八月十四日、午前八時六分。
学園都市第七学区。
「……これ、何?」
N-13が、テーブルに置かれた紙を見つめていた。
そこには、細かな文字と複数の管理番号が並んでいる。
昨夜、久遠零司が持ち帰った資料の一部だった。
「実験の再開申請」
零司は、朝食のトーストを齧りながら答えた。
「……再開?」
「うん。昨日止めたやつ」
N-13の表情が変わった。
「……もう?」
「早いよね」
零司は、感心したように言った。
昨日。
絶対能力進化計画に対する実験方式再評価申請が受理された。
直近三回の実験が予定どおり成立しなかったことを理由に、次回以降の実験は暫定保留となっている。
だが、それは中止ではない。
研究側には、再評価を終えて実験を再開する道が残されていた。
「……昨日、止まったばかりなのに」
N-12が呟いた。
左腕には、まだ包帯が巻かれている。
零司は頷いた。
「向こうも暇じゃないんでしょ」
「……そういう問題?」
「違うかもね」
零司は、書類を一枚めくった。
その下部に、三つの承認欄がある。
一つ目には、すでに認証記録が記されていた。
二つ目にも、別の管理機関の認証。
しかし。
三つ目だけが空白だった。
《臨時再開審査》
《運用管理承認:済》
《研究計画承認:済》
《安全性確認:未了》
零司は、最後の欄を指差した。
「これが埋まったら、再開できるらしいよ」
N-13が眉をひそめる。
「……そんな簡単に?」
「正式には、再評価申請の扱いも決めないといけないけどね」
零司は、説明を続けた。
「向こうは、実験の方式を変更したってことにして、臨時の再開許可を取ろうとしてる」
N-12が資料を見つめた。
「……実験を止めた理由、そのままなのに」
「そう」
少年は頷いた。
「条件が変わったって言い張れば、別の審査に回せるみたい」
そのとき。
「追加情報があります」
ミサカ九九七一号が口を開いた。
隣には、九九七二号と九九七三号。
三人は、昨夜から同じテーブルで朝食を取っていた。
「ミサカ九九七四号の実験予定について、現在も確定時刻は共有されていません」
「……じゃあ、まだ大丈夫?」
N-13が尋ねる。
「少なくとも、現時点で実施時刻は通知されていません」
九九七一号は答えた。
「ただし、対象個体の管理状況に変化があります」
零司が顔を向ける。
「どんな?」
「九九七四号を含む複数個体に対し、移送準備の指示が出されています」
N-12の表情が険しくなった。
「……また、運ぶの?」
「はい」
九九七二号が頷いた。
「移送目的は、設備再配置および身体状態の確認とされています」
「実験じゃないってこと?」
零司が尋ねた。
「そのように通知されています」
九九七三号が答える。
「しかし、ミサカたちには移送先の詳細が共有されていません」
零司は、書類を見下ろした。
実験は暫定保留。
だが、妹達の移動や設備の準備は続けられる。
研究者たちは、再開できる瞬間を待っているのだ。
「……なるほど」
零司は、最後の承認欄を見た。
「じゃあ、今日はここを空白のままにしてもらおうか」
◇
午前十時二十三分。
第七学区、河川沿いの遊歩道。
「……臨時再開審査?」
御坂美琴は、携帯端末の画面を睨んでいた。
「昨日、やっと止めたばかりじゃない!」
「そうだね」
零司は、手すりに背中を預けた。
「でも、向こうには続ける理由があるんでしょ」
「そんな理由、認められるわけないでしょ!」
美琴が声を荒げる。
だが、すぐに言葉を切った。
絶対能力進化計画。
妹達を殺すことで、第一位をレベル6へ進化させようとする研究。
その計画を管理している人間たちは、三回の実験失敗だけで研究を諦めるつもりはない。
「……それで」
美琴は、画面を切り替えた。
「この安全性確認って何?」
「分からない」
「……は?」
