八月十三日、午前八時十二分。
学園都市第七学区。
「……狭い」
N-13の呟きに、久遠零司は朝食のパンを齧りながら頷いた。
「そうだね」
「……昨日も言った」
「昨日より狭くなった?」
「……なった」
少女が指差した先。
ソファには、同じ顔をした三人の少女が座っていた。
ミサカ九九七一号。
ミサカ九九七二号。
ミサカ九九七三号。
昨日まで存在すら知らなかった少女が、今では同じ部屋で朝食を取っている。
「……居住人数の増加に対して、生活空間が不足していると考えられます」
九九七一号が言った。
「同意します」
九九七二号が頷く。
「ミサカも同様の評価です」
九九七三号まで続いた。
N-13が零司を見る。
「……ほら」
「三対一かぁ」
「……四対一」
テーブルに座っていたN-12が加わった。
左腕には、まだ包帯が巻かれている。
「……引っ越し、決定」
「はいはい」
零司は、観念したように答えた。
「広いところ探しておくよ」
その言葉に、九九七三号が顔を上げる。
「質問があります」
「何?」
「ミサカも、引っ越し先に同行してよいのでしょうか」
「当たり前でしょ」
零司は即答した。
「君の分の部屋も考えないとね」
「……了解しました」
九九七三号は、静かに頷いた。
その表情に大きな変化はない。
だが、テーブルの下では、膝の上に置いた手が僅かに握りしめられていた。
昨日まで、彼女に明日の予定など存在しなかった。
実験。
死亡。
それで終わり。
それが、与えられていた未来だった。
ところが今は、引っ越し先の話をしている。
まだ見たこともない部屋で、自分が生活することを考えている。
その事実は、少女にとって理解の難しいものだった。
「……零司」
N-12が、テーブルに置かれた資料を指差した。
「……こっちは?」
零司の表情が変わる。
昨夜、貨物列車から回収した運用資料。
輸送記録。
観測部隊の管理情報。
そして、複数の研究機関の名称。
「そっちも調べてる」
「……何か分かった?」
「実験を動かしてるのは、一つの研究所じゃないってことかな」
零司は、一枚の資料を取り出した。
そこには、複数の管理部門が記されている。
《実験計画管理》
《研究予算管理》
《量産個体管理》
《実験運用管理》
それぞれ、異なる研究機関が担当していた。
「研究所を一つ壊しても、別のところで続けられる」
零司は言った。
「だから、昨日までのやり方じゃ終わらない」
N-13が顔を上げる。
「……じゃあ、全部壊す?」
「それもできるけど」
零司は資料を一枚めくった。
「研究所を全部探すのは面倒だよね」
そして、一つの項目を指差した。
《共同研究監理部門》
《実施計画照合》
N-12の目が細くなる。
「……これ」
「知ってる?」
「……同じ管理番号、見たことがある」
少女は、包帯の巻かれた腕を庇いながら資料を引き寄せた。
「……ECHOの搬送記録にも、似た番号があった」
「同じ組織?」
「……そこまでは分からない。でも」
N-12は、別の書類を重ねた。
昨夜の輸送伝票。
その下部には、小さな管理番号が印字されている。
さらに、別の書類。
そこにも、似た形式の番号。
「……研究所が違うのに、書類の管理形式が同じ」
零司は、二枚を見比べた。
「共通の管理システムを使ってるのかな」
「……たぶん」
N-12は頷いた。
「……少なくとも、どこかで情報をまとめてる」
零司の口元が上がった。
「じゃあ、そこへ行こうか」
そのとき。
「追加情報があります」
九九七一号が口を開いた。
零司が顔を向ける。
「何?」
「次回の実験についてです」
少女は、静かに続けた。
「ミサカ九九七四号を対象とする実験の実施時刻が、未確定となっています」
「……未確定?」
「はい」
九九七二号が補足した。
「従来の実験予定から変更されています。ただし、計画そのものが中止されたという情報はありません」
N-13が眉をひそめる。
「……まだ続けるの?」
