地下管理室の照明が、不規則に明滅していた。
古びた蛍光灯から火花が散り、壁に設置された監視端末の画面が一斉に乱れる。
耳障りな電子音。
足元を伝わる微かな振動。
それらを前にして、久遠零司は笑っていた。
「へえ……」
目の前には、一人の少女。
白い患者衣を身に纏い、裸足のまま壁際に立っている。
顔色は悪い。
呼吸も荒い。
長時間の逃走によって、身体が限界に近づいていることは明らかだった。
それでも少女の瞳には、強い敵意が宿っていた。
「……来ないで」
「ん?」
「それ以上、近づかないで……!」
震える声。
しかし、その言葉に呼応するように、周囲の異常はさらに激しさを増していく。
照明が消えた。
闇が管理室を覆う。
そして――。
音が、消失した。
「…………」
零司は目を瞬かせた。
換気設備の駆動音。
遠くを流れる排水の音。
少女の荒い呼吸。
それらが、何の前触れもなく途絶えている。
単なる停電ではない。
音が発生していないわけでもない。
音を伝える空気が存在しなくなったわけでもない。
現象は起きている。
それなのに、その結果が観測できない。
零司はゆっくりと片手を持ち上げた。
指先を鳴らす。
しかし、音は聞こえなかった。
指が接触した感触はある。
空気が振動していることも分かる。
にもかかわらず、その振動は耳へ届かない。
(……なるほど)
零司の表情が変わった。
先ほどまでの退屈そうな雰囲気が薄れ、代わりに純粋な好奇心が浮かび上がる。
(音そのものを消してるわけじゃない。伝わる途中の何かを……)
そこで思考を止めた。
今は分析するよりも、目の前の少女が次に何をするのかを見たい。
そんな気分だった。
零司が少女へ視線を戻す。
すると、そこにはもう誰もいなかった。
「……あれ?」
声は出た。
だが、やはり聞こえない。
つい先ほどまで少女が立っていた場所。
そこには、白い壁と古びた配管だけが残されている。
零司はゆっくりと周囲を見回した。
少女の姿はない。
足音も聞こえない。
気配すら、先ほどよりずっと曖昧になっている。
しかし。
(ああ、そっちか)
零司は天井を見上げた。
古い管理室。
崩れかけた天井板。
その奥に存在する、設備点検用の狭い空間。
空調設備を通じて建物全体へ繋がる保守通路。
どうやら、そこへ逃げ込んだらしい。
(でも、さっきまであんな場所に入口あったっけ?)
零司は小さく首を傾げた。
管理室へ入ったとき、天井には注意を払っていなかった。
それでも、少女が短時間であの高さまで移動できたことには違和感がある。
身体能力を強化する能力なのか。
それとも、別の何かなのか。
考えられる可能性はいくつもあった。
「……ふふ」
やがて音が戻ってきた。
換気設備の駆動音が、再び地下通路に響き始める。
零司は楽しそうに笑った。
「いいじゃん」
久しぶりだった。
相手が何をしたのか、すぐには分からなかったのは。
◇
「はっ……はっ……!」
少女は狭い保守通路を這うように進んでいた。
身体が重い。
指先の感覚が鈍い。
視界の端が、何度も黒く染まる。
それでも止まるわけにはいかなかった。
(逃げなきゃ……!)
