天井板。

 

 その奥に存在する、設備点検用の狭い空間。

 

 空調設備を通じて建物全体へ繋がる保守通路。

 

 どうやら、そこへ逃げ込んだらしい。

 

(でも、さっきまであんな場所に入口あったっけ?)

 

 零司は小さく首を傾げた。

 

 管理室へ入ったとき、天井には注意を払っていなかった。

 

 それでも、少女が短時間であの高さまで移動できたことには違和感がある。

 

 身体能力を強化する能力なのか。

 

 それとも、別の何かなのか。

 

 考えられる可能性はいくつもあった。

 

「……ふふ」

 

 やがて音が戻ってきた。

 

 換気設備の駆動音が、再び地下通路に響き始める。

 

 零司は楽しそうに笑った。

 

「いいじゃん」

 

 久しぶりだった。

 

 相手が何をしたのか、すぐには分からなかったのは。

 

     ◇

 

「はっ……はっ……!」

 

 少女は狭い保守通路を這うように進んでいた。

 

 身体が重い。

 

 指先の感覚が鈍い。

 

 視界の端が、何度も黒く染まる。

 

 それでも止まるわけにはいかなかった。

 

(逃げなきゃ……!)

 

 背後を振り返る。

 

 誰も追ってこない。

 

 だが、それがかえって恐ろしかった。

 

 あの少年。

 

 久遠零司。

 

 自分を捕まえるために来たという、学生服姿の少年。

 

 彼は普通ではなかった。

 

 いや、普通ではないという言葉では足りない。

 

 管理室で彼と向き合った瞬間、少女は奇妙な感覚に襲われていた。

 

 自分が何かを仕掛けようとした、その瞬間。

 

 すでに見透かされているような。

 

 どれほど抵抗しても、簡単に押さえ込まれてしまうような。

 

 そんな、底知れない感覚。

 

「……っ」

 

 少女は唇を噛んだ。

 

 思い出してはいけない。

 

 余計なことを考えている余裕はない。

 

 今は、とにかく逃げなければ。

 

 白い施設へ戻されるくらいなら。

 

 あの冷たいベッドに、もう一度固定されるくらいなら。

 

 どんな危険を冒してでも、外へ出る。

 

 そう決めたのだから。

 

 少女は胸元に隠していた小さな端末を取り出した。

 

 画面には、相変わらず同じ文章が表示されている。

 

『外へ出ろ』

 

『必ず迎えに行く』

 

 送り主は不明。

 

 通信記録から接続先を調べようとしても、必要な情報は何も残っていなかった。

 

 それでも。

 

「……信じるしか、ない」

 

 少女は端末を握りしめた。

 

 外へ出れば、誰かが迎えに来る。

 

 その言葉を信じて、ここまで逃げてきた。

 

 いまさら引き返すことなど、できるはずがなかった。

 

     ◇

 

「……で、何してるの?」

 

「ひっ!?」

 

 突然、声がした。

 

 少女は反射的に顔を上げる。

 

 狭い保守通路の少し先。

 

 そこに、先ほどの少年がいた。

 

 片膝を立てて座り、実に退屈そうな顔をしている。

 

「遅かったね」

 

「な、なんで……!」

 

「いや、出口がこっちだったから」

 

 零司は当然のように答えた。

 

「先回りした方が楽かなって」

 

「……っ!」

 

 少女は後ずさろうとした。

 

 だが、背後は狭い通路。

 

 方向を変える余裕などない。

 

 零司はそんな様子を眺めながら、首を傾げる。

 

「ねえ、一つ聞いていい?」

 

「……何」

 

「さっきの、どうやったの?」

 

 少女は答えなかった。

 

「音が消えて、姿も見えなくなったよね。あれって、君の能力?」

 

「…………」

 

「教えてくれない?」

 

「……嫌」

 

「そっか」

 

 零司はあっさりと引き下がった。

 

 その反応が予想外だったのか、少女が目を瞬かせる。

 

「……それだけ?」

 

