八月十六日、午前九時七分。
学園都市第七学区。
「……また増えるの?」
N-13が、呆れたように呟いた。
その視線の先。
久遠零司は、不動産情報の表示された端末を眺めていた。
「まだ増えるって決まったわけじゃないよ」
「……でも、探してる」
「広い部屋?」
「……うん」
零司は笑った。
「それは前からでしょ」
現在、この部屋には六人が暮らしている。
零司。
N-12。
N-13。
そして、ミサカ九九七一号から九九七三号までの三人。
もともと一人で生活することを想定した部屋だ。
当然、全員が十分な個室を確保できるわけではない。
ソファは九九七一号と九九七二号が交代で使い、寝具は床まで広がっている。
「……零司」
N-12が、包帯の巻かれた左腕を庇いながら口を開いた。
「……そろそろ、本当に限界」
「そうだねぇ」
「……昨日も同じこと言った」
「今日はちゃんと探してるよ」
そう言って、端末を掲げる。
そこには複数の賃貸物件が表示されていた。
ただし、条件は一般的な引っ越しとは少し違う。
広さ。
部屋数。
出入口の数。
そして、外部から監視されにくい構造。
研究施設から逃げ出した少女たちと暮らす以上、単純に広いだけでは不十分だった。
「……質問があります」
九九七一号が、テーブルから顔を上げた。
「何?」
「ミサカたちが生活するために、新しい住居を確保する必要があるのでしょうか」
「まあね」
零司は頷いた。
「君たち、これからもここにいるんでしょ?」
「……はい」
「だったら、広い方がいいじゃん」
九九七一号は、少しだけ考えた。
「……了解しました」
その隣。
九九七二号が、静かに口を開く。
「ミサカは、個人用の収納設備を希望します」
「収納?」
「はい。購入した飲料や私物を保管する場所が必要です」
零司は、目を瞬かせた。
「私物、増えたの?」
「はい」
九九七二号は、足元に置かれた小さな袋を持ち上げた。
中には、昨夜購入した菓子と飲み物が入っている。
「他の個体と区別して管理したいと考えています」
「……なるほど」
零司は笑った。
「じゃあ、棚も必要だね」
そのとき。
九九七一号の表情が変わった。
「……異常を確認しました」
零司が顔を向ける。
「何?」
「ミサカネットワークに、通常と異なる情報が共有されています」
九九七二号と九九七三号も、ほぼ同時に顔を上げた。
「……何かあった?」
N-13が尋ねる。
九九七一号は、少しだけ目を伏せた。
数秒後。
「ミサカ九九七四号からの情報です」
零司の目が細くなる。
「……内容は?」
少女は、静かに答えた。
「実験予定とは異なる理由によって、複数の個体が移送されるとのことです」
「……移送?」
「はい」
そして。
「移送に際して、対象個体の管理区分が変更されると通知されています」
N-12が眉をひそめた。
「……管理区分?」
九九七三号が、静かに口を開く。
「ミサカたちには、複数の管理区分が存在します」
「……どんな?」
「実験対象。待機個体。調整中個体。その他の研究用個体です」
その説明に、N-13が顔をしかめた。
「……物みたい」
「研究施設では、そのように扱われています」
九九七三号は、淡々と答えた。
零司は、端末を置いた。
「……それで、九九七四号は?」
九九七一号が、少しだけ間を置く。
「現在、移送準備中とのことです」
「場所は?」
「正確な位置情報は共有されていません」
「……そう」
零司は、ソファから立ち上がった。
そのとき。
九九七一号が、再び顔を上げた。
「……追加の通信があります」
全員が少女を見る。
九九七一号は、静かに続けた。
「九九七四号から、直接の質問です」
「何て?」
数秒の沈黙。
そして。
「……実験は止まったはずなのに、どうしてミサカたちは連れて行かれるのでしょうか」
部屋が静まり返った。
零司は、少しだけ考えた。
「……さあね」
そして、携帯端末を手に取った。
「御坂さんに連絡してみようか」
◇
同日、午前八時二十五分。
第十八学区、研究管理施設。
「……実験方式の再評価は継続しています」
研究員が報告した。
その正面。
黒いスーツを着た男が、端末を確認していた。
真壁。
絶対能力進化計画に関係する運用管理部門の統括担当者だった。
男は、画面を切り替える。
