七月十九日、午後八時過ぎ。
学園都市の夜は、決して暗くない。
林立する高層ビルの窓から漏れる光。
無人走行車両が行き交う道路。
そして、街の至るところに設置された監視装置。
昼間とは違う人工的な明かりが、巨大な科学都市を照らしていた。
そんな街の一角。
人通りの少ない研究施設の前に、一人の少年が立っていた。
「……ここかぁ」
久遠零司は、目の前の建物を見上げた。
地上五階建て。
外観は、ごく一般的な研究施設だった。
壁面には学園都市の研究機関であることを示す標識が掲げられ、正面玄関には厳重な入退室管理システムが設置されている。
しかし、その地下に何が存在しているのか。
一般の学生が知る機会は、まずないだろう。
「研究者って、こういう建物好きだよね」
誰にともなく呟く。
その腕には、一人の少女が抱えられていた。
長い青緑色の髪。
白い患者衣。
疲労によって意識を失った、小柄な少女。
被験体番号、N-13。
今回、零司が回収を依頼された相手だった。
「……ん」
少女が小さく身じろぎする。
しかし、目を覚ます様子はない。
「もうちょっと寝てていいよ」
零司は呑気に声を掛けた。
「起きたら、たぶん面倒なことになるからさ」
もちろん、返事はなかった。
それを気にすることもなく、零司は建物へ歩き出した。
◇
「久遠!」
正面玄関を通過したところで、聞き覚えのある声が響いた。
「……あ、桐島さん」
零司は片手を上げようとして、少女を抱えていることを思い出した。
仕方なく、軽く会釈する。
「こんばんは」
「こんばんは、じゃない!」
桐島は大股で近づいてきた。
「お前、今までどこにいた!」
「ん? ちょっと寄り道」
「対象を確保したなら、すぐに報告しろと言っただろう!」
「報告したじゃん」
「通信を一方的に切っただろうが!」
「あー……そうだっけ?」
零司は首を傾げた。
桐島の額に青筋が浮かぶ。
しかし、彼はそれ以上怒鳴ることをやめた。
零司の腕の中にいる少女へ視線を向ける。
「……対象の状態は?」
「疲れて寝てる」
「負傷は?」
「足に傷があるね。あと、脱水気味かな」
「能力の使用による影響は?」
「さあ?」
零司は肩をすくめようとして、再び少女の存在を思い出した。
「詳しいことは調べてないよ」
「……お前な」
「だって、僕はお医者さんじゃないし」
当然のように言う。
桐島は深く息を吐いた。
「医療班を呼ぶ。対象をこちらへ渡せ」
「んー……」
零司は少女を見下ろした。
それから、桐島へ視線を戻す。
「それはちょっと嫌かな」
「……何?」
「丹羽さんと話してからにしたい」
「主任は奥で待っている。まずは対象を――」
「桐島さん」
零司が、その言葉を遮った。
声の調子は変わらない。
表情も、普段と同じだった。
それなのに。
「……っ」
桐島は、それ以上言葉を続けられなかった。
目の前の少年。
その周囲の空気が、ほんのわずかに変わったような気がした。
殺気ではない。
威圧でもない。
ただ、これ以上踏み込むべきではないと、本能が警告していた。
「別に、治療するなって言ってるわけじゃないよ?」
零司は笑った。
「でも、この子を誰に渡すかは、まだ決めてないんだ」
「……依頼内容を忘れたのか?」
「覚えてるよ」
即答だった。
「逃げた被験者を回収する。それでしょ?」
「ああ」
「じゃあ、回収はしたよね」
「……そうだが」
「だったら、残りは交渉次第じゃない?」
桐島は黙り込んだ。
零司は楽しそうに笑う。
「ほら、案内してよ。丹羽さんのところ」
しばらくして。
「……こちらだ」
桐島は諦めたように踵を返した。
零司は、その後ろをのんびりと歩き始めた。
◇
研究施設の第三応接室。
そこには、一人の男が待っていた。
四十代半ばほど。
整えられた髪。
細い銀縁の眼鏡。
白衣の下には、皺一つないシャツが見える。
丹羽宗一郎。
N-13を研究対象として管理している研究責任者だった。
「……お待ちしておりました、久遠様」
丹羽は椅子から立ち上がり、丁寧に頭を下げた。
「このたびは、我々の不手際によってご迷惑をお掛けしました」
「うん」
零司はあっさりと頷いた。
「結構面倒だったよ」
