とある学園都市の第零位《ゼロナンバー》   作:右左右左右

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第4話 正義の味方ではない

「ちょっと、お話ししようか」

 

 薄暗い地下通路。

 

 武装した男たちを前に、久遠零司は場違いなほど穏やかな笑みを浮かべていた。

 

 黒髪に混じる銀色の髪が、非常灯の赤い光を反射する。

 

 その表情には緊張も恐怖もない。

 

 まるで、街角で知り合いに声をかけたかのような気軽さだった。

 

「……何者だ」

 

 武装集団の先頭に立つ男が、銃口を向ける。

 

「さっきも言ったけど、久遠零司」

 

「所属を聞いている」

 

「ああ、そっち?」

 

 零司は少し考えた。

 

「今日は丹羽さんのところかな」

 

 その名前を聞いた瞬間、男の目つきが変わった。

 

「……丹羽宗一郎の手の者か」

 

「まあ、雇われただけだけどね」

 

「ならば敵だ」

 

「えー」

 

 零司は露骨に嫌そうな顔をした。

 

「まだ何もしてないじゃん」

 

「対象の回収を妨害する者は排除する」

 

「回収?」

 

 零司が首を傾げる。

 

「君たち、あの子を殺すつもりなんでしょ?」

 

 男は答えなかった。

 

 その沈黙を、零司は肯定と受け取った。

 

「ふうん。そっか」

 

 そして、少しだけ笑う。

 

「じゃあ、困るなぁ」

 

「何?」

 

「僕、まだあの子と遊んでる途中なんだよね」

 

 あまりにも軽い言葉。

 

 男たちは一瞬、互いに顔を見合わせた。

 

「……ふざけているのか?」

 

「今日はそれ、何回目だろ」

 

 零司は肩をすくめた。

 

「僕は結構真面目なんだけどなぁ」

 

 先頭の男が片手を上げる。

 

 それを合図に、後方の三人が一斉に銃を構えた。

 

「最終警告だ。退け」

 

「嫌だって言ったら?」

 

「排除する」

 

「そっか」

 

 零司は小さく頷いた。

 

「じゃあ、やってみてよ」

 

 次の瞬間。

 

 銃声が連続して響いた。

 

     ◇

 

 通常、銃弾は火薬の燃焼によって発生した高圧ガスに押し出され、銃身内部を加速する。

 

 銃口を離れた後は、慣性に従って飛翔する。

 

 その運動には、当然ながら物理的な条件が存在する。

 

 質量。

 

 速度。

 

 運動量。

 

 空気抵抗。

 

 そして、時間の経過。

 

 久遠零司にとって、それらは絶対に従わなければならない決まりではなかった。

 

「……んー」

 

 少年は、目の前に浮かぶ弾丸を眺めていた。

 

 全部で十二発。

 

 いずれも、彼の身体へ到達する直前で停止している。

 

 いや。

 

 正確には、停止するような物理条件へ書き換えられていた。

 

「やっぱり銃なんだね」

 

 零司は少し残念そうに呟いた。

 

「もうちょっと変わったもの持ってないの?」

 

「な……!」

 

「何だ、これは……!」

 

 武装した男たちが後ずさる。

 

 彼らが使用しているのは、学園都市の研究機関から流出した特殊な銃器だった。

 

 通常の銃火器よりも高い初速と貫通力を持つ。

 

 一般的な能力者が相手なら、十分な脅威となる兵器。

 

 しかし。

 

「つまんないなぁ」

 

 零司が指を鳴らした。

 

 空中に留まっていた十二発の弾丸が、一斉に床へ落ちる。

 

 金属音が連続して響いた。

 

「せっかく秘密の組織みたいな人たちが来たんだから、もっと面白いの期待してたのに」

 

 先頭の男が歯を食いしばる。

 

「能力者……!」

 

「うん。まあ、そんな感じ」

 

「何系統だ!」

 

