とある学園都市の第零位《ゼロナンバー》   作:右左右左右

5 / 7
第5話 取引の条件

 七月十九日、午後八時過ぎ。

 

 学園都市の夜は、決して暗くない。

 

 林立する高層ビルの窓から漏れる光。

 

 無人走行車両が行き交う道路。

 

 そして、街の至るところに設置された監視装置。

 

 昼間とは違う人工的な明かりが、巨大な科学都市を照らしていた。

 

 そんな街の一角。

 

 人通りの少ない研究施設の前に、一人の少年が立っていた。

 

「……ここかぁ」

 

 久遠零司は、目の前の建物を見上げた。

 

 地上五階建て。

 

 外観は、ごく一般的な研究施設だった。

 

 壁面には学園都市の研究機関であることを示す標識が掲げられ、正面玄関には厳重な入退室管理システムが設置されている。

 

 しかし、その地下に何が存在しているのか。

 

 一般の学生が知る機会は、まずないだろう。

 

「研究者って、こういう建物好きだよね」

 

 誰にともなく呟く。

 

 その腕には、一人の少女が抱えられていた。

 

 長い青緑色の髪。

 

 白い患者衣。

 

 疲労によって意識を失った、小柄な少女。

 

 被験体番号、N-13。

 

 今回、零司が回収を依頼された相手だった。

 

「……ん」

 

 少女が小さく身じろぎする。

 

 しかし、目を覚ます様子はない。

 

「もうちょっと寝てていいよ」

 

 零司は呑気に声を掛けた。

 

「起きたら、たぶん面倒なことになるからさ」

 

 もちろん、返事はなかった。

 

 それを気にすることもなく、零司は建物へ歩き出した。

 

     ◇

 

「久遠!」

 

 正面玄関を通過したところで、聞き覚えのある声が響いた。

 

「……あ、桐島さん」

 

 零司は片手を上げようとして、少女を抱えていることを思い出した。

 

 仕方なく、軽く会釈する。

 

「こんばんは」

 

「こんばんは、じゃない!」

 

 桐島は大股で近づいてきた。

 

「お前、今までどこにいた!」

 

「ん? ちょっと寄り道」

 

「対象を確保したなら、すぐに報告しろと言っただろう!」

 

「報告したじゃん」

 

「通信を一方的に切っただろうが!」

 

「あー……そうだっけ?」

 

 零司は首を傾げた。

 

 桐島の額に青筋が浮かぶ。

 

 しかし、彼はそれ以上怒鳴ることをやめた。

 

 零司の腕の中にいる少女へ視線を向ける。

 

「……対象の状態は?」

 

「疲れて寝てる」

 

「負傷は?」

 

「足に傷があるね。あと、脱水気味かな」

 

「能力の使用による影響は?」

 

「さあ?」

 

 零司は肩をすくめようとして、再び少女の存在を思い出した。

 

「詳しいことは調べてないよ」

 

「……お前な」

 

「だって、僕はお医者さんじゃないし」

 

 当然のように言う。

 

 桐島は深く息を吐いた。

 

「医療班を呼ぶ。対象をこちらへ渡せ」

 

「んー……」

 

 零司は少女を見下ろした。

 

 それから、桐島へ視線を戻す。

 

「それはちょっと嫌かな」

 

「……何?」

 

「丹羽さんと話してからにしたい」

 

「主任は奥で待っている。まずは対象を――」

 

「桐島さん」

 

 零司が、その言葉を遮った。

 

 声の調子は変わらない。

 

 表情も、普段と同じだった。

 

 それなのに。

 

「……っ」

 

 桐島は、それ以上言葉を続けられなかった。

 

 目の前の少年。

 

 その周囲の空気が、ほんのわずかに変わったような気がした。

 

 殺気ではない。

 

 威圧でもない。

 

 ただ、これ以上踏み込むべきではないと、本能が警告していた。

 