「はい」
九九七三号が答えた。
「ミサカたちの生存によって、実験方式の再検討が行われている可能性があります」
零司は、資料を閉じた。
「なるほど。向こうも困ってるみたいだね」
そして立ち上がる。
「だったら、もっと困らせようか」
◇
午前十時三十四分。
第七学区、某喫茶店。
「……研究を管理してる組織?」
御坂美琴が、零司を見た。
テーブルには、複数の書類が並んでいる。
貨物列車から回収した輸送記録。
観測設備の管理情報。
そして、研究予算の処理に関する資料。
「そう」
零司が頷く。
「全部の研究所が、好き勝手に実験してるわけじゃないみたい」
美琴は、書類へ視線を落とした。
「……確かに」
少女は、一枚の資料を取り上げた。
《共同研究監理棟》
《第十八学区》
《実施計画照合記録》
「……ここが怪しいわね」
「でしょ?」
「でも、研究全体の本部とは限らないわよ」
「分かってる」
零司は、コーヒーを一口飲んだ。
「とりあえず、書類を見に行こうと思って」
美琴が顔を上げる。
「……どうやって?」
「普通に」
「……普通?」
「入口から入る」
「……は?」
美琴は、少年を凝視した。
「……あんた、そこが研究関係者の施設だって分かってる?」
「うん」
「警備がいるに決まってるでしょ!」
「そうだろうね」
「……それで、正面から入るの!?」
零司は、不思議そうに首を傾げた。
「入れない理由、ある?」
「……あるに決まってるでしょ!」
美琴は、思わず額を押さえた。
しかし、すぐに顔を上げる。
「……待って」
少女は、少し考えた。
正面から侵入する。
普通なら、無謀な行動だ。
だが、相手は久遠零司。
第一位と互角以上の攻防を繰り広げる、規格外の能力者。
通常の警備員が、彼を止められるとは考えにくい。
「……あんた」
美琴が、ゆっくりと尋ねた。
「わざと目立つつもり?」
零司が笑った。
「正解」
「……やっぱり」
「僕が正面から行けば、警備の人たちは僕を見るでしょ」
そして。
「その間に、君が資料を探してくれると助かる」
美琴は、書類を見つめた。
昨夜の輸送車両。
そこで回収した記録。
その中には、共同研究監理棟の管理番号も残されている。
正規の認証権限までは手に入っていない。
しかし、どの設備が何を管理しているのかを調べる手掛かりにはなる。
「……分かったわ」
美琴は、資料をまとめた。
「ただし、私も好き勝手にやるからね」
「いいよ」
「それと、研究員を殺さない!」
零司は、少女を見た。
「邪魔されなければね」
「……また、その言い方!」
美琴は、深く息を吐いた。
そして。
「……とにかく、今日は情報を手に入れるのが目的よ」
「そうだね」
「人を倒すのが目的じゃないんだから」
「分かってる」
零司は、椅子から立ち上がった。
その灰紫色の瞳が、僅かに細くなる。
「向こうが、そう思ってくれるといいんだけど」
◇
午後零時四十八分。
第十八学区、共同研究監理棟。
灰色の外壁を持つ、八階建ての建物。
外見は、ごく普通の研究関連施設だった。
受付。
警備員。
入退館管理装置。
そして、各階へ続くエレベーター。
建物の周囲には、目立った武装もない。
だが。
内部では、複数の研究機関が提出した実施計画や管理資料が処理されていた。
「……ここか」
零司は、建物を見上げた。
隣にはN-13。
少女は、周囲の監視カメラを確認している。
「……結構、多いね」
「そうだね」
「……わたし、先に行く?」
「お願い」
N-13は頷いた。
そして、建物の裏側へ歩き始めた。
観測干渉。
人間の注意や、監視映像の認識に不一致を生じさせる能力。
完全に姿を消せるわけではない。
熱源探知や直接的な接触には弱い。
だが、監視員の注意を逸らすには十分だった。
零司は、その背中を見送った。
そして。
何事もなかったように、正面玄関へ向かった。
◇
「……いらっしゃいませ」
受付の女性が、顔を上げた。