「さあ?」

 

 零司は首を傾げた。

 

「君が知ってる分類にはないかもね」

 

 男が端末を操作する。

 

 直後、周囲の壁に設置されていた小型装置が起動した。

 

 低い電子音。

 

 青白い光。

 

 特殊な干渉波を発生させる装置だった。

 

「対能力者用の装備かぁ」

 

 零司が感心したように呟く。

 

「準備いいね」

 

 しかし、次の瞬間。

 

 装置の光が消えた。

 

「……なっ!?」

 

「でも、これってさ」

 

 零司は近くの装置へ視線を向けた。

 

「動作するための条件が決まってるでしょ?」

 

 電子回路。

 

 電圧。

 

 電流。

 

 信号処理。

 

 どれほど高度な技術であっても、物理現象の上に成立していることに変わりはない。

 

 零司は、その条件へ干渉した。

 

 ただ、それだけだった。

 

「な、何をした……!」

 

「ちょっとだけ、電気の流れ方を変えた」

 

 少年は笑う。

 

「それだけで止まるんだから、便利だよね」

 

「化け物め……!」

 

「あはは」

 

 零司は楽しそうに笑った。

 

「それも、たまに言われる」

 

 そして。

 

 笑みを浮かべたまま、右手を軽く持ち上げた。

 

 次の瞬間、男たちの身体が床へと押しつけられた。

 

「ぐあっ!?」

 

「な、何だ……!」

 

 重力が変化したわけではない。

 

 彼らの身体が受ける力の釣り合いが、一時的に変更されたのだ。

 

 立ち上がろうとする力。

 

 筋肉が生み出す運動。

 

 それらが、本来とは異なる結果を生むよう調整されている。

 

「さて、と」

 

 零司は倒れた男たちへ歩み寄った。

 

「一つだけ聞きたいんだけど」

 

 先頭の男の前で足を止める。

 

「誰に頼まれたの?」

 

「……答えると思うか」

 

「うーん」

 

 零司は少し考えた。

 

「じゃあ、別にいいや」

 

「……何?」

 

「そこまで興味ないし」

 

 男は言葉を失った。

 

 零司は携帯端末を取り出す。

 

 画面には、少女へ与えた三分間の猶予が終わったことが表示されていた。

 

「あ、時間だ」

 

 少年は満足そうに頷く。

 

「じゃあ、僕は行くね」

 

「ま、待て……!」

 

「ん?」

 

 倒れた男が、必死に顔を上げた。

 

「お前……何者なんだ……!」

 

 零司は少しだけ考えた。

 

 そして、笑う。

 

「ただの高校生だよ」

 

 それだけ告げ、踵を返した。

 

 背後には、戦意を失った武装集団が残されている。

 

 負傷者はいる。

 

 だが、死者はいない。

 

 零司が特別に手加減したから、というわけではなかった。

 

 単に、殺す必要がなかっただけだ。

 

 もし彼らが、自分の楽しみを決定的に邪魔していたなら。

 

 結末は違っていたかもしれない。

 

 それほどまでに、彼の判断基準は気まぐれだった。

 

     ◇

 

『久遠! 応答しろ!』

 

「はいはい」

 

『対象はどうなった!』

 

「まだ追いかけてる途中」

 

『お前……!』

 

 桐島の怒声が通信機から響く。

 

 零司は思わず顔をしかめた。

 

「もうちょっと静かに話してよ。耳が痛い」

 

『ふざけるな! こちらは命がけで作戦を遂行しているんだぞ!』

 

「そうなんだ」

 

『……っ!』

 

「大変だねぇ」

 

 あまりにも他人事のような返答。

 

 桐島は深く息を吐いた。

 

『……とにかく、対象の位置を報告しろ』

 

「今は分かんない」

 

『何だと!?』

 

「逃がしたから」

 

 沈黙。

 

 数秒後。

 

『……お前、正気か?』

 