《絶対能力進化計画》
《通常実験:暫定保留》
《協力能力者:一方通行》
《参加意思:不確定》
真壁は、僅かに眉をひそめた。
「……第一位まで態度を変えるとはな」
研究員が頷く。
「昨日の接触以降、研究側への回答を保留しています」
「久遠零司か」
「はい」
男は、しばらく画面を見つめていた。
非公式の第零位。
久遠零司。
研究所への介入。
妹達の救出。
そして、実験再開手続きへの妨害。
そのうえ、一方通行本人にまで接触した。
「……面倒な相手だ」
真壁は呟いた。
そのとき、別の研究員が資料を差し出す。
「量産個体の管理再編について、承認をお願いします」
真壁は資料を受け取った。
《量産個体管理再編計画》
《対象:一部待機個体》
《目的:研究資材の再配置》
その下には、複数の管理番号が並んでいた。
《九九七四号》
《九九七五号》
《九九七六号》
《九九七七号》
真壁は、次のページを開いた。
《再編後の管理区分》
《継続研究対象:選別》
《研究利用終了個体:処理》
そこで指が止まる。
「……処理?」
「はい」
研究員が答えた。
「現在の実験方式で使用する予定だった個体の一部を、研究管理上の対象から除外します」
「除外した後は?」
「施設の規定に従って処分します」
真壁は、研究員を見た。
「……生存したまま保管するのではないのか」
「維持費と管理上の危険性を考慮した結果です」
研究員は、平然と答えた。
「特に、ミサカネットワークを通じて他個体へ影響を及ぼす可能性があるため、管理対象の削減が提案されています」
真壁は、少しだけ考えた。
実験の暫定保留。
第一位の協力意思の変化。
そして、妹達の独自行動。
研究側にとって、計画の前提が次々と崩れている。
ならば。
「……必要な個体だけを残す、か」
真壁は、資料へ視線を戻した。
「実験の保留とは、別の手続きだな?」
「はい。研究資材の管理上の措置として処理できます」
「……分かった」
男は頷いた。
「進めろ」
それだけだった。
四人の少女の運命は、数行の書類によって変更された。
◇
午前十一時十八分。
第十八学区、共同研究監理棟。
「……これは」
榊原は、画面に表示された資料を見つめていた。
数日前。
久遠零司の介入によって、絶対能力進化計画の再評価申請を提出した男。
共同研究監理棟の運用責任者だった。
その端末に、新しい通知が届いている。
《量産個体管理再編》
《対象個体:四体》
《移送先:第十八学区・第四医療管理棟》
《管理処理予定:本日》
榊原は、眉をひそめた。
「……管理処理?」
さらに、資料を開く。
そこには、具体的な処理内容が記されていた。
研究利用終了個体の廃棄。
生体管理の終了。
そして、記録の整理。
「……馬鹿な」
男は、思わず呟いた。
絶対能力進化計画は暫定保留中。
だが、その保留は戦闘実験を対象としたものだった。
研究側は、管理区分の変更によって、別の手続きを進めようとしている。
「……これでは」
榊原は、椅子から立ち上がった。
「……結局、同じことではないか」
四体。
数字にすれば、それだけ。
だが、その数字が意味するものを、榊原は理解していた。
生きた人間が四人。
そして、研究利用が終了したという理由だけで、処分されようとしている。
男は、端末を操作した。
《異議申請》
《管理処理の再確認要求》
しかし。
画面には、別の表示が現れた。
《申請権限なし》
「……何?」
榊原は、別の項目を確認した。
管理再編は、共同研究監理部門の審査対象から外されている。
つまり。
この施設からは、正式な停止申請を出せない。
「……そういうことか」
男は、深く息を吐いた。
絶対能力進化計画。
その研究を支える組織は、複数存在している。
だが、それぞれの組織が担当する範囲は異なる。
戦闘実験を止めても、管理部門が別の理由で個体を処分できる。
その抜け道を、研究側は利用したのだ。
榊原は、資料を見つめた。
そして。
「……ふざけるな」
小さく呟いた。
自分も、この研究に関与してきた。
承認記録を管理し、必要な書類を処理してきた。
少女たちが死亡することを知りながら、仕事として受け入れてきた。
今さら、自分だけが正しい人間だと主張するつもりはない。
だが。
実験を保留した直後に、別の理由で同じ少女たちを処分する。