「別に、治療するなって言ってるわけじゃないよ?」

 

 零司は笑った。

 

「でも、この子を誰に渡すかは、まだ決めてないんだ」

 

「……依頼内容を忘れたのか?」

 

「覚えてるよ」

 

 即答だった。

 

「逃げた被験者を回収する。それでしょ?」

 

「ああ」

 

「じゃあ、回収はしたよね」

 

「……そうだが」

 

「だったら、残りは交渉次第じゃない?」

 

 桐島は黙り込んだ。

 

 零司は楽しそうに笑う。

 

「ほら、案内してよ。丹羽さんのところ」

 

 しばらくして。

 

「……こちらだ」

 

 桐島は諦めたように踵を返した。

 

 零司は、その後ろをのんびりと歩き始めた。

 

     ◇

 

 研究施設の第三応接室。

 

 そこには、一人の男が待っていた。

 

 四十代半ばほど。

 

 整えられた髪。

 

 細い銀縁の眼鏡。

 

 白衣の下には、皺一つないシャツが見える。

 

 丹羽宗一郎。

 

 N-13を研究対象として管理している研究責任者だった。

 

「……お待ちしておりました、久遠様」

 

 丹羽は椅子から立ち上がり、丁寧に頭を下げた。

 

「このたびは、我々の不手際によってご迷惑をお掛けしました」

 

「うん」

 

 零司はあっさりと頷いた。

 

「結構面倒だったよ」

 

「申し訳ありません」

 

「まあ、面白かったからいいけど」

 

 そう言いながら、零司は部屋へ入った。

 

 室内には柔らかな照明が灯り、中央には応接用のテーブルが置かれている。

 

 部屋の隅には、簡易的な医療設備も準備されていた。

 

「……準備いいね」

 

「対象の状態を確認する必要がありますので」

 

「ふうん」

 

 零司はソファへ近づき、少女をゆっくりと横たえた。

 

 すぐに医療スタッフが入室する。

 

 しかし、零司は少女から離れなかった。

 

「その場で診てあげて」

 

「……承知しました」

 

 丹羽が頷く。

 

 医療スタッフは困惑しながらも、少女の呼吸や脈拍を確認し始めた。

 

 応急処置を受ける間、零司は向かいのソファへ腰を下ろす。

 

「あ、飲み物ある?」

 

「……はい?」

 

「喉乾いた」

 

 丹羽は一瞬だけ言葉を失った。

 

 しかし、すぐに表情を整える。

 

「お好みはございますか?」

 

「炭酸がいいな。冷えてるやつ」

 

「……承知しました」

 

 丹羽が部下へ指示を出す。

 

 数分後。

 

 零司は、よく冷えた炭酸飲料を手にしていた。

 

「んー、美味しい」

 

 満足そうに笑う。

 

 その姿だけを見れば、危険な実験体を回収してきた人間には到底見えない。

 

 ただの、気楽な高校生だった。

 

 しかし。

 

 丹羽宗一郎は知っている。

 

 目の前の少年が、どれほど異常な存在なのかを。

 

 学園都市の公式序列には存在しない識別番号。

 

 ZERO。

 

 既存の能力測定では評価することさえ許されていない、極秘の管理対象。

 

 彼について丹羽に与えられている情報は、極めて限られていた。

 

 ただ一つ、明確に記されていた注意事項がある。

 

《対象の自発的協力を前提とすること》

 

 つまり。

 

 無理強いをしてはならない。

 

 丹羽は、その意味を理解していた。

 

「……それで、久遠様」

 

「ん?」

 

「対象の引き渡しについてですが」

 

「うん」

 

 零司は缶をテーブルへ置いた。

 

「その話をしようと思ってたんだ」

 

     ◇

 

「結論から申し上げます」

 

 丹羽が口を開いた。

 

「我々としては、対象N-13の速やかな返還を希望しております」

 