「ご用件をお伺いします」
「研究の責任者に会いたいんだけど」
零司は、気楽な調子で答えた。
「……研究の責任者、ですか?」
「うん」
「どちらの研究でしょうか」
「絶対能力進化計画」
その瞬間。
女性の表情が、僅かに変わった。
「…………」
零司は、受付カウンターへ肘をついた。
「九九七〇号から九九七三号までの実験について、聞きたいことがあるんだ」
女性は、数秒ほど黙っていた。
そして。
「……少々、お待ちください」
静かに答えた。
受付の下にある操作盤へ手を伸ばす。
その瞬間。
零司が言った。
「警備を呼んでもいいよ」
女性の指が止まった。
「……え?」
「その方が、責任者も早く来てくれるでしょ?」
零司は笑った。
女性の顔色が変わる。
そして。
次の瞬間。
館内に、警報が響き渡った。
◇
午後零時五十一分。
共同研究監理棟、地下管理室。
「……侵入者?」
白衣姿の男が、監視モニターを見つめていた。
五十代ほどの年齢。
細い銀縁眼鏡。
整えられた髪。
男の名は榊原。
共同研究監理棟の運用責任者だった。
「……身元は?」
警備員が答える。
「久遠零司と名乗っています」
榊原の表情が変わった。
「……ZEROか」
「ご存じですか?」
「当然だ」
男は、監視画面を拡大した。
受付に立つ少年。
黒髪に混じる銀色の髪。
灰紫色の瞳。
その姿は、先日送られてきた観測資料と一致している。
「……どうして、ここに」
榊原は、別の端末を開いた。
《絶対能力進化計画》
《計画外介入者:ZERO》
《関連能力者:御坂美琴》
《危険度:評価継続中》
さらに。
《直接交戦:非推奨》
榊原は、深く息を吐いた。
「……厄介な客だな」
警備員が尋ねる。
「……どう対応しますか?」
榊原は、数秒ほど考えた。
そして。
「……警備員を集めろ」
「……迎撃しますか?」
「違う」
男は、首を横へ振った。
「足止めだ」
画面を切り替える。
《内部資料保護》
《機密記録:移管準備》
《保管区画:封鎖》
「資料を処理する時間を稼げ」
その声には、焦りがなかった。
久遠零司。
最強格の能力者。
だが、どれだけ強くても、すべての資料を同時に把握できるわけではない。
ならば。
「……能力者と戦う必要はない」
榊原は、静かに告げた。
「必要な書類だけ消してしまえばいい」
◇
午後零時五十三分。
共同研究監理棟、一階ロビー。
「……お待たせしました」
警備員が、零司へ声を掛けた。
黒い制服。
腰には警棒。
さらに、背後には数人の警備員が控えている。
「こちらへお越しください」
「責任者に会える?」
「確認中です」
「そっか」
零司は頷いた。
そのまま、案内されるように歩き始める。
しかし。
廊下の途中。
前方の防火扉が、突然閉じた。
ガコンッ!
「……あれ?」
零司が顔を上げる。
同時に、背後の扉も閉じ始めた。
さらに。
天井の監視装置が、一斉に少年へ向けられる。
《立入制限区域》
《警備対応開始》
警備員の一人が、腰の装備へ手を伸ばした。
「……動くな!」
零司は、立ち止まった。
「……やっぱり、そうなるんだ」
次の瞬間。
複数の警備員が、一斉に動いた。
警棒。
拘束具。
さらに、後方の隊員は銃を構えている。
「……取り押さえろ!」
先頭の男が飛びかかった。
しかし。
その身体が、突然前方へ滑った。
「……っ!?」
靴底と床の摩擦が失われたのだ。
踏み込んだ足が止まらない。
男は、そのまま床へ倒れ込んだ。
続いて。
別の警備員が、警棒を振り下ろした。
だが。
その先端が、突然予想外の方向へ逸れた。
振り下ろす動作で生じた運動量。
その一部が、横方向へ伝わった。
結果。
警棒は零司を外れ、隣の壁へ激突した。
ガンッ!
「……何!?」
警備員が、目を見開く。
零司は、動かなかった。
両手も、ポケットに入ったまま。
「……ねえ」
少年が、静かに口を開いた。
「僕、話をしに来ただけなんだけど」
その声を遮るように。
パァンッ!