「ん?」

 

「……無理やり、聞かないの?」

 

「どうして?」

 

 今度は零司が不思議そうな顔をした。

 

「教えたくないなら、別にいいんじゃない?」

 

「…………」

 

「まあ、気にはなるけどね」

 

 少年は小さく笑った。

 

 少女には理解できなかった。

 

 この少年は、自分を捕まえに来た人間のはずだ。

 

 研究施設の関係者に雇われ、逃亡した実験体を連れ戻すために現れた。

 

 それなのに。

 

 どうして、こんなに普通に話しかけてくるのだろう。

 

「……あなた」

 

「ん?」

 

「……研究所の人、なんでしょ?」

 

「違うよ」

 

「……嘘」

 

「いや、本当に」

 

 零司は肩をすくめた。

 

「僕はただの雇われ。君を捕まえたら報酬をもらえるってだけ」

 

「……だったら」

 

 少女の声が震える。

 

「どうして、そんな仕事を引き受けたの……?」

 

「面白そうだったから」

 

 即答だった。

 

「…………え?」

 

「だから、面白そうだったから」

 

 零司は何でもないことのように繰り返した。

 

「逃げた女の子を捕まえるだけなのに、わざわざ武装した人たちまで用意してるんだよ? 何かあるのかなって思うじゃん」

 

 少女の表情が強張る。

 

 零司は、それに気づいても言葉を止めなかった。

 

「それに、君って普通の能力者じゃないんでしょ?」

 

「……っ」

 

「さっきのも、結構変わってたし」

 

 少年は楽しそうに笑う。

 

「引き受けて正解だったかな」

 

 少女は、目の前の存在が理解できなくなっていた。

 

 研究者たちは、いつも言っていた。

 

 実験には意味がある。

 

 研究には価値がある。

 

 犠牲は必要なものだ。

 

 そうやって、自分たちの行動を正当化していた。

 

 だが、この少年は違う。

 

 大義名分など、最初から持っていない。

 

 ただ、面白そうだから。

 

 その理由だけで、自分を捕まえに来たという。

 

「……最低」

 

 少女が呟いた。

 

「ん?」

 

「あなた……最低」

 

 零司は一瞬だけ目を丸くした。

 

 そして。

 

「あはは」

 

 楽しそうに笑った。

 

「よく言われる」

 

「……っ!」

 

「でも、そういうのって人によると思わない?」

 

 零司は少女を見つめた。

 

「君にとっては最低でも、依頼した人にとっては便利な人間かもしれないし」

 

「……そんなの」

 

「うん?」

 

「そんなの、関係ない……!」

 

 少女が声を荒げた。

 

「わたしは……戻りたくない!」

 

 その瞬間。

 

 空間が揺らいだ。

 

 零司の目の前で、少女の輪郭がぼやける。

 

 まるで、映像から特定の部分だけを切り取ったかのように。

 

「……へえ」

 

 零司の瞳が細くなった。

 

 再び音が遠ざかる。

 

 今度は先ほどよりも、さらに不自然な現象だった。

 

 視界の中に少女はいる。

 

 確かに、そこに立っている。

 

 それなのに。

 

 次の瞬間には、彼女がどこにいたのかを把握しづらくなる。

 

 直接見ているはずの光景に、欠落が生じていた。

 

(……視覚だけじゃないな)

 

 零司は、自身の周囲で生じる現象を確かめた。

 

 光の伝播。

 

 空気の振動。

 

 物体の移動によって生まれる圧力の変化。

 

 それぞれは、確かに存在している。

 

 しかし、ある一点に関係する情報だけが、不自然に途切れていた。

 

(観測されるまでの過程に、何かしてる?)