「だろうね」

 

「対象は極めて重要な研究資産です。現在進行している計画の中核を担っておりまして」

 

「研究資産、かぁ」

 

 零司は少女へ視線を向けた。

 

 医療スタッフによる処置は、ほぼ終わっている。

 

 少女は相変わらず眠ったままだった。

 

「人間なのに、資産なんだ」

 

「……研究上の分類です」

 

「ふうん」

 

 零司は、それ以上追及しなかった。

 

 別に、丹羽の言葉が気に入らなかったわけではない。

 

 研究者が研究対象をどう呼ぼうと、本人の自由だ。

 

 少なくとも、零司はそう考えている。

 

「ところでさ」

 

「はい」

 

「この子、何の研究に使ってるの?」

 

 丹羽の表情がわずかに変わった。

 

「……機密事項となります」

 

「そっか」

 

「申し訳ありません」

 

「じゃあ、いいや」

 

 零司はあっさりと引き下がった。

 

 そして、笑った。

 

「でも、面白い能力だったよ」

 

 丹羽の目が細くなる。

 

「……と、申しますと?」

 

「音が消えたり、姿が見えなくなったり」

 

 零司は指を折りながら説明する。

 

「最初は単純な光学系の能力かと思ったんだけどね」

 

「…………」

 

「違うみたい」

 

 丹羽は身を乗り出した。

 

「……何か、お気づきになられたのですか?」

 

「んー」

 

 零司は少し考える。

 

「観測する側に届く情報を、途中で変えてる感じかな」

 

「……!」

 

「光とか音とか、そういうのを直接消してるわけじゃなさそうなんだよね」

 

 丹羽の表情が変わった。

 

 それは、研究者としての興奮だった。

 

「……続けていただけますか」

 

「嫌だ」

 

 即答だった。

 

「…………は?」

 

「だって、ここからが面白いところじゃん」

 

 零司は楽しそうに笑った。

 

「ただで教えるの、もったいなくない?」

 

 丹羽は言葉を失った。

 

 目の前の少年が、何を考えているのか分からない。

 

 しかし、一つだけ理解できた。

 

 これは交渉なのだ。

 

「……なるほど」

 

 丹羽は眼鏡の位置を直した。

 

「では、どのような条件をご希望でしょうか」

 

「そうだねぇ」

 

 零司はソファへ深く腰掛けた。

 

 そして。

 

「この子、僕が預かるよ」

 

 何でもないことのように告げた。

 

 室内の空気が止まった。

 

「…………」

 

 丹羽は瞬きをした。

 

 一度。

 

 二度。

 

「……申し訳ありません。今、何と?」

 

「だから、この子は僕が預かるって」

 

 零司は繰り返した。

 

「研究所には返さない」

 

「……それは」

 

「駄目?」

 

 零司は首を傾げた。

 

 丹羽の顔から、ゆっくりと血の気が引いていく。

 

「……久遠様」

 

「うん?」

 

「対象は、我々の研究に不可欠な存在なのです」

 

「知ってるよ」

 

「長年にわたる研究成果が、この一体に集約されておりまして」

 

「うんうん」

 

「代替となる実験体も、現時点では存在しません」

 

「そうなんだ」

 

 零司は笑顔で頷いた。

 

 しかし、考えを変える様子はなかった。

 

「……あの」

 

 丹羽が恐る恐る尋ねる。

 

「理由を、お聞きしても?」

 

「ん?」

 

「なぜ、対象の身柄をお望みなのでしょうか」

 

「面白いから」

 

 即答。

 

「…………」

 

「まだ能力の仕組みも分かってないし、あの子が次に何するのかも気になるし」

 

 零司は楽しそうに続ける。

 

「研究所に返しちゃったら、また実験ばっかりでしょ?」

 

「……研究を行うことが我々の目的ですので」

 

「うん。でも、それってつまんなくない?」

 