「昨日の資料には、担当機関の名前までしかなかったから」
零司は、あっさりと答えた。
「誰が署名するのかまでは、まだ調べられてない」
美琴は、しばらく少年を見つめた。
「……あんたでも、知らないことあるのね」
「そりゃあるよ」
零司は笑った。
「僕、知らない人の名前まで勝手に分かるわけじゃないし」
「……まあ、そうよね」
美琴は、再び端末へ視線を落とした。
昨日、監理棟から回収した承認記録。
その中に、今回と同じ形式の書類がある。
だが、認証情報の一部は非公開になっていた。
「……もう一度、あそこに行く?」
「いや」
零司は首を横へ振った。
「昨日行ったばかりだし、今度は対策されてるでしょ」
美琴が目を瞬かせる。
「……珍しく慎重ね」
「失礼だなぁ」
「普段の行動を考えなさいよ」
零司は肩をすくめた。
そして、一枚の書類を差し出した。
「今日は、こっち」
美琴が受け取る。
《臨時再開審査》
《安全性確認資料》
《提出期限:八月十四日十五時三十分》
《提出方法:封緘資料の直接搬送》
「……直接搬送?」
「電子記録だけじゃ駄目らしいね」
零司は、河川の向こうへ視線を向けた。
「つまり、誰かが書類を持って移動する」
美琴の目が細くなる。
「……その人を見つけるの?」
「そう」
「でも、書類を奪ったって、別の方法で再提出されるかもしれないわよ」
「もちろん」
零司は頷いた。
「だから、奪うのが目的じゃない」
その灰紫色の瞳が、僅かに細くなる。
「誰が署名しようとしてるのか、確かめたいんだ」
◇
午後零時四十七分。
第十八学区、研究監理地区。
黒い公用車が、地下駐車場から姿を現した。
車内には三人。
運転手。
警備担当者。
そして、後部座席に座る一人の男。
男の膝には、薄い書類ケースが置かれている。
「……予定どおり進めてください」
男が告げた。
運転手が頷く。
「承知しました」
そのとき。
助手席の通信装置が鳴った。
『搬送状況を報告しろ』
「現在、第十八学区の監理地区を出発しました」
『提出期限は十五時三十分だ。遅れるな』
「了解」
通信が切れる。
後部座席の男は、書類ケースを見下ろした。
中には、実験の再開を可能にするための資料が入っている。
その最後の承認欄。
そこに署名をするよう求められていた。
だが。
男は、まだ署名していなかった。
「……本当に、これでいいのか」
誰にも聞こえない声で呟く。
そのとき。
運転手が、突然声を上げた。
「……何だ!?」
車両の前方。
道路の様子が、奇妙に見えた。
白線が歪んでいる。
いや。
道路そのものは変わっていない。
ただ、そこに注意を向けるたび、周囲の景色との位置関係が分からなくなる。
「……どうした?」
警備員が尋ねる。
「……分からない。前方に誰かいたような……」
その瞬間。
車両の速度が、ゆっくりと落ち始めた。
運転手が、アクセルを踏む。
だが、車は加速しない。
「……故障か!?」
警備員が、周囲を見渡した。
そのとき。
車両の隣に、一人の少年が立っていることに気づいた。
黒髪に混じる銀色の髪。
灰紫色の瞳。
そして、両手をポケットへ入れたままの姿。
「……まさか」
警備員の顔色が変わった。
久遠零司。
ZERO。
少年は、窓越しに軽く笑った。
「こんにちは」
◇
「……何の用だ」
後部座席の男が、低い声で尋ねた。
零司は、窓の外から答えた。
「ちょっと書類を見せてほしくて」
「……書類?」
「臨時再開審査のやつ」
男の表情が変わった。
「……貴様、何者だ」
「久遠零司」
少年は、あっさりと答えた。
「最近、君たちの研究を邪魔してる人」
運転手が、息を呑む。
警備員が腰の拳銃へ手を伸ばした。
しかし。
「……やめた方がいいよ」
零司が、静かに告げた。
その直後。
車内の金属製シートレールが、音を立てて変形した。
ガギンッ!