その手続きを、何も見なかったことにはできなかった。
榊原は、資料の複製を開始した。
◇
正午十二時三分。
第七学区、某喫茶店。
「……研究資材の再配置?」
御坂美琴が、端末を睨んだ。
久遠零司は、向かいの席でコーヒーを飲んでいた。
「そうらしいね」
「……実験は止まってるのに?」
「止まってるのは、戦闘実験だけだから」
美琴は、顔をしかめた。
「……嫌な予感がする」
「僕も」
零司は、あっさりと答えた。
そのとき。
美琴の携帯端末が振動した。
画面に表示されたのは、研究管理部門の資料だった。
「……あれ?」
美琴が眉をひそめる。
「……何これ」
昨日まで調査していた管理系統。
そこに、新しい記録が追加されていた。
《量産個体管理再編》
《対象:九九七四号〜九九七七号》
《移送先:第四医療管理棟》
美琴の表情が変わる。
「……久遠!」
零司が顔を上げる。
「何?」
「……見つけた!」
端末を差し出す。
「九九七四号たちの移送先!」
零司は、画面を確認した。
そして。
「……第四医療管理棟」
小さく呟く。
その下には、処理予定時刻が記されていた。
《管理処理予定:十四時》
零司の目が細くなる。
「……あと二時間か」
美琴が立ち上がった。
「行くわよ!」
「そうだね」
零司も、椅子から立ち上がる。
そのとき。
端末に、もう一つの通知が届いた。
《管理上の注意》
《対象個体の研究利用終了に伴い、生体管理を停止》
美琴の顔色が変わった。
「……生体管理を停止?」
零司は、画面を見つめた。
数秒の沈黙。
そして。
「……なるほど」
静かな声。
「実験ができないなら、使わない子を処分するってことか」
美琴は、拳を握りしめた。
「……どこまで!」
零司は、端末を置いた。
その表情から、笑みが消えていた。
「……行こうか」
◇
午後一時二十一分。
第十八学区、第四医療管理棟。
白い建物だった。
外壁には、研究医療施設を示す案内板。
入口には、通常の病院と変わらない受付。
だが、建物の奥には、関係者しか入れない隔離区画が存在していた。
「……ここね」
美琴が、建物を見上げる。
「うん」
零司は頷いた。
そのとき。
携帯端末が振動する。
N-12からの連絡だった。
『……零司』
「何?」
『……九九七四号から、また通信があった』
「内容は?」
『……移送された先で、ほかのミサカたちと一緒にいるって』
「……そう」
『……それと』
N-12の声が、僅かに震えた。
『……処分って言葉を聞いたみたい』
零司は、建物の入口を見た。
「分かった」
『……助けられる?』
数秒の沈黙。
そして。
「今から行くよ」
零司は、静かに答えた。
通話を切る。
その隣で、美琴が建物を睨んでいた。
「……もう、我慢できない」
青白い火花が、少女の身体から散る。
零司は、少しだけ笑った。
「じゃあ、先に行く?」
「……言われなくても!」
美琴が、入口へ向かった。
◇
午後一時二十六分。
第四医療管理棟、地下隔離区画。
「……対象個体の処理準備が完了しました」
研究員が報告した。
監視室の中央。
医療管理責任者が、端末を確認している。
《対象個体》
《九九七四号》
《九九七五号》
《九九七六号》
《九九七七号》
四体。
いずれも、待機個体として管理されていた少女たちだった。
「……処理開始まで、三十四分か」
責任者が呟く。
そのとき。
警報が響いた。
《警告》
《第一階層:不正侵入》
「……何?」
研究員が、顔を上げる。
監視モニターが切り替わった。
そこには、二人の人物が映っている。
茶色い髪の少女。
そして、黒髪に銀色の髪が混じる少年。
「……第三位!?」
研究員が叫ぶ。
さらに。
「……ZERO!」
責任者の顔色が変わった。
その瞬間。
画面が大きく揺れた。
ガギギギッ!
入口を塞ぐ厚い金属製の隔壁。
その固定部分が、突然変形し始めた。
ボルトが外れる。
支持部が歪む。
そして。
ドォンッ!
巨大な隔壁が、壁の内側へ倒れ込んだ。
その向こう。
久遠零司が、両手をポケットに入れたまま立っていた。
「……こんにちは」
静かな声。
「ここに、女の子が四人いるでしょ?」
責任者は、答えなかった。
その代わり。
警備員へ向かって叫んだ。
「……侵入者を排除しろ!」
◇
ガガガガッ!