「うん」

 

『自分から逃がしたのか!?』

 

「追いかけっこしてるだけだよ」

 

『そんな遊びに付き合っている暇はない!』

 

「だから、僕が遊んでるんだってば」

 

 零司は笑った。

 

「君たちは別に付き合わなくてもいいよ」

 

『……っ!』

 

 桐島が何かを言いかける。

 

 しかし、その前に零司は口を開いた。

 

「あ、そうそう」

 

『何だ!』

 

「さっきの連中、動けなくしておいたから」

 

『……何?』

 

「地下の西側通路。武装してたけど、今は大人しいよ」

 

『お前がやったのか?』

 

「うん」

 

 零司は、何でもないことのように答えた。

 

「邪魔だったから」

 

 桐島はしばらく沈黙した。

 

『……分かった。こちらで確認する』

 

「よろしく」

 

『久遠』

 

「ん?」

 

『頼むから、これ以上勝手なことを――』

 

 通信が切れた。

 

 零司が一方的に終了したのだ。

 

「……うるさいなぁ」

 

 少年は小さくため息をついた。

 

 そのまま、暗い通路へ視線を向ける。

 

「さて」

 

 三分間。

 

 少女は、どこまで逃げただろう。

 

 さっきの能力を使えば、監視装置の目を欺くことはできるはずだ。

 

 しかし、彼女の身体は限界に近かった。

 

 能力を長時間維持できるとも思えない。

 

 何より、あの状態で逃げ続ければ、いずれ倒れてしまうだろう。

 

「……見つけたら、どうしようかな」

 

 零司は、少しだけ考えた。

 

 捕まえて研究施設へ引き渡す。

 

 それが、今回の仕事だ。

 

 報酬も悪くない。

 

 だが、少女の能力にはまだ興味がある。

 

 研究所に戻せば、今後も観察できるかもしれない。

 

 反対に、逃がした場合。

 

 彼女がどんな選択をするのか、少し気になる。

 

「んー……」

 

 しばらく考えた末、零司は笑った。

 

「まあ、会ってから決めよう」

 

 その結論に、迷いはなかった。

 

     ◇

 

 地下搬送路の別区画。

 

 N-13は、必死に足を動かしていた。

 

「はっ……はっ……!」

 

 もう何度目になるか分からない息切れ。

 

 身体は限界だった。

 

 足の裏は傷つき、患者衣の裾は汚れている。

 

 それでも止まるわけにはいかなかった。

 

 あの少年から逃げなければならない。

 

 久遠零司。

 

 研究施設の依頼を受け、自分を捕まえに来た人間。

 

 彼の能力が何なのか、少女には分からなかった。

 

 ただ、ひとつだけ確信していることがある。

 

 あの少年には勝てない。

 

 能力を使っても。

 

 逃げ道を消しても。

 

 監視できない状態を作っても。

 

 彼は、何事もなかったように自分を見つけ出してしまう。

 

「……どうして……」

 

 少女は小さく呟いた。

 

 自分が何をしたというのだろう。

 

 ただ、生きたいだけなのに。

 

 研究施設へ戻りたくないだけなのに。

 

 どうして、こんな目に遭わなければならないのか。

 

 そのときだった。

 

 視界の端に、小さな光が見えた。

 

「……あ」

 

 少女は顔を上げる。

 

 通路の先。

 

 非常口を示す緑色の案内灯。

 

 地上へ続く階段が、そこにあった。

 

「……出口……!」

 

 少女の顔に、わずかな希望が浮かぶ。

 

 もう少し。

 

 あと少しで、外へ出られる。

 

 あのメッセージの送り主が、本当に迎えに来てくれるかどうかは分からない。

 

 だが、少なくとも研究施設からは遠ざかれる。

 

 少女は最後の力を振り絞り、階段へ向かって走った。

 

 その瞬間。

 

「――止まれ」

 

 低い声が響いた。

 