 丹羽は絶句した。

 

 研究者として生きてきた自分には、到底理解できない価値観だった。

 

 未知の現象。

 

 新たな能力理論。

 

 既存の科学体系を覆す可能性。

 

 それらを前にして、研究することを退屈だと言う。

 

 しかも、その理由が。

 

 単に、少女が今後どんな行動を取るのか見てみたいから。

 

 そんなものだった。

 

「……ですが」

 

 丹羽は必死に言葉を探した。

 

「対象がなければ、研究を継続することができません」

 

「そうだね」

 

「ご理解いただけるのでしたら――」

 

「だからさ」

 

 零司が、その言葉を遮った。

 

「取引しようよ」

 

「……取引?」

 

「うん」

 

 少年は携帯端末を取り出した。

 

 そして、テーブルの上へ置く。

 

 画面には、複雑な数値と波形が表示されていた。

 

「これ、見てみて」

 

 丹羽は端末を覗き込んだ。

 

 その瞬間。

 

「……なっ!?」

 

 思わず声が漏れた。

 

 画面に表示されているのは、複数の観測データだった。

 

 光の伝播に生じた異常。

 

 音響振動の不連続。

 

 空間内の電磁的な応答。

 

 それらを、一定の時間軸に沿って整理した記録。

 

「こ、これは……!」

 

「さっき、あの子と遊んでたときに取ったやつ」

 

 零司は軽く答えた。

 

「まあ、普通の測定機器じゃ無理だと思うけど」

 

 丹羽の手が震えた。

 

 研究施設では、N-13の能力を何度も測定していた。

 

 しかし、正確な発現条件は特定できていなかった。

 

 観測装置が正常に動作していても、記録が欠落する。

 

 センサーを増やせば、その分だけ結果が不安定になる。

 

 観測しようとする行為そのものが、能力の影響を受けている可能性さえあった。

 

 ところが。

 

 目の前の少年は。

 

 その現象を、外部から記録していた。

 

「……ど、どうやって……」

 

「秘密」

 

 零司は笑った。

 

「それで、どう?」

 

「……何がでしょうか」

 

「このデータ、欲しい?」

 

 丹羽は即答できなかった。

 

 欲しい。

 

 当然だ。

 

 研究を進めるうえで、これほど貴重な資料はない。

 

 だが。

 

「……対象そのものと引き換えに、ということですか」

 

「うん」

 

 零司は頷いた。

 

「研究データは渡す。でも、この子は僕が預かる」

 

「…………」

 

「悪くない話だと思うけど?」

 

 丹羽は口を閉ざした。

 

 確かに、資料には価値がある。

 

 しかし、生きた実験体を失えば、今後の検証は著しく制限される。

 

 それでも。

 

 目の前の少年から、無理やり少女を取り戻す。

 

 その選択肢だけは、最初から存在していなかった。

 

     ◇

 

「……条件を確認させてください」

 

 長い沈黙の後、丹羽が口を開いた。

 

「まず、対象の身柄についてですが」

 

「僕が連れてく」

 

「……承知しました」

 

「あと、追いかけないでね」

 

「…………」

 

「こっそり監視するのもなし」

 

 零司は笑顔で付け加えた。

 

「そういうの、すぐ分かるから」

 

 丹羽の背筋に、冷たいものが走った。

 

「……分かりました」

 

「それから」

 

 零司は少女へ視線を向けた。

 

「この子、名前ないの?」

 

「……識別番号はN-13となっております」

 

「それは知ってる」

 

「個人名は設定しておりません」

 

「ふうん」

 

 零司は少し考えた。

 

「じゃあ、本人に決めてもらえばいいか」

 

「……本人に?」

 

「うん」

 

 当然のように頷く。

 

「自分の名前くらい、自分で決めてもいいでしょ」

 

 丹羽は何も言わなかった。

 

 零司が何を考えているのか。

 