 

 仮説の段階に過ぎない。

 

 だが、少なくとも単純な光学迷彩ではなさそうだった。

 

 零司は口元を緩める。

 

 そして、右手を軽く持ち上げた。

 

「さて」

 

 次の瞬間。

 

 周囲の空気が変化した。

 

 少女の能力によって生じていた異常が、わずかに押し返される。

 

 零司は現象そのものを消し去ったわけではない。

 

 ただ、情報が伝わるための物理条件を一部修正した。

 

 途切れていた光の経路。

 

 届かなくなっていた振動。

 

 それらが、再び本来の振る舞いへ近づいていく。

 

「……あ」

 

 少女の姿が、はっきりと見えた。

 

 彼女は驚愕していた。

 

「な……なんで……?」

 

「ん?」

 

「どうして……見えるの……?」

 

「見えるようにしたから?」

 

 零司は首を傾げた。

 

 少女は言葉を失った。

 

 能力が破られた。

 

 それも、彼女自身には何をされたのか分からないまま。

 

「……あなた、何者なの?」

 

「さっき言ったじゃん」

 

 零司は微笑んだ。

 

「久遠零司。普通の高校生だよ」

 

「……普通の人が、そんなことできるわけない……!」

 

「あはは。確かに」

 

 その言葉に反論することなく、零司は頷いた。

 

「でもさ、君だって普通じゃないでしょ?」

 

「…………」

 

「だから、あんまり気にしなくていいんじゃない?」

 

 少年は立ち上がった。

 

 狭い通路の中、ゆっくりと少女へ近づいていく。

 

「さて、と」

 

 零司は片手を伸ばした。

 

「そろそろ行こっか」

 

「……嫌」

 

「だよねぇ」

 

「……絶対、戻らない」

 

「うん。聞いた」

 

 零司は穏やかに答えた。

 

「でも、僕は君を連れ戻す仕事を引き受けちゃったからさ」

 

 少女の瞳に、絶望の色が浮かぶ。

 

「……お願い」

 

 小さな声。

 

「戻りたく、ない……」

 

 零司は答えなかった。

 

 そのまま、少女を見つめる。

 

「……戻されたら」

 

 少女は震える唇を動かした。

 

「また、あの部屋に……」

 

「うん」

 

「また……何度も……」

 

 そこで言葉が途切れた。

 

 少女の身体が、小刻みに震えている。

 

 零司は、その様子を静かに眺めていた。

 

 別に、何も感じないわけではない。

 

 彼女がどれほど追い詰められているのかも理解できる。

 

 研究施設で何が行われていたのか。

 

 詳しい内容までは知らなくとも、まともな扱いを受けていなかったことくらい想像できた。

 

 だが。

 

 それと、自分が彼女を助けるかどうかは別の話だった。

 

「……ねえ」

 

 零司が口を開く。

 

「一つ、聞いていい?」

 

 少女は顔を上げた。

 

「君は、どうして逃げたの?」

 

「……え?」

 

「いや、嫌だったからっていうのは分かるよ」

 

 零司は続けた。

 

「でも、君の能力なら、もっと前から逃げられたんじゃない?」

 

「…………」

 

「それとも、最近になって使えるようになった?」

 

 少女は答えなかった。

 

 だが、その表情がわずかに変わった。

 

 零司は見逃さない。

 

「……何かあったんだ」

 

 その言葉に。

 

 少女の肩が、小さく跳ねた。

 

     ◇

 

 白い部屋。

 

 消毒液の匂い。

 

 天井に並ぶ照明。

 

 拘束具に固定された手足。

 

 少女は、その光景を思い出していた。

 

『被験体N-13。次の検証へ移行する』

 

 白衣の男。

 

 無機質な声。

 

『観測干渉の発現条件は依然として不明。刺激強度を上げる』

 

 腕に刺さる針。

 

 身体を走る痛み。

 

 何度も繰り返される実験。

 

 そのたびに、研究者たちは何かを記録していた。

 

 数値。

 

 反応。

 

 成功。

 

 失敗。

 

 少女の苦痛など、そこには存在していなかった。

 

 そして、ある日。

 

 隣の実験室から、一人の少女が連れて行かれた。

 

 自分よりも、少し年上の少女。

 

 時折、廊下ですれ違うことがあった。

 