座席の位置が固定される。
同時に、警備員の腕へ伸びていた拘束用の金具が、銃を抜く動きを妨げた。
「……っ!?」
警備員が、目を見開いた。
零司は、車内を覗き込んだ。
「話だけで済ませたいんだけど」
数秒の沈黙。
そして。
後部座席の男が口を開いた。
「……何が聞きたい」
零司は笑った。
「君、まだ署名してないでしょ?」
男の表情が凍りついた。
◇
午後一時二分。
第十八学区、河川管理道路。
「……つまり」
御坂美琴は、男が差し出した資料を確認していた。
「この審査には、あんたの確認が必要なのね?」
「……そうです」
男は、疲れたように答えた。
安全性確認部門の審査担当者。
彼は、絶対能力進化計画における実験設備や対象個体の状態を確認する立場にあった。
ただし、研究そのものを決定する権限は持たない。
「……どうして、署名してないの?」
美琴が尋ねる。
男は、視線を落とした。
「……必要な資料が揃っていません」
「資料?」
「実験方式を変更したという報告は受けています」
男は続けた。
「しかし、具体的に何が変更されたのか、十分な説明がない」
零司が、少しだけ眉を上げた。
「じゃあ、安全かどうか分からないんだ」
「……はい」
「それなのに、署名しろって?」
男は、黙って頷いた。
美琴の表情が険しくなる。
「……ふざけてる」
その言葉に、男は何も答えなかった。
零司は、資料を一枚めくった。
《安全性確認》
《実験方式変更後の評価》
《対象個体の管理条件》
《重大な危険性:評価未了》
最後の項目に、赤い印が付けられている。
「……これ」
零司が指差した。
「まだ終わってないって書いてあるね」
「……はい」
「じゃあ、署名できないでしょ」
男は、ゆっくりと顔を上げた。
「……あなた方は」
そして、零司と美琴を見比べる。
「……何を望んでいるのですか」
美琴が答えようとした。
しかし。
零司の方が早かった。
「君に、正しい判断をしてほしいだけ」
男の目が僅かに開かれる。
「……正しい判断?」
「調べ終わってないなら、終わってないって書けばいい」
零司は、書類を返した。
「それだけ」
男は、しばらく紙を見つめていた。
そして。
「……その結果、私がどうなるか」
低い声。
「……分かっていますか」
美琴の表情が変わる。
「……脅されてるの?」
男は答えなかった。
だが、その沈黙は肯定に近かった。
「……署名しなければ、別の担当者を用意すると言われています」
男は、静かに続けた。
「それだけなら、まだいい」
そして。
「……これまでの研究記録について、私の責任を問うとも」
美琴が歯を食いしばった。
「……そんなの!」
零司は、男を見つめた。
数秒の沈黙。
そして。
「……そっか」
静かに答えた。
「じゃあ、君を脅してる人にも会わないとね」
◇
午後一時十一分。
第十八学区、臨時審査管理室。
「……まだ到着しない?」
管理責任者が、時計を睨んだ。
「提出期限まで四時間以上ありますが……」
「時間の問題ではない」
男は、苛立った様子で答えた。
「安全性確認が完了しなければ、実験の再開審査を進められん」
隣の研究員が、端末を操作する。
《臨時再開審査》
《安全性確認:未了》
《審査進行:保留》
「……まだ、署名がないのか」
「はい」
そのとき。
通信装置が鳴った。
『緊急報告』
「何だ」
『書類搬送車両が停止しました』
「……何?」
『現場にZEROがいます』
管理責任者の表情が変わった。
「……また、あの少年か!」
男は、机を叩いた。
そして。
「……代替手続きを準備しろ」
研究員が顔を上げる。
「……代替、ですか?」
「ああ」
男は、別の端末を開いた。
そこには、すでに作成された書類が表示されている。
《安全性確認》
《確認結果:適合》
《担当者署名:代行認証準備》
研究員が、息を呑んだ。
「……これ」
「問題ない」
管理責任者は、冷たく答えた。
「必要なのは、審査を進めるための記録だ」
「……ですが、本人の確認が!」
「後で調整すればいい」
男は、端末を操作した。
《代行認証処理》
《実行準備》
その指が、確定操作へ伸びる。
しかし。
次の瞬間。
端末の画面が、突然暗転した。
「……何!?」
研究員が、慌てて操作する。
電源は入っている。
通信も生きている。
だが、認証操作だけが受け付けられない。
「……故障か!?」
そのとき。
部屋の入口から、少女の声が響いた。
「――故障じゃないわよ」
御坂美琴だった。
◇
「……第三位!?」
研究員が叫ぶ。
美琴は、端末を一瞥した。
「……やっぱり」
その身体から、青白い火花が散る。
「確認してない書類を、確認したことにするつもりだったのね」
管理責任者が立ち上がった。
「……ここは立入禁止だ!」
「知ってるわよ!」
美琴は、端末の画面を指差した。
「でも、あんたたちがやろうとしてることは何!?」
「……研究上の手続きだ」
「嘘つかないで!」
美琴の声が響く。
「担当者本人が署名してないのに、適合したことにするなんて!」
男は、答えなかった。
その代わり。
壁際に立っていた警備員へ視線を送った。
次の瞬間。
複数の男たちが動いた。
「……拘束しろ!」
警棒。
防護盾。
そして、非金属製の拘束具。
第三位への対策だった。
しかし。
美琴は、笑った。
「……甘いわね!」
床の下。
建物の構造材に含まれる鉄。
さらに、周囲に散らばる微細な金属粒子。
それらが、磁力によって集まり始める。
黒い砂鉄の帯が、床を這った。
ガギンッ!