「……っ!?」

 

 階段の上。

 

 そこに、二人の男が立っていた。

 

 黒い装備。

 

 手にした銃。

 

 少女は反射的に足を止めた。

 

「対象を確認」

 

 一人が通信機へ報告する。

 

「被験体N-13。生存を確認した」

 

 少女の顔から、血の気が引いた。

 

「……いや……」

 

「抵抗するな」

 

 男が銃口を向ける。

 

「こちらは回収命令を受けている」

 

「……戻らない……!」

 

 少女は震える声で叫んだ。

 

「絶対に、戻らない……!」

 

 男たちは表情を変えない。

 

「抵抗を確認」

 

 片方が銃の安全装置を外した。

 

「無力化する」

 

 少女は目を見開いた。

 

 能力を使わなければ。

 

 そう思った。

 

 だが。

 

 身体が動かない。

 

 限界まで酷使した能力。

 

 消耗しきった身体。

 

 そして、目の前に迫る死の恐怖。

 

 何もかもが、少女の思考を鈍らせていた。

 

「……っ」

 

 男の指が、引き金にかかる。

 

 少女は思わず目を閉じた。

 

 そして。

 

 乾いた銃声が響いた。

 

     ◇

 

「……あーあ」

 

 呆れたような声がした。

 

「何やってんのさ」

 

 少女は、恐る恐る目を開けた。

 

 そこに、一人の少年が立っていた。

 

 黒髪に銀色の混じった、学生服姿の少年。

 

 久遠零司。

 

 彼は少女の前に立ち、片手で何かをつまんでいた。

 

 銃弾だった。

 

 発射された弾丸を、まるで道端の小石でも拾うように指先で挟んでいる。

 

「……え?」

 

 少女の口から、間の抜けた声が漏れた。

 

 零司は弾丸を眺める。

 

「さっきから、みんな撃つの好きだねぇ」

 

 そして、弾丸を床へ落とした。

 

 金属音が響く。

 

「もうちょっと平和的に話せないの?」

 

「何者だ!」

 

 階段の上にいた男が叫ぶ。

 

 零司は顔を上げた。

 

「またそれ?」

 

 少年は、心底面倒そうにため息をついた。

 

「僕の名前、そんなに知られてないのかな」

 

 男たちは銃を構える。

 

 だが。

 

 次の瞬間、二人の身体が宙へ浮いた。

 

「なっ!?」

 

「ぐあっ……!」

 

 見えない力によって持ち上げられた二人が、そのまま壁へ押しつけられる。

 

 銃は手から滑り落ち、床に転がった。

 

「はい、おしまい」

 

 零司は軽く手を振った。

 

 男たちは動けない。

 

 抵抗することもできない。

 

 それを確認すると、零司は少女へ振り返った。

 

「やっほ」

 

「……あなた……」

 

「また会ったね」

 

 まるで偶然出会った友人にでも話しかけるような声。

 

 少女は、呆然と彼を見つめていた。

 

「……どうして……?」

 

「ん?」

 

「……助けて、くれたの……?」

 

 零司は首を傾げた。

 

 そして。

 

「いや?」

 

 あっさりと否定した。

 

「……え?」

 

「助けたつもりはないけど」

 

 少年は笑った。

 

「僕、まだ君を捕まえる仕事してるし」

 

 少女の表情が凍りつく。

 

「……だったら、どうして……!」

 

「だってさ」

 

 零司は、壁に押しつけられた男たちへ視線を向けた。

 

「僕が追いかけてる相手を、勝手に撃つのは駄目でしょ」

 

 それは、あまりにも身勝手な理由だった。

 

 少女の命を守りたいからではない。

 

 研究施設の非道を許せないからでもない。

 

 ただ、自分の仕事と楽しみを邪魔されたくなかったから。

 

 それだけで、この少年は銃弾を止めたのだ。

 

「……あなた、本当に……」

 

 少女は震える声で呟いた。

 