銃声が響いた。
しかし。
弾丸は零司へ届かなかった。
少年の周囲にある空気の圧力条件が変化し、弾丸の進行方向が僅かに逸れた。
背後の壁へ、乾いた音を立てて突き刺さる。
「……っ!?」
銃を構えていた男が、目を見開いた。
次の瞬間。
足元の床が、僅かに沈んだ。
身体の重心が崩れる。
男は、銃を持ったまま膝をついた。
さらに。
周囲の警備員たちも、次々と姿勢を崩した。
床の摩擦。
身体へ掛かる力。
荷重の伝わり方。
それらが、局所的に変更されていた。
零司は、倒れた男たちを見下ろした。
「……だから」
静かな声。
「責任者を呼んでって言ったんだけど」
警備員たちは、誰も答えなかった。
その代わり。
通信装置から、緊迫した声が響いた。
『……ZEROを確認!』
『通常装備では制圧不能!』
『増援を要請する!』
零司は、軽く息を吐いた。
「……増援か」
そして。
少しだけ笑った。
「じゃあ、ここで待ってようかな」
◇
午後零時五十七分。
共同研究監理棟、三階管理区画。
「……こっち」
N-13が、小さく呟いた。
建物の裏側から侵入した少女は、監視設備を避けながら通路を進んでいた。
観測干渉によって、人間の注意を逸らす。
ただし、完全に姿が消えるわけではない。
監視員が直接こちらを見れば、位置を把握される可能性はある。
そのため、少女は警備員の視線が途切れる瞬間を選んで移動していた。
「……あった」
目的の場所。
資料管理室。
扉には、電子認証装置が取り付けられている。
N-13は、携帯端末を取り出した。
《御坂美琴》
《三階、資料管理室に到着》
送信。
直後。
短い返信が届いた。
《了解。今、認証装置を調べる》
N-13は、扉の前で待った。
数秒後。
カチリ。
電子錠が解除された。
「……すごい」
少女が、小さく呟いた。
扉を開く。
内部には、複数の保管棚。
電子端末。
そして、紙の書類が並んでいる。
N-13は、周囲を見渡した。
そのとき。
奥の棚に、一つの表示があることに気づく。
《実験実施計画》
《絶対能力進化計画》
少女の足が止まった。
「……これ」
そこには、複数の書類ケースが並んでいた。
九九七〇号。
九九七一号。
九九七二号。
九九七三号。
その番号が、順番に記されている。
N-13は、一枚を取り出した。
書類には、実験の実施予定と承認記録が記載されていた。
その下部。
複数の署名。
「……これが」
少女が、小さく呟いた。
「……誰かを殺すための書類」
手の中の紙が、僅かに震えた。
そのとき。
背後から、足音が響いた。
◇
「……誰だ!」
警備員の声。
N-13が振り返る。
扉の向こう。
黒い制服の男が立っていた。
その手には、銃。
「……侵入者か!」
男が、銃口を向ける。
N-13の瞳が細くなる。
観測干渉。
少女の位置が、男の視界で曖昧になった。
「……っ!?」
警備員が、目を瞬かせる。
そこにいる。
確かにいる。
だが、どこへ照準を合わせればいいのか判断できない。
「……くそっ!」
男が、通信装置へ手を伸ばした。
その瞬間。
廊下の照明が、一斉に消えた。
「……何!?」
暗闇。
続いて。
非常灯だけが点灯する。
N-13は、その隙に棚の陰へ移動した。
携帯端末が振動する。
《御坂美琴》
《監視電源を一時的に切った。今のうちに出て!》
N-13は、書類ケースを抱えた。
そして、素早く扉へ向かう。
警備員の横を通過する。
男は、咄嗟に振り返った。
しかし。
少女の位置を正確に捉える前に、N-13は廊下の角を曲がっていた。
「……はぁっ」
小さく息を吐く。
書類ケースを、強く抱きしめた。
「……取れた」
◇
午後一時三分。
地下管理室。
「……資料管理室へ侵入された!?」
榊原が、監視画面を睨んだ。
そこには、警備員の報告が表示されている。
《第三階層》
《資料管理室:侵入確認》
《実験計画書類:一部持ち出し》
男の表情が変わった。
「……まさか」
久遠零司。
その少年は、一階で警備員を引きつけている。
しかし。
別の侵入者が、三階の資料管理室へ入っていた。
「……囮か!」
榊原が、机を叩く。
そのとき。
別の研究員が叫んだ。
「……地下の通信設備にも異常が!」
「……何!?」
「外部接続が、不安定になっています!」
榊原は、画面を切り替えた。
地下の通信設備。
そこに、青白い電気反応が記録されている。
「……第三位!」
男の顔色が変わった。