 やはり、理解できなかった。

 

「さて」

 

 少年は端末を操作する。

 

「じゃあ、資料を送るね」

 

「……よろしいのですか?」

 

「取引成立でしょ?」

 

「……はい」

 

「なら、約束は守らないとね」

 

 電子音が鳴る。

 

 暗号化された観測データが、丹羽の端末へ転送された。

 

 ただし、零司が渡したのは今回の接触で記録した観測結果と、その一部を整理した資料だけだった。

 

 能力の発現原理を完全に解明したわけではない。

 

 零司自身の能力の詳細も含まれていない。

 

 まして、N-13のすべてを知ることができるような万能の資料ではなかった。

 

 しかし、それでも十分だった。

 

「……素晴らしい」

 

 丹羽の口から、思わず声が漏れる。

 

 画面を流れる数値。

 

 そこには、これまでの研究で確認できなかった現象が記録されていた。

 

「これなら……」

 

 丹羽は小さく呟く。

 

「これなら、次の段階へ進めるかもしれない……」

 

「ん?」

 

 零司が顔を上げる。

 

「何か言った?」

 

「……いえ」

 

 丹羽は慌てて首を振った。

 

「ご協力に感謝いたします」

 

「うんうん」

 

 零司は満足そうに笑った。

 

「じゃあ、これで仕事終わりかな」

 

 そのときだった。

 

「……ん……」

 

 小さな声が聞こえた。

 

 ソファに横たわっていた少女が、ゆっくりと目を開ける。

 

     ◇

 

「……ここ……」

 

 ぼんやりとした視界。

 

 白い天井。

 

 柔らかな照明。

 

 消毒液の匂い。

 

 少女の身体が、びくりと震えた。

 

「……っ!」

 

 勢いよく起き上がろうとする。

 

 しかし、身体に力が入らず、再びソファへ倒れ込んだ。

 

「……いや……!」

 

 震える声。

 

「……戻された……!」

 

「おはよ」

 

 聞き覚えのある声がした。

 

 少女は顔を上げる。

 

 そこには、久遠零司がいた。

 

 缶ジュースを片手に、呑気な表情を浮かべている。

 

「……あなた……!」

 

「あはは。元気そうだね」

 

「……ここ、どこ……?」

 

「研究所」

 

 その言葉を聞いた瞬間。

 

 少女の顔から血の気が引いた。

 

「……いや……」

 

「ん?」

 

「……戻さないって……」

 

 少女は震える声で呟いた。

 

 しかし、すぐに気づく。

 

 零司は一度も、自分を研究所へ戻さないとは約束していない。

 

 逃げられたら考え直す。

 

 そう言っただけだった。

 

 それなのに。

 

 どこかで期待していた。

 

 あの少年なら。

 

 研究施設の人間とは違う、あの不可解な少年なら。

 

 もしかしたら。

 

「……嘘つき……」

 

 少女が呟いた。

 

 零司は首を傾げる。

 

「僕、何か嘘ついたっけ?」

 

「……っ!」

 

 少女は唇を噛んだ。

 

 言い返せない。

 

 確かに、約束はしていなかった。

 

 それが、余計に悔しかった。

 

「……最低……!」

 

「あはは。またそれ?」

 

 零司は楽しそうに笑った。

 

 その様子を見ていた丹羽が、口を開く。

 

「N-13。意識が回復したのなら、状態確認を――」

 

「……っ!」

 

 少女の身体が強張った。

 

 その声。

 

 忘れるはずがない。

 

 何度も自分へ実験を命じた研究責任者。

 

 丹羽宗一郎。

 

「……来ないで……!」

 

 少女はソファの端へ身を寄せた。

 

「……もう、嫌……!」

 

「落ち着きなさい。今回は――」

 

「丹羽さん」

 

 零司が口を挟んだ。

 

「うん?」

 

 丹羽が振り返る。

 

「もういいよ」

 