背後を振り返る。
誰も追ってこない。
だが、それがかえって恐ろしかった。
あの少年。
久遠零司。
自分を捕まえるために来たという、学生服姿の少年。
彼は普通ではなかった。
いや、普通ではないという言葉では足りない。
管理室で彼と向き合った瞬間、少女は奇妙な感覚に襲われていた。
自分が何かを仕掛けようとした、その瞬間。
すでに見透かされているような。
どれほど抵抗しても、簡単に押さえ込まれてしまうような。
そんな、底知れない感覚。
「……っ」
少女は唇を噛んだ。
思い出してはいけない。
余計なことを考えている余裕はない。
今は、とにかく逃げなければ。
白い施設へ戻されるくらいなら。
あの冷たいベッドに、もう一度固定されるくらいなら。
どんな危険を冒してでも、外へ出る。
そう決めたのだから。
少女は胸元に隠していた小さな端末を取り出した。
画面には、相変わらず同じ文章が表示されている。
『外へ出ろ』
『必ず迎えに行く』
送り主は不明。
通信記録から接続先を調べようとしても、必要な情報は何も残っていなかった。
それでも。
「……信じるしか、ない」
少女は端末を握りしめた。
外へ出れば、誰かが迎えに来る。
その言葉を信じて、ここまで逃げてきた。
いまさら引き返すことなど、できるはずがなかった。
◇
「……で、何してるの?」
「ひっ!?」
突然、声がした。
少女は反射的に顔を上げる。
狭い保守通路の少し先。
そこに、先ほどの少年がいた。
片膝を立てて座り、実に退屈そうな顔をしている。
「遅かったね」
「な、なんで……!」
「いや、出口がこっちだったから」
零司は当然のように答えた。
「先回りした方が楽かなって」
「……っ!」
少女は後ずさろうとした。
だが、背後は狭い通路。
方向を変える余裕などない。
零司はそんな様子を眺めながら、首を傾げる。
「ねえ、一つ聞いていい?」
「……何」
「さっきの、どうやったの?」
少女は答えなかった。
「音が消えて、姿も見えなくなったよね。あれって、君の能力?」
「…………」
「教えてくれない?」
「……嫌」
「そっか」
零司はあっさりと引き下がった。
その反応が予想外だったのか、少女が目を瞬かせる。
「……それだけ?」
「ん?」
「……無理やり、聞かないの?」
「どうして?」
今度は零司が不思議そうな顔をした。
「教えたくないなら、別にいいんじゃない?」
「…………」
「まあ、気にはなるけどね」
少年は小さく笑った。
少女には理解できなかった。
この少年は、自分を捕まえに来た人間のはずだ。
研究施設の関係者に雇われ、逃亡した実験体を連れ戻すために現れた。
それなのに。
どうして、こんなに普通に話しかけてくるのだろう。
「……あなた」
「ん?」
「……研究所の人、なんでしょ?」
「違うよ」
「……嘘」
「いや、本当に」
零司は肩をすくめた。
「僕はただの雇われ。君を捕まえたら報酬をもらえるってだけ」
「……だったら」
少女の声が震える。
「どうして、そんな仕事を引き受けたの……?」
「面白そうだったから」
即答だった。
「…………え?」
「だから、面白そうだったから」
零司は何でもないことのように繰り返した。
「逃げた女の子を捕まえるだけなのに、わざわざ武装した人たちまで用意してるんだよ? 何かあるのかなって思うじゃん」
少女の表情が強張る。
零司は、それに気づいても言葉を止めなかった。
「それに、君って普通の能力者じゃないんでしょ?」
「……っ」
「さっきのも、結構変わってたし」
少年は楽しそうに笑う。
「引き受けて正解だったかな」
少女は、目の前の存在が理解できなくなっていた。
研究者たちは、いつも言っていた。
実験には意味がある。
研究には価値がある。
犠牲は必要なものだ。
そうやって、自分たちの行動を正当化していた。
だが、この少年は違う。
大義名分など、最初から持っていない。
ただ、面白そうだから。
その理由だけで、自分を捕まえに来たという。
「……最低」
少女が呟いた。
「ん?」
「あなた……最低」
零司は一瞬だけ目を丸くした。
そして。
「あはは」
楽しそうに笑った。
「よく言われる」
「……っ!」
「でも、そういうのって人によると思わない?」
零司は少女を見つめた。
「君にとっては最低でも、依頼した人にとっては便利な人間かもしれないし」
「……そんなの」
「うん?」
「そんなの、関係ない……!」
少女が声を荒げた。
「わたしは……戻りたくない!」
その瞬間。
空間が揺らいだ。
零司の目の前で、少女の輪郭がぼやける。
まるで、映像から特定の部分だけを切り取ったかのように。
「……へえ」
零司の瞳が細くなった。
再び音が遠ざかる。
今度は先ほどよりも、さらに不自然な現象だった。
視界の中に少女はいる。
確かに、そこに立っている。
それなのに。
次の瞬間には、彼女がどこにいたのかを把握しづらくなる。
直接見ているはずの光景に、欠落が生じていた。
(……視覚だけじゃないな)
零司は、自身の周囲で生じる現象を確かめた。
光の伝播。
空気の振動。
物体の移動によって生まれる圧力の変化。
それぞれは、確かに存在している。
しかし、ある一点に関係する情報だけが、不自然に途切れていた。
(観測されるまでの過程に、何かしてる?)