 名前は知らない。

 

 互いに言葉を交わすことも、ほとんどなかった。

 

 ただ一度だけ。

 

 その少女は、自分に笑いかけてくれたことがある。

 

『大丈夫』

 

 たった一言。

 

 それだけだった。

 

 翌日。

 

 その少女の姿は、どこにもなかった。

 

『あの子は……?』

 

 研究者に尋ねた。

 

 返ってきたのは、事務的な答えだった。

 

『研究対象としての有用性が失われた』

 

 それだけ。

 

 少女は二度と戻ってこなかった。

 

 そして、自分の実験記録にも。

 

《継続価値の再評価》

 

 そんな言葉が記されていた。

 

 意味は、十分に理解できた。

 

 ここにいてはいけない。

 

 次は、自分かもしれない。

 

 そう思った。

 

 その日の夜。

 

 端末に、一通のメッセージが届いた。

 

『外へ出ろ』

 

『必ず迎えに行く』

 

 誰が送ってきたのかは分からない。

 

 罠かもしれない。

 

 研究者による新しい実験かもしれない。

 

 それでも。

 

 少女は、逃げることを選んだ。

 

     ◇

 

「……死にたく、なかったから」

 

 少女が呟いた。

 

 零司は黙って聞いていた。

 

「……あそこにいたら、いつか……」

 

 少女は言葉を詰まらせた。

 

「……いなくなるから」

 

「いなくなる?」

 

「……実験が、終わったら」

 

 零司の目が、わずかに細くなる。

 

「……なるほどね」

 

 それ以上は聞かなかった。

 

 少女が言いたくないのであれば、今はそれでいい。

 

 だが、一つだけ確認したいことがあった。

 

「それで、逃げた後はどうするつもりだったの?」

 

「……え?」

 

「研究所から出て、その後」

 

 零司は首を傾げた。

 

「行くところ、あるの?」

 

 少女は答えに詰まった。

 

 それから、小さく頷いた。

 

「……迎えに、来てくれるから」

 

「誰が?」

 

「……分からない」

 

「……え?」

 

 今度は零司が間の抜けた声を漏らした。

 

「分からないの?」

 

「……うん」

 

「知らない人が迎えに来るって言ってるの?」

 

 少女は頷いた。

 

 零司はしばらく沈黙した。

 

 そして。

 

「……それ、大丈夫?」

 

 珍しく、本気で困惑したような声だった。

 

「君を捕まえようとしてる人たちの罠かもしれないよ?」

 

「……分かってる」

 

「分かってるんだ」

 

「……でも」

 

 少女は零司を睨みつけた。

 

「……ここにいるより、ずっといい」

 

 その言葉に。

 

 零司は、ふと笑った。

 

「そっか」

 

 納得したように頷く。

 

「なら、いいんじゃない?」

 

「……え?」

 

「自分で決めたんでしょ?」

 

 少年は肩をすくめた。

 

「だったら、僕がどうこう言うことじゃないし」

 

 少女には、やはり理解できなかった。

 

 この少年は、自分を連れ戻すために来たはずだ。

 

 なのに、逃げるという選択そのものは否定しない。

 

 まるで、結果がどうなろうと構わないとでもいうように。

 

「……だったら」

 

 少女は恐る恐る尋ねた。

 

「……逃がして、くれるの?」

 

「んー」

 

 零司は少し考えた。

 

「それは別かな」

 

 少女の表情が凍りつく。

 

「……どうして……」

 

「だって、仕事だし」

 

 あっさりとした返答だった。

 

 零司は少女を見つめる。

 

「君が逃げたいのは君の自由。でも、僕が捕まえたいのも僕の自由でしょ?」

 

「……そんなの、ずるい……!」

 

「そう?」

 

「……あなたは、強いから……!」

 

 少女は拳を握りしめた。

 

「……何でも、できるから……!」

 

 零司は一瞬だけ黙った。

 

 そして、少し笑う。

 

「何でも、ねえ」

 