御坂美琴。
学園都市第三位。
その電磁操作能力。
「……二人で来たのではない!」
榊原は、歯を食いしばった。
「……三方向から、同時に!」
そして。
端末を操作した。
《緊急機密保護》
《資料管理区画:封鎖》
《記録媒体:消去準備》
しかし。
次の瞬間。
画面に、新しい警告が表示された。
《通信遮断》
《外部指令:受付不能》
榊原の表情が凍りついた。
「……馬鹿な」
その声と同時に。
地下管理室の扉から、短い音が響いた。
カチリ。
鍵が、外れた。
◇
「……こんばんは」
久遠零司が立っていた。
榊原が、目を見開く。
「……ZERO!」
「責任者、見つけた」
少年は、室内を見渡した。
複数の監視モニター。
通信設備。
そして、研究資料を管理する端末。
「……君が、ここの責任者?」
榊原は、椅子から立ち上がった。
「……ここは、関係者以外立入禁止だ!」
「知ってる」
「……ならば!」
「でも、話があるから」
零司は、平然と答えた。
その様子に、榊原の顔が引きつる。
「……貴様」
男は、ゆっくりと端末へ手を伸ばした。
しかし。
その指が触れる前に、端末が滑るように遠ざかった。
「……っ!?」
榊原が、目を見開く。
端末を支える固定具が、突然変形していた。
零司は、何もしていないように見える。
手を動かすことも。
視線を向けることすらない。
それなのに。
目の前の機械が、勝手に移動した。
「……何をした」
榊原が呟く。
零司は、首を傾げた。
「機械を動かしただけ」
「……馬鹿な!」
零司は、室内の椅子へ腰を下ろした。
そして。
「……ねえ」
静かに尋ねる。
「九九七一号たちの実験、誰が決めてるの?」
榊原は、答えなかった。
零司は続けた。
「第一位をレベル6にするために、妹達を殺す計画」
その言葉に、榊原の表情が変わった。
「……貴様、どこまで知っている」
「まだ全部じゃないよ」
零司は笑った。
「だから、聞きに来た」
榊原は、数秒ほど黙っていた。
そして。
「……勘違いするな」
低い声。
「我々は、実験を決定しているわけではない」
零司の目が細くなる。
「……へえ」
「各研究機関が提出した計画を照合し、必要な承認記録を管理しているだけだ」
「……つまり?」
「実施するかどうかの最終判断は、別の機関が行う」
零司は、榊原を見つめた。
「……じゃあ、君たちは何をしてるの?」
「必要な資料が揃っているか確認する」
榊原は、淡々と答えた。
「計画番号。予算。対象個体。実施条件。そして、承認記録」
零司は、少しだけ考えた。
そして。
「……それが揃わなかったら?」
榊原の表情が変わった。
「……何?」
「実験は、できないの?」
数秒の沈黙。
榊原は、目を細めた。
「……通常の手続きでは、実施できない」
零司の口元が、僅かに上がった。
「……なるほど」
その瞬間。
榊原の表情が変わった。
「……まさか」
零司は、笑った。
「君たち、便利な仕事してるんだね」
◇
午後一時九分。
三階、資料管理室。
「……これ」
N-13が、携帯端末へ書類の画像を送信した。
画面の向こう。
御坂美琴が、資料を確認している。
『……ちょっと待って』
「……うん」
『これ、実験の承認記録じゃない!』
N-13は、書類を見つめた。
「……そうみたい」
『……しかも、複数の研究機関の署名がある』
美琴の声が、険しくなる。
『……これがあれば、誰が実験を進めているか分かるかもしれない』
N-13は、静かに頷いた。
「……うん」
そのとき。
書類ケースの奥から、一枚の紙が滑り落ちた。
「……あれ?」
少女が拾い上げる。
そこには、別の記録があった。
《実験中止・変更申請》
《過去申請履歴》
《処理状況》
N-13が、目を細める。
「……美琴」
『何?』
「……こっちにも、何かある」
画像を送信する。
数秒後。
『……待って』
美琴の声が変わった。
『これ、実験の変更申請を出した記録よ』
「……変更?」
『そう』
美琴は続けた。
『実験を進めるだけじゃなくて、止めるための手続きもあるってこと』
N-13が、顔を上げた。
「……止められる?」
『分からない。でも……』
美琴の声が、強くなる。
『手掛かりにはなるわ』
◇
午後一時十三分。
地下管理室。
「……実験を中止する手続きは、あるんでしょ?」
零司の問いに、榊原は黙っていた。
その沈黙を見て、少年は笑った。
「あるみたいだね」