仮説の段階に過ぎない。
だが、少なくとも単純な光学迷彩ではなさそうだった。
零司は口元を緩める。
そして、右手を軽く持ち上げた。
「さて」
次の瞬間。
周囲の空気が変化した。
少女の能力によって生じていた異常が、わずかに押し返される。
零司は現象そのものを消し去ったわけではない。
ただ、情報が伝わるための物理条件を一部修正した。
途切れていた光の経路。
届かなくなっていた振動。
それらが、再び本来の振る舞いへ近づいていく。
「……あ」
少女の姿が、はっきりと見えた。
彼女は驚愕していた。
「な……なんで……?」
「ん?」
「どうして……見えるの……?」
「見えるようにしたから?」
零司は首を傾げた。
少女は言葉を失った。
能力が破られた。
それも、彼女自身には何をされたのか分からないまま。
「……あなた、何者なの?」
「さっき言ったじゃん」
零司は微笑んだ。
「久遠零司。普通の高校生だよ」
「……普通の人が、そんなことできるわけない……!」
「あはは。確かに」
その言葉に反論することなく、零司は頷いた。
「でもさ、君だって普通じゃないでしょ?」
「…………」
「だから、あんまり気にしなくていいんじゃない?」
少年は立ち上がった。
狭い通路の中、ゆっくりと少女へ近づいていく。
「さて、と」
零司は片手を伸ばした。
「そろそろ行こっか」
「……嫌」
「だよねぇ」
「……絶対、戻らない」
「うん。聞いた」
零司は穏やかに答えた。
「でも、僕は君を連れ戻す仕事を引き受けちゃったからさ」
少女の瞳に、絶望の色が浮かぶ。
「……お願い」
小さな声。
「戻りたく、ない……」
零司は答えなかった。
そのまま、少女を見つめる。
「……戻されたら」
少女は震える唇を動かした。
「また、あの部屋に……」
「うん」
「また……何度も……」
そこで言葉が途切れた。
少女の身体が、小刻みに震えている。
零司は、その様子を静かに眺めていた。
別に、何も感じないわけではない。
彼女がどれほど追い詰められているのかも理解できる。
研究施設で何が行われていたのか。
詳しい内容までは知らなくとも、まともな扱いを受けていなかったことくらい想像できた。
だが。
それと、自分が彼女を助けるかどうかは別の話だった。
「……ねえ」
零司が口を開く。
「一つ、聞いていい?」
少女は顔を上げた。
「君は、どうして逃げたの?」
「……え?」
「いや、嫌だったからっていうのは分かるよ」
零司は続けた。
「でも、君の能力なら、もっと前から逃げられたんじゃない?」
「…………」
「それとも、最近になって使えるようになった?」
少女は答えなかった。
だが、その表情がわずかに変わった。
零司は見逃さない。
「……何かあったんだ」
その言葉に。
少女の肩が、小さく跳ねた。
◇
白い部屋。
消毒液の匂い。
天井に並ぶ照明。
拘束具に固定された手足。
少女は、その光景を思い出していた。
『被験体N-13。次の検証へ移行する』
白衣の男。
無機質な声。
『観測干渉の発現条件は依然として不明。刺激強度を上げる』
腕に刺さる針。
身体を走る痛み。
何度も繰り返される実験。
そのたびに、研究者たちは何かを記録していた。
数値。
反応。
成功。
失敗。
少女の苦痛など、そこには存在していなかった。
そして、ある日。
隣の実験室から、一人の少女が連れて行かれた。
自分よりも、少し年上の少女。
時折、廊下ですれ違うことがあった。
名前は知らない。
互いに言葉を交わすことも、ほとんどなかった。
ただ一度だけ。
その少女は、自分に笑いかけてくれたことがある。
『大丈夫』
たった一言。
それだけだった。
翌日。
その少女の姿は、どこにもなかった。
『あの子は……?』
研究者に尋ねた。
返ってきたのは、事務的な答えだった。
『研究対象としての有用性が失われた』
それだけ。
少女は二度と戻ってこなかった。
そして、自分の実験記録にも。
《継続価値の再評価》
そんな言葉が記されていた。
意味は、十分に理解できた。
ここにいてはいけない。
次は、自分かもしれない。
そう思った。
その日の夜。
端末に、一通のメッセージが届いた。
『外へ出ろ』
『必ず迎えに行く』
誰が送ってきたのかは分からない。
罠かもしれない。
研究者による新しい実験かもしれない。
それでも。
少女は、逃げることを選んだ。