「……最低……」

 

「あはは」

 

 零司は楽しそうに笑った。

 

「二回目だね、それ」

 

 少女は拳を握りしめた。

 

 怖い。

 

 この少年が、どうしようもなく怖い。

 

 自分を殺そうとした男たちよりも。

 

 研究施設の白衣を着た大人たちよりも。

 

 何を考えているのか分からない、この少年の方が恐ろしかった。

 

 しかし。

 

 次の瞬間。

 

 少女の身体が、ぐらりと傾いた。

 

「……あ」

 

 視界が暗くなる。

 

 足から力が抜ける。

 

 そのまま、地面へ倒れ込もうとした。

 

「おっと」

 

 零司が片手を伸ばした。

 

 少女の身体が、床へ衝突する直前で止まる。

 

 見えない何かに支えられたように、ゆっくりと横たえられた。

 

「……限界かぁ」

 

 少年は少女の顔を覗き込む。

 

 意識は失われている。

 

 呼吸は浅いが、安定している。

 

 極度の疲労と能力使用による消耗。

 

 それに加えて、長時間の逃走による脱水。

 

 少なくとも、すぐに命が危険な状態ではなさそうだった。

 

「……困ったな」

 

 零司は頬をかいた。

 

 少女が起きるまで待つのも面倒だ。

 

 ここで依頼人を呼べば、仕事は終わる。

 

 だが、それでは面白くない。

 

「んー……」

 

 しばらく考える。

 

 そして。

 

「ま、いっか」

 

 零司は少女を見下ろして笑った。

 

「とりあえず、連れて帰ろうかな」

 

 そう決めると、携帯端末を取り出した。

 

 連絡先を選ぶ。

 

 数秒後、通信が繋がった。

 

『久遠か!?』

 

「うん。僕」

 

『対象はどうなった!』

 

「捕まえたよ」

 

 通信の向こうで、息を呑む気配がした。

 

『……本当か!?』

 

「うん。今、寝てる」

 

『よし! すぐに回収班を向かわせる!』

 

「いや、その必要ないよ」

 

『……何?』

 

「僕が連れてくから」

 

『勝手なことをするな! 対象の状態を確認する必要がある!』

 

「大丈夫。死んでないから」

 

『そういう問題では――!』

 

「じゃ、そういうことで」

 

 通信を切った。

 

 そして、少女へ視線を戻す。

 

「さて……」

 

 零司は、少しだけ考えた。

 

 このまま研究施設へ送り届けるか。

 

 それとも、もう少し話を聞いてみるか。

 

 少なくとも、少女が目を覚ますまでは時間がある。

 

「……どうしようかなぁ」

 

 零司は小さく笑った。

 

 答えは、まだ決めていなかった。

 

 それを決めるのは、あくまで自分だ。

 

 正義でも。

 

 悪でも。

 

 依頼人でもない。

 

 久遠零司自身だった。

 

     ◇

 

 同時刻。

 

 学園都市の一角にある研究施設。

 

 丹羽宗一郎は、端末に表示された報告を読み込んでいた。

 

《対象N-13:生存確認》

 

《回収担当:久遠零司》

 

《状況:確保》

 

「……ふむ」

 

 白衣姿の男は、小さく頷いた。

 

 机の上には、複数の研究資料が並べられている。

 

 その一つに、少女の能力に関する記録があった。

 

《観測干渉》

 

《能力分類:暫定》

 

《能力強度:測定不能》

 

《研究継続優先度:最高》

 

 丹羽は、その資料を手に取った。

 

「ようやく戻ってくるか……」

 

 安堵したような声。

 

 しかし、その表情には、研究対象を心配する様子など微塵もなかった。

 

 彼にとって重要なのは、実験体の生存そのものではない。

 

 研究成果。

 

 その一点だけだった。

 

 丹羽は別の画面を開く。

 

 そこには、久遠零司に関する極秘情報が表示されていた。

 