警備員の足首へ絡みつく。
一人が転倒。
続いて、別の男が盾を落とした。
「……くそっ!」
そのとき。
背後の防火扉が閉まり始めた。
ガコンッ!
美琴が振り返る。
「……また、そういう仕掛け!」
しかし。
次の瞬間。
防火扉の動きが止まった。
金属製の支持部が、内側から僅かに変形する。
そのまま、扉は開いた状態で固定された。
美琴は、目を瞬かせた。
そして。
「……久遠!」
廊下の向こう。
零司が立っていた。
両手は、ポケットに入ったまま。
「……間に合った?」
「……もう少し早く来なさいよ!」
「ごめんごめん」
零司は、室内へ入った。
管理責任者が、顔色を変える。
「……ZERO!」
零司は、男を見た。
「こんにちは」
そして。
「君が、代わりに署名しようとしてた人?」
男の表情が、凍りついた。
◇
午後一時十六分。
臨時審査管理室。
「……代行認証は、正式な手続きだ!」
管理責任者が叫んだ。
零司は、端末の画面を見た。
「そうなんだ」
「担当者が不在の場合、必要な権限を持つ者が代行できる!」
「へえ」
零司は、画面を見つめた。
そこには、代行認証の入力欄が表示されている。
《代行認証理由》
《担当者不在》
《緊急性》
《確認責任の引継ぎ》
その下。
《確認資料:未添付》
零司は、首を傾げた。
「でも、確認資料がないね」
男が、顔を歪める。
「……後から提出すればいい!」
「そう?」
零司は、少しだけ笑った。
「じゃあ、君が確認したことにするんだ」
「……何?」
「安全だって、君が保証するんでしょ?」
男は、黙った。
零司は続ける。
「その結果、誰かが死んでも?」
「…………」
「君が責任を持つんだね」
数秒の沈黙。
男の額に、汗が浮かんだ。
「……貴様」
その声が震える。
「……脅しているのか」
零司は、首を傾げた。
「脅してないよ」
そして。
「確認したことにするなら、確認した人が責任を持つんでしょ?」
男は、何も答えなかった。
零司は、端末へ視線を戻した。
「……まあ」
少しだけ笑う。
「僕は、君の名前を覚えておくけど」
その言葉に。
男の表情が、完全に強張った。
御坂美琴は、隣で黙っていた。
零司の言い方が穏やかであることと、相手に与える圧力が小さいことは、まったく別だった。
そして。
彼が本気で脅すつもりなら、もっと直接的な方法を選ぶだろう。
そのことを、美琴は知っていた。
◇
午後一時二十八分。
同管理室。
《臨時再開審査》
《安全性確認:未了》
《代行認証:取り下げ》
《審査進行:保留》
美琴は、画面を確認した。
「……止まった」
小さく呟く。
零司は、隣から覗き込んだ。
「よかったね」
「……まだ、よくないわよ」
美琴は、端末を閉じた。
「また別の人が認証するかもしれない」
「そうだね」
「それに、今のは一つの申請でしょ?」
「うん」
零司は、あっさりと頷いた。
「だから、まだ終わってない」
その言葉に、美琴は顔を上げた。
「……分かってるじゃない」
「そりゃね」
零司は、机に置かれた書類を見た。
実験方式の変更。
安全性確認。
臨時再開申請。
それらを承認する複数の担当者。
確かに、計画を支える仕組みは存在する。
しかし。
その仕組みは、決して一つではなかった。
「……ねえ、御坂さん」
「何?」
「一つ、気づいたことがあるんだけど」
零司は、資料を一枚取り出した。
《絶対能力進化計画》
《実験運用条件》
《対象個体:量産型能力者》
《協力能力者:一方通行》
美琴の表情が変わった。
「……それが?」
「研究者が何人いても、承認する人が何人いても」
零司は、静かに続けた。