◇
「……死にたく、なかったから」
少女が呟いた。
零司は黙って聞いていた。
「……あそこにいたら、いつか……」
少女は言葉を詰まらせた。
「……いなくなるから」
「いなくなる?」
「……実験が、終わったら」
零司の目が、わずかに細くなる。
「……なるほどね」
それ以上は聞かなかった。
少女が言いたくないのであれば、今はそれでいい。
だが、一つだけ確認したいことがあった。
「それで、逃げた後はどうするつもりだったの?」
「……え?」
「研究所から出て、その後」
零司は首を傾げた。
「行くところ、あるの?」
少女は答えに詰まった。
それから、小さく頷いた。
「……迎えに、来てくれるから」
「誰が?」
「……分からない」
「……え?」
今度は零司が間の抜けた声を漏らした。
「分からないの?」
「……うん」
「知らない人が迎えに来るって言ってるの?」
少女は頷いた。
零司はしばらく沈黙した。
そして。
「……それ、大丈夫?」
珍しく、本気で困惑したような声だった。
「君を捕まえようとしてる人たちの罠かもしれないよ?」
「……分かってる」
「分かってるんだ」
「……でも」
少女は零司を睨みつけた。
「……ここにいるより、ずっといい」
その言葉に。
零司は、ふと笑った。
「そっか」
納得したように頷く。
「なら、いいんじゃない?」
「……え?」
「自分で決めたんでしょ?」
少年は肩をすくめた。
「だったら、僕がどうこう言うことじゃないし」
少女には、やはり理解できなかった。
この少年は、自分を連れ戻すために来たはずだ。
なのに、逃げるという選択そのものは否定しない。
まるで、結果がどうなろうと構わないとでもいうように。
「……だったら」
少女は恐る恐る尋ねた。
「……逃がして、くれるの?」
「んー」
零司は少し考えた。
「それは別かな」
少女の表情が凍りつく。
「……どうして……」
「だって、仕事だし」
あっさりとした返答だった。
零司は少女を見つめる。
「君が逃げたいのは君の自由。でも、僕が捕まえたいのも僕の自由でしょ?」
「……そんなの、ずるい……!」
「そう?」
「……あなたは、強いから……!」
少女は拳を握りしめた。
「……何でも、できるから……!」
零司は一瞬だけ黙った。
そして、少し笑う。
「何でも、ねえ」
別に否定するほどのことでもない。
少なくとも、今この場で少女を捕まえることなど簡単だった。
空気を固定する。
床の性質を変える。
身体を動かすために必要な物理条件へ干渉する。
どの方法でも構わない。
少女が抵抗する余地など、ほとんど残らないだろう。
だが。
「……じゃあさ」
零司は、ふと思いついたように言った。
「ちょっと遊んでみる?」
「……遊ぶ?」
「うん」
少年は楽しそうに笑った。
「君がここから逃げられたら、どうするか考え直してあげる」
少女は目を見開いた。
「……本当に?」
「さあ?」
「……え?」
「逃げられたら、だよ。まだ何も決めてない」
零司は悪びれる様子もない。
「でも、今ここで捕まるよりはいいでしょ?」
少女は唇を噛んだ。
ふざけている。
この少年にとって、自分の命は遊びの道具でしかない。
そう理解した。
それでも。
「……分かった」
少女は小さく頷いた。
「……絶対に、逃げてみせる」
「うん」
零司は満足そうに笑う。
「期待してるよ」
そして、狭い保守通路の壁へ背中を預けた。
「三分」
「……え?」
「三分だけ、先に行っていいよ」
少年は指を三本立てた。
「その間、僕はここから動かない」
「……本当に?」
「うん。約束」
少女は、しばらく零司を見つめていた。
信用できる相手ではない。
むしろ、信用してはいけない相手だ。
しかし、ここで立ち止まっていても状況は変わらない。
少女は踵を返した。
そして、狭い保守通路を這うように進み始める。
その背中を見送りながら、零司は携帯端末を取り出した。
「さて、と」
画面を操作し、時間を確認する。
三分。
たったそれだけの猶予。
普通であれば、ほとんど意味のない時間だろう。
しかし。
「あの子、結構面白い能力持ってるしね」
零司は小さく笑った。
「どうなるかな」
少年の顔には、少女を逃がす罪悪感も、依頼人を裏切ることへの躊躇いもなかった。
ただ、自分の興味に従っているだけ。
それが、久遠零司という人間だった。