《識別番号:ZERO》

 

《能力分類:非公開》

 

《能力強度:測定対象外》

 

《接触制限:最上位》

 

《注意事項:対象の自発的協力を前提とすること》

 

 丹羽の額に、冷たい汗が浮かんだ。

 

「……まったく」

 

 小さく呟く。

 

「扱いにくい御方だ」

 

 しかし、研究者としての好奇心も抑えられなかった。

 

 N-13の観測干渉。

 

 そして、久遠零司の異常な能力。

 

 もし、この二つに何らかの関連性があるのなら。

 

 その研究成果は、学園都市の能力開発理論そのものを揺るがす可能性がある。

 

「……実に興味深い」

 

 丹羽は薄く笑った。

 

 だが、彼はまだ知らなかった。

 

 久遠零司という存在が、どれほど気まぐれなのかを。

 

 そして。

 

 その気まぐれによって、自分の計画がどれほど簡単に崩れ去るのかを。

 

     ◇

 

 地下搬送路。

 

 零司は、意識を失った少女を抱き上げた。

 

 細い身体。

 

 驚くほど軽い。

 

 長い青緑色の髪が、少年の腕からさらりと零れ落ちる。

 

「……軽いなぁ」

 

 零司は小さく呟いた。

 

 そして、少女の顔を見つめる。

 

 先ほどまで必死に抵抗していた少女は、今は静かに眠っている。

 

 その表情には、まだ警戒の色が残っているようにも見えた。

 

「……ま、仕方ないか」

 

 少年は肩をすくめた。

 

 彼女が自分を信用しないのも当然だろう。

 

 実際、零司には少女を助けるつもりなどなかったのだから。

 

 少なくとも、今のところは。

 

「さて」

 

 零司は通路の出口へ視線を向けた。

 

「丹羽さん、どんな顔するかな」

 

 その声には、どこか楽しげな響きがあった。

 

 そして。

 

「……あ、そうだ」

 

 ふと思いついたように携帯端末を取り出す。

 

 丹羽へ、短いメッセージを送った。

 

『対象は確保したよ』

 

『でも、ちょっと気が変わるかもしれないから』

 

『受け渡し方法、あとで相談しようね』

 

 送信。

 

 零司は満足そうに頷いた。

 

「うん。これでいいや」

 

 少年は歩き出した。

 

 少女を抱えたまま。

 

 薄暗い地下通路を、ゆっくりと進んでいく。

 

 その背中に、迷いはなかった。

 

 誰かの命運を握っているという自覚も、もちろんある。

 

 しかし、それを重荷だと思うことはなかった。

 

 なぜなら。

 

 久遠零司にとって、善悪とは他人が作り出した分類に過ぎないからだ。

 

 正義の味方になる義務などない。

 

 悪党を裁く使命もない。

 

 誰かを救うか。

 

 誰かを見捨てるか。

 

 そのすべてを、自分で決める。

 

 ――それが、第零位。

 

 科学と魔術の双方において、規格外の力を持つ少年の在り方だった。

 

 そして今夜。

 

 一人の少女の運命は、そんな少年の気まぐれに委ねられた。

 

 まだ誰も知らない。

 

 この小さな出会いが、やがて学園都市の暗部を大きく揺るがすことになるなど。

 

 もちろん。

 

 当の本人である久遠零司は、もっと別のことを考えていた。

 

「……そういえば」

 

 腕の中の少女を見下ろす。

 

「この子、起きたら何食べるんだろ」

 

 少し考える。

 

「……お腹空いてるよね、たぶん」

 

 そして、笑った。

 

「何か買って帰ろっかな」

 

 その声は、どこまでも呑気だった。

 

 まるで、これから友人と夕食でも食べに行くかのように。

 

 ――正義の味方ではない。

 

 だが、悪の味方とも限らない。

 

 久遠零司とは、そういう少年だった。

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