「……貴様」
榊原は、歯を食いしばった。
「中止申請を出したところで、最終的な判断は別の機関が行う!」
「そうだろうね」
「……それに!」
男は、声を荒げた。
「実験は正式に承認されている! 今さら、何を提出しても簡単には覆らん!」
零司は、椅子へ深く腰を下ろした。
「……じゃあ」
静かに尋ねる。
「承認した人たちの名前が分かればいいんだね」
榊原の表情が凍りついた。
「…………」
「実験を続けるって決めた人に、直接会えばいい」
その言葉に。
榊原の顔色が変わった。
「……貴様、何を考えている」
零司は、少しだけ笑った。
「別に」
そして。
「実験を止めてほしいって、お願いするだけだよ」
その声は、穏やかだった。
だが。
榊原には、その言葉が脅迫にしか聞こえなかった。
久遠零司。
第一位と交戦できる規格外の能力者。
その少年が、実験の承認者へ直接会いに行く。
もし、相手が拒否したら。
何が起きるか。
榊原は、考えたくもなかった。
「……そんなことをしても」
男が、震える声で呟く。
「……計画は止まらん」
零司は、首を傾げた。
「どうして?」
「……研究は、複数の機関によって進められている」
榊原は続けた。
「一つの機関が停止しても、別の機関が引き継ぐ」
零司は、数秒ほど黙っていた。
そして。
「……じゃあ」
静かに答えた。
「全部、止めればいいんじゃない?」
その言葉に。
榊原は、何も答えられなかった。
◇
午後一時十七分。
共同研究監理棟、地下通信室。
「……久遠!」
御坂美琴が、通信装置へ叫んだ。
『何?』
「……資料が見つかった!」
零司の声が返ってくる。
『そう?』
「実験の承認記録と、変更申請の手続き!」
『……へえ』
美琴は、端末を確認した。
そこには、複数の研究機関の名称と、承認履歴が表示されている。
だが。
問題もあった。
「……ただし」
美琴が、眉をひそめる。
「これだけじゃ、計画を止められない」
『どうして?』
「変更申請には、正規の承認権限が必要みたい」
美琴は、画面を切り替えた。
《実験変更申請》
《必要認証:研究管理権限》
《処理状況:未申請》
「……私たちが勝手に入力しても、正式な手続きにはならない」
その言葉に。
零司は、少しだけ考えた。
『……なるほど』
そして。
『じゃあ、申請する人を探せばいいんだ』
「……は?」
『君、そこにいて』
「……ちょっと、久遠!?」
通信が切れた。
美琴は、端末を睨んだ。
「……あんた、また何する気よ!」
◇
午後一時二十分。
地下管理室。
「……榊原さん」
零司が、静かに呼びかけた。
男が顔を上げる。
「……何だ」
「実験の変更申請って、君の権限で出せる?」
榊原の表情が変わった。
「……何?」
「出せるかどうか、聞いてるんだけど」
男は、しばらく黙っていた。
そして。
「……申請そのものは可能だ」
零司が頷く。
「じゃあ、お願い」
「……馬鹿な!」
榊原が、声を荒げた。
「そんな理由で、実験を停止できるわけがない!」
「理由ならあるよ」
零司は、書類ケースを開いた。
そこには、九九七一号から九九七三号までの実験記録が入っている。
《第九九七一次実験:無効》
《第九九七二次実験:無効》
《第九九七三次実験:実施不能》
零司は、書類を並べた。
「三回続けて、予定どおり実験できてない」
榊原が、目を細める。
「……それが?」
「実験条件が成立してないんでしょ?」
零司は続けた。
「なのに、同じ方法で続けるの?」
榊原は、黙った。
確かに。
研究計画上、複数回の実験で条件が成立していない場合は、実施方式の再検討が必要になる。
それは、正式な運用手続きの一つだった。
「……しかし」
男は、言葉を探した。
「……それは、研究内容の再評価を行うための手続きだ」
「うん」
零司は頷いた。
「じゃあ、再評価すればいい」
その言葉に。
榊原の表情が変わった。
少年は、静かに続けた。
「実験を止めるかどうかは、ちゃんと調べてから決めればいいよ」
そして。
「その間は、次の子を殺さなくて済むでしょ?」
榊原は、何も答えなかった。
零司は、椅子から立ち上がった。
「……まあ」
少年の灰紫色の瞳が、細くなる。
「申請してくれないなら、別の方法を考えるけど」
その声には、怒りも焦りもなかった。
ただ、選択肢を提示しているだけだった。
榊原は、少年を見つめた。
そして。
深く息を吐いた。
「……申請は出せる」