「最後に実験する人は、決まってるんだよね」
美琴は、しばらく資料を見つめた。
そして。
「……一方通行」
小さく呟いた。
零司が頷く。
「そう」
少年は、資料を机へ戻した。
「彼が実験に参加しなければ、少なくとも今の方式は成立しない」
その言葉に。
美琴は、何も答えなかった。
研究施設。
輸送部門。
観測管理。
承認手続き。
それらを一つずつ止めても、研究者たちは別の手段を用意する。
だが。
一方通行という能力者だけは、簡単に代わりを用意できない。
「……だったら」
美琴が、ゆっくりと顔を上げた。
「……あいつを止めればいい」
零司は、少しだけ笑った。
「そうだね」
「……でも」
美琴は、拳を握りしめた。
「……簡単じゃないわよ」
第一位。
学園都市最強の超能力者。
その反射は、通常の攻撃を通さない。
実際、美琴自身の電撃も砂鉄も、まともに届かなかった。
「……あいつを倒すには」
美琴が呟く。
「……あの反射をどうにかしないと」
零司は、資料を見つめていた。
そして。
「……それは、そうだね」
静かに答えた。
だが、その声に焦りはなかった。
「でも、倒すことと、実験をやめさせることは同じじゃないよ」
美琴が顔を上げる。
「……どういう意味?」
「勝ったからって、相手が考えを変えるとは限らないでしょ」
零司は続けた。
「一方通行が負けたとしても、また実験へ戻るなら意味がない」
美琴は、しばらく黙っていた。
そして。
「……じゃあ、どうするの?」
零司は、少しだけ考えた。
昨日までの戦闘。
第一位の反射。
あの異常な計算能力。
そして、妹達へ向ける冷たい態度。
「……まずは」
零司が、静かに笑った。
「本人に聞いてみようかな」
◇
午後三時四十分。
第七学区、久遠零司の自宅。
「……一方通行に会う?」
N-13が、顔を上げた。
零司は頷いた。
「うん」
「……また戦うの?」
「どうだろうね」
少年は、ソファへ腰を下ろした。
「向こうがその気なら、戦うことになるかも」
N-12が、包帯の巻かれた左腕を見下ろした。
「……危なくない?」
「それは、相手次第かな」
零司は、あっさりと答えた。
その様子を見ていた九九七一号が、静かに口を開く。
「質問があります」
「何?」
「一方通行は、ミサカたちの死亡を実験結果として扱っています」
零司が頷く。
「そうだね」
「その認識を変更することは、可能なのでしょうか」
零司は、少しだけ考えた。
「分からない」
即答だった。
「本人が変える気にならなければ、難しいと思うよ」
九九七二号が口を開く。
「では、ミサカたちにできることはありますか」
零司は、三人を見た。
九九七一号。
九九七二号。
九九七三号。
昨日まで死ぬ予定だった少女たち。
今は、同じ部屋で暮らしている。
「……君たちが決めればいいよ」
九九七三号が、目を瞬かせた。
「……ミサカたちが?」
「そう」
零司は頷いた。
「一方通行と話したいなら、話せばいい」
そして。
「会いたくないなら、会わなくていい」
九九七一号は、しばらく黙っていた。
やがて。
「……ミサカは」
静かに口を開く。
「……一方通行へ、伝えたいことがあります」
N-13が顔を上げた。
「……何を?」
九九七一号は、自分の手元を見た。
そこには、飲みかけの缶ジュース。
昨日まで知らなかった味。
そして、昨日まで存在しなかった日常。
「ミサカは、現在も生存しています」
静かな声。
「それを、直接伝えたいと考えています」
九九七二号が頷く。
「同意します」
九九七三号も顔を上げた。
「ミサカも、同じです」
零司は、三人を見つめた。