「……何がでしょうか」

 

「この子、僕が連れてくから」

 

 少女が動きを止めた。

 

「…………え?」

 

 丹羽もまた、言葉を失った。

 

「……久遠様」

 

「取引したでしょ?」

 

 零司は笑った。

 

「忘れちゃった?」

 

「……いえ」

 

 丹羽は小さく首を振った。

 

「承知しております」

 

「なら、いいじゃん」

 

 零司は立ち上がった。

 

 そして、少女へ視線を向ける。

 

「というわけで」

 

 いつもの調子で笑う。

 

「君、僕と一緒に来る?」

 

 少女は呆然としていた。

 

「……え……?」

 

「研究所には置いてかないよ」

 

「……どうして……?」

 

「んー」

 

 零司は少し考えた。

 

「気が変わったから?」

 

「…………」

 

「いや、正確には最初から迷ってたんだけどね」

 

 少年は笑った。

 

「君を研究所に返すより、近くで見てた方が面白そうだなって」

 

 少女は言葉を失った。

 

 助けたいからではない。

 

 可哀想だからでもない。

 

 ただ、面白そうだから。

 

 この少年は、そんな理由で自分の運命を変えようとしている。

 

「……あなた……」

 

「ん?」

 

「……本当に、変な人……」

 

「あはは」

 

 零司は笑った。

 

「それは、初めて言われたかも」

 

 そして、片手を差し出す。

 

「どうする?」

 

 少女は、その手を見つめた。

 

 信用できない。

 

 この少年が何を考えているのか、まるで分からない。

 

 自分を助けたと思えば、平然と研究者に協力する。

 

 優しい言葉を掛けたかと思えば、次の瞬間には冷たいことを言う。

 

 理解できない存在だった。

 

 しかし。

 

 少なくとも、あの白い部屋へ戻るよりは。

 

「……一つだけ」

 

 少女が小さく呟いた。

 

「ん?」

 

「……もう、実験しない……?」

 

 零司は首を傾げた。

 

「僕が?」

 

 少女は頷いた。

 

「しないよ」

 

 即答だった。

 

「……本当に?」

 

「うん。僕、研究者じゃないし」

 

「……でも」

 

「まあ、君の能力には興味あるけどね」

 

 零司は笑う。

 

「嫌がることを無理やりやっても、面白くないじゃん」

 

 少女は、しばらく黙っていた。

 

 そして。

 

「……一晩だけ」

 

 小さな声で告げた。

 

「……一晩だけ、ついていく」

 

「うん。いいよ」

 

 零司はあっさりと頷いた。

 

「明日どうするかは、明日決めればいいし」

 

 少女は恐る恐る手を伸ばした。

 

 細い指先が、零司の手に触れる。

 

 その瞬間。

 

 少年は、少しだけ笑った。

 

「よろしくね」

 

 少女は答えなかった。

 

 ただ、その手を離そうとはしなかった。

 

     ◇

 

「……それでは」

 

 研究施設の玄関前。

 

 丹羽宗一郎が、零司へ深く頭を下げた。

 

「今回のご協力、誠にありがとうございました」

 

「うん」

 

 零司は片手を振った。

 

「あ、報酬は忘れないでね」

 

「……もちろんです」

 

「アイス代も」

 

「……承知しております」

 

「よし」

 

 零司は満足そうに頷いた。

 

 その横には、N-13が立っていた。

 

 応急処置を終え、施設側が用意した簡素な靴を履いている。

 

 白い患者衣の上には、零司が借りてきた薄手の上着。

 

 長い青緑色の髪が、夜風に揺れていた。

 

 少女は不安そうに研究施設を振り返る。

 

 丹羽の姿。

 

 警備員たち。

 

 閉ざされた玄関。

 

 そこは、自分が二度と戻りたくないと願った場所だった。

 

「……ねえ」

 

 少女が小さく声を掛ける。

 