◇
『久遠!』
通信機から桐島の声が響いた。
『対象は発見したのか!?』
「うん。見つけたよ」
『何だと!? なら、現在位置を――』
「でも、まだ捕まえてない」
『……は?』
「ちょっと追いかけっこしてるところ」
沈黙。
次いで。
『ふざけるな!!』
怒声が響いた。
零司は思わず通信機を耳から離す。
「うわ、声大きいなぁ」
『対象を発見したなら直ちに確保しろ! こちらには時間がないんだ!』
「時間?」
零司は首を傾げた。
「どうして?」
『……っ』
桐島が言葉を詰まらせる。
零司は、わずかに目を細めた。
「何か隠してる?」
『……それは』
「んー?」
数秒の沈黙。
やがて、桐島が低い声で告げた。
『別の組織が、対象の処分に動いている』
零司の指が止まった。
「……処分?」
『ああ。回収ではない。殺害だ』
「へえ」
『丹羽主任の研究を快く思っていない連中がいるらしい。対象を生かしておくこと自体が問題だと判断したようだ』
零司は壁にもたれたまま、天井を見上げた。
「なるほどね」
『分かったなら、すぐに対象を確保しろ! こちらで保護する!』
「……保護、ねえ」
零司は小さく笑った。
「研究所に戻すのに?」
『今はそんなことを言っている場合じゃない!』
「まあ、そうだね」
少年は通信を切った。
画面に表示された時刻。
三分の猶予が終わるまで、残り一分少々。
「……ふうん」
零司は呟いた。
少女を捕まえようとしているのは、自分たちだけではない。
しかも、別の連中は殺すつもりだという。
そうなると。
「……ちょっと、つまんないな」
零司は小さくため息をついた。
せっかく、面白い相手を見つけたのだ。
まだ能力の正体も分かっていない。
逃亡の経緯にも、いくつか気になる点が残っている。
それなのに。
横から現れた誰かに、勝手に殺されてしまうのは面白くない。
「……まあ、いいか」
少年は携帯端末を閉じた。
残り時間は、まだ少しある。
約束は守る。
そう決めていた。
しかし、それは少女の命を狙う連中まで放置するという意味ではない。
「さて……」
零司はゆっくりと立ち上がった。
その目に、先ほどまでとは違う光が宿る。
「誰だか知らないけど」
少年は笑った。
「僕の遊びの邪魔、しないでほしいなぁ」
次の瞬間。
地下通路の空気が、微かに震えた。
それは、誰にも気づかれないほど小さな変化だった。
しかし、零司がその気になれば。
この地下施設を支配する物理現象の大部分は、彼の意思一つで変更できる。
監視装置。
通信機器。
武器。
そして、人間の身体を動かすために必要な条件さえも。
すべてが、彼の干渉対象だった。
「……あ」
零司が思い出したように呟いた。
「そういえば、あの子の名前、聞いてなかったな」
少しだけ考える。
そして、笑った。
「まあ、次に会ったときでいいか」
少年は歩き始めた。
少女が逃げた方向とは、異なる通路へ。
彼女を追うのは、約束した時間が過ぎてからでいい。
だが、その前に。
余計な邪魔者を片づけておくことにした。
◇
地下施設の別区画。
武装した男が、携帯端末を確認していた。
『目標の位置を確認』
『生存状態での回収は不要』
『処理後、証拠を完全に抹消せよ』
男は短く応答する。
「了解」
通信を切り、周囲の部下へ視線を向けた。
「対象は保守通路から西側へ移動している。先回りするぞ」
「了解」
「ただし、接触した場合は即座に射殺しろ。能力を使わせるな」
男たちが一斉に頷いた。
そのとき。
「……へえ」
背後から声がした。
「やっぱり、君たちだったんだ」
男たちが振り返る。
通路の中央。
そこには、一人の少年が立っていた。
黒髪に銀色の混じった、学生服姿の少年。
その顔には、どこか楽しそうな笑みが浮かんでいる。
「……誰だ!」
男が銃を構えた。
少年は気にした様子もなく、片手を上げる。
「こんばんは」
そして、笑顔のまま告げた。
「ちょっと、お話ししようか」
男たちは知らなかった。
自分たちが今、誰を敵に回したのかを。
ましてや、その少年が。
たった今、自分たちの仕事を邪魔する気になったことなど。
知る由もなかった。
――第零位。
その気まぐれは、時として誰かを救い。
時として、誰かの運命を容赦なく踏みにじる。
そして今夜。
少年の気分は、ほんの少しだけ。
少女に味方する方向へ傾き始めていた。