銃声が響いた。
しかし、零司には届かない。
発射された弾丸は、途中で軌道を変え、壁や天井へ突き刺さっていく。
「……っ!?」
警備員たちが、目を見開いた。
その直後。
零司の周囲で、床材が大きく変形した。
ガギンッ!
金属製の支持部がせり上がる。
警備員の足元を塞ぎ、身体の自由を奪った。
「……ぐっ!?」
一人が倒れる。
続いて、別の男の武器が手元から弾き飛ばされた。
零司は、一歩も動いていなかった。
「……ねえ」
静かな声。
「僕、急いでるんだけど」
次の瞬間。
廊下の奥から、別の警備員が現れた。
その手には、特殊な発射装置。
銃身から、複数の硬質弾が放たれる。
しかし。
弾丸が零司へ届くより早く、発射装置そのものが変形した。
ガギンッ!
「……何!?」
男が、目を見開く。
その直後。
足元の床が、僅かに沈んだ。
身体が崩れる。
男は、そのまま壁際へ倒れ込んだ。
「……はい、終わり」
零司は、廊下を見渡した。
警備員たちは、全員動けなくなっている。
だが、誰も死亡していない。
その後ろから、美琴が歩いてきた。
「……珍しいじゃない」
「何が?」
「全員、生かしてる」
零司は、少しだけ笑った。
「今日は面倒だからね」
「……どういう意味よ」
「死体が増えると、後片づけが大変でしょ」
「……あんたねぇ」
美琴は、深く息を吐いた。
そのとき。
廊下の奥から、警報が響き始めた。
《警告》
《隔離区画:緊急封鎖》
《環境制御設備:作動》
美琴の表情が変わる。
「……何!?」
次の瞬間。
通路の換気音が止まった。
さらに、天井から機械的な音が響き始める。
隔離区画の空気環境を変更する設備が作動したのだ。
「……こいつら!」
美琴が、歯を食いしばる。
だが。
零司は、天井を見上げただけだった。
「……そういうの、やめてほしいな」
次の瞬間。
設備の内部から、金属音が響いた。
ガギンッ!
閉じられた換気経路が、再び開く。
内部の弁が変形し、気体の供給経路が遮断された。
続いて、空気が動き始める。
隔離区画内の圧力差が調整され、正常な換気が回復していく。
「……なっ!?」
監視室で、研究員が叫んだ。
「……環境制御が、解除された!?」
零司は、廊下の奥へ向かった。
「……さて」
その灰紫色の瞳が、僅かに細くなる。
「今度は、ちゃんと女の子を返してもらおうか」
◇
午後一時三十四分。
第四医療管理棟、隔離室。
「……質問があります」
ミサカ九九七四号が口を開いた。
室内には、同じ顔をした少女が四人並んでいる。
全員、白い検査着を着用していた。
「ミサカたちは、これからどうなるのでしょうか」
監視装置から、研究員の声が返ってくる。
『管理処理を行う』
「……管理処理?」
『そうだ』
九九七四号は、少しだけ考えた。
「ミサカたちは、実験への参加を予定されていました」
『計画が変更された』
「……そうですか」
少女は、静かに頷いた。
だが、その隣。
九九七五号が口を開いた。
「……質問があります」
『何だ』
「管理処理とは、死亡を伴うのでしょうか」
数秒の沈黙。
そして。
『……そうだ』
その瞬間。
室内が静まり返った。
九九七六号が、僅かに目を伏せた。
九九七七号は、自分の手を見つめている。
九九七四号は、しばらく黙っていた。
やがて。
「……確認します」
静かな声。
「ミサカたちは、実験に参加しなくても死亡するということでしょうか」
『そういうことになる』
九九七四号は、目を閉じた。
数日前。
ミサカネットワークを通じて、九九七一号から情報を受け取った。
実験へ参加せず、生存した個体。
その個体が、今も生活している。
朝食を食べ。
飲み物を選び。
誰かと会話している。
その情報は、九九七四号にとって理解しにくいものだった。
だが。
今は、少しだけ分かる。
「……ミサカは」
少女が口を開いた。
その声が、僅かに震える。
「……死にたくありません」
その瞬間。
監視装置の向こうで、研究員が何かを操作した。
だが。
次の瞬間。
ガギギギッ!