「ん?」

 

 零司が振り返った。

 

「……本当に、いいの……?」

 

「何が?」

 

「……わたしを、連れて行って……」

 

「ああ」

 

 零司は笑った。

 

「僕が決めたことだしね」

 

「……でも」

 

「それにさ」

 

 少年は少し考えた。

 

「君、まだ面白いことしてくれそうだし」

 

「…………」

 

 少女は複雑な表情を浮かべた。

 

 やはり、理解できない。

 

 この少年は、自分を助けたのだろうか。

 

 それとも、単に研究者から奪っただけなのだろうか。

 

 その答えは、まだ分からなかった。

 

「……あの」

 

「ん?」

 

「……あなた、名前……」

 

「久遠零司」

 

 少年は答えた。

 

「零司でいいよ」

 

「……れいじ……」

 

 少女は、小さくその名前を繰り返した。

 

 零司は満足そうに頷く。

 

「うん。それで、君は?」

 

「……わたし……?」

 

「名前」

 

 零司は首を傾げた。

 

「N-13っていうのは、研究所の番号でしょ?」

 

「…………」

 

「本当の名前、ないの?」

 

 少女は黙り込んだ。

 

 しばらくして。

 

「……ない」

 

 小さく答えた。

 

「……ずっと、番号だったから……」

 

「そっか」

 

 零司は少し考えた。

 

 そして。

 

「じゃあ、考えといてよ」

 

「……え?」

 

「名前」

 

 少年は笑う。

 

「自分で好きなのつければいいじゃん」

 

「……自分で……?」

 

「うん」

 

 零司は当然のように頷いた。

 

「僕が勝手につけてもいいけど、それだとつまんなくない?」

 

 少女は目を瞬かせた。

 

 自分の名前。

 

 そんなものを考えたことは、一度もなかった。

 

 研究施設では、誰も自分を名前で呼ばなかった。

 

 N-13。

 

 それが、彼女に与えられた唯一の識別情報だった。

 

 だが。

 

 目の前の少年は、そんなことを気にしていない。

 

 名前がないなら、自分で決めればいい。

 

 そう言っている。

 

「……考える」

 

 少女は小さく頷いた。

 

「……少し、時間が欲しい」

 

「うん。好きなだけどうぞ」

 

 零司は笑った。

 

 そして、歩き始める。

 

 少女は少し遅れて、その後を追った。

 

 学園都市の夜。

 

 冷たい風が、二人の間を吹き抜ける。

 

 少女はまだ知らない。

 

 自分がついていくことを選んだ少年が、どれほど危険な存在なのかを。

 

 そして。

 

 その少年が今夜交わした取引によって、何が生まれることになるのかを。

 

     ◇

 

 研究施設。

 

 第三応接室。

 

 丹羽宗一郎は、端末に表示されたデータを眺めていた。

 

 久遠零司から受け取った観測記録。

 

 その内容は、想像以上のものだった。

 

「……素晴らしい」

 

 丹羽の口元が緩む。

 

 確かに、N-13の身柄は失った。

 

 今後、直接実験を行うことはできない。

 

 だが。

 

 今回入手した資料には、それを補って余りある価値があった。

 

 これまで再現できなかった観測結果。

 

 測定装置が捉えられなかった現象。

 

 既存の能力開発理論では説明できない数値。

 

 それらが、確かに記録されている。

 

「……これなら」

 

 丹羽は別の端末を起動した。

 

 画面に表示されたのは、学園都市内の研究機関に関する連絡先だった。

 

 彼はしばらく考えた後、一つの宛先を選択する。

 

 そして、短い文章を入力した。

 

『新たな観測資料を入手した』

 

『従来の能力開発理論とは異なる挙動が確認されている』

 

『共同研究について、改めて協議したい』

 

 送信。

 

 丹羽は眼鏡を外し、深く息を吐いた。

 

「……久遠零司」

 