「申し訳ありません」
「まあ、面白かったからいいけど」
そう言いながら、零司は部屋へ入った。
室内には柔らかな照明が灯り、中央には応接用のテーブルが置かれている。
部屋の隅には、簡易的な医療設備も準備されていた。
「……準備いいね」
「対象の状態を確認する必要がありますので」
「ふうん」
零司はソファへ近づき、少女をゆっくりと横たえた。
すぐに医療スタッフが入室する。
しかし、零司は少女から離れなかった。
「その場で診てあげて」
「……承知しました」
丹羽が頷く。
医療スタッフは困惑しながらも、少女の呼吸や脈拍を確認し始めた。
応急処置を受ける間、零司は向かいのソファへ腰を下ろす。
「あ、飲み物ある?」
「……はい?」
「喉乾いた」
丹羽は一瞬だけ言葉を失った。
しかし、すぐに表情を整える。
「お好みはございますか?」
「炭酸がいいな。冷えてるやつ」
「……承知しました」
丹羽が部下へ指示を出す。
数分後。
零司は、よく冷えた炭酸飲料を手にしていた。
「んー、美味しい」
満足そうに笑う。
その姿だけを見れば、危険な実験体を回収してきた人間には到底見えない。
ただの、気楽な高校生だった。
しかし。
丹羽宗一郎は知っている。
目の前の少年が、どれほど異常な存在なのかを。
学園都市の公式序列には存在しない識別番号。
ZERO。
既存の能力測定では評価することさえ許されていない、極秘の管理対象。
彼について丹羽に与えられている情報は、極めて限られていた。
ただ一つ、明確に記されていた注意事項がある。
《対象の自発的協力を前提とすること》
つまり。
無理強いをしてはならない。
丹羽は、その意味を理解していた。
「……それで、久遠様」
「ん?」
「対象の引き渡しについてですが」
「うん」
零司は缶をテーブルへ置いた。
「その話をしようと思ってたんだ」
◇
「結論から申し上げます」
丹羽が口を開いた。
「我々としては、対象N-13の速やかな返還を希望しております」
「だろうね」
「対象は極めて重要な研究資産です。現在進行している計画の中核を担っておりまして」
「研究資産、かぁ」
零司は少女へ視線を向けた。
医療スタッフによる処置は、ほぼ終わっている。
少女は相変わらず眠ったままだった。
「人間なのに、資産なんだ」
「……研究上の分類です」
「ふうん」
零司は、それ以上追及しなかった。
別に、丹羽の言葉が気に入らなかったわけではない。
研究者が研究対象をどう呼ぼうと、本人の自由だ。
少なくとも、零司はそう考えている。
「ところでさ」
「はい」
「この子、何の研究に使ってるの?」
丹羽の表情がわずかに変わった。
「……機密事項となります」
「そっか」
「申し訳ありません」
「じゃあ、いいや」
零司はあっさりと引き下がった。
そして、笑った。
「でも、面白い能力だったよ」
丹羽の目が細くなる。
「……と、申しますと?」
「音が消えたり、姿が見えなくなったり」
零司は指を折りながら説明する。
「最初は単純な光学系の能力かと思ったんだけどね」
「…………」
「違うみたい」
丹羽は身を乗り出した。
「……何か、お気づきになられたのですか?」
「んー」
零司は少し考える。
「観測する側に届く情報を、途中で変えてる感じかな」
「……!」
「光とか音とか、そういうのを直接消してるわけじゃなさそうなんだよね」
丹羽の表情が変わった。
それは、研究者としての興奮だった。
「……続けていただけますか」
「嫌だ」
即答だった。
「…………は?」
「だって、ここからが面白いところじゃん」
零司は楽しそうに笑った。
「ただで教えるの、もったいなくない?」
丹羽は言葉を失った。
目の前の少年が、何を考えているのか分からない。
しかし、一つだけ理解できた。
これは交渉なのだ。
「……なるほど」
丹羽は眼鏡の位置を直した。
「では、どのような条件をご希望でしょうか」
「そうだねぇ」
零司はソファへ深く腰掛けた。
そして。
「この子、僕が預かるよ」
何でもないことのように告げた。
室内の空気が止まった。
「…………」
丹羽は瞬きをした。
一度。
二度。
「……申し訳ありません。今、何と?」