静かな声。
「ただし、承認される保証はない」
零司は笑った。
「それでいいよ」
◇
午後一時二十七分。
地下通信室。
「……来た!」
美琴が、端末を確認した。
《実験方式再評価申請》
《申請元:共同研究監理部門》
《対象:絶対能力進化計画》
《理由:実験条件の連続不成立》
《処理状況:受付》
その下に、新しい表示が現れた。
《次回実験予定》
《再評価完了まで暫定保留》
美琴は、息を呑んだ。
「……止まった?」
画面を確認する。
実験予定。
そこには、九九七四号の番号が表示されている。
しかし。
開始時刻は、未定となっていた。
「……本当に」
美琴が、小さく呟く。
「……止まった」
その瞬間。
携帯端末が振動した。
零司からの着信。
『どう?』
美琴は、端末を握りしめた。
「……申請、受け付けられた」
『そう』
「次の実験も、暫定保留になってる」
『じゃあ、成功かな』
美琴は、少しだけ目を閉じた。
そして。
「……まだよ」
静かに答えた。
『何が?』
「正式に中止されたわけじゃない」
少女は、画面を見つめた。
「また再開されるかもしれない」
数秒の沈黙。
そして。
『……そうだね』
零司が、静かに答えた。
『でも、今すぐ殺される子はいなくなった』
その言葉に。
美琴の表情が、僅かに変わった。
そして。
「……そうね」
小さく頷いた。
「……それだけでも、大きいわ」
◇
午後二時四十一分。
第七学区、久遠零司の自宅。
「……止まった?」
N-13が、目を見開いた。
N-12も顔を上げる。
「……本当に?」
零司は、ソファへ腰を下ろした。
「一時的にね」
その隣では、九九七一号が端末を確認している。
「……確認します」
少女は、少しだけ目を伏せた。
ミサカネットワーク。
そこには、実験予定に関する情報が共有されている。
数秒後。
「……変更を確認しました」
九九七一号が口を開いた。
「ミサカ九九七四号の実験予定は、現在未定となっています」
N-13が、息を呑んだ。
「……じゃあ」
「はい」
九九七二号が頷いた。
「少なくとも、現在設定されている実験開始時刻はありません」
N-12が、小さく息を吐いた。
「……よかった」
その言葉に。
九九七三号が顔を上げた。
「……質問があります」
「何?」
零司が尋ねる。
「ミサカ九九七四号は、今後どうなるのでしょうか」
零司は、少女を見た。
「分からない」
即答だった。
「今回の申請が取り消されたら、また実験が始まるかもしれない」
「……そうですか」
九九七三号は、静かに頷いた。
その隣で、九九七一号が口を開く。
「……ミサカは、他の個体へ情報を共有したいと考えています」
零司が顔を向ける。
「何を?」
「実験予定が、一時的に停止したことです」
零司は頷いた。
「いいんじゃない?」
九九七一号は、少しだけ考えた。
「ただし、全個体が同じ判断をするとは限りません」
「そうだろうね」
零司は、あっさりと答えた。
「君たちだって、一人ずつ違うんだから」
その言葉に。
三人の少女が、互いを見つめた。
九九七一号。
九九七二号。
九九七三号。
同じ遺伝子情報を持ち、同じように製造された存在。
しかし。
それぞれが、違う経験をしている。
違う飲み物を選び。
違う言葉を聞き。
違う判断を下してきた。
「……了解しました」
九九七一号が、静かに頷いた。
そして。
「ミサカネットワークへ、情報を共有します」
数秒後。
少女が、僅かに目を見開いた。
「……応答があります」
N-12が顔を上げる。
「……誰から?」
「ミサカ九九七四号です」
その言葉に。
部屋の空気が変わった。
「……何て?」
N-13が尋ねる。
九九七一号は、少しだけ考えた。
そして。
「……怖い、とのことです」
短い言葉だった。
「実験が延期された理由も、今後の予定も分からないため、不安を感じているようです」
N-12は、拳を握りしめた。
「……そうだよね」
九九七一号が続ける。
「ただし、実験への参加を拒否するかどうかについては、まだ判断できないとのことです」
零司は、静かに頷いた。
「それでいいよ」
N-13が顔を向ける。
「……いいの?」
「うん」
零司は答えた。
「今すぐ決めなくてもいいでしょ」
そして。
「生きるか死ぬかなんて、他人に急かされて決めることじゃないし」
その言葉に。
九九七三号が、静かに目を伏せた。
昨日。
彼女は、死にたくないと答えた。