隔離室の壁が、突然変形し始めた。
「……何?」
九九七四号が、目を見開く。
金属製の隔壁。
その一部が、ゆっくりと外側へ開いていく。
そして。
「……やあ」
聞き慣れない声が響いた。
黒髪に銀色の髪が混じる少年。
久遠零司。
その隣には、御坂美琴。
「……迎えに来たよ」
零司が、静かに笑った。
◇
午後一時四十二分。
第四医療管理棟、地下管理室。
「……四体とも、救出された!?」
管理責任者が、声を荒げた。
研究員が、青ざめた顔で頷く。
「はい……!」
「……警備は!?」
「全員、行動不能です!」
「……馬鹿な!」
責任者は、机を叩いた。
そのとき。
端末に、新しい通知が表示された。
《量産個体管理再編》
《処理対象:四体》
《結果:実施不能》
《外部能力者介入:ZERO》
男は、画面を睨んだ。
「……また、あの少年か!」
そして。
「……上位管理者へ報告しろ!」
研究員が、慌てて端末を操作する。
そのころ。
零司たちは、すでに建物の外へ出ていた。
◇
午後一時五十二分。
第十八学区、研究管理施設。
榊原は、資料を片手に廊下を歩いていた。
午前中に確認した管理再編計画。
その内容は、明らかに異常だった。
だが。
自分の権限では、正式に停止できない。
そのため、男は別の方法を選んでいた。
資料の複製。
そして、外部への通報。
少なくとも、研究側が何をしようとしているのかを記録として残す必要がある。
「……これで」
榊原は、手元の端末を見つめた。
そこには、資料の送信履歴が表示されている。
移送先。
処理予定。
そして、承認者の記録。
それらが、複数の外部窓口へ送られていた。
「……あとは」
男が呟いた。
そのとき。
背後から声が響いた。
「……榊原さん」
男が振り返る。
そこには、黒いスーツを着た人物が立っていた。
「……何でしょうか」
「少し、お話が」
榊原は、相手を見つめた。
見覚えのない男だった。
だが、その胸元には研究管理部門の身分証が下げられている。
「……何の件ですか」
「本日の管理再編についてです」
榊原の表情が変わった。
「……そうですか」
男は、静かに答えた。
「では、私からも確認したいことがあります」
その瞬間。
黒いスーツの男が、懐へ手を伸ばした。
榊原の目が見開かれる。
そして。
乾いた銃声が、廊下に響いた。
◇
午後二時十一分。
第七学区。
「……四人とも、無事?」
N-13が、玄関へ駆け寄った。
「うん」
零司が答える。
その後ろには、四人の少女。
九九七四号。
九九七五号。
九九七六号。
九九七七号。
全員、研究施設から救出されたばかりだった。
「……おかえり」
N-13が、小さく笑った。
九九七四号が、目を瞬かせる。
「……おかえり?」
「……うん」
N-13は頷いた。
「……ここに来たら、そう言うんだよ」
少女は、少しだけ考えた。
そして。
「……ただいま、でよろしいのでしょうか」
「……うん」
N-13が笑った。
「……おかえり」
そのやり取りを、零司は少し離れた場所から見ていた。
だが。
そのとき。
携帯端末が振動した。
御坂美琴からの着信。
「……何?」
『……久遠』
美琴の声は、いつもと違っていた。
「どうしたの?」
『……榊原って研究者、覚えてる?』
零司は、少しだけ考えた。
「共同研究監理棟の責任者?」
『そう』
「……それが?」
数秒の沈黙。
そして。
『……死んだって』
零司の目が、僅かに細くなった。
◇
「……死んだ?」
零司が、静かに聞き返した。
『……うん』
美琴の声が、低くなる。
『今日、研究施設の廊下で撃たれたらしい』
「……へえ」
『……何よ、その反応』
「別に」
零司は、ソファへ腰を下ろした。
「……それで?」
『……それで、じゃないでしょ!』
美琴の声が強くなる。
『あの人、実験を止めるための申請を出した人なのよ!』
「僕が頼んだんだけどね」
『……でも!』
数秒の沈黙。
そして。
『……今日も、資料を外へ送ってたみたい』
零司の表情が変わった。
「……資料?」
『そう』
美琴は続けた。
『九九七四号たちの処分計画について、外部へ通報していたらしいの』
零司は、しばらく黙っていた。
そして。
「……なるほど」
小さく呟いた。
『……何が?』
「今日、君が見つけた資料」
零司は、端末へ視線を向けた。
「……あれ、榊原さんが流したのかもしれないね」