「だから、この子は僕が預かるって」
零司は繰り返した。
「研究所には返さない」
「……それは」
「駄目?」
零司は首を傾げた。
丹羽の顔から、ゆっくりと血の気が引いていく。
「……久遠様」
「うん?」
「対象は、我々の研究に不可欠な存在なのです」
「知ってるよ」
「長年にわたる研究成果が、この一体に集約されておりまして」
「うんうん」
「代替となる実験体も、現時点では存在しません」
「そうなんだ」
零司は笑顔で頷いた。
しかし、考えを変える様子はなかった。
「……あの」
丹羽が恐る恐る尋ねる。
「理由を、お聞きしても?」
「ん?」
「なぜ、対象の身柄をお望みなのでしょうか」
「面白いから」
即答。
「…………」
「まだ能力の仕組みも分かってないし、あの子が次に何するのかも気になるし」
零司は楽しそうに続ける。
「研究所に返しちゃったら、また実験ばっかりでしょ?」
「……研究を行うことが我々の目的ですので」
「うん。でも、それってつまんなくない?」
丹羽は絶句した。
研究者として生きてきた自分には、到底理解できない価値観だった。
未知の現象。
新たな能力理論。
既存の科学体系を覆す可能性。
それらを前にして、研究することを退屈だと言う。
しかも、その理由が。
単に、少女が今後どんな行動を取るのか見てみたいから。
そんなものだった。
「……ですが」
丹羽は必死に言葉を探した。
「対象がなければ、研究を継続することができません」
「そうだね」
「ご理解いただけるのでしたら――」
「だからさ」
零司が、その言葉を遮った。
「取引しようよ」
「……取引?」
「うん」
少年は携帯端末を取り出した。
そして、テーブルの上へ置く。
画面には、複雑な数値と波形が表示されていた。
「これ、見てみて」
丹羽は端末を覗き込んだ。
その瞬間。
「……なっ!?」
思わず声が漏れた。
画面に表示されているのは、複数の観測データだった。
光の伝播に生じた異常。
音響振動の不連続。
空間内の電磁的な応答。
それらを、一定の時間軸に沿って整理した記録。
「こ、これは……!」
「さっき、あの子と遊んでたときに取ったやつ」
零司は軽く答えた。
「まあ、普通の測定機器じゃ無理だと思うけど」
丹羽の手が震えた。
研究施設では、N-13の能力を何度も測定していた。
しかし、正確な発現条件は特定できていなかった。
観測装置が正常に動作していても、記録が欠落する。
センサーを増やせば、その分だけ結果が不安定になる。
観測しようとする行為そのものが、能力の影響を受けている可能性さえあった。
ところが。
目の前の少年は。
その現象を、外部から記録していた。
「……ど、どうやって……」
「秘密」
零司は笑った。
「それで、どう?」
「……何がでしょうか」
「このデータ、欲しい?」
丹羽は即答できなかった。
欲しい。
当然だ。
研究を進めるうえで、これほど貴重な資料はない。
だが。
「……対象そのものと引き換えに、ということですか」
「うん」
零司は頷いた。
「研究データは渡す。でも、この子は僕が預かる」
「…………」
「悪くない話だと思うけど?」
丹羽は口を閉ざした。
確かに、資料には価値がある。
しかし、生きた実験体を失えば、今後の検証は著しく制限される。
それでも。
目の前の少年から、無理やり少女を取り戻す。
その選択肢だけは、最初から存在していなかった。
◇
「……条件を確認させてください」
長い沈黙の後、丹羽が口を開いた。
「まず、対象の身柄についてですが」
「僕が連れてく」
「……承知しました」
「あと、追いかけないでね」
「…………」
「こっそり監視するのもなし」
零司は笑顔で付け加えた。
「そういうの、すぐ分かるから」
丹羽の背筋に、冷たいものが走った。
「……分かりました」
「それから」
零司は少女へ視線を向けた。
「この子、名前ないの?」
「……識別番号はN-13となっております」
「それは知ってる」
「個人名は設定しておりません」
「ふうん」
零司は少し考えた。
「じゃあ、本人に決めてもらえばいいか」
「……本人に?」
「うん」
当然のように頷く。
「自分の名前くらい、自分で決めてもいいでしょ」