それだけで、自分の未来が変わった。
ならば。
まだ答えを出せない少女にも、考える時間があっていい。
九九七三号は、そう思った。
◇
午後四時十八分。
第十八学区、共同研究監理棟。
「……実験方式再評価申請?」
暗い管理室。
一人の男が、端末を見つめていた。
そこには、午後一時二十七分に受け付けられた申請記録が表示されている。
《絶対能力進化計画》
《実験方式再評価申請》
《処理状況:受付》
《次回実験:暫定保留》
男は、深く息を吐いた。
「……榊原か」
隣の研究員が頷く。
「はい。共同研究監理部門から提出されています」
「……理由は?」
「直近三回の実験条件が成立していないため、実施方式の再評価が必要とされています」
男は、数秒ほど黙った。
そして。
「……規定上は、確かに可能だ」
静かに呟く。
絶対能力進化計画。
複数の研究機関が関与する、大規模な研究。
その実施計画には、形式上の審査手続きも存在する。
通常なら、研究の進行を妨げることはほとんどない。
だが。
今回は違った。
三回連続の実験不成立。
さらに、計画外能力者の介入。
それらが正式な記録として残されている。
「……面倒なことになったな」
男は、画面を切り替えた。
《計画再評価》
《関係機関への照会》
《実施方式:変更検討》
研究員が尋ねる。
「……再評価申請を却下しますか?」
男は、少しだけ考えた。
そして。
「……いや」
首を横へ振った。
「形式上の問題がある以上、すぐに却下するのは得策ではない」
「……では?」
「関係機関へ通知しろ」
男は、静かに続けた。
「今後の実験運用について、再検討を行う」
研究員が頷いた。
「……了解しました」
そのとき。
男は、別の画面を開いた。
《ZERO》
《行動傾向:更新》
《研究管理部門への直接介入》
《実験運用停止手続きへの関与》
その表示を見て。
男の目が細くなる。
「……第零位」
低い声。
久遠零司。
第一位と戦える規格外の能力者。
その少年は、今まで研究施設へ直接介入していた。
だが。
今回は、研究の運用手続きそのものへ干渉した。
「……なるほど」
男は、静かに呟いた。
「……力だけではない、ということか」
その声には、僅かな警戒が混じっていた。
◇
同日、午後十一時二十一分。
第七学区。
久遠零司は、自室のベッドに寝転がっていた。
手元には、今日入手した資料。
実験承認記録。
変更申請履歴。
そして、関係研究機関の一覧。
そこには、複数の研究者や管理責任者の名前が記されている。
零司は、資料を一枚めくった。
「……やっぱり、まだ足りないね」
共同研究監理部門。
実施計画の照合。
予算管理。
研究機関間の調整。
それらが、複数の組織によって分担されている。
今回の申請によって、実験は一時的に保留となった。
だが。
正式な中止ではない。
研究者たちが実施方式を変更すれば、再開される可能性がある。
「……じゃあ」
零司は、別の資料を取り出した。
そこには、複数の承認者の署名が並んでいる。
研究計画。
予算。
実験運用。
そして、最終的な実施判断。
「……次は、こっちかな」
少年は、静かに笑った。
そのとき。
携帯端末が振動した。
御坂美琴からのメッセージ。
《今日の資料、こっちでも確認したわ》
《まだ関係機関が多すぎるけど、承認経路は少し分かってきた》
続いて。
《明日、時間ある?》
零司は、短く返信した。
《あるよ》
数秒後。
返事が届いた。
《じゃあ、また調べるわよ》
零司は、端末を置いた。
そして、天井を見上げる。
絶対能力進化計画。
第一位をレベル6へ進化させるための研究。
そのために、二万体の妹達を戦闘実験へ投入するという計画。
だが。
研究者たちは、まだ一つ勘違いしていた。
久遠零司が、自分たちの作った手続きに従ってくれるとは限らない。
今回は、正式な再評価申請という方法を使った。
それが一番手軽だったからだ。
しかし。
もし、その申請が却下されたら。
もし、研究者たちが再び妹達を殺そうとしたら。
零司は、そのとき別の方法を選ぶだろう。
それが、どのような方法になるのか。
研究者たちは、まだ知らない。
そして。
零司自身も、まだ決めていなかった。
「……さて」
少年は、静かに目を閉じた。
「……明日は、誰に会おうかな」
学園都市の第零位。
久遠零司。
その少年は、今度こそ実験そのものを止めるために動き始めていた。