そして。
「……そっか」
小さく笑った。
「じゃあ、会うときは一緒に考えよう」
N-13が、少しだけ眉をひそめる。
「……でも、危ないよ」
「そうだね」
零司は頷いた。
「だから、まずは僕が会ってくる」
◇
午後七時二十一分。
学園都市第七学区。
白髪の少年が、コンビニの前に立っていた。
手には、缶コーヒー。
赤い瞳。
細い身体。
学園都市第一位。
一方通行。
「……チッ」
少年は、携帯端末を睨んでいた。
画面には、研究側からの通知が表示されている。
《絶対能力進化計画》
《実験予定:暫定保留》
《臨時再開審査:未了》
《次回実験:日程調整中》
「……またかよ」
一方通行は、低く呟いた。
ここ数日。
実験は、ことごとく妨害されている。
九九七一号。
九九七二号。
九九七三号。
そのすべてが生存している。
そして。
毎回、同じ少年が現れる。
久遠零司。
自称、第零位。
「……あの野郎」
一方通行は、缶コーヒーを開けた。
一口飲む。
苦い。
その味に、顔をしかめる。
次の瞬間。
背後から声が響いた。
「……こんばんは」
一方通行の目が細くなる。
振り返る。
そこには、一人の少年が立っていた。
黒髪に混じる銀色の髪。
灰紫色の瞳。
そして、両手をポケットへ入れたままの姿。
久遠零司。
「……テメェ」
一方通行の口元が、ゆっくりと歪んだ。
「……ようやく来やがったか」
零司は、軽く笑った。
「探したよ」
「……ハッ!」
白髪の少年が、笑う。
「俺も、テメェに用があったところだ」
「そう?」
「……あァ」
一方通行は、ゆっくりと歩き出した。
その赤い瞳が、獰猛に細くなる。
「……俺の実験を、何度も邪魔してくれたよなァ」
零司は頷いた。
「うん」
「……しかも、研究所まで引っ掻き回して」
「そうだね」
「……クカカッ!」
一方通行が、声を上げて笑った。
そして。
「……何が目的だ?」
零司は、少しだけ考えた。
「……そうだね」
その灰紫色の瞳が、白髪の少年を捉える。
「君に、聞きたいことがある」
「……あァ?」
「妹達を殺す実験」
零司は、静かに続けた。
「君、まだ続けたいの?」
その瞬間。
一方通行の笑みが消えた。
数秒の沈黙。
そして。
「……テメェ」
赤い瞳が、鋭くなる。
「……何が言いてェ」
零司は、動かなかった。
両手も、ポケットに入れたまま。
その表情に、恐怖はない。
ただ、目の前の少年を見つめている。
「別に」
静かな声。
「君の本音を聞きたいだけ」
その言葉に。
一方通行が、低く笑った。
「……クカカッ」
そして。
「……だったら、教えてやるよ」
白髪の少年が、一歩前へ出た。
足元のアスファルトが、僅かに軋む。
「……俺が何のために実験してンのか」
その赤い瞳が、獰猛に細くなる。
「……テメェ自身の身体で、確かめてみろ」
零司は、少しだけ笑った。
「……それ、答えになってないよ」
数秒の沈黙。
そして。
一方通行の口元が、大きく歪んだ。
「……上等だァ」
次の瞬間。
二人の間にあった空き缶が、地面から跳ね上がった。
誰も触れていない。
しかし、その表面には異常な力が働いている。
一方通行のベクトル操作。
そして、零司の万象演算。
二つの能力が、同じ物体へ同時に作用し始めていた。
だが。
零司は、まだ戦うつもりではなかった。
少なくとも。
相手の答えを聞くまでは。
学園都市第一位。
そして、非公式の第零位。
三度目の対峙。
今度は、どちらが強いかを確かめるためだけの戦いではない。
絶対能力進化計画を続けるのか。
それとも、終わらせるのか。
その答えを巡る対立が、始まろうとしていた。