丹羽は何も言わなかった。
零司が何を考えているのか。
やはり、理解できなかった。
「さて」
少年は端末を操作する。
「じゃあ、資料を送るね」
「……よろしいのですか?」
「取引成立でしょ?」
「……はい」
「なら、約束は守らないとね」
電子音が鳴る。
暗号化された観測データが、丹羽の端末へ転送された。
ただし、零司が渡したのは今回の接触で記録した観測結果と、その一部を整理した資料だけだった。
能力の発現原理を完全に解明したわけではない。
零司自身の能力の詳細も含まれていない。
まして、N-13のすべてを知ることができるような万能の資料ではなかった。
しかし、それでも十分だった。
「……素晴らしい」
丹羽の口から、思わず声が漏れる。
画面を流れる数値。
そこには、これまでの研究で確認できなかった現象が記録されていた。
「これなら……」
丹羽は小さく呟く。
「これなら、次の段階へ進めるかもしれない……」
「ん?」
零司が顔を上げる。
「何か言った?」
「……いえ」
丹羽は慌てて首を振った。
「ご協力に感謝いたします」
「うんうん」
零司は満足そうに笑った。
「じゃあ、これで仕事終わりかな」
そのときだった。
「……ん……」
小さな声が聞こえた。
ソファに横たわっていた少女が、ゆっくりと目を開ける。
◇
「……ここ……」
ぼんやりとした視界。
白い天井。
柔らかな照明。
消毒液の匂い。
少女の身体が、びくりと震えた。
「……っ!」
勢いよく起き上がろうとする。
しかし、身体に力が入らず、再びソファへ倒れ込んだ。
「……いや……!」
震える声。
「……戻された……!」
「おはよ」
聞き覚えのある声がした。
少女は顔を上げる。
そこには、久遠零司がいた。
缶ジュースを片手に、呑気な表情を浮かべている。
「……あなた……!」
「あはは。元気そうだね」
「……ここ、どこ……?」
「研究所」
その言葉を聞いた瞬間。
少女の顔から血の気が引いた。
「……いや……」
「ん?」
「……戻さないって……」
少女は震える声で呟いた。
しかし、すぐに気づく。
零司は一度も、自分を研究所へ戻さないとは約束していない。
逃げられたら考え直す。
そう言っただけだった。
それなのに。
どこかで期待していた。
あの少年なら。
研究施設の人間とは違う、あの不可解な少年なら。
もしかしたら。
「……嘘つき……」
少女が呟いた。
零司は首を傾げる。
「僕、何か嘘ついたっけ?」
「……っ!」
少女は唇を噛んだ。
言い返せない。
確かに、約束はしていなかった。
それが、余計に悔しかった。
「……最低……!」
「あはは。またそれ?」
零司は楽しそうに笑った。
その様子を見ていた丹羽が、口を開く。
「N-13。意識が回復したのなら、状態確認を――」
「……っ!」
少女の身体が強張った。
その声。
忘れるはずがない。
何度も自分へ実験を命じた研究責任者。
丹羽宗一郎。
「……来ないで……!」
少女はソファの端へ身を寄せた。
「……もう、嫌……!」
「落ち着きなさい。今回は――」
「丹羽さん」
零司が口を挟んだ。
「うん?」
丹羽が振り返る。
「もういいよ」
「……何がでしょうか」
「この子、僕が連れてくから」
少女が動きを止めた。
「…………え?」
丹羽もまた、言葉を失った。
「……久遠様」
「取引したでしょ?」
零司は笑った。
「忘れちゃった?」
「……いえ」
丹羽は小さく首を振った。
「承知しております」
「なら、いいじゃん」
零司は立ち上がった。
そして、少女へ視線を向ける。
「というわけで」
いつもの調子で笑う。
「君、僕と一緒に来る?」
少女は呆然としていた。
「……え……?」
「研究所には置いてかないよ」
「……どうして……?」
「んー」
零司は少し考えた。
「気が変わったから?」
「…………」
「いや、正確には最初から迷ってたんだけどね」
少年は笑った。
「君を研究所に返すより、近くで見てた方が面白そうだなって」
少女は言葉を失った。
助けたいからではない。
可哀想だからでもない。
ただ、面白そうだから。
この少年は、そんな理由で自分の運命を変えようとしている。