 小さく、その名前を呟く。

 

「あなたのおかげで、研究は次の段階へ進めそうです」

 

 その声には、純粋な感謝が込められていた。

 

 だが。

 

 感謝と善意は、必ずしも同じものではない。

 

 丹羽にとって重要なのは、研究が進むことだった。

 

 その先で、誰が犠牲になるのか。

 

 どのような実験が行われるのか。

 

 そんなことは、研究成果の価値を損なう理由にはならない。

 

 少なくとも、彼はそう考えていた。

 

 端末の画面が切り替わる。

 

 新しい研究資料。

 

 新しい実験計画。

 

 そして。

 

 新しい被験者の候補。

 

「……さて」

 

 丹羽は静かに笑った。

 

「次は、どうしましょうか」

 

 その頃。

 

 久遠零司は、そんなことなど少しも考えていなかった。

 

     ◇

 

「……ねえ」

 

 学園都市の夜道。

 

 零司の隣を歩いていた少女が、遠慮がちに声を掛けた。

 

「ん?」

 

「……どこに、行くの……?」

 

「僕の家」

 

「……家……?」

 

「うん」

 

 零司は当然のように答えた。

 

「他に行くところある?」

 

 少女は首を横に振った。

 

「じゃあ、決まり」

 

 零司は笑った。

 

 そのとき。

 

「……きゅう」

 

 小さな音がした。

 

 少女の腹部からだった。

 

「…………」

 

 少女の顔が、みるみる赤くなる。

 

 零司は数秒ほど黙っていた。

 

 そして。

 

「あはははっ!」

 

 盛大に笑い始めた。

 

「な、何……!」

 

「いや、ごめん。お腹空いてるんだね」

 

「……っ!」

 

 少女は顔を伏せた。

 

「……笑わないで……」

 

「ごめん、ごめん」

 

 零司は楽しそうに笑いながら、周囲を見回す。

 

 少し先に、まだ営業している飲食店があった。

 

「じゃあ、何か食べて帰ろっか」

 

「……いいの……?」

 

「うん。僕もお腹空いたし」

 

 零司は歩き出した。

 

「何が食べたい?」

 

「……分からない」

 

「え?」

 

「……外の、ご飯……あまり知らないから……」

 

 零司は足を止めた。

 

 少女を見つめる。

 

 そして。

 

「……そっか」

 

 小さく呟いた。

 

 研究施設。

 

 白い部屋。

 

 番号で呼ばれる生活。

 

 その中で、彼女は何を食べてきたのだろう。

 

 どんなものを見てきたのだろう。

 

 そんなことを、少しだけ考える。

 

 だが、すぐに笑った。

 

「じゃあ、今日は僕のおすすめにしよっか」

 

「……おすすめ……?」

 

「うん」

 

 少年は楽しそうに言った。

 

「美味しいものって、結構いっぱいあるんだよ」

 

 少女は、不思議そうに零司を見上げた。

 

 この少年は。

 

 怖い。

 

 信用できない。

 

 何を考えているのかも分からない。

 

 それでも。

 

 今、この瞬間だけは。

 

 ほんの少しだけ。

 

 隣を歩いていてもいいと思えた。

 

「……うん」

 

 少女は、小さく頷いた。

 

 零司は満足そうに笑う。

 

「よし。じゃあ行こう」

 

 そして、二人は夜の街へ歩き出した。

 

 科学と魔術。

 

 善と悪。

 

 正義と悪意。

 

 そんなものが複雑に絡み合う巨大な学園都市で。

 

 この日、一人の少女が研究施設から姿を消した。

 

 その行方を知る者は、ごくわずか。

 

 そして、少女を連れ出した少年は。

 

 自分の行動がどのような結果を生むのかなど、まるで気にしていなかった。

 

 ――もっとも。

 

 その結果から、いつまでも目を背けていられるとは限らないのだが。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。