 別に否定するほどのことでもない。

 

 少なくとも、今この場で少女を捕まえることなど簡単だった。

 

 空気を固定する。

 

 床の性質を変える。

 

 身体を動かすために必要な物理条件へ干渉する。

 

 どの方法でも構わない。

 

 少女が抵抗する余地など、ほとんど残らないだろう。

 

 だが。

 

「……じゃあさ」

 

 零司は、ふと思いついたように言った。

 

「ちょっと遊んでみる?」

 

「……遊ぶ?」

 

「うん」

 

 少年は楽しそうに笑った。

 

「君がここから逃げられたら、どうするか考え直してあげる」

 

 少女は目を見開いた。

 

「……本当に?」

 

「さあ?」

 

「……え?」

 

「逃げられたら、だよ。まだ何も決めてない」

 

 零司は悪びれる様子もない。

 

「でも、今ここで捕まるよりはいいでしょ?」

 

 少女は唇を噛んだ。

 

 ふざけている。

 

 この少年にとって、自分の命は遊びの道具でしかない。

 

 そう理解した。

 

 それでも。

 

「……分かった」

 

 少女は小さく頷いた。

 

「……絶対に、逃げてみせる」

 

「うん」

 

 零司は満足そうに笑う。

 

「期待してるよ」

 

 そして、狭い保守通路の壁へ背中を預けた。

 

「三分」

 

「……え?」

 

「三分だけ、先に行っていいよ」

 

 少年は指を三本立てた。

 

「その間、僕はここから動かない」

 

「……本当に?」

 

「うん。約束」

 

 少女は、しばらく零司を見つめていた。

 

 信用できる相手ではない。

 

 むしろ、信用してはいけない相手だ。

 

 しかし、ここで立ち止まっていても状況は変わらない。

 

 少女は踵を返した。

 

 そして、狭い保守通路を這うように進み始める。

 

 その背中を見送りながら、零司は携帯端末を取り出した。

 

「さて、と」

 

 画面を操作し、時間を確認する。

 

 三分。

 

 たったそれだけの猶予。

 

 普通であれば、ほとんど意味のない時間だろう。

 

 しかし。

 

「あの子、結構面白い能力持ってるしね」

 

 零司は小さく笑った。

 

「どうなるかな」

 

 少年の顔には、少女を逃がす罪悪感も、依頼人を裏切ることへの躊躇いもなかった。

 

 ただ、自分の興味に従っているだけ。

 

 それが、久遠零司という人間だった。

 

     ◇

 

『久遠!』

 

 通信機から桐島の声が響いた。

 

『対象は発見したのか!?』

 

「うん。見つけたよ」

 

『何だと!? なら、現在位置を――』

 

「でも、まだ捕まえてない」

 

『……は?』

 

「ちょっと追いかけっこしてるところ」

 

 沈黙。

 

 次いで。

 

『ふざけるな!!』

 

 怒声が響いた。

 

 零司は思わず通信機を耳から離す。

 

「うわ、声大きいなぁ」

 

『対象を発見したなら直ちに確保しろ! こちらには時間がないんだ!』

 

「時間?」

 

 零司は首を傾げた。

 

「どうして?」

 

『……っ』

 

 桐島が言葉を詰まらせる。

 

 零司は、わずかに目を細めた。

 

「何か隠してる?」

 

『……それは』

 

「んー?」

 

 数秒の沈黙。

 

 やがて、桐島が低い声で告げた。

 

『別の組織が、対象の処分に動いている』

 

 零司の指が止まった。

 

「……処分?」

 

『ああ。回収ではない。殺害だ』

 

「へえ」

 

『丹羽主任の研究を快く思っていない連中がいるらしい。対象を生かしておくこと自体が問題だと判断したようだ』

 

 零司は壁にもたれたまま、天井を見上げた。

 

「なるほどね」

 

『分かったなら、すぐに対象を確保しろ! こちらで保護する!』

 

「……保護、ねえ」

 