「……あなた……」
「ん?」
「……本当に、変な人……」
「あはは」
零司は笑った。
「それは、初めて言われたかも」
そして、片手を差し出す。
「どうする?」
少女は、その手を見つめた。
信用できない。
この少年が何を考えているのか、まるで分からない。
自分を助けたと思えば、平然と研究者に協力する。
優しい言葉を掛けたかと思えば、次の瞬間には冷たいことを言う。
理解できない存在だった。
しかし。
少なくとも、あの白い部屋へ戻るよりは。
「……一つだけ」
少女が小さく呟いた。
「ん?」
「……もう、実験しない……?」
零司は首を傾げた。
「僕が?」
少女は頷いた。
「しないよ」
即答だった。
「……本当に?」
「うん。僕、研究者じゃないし」
「……でも」
「まあ、君の能力には興味あるけどね」
零司は笑う。
「嫌がることを無理やりやっても、面白くないじゃん」
少女は、しばらく黙っていた。
そして。
「……一晩だけ」
小さな声で告げた。
「……一晩だけ、ついていく」
「うん。いいよ」
零司はあっさりと頷いた。
「明日どうするかは、明日決めればいいし」
少女は恐る恐る手を伸ばした。
細い指先が、零司の手に触れる。
その瞬間。
少年は、少しだけ笑った。
「よろしくね」
少女は答えなかった。
ただ、その手を離そうとはしなかった。
◇
「……それでは」
研究施設の玄関前。
丹羽宗一郎が、零司へ深く頭を下げた。
「今回のご協力、誠にありがとうございました」
「うん」
零司は片手を振った。
「あ、報酬は忘れないでね」
「……もちろんです」
「アイス代も」
「……承知しております」
「よし」
零司は満足そうに頷いた。
その横には、N-13が立っていた。
応急処置を終え、施設側が用意した簡素な靴を履いている。
白い患者衣の上には、零司が借りてきた薄手の上着。
長い青緑色の髪が、夜風に揺れていた。
少女は不安そうに研究施設を振り返る。
丹羽の姿。
警備員たち。
閉ざされた玄関。
そこは、自分が二度と戻りたくないと願った場所だった。
「……ねえ」
少女が小さく声を掛ける。
「ん?」
零司が振り返った。
「……本当に、いいの……?」
「何が?」
「……わたしを、連れて行って……」
「ああ」
零司は笑った。
「僕が決めたことだしね」
「……でも」
「それにさ」
少年は少し考えた。
「君、まだ面白いことしてくれそうだし」
「…………」
少女は複雑な表情を浮かべた。
やはり、理解できない。
この少年は、自分を助けたのだろうか。
それとも、単に研究者から奪っただけなのだろうか。
その答えは、まだ分からなかった。
「……あの」
「ん?」
「……あなた、名前……」
「久遠零司」
少年は答えた。
「零司でいいよ」
「……れいじ……」
少女は、小さくその名前を繰り返した。
零司は満足そうに頷く。
「うん。それで、君は?」
「……わたし……?」
「名前」
零司は首を傾げた。
「N-13っていうのは、研究所の番号でしょ?」
「…………」
「本当の名前、ないの?」
少女は黙り込んだ。
しばらくして。
「……ない」
小さく答えた。
「……ずっと、番号だったから……」
「そっか」
零司は少し考えた。
そして。
「じゃあ、考えといてよ」
「……え?」
「名前」
少年は笑う。
「自分で好きなのつければいいじゃん」
「……自分で……?」
「うん」
零司は当然のように頷いた。
「僕が勝手につけてもいいけど、それだとつまんなくない?」
少女は目を瞬かせた。
自分の名前。
そんなものを考えたことは、一度もなかった。
研究施設では、誰も自分を名前で呼ばなかった。
N-13。
それが、彼女に与えられた唯一の識別情報だった。
だが。
目の前の少年は、そんなことを気にしていない。
名前がないなら、自分で決めればいい。
そう言っている。
「……考える」
少女は小さく頷いた。
「……少し、時間が欲しい」
「うん。好きなだけどうぞ」
零司は笑った。
そして、歩き始める。
少女は少し遅れて、その後を追った。
学園都市の夜。
冷たい風が、二人の間を吹き抜ける。
少女はまだ知らない。
自分がついていくことを選んだ少年が、どれほど危険な存在なのかを。