『……そうみたい』
美琴の声が、沈む。
『私たちが四人を助けられたのも、あの人が資料を残してくれたからかもしれない』
零司は、静かに頷いた。
「そうだね」
その返答に。
美琴は、しばらく黙っていた。
そして。
『……久遠』
「何?」
『……あんた、何とも思わないの?』
零司は、少しだけ考えた。
「……どうだろう」
『……っ!』
「僕、あの人のこと、ほとんど知らないし」
零司は続けた。
「研究に関わってたことくらいしか」
『……でも!』
「ただ」
零司は、静かに言った。
「あの人が資料を残したから、四人を助けられたのかもしれない」
数秒の沈黙。
そして。
「……それは、覚えておくよ」
美琴は、何も答えなかった。
零司は、窓の外へ視線を向けた。
「……でもさ、御坂さん」
『……何よ』
「僕が今日、四人を助けたことと」
静かな声。
「榊原さんが死んだことは、別の話だよ」
『……別じゃないわよ』
美琴が、低く答えた。
『あの人は、あんたが止めた実験のために動いたんでしょ』
「そうかもしれないね」
『……だったら!』
「でも、僕が全部の人を助ける約束をしたわけじゃない」
その言葉に。
美琴は、息を呑んだ。
「……あの人を助けたかったなら、君がそう言えばよかったんじゃない?」
『……っ!』
零司は、淡々と続けた。
「僕は、今日、あの四人を助けに行った」
そして。
「それ以外の人がどうなるかまで、全部考えてたわけじゃないよ」
数秒の沈黙。
美琴は、何も言えなかった。
零司の言葉は、冷たい。
だが。
彼が嘘をついているわけではないことも、美琴には分かっていた。
久遠零司。
この少年は、誰でも救う救世主ではない。
自分が助けたいと思った相手を助ける。
ただ、それだけなのだ。
『……分かった』
美琴が、静かに答えた。
『でも、私は』
そして。
『……あの人のこと、忘れないから』
零司は、小さく笑った。
「うん」
短い返事。
通話が切れた。
◇
午後三時二十八分。
第十八学区、研究管理施設。
「……榊原の件は?」
真壁が、静かに尋ねた。
隣の研究員が答える。
「処理は完了しています」
「……そうか」
男は、端末を操作した。
そこには、榊原が最後に送信した資料の記録が残されている。
《管理再編計画》
《外部送信履歴:確認》
《送信先:複数》
真壁は、眉をひそめた。
「……余計なことを」
そのとき。
別の研究員が報告した。
「第四医療管理棟の対象個体、四体すべてが連れ去られました」
「……ZEROか」
「はい」
真壁は、しばらく画面を見つめていた。
絶対能力進化計画。
実験は保留。
第一位の協力意思は不確定。
さらに、量産個体の管理再編まで妨害された。
だが。
男は、慌てなかった。
「……なるほど」
静かに呟く。
「ならば、別の研究成果を利用するしかないな」
研究員が顔を上げる。
「……別の研究成果?」
真壁は、別の資料を開いた。
《量産型能力者研究》
《ミサカネットワーク》
《群体演算機構》
その下には、複数の研究機関の名称が並んでいた。
「……第一位の参加を前提としない研究も、存在している」
男は、静かに続けた。
「量産個体の価値は、戦闘実験だけではない」
研究員が、息を呑む。
「……まさか」
「……そうだ」
真壁は頷いた。
「ミサカネットワークそのものを、研究対象として再評価する」
端末の画面が切り替わる。
《研究方式変更案》
《群体演算機構の応用》
《ネットワーク管理権限:再確認》
真壁は、静かに笑った。
「……久遠零司」
その目が細くなる。
「君は、目の前にいる少女を救うことはできるだろう」
そして。
「だが、すべての量産個体を、同時に守れるとは限らない」
◇
午後七時四十六分。
第七学区、久遠零司の自宅。
「……十人」
N-13が、部屋を見渡した。
零司。
N-12。
N-13。
九九七一号から九九七七号までの七人。
合わせて十人。
明らかに、この部屋の収容人数を超えていた。
「……狭い」
N-13が呟く。
「そうだね」
零司が、あっさりと答えた。
「……ものすごく、狭い」
「うん」
「……引っ越し」
「探してるよ」
零司は、携帯端末を掲げた。
その画面には、複数の物件情報が表示されている。
「……本当?」
「本当」
N-13は、少しだけ考えた。
そして。
「……広いところ」