 零司は小さく笑った。

 

「研究所に戻すのに?」

 

『今はそんなことを言っている場合じゃない!』

 

「まあ、そうだね」

 

 少年は通信を切った。

 

 画面に表示された時刻。

 

 三分の猶予が終わるまで、残り一分少々。

 

「……ふうん」

 

 零司は呟いた。

 

 少女を捕まえようとしているのは、自分たちだけではない。

 

 しかも、別の連中は殺すつもりだという。

 

 そうなると。

 

「……ちょっと、つまんないな」

 

 零司は小さくため息をついた。

 

 せっかく、面白い相手を見つけたのだ。

 

 まだ能力の正体も分かっていない。

 

 逃亡の経緯にも、いくつか気になる点が残っている。

 

 それなのに。

 

 横から現れた誰かに、勝手に殺されてしまうのは面白くない。

 

「……まあ、いいか」

 

 少年は携帯端末を閉じた。

 

 残り時間は、まだ少しある。

 

 約束は守る。

 

 そう決めていた。

 

 しかし、それは少女の命を狙う連中まで放置するという意味ではない。

 

「さて……」

 

 零司はゆっくりと立ち上がった。

 

 その目に、先ほどまでとは違う光が宿る。

 

「誰だか知らないけど」

 

 少年は笑った。

 

「僕の遊びの邪魔、しないでほしいなぁ」

 

 次の瞬間。

 

 地下通路の空気が、微かに震えた。

 

 それは、誰にも気づかれないほど小さな変化だった。

 

 しかし、零司がその気になれば。

 

 この地下施設を支配する物理現象の大部分は、彼の意思一つで変更できる。

 

 監視装置。

 

 通信機器。

 

 武器。

 

 そして、人間の身体を動かすために必要な条件さえも。

 

 すべてが、彼の干渉対象だった。

 

「……あ」

 

 零司が思い出したように呟いた。

 

「そういえば、あの子の名前、聞いてなかったな」

 

 少しだけ考える。

 

 そして、笑った。

 

「まあ、次に会ったときでいいか」

 

 少年は歩き始めた。

 

 少女が逃げた方向とは、異なる通路へ。

 

 彼女を追うのは、約束した時間が過ぎてからでいい。

 

 だが、その前に。

 

 余計な邪魔者を片づけておくことにした。

 

     ◇

 

 地下施設の別区画。

 

 武装した男が、携帯端末を確認していた。

 

『目標の位置を確認』

 

『生存状態での回収は不要』

 

『処理後、証拠を完全に抹消せよ』

 

 男は短く応答する。

 

「了解」

 

 通信を切り、周囲の部下へ視線を向けた。

 

「対象は保守通路から西側へ移動している。先回りするぞ」

 

「了解」

 

「ただし、接触した場合は即座に射殺しろ。能力を使わせるな」

 

 男たちが一斉に頷いた。

 

 そのとき。

 

「……へえ」

 

 背後から声がした。

 

「やっぱり、君たちだったんだ」

 

 男たちが振り返る。

 

 通路の中央。

 

 そこには、一人の少年が立っていた。

 

 黒髪に銀色の混じった、学生服姿の少年。

 

 その顔には、どこか楽しそうな笑みが浮かんでいる。

 

「……誰だ!」

 

 男が銃を構えた。

 

 少年は気にした様子もなく、片手を上げる。

 

「こんばんは」

 

 そして、笑顔のまま告げた。

 

「ちょっと、お話ししようか」

 

 男たちは知らなかった。

 

 自分たちが今、誰を敵に回したのかを。

 

 ましてや、その少年が。

 

 たった今、自分たちの仕事を邪魔する気になったことなど。

 

 知る由もなかった。

 

 ――第零位。

 

 その気まぐれは、時として誰かを救い。

 

 時として、誰かの運命を容赦なく踏みにじる。

 

 そして今夜。

 

 少年の気分は、ほんの少しだけ。

 

 少女に味方する方向へ傾き始めていた。

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