そして。
その少年が今夜交わした取引によって、何が生まれることになるのかを。
◇
研究施設。
第三応接室。
丹羽宗一郎は、端末に表示されたデータを眺めていた。
久遠零司から受け取った観測記録。
その内容は、想像以上のものだった。
「……素晴らしい」
丹羽の口元が緩む。
確かに、N-13の身柄は失った。
今後、直接実験を行うことはできない。
だが。
今回入手した資料には、それを補って余りある価値があった。
これまで再現できなかった観測結果。
測定装置が捉えられなかった現象。
既存の能力開発理論では説明できない数値。
それらが、確かに記録されている。
「……これなら」
丹羽は別の端末を起動した。
画面に表示されたのは、学園都市内の研究機関に関する連絡先だった。
彼はしばらく考えた後、一つの宛先を選択する。
そして、短い文章を入力した。
『新たな観測資料を入手した』
『従来の能力開発理論とは異なる挙動が確認されている』
『共同研究について、改めて協議したい』
送信。
丹羽は眼鏡を外し、深く息を吐いた。
「……久遠零司」
小さく、その名前を呟く。
「あなたのおかげで、研究は次の段階へ進めそうです」
その声には、純粋な感謝が込められていた。
だが。
感謝と善意は、必ずしも同じものではない。
丹羽にとって重要なのは、研究が進むことだった。
その先で、誰が犠牲になるのか。
どのような実験が行われるのか。
そんなことは、研究成果の価値を損なう理由にはならない。
少なくとも、彼はそう考えていた。
端末の画面が切り替わる。
新しい研究資料。
新しい実験計画。
そして。
新しい被験者の候補。
「……さて」
丹羽は静かに笑った。
「次は、どうしましょうか」
その頃。
久遠零司は、そんなことなど少しも考えていなかった。
◇
「……ねえ」
学園都市の夜道。
零司の隣を歩いていた少女が、遠慮がちに声を掛けた。
「ん?」
「……どこに、行くの……?」
「僕の家」
「……家……?」
「うん」
零司は当然のように答えた。
「他に行くところある?」
少女は首を横に振った。
「じゃあ、決まり」
零司は笑った。
そのとき。
「……きゅう」
小さな音がした。
少女の腹部からだった。
「…………」
少女の顔が、みるみる赤くなる。
零司は数秒ほど黙っていた。
そして。
「あはははっ!」
盛大に笑い始めた。
「な、何……!」
「いや、ごめん。お腹空いてるんだね」
「……っ!」
少女は顔を伏せた。
「……笑わないで……」
「ごめん、ごめん」
零司は楽しそうに笑いながら、周囲を見回す。
少し先に、まだ営業している飲食店があった。
「じゃあ、何か食べて帰ろっか」
「……いいの……?」
「うん。僕もお腹空いたし」
零司は歩き出した。
「何が食べたい?」
「……分からない」
「え?」
「……外の、ご飯……あまり知らないから……」
零司は足を止めた。
少女を見つめる。
そして。
「……そっか」
小さく呟いた。
研究施設。
白い部屋。
番号で呼ばれる生活。
その中で、彼女は何を食べてきたのだろう。
どんなものを見てきたのだろう。
そんなことを、少しだけ考える。
だが、すぐに笑った。
「じゃあ、今日は僕のおすすめにしよっか」
「……おすすめ……?」
「うん」
少年は楽しそうに言った。
「美味しいものって、結構いっぱいあるんだよ」
少女は、不思議そうに零司を見上げた。
この少年は。
怖い。
信用できない。
何を考えているのかも分からない。
それでも。
今、この瞬間だけは。
ほんの少しだけ。
隣を歩いていてもいいと思えた。
「……うん」
少女は、小さく頷いた。
零司は満足そうに笑う。
「よし。じゃあ行こう」
そして、二人は夜の街へ歩き出した。
科学と魔術。
善と悪。
正義と悪意。
そんなものが複雑に絡み合う巨大な学園都市で。
この日、一人の少女が研究施設から姿を消した。
その行方を知る者は、ごくわずか。
そして、少女を連れ出した少年は。
自分の行動がどのような結果を生むのかなど、まるで気にしていなかった。
――もっとも。
その結果から、いつまでも目を背けていられるとは限らないのだが。