「分かってる」
「……部屋、たくさん」
「うん」
「……あと」
少女が、少しだけ顔を上げる。
「……みんなが帰ってこられるところ」
零司は、N-13を見た。
数秒の沈黙。
そして。
「……そうだね」
小さく笑った。
「それがいいかも」
そのとき。
九九七四号が、静かに口を開いた。
「……質問があります」
「何?」
「ミサカたちは、今後どうなるのでしょうか」
零司は、少女を見た。
九九七四号は、自分の手を見つめていた。
「ミサカたちは、研究施設で処分される予定でした」
「……そうだね」
「しかし、現在は生存しています」
「うん」
少女は、少しだけ顔を上げた。
「……今後も、生存してよいのでしょうか」
その言葉に。
部屋が静まり返った。
零司は、しばらく少女を見つめていた。
そして。
「……君が決めればいいよ」
静かに答えた。
「……ミサカが?」
「そう」
零司は頷いた。
「生きたいなら、生きればいい」
九九七四号は、少しだけ目を瞬かせた。
「……それだけで、よろしいのでしょうか」
「それだけでいいんじゃない?」
零司は、あっさりと答えた。
「誰かの許可なんて、必要ないでしょ」
少女は、しばらく黙っていた。
そして。
「……了解しました」
小さく頷いた。
その隣。
九九七五号が、静かに口を開く。
「ミサカも、生存を希望します」
「ミサカも同意します」
九九七六号が続いた。
「ミサカも、同じです」
九九七七号が頷く。
N-13は、四人を見つめていた。
そして。
「……じゃあ」
小さく笑った。
「……みんな、一緒だね」
零司は、その様子を眺めていた。
だが。
その表情が、僅かに変わる。
昼間。
榊原が死亡したという報告。
自分が救った少女たち。
そして、研究者たち。
そのすべてが、同じ計画によってつながっている。
誰かを救えば、別の誰かが不利益を受けることもある。
研究施設を止めれば、別の場所で新しい計画が動き始める。
だが。
零司は、そのことを深刻に悩んでいるわけではなかった。
「……まあ」
少年は、小さく呟いた。
「面倒なことになってきたね」
その声に、N-13が顔を上げる。
「……何が?」
「いろいろ」
零司は笑った。
そして。
「……でも」
その灰紫色の瞳が、僅かに細くなる。
「向こうが何をするのか、ちょっと楽しみかも」
N-13は、少年を見つめた。
その表情には、僅かな不安が浮かんでいた。
久遠零司。
自分たちを救ってくれた少年。
だが、その少年が必ずしも誰かを救うとは限らない。
気まぐれで。
自由奔放で。
善悪に縛られない。
だからこそ。
彼が次に何を選ぶのかは、誰にも分からない。
◇
午後十一時五十七分。
学園都市第十八学区。
薄暗い研究室。
複数の端末が、青白い光を放っていた。
その中央。
一人の研究員が、画面を確認している。
《ミサカネットワーク》
《接続個体数:変動中》
《情報共有:正常》
《異常個体:複数確認》
研究員は、別の資料を開いた。
そこには、近年の研究成果が記されている。
量産型能力者。
分散型情報処理。
そして、個体間の情報共有機構。
「……なるほど」
男が呟いた。
第一位をレベル6へ進化させるための戦闘実験。
その方式が成立しなくなった今、研究者たちは別の可能性を探し始めていた。
そして。
彼らが注目したのは、妹達自身だった。
「……これなら」
研究員が、静かに呟く。
「……第一位の協力は必要ない」
画面に、新しい項目が表示される。
《研究案》
《群体演算機構への外部介入》
《制御方式:検討中》
《対象:ミサカネットワーク》
その記録が、上位管理部門へ送信された。
絶対能力進化計画は、まだ終わっていない。
ただし。
研究者たちが次に狙っているものは、もはや一方通行の能力だけではなかった。
ミサカネットワーク。
妹達をつなぐ、巨大な情報共有機構。
その存在自体が、新たな研究対象となり始めていた。
そして。
久遠零司も、まだ知らなかった。
自分が救った少女たちが、別の形で研究者たちに狙われ始めていることを。
学園都市の第零位。
久遠零司。
その少年が変えた運命は、必ずしも幸福なものばかりではない。
救われた者がいる。
救われなかった者もいる。
そして。
そのどちらにも属さない、まだ選択の機会すら与えられていない者たちがいる。
彼らの運命もまた、少しずつ